物理的な光ではない

「……光の湧き口は、私の内部にあるように思えたが、この時私は自分の身体も心も完全に忘れ去っていた。私たちが喜んだり悲しんだりするとき、それらの情動は確かに私たちの体内にあるのだ。私たちはどんな時にも、心と身体を入れる容器としての自我を意識している。だが、この時には物心ついたときから離れることのなかった自己感がなかった。心身脱落の状態になっていたのだ。


私は肉眼で八畳間のたたずまいをちゃんと見ていた。電気スタンドの光をしかと捕らえているのである。しかし、同時にもう一つの目で部屋を満たし世界を満たした霊光を眺めていた。


光の湧出が終わる少し前に、私は光の泉がその上に降り積もった落ち葉や藁くずを軽々と押し流ししまう光景をはっきりと見た。この意味が実によくわかった。まるで解説付きのイラストを見るようだった。


私の本体は無限に湧出する光なのだ。泉に押し流される落ち葉や藁くずは硬化した自我なのである。光の前に崩れ消え失せて行く自我の断片なのである…」


朝に道を聞けば夕に死すとも可なり

「……光の湧出が終わった後も、光の残照のようなものがあたりに立ちこめ、四通八達した喜びはそのまま残っていた。 私がこれまで生きてきたのは、宇宙の深奥から発するようなこの光に触れるためだったのだ。


私の頭に初めて言葉が生まれてきた。
<朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり>
私は、生まれてきた意味がこれで分かった、もう死んでもいいな、と思ったのだ。


更に時間が経過した。私はようやく自分の身体感覚が戻ってきたことに気づいた。穏やかに去って行く恍惚感の下から、あぶりだしの文字のように身体感覚が浮かび出てきたのである。


その夜、私は出産を終えた妊婦のように安らかな気分で自然に眠ってしまっていた。世界全体に対する優しい肯定の気持ちを抱きながら、知らぬ間に眠ってしまっていた…」
続く