生き方を変えさせた「老子」
20円で買った「老子」
<古本屋で見つけた「老子」>
最初に「老子」を目にしたのは、行き付けの古本屋の店先でした。いま、この文庫本を取り出して、裏表紙を開けてみると鉛筆で「20」と書いてあります。何しろ戦前に刊行された本だから、代価20円という安さもうなずけます。このタダみたいな安さに惹かれて、何気なしにこれを買ってきたのでした。
家に帰ってページを開いてみると、片側に原文、反対側に読み下し文が載っているだけのそっけない本でした。しかし、読んで行くうちに、あの夜の不思議な体験に符合する言葉をあちこちに発見しました。老子は自然体の生き方とその反対の生き方を対比する。その自然体の生き方というのが、あの夜の不思議な光を背負った生き方のように思え、老子はあの光背に包まれた生き方を説いているという気がしてきたのですね。
人は「功業」を建てて傑出した存在になり、上座につこうとする。これに対して老子は下座について無欲で生きることを勧めます。
「功なって退くは、天の道」
「その居に安んじ、その俗を楽しむ」
という訳です。
人は又、賢くなろうとして学問に精出し、沢山の知識を身につけます。これに対して老子は、
「学を絶てば、憂いなし」
と言い切ります。必要なことは「賢」であることではなく、「明」であることであり、大愚の立場に身を置いた方が、ものがよく見えてくると言うのです。
彼は男性的な価値観にも反対します。「雄」たらんとしないで「雌」の静けさにとどまり、勇敢であるよりも、臆病であれと説く。真の強さとは何か。
「柔を守るを、強という」
積極的な価値観とは反対の一見消極的な下座について愚と柔を守る生き方、これが自然体で生きるということであり、天与の根源的知能に基づいて生きるということなんですね。老子は言葉を尽くして積極的な自我拡張行動の危うさを指摘します。
「鍛えて鋭くすれば、長く保つべからず」
「金玉堂に満れば、能く守るなし」
「爪立つ者は、立たず」
しかし根源的な知能などというものが存在するのか。自然体などといっても、結局は時代や社会が作った人為的なものではないかという疑問が生まれてきます。
続く