車谷長吉

ある朝、新聞を見ていたら、月刊誌「新潮」(7月号)の広告が目に飛び込んできた。大きな活字で「贋世捨人(428枚)車谷長吉」とあったからだ。私は長い間、車谷長吉のことを気にかけていたのである。

車谷長吉に関心を持つようになったのは、彼が何かの文学賞を取ったときの人物紹介に、職業は古本屋で、仮借なく真実を暴く私小説の書き手だ、とあったためだ。だが、私は彼の作品を手にとる機会には恵まれなかった。車谷長吉の本は、滅多に古本屋に流れてこないからだった。

私は小説本のたぐいを古本屋で買うことにしている。けれど、ここに流れてくる本は大体タイプが決まっていて、車谷長吉の本を見かけたことは未だ一度もなかった。これが、車谷長吉に関心を抱きながら、長い間そのままに打ちすぎていた理由なのである。

新聞広告を読んだ次の日、バイクに乗って市内の書店を回った。ところが、どこにも「新潮」「群像」「文学界」を置いている本屋はないのだ。市内にいくつものパソコンショップがあっても、MACを扱っている店が一軒もないように、購入者が限られている純文学雑誌を置いている奇特な書店は存在しない。これが人口6万を有する「田園都市」の泣き所なのだ。

仕方がないので、本屋に「新潮」を取り寄せてもらうように頼んだが、一向に雑誌が届かない。インターネットには、私と同じように書店に「新潮」を注文した読者の書き込みが載っていた。問題の雑誌が売り切れになっていて、なかなか手に入らないことをこぼしている書き込みで、その筆者は、「これはきっと車谷長吉の隠れたファンが多いからなのだろう」と推測していた。

半月ほどしてようやく「新潮」が届いた。原稿用紙428枚といえば単行本一冊の分量である。読了するまでに二日かかった。予想していたよりも穏やかな内容だったが、それは作品が半生を回顧する自伝という体裁になっているからにちがいなかった。

「新潮」を読み終わってから、次にインターネットでアマゾンに注文しておいた車谷長吉の著書7冊に目を通した。「新潮」がなかなか届かないので、それまでの繋ぎにと思って注文しておいた本である。

 車谷長吉の著書

最初の3冊は随想集といった感じの本で、車谷長吉が雑誌などに載せた短文を集めている。後の4冊は創作集で、私はこれを読んで初めて車谷長吉の真骨頂に触れたような気がした。確かに彼は「深刻な私小説」の書き手だった。「吃りの父が歌った軍歌」や「漂流物」などは、私がこれまでに読んだことのないような鮮烈な作品だった。

「吃りの父が歌った軍歌」や「塩壺の匙」を読んだ後で、もう一度「新潮」に掲載された「贋世捨人」に戻ってみると、おぼろげながら車谷長吉という作家の秘密が理解されてくる。「贋世捨人」は彼の作品に対する解説書の役割を果たしているのである。

     

中流の農家の長男に生まれた車谷長吉は、高校三年の時に鴎外の「高瀬舟」を読んで衝撃を受け、大学に進学する事を決意する。大学を出てから、広告会社や雑誌社に就職したものの、長く続かず、30歳で都落ちして瀬戸内海沿いの故郷に戻るのだ。

都落ちしたのは、彼がサラリーマン生活に適応できなかったという事情もあるが、作家として壁にぶつかったことが大きかった。会社勤めの傍ら、「なんまんだあ絵」という作品を書いて「新潮」の新人賞に入選したけれども、次回作が編集者の気に入らず、何度書き直してもOKが出なかったのだ。彼は12回書き直しても、原稿がパスしなかったことで、自分の才能に絶望し、東京を捨てる気になったのだった。

会社勤めにも落第、作家としても落第、身の置き所がなくなった車谷長吉は、その後9年間、社会の底辺をさまよい歩き、ゴミ収集人、旅館の下足番、料理場の下働きなどをして口を糊(のり)することになる。

30代の終わりになって、彼に好意を持っていてくれる編集者に励まされて再び原稿用紙を取り出し、「萬蔵の場合」という180枚の作品を仕上げる。これが雑誌社に採用され、彼の再起第一作になるのだ。続いて発表した「漂流物」は芥川賞候補になり、上京後発表した作品を集めた「塩壺の匙」で三島由紀夫賞を獲得している。そして「赤目四十八滝心中未遂」によって直木賞を獲得したことで、めでたく作家車谷長吉の誕生となるのである。

私は雑誌「新潮」に載っていた作品と、アマゾンから取り寄せた7冊の本を読んだが、車谷長吉が古本屋を開いているとは何処にも書いてなかった。私が彼に興味を持ったのは、古本屋を営みながら私小説を書いているという点にあったのだが、それはどうも私の錯覚だったらしい。

     

車谷長吉の経歴を見て行くと、彼がどうしてあのような酷烈な私小説を書くに至ったのか、その心理的な背景のようなものが浮かんでくる。

彼には、他人と親しくなることを恐れる気持ちや、他人を気味悪いものだと思う恐怖心があった。魅力を感じるものを見つけても、それを他人と分かち合うことがどうしても出来なかった。彼は会社勤めにも落第、作家としても落第、とどのつまり料理場の下働きまで身を落としたが、そこでも落ち着くことが出来ない。つまり彼は社会的な不適応者であり、この世に生きる場所がどこにもない人間だった。

(この世に自分の生きる場所はない)と感じたときに、彼は自分には小説を書くしか能がないことを悟ったのだった。書くこと、それがたった一つの彼の生きる場所だった。となったら、腹を決めて、自分の恥をさらけ出し、おのれの「魂の闇」をあからさまに表現していくしかない。20代の頃、何度書き直しても原稿が没になったのは、中途半端で生ぬるい書き方をしていたからだ。

彼の父は吃りで、病的なほど執拗な男だった。他人の落ち度を見逃すことができず、最後には狂死している。車谷長吉は、自分にも父と同じ血が流れていることを知っていた。子供の頃、魔に取り付かれたように家の中を走り回って発狂したと思われることが多かったし、衝動に駆られて家財を片っ端から叩き壊し「家庭内暴力」を働いたこともある。

彼の飼っていたモズを殺した隣家の猫を追い回して、その目に五寸釘を打ち込んだこともあれば、親戚の女の子が食べるパンにガラスの破片を埋め込んだこともある。車谷長吉は、度胸を決めてこうした他聞をはばかる秘事を作品の中に洗いざらい書き込むことにしたのだ。

自分のことばかりではない。母方の祖母は人に嫌われる高利貸しだったし、従兄弟の中には首吊り自殺をしたものもいる。こうした一族に関するひめごともありのままに書くことにした。

車谷長吉は、これまでひた隠しにしてきた秘事を白日の下に暴露したが、この「秘事」のなかにはフィクションも交えている。虚構を交えることで、彼の作品はいっそう生彩を増した。パンの中にガラスの破片を埋め込んでおいたというような話は、おそらく、虚構である。だが、自分を貶めることになっても、作品の効果を高めるために、あえて自虐的な嘘を書き加えるようになった。彼は「語り」とは、「騙り」だと言っている。

彼は常々母から「お前は蛇のような子や」とか、「恐ろしい子やな」と言われていたと打ち明ける。そして、その蛇のような性格を立証するためにいろいろな逸話を紹介してみせる。地域で一番難しい高校を受験したが撥ねられた彼は、地域で一番程度の低い高校に回されてしまった。屈辱を感じた彼は、全国の一流高校の名前を片っ端から暗記することで鬱を散じた。芥川賞に落選したときには、選考委員の名前を一人ずつ紙に書いて、五寸釘で木に打ち込んでやった・・・・

これらのエピソードは、本当にあったことかどうか疑わしい。だが、仮に事実だったとしても、これらの挿話を車谷長吉という人間に重ね合わせてみると、陰惨な感じがしないばかりか、読者はむしろ晴朗な笑いを感じるのである。

彼には妙に愚直なところがあり、藤村記念館から講演を頼まれたときに、島崎藤村の魅力を語る代わりに、その逆の話をしている。そればかりではない、藤村ファンを前にして、島崎藤村が人間としていかに許し難い男だったかを縷々語るのである。

車谷長吉の変人ぶりは、女性関係に遺憾なく発揮されている。
彼は街で見かけた見知らぬ女性に魂を奪われて、三ヶ月の間密かにストーカーを続ける。そして突如、その女性の家を訪ね、「私は三ヶ月間あなたのことを思い詰めて、ここにやってきた。だから、あなたも三ヶ月私のことを考えてほしい」と要求して三ヶ月後に待ち合わせる場所を指定して帰ってくるのだ。三ヶ月後、相手の女性は彼が指定しておいた場所に姿を現している。

こんなエピソードもある。酒場で乱酔の末、そこのマダムに暴言を吐いてしまった彼は、肩まで伸ばしていた長髪を丸刈りにして、刈り落とした髪を持って詫びに出かけている。そして、彼は今も丸坊主のままである。

こういう車谷長吉は、周囲の人間に放ってはおけないという気持ちを起こさせるらしく、最初の会社を辞めた後で、上役が彼を呼び出して次の就職口を斡旋してくれている。雑誌編集者も、同じだった。何度原稿を突っ返しても、こりもせず原稿を書き直してくる彼を見ているうちに、「この男を一人前に育て上げるのが、編集者としての自分の義務だ」と考えはじめ、彼をアパートに訪ねて叱咤激励した上で、その日手にしたボーナスを座布団の下に置いて引き上げたりしている。

     

車谷長吉が自らの恥を語り得るようになったのは、9年間に及ぶ零落の生活を体験したからだった。彼は「タコ部屋」を渡り歩きながら、人間のなまなましい実像に接した。「漂流物」という作品には、漂泊しつつ生きる男の凄惨ないきざまが迫真の筆致で描かれている。

彼は失うべきものを何も持たない漂泊者の立場に身を置くことで、それまで彼を縛っていた中産階級式恥の意識から脱却出来たのである。彼は体面を気にする世俗への対抗意識から「業曝しの精神史」として私小説を書き、女が春をひさぐようにして、恥にまみれた私小説を売りさばくことになる。

しかし、彼が私小説作家として一皮むけた理由を、社会のどん底を体験したことに求めるのは一面的かもしれない。

子供の頃の彼は、少女のように優しかったという証言がある(「業柱抱き」の解説)。当時の車谷長吉は、「おおばこの茎を手折り」「野原の真ん中に筵を敷いて おにぎり二つ薬缶一つ じっとしているのが好き」な少年だったという。

慶応大学に進んだ彼は、独文科に学んでいる。なぜ独文科かと言えば、専攻を選ぶガイダンスの席上で、ほかのところには学生が列を作って並んでいるのに、独文科の机の前にはほとんど人がいなかったからだった。

彼は当世風のものを嫌い、時流に乗るものを憎んだ。トイレットペーパーというようなカタカナ語に反発して、わざわざ「便所の尻拭き紙」と表記したりする。彼の内面には、ひどくナイーブで優しいものが地底湖のように潜んでいるのである。

車谷長吉は、風呂敷包み一つを抱えて関西各地を転々としていたどん底時代ほど、心が安らかだったことはないと言っている。この時期に彼は、自分が知識人であることを恥じ、寛容な態度で周りにいる男たちを眺めている。心の底深くに地底湖のように潜んでいる魂の発する光で、彼は周囲を照らしていた。

彼は首吊り自殺をした従兄を思い出すと、心に静謐がもたらされるような気がすると言っている。彼は「塩壺の匙」の冒頭のところで「この死(従兄の死)の光は、その後の私の生の有り様を照らし出す透明な鏡として作用してきた」と書く。車谷長吉は風呂敷包みを抱えて各地を転々とする苦難の9年間を経過することで、生きることに拙なる男たちを眺め、自殺した従兄を思い、自らの「魂の闇」を照射する「魂の光」を見つけたのだ。

       

車谷長吉は、「贋世捨人」を次のように書き始めている。

・・・・西行に、こんな歌がある。
  (世をのがれけるをりゆかりなりける人の許へ云ひ
   おくりける)

世の中を反き果てぬといひおかん思ひしるべき人はなく
とも
心から心に物を思はせて身を苦しむる我身なりけり

二十五歳の時、私は創元文庫の尾山篤二郎校註「西行法師
全歌集」を読んで発心し、自分も世捨人として生きたい、と
思うた。併し五十四歳の今日まで、ついに出家遁世を果たし
得ず、贋世捨人として生きて来た。つまり、私は愚図であっ
たのだ。世捨人として生きたいと願いながら、も一つ決心が
付かないとは何事であろうか。・・・・

しかし世捨人として生きようとする彼の決意は、半端ではなかったのだ。東京での生活に敗れて帰郷した彼は、仕事を探そうともしないで一室にこもり、壁をにらんで座り尽くしていた。

「今ここでじたばた動いてはあかん、僅かばかり残ったもの、その凡てが崩れ落ちるまで待つんだ」

彼は自分を崖から突き落として、無一物の立場に身を置いて再出発しようとしたのである。この気持ちに嘘はなかったろう。彼は、自分の描いた図画が日本の小学生代表の絵としてアメリカに送られ、それが新聞記事になった時のことを思い出して、次のように書いている。

「その時、私は自分の名前が世に喧伝されることの快楽を初めて味わい、そして毒を身に浴びた」

彼は、再出発に際して世俗の毒を洗い落とし、世捨人として生きようと決意した。にもかかわらず、彼は芥川賞に落ちると選考委員を呪い、直木賞を獲得すると子供のように欣喜雀躍する。直木賞をもらった後に書いた「直木賞受賞修羅日乗」という月間日記は、とても世捨人志願の人間が書いたものとは思えない。

「男子の本懐というか、男の花道というか。兎も角、これで私も男になれたのだ。これ迄、随分多くの人に小馬鹿にされてきて、悔しい,癪に障る思いをしてきたが、そういう人達がTVや新聞を見て、どう思ったか。私が捨てた女たち、私を捨てた女たち、あるいはすでに絶交した友たち、私としては、見たかツ、という思いである」

いくら世俗に距離を置いて生きようとしても、思うようにならない。人間の意識は社会の網の目に組み込まれてしまっていて、そこから自分を引き抜くことは不可能なのである。オレという男は到底世捨人にはなり得ないと観念した頃から、車谷長吉は西行も鴨長明も「贋世捨人」だったことに気づくようになった。彼らは所領からの収入で生活を安定させた上で、世俗との関わりを断っていたのだ。これ以上の欺瞞はないではないか。

すべての世捨人は、「贋世捨人」にほかならないと考え始めた時から、彼は自らを「根は俗物でありながら、俗物としては生きられない人間」として規定するようになる。一般に反俗的な人間は、つい俗念に負けてしまったというような反省の言葉を漏らして、自己の俗物性を本源的なものではなく、二次的なものだと考える。しかし車谷長吉は、自分が正真正銘の俗物であることを認めることから出発する。

車谷長吉ばかりではない、すべての人間が根は俗物だが、俗物としては生きられない部分も持っている。人はすべて世俗の中で生き、世俗の価値観を身に体して行動している。だが、この中に長く棲息していると、酸欠状態に陥るから、人は反俗の世界、非俗の世界に逃れる。車谷長吉は、酸欠状態に長く耐えられないタチの人間なのだった。

彼は自らの「遺言状」を公開している。

1,私の葬式は行ってはならない。屍体はゴミとして処分すること。


1,私の墓を作ってはならない。骨を姫路名古山の墓(車谷家の墓所)に葬ることもならない。  骨はゴミとして処分すること。


1,私の遺体・遺物・遺産は、私の死後、誰もこれを継承・使用してはならない。遺物・遺産は凡て、これをゴミとして焼却すること。

                            車谷嘉彦(車谷長吉の本名)。

人は俗物としていきながら、俗物でしかない自分を俯瞰する包越の視点を持たなければならない。車谷長吉は「業曝しの私小説」を書くことによって包越の視点を獲得したのである。

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