【3】遊牧型・求道型の夏目漱石



「あなたは家庭第一主義か、仕事第一主義か」というアンケートが盛んだった時期がある。だが、これは殆ど意味をなさない問いだった。家庭を大事にするものは、そのためにも仕事に熱心になるからで、大抵の社会人はこの二つを両立させている。設問のやり方を変え、家・会社などの社会的枠組みに則して生きるか、社会的枠組みよりも自己実現の方を重視するか、という問いかけなら意味を持ってくるのである。

鴎外は家庭と仕事を両立させるタイプであり、この両者を犠牲にしてまで創作に熱中する気はなかった。だが、漱石は家庭を第一義的に重視するようなタイプではなかった。

漱石は、極言すれば家庭や職場を「完全な人間になる」という目標を実現するための与件としてしか見ていなかったのである。彼の心には、彼自身「異様の熱塊」の呼ぶ何ものかがあって、これに形を与えることが何にもまして大事だったのだ。この尋常でない意欲は、生家・養家の享楽的な空気を反面教師として、無から有を生み出すようにして産み出されたものである。

生家と養家を支配していたのは、享楽的であると同時に経済合理主義に根ざす個人主義的な雰囲気だった。漱石の父は彼の籍を実家に取り戻すに当たって養家に金を払っているし、漱石は就職してから父に出してもらった学費を年賦で返済している。鴎外の両親は、周辺の忠告を無視して自腹を切って子供たちに身分不相応な教育をほどこした。これに反し、漱石の両親は子供たちの教育には無頓着だった。勉強したくなければそれもよし(漱石には文盲のまま成長し、死ぬまで文字の読めなかった姉がいる)、勉強したければ学校に出してやる。が、その費用は後で返済させるという割り切った態度を取っていたのだ。

一言で言えば、漱石はパトス型だったのである。幼児から彼は癇が強くて夜泣きをしたし、エネルギッシュで攻撃的だった。来客の前で養母の嘘を暴き、無学な学校教師の過ちを指摘し、水泳・ボート・乗馬・テニスなどスポーツなら何でもした。この激しいパトスが、それ自身の原理に従って一転して絶対善の追求に向かい、「異様の熱塊」として結実する。そして英語が嫌いで落第したのを機に、英語を専攻科目にすると言うような鮮やかな転身を敢行するのである。帰属すべき家を持たないという事実が、彼に独力で生きる自由を保障してくれたのだ。独力で生きるとは、我流で生きることにほかならず、我流を徹底的に押し通した果てに漱石的世界が拓けてくるのである。

彼は生涯、「異様の熱塊」を実現する場を求めて彷徨を重ねた。大學を出て東京高等師範学校の教師になったのも束の間、都落ちして四国の松山に赴く。その地の中学校で彼は生徒に英語の力を付けさせようと、数行の文法的解釈に1時間を費やすというような授業をする。熊本の高等学校に転じてからは逆に、文法にこだわらず、1時間に何ページも突っ走る講読法を採用する。

教師として次々に職場を変え、授業法も変更する。そして、教師としての日常にも愛想を尽かして学者への転身を企てはじめる。イギリス留学を終えて帰国した漱石は、大學で文学論を講じるに当たって、独創的な理論を構築するため骨身を削るのだ。彼の目的は、文学を科学的に解明することだった。漱石の盟友には、この種の無謀とも思える野心に身を焦がした者が多い。正岡子規は俳句・短歌の革新を目指したし、狩野享吉は数学によって音楽の本質を解明しようとして楽譜を山ほど集めている。

彷徨を繰り返した漱石は、朝日新聞のお抱え作家になってようやく落ち着く。新聞連載の第一作は、当時の新聞小説の型に合わせた「虞美人草」だった。「猫」「坊ちゃん」を書く以前の漱石を「習作時代」とするなら、職業作家になった当初の作品には既成のモデルを模倣した凡作が多い。「虞美人草」は、装飾過多で実質が薄く、匠気ばかりが目に付く悪作であった。漱石が後にこの作品を嫌悪するようになるのも当然である。

「猫」「坊ちゃん」が成功したのは、我流で書いたからだった。彼の転勤の仕方・結婚の仕方が我流だったように、その俳句や山水画も我流で作られたものだ。漱石がお仕着せのスタイルと決別して、独自の文体と題材を掴むのは「三四郎」からで、以後彼はこの路線を深めて行くことになる。

鴎外の文体には、鉱脈が露頂するように古典の骨法が刻み込まれ、それと交叉するように最新の思潮がバランスよく配置されている。新しいものを古典の骨格が背後から支えている気品のある文体なのである。屈伸自在でいて殷周銅器を思わせるような堅固な文体。

漱石の作品には当て字が多く、仮名遣いもいい加減、しかも自分流の造語を適宜織り交ぜるという具合で、彼は文章そのものにほとんど注意を払っていない。肉も骨もすりつぶして練り上げた蒲鉾のような文章で作品を書いている。だが、それは平易で意味のよく通る市民派の文章なのである。万事、自己流で突き進んで、たどり着いたところにコモンセンスに依拠する市民的立場があったというのが漱石の一生だった。紆余曲折を経てたどり着いた漱石後期の文体には、そうした行路が顕著に現れているのである。

漱石にとって、コネとか地位とか肩書きは、邪魔になる足枷としか感じられなかった。太平の逸民、無位無冠の一市民として、寝そべって鼻毛を抜いている日常が性にあっていた。こういう彼のところに市民意識を身につけた帝大出の若者たち、大正期になって活躍することになる新世代の青年たちが集まってくる。漱石と彼らは、自由闊達な関係で結びついた。寺田寅彦などは執筆中の漱石の書斎に黙って入ってきて、勝手なことをして過ごし、それに飽きてくるとまた黙って出て行くというふうだったという。漱石はこれら新世代の若者たちを反響板として、自分の作品が読者にどのように受け取られるか、つぶさに知ることができたのだ。

鴎外は、自分の作品が読者に受けようが受けまいが意に介しないと公言している。しかし漱石は「つまらないものを書いては読者に済まない」として、読者を満足させる作品を書くために骨身を削った。彼は身辺に集まってくる青年たちを通して、育ち始めた市民社会に宛てたメッセージを発信し続けたのだ。

「三四郎」以後「明暗」に至る作品は、市民の織りなすエゴと愛の物語である。一応、家が背景になっているけれども、その家は自然主義作家の描くような抜け道のない暗鬱な家ではなく、近代市民の形成するオープンな家であり、登場人物はそれぞれが自立し、「内発的な動機」に基づいて行動する。漱石の作品が歓迎されたのは、その底に市民意識と一体になった倫理観があったからである。

漱石自身も、実生活では、対等で自由な人間関係を作ろうと努力していた。彼はどんな人間に対しても、手紙を貰えば数日内に必ず返事を書いたといわれる。弟子たちは先生の執筆の邪魔になるから、手紙を出すのを控えようと申し合わせた程だった。弟子たちの中には愚かな者もいれば弱い人間もいた。漱石は彼らにも手をさしのべたが、それは師父としての立場からではなく、同じレベルに立つ人間としてだった。

友人や弟子にたいする漱石の行き届いた態度は、家族に対して鴎外の取った態度を思わせる。しかし、その内実は全く違っている。鴎外は内と外を峻別し、相手が幼弱な家族だったから家長として上から特別の慈愛を注いだのだ。友人・弟子に対する漱石の配慮・思いやりは、同じ場で生きている隣人への誠意の証として現れ、公平・平等を基本原則としている。そこには内と外を分けて考える差別意識はない。

晩年の漱石の周辺には、芥川龍之介など漱石に取っては二期生に当たる弟子たちが集まっていた。小宮豊隆などの一期生は彼の手元から巣立って一本立ちして、その次の世代が漱石を取り巻くようになったのである。市民意識という点で、彼らは一期生たちより更に徹底していた。その分、漱石理解の度は、先輩たちより深かったのである。

漱石は孫世代に属する俊敏な弟子たちに対して、幾分の敬意と、かなり大きな距離感を抱いていたように見える。彼は明治の日本を告発してきた。鴎外が名実ともにエリートの立場から現世を鳥瞰したのに対し、漱石は一市民として下から日本の「外発的な」文明を批判してきたのだ。「内発的な」思想や文化が日本に生まれてくることを待望していた漱石は、新しい世代がそれを身につけつつあるように思ったのである。

しかし漱石は、孫世代の若者たちを眺め、自らのありようを振り返り、次第に市民社会の限界を痛感するようになる。そして東洋の悟道への関心を深め始める。彼は文通で知り合った若い禅僧の無邪気な言動に感動して、彼らを跪拝せんばかりにしている。止むことを知らない漱石の、新たな彷徨が始まろうとしていた。その矢先に、彼は病に倒れたのだった。

「異様の熱塊」

 あまり本を読まない社会人でも、「漱石が好きだ」という人は多い。だが、彼らが読んでいるのは、「猫」「坊ちゃん」「三四郎」までであり、つまり、漱石の明るく親しみやすい部分に接して、彼のファンになっている。もう少し進むと、「心」などを読んで、その倫理性にうたれて漱石信者になった読者たちが出てくる。以下に引用するのは、大正期に活躍した江口渙の「漱石山房夜話」からの引用である。江口は当時、東京帝大の学生だったが、ある日、「面会日」に漱石を訪ねたのだった。

  みんなはとぎれとぎれに話をする。先生はわずかにそれに受

  け答をされる。私はだまって先生の顔を見つめる。先生の顔は

  じつにいい顔である。大きな額と高い鼻と光のすんだ眼とが、

  そのりんかくのいい顔を、さらによりよく、よりノーブルにし

  ている。ことに、ときどき、額をそらせ眉をあげて電灯をあお

  ぐときの、獅子のような眼差しは、何ともいえないほどの、つ

  よい、とおとい偉(おお)きなものを、私の心に焼きつけた。

  そして、いつのまにか私はすいつけられるように先生の眼ばか

  り見つめていた。(中略)沈黙がちであった先生が、ときどき

  、ふと額をそらせ眉をあげて電灯の光をあおぐたびに、その獅

  子のように輝く眼差しの奥から、大きな心の世界が、向き合っ

  た私に見えたような気がしたのである。そしてそのたびごとに、

  私の心はつよい圧力をうけて異常にふるえた。

  「そうだ、いましも私の眼の前にいるのは、芸術家とか学者と

   かいうような個個のものを超越した一個の偉大なる人なのだ。

   ほんとうのいのちをつかんでいる人なのだ。ほんとうの心の

   世界にすんでいる人なのだ。」

  私の心は私にこうささやくのであった。

芥川龍之介は「あの頃の自分の事」の中で、漱石が「人格的なマグネテイズム」とでもいうべきものを発散していたと言っている。漱石は、その影響下に入ると、こちらの精神的自由を失いかねないような、そんな危険なぱかりの魅力を放射していたというのである。これが誇張でなかったことは、漱石は精神界の獅子のようだったという上記の印象記を読めば分かるだろう。

芥川自身も漱石のことを「どこか獅子を思わせる」といっている(「点心)。

若い崇拝者たちの目には、漱石はこの世ならぬ力を秘めた巨人と映ったのだ。だから、友人に連れられて、漱石宅を訪れ、一度でも漱石の話を聞いた学生たちは、それこそ強力な磁石に吸い付けられる鉄片のように離れられなくなったのである。

こうしたマグネティズムを生んだ源泉が、漱石が内に秘めていた強力な精神的エネルギー「異様の熱塊」だったろうことは容易に想像がつく。しかし、漱石の指導を受けた弟子の中には、これを別のものとして受け取った者もいる。

次に紹介するのは、漱石全集の月報に載っている野上弥生子の追憶記で、彼女は世話になっている漱石への謝礼として、謡の本を入れる白木の箱を届けに漱石宅を訪れたときの印象を綴っている。箱を受け取った漱石は、その上に点々とついている黒ずんだシミはどうしたのかと野上に尋ねる。それは人力車の車夫が、玄関まで箱を運ぶときに落とした汗の痕だった。

  私はその訳を話した、しかしそんな説明が箱の表の不幸なにじ

  みに対する先生の気懸りを転ずることは出来なかった、

  「消えないね」

  先生はひとり言のようにそう言い、明らかに忌々しそうな面

  持でにじみの場所を透かして見ながら、浴衣の袖口で熱心にこ

  すった。奥さまが出ていらして、十五分ばかり何か話をした間

  、先生はそれに仲間入りしながらも、やっぱりそのにじみが忘

  られないように、時々箱の方をしかめた険しい眼つきでじっと

  眺めた。その変な執念深さが私にはなにか怖いような、而して

  取り返しのつかない失策をしでかしたような気がして、悄げな

  がら、やがてお暇をした。

野上の文を読んで、私たちが感じるのは漱石という人の感情圧の強さだ。ボンベの中に詰め込まれた高圧の酸素のように、漱石の内部には強烈な感情が圧搾・封入されているという印象を受ける。

漱石は自身の内部にある圧力の高い情念を「異様の熱塊」と呼んで、これを創作活動の源泉と考えていたが、これが対人関係に現れると、好き嫌いの激しさとか、偏狭さ、執念深さになる。野上弥生子が漱石の「変な執念深さ」に恐怖を感じたというのも、これが萌芽的な狂気を含んでいることを漠然と感じ取ったからだろう。

あれほど好き嫌いの激しかった漱石が、自他の作品を評価するに当たって、見上げた公平さを発揮している。ここに漱石の優れた人間性が感じられる。彼は長塚節とか、中勘助を発掘しただけではなく、デビュー当時の武者小路実篤・芥川龍之介などの才をちゃんと見抜いている。彼は他人の作品を評価するに当たって誠実であろうとし、模範的なやり方でその通りに振る舞ったのである。

漱石が江口渙だけでなく、ほとんどすべての門下生から師父として慕われ、また獅子のような存在として畏怖されたのは、漱石の内面に潜む「異様の熱塊」が、さまざまな行き過ぎや偏向を含みながら、本質において善なるものを志向していたからだろう。



【4】まとめ
以上述べてきた鴎外と漱石の違いを図式化すれば、次のようになる。

鴎外:エトス型−防御型−定住型−鳥瞰型

漱石:パトス型−攻撃型−遊牧型−求道型

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