【2】定住型・鳥瞰型の森鴎外
鴎外は博大な学識を背景に、現世を高みから見下ろすような作品を書いている。その主たる魅力は文体にある。余裕を持って楽々と筆を進めながら、彼の文章には無駄な描写が一つも認められない。どの作品にも一種言い難い格調の高さがある。これを読んでゆくと、冷眼鉄面、世俗を超越した哲人の手になる作品に接しているような印象を受ける(佐藤春夫の評)。
だが、鴎外の内面には裸で放り出された嬰児のように弱々しい部分が潜んでいた。彼は病死した実弟の解剖に立ち会っているうちに失神したり、自宅で便器を目にするのをいやがったりした。妻の茂子は新婚旅行の車中で、鴎外が彼女に汽車の洗面所を使うことを禁じたことを記している。彼は銭湯に行ったことがなかった。入浴する代わりに湯で身体を拭くだけにするという「奇癖」の所有者だった。鴎外にとって「外」は、有害な細菌にまみれた危険な世界だったのである。
「外」を衛生上危険と見る立場は、幼少の頃から抱き続けた現世を厭悪する気持の現れだったのではないだろうか。母親の懐に雛鳥のように抱かれていた鴎外にとって、「外」は恐ろしいところ、厭うべきところだったのだ。郷里で過ごした少年時代の彼は、男の子と遊ぶのを避け女の子とばかり遊んでいた。
「僕はげんげを摘みはじめた暫く摘んでいるうちに、前の日に近所の子が、男の癖に花なんぞを摘んでおかしいと云ったことを思い出して、急に身の回りを見回して花を棄てた。幸いに誰も見ていなかった」(「ヰタ・セクスアリス」)
「ヰタ・セクスアリス」によれば、藩校に通うことになった鴎外は、通学途上にある木戸番小屋を恐怖の目で見ていた。そこには彼と同じ年頃の子供がいた。
「その子が僕の通る度に、指をくわえて僕を見る。僕は厭悪と多少の畏怖をもって此の子を見て通るのであった」
鴎外はその少年の父親から、卑猥なことを言ってからかわれたことがあった。
「じいさんの笑う顔は実に恐ろしい顔である。子供も一緒になって、顔をくしゃくしゃにして笑うのである」
女の子のようにびくびくして生きていた鴎外は、家の中でも弟に押されがちで、母の峰子の力を借りなければ、弟にすら対抗できなかった。実際、母は鴎外の守護神だったのだ。何かあると、彼は母のところに飛んでいった。峰子は養子の夫を尻に敷いている、目から鼻に抜けるように怜悧な家付き娘で、鴎外はこの野心的な母親にしっかり抱え込まれていているうちに峰子好みの「いい子」になり、藩校で神童の名をほしいままにするようになる。
郷里の津和野にいた頃、鴎外は、吹く風にも傷つく裸身を守るためにカプセルを必要としていた。母・家というカプセル。
だが、上京して西周邸に寄食し、更に大学の寄宿舎に入るようになってから鴎外は少しずつ変わって行く。母の膝下を離れた鴎外は独力で「外」の世界に向き合うことになったが、そのことで家付き娘の狭い視界から解放され、家のくびきを離れ、自由な日常を満喫することになった。
大學時代の後半とそれに続くドイツ留学時代は、鴎外にとって家の制約から解放され、生得の優れた頭脳と機略を武器に独力で活躍した幸福な時代だった。だが、その彼も危機に臨むと、母の力に頼らざるを得なかった。エリス事件や最初の妻との離婚に際して、彼は問題の渦中から逃げ出して事後処理のいっさいを母に委ねてしまっている。
鴎外は同居していた弟を引き連れ、ある日、突如家を出てしまうというやり方で最初の妻との夫婦生活を打ち切ってしまう。後始末を母がしてくれることをあてにした行動だった。このやり口には先例があるのである。大学の卒業試験を控えていた鴎外が、別宅に移って試験勉強をしていたときだった。鴎外は食事の世話などをしてくれていた植木屋の娘が、段々鬱陶しく感じられるようになる。そこで鴎外は、不意に別宅を引き払って家に帰ってしまうのだ。このくだりを「ヰタ・セクスアリス」から引用してみよう。
「僕はお母様に、お蝶(註:世話をしてくれていた娘)と植木屋のものとに跡を片付けさせて帰って下さるように頼んで置いて、本を二、三冊持って、ついと出て、小菅へ帰った」
跡は野となれ山となれ、「ついと出て」事後処理を母親に任せてしまう彼のやり方には、母親に対する彼の依存と抗議という複雑な感情が織り込まれている。離婚後、長い独身生活を送ることになった鴎外に対して、母の峰子は「うまずめの女」を捜してきて妾としてあてがっている。更に彼女は、息子の出世のために知れる限りの有力な知人を歴訪して裏工作に励んでいる。峰子は鴎外の文学上の集まりにも「私もお仲間に入れてもらいますよ」としゃしゃり出てくる程だった。
「孝心の篤さ」で知られている鴎外が、度々汚れた仕事を母に押しつけた理由は、母への甘えもあったに違いないが、小うるさい母親への隠微な復讐という要素もあったのである。
鴎外にとって母親と同じような存在が陸軍であり、その最高の実力者山県有朋だった。鴎外は母をリーダーとする家によって守られ、山県をリーダーとする陸軍によって守られ、二重のカプセルに保護されながら、文学者と軍人という日本文学史上類例のない二足の草鞋を履き続けたのだった。
軍医の社会での鴎外のライバルは小池正直だったが、彼に対抗するため、そして又医務局長になってからは上司の陸軍次官に対抗するため、鴎外は山県有朋の助力を仰いでいる。山県との腐れ縁は鴎外の死の直前まで続き、最晩年の鴎外は政党設立を考え始めた山県のための綱領の立案に取り組んでいる。
だが、家の世界も、軍官僚の世界も、鴎外に有形無形の圧力を加えてくる。彼はこれを深海で働く潜水夫に被さりかかる重圧に喩えている。幼少の頃、現世に対して感じ続けた厭悪と畏怖の念は、今や明治社会の持つ重圧として意識されるようになるのである。
ともあれ、鴎外が身を隠す場所として、当時コワモテしていた陸軍は恰好の世界だった。小倉時代の鴎外を知る隣人は、平服を着た彼は近付きやすかったが、軍服を着た鴎外は打って変わって人を寄せ付けないような厳しい態度になったと語っている。
母の峰子は女中や出入りに職人を手なずけることに長じていたが、その面では鴎外は無能力に近かった。小倉時代の鴎外のところには、女中が居着かず、次から次に頻繁に入れ替わっている。更に、婆や・馬丁にはいいように食い物にされ、東京に帰ってからは別の馬丁に脅迫されるという始末で、「意気地なし」を自認する鴎外としては「軍服の威力」で彼らに対抗するしかなかったのである。
陸軍というカプセルによって身を守りながら、鴎外は終始その内部で居心地の悪さを感じていた。師団長会議の席上などで、鴎外がいかにも肩身の狭そうな恰好をしているので、部下たちはもっとしゃきっとしていてくれればと切歯扼腕していたという。陸軍は彼の本当の居場所ではなかった。しかし家と陸軍は彼の生の根幹であり、彼は「定住者」としてそこで生き、そこで死ぬしかなかった。ここから逃げ出すわけにはいかなかったのである。
「あきらめ」「レジグナチオン」「諦念」
鴎外は誰にも訴えることのできない悲哀を抱きながら、父として夫として家を守るために全力を尽くした。同様に、彼は陸軍のためにも日本帝国のためにも、永続的な努力を惜しまなかった。家も軍もエトスを伴う社会的な枠組みである。人としてこの世に生まれたからには、自らの帰属する小社会が持ち伝えてきたエトスを尊重し、その底に流れる合理性と必然性を虚心に受け入れて行くしかない・・・これが社会人としての彼の基本的な姿勢だった。
鴎外が家を守るために精一杯の努力を払ったことや、彼が軍の食事を米食にすることに決めたり、仮名遣いの保護に努めたことを忘れてはならないだろう。伝統的なものを擁護し続けた点で、彼は「守旧派」であり、「もっとも優れた民衆の敵」(中野重治)だったのである。
鴎外は守旧派として行動しながら、頭ではそれとは逆の世界を探し求めていた。彼の本籍は日本にあったが、現住所は西欧にあった。彼が日頃好んで読むのはヨーロッパから取り寄せた新聞・雑誌・書籍の類であり、西欧の香りを伝える舶来本のページを繰っているときにだけ彼は本当にくつろぐことができたのだった。
にもかかわらず、本籍地が日本にあることを自覚して、彼は西欧的なものに全面的にのめり込むことをしなかった。彼は特定の思想の祖述者として行動したことは一度もない。単に西欧文物の紹介者として、その粗筋・梗概を紹介・解説するに過ぎなかった。当時、彼が鴎外博士ではなく、梗概博士だと呼ばれたのも故なしとしない。
鴎外の現代小説・歴史小説は、日本的な低い視点を突き抜けた高みから書かれている。明治社会の重圧から逃れて、自由な世界人の目で現世を眺めているのである。作品の持つ格調の高さは、彼が自由思考の世界人であるとともに、伝統社会の内包するよきエトスの体現者だったからだ。
鴎外は生きることを業苦と感じるほどに、繊細でナイーブな神経を持っていた。身を守るため、二重・三重のカプセルを必要とする人間だった。彼は西欧的なものに強く惹き付けられながら、伝統的なエトスによって引き戻され、中途半端をおのれの宿命と観じつつ、苦闘の生涯を終えた。彼の有名な遺書には、生地のままで生きたかったという願望がほの見えている。
鴎外の処世哲学小倉左遷の前と後では、鴎外の人柄ががらりと変わってしまったと母親の峰子が語っている。小倉に行く前の鴎外は常にピリピリしていて、彼が帰宅すると家中が息を潜めるようにしていたそうである。彼は横暴だった。エリス問題で家族を心配させ、離婚して仲人だった西周をはじめ関係者の感情を害したかと思うと、次弟が乗り気になっていた養子縁組の件を彼一人が反対してぶちこわしたり、森家の家長として家を治めるどころか、常に家内に風波を起こす張本人だった。
この時代の鴎外は「戦闘的啓蒙家」として、文壇と医学界を相手に活発な論争を展開していた。この論争の仕方もひどく神経質で落ち着かず、新聞や雑誌にちょっと鴎外を批判したり揶揄したりする記事を見かけると、彼はたちまち反撃に出たらしい。人から何か一言いわれれば、十言を返すというふうで、鴎外に反感を持っているグループは彼のことを「書痢」とか「執筆狂」とか呼んでいた。
「書痢」とは汚らしい文章を下痢したように書き散らすという意味である。
実際、この頃の鴎外の筆はすこぶる早く、逍鴎論争などでも、坪内逍遥が苦心惨憺、何ヶ月もかかかって鴎外を批判する文章を書き上げて雑誌に発表すると、鴎外は即座にこれをこてんぱんに論破した論文を書き上げて雑誌社に届けるというふうで、その神速の筆には編集者も舌を巻いたという。
鴎外が医学界を相手に論争を挑んだのは、いかにもまずかった。
当時の医者の世界には、漢方医あり、蘭方医あり、最新の西洋医学を身につけた医者もあり、まさに玉石混淆の状態だった。これら各分野のボスたちが、呉越同舟で寄り集まって運営しているのが医学界で、鴎外はこれに対して医学者の組織体は一定の「業績」をあげた「学医」を中心に運営さるべきだと説いたのだった。彼の改組案は、欧米のアカデミーを念頭に置いたものだった(鴎外は開業医を「疾医」と呼んで、あまり高く評価していなかった)
鴎外の上司だった陸軍省医務局長石黒なども、学会ボスの一人だったから、鴎外は論争の経過で、石黒を敵に回すことになってしまった。あれやこれやで鴎外は九州の小倉に追い払われることになる。
鴎外はこのとき、軍医としての将来に見切りをつけて、大学の教授に転身しようとしたが、周囲からいさめられて、小倉で隠忍自重する道を選ぶことになった。そして、ここで彼は従来手にしたことの無かった類の本を読み始める。ヨーロッパの倫理学書、禅書、古文書、そしてクラウゼウィッツの「戦争論」。この時期に彼が東京の新聞に匿名で書いたコラムは、ほとんどすべて処世論が中心になっている。彼が生き方を変えようとしていたことは明らかだった。
新たな生き方を求めて様々な本を渉猟しているうちに、鴎外はクラウゼウィッツの「戦争論」に巡り会う。日本の軍人、特に参謀たちは、この本が第一級の名著だと聞き知っていたが、難解を持って知られる本の内容におそれをなして、誰も本格的にこれを研究しようとするものがなかった。鴎外は、小倉在住の参謀たちに乞われてこの本を講述し、後に訳書を「大戦学理」という題名で出版する。
鴎外はこの本を講述中に、自得するところがあったと思われる。
クラウゼウィッツは、書中で「将帥」と凡将を区別している。将軍は全軍の指揮者として、決戦に臨むに当たって、あらかじめ入手している情報をもとに作戦を立てる。だが、実際に戦場に立ってみると、計算外の事態が立て続けに起こる。改めて戦術を策定しようにも、情報はないし、時間もない。深い霧に包まれたように動きが取れなくなってしまうのである。
動揺した司令官は、事前に練り上げてあった作戦を放棄し、目先の戦闘に勝利しようとして、場当たりの方策にとびつく。その結果、局地戦に引きずり回されて全体的な見通しを失い、バランスを欠いた戦い方をしてしまう。これに対して将帥は時に戦局が不利になってもジタバタしない。凡将が不安動揺を重ねるとき、将帥は「情操不動」の状態で大局を見守り続けるのである。
鴎外は、クラウゼウィッツの描く凡将と、かっての自分を重ね合わせて見ていたに違いない。「戦闘的啓蒙家」時代の彼は、局地戦に振り回されて、果てしない小競り合いを続けていた。家庭においても論壇においても、彼は局地戦に明け暮れて、大局観を忘れていたのである――
ここで思い出すのは山本五十六のエピソードである。彼は南方作戦に全力を注いでいたが、その間に一機の米軍機が東京を空襲したことにショックを受けて、方針を変えてミッドウエイ攻略を決断する。米軍機発進の基地になっていたこの小島を占領すれば、「帝都空襲」という事態を防ぎうると考えたのである。そして致命的な敗北を喫して虎の子の空母を失ってしまう。山本五十六という人は小学生の慰問文にも丁寧な返事を書くほど神経の細やかな司令官だったが、それが裏目に出てクラウゼウィッツの描く凡将と同じことをしてしまったのだ。
将帥の特徴である「情操不動」は、全体直観とそれを母胎にした大局観に支えられている。クラウゼウィッツは戦争も広義の政治に他ならないと考えていた。戦争に勝っことがすべてではない。勝つことが逆効果になる場合もある。手術は成功せり。しかし患者は死んでしまった、というのでは何もならない。朝鮮戦争を指揮したマッカーサーは、鴨緑江を越えて満州に突入するという作戦を立てて、トルーマン大統領に解職されている。大局観を忘れた咎めを受けたのである。
鴎外の「鶏」は、彼の理想とした情操不動の将帥を具体化したものだった。
鴎外は実生活で危機に立ち、情操を動揺させて凡将のように振る舞いかねない局面に立たされると、決まって「鶏」式の作品を書くのを例としている。「鶏」を書いたのも、直接の上司だった陸軍次官と衝突して口論した後のことだった。
小倉で沈思黙考を続けた鴎外は、大局観を持ち、心の基底において情操不動ならば、微笑を浮かべて事に処し得るはずだと考えた。彼は、さしあたり「晴れやかな微笑」をトレードマークにして人に接しようと考えたのである。母親の峰子が、鴎外は生まれ変わって小倉から帰ってきたと思ったのも、むべなるかな。
局所観を離れて大局観に立つことは、鴎外本来の性行にマッチしていたようである。彼は現実に対する強い興味を持っていたが、同時に生身の人間や事物への恐れの念と「厭悪」の念を持っており、その結果彼の生き方は、ホーバークラフトのように現実面に接触することを回避しながら世界を滑走するという具合になっていた。
鴎外は「ヰタ・セクスアリス」の中で、「自分は本来結婚すべき人間ではなかった」という意味のことを書いている。又、別のところで、「自分は永遠の不平家だ」とも言っている。永遠の不平家とは、社会体制がどう変わろうと、あるいは何処に生まれようと不満が消えないと言う意味であり、つまり人としてこの世に生まれてきたこと自体への不満を持っているという事を意味する。彼の胸の底には、この世に生まれてこなければよかったという深い絶望感が潜んでいたのだ。
鴎外の透徹した格調の高い文章を読んでいると、なぜか、「永遠の寂寥感」のようなものを感じる。息子のオトによると、それは「世より進みすぎている人、あまりに見通しのつきすぎる人の当然負うべきクビキである孤独感」ということになる。
何の苦もなくやすやすと書かれたかに見える鴎外の作品の底に、主調低音のように寂寥感が流れている。宇宙的寂寥感とでもいったらいいような感覚。晴れ晴れとした顔で現世を俯瞰する鴎外の目に、この世に生まれてきたからには、生きて行くしかないなという諦念が流れている。
同時代の誰よりも老熟した目を持っていた鴎外を支えていたのは、彼独特の視座だった。大局観を押し進めていって宇宙的悲哀にまで達してしまった視座。鴎外の作品に見られる冷ややかさと苦い後味は、すべてここからきているように思われる。
晩年の鴎外は江戸時代の儒医の伝記を新聞に連載し、考証学に興味を示している。何によっても癒されない悲哀を、こうした地味な知的作業によって埋めようとしていたのだ。彼は子供の頃から蔵の中に一人こもって、古い道具や骨董品をいじっていることが好きだった。小倉にいた頃、視察のため地方に赴くと、決まって墓地に出かけて墓を調べている。彼がこうしたことに慰めを見いだしたのは、これなら誰をも傷つけず、誰からも傷つけられる恐れがなかったからだろう。