私の「宗教的体験」

このホームページ作製に着手したとき、自分にとって痛切な体験を優先的に盛り込むことにしようと思った。ということになると、どうしても33歳の夏に遭遇した不思議な体験を取り上げざるを得ない。これこそ私の生涯における最大の「事件」だったからだ。それで休憩所で書いた本の中から、関係の箇所を抄出してここに載せることにした。以下に述べるのがそれである。

だが、不満も残った。そこで宗教体験だけに絞った、もう少し詳細なものを立ち上げることにして、題名も「私の宗教的体験」としたホームページを別にこしらえた。だから、もうこれは削除してしまってもいいのだけれども、両方のホームページを読む人は少ないだろうと思って、舌足らずの内容ではあるけれど、これをそのまま残すことにした。興味のある方は、この章はスキップして直接、「私の宗教的体験」(HP末尾参照)に当たっていただきたい。

発端

「……午後十時を過ぎた頃だったと思う。読書に疲れてきた私は書見器から目を離した。書見器で本を読むのは、病気療養中に身につけた習慣で、以来私はあらゆる種類の本を皆これで読んできたのである。私は、暫くぼんやり天井に目を向けていた。蚊帳を隔ててみる天井は薄暗く、電気スタンドを持ち込んだ蚊帳の中の明るさと、その外側の明度には段落があるのだった。


何もすることがないと、気持ちが自然に暗い方向に流れて行くのがその頃の癖だった。この夜は、さすがに自分でもそうした心の動きがやりきれなくなったらしく、私の心に嫌悪感を振り切ってしまうための内面操作が働いた。私は暗いところから浮き上がろうとして、東京の療養所で知り合ったTの顔を思い浮かべた。


Tは私と同年輩の患者だったが、その言動に言いがたい落ちつきがあり、一種「安心」の雰囲気を漂わせている若者だった。私は、その時、この種の「安心」を痛切に欲していたのである。
(しかし、あれは一体どういう男だったのだろう)
私はTのイメージに向かって問いかけた。しかし、彼の穏やかな所作の背後に、特定の思想や信条のようなものを想定することは出来なかった。私が目の前に作り上げたTの映像は、表皮だけを残して中身を失った鋳型のようなものになった。


私は暫時自分の作製したTの塑像を眺めていた。なにか釈然としないものがあった。ふと、私はこの鋳型の中に潜り込み、内側からTと一体化しようとした…」


光の奔出

「……その直後、私はいきなり炸裂する至福感情の真っ直中に放り込まれたのだ。<一大光明>と呼んだらいいような内的な輝きの奔出が突発したのである。一挙に何かが爆発し、私はその軸心の静寂の中にあるような感じだった。あるいは、渦巻く光の台風が生み出した無風の目の中にあるような感覚。


奔出する光の海は私に絶頂感覚をもたらした。私の四辺のいたるところに溶岩流のような歓喜の輝きがあり、私はその真ん中にただ一人で立っているのだった。


自分を忘失していた時間は、それほど長くなかったかもしれない。やがて私は自己感を取り戻し、自分が広大無辺な喜びに包まれていることを知った。最初に現前した歓喜は言語的表現を越えている。いくら言葉を尽くして説明しようとしても不可能なのである。それが展開し拡散して時間の過程に入ってくると、法悦と言うような定義可能な感触を供えた意識に変わり、自己感もそれに伴って生じてくるのだ。


私はこれまでに知っているいかなる喜びや幸福感とも異なる、それとは比較を絶して巨大な歓喜と法悦の中にあった。私は光り輝くものの直中にあって、それが盛んに四方に溢れ出て行くさまを声もなく見守っていた。


時間の経過とともに光り輝くものは収束に向かうようだった。八畳間の隅々を満たし世界全体をおおったかに思えた浄光は、やがて早朝の温泉場の湯が広い浴槽の縁から豊かにこぼれ落ちるようなイメージに変わり、ついで、こんこんと湧き出る光の泉の映像へと縮小して消え失せた…」

続く