迷える外人の禅修行 1 仏・独・伊・スペイン・ポーランド・イスラエルでベストセラーになっているという宣伝文句に惹かれて、「静かなる旅人」という本を読んでみた。これはフランスの女性画家が中国に留学して絵の勉強をする体験記で、なかなか面白かった。これに味をしめて次に「迷える者の禅修行」という本を読む。こっちは、ドイツの青年が禅の修行をするために日本に留学するという話で、これもドイツ青年自身による体験記なのだ。
この二つを比べると、面白いという点では「静かなる旅人」のほうだったが、考えさせられるという点では「迷える者の禅修行」のほうが勝っていた。ネルケ無方が、歯に衣着せぬ調子で日本仏教の「ダラク」を批判しているからだ。それで、ここではまず、「迷える者の禅修行」のほうから先に取り上げることにする。
著者のネルケ無方は、1968年生まれだというから、当年42歳になる。彼は父祖伝来の知的エリート一家に生まれていて、彼が生まれたとき、両親は同年の30歳で、母は医学博士号を取ったばかりだったし、父は30になってもまだ大学の工学部に籍を置いて勉強中だった。夫婦の家の二階には、母方の祖父母が暮らしていたが、祖父は牧師だった。
ネルケ無方にとって不幸だったのは、彼が7歳の時、一家を支えていたしっかり者の母親が乳癌で死去したことだった。このせいもあったのだろう、ネルケは幼い頃から憂鬱な少年だった。彼は、子供の頃を回顧してこんなことを書いている。「思えば私は、子供の時から、生きていても何かと空しかったのです」
「幼い頃から自殺願望があり、それを抱えながら生きてきました」
ネルケは、小学校・中学校を通して、成績はいいけれども問題児だったという。このため、彼は学校の勧めで寮制度を取っているクリスチャン高校に入学することになる。祖父が牧師だったということもあって、彼を鍛え直すにはキリスト教系の高校がよかろうということになったのだ。だが、皮肉なことに彼はこのクリスチャン高校で仏教に出会い、それ以後の人生を仏教徒として生きることになるのだ。
ネルケを仏教に導いたのは、「禅メディテーション・サークル」を主宰していた寮の指導員(舎監のようなものか?)だった。この指導員は元来カトリックの神父だったが、神信仰について疑問を抱くようになったため破門され、寮生の世話係になっていたのだ。ネルケは、この指導員から何度もサークルに加わるように勧められているうちに、それでは一回だけ座禅をしてみようという気になった。
「一回で止めるつもりで始めた坐禅に、どうしてハマってしまったのでしょうか。
一口でいえば、坐禅に救われた思いがしたのです。それまでいくら頭で考えても見出せなかった、人生に対する疑問の解決や生きる方針の糸口が、そこにはあると思ったのです。・・・・坐禅初体験が私にもたらしたのは『身体の発見』です(「迷える者の禅修行」)」ネルケがサークルに加わって一年が過ぎた頃、寮指導員が突然、彼の部屋を訪ねてきて、自分は仕事を辞めて寮を去ることになったが、今後のメディテーション・サークルの運営を君に託したいといった。ネルケは迷った末に、メンバーが15名しかいない小さな座禅サークルのリーダーになった。これが機縁になってネルケの禅への傾倒はいよいよ強くなり、遂に将来は禅僧になりたいという希望を抱くに至った。
高校を卒業したネルケは、大学に入るまでに三ヶ月の余裕があったので、その間を利用して、あこがれの日本を訪ねることにした。当時の欧米には禅ブームが起きていて、禅ブームの生みの親である鈴木大拙の母国の日本は、青年たちのあこがれの的になっていたのだ。
彼が日本でホームステイしたのは、熱心なクリスチャンの家だったから、ここでも、皮肉な食い違いが起こった。ネルケを受け入れた日本人一家の人々は、プロテスタントの本場であるドイツのクリスチャン高校を出たネルケから、キリスト教について学ぼうと思っていたし、ネルケはネルケで日本人の家庭でホームステイすれば仏教について得るところがあると期待していたのだった。
だから、ネルケがホームステイ先の主人に、「お寺に行って、座禅をしたい」と頼んでも、言下にはねつけられてしまった、「仏教なんかより、お国のキリスト教の方が、ずっと優れていますよ」と。
日本文化に触れたいと思って、尺八や琴を聞きたいと言っても、主人は我慢がならないという表情で、「これこそ本当の音楽じゃないですか」とベートーベンのレコードを聴かせる始末だった。仏教や座禅に何の関心もない点は、日本の若者たちも同じで、知り合いになった青年に仏教について尋ねても、異口同音に、「知らない、興味ない」と応えるばかりだった。そこでネルケはようやく、日本が仏教国だというのは誤りで、日本人は仏教を単なる風習として受け入れているに過ぎないと悟るのである。
それでも、何処かに真の仏教、信仰としての仏教が隠れているはずだと血眼になって探した末に、ネルケは金閣や銀閣のある京都に行って探してみようと思い立ち、ヒッチハイクで京都まで出かけている。「KYOTO」とマジックで大書した段ボールを掲げて無料で乗せてくれるクルマを求め、ホームステイ先の宇都宮市から出発して、はるばると京都にたどり着いたのである。
ドイツに戻ったネルケは、ベルリン自由大学の理学部と文学部の両方に入学して二年間を過ごしている。だが、そのまま修士課程に進む気にはなれなかった。矢も楯もたまらなくなった彼は、ベルリン大学を休学し、再度日本を訪ねて京都大学教養学部に留学するのだ。
ネルケは京都大学に籍を置いたまま、座禅をさせてくれる禅寺を探したが、何処でも断られ、紆余曲折の末に最後に兵庫県の山奥にある安泰寺で禅の修行をすることになる。安泰寺は住職のほかに修行中の雲水が5人しかいないという自給自足を目指す小さな寺だった。
(写真は座禅するネルケ無方) 早速、修行僧に混じって接心(昼夜を問わず、一日中ぶっ通しで座禅をすること)に加わったら、5人のうち3人までが座禅中に居眠りを始めていた。ドイツにはいくつも座禅道場があり、そこの接心には200人近いドイツ人が集まるのだが、居眠りをするようなものは数えるしかいなかった。ところが、安泰寺では過半数が居眠りをしている。
安泰寺に住み込んだネルケは、修行僧が居眠りをする理由がすぐに分かった。厳しい作務が原因だったのだ。
「安泰寺で経験した生活は、私の考えていた「禅修行」とは大きく違いました。まず何よりも作務がこれほどハードだとは思いませんでした。当時二十二歳の私は、「自給自足」という言葉に憧れを持っていましたが、実際には哲学書より重い物を手にしたこともない「もやしっ子」で、「野草」と「野菜」の見分けもつかないほどでした。そんな私ですから、雨の中で三日間泥や石を運んだだけで、すでに肉体的な限界に達していました。
初めて経験した稲の脱穀の影響でアレルギー性鼻炎になり、その年の冬までずっと咳をしていました。作務中も座禅中も、そして夜中も咳は止まりません(「迷える者の禅修行」)」入山から半年、当初予定していた通り、ネルケはベルリン大学に復学するために安泰寺から下山する。心の中ではすでに、大学を卒業したらすぐにまたここに戻ってくると決めていた。もちろん、出家して雲水として改めて入門するためだった。彼は安泰寺に来て初めて生きる実感を得たのだった。
彼は大学に戻り、修士課程の単位を取り、修士論文を書き上げて大学に提出した。論文のテーマに選んだのは、「正法眼蔵」のなかの「現成公案」だった。ネルケにとって意外だったのはこの論文が高く評価され、大学側からもう一度京都に行って研究を続け、その成果を今度は博士論文にまとめたらどうかと勧告されたことだった。大学では、そのための奨学金も出してくれるという。研究の成果如何を問わず、毎月35万円を一年間支給してくれるというのだ。
2 京都に戻ったネルケは、京都大学に籍を置きながら、禅寺を訪問する生活を再開した。
「再び京都に着いたのは、一九九二年の十月のことです。論文のことは棚上げして、京都から毎月安泰寺や昌林寺、宇治田原の山奥に庵を構えていた和尚さんの接心に通いました。移動や寺にいる時間が長く、京都で過ごした時間はわずかでした(「迷える者の禅修行」)」。
こんな生活を一年間続けているうちに、ネルケは次第に学業と寺通いという両天秤の明け暮れに空しさを感じるようになった。自分は求道一途の生活に打ち込むべきではないだろうか、そう考えた彼はすべてを捨て去って裸一貫になる覚悟を決めた。そして彼のしたことは、使わないまま、ほとんど手つかずの状態になっていた大学からの奨学金を、借金を抱えている父親の口座に振り込むことだった。こうして退路を断ったネルケは、安泰寺に飛び込んで正式に出家得度の認可を受けた。ようやく彼は念願だった出家を日本で果たすことが出来たのである。「ネルケ無方」は、仏門に入るに当たって彼が新しくつけた名前だった。
ネルケはすでに半年間、安泰寺のハードな生活を体験していたが、実際に正式に入門してみて、これまでの彼に対する周囲の処遇は、一同が手加減してくれていたものだったことが明らかになった。出家得度して修行生活を再開してみると、禅堂の日常は軍隊そのままだったのだ。
寺は完全な年功序列の縦社会だった。といっても、序列は実年齢ではなく得度した順番で決まる。後輩は、師匠や先輩の言うことに絶対服従しなければならなかった。先輩たちの悪口雑言は底なしで、特に師匠である堂頭と来たら、二言目には「死ね!」と怒鳴る。「お前は俺の靴底にくっついたチューインガムだ」と罵倒することもあった。
以下は、ネルケの本からの引用である。<春は雪が残る中、田畑を耕します。クタクタになっても、食べるものといえば前年に収穫した腐りかけの大根、シワシワになった芋しかありません。やがて境内中にふきのとうやウド、ワラビが生えてきます。料亭で出されればそれなりに高級と思えるそれらの山菜も、毎日食卓に並ぶと、ただ苦いと思うだけで、「早く夏にならないかな」と思うばかりです。
夏になれば野菜も徐々に実り、食生活も充実してきますが、同時に炎天下での草刈りが始まります。五十ヘクタールある境内は、刈っても刈っても草の山。尽きることはありません。意識が朦朧とする中、「早く秋にならないかな……」と願うのみです。
しかし秋になると、田んぼの稲刈りや山からの原木出しといった大仕事が待っています。台所のカマドや冬の薪ストーブの燃料となる木を切り倒し、人力で運び出してからノコギリで玉切りしてやがて薪割り三昧です。一雨ごとに冷たくなる天候の中、今度は冬の到来に思いを巡らします。「雪さえ降ってくれれば、外での辛い作業も終わるし、坐禅と経典の勉強に打ち込める……」。
ところが冬になると、積雪は毎年二メートル以上、一階の窓からは全く外が見えなくなります。暗いトンネルの中をさまよっているような気持ちはさらに強くなり、憂鬱な毎日が続きます。早く春の花が見たい・・・・(「迷える者の禅修行」)>
仲間の中には、こうした安泰寺の生活に辛抱できなくなって山を下りて行く者が出て来る。ネルケも、もう修行を止めてドイツに帰りたくなった。しかし修行中に死んでもいいいという覚悟で安泰寺に入山したことを考えると、簡単に帰国するわけにも行かない。思い悩んでいるうちに、ネルケの自律神経が狂ってきて腹痛が続くようになり、それがやがて鬱病へと発展していった。
安泰寺の生活が丸二年を過ぎたある日、思い余ったネルケは、鳥取県の禅寺で住職になっている先輩を訪ねている。彼はとうとうドイツに帰国することを決心したが、それでいいのか悪いのか、先輩の意見を聞くためだった。先輩僧は、ネルケにこう忠告してくれた。
「お前のような理屈っぽい人間が、安泰寺で悟れるはずはない。ドイツに帰る前に、臨済宗の流儀を勉強してきたらどうだ」ネルケも日本にきた以上.曹洞宗だけでなく臨済宗についても知りたいと思っていたところだったから、先輩の忠告に従うことにした。先輩が勧めてくれたのは、厳しいことで有名な臨済宗本山僧堂で修行することだった。
ネルケが京都にある臨済宗の本山僧堂に入門してみると、その軍隊調のしごき方は安泰寺以上だった。まず、座禅中にちょっとでも姿勢が崩れると、見回りの古参僧が警策で肩や背中をしたたかに打ちのめすのである。そして夜10時過ぎになると新米雲水は石庭を見下ろす部屋に集められて、先輩僧による「生活指導」を受ける。「生活指導」の場では、新米雲水が犯した過ちが指摘され、経文の記憶度を確かめるためにお経を朗誦させられる。時には、先輩の気分次第で理不尽な叱責を受けることもある。ネルケはこんな風に怒鳴られたことがあった。
「俺らはこの商売で一生メシを食わなければならないんだ。だから、真剣なんだ。お前のような趣味人とは違うんだ。お前は、ただ座禅がしたいだけじゃないか」
ネルケは、アレと思った。日本の仏教がダラクしているのは、僧侶たち自身が葬儀業者になったり、あるいは葬儀屋の下働きになってお経を棒読みしているからだと思っていた。彼は僧堂で親しくなった修行僧に、どうして苦しい修行を続けるのか尋ねたことがある。すると、相手は平然と答えたのである。
「そりゃお前、本山でちゃんと資格を取って帰れば、一生、檀家に拝まれながら暮らせるじゃないか」
僧堂で修行している仲間のほとんどすべてが寺の跡継ぎだった。彼らは仏教を広めて衆生を済度するために僧侶になったのではなく、先祖伝来の稼業だから「ファミリー・ビジネス」として僧侶になったのである。ネルケはそういう仲間に比べたら、純粋な気持ちで修行している自分の方が格上だと思っていたのだ。だが、先輩僧や仲間は、稼業として僧になろうとしているからこそ、趣味で修行をしている素人(シロウト)よりも自分たちの方が真剣であり、より深い境地にあると考えている───
新米の修行僧の中には、宗門の長老と縁続きの若者がいた。宗教の世界にも家元制度のようなものがあり、この若者も家格の高さから将来の出世が約束されていたから、古参の僧たちも彼を別格に扱っていた。ところが、この若者がネルケの気持ちを敏感に感じ取って、「ふざけるな」とピンタを呉れたことがあった。
殴られたネルケは涙を流して、日本仏教の将来のエリートに対する対抗意識に燃えた。彼は、「いずれ絶対に見返してやる」と心に誓った。だが、そうした小さな遺恨や対抗意識を越えて、彼はいつしか新しい精神の境地に進んでいたのである。
3 ネルケが禅の修行に飛び込んだのは、「人間はどうして生きて行かねばならないのか」という疑問に対する答えを得るためだった。彼は生きている意味が理解できなかったから、子供の頃から自殺願望に取り付かれていたのだった。
ところが、安泰寺で座禅をしているうちに少しずつではあるけれども、回答に近づいていたのである。謎を解く鍵は、「正法眼蔵」のなかの次の一節にあるらしかった。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり」
「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
仏道に到達するには、自分を忘れなければならないが、ネルケは座禅をしているうちに知らぬ間に、自分を忘れる体験をしていたのだった。安泰寺の接心は苦しかった。だが、「人間、どうせ死ぬのだから、座禅をして死ぬことにしよう」と覚悟をしたら、足の痛みが続くなかで、自然にリラックスしていたのである。とにかく、それ以降の座禅が嘘のように楽になったのだ。一定の限界を超えると、「私が座禅している」という感覚が、「座禅が座禅している」、「座禅が私を運んでいてくれる」という感覚に変わり、最早、自己意識は消えてしまっていた。
京都の臨済宗本山僧堂に入門してから、彼の体験はさらに深いものになっている。僧堂で一人になれるのは東司(便所)のなかだけだったが、ある日のこと、東司に入っているとこうした想いが湧いてきたのだ。
<(東司に入って)ひと息つきながら、窓の向こうに目をやると、木の葉の上に溜まった露に、太陽の光か反射するのが見えました。何のことはない、ありふれた光景でした。がしかし、です。この葉っぱも、この露も、そしてお日様も、私と共に息をしている。これら自分を取り囲んでいるはずのすべてのものが、私の本当の姿だったのだ、と強く感じました。「私は生きている!命は私を生きている!」(「迷える者の禅修行」)>
ネルケは、これまで生命は自分の所有物で、これを自在に駆使することで自分が生きていると思っていた。だが、視点を転換すれば、自分は宇宙的生命の端末であり、宇宙的生命が自分において生きているのであった。
川の流れに運ばれて動いている落ち葉が、自分の力で流れ動いていると思いこんだら滑稽である。人間はこの落ち葉のような誤解をしながら生きている。そんなエゴ・セントリックな見方を捨てて、自分を取り囲む万物を虚心になって眺めるなら、すべてのものが宇宙的生命の端末であり、ありとあらゆるものが宇宙生命のリズムに従って生きているのだ。
自分も他人も、この世に存在する一切が宇宙的生命によって生まれ、宇宙的生命が自己展開する場になっている。──この事実を自覚することが「万法に証せらるる」ということであり、「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」ことなのである。そうなると、実感的に万有が自己そのものと感じられるようになるのだ。
僧堂に入門してから10ヶ月ほどたった頃に、彼を僧堂から下りる決心をさせるような「事件」が起きた。
ネルケの先輩にトクちゃんと呼ばれている古参の修行僧がいた。彼は軍隊式の僧堂で生き抜く要領の良さを全く持ち合わせていなかった。そのため、後輩からも軽く見られていたが、彼はついにゲンさんという意地の悪い後輩僧に目をつけられてしまった。
その日、雲水たちは庭に散らばって草むしりをしていた。そのなかで、ゲンさんはトクちゃんに向かって、「倒れるまでこの杉の木に頭をぶっつけていろ」と命じたのだ。やがて、トクちゃんが杉の幹に頭をぶつける鈍い音が聞こえてきて、トクちゃんは額から血を流がし始めた。だが、修行僧たちは見て見ぬ振りをしている。ネルケも、同じだった。ネルケは、ナチスが大戦中に数百万人のユダヤ人を虐殺するのを座視していたドイツ人であった。そして戦後にこのことの反省から、たとえ一人になっても不正と戦う勇気を持たなければならぬと教育されてきた人間だった。にもかかわらず、彼は、トクちゃんを庇うために何もしなかったのである。
ネルケは、あと二ヶ月すれば自分も新たに入門してくる修行僧を指導する立場になることを考えて、臨済宗の僧堂を下りる決心をした。
ネルケが臨済宗の僧堂に別れを告げて、再び安泰寺に戻ってみると、彼の留守の間に修行僧が増えて10人になっていた。だが、安泰寺の自給自足によって寺を維持するという基本方針は崩れかけていて、資金不足を補うために京都にあった所有地を売ったり、安泰寺五代目の住職だった沢木興道老師が遺した書画を売り払ったりしていた。
寺の財政が左前になってくると、修行僧の間にも動揺が拡がり、一人、また一人と山を去る者が出てくる。これに加えて、問題をさらに複雑にしたのは、元住職と現住職の対立だった。
現住職は寺を任されてから12年になるけれども、それ以外にもう一人、今は引退した元住職が寺にやってきて現住職に助言したり、修行僧に声をかけて指導をしていた。安泰寺は、いわば二頭政治によって動いている寺だったのである。寺の存続が危うくなれば、二人のリーダーの対立が激化するのは、ある意味で自然なことだったのだ。
ネルケにとって心外だったのは、彼が知らない間に新旧二人の住職の抗争に巻き込まれていたことだった。ある日、ネルケは住職から部屋に呼ばれた。ネルケは現住職からここ数年間冷遇され、口癖のように、「死ね!」と罵られていた。だが、元住職からは目をかけられていたのである。
住職は、ネルケに尋ねた。
「お前も、安泰寺に来てから十年以上は経ったなぁ。どうするつもりだ、これからは?」
ネルケは、まだ何も考えていないと答えた。すると、住職はこの寺の住職になることを考えているのではないかと質問してきた。「いいえ、自分にはとてもそんな力量はないと思います。ここを下りれば、いずれ小さな禅道場を持って、若い人と一緒に坐りたいとは思うのですが……」
「うん。実は、ワシも無理だと思う。ちょっと確かめたかっただけだ」
そんなことを言うために呼び出されたのかと思っていると、住職は思いもよらないことを言い出した。彼は元住職から「三年以内に、無方に安泰寺を譲れ」と言われたというのである。ネルケが、唖然としていると、住職は、先日、お前のところに元住職から手紙が来たろうと疑い深そうに追求する。
「手紙は確かに貰いました。けれど、そんな話は何も書いてありませんでした」
「それは本当か? その話を本当に信じていいのだな」
住職はネルケが元住職とグルになって、次の住職のポストを狙っていると疑っていたのだ。その瞬間、ネルケは、もはや安泰寺は自分の居場所ではないと悟ったのである。
4 ネルケが安泰寺を下りたのは、寺の後継者問題で住職と話し合ってから半年後だった。彼がすぐに行動に移らなかったのには、理由があった。
ネルケは安泰寺の住職に、「山を下りたら、小さな禅道場を持って若い人と一緒に坐りたいと思っている」と告げたが、その禅道場をドイツで開くべきか、日本で開くべきか、迷っていたのだ。ドイツには、すでに禅道場がいくつも出来ていて、潜在的な座禅希望者がなおたくさんいるから、道場を開いても失敗することはないだろう。
日本には仏教寺院が7万以上、曹洞宗寺院に限っても1万5000あると言われる。だが、日本の寺院は葬儀業者化して、信仰機関としての機能はゼロに近くなっている。仏教の伝道を必要としているのは、ドイツではなくて日本の方なのである。日本には、民間の禅道場がない。そういう日本だからこそ、失敗を恐れず、あえて日本で禅道場を開くべきではないか。
禅道場を開くとしたら、日本にすべきだという気持ちが強くなったけれども、そのための資金がなかった。ドイツに帰れば、ツテがある。しかし日本には、彼を助けて呉れる親戚縁者も旧友もいないのである。
「金がないのなら、ホームレスになればいい。・・・・テントで寝泊まりして、野原で坐禅を組めばよいと考えたのです。だが、やるとしたらやっぱり人の集まる大都会がいい。安泰寺のような山奥も静かでいいのですが、むしろ人と積極的に関わり、一般人を巻き込んで共に坐ることを目指しました(「迷える者の禅修行」)」
(写真:公園で座禅会) ホームレスの禅伝道者になると決めたネルケは、大きな布団袋に持ち物を入れ、テントとガスコンロを背負って山を下り、大阪城公園を目指した。そして、公園に着くと高さ10メートルを超す石垣の上にテントを張った。
近くに別のホームレスがいたので、一升瓶を下げて挨拶に行く。彼らは、空き缶を拾って僅かばかりの金を手にしているのだ。ネルケは、首にボードをつり下げて喜捨を得るために托鉢に出ることにした。ボードには、こう書いある。
「毎朝六時から八時まで、大阪城公園で座禅をしています、一緒に坐ってみませんか」
ネルケはインターネットをも利用して、座禅会の宣伝を試みている。彼がこの座禅会を「流転会」と命名したのは、「一切を手放して、身も心も大いなる流れに任せよう」という趣旨からだった。彼はネットカフェで文案を作り、それをコンビニでコピーしてビラを作り、托鉢の折りに配るようなこともしている。ビラの第一号は、こんな内容だった。
「坐禅をして、何になるか? その答は、『坐禅をしても何にもならない』ということです。
私は絶えず、何かを求めて生きてきました。それは金だったり、恋人だったり、学校や社会での成功だったり……「しあわせ」を追いつづけていたのです。一生懸命に「しあわせ」になろうとしている私は、今ここ、この自分の本当の有りようを見失って、自分をいつも留守にしていたのです。
・・・・(そのために)今この私はすでに「しあわせ」のど真ん中にいるのだという真実も分からなくなってしまいました。今いったん、求めることを止めにします。何かになろうと思わず、自分を坐禅の中に投げ込んで坐禅をします。そうして、初めて坐禅が坐禅をします。私ではなく、坐禅が坐禅をします。と同時に、私が初めて本当に私になり、「自分」をします」
馴れない日本語で書かれているため、ビラの文面には多少稚拙な感じがある。だが、このビラには来日10年間に彼が得たものが、すべて盛り込まれている。しかしボードによる訴えも、ビラによるPRも、あまり効果がなかった。公園の座禅会にやって来るのは、安泰寺で知り合った二人の旧友にすぎず、しかも彼らは日曜日にやってくるだけだった。
ネルケは数日おきに托鉢に出るほかは、堀を見下ろす石垣の上で一人しょんぼりと座禅を続けた。「流転会」の会報第二号には、こんな言葉が見える。ビラを印刷して配布すると費用がかかるので、第二号はインターネットに書き込むだけにしたのだ。「本物って一体なんなのでしょうか。
どうやってそれをつかめばいいのか。道元禅師はその答を「はなてば手にみてり」という言葉で表します。つかもうと思っても、つかめるようなものではありません。握れば、かかぇって逃げてしまいます。手放してみて、初めてそれに気づくことが出来る」ある日、ネルケが托鉢から戻ってくると、テントに「告」と大きく書かれた紙が貼られていた。
「公園管理上支障になるので、至急撤去せよ。さもなければ当市で処分する」
さて、これからどうしようか。やはりドイツに帰るべきだろうか……。お隣さんの洋さんが、ネルケの意気消沈した表情を見て、「どないしてん?」と声をかけてくれた。彼が事情を話すと洋さんはこともなげに言った。
「なんや、あれか。あれは気にせんでええ。公園事務所の職員連中かて、この商売で飯を食っているさかい。・・・・あれは剥がしとけば、それでええ」
ネルケは、洋さんの言葉にはっとした。彼はすっかりホームレス魂を忘れてしまっていたのである。まだまだホームレス修行が足りない。たとえテントが本当に撤去されたとしても、それが何だというのだ。
度胸を据えて、公園に居座り続けているうちに、状況が次第に好転し始めた。
「流転会」と命名したホームページをのぞいてくれる人も増え、坐禅参加者もぼつぼつ出て来たのだ。NOWAでドイツ語を教えているカタリンや、英語教師のジョニーも秋からよく坐禅に来るようになった。ある日、天王寺で托鉢をしていたとき、ネルケは同業者と鉢合わせになった。網代笠の中をのぞくと、安泰寺で二年間−緒に安居していた道舟だった。イギリス国教会の日本人牧師の家に生まれた彼は、よくマタイ福音書の「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。・・・汝らのうちだれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや」という言葉を口にしていたものだった。
彼も安泰寺を飛び出して、生駒の山中でやはりテント暮らしをしていた。十二月一日から、彼を誘って石垣の上で接心を行った。ネルケが自分で接心を主催するのは初めての経験である。しかも野外、雨も風も当たるような場所で朝の五時から夜の十時まで坐り通したのだ。昼間はカタリンやジョニーも来てくれて、身体の芯まで冷え切った一週間は、十二月八日、すがすがしい朝を迎えて無事終わった。
この接心でだいぶ自信のついたネルケは、冬に備えて小屋を建てることにした。これで、彼を悩ませていた湿気の問題も改善されるし、雨が降っても屋内で坐禅ができる。彼は捨てられていた数本の枕木を拾ってきて「土台」を作り、コンパネ(建築資材として使われるベニヤ板)をホームセンターで購入し、畳屋から中古の畳を譲ってもらった。これであっという間に床と壁が出来上がり、透明の波板を屋根にすると見事に、「お堂」が完成した。
突然石垣の上に建った十八畳敷きの「お堂」をみて、さすがに古株のホームレスたちもネルケの厚かましさに驚いていた。朝の坐禅後、「お堂」の中で参加者とお茶を飲んだり、ガスコンロを利用して茄でたうどんを食べたりしながら雑談をするのが彼の日課になった。会員のそれぞれが学校や仕事場に向かった後、ネルケは「デジタル・キッチン」でホームページを更新するのである。
ホームレス生活三ケ月目、ネルケの人生を大きく変える事件が起きた。彼は、毎月、坐禅会の情報を「関西シーン」という英語の広告誌に載せていたが、同じ募集コーナーに英語の広告が載っていたのだ。
「二十四歳の日本人女性、哲学や歴史学の話し相手を募集しています」
相手のハンドルネームが「爆弾べービー」となっているのに興味を感じてネルケが応答してみると、トモミという若い女性がある朝訪ねてきた。
5 トモミという女性の話を聞いてみると、春に同志社大学を卒業したが会社には就職せず心斎橋筋の外国人もよく通う飲食店でバイトしながら自分の英語を磨き、将来イギリスに留学するための資金を貯めているということだった。歴史に興味があるらしく、商学部の卒論のテーマは「性風俗の歴史」だったという。
その日は天気も良く、久しぶりの托鉢日和だったので、ネルケはそろそろお開きにしようと思ったけれども、トモミは暇らしくバイトが始まる午後六時まで動かなかった。そして無遠慮にこんなことを聞く。
「なあ、お坊さん。『世界の下着』って、知っている?」
トモミはネルケが沸かしたお茶をガバガバ飲み、へそピアスを見せながら下ネタばかりを話す。ネルケが抱いていた、「大和なでしこ」幻想を見事に裏切る破天荒な態度だった。お互い石垣の上で尿意を感じながらもなかなか言い出せず、自転車で豊国神社のトイレに急いだときはもう日暮れになっていた。
トモミが再び姿を現したのは真冬だった。寒さに震える彼女をテントの中に迎え入れ、参禅者から仕入れたジョニーウォーカーの黒で乾杯する。人類皆兄弟。とんとん拍子に話が進み、その日の夕方にはもう「トモミさん」ではなく「お前」と呼ぶ仲になっていた。テントのなかに泊まり込んだトモミが、大阪城公園から「出勤」することも増え、テントの中には彼女が持ち込んだ家具が並ぶようになった。
その頃のネルケは、インターネットのホームページに次のようなことを書いている。
<公園でテントを張ってから半年間、私は何もしていません。坐禅堂を建てて、人と一緒に坐っているだけです。それを見て「ヒマな連中」だとか「怪しい団体」と言う人もいるでしょう。一方、「えらい!」と感心する人もいますが、私はここで花を咲かそうと思ったことはありません。坐禅しても良いことは何もありません。良いこと′首悪いこともしないのが坐禅ですから。「自己満足」と言われようが「寄生虫」と言われようが、私が人のために出来るのは、一緒に坐るということだけです。
・・・・ドイツ語に「雑草は絶えることがない」という諺があります。草に見習って、何の役にも立たない、誰にも利用されようのないまま、自分の命をただ生きていきたいと思います>
ネルケがこの書き込みをしているときに電話がかかってきた。安泰寺の住職が事故にあったという急報だった。彼が安泰寺に駆けつけて事情を聞くと、住職は参禅者が寺への坂道に駐めておいた自動車を移動させるために、自らブルドーザーを運転しているうちにブルごと谷底に転げ落ちて絶命したということだった。
住職の葬儀を済ませた後で、誰が次の住職になるかが問題になった。様々ないきさつがあって、白羽の矢がネルケに立ち、彼はついに安泰寺の住職になる羽目になった。そうと決まったからには、覚悟を決めて寺のために全力を傾けるしかない。
大阪に戻ったネルケは、公園のテントを片付けて、その足でトモミの勤める飲食店に向かった。トモミを呼び出して、プロポーズするためだった。
「俺について山寺に来ないか」
「たぶん無理やろうけど、がんばるわ」───以上は9年前の話である。
ネルケは、今、トモミとトモミとの間に生まれた二人の子供と一緒に安泰寺で暮らしている。
(「迷える者の禅修行」の帯広告)