鴎外の小乗哲学

鴎外は陸軍省医務局長の椅子を同窓の小池正直と争って敗れ、第21師団軍医部長に「左遷」される。そして明治32年6月から明治35年3月まで三年足らずの期間を九州の小倉で過ごすのである。年令からいうと37才から40才の間のことだ。

私は小倉時代の鴎外に興味をひかれ、日記・書簡を含めこの期間に彼の書いたものには残らず目を通している。その結果、どうやら鴎外は小倉時代にその小乗哲学を完成したらしいという見当がついて来た。

小乗哲学とは無論大乗哲学に対する言葉で、大乗哲学が衆生の救済を目的とするのに対し、こちらは戒律を重視し自己完成を目指す個人主義的哲学である。

明治時代の知識人で、鴎外程ハッキリと求道の生活を否定した者はいない。彼は永遠の昔から実在する先験的な「道」というようなものを認めなかった。大正四年に作った漢詩の中で、彼は先哲の「至境」を求めることなどは「我事(わが事)」ではない、キリスト教も仏教も自分には不要だと言い放っている。

彼が求めたのは、日常生活を処理して行く上で、実際に役立つ具体的な手引きであり、実用的な行動指針であった。いわば実生活上のソフトウェアを求めていたのである。

先に述べたように、鴎外も完全な人間になることを目指してはいた。だが、彼の場合は「世道人心のため」とか「人類の進歩のため」というような高遠な理想とは無縁なところで、完成された人間になることを目指していたのだ。体系的な哲学も不要だった。自分の行動から過失や非違をなくし、私人として落ち度のない人間になること、プラスを生み出すのではなく、マイナスをなくすことを目指したのである。

小倉に単身で赴任し、借家で女中や馬丁と暮らしてみて、鴎外は家主や使用人と交渉することが、いかに難しいことかを身にしみて実感した。小倉にいた三年の間に、鴎外は12人もの女中・老婆を入れ替えている。馬丁も結局やめている。

女中達はそれぞれ色々な性格を持っていた。盗癖のある者、ガサツな者、そして塵言癖のある者や好色な女。老婆は鴎外宅から米・野菜を持ち出して自宅に運び、馬丁はやめていく時に家財をくすねている。鴎外は彼らへの対抗手段として、米櫃を居間の戸棚に入れて監視するようなことまでしている。

家主一家との間にも、いざこざが絶えなかった。小倉時代の前半に母峰子と鴎外が交わした書簡の過半はこれらの問題でしめられており、峰子はあまり女中の出入りが激しいので、鴎外の妾だった女を小倉に派遣しようかとまで考えた。

鴎外をいらだたせたのは、身近にいる使用人の行動ばかりではなかった。地方視察のために出張すると、車夫が約束を破って目的地に着く前に鴎外を途中でおろしてしまう。知人の遺骸を焼くために火葬場にいけば、人夫が遺骸の衣類を後で盗むために、口実を作って参会者が退散するまで点火しようとしない。

鴎外は至るところで、どん欲でしぶとい民衆と出会い、東京在住のエリート軍人の夢にも知らないでいた庶民の実像に直面する。鴎外はここで「愚衆」に対して、どういう姿勢で臨むべきかという問題を解決しなければならなかった。腹立ちまぎれに、「さてさてどいつもどいつも横着勝手なる事に候」と手紙で母に憤懣をぶちまけてみても問題は解決しない。

使用人に対して徒に神経を逆立たせず、冷静に彼らに対処する余裕を持たなければならぬ。更に鴎外は、左遷される原因となった自身の過去の言動・性癖についても根本的に改造する必要を感じていた。

上司の石黒医務局長を含む医学界の長老達に対してあれ程激しい攻撃を浴びせたのは、石黒局長が後継者として小池正直を考えていることを鴎外が感じ取ったからだった。私怨のために我を忘れたことはいなめないのである。

では局長はなぜ小池を選んだのか。小池は剛腹そうな印象とは逆に細心なところがあり、事の大小を問わず局長への報告を怠らなかった。小池が上長に対する気配りを忘れなかったのに反し、鴎外は気にいらぬとムッッリ押し黙り、局長にものを問われても答えないことが多かった(石黒局長は鴎外について、あれは人の言うことを聞くような男じゃないと言っている)。

所詮身から出た錆なのである。鴎外が、これまでと同じような子供じみた態度や感情的な行動を取り続ければ、しまいには陸軍に留まることも困難になるだろう。小池が局長になってから、同窓の仲間が暴発するようにして小池と衝突し、一人二人と陸軍を去りはじめている。ああいうふうになってはならない。

小倉時代の鴎外はしきりに倫理学関係の本を読み、自らもそれに関係した原稿をいくつも書いている。「智慧袋」「心頭語」「人生策」などは、短章を集めた新聞連載記事である。これらは処世ものと呼ぶべきものであり、「我をして九州の富人たらしめば」「倫理学説の岐路」「フリイドリヒ・パウルゼン氏倫理説梗概」などは啓蒙ものと言うべき内容の論稿である。

これらは、いずれもそれほど深い内容を持っていない。注目したいのはクラウゼヴィッツの著書を訳した「大戦学理」と、講演筆記「普通教育の軍人精神に及ぼす影響」の二つである。この二つを併せ読めば、鴎外がこの時期に何を考えていたか明らかになるのだ。

クラウゼヴィッツの著書が今も人の関心を集める理由は、私達の抱いている「戦略家」なるもののイメージを大きく転換させるからだ。私達は戦略家が冷静な人間で、精密機械のような頭脳を持っていると想像する。

だが、クラウゼヴィッツによると、戦争とは「推測の境界なり」であって、作戦を立てるのに必要な諸条件のうち四分の三は霧の中にあって、状況を正確に把握することが不可能なのである。冷静、精密な知性だけでは、とても対応できないのだ。

クラウゼヴィッツは、だから戦略を決定する将帥は柔らかな精神を持ったヒユーマニストでなければならないと主張する。

クラウゼヴィッツは下級指揮官と上級指揮官(将帥)を明確に区別する。小規模な戦闘場面で下級指揮官が勲功をあげられるのは、それが「戦術」レベルの戦闘であって、戦い方に定則があるからだが、下級指揮官を抜擢・昇格させると、途端に無能になってしまう。

上級指揮官は複数の戦闘から成る「戦略」レベルの戦いに臨まなければならない。「戦術」レベルの戦闘には定則があるが、それらの戦闘を複合させた「戦略」レベルの戦闘には定則がない。だから、これを下級指揮官に託することが出来ないのだ。

結局、下級指揮官は狭い「局面観」しか持たないので、より大きな大局観をもたねばならぬ将帥には適しないのである。クラウゼヴィッツは将帥の持つ大局観を「地形観」と呼んでいる。

もっと具体的に言えば、下級指揮官の欠点は予想しなかった複雑な事態にぶつかって兵士たちがパニックに襲われると、自分もパニックに襲われて当初の作戦を簡単に変更してしまうことだ。彼らは外なる敵の抵抗より、むしろ内なる部下の抵抗に屈服する。

将帥は、このような弱さを持っていない。彼らは未知の部分・謎の部分を含んでいて「推測」によってしか捕らえ得ない戦局の全貌を、一種の全体直観によって把握する。この全体直観は知・情・意が総合的・調和的に発展した柔軟性に富んだ人間だけが持っているものである。

昔から、教養豊かな文明国から軍事的天才が生まれて来たのもこのためだ。

将帥は小状況の変化に動揺せず、はじめに立てた作戦を推進して行ける所まで行き、それが行き詰まった時にはじめて方向転換する。この「持ちこたえる能力」は、将帥が「感情上の強硬」「性格上の強硬」を備えていることから来る。

クラウゼヴィッツは更に将帥の内面に立ち入って、その感情上の強さの分析を試みる。将帥も危機に臨めば、弱兵と同様にパニックに襲われ「激情の風波」を起こす。だが、それに流されることはない。それは意志の力や理性的制御によるからではなくて、「別に一種の情を起」すからだ。最初の感情を第一次感情とすれば、それとは異なる第二次感情が出現して、将帥の内面で一種のバランスを取るのだ。

第一次感情はこのバランス状態の中で、手付かずのまま保存される。第二次感情は「人尊の情」であり「人の万物の霊たるを忘れざる情」であって、今風に言えばヒューマンな情念なのだ。

人間愛を基調とするソフトな第二次感情に包まれることによって、第一次感情は本来的な形状の中にとどまって、それ以上に激発することがない。感情上の強さとは、客観情勢に見合った感情を維持することであって、感情を強化することでも感情をおさえることでもないのだ。

以上がクラウゼヴィッツの説く将帥の内面である。鴎外はクラウゼヴィッツの「戦争論」に深く影響されて、「将帥」を自分の理想とするようになる。だが、鴎外はここで過ちを犯すのである。将帥の持つ「感情の強硬」「性格の強硬」というようなハードな性格的側面だけを見て、ヒューマンな側面を見落としてしまうのだ。

彼は下級指揮官が兵士の抵抗に負けて方針を直ぐ変更するのに対し、将帥が部下の抵抗に左右されず、超然と既定の方針を押し貫くところだけに目を留める。そして将帥イコール「情操不動」と短絡してしまうのである。

鴎外のこうした偏った将帥観は「普通教育の軍人精神に及ぼす影響」という教員向けの講演筆記の中にも遺憾なく発揮されている。

彼は言う。「われわれはまず智を働かせて明断な写像・局面観・地形観を作り上げなければならぬ。智のレベルでこれが出来上がるとこれに支えられて情のレベルで『情操不動』ということが生じ、最後にこれに支えられて徳のレベルで寡欲・勇・性格という諸徳が結実する。最高の徳は性格である云々」

鴎外がクラウゼヴィッツに心酔するあまり、独り合点な用語を使っている点に微笑を誘われる。学校教育の目指す最終目的が「性格」だなどと言われても、聞いている者はポカンとするだけだろう。

鴎外はほかのところでも、やたらに「性格」という言葉を振り回すようになる。「人は智慧ありても性格なくては用立たすと申候」(在京津和野同窓会宛書簡)と言ったり、自分自身の妻えらびについても母宛に「気象のある女」が望ましいと書いたりしている。「気象のある」とは「性格上の強硬」を具備しているという意味である。

鴎外は洋の東西にまたがる広大な知見をもとに確固たる「地形観」を作り、これを背景にして「情操不動」という心的体制を整えようとしたのだった。だが、これは彼の本質とは、噛み合っていなかった。

気象学には「静的安定」と「回転安定」という区分があるらしい。大気団はその接地面が大きく、三角形の底辺が地表に接するような形、つまり気団がピラミット型になった時に安定度を増す。これが、静的安定である。

もう一つの安定の仕方は、上層大気が回転して、三角形の頂点部分だけが地表に接するという形、つまり独楽のような恰好で気団が回転している時に生まれる。これが、回転安定である。

鴎外が講演筆記で述べている人格構造は静的安定に近く、広汎な人々と交渉して動揺しない「情操不動」の精神を基盤にして、その上に将帥的徳性を築くことを意味している。だが、彼の本領とするところは、「思量」を自由に展開させること、つまり知性の独楽を自在に回転させるところにあり、そのためには現世との接地面を極力絞りこんで「点」に近いものにすることにあった。

彼の課題は、外社会との接触面を安定させることだった。これまでのところは、現世に対して「厭悪と畏怖」を感じるか、あるいは反転攻勢に出て自らの地位を危うくするか、そのいずれかだった。今後は、そういうことを止めなければならない。だが、現世との接地面を大きくして、誰に対しても「情操不動」で臨むことは、鴎外にとっては無理な相談というものであった。

彼はうちにヒューマニズムの精神を擁し、外は極力「接地面」を減らして安定を保つべきだった。が、彼は接地面をそのままにして「性格の強硬」を実現し、そのことで周辺の社会関係を安定させようとしたのである。

確かに、鴎外は接地面を小さくする努力はしている。接地面を小さくして生きるには、独身を守るにしくはない。鴎外は「ヰタ・セクスアリス」の中で自分は本来結婚すべきではなかったと記し、二度目の結婚に際しては、賀古鶴所宛書簡の中で、これまでに彼が熟させてきた「書生風の生活」と別れなければならぬことへの愛惜の気持を述べている。

九州小倉におけるその書生式生活とは次のようなものであった。

午前9時出勤、午後3時退出。帰宅して、直ちに服を変えてフランス語教師の宅に出掛ける。6時に授業が終わり、帰宅して入浴。夕食を済ますと、直ぐに葉巻一本をくわえて散歩にでる。小倉の町の中を縦横無尽に歩き回っているうちに一時間がたち、葉巻を吸い尽くす。そこで帰宅し、9時から11時頃までフランス語のノートを清書し梵語の勉強をする。そして直ちに就寝する。

こういう賛肉を落としたスリムな生活を支えたのは、実はクラウゼヴィッツではなかった。この時期の鴎外は伝習録や熊沢蕃山を読み、「寡欲」を徹底させ「安心立命」の境地にたどり着こうと努力している。芸術・学問以外のあらゆる世間的快楽や幸福を「生得好かない」(「妄想」)と明言する鴎外には、生活を簡素化することなどは何でもなかった。

彼が封建社会の儒者達から学んだのは、洗面・食事など日常の生活行為を面倒がらずに正確に履行していくことであった。これらの雑事は頭脳生活を送るための方便ではなく、もっと深い「象徴的意義」を持っている。

鴎外が心に誓ったのは、日常生活を処理していくための合理的で簡易な規則を作り、どんな時にもそれを厳守することだった。彼はこれを実行しただけでなく、妹にもそうするように勧めている。彼は、これに「敬義」の心持で細事にあたることを加えて、これ以外に、個人が実生活の場で実現できる善があるのか、と反問している。典型的な小乗哲学である。

かくて鴎外の実生活は、彼自身の文体のように単純明白で条理の通ったものになった。鴎外はその簡素な私生活の底に「捨てる覚悟」を置くことで、彼の小乗哲学を完成させた。「捨てる覚悟」は女中問題にも現れていて、母峰子宛の書簡で「下女を使う秘伝」として、「いつにても容易に代えらるるようにして置き」、その範囲内で彼女らをかわいがってやって、成るべく「代えぬよう恕してやる」ことだと言っている。

鴎外は作品「鶏」の中で、石田少佐に仮託して自己の生活哲学を述べている。石田が最も石田らしさを発揮する場面は、末尾で「雛なんぞは入らんと言え」と命じるところである。鴎外は作品の山場をここに持って来て、石田の「情操不動」を活写しようとしたのだ。

石田少佐は誰に対しても感情を動かしていない。身近な人間を愛してもいないし、憎みもしない。たった一つ彼が愛しているのは鶏の雛で、帰途家が近くなると雛のことが頭に浮かんでくる程なのだが、その雛を最後にキッパリと捨ててしまうのだ。

あらゆるものについて、自らの生命を含むすべての愛するものについて、いつでも捨てる覚悟を固めることで、彼は「情操不動」という心的状態を保つことが出来ると思ったのだ。彼の「捨てる覚悟」は、掛け値なしの本物と見てよい。だが、「情操不動」の方はなかなか思うようには行かなかったのである。

小倉で誰からも干渉されない独身生活を楽しんでいた鴎外は、度重なる母の懇請に負けて再婚する。そして東京に帰参後は、文学雑誌を発刊して文壇に顔を出すのだ。彼は将帥の強さを持とうとしたが、状況に負けてスリムだった生活に贅肉を付けていくのである。

だが、鴎外の人間的成長には目覚ましいものがあった。小倉から帰った鴎外は、母の目にはまるで別人に見えた。まことに、かわいい子には旅をさせろである。小倉以後の鴎外は、非の打ちどころのない見事な私生活を送っている。明治期の文人達のうちで、こんなに立派な生活を送った人物は稀である。長男の於菟が「永遠にのこる人格者」と言って賛嘆するのも決して身贔屓ではない。

「源実朝以来、文学者として最高の官位」を得た後も、鴎外の日常は焼き芋を買って来て昼食とするような簡素なものであった。鴎外は乱れのない端正な生活を粛々と死の直前まで続けたのである。

鴎外は生まれ変わったようになって小倉から戻ってきた。しかし現世を厭悪する気持ちは一向に変わらなかった。鴎外は娼婦を嫌悪し、芸者についても「見るのも厭だ」と言っている。理由は彼女らが、さまざまな技巧をこらして鴎外の注意を不当に奪い取るからだ。彼は又、選挙運動を嫌った。

「宣伝は人を酔はする強いがたり同じ事のみくり返しつつ」

これは鴎外が最晩年に、同語反復的な立候補者の選挙演説を聞いて作った短歌である。同調を強要して迫ってくるのは、選挙演説ばかりではない。新聞・雑誌、何を見ても、そこには虚辞空語を連ねて読者の同調を強要するものばかりだ。

鴎外がこれらに接してしきりにいらだつのは、彼が被影響性の強い感受性を持っているからであり、「情操不動」の将帥ではなかったからだ。鴎外のように繊細な人間は、いかに意志の力で押さえようとしても「同調強制」する雑音に馴れることは不可能だった。雑音によって内面の静謐がかき乱され、その回転安定式エネルギー配置が崩れてしまうのである。

鴎外は「灰燼」「二当流比較言語学」の中で、日本人がやたらに義憤・公憤を発して、「けしからん」という言葉を連発する風習に嫌悪の目を向けている。日本人は互いに同調しあって、相互に対する要求値を途方もなく高め、少しでも期待を裏切られると、多数派に属することを頼みとして義憤を発する。

日本には多数であることを盾にして発言することを気恥ずかしいとする感情がないし、むやみに頑張って勉強することを恥とする気風もない。こういう風土の中で学問研究に従事する先覚者は、高圧の海底で喘ぎながら働く潜水夫に似ている、と鴎外は言う。

高圧の海底のような日本社会・・・まさに鴎外の実感だったのである。

厭悪の感情は、必ずしも外に向いていただけではない。身内の者にも向けられていた。

鴎外全集を読んでいて、っくずく鴎外という人物は底が知れないと思ったは、日露戦争出征前に書かれた遺書と、戦争中に妻茂子宛に書かれた手紙を読み比べた時であった。

遺書は茂子に対する人間的不信感によって貫かれ、茂子の全存在を否定するような仮借のない筆致で記述されている。それとは逆に遺書の中で不当ともいえる厚遇を受けているのが母峰子で、彼女は財産の半分を与えられ、ほかに何の義務も責任も負っていない。

遺産の残りの半分は長男が相続することになっている。その代わり、長男の於菟は後に残される峰子・妻・未婚の弟・長女を扶養して行く責任を負わされている。従って、峰子の懐は全然痛まない仕組みになっている。

もし鴎外が戦死して遺族恩賜金・遺族扶助料が妻の名宛で来ても、茂子には手をっけさせず、鴎外の親族がこれを管理することになっており、茂子にとっては踏んだり蹴ったりという内容なのである。鴎外はこういう非情な処置を下した理由について特に項目を設けて説明している。

妻の茂子が「右三人(母・弟・長男)二対シテ悪意ヲ挟ミ到底予ノ遺族ノ安危ヲ託スル」に足りないからだというのだ。茂子に対して峻厳極まる遺書を残して戦地に発った鴎外は、その妻に宛てて夥しい手紙を書いている。

自分を「でれ助」と呼び、妻を「しげちゃん」と呼んだ薄気味悪いくらいに愛情に溢れた手紙なのだ。母や長男には電報のようにそっけない手紙しか出していないのに、茂子には打って変わって濃情をたっぷり注ぎ込んだ手紙を毎日のように書くのである。

もっとも、これらの手紙には一種奇妙な感じがある。大人が幼児をあやすような、もっと言えば医者が病人をなだめるような不自然な調子があるのである。とにかく、遺書と手紙の間には同一人が書いたとはとても信じられない差異があるのだ。

しかし、やがて私は、妻に対する鴎外の態度をごく自然なものとして理解するようになった。鴎外は母の懇請に従って遺書を書き、書いてしまってから母に対する感情が急速に冷えていくのを感じたのだ。母は親戚や鴎外の友人宅を歴訪して味方を増やし、嫁に対する包囲網を作り上げていた。彼女はこれらの援軍を背景にして、自分と於菟に有利な遺書を鴎外に書かせ、鴎外死後の体制を万全なものにしたのだった。

鴎外は、母のこういう政略的な動きと対比して、若い妻のあまりにも無防御・無計算な行動に憐れみを感じたにちがいない。なにしろ鴎外は「物の両端をたたかずにはいられない」性格であった。それに彼は、わがままな若い妻に溺れる中年男の心理を多分に持ち合わせていた。

通説では、鴎外が母に対する姿勢を変えたのは、長女茉莉の安楽死問題からだとされている。しかし両者の間の亀裂はそれ以前、遺書作製の時にはじまるというのが私の印象である。鴎外はこの時から関心の中心を母から妻に移した。そして、そのことによって鴎外は森家の内部に長く続く紛争の火種を持ち込むことになったのである。

母峰子の形成した森家の秩序の下にとどまっている限り、安全確実な日常が保証される。美貌の妻にひかれ、茂子の言いなりになれば森家は分裂し、家の中は猜疑と不信の渦巻く地獄になる。聡明な鴎外はそのことを百も承知で、敢えて安定を捨てて危険を選んだのであった。

茂子という女は、森家の一族とは全く異質の人間であった。大審院判事の娘として両親に溺愛されて育った茂子は、於菟によるとほとんど生まれたままの幼児の我がままを持つ女だった。茂子がどんなに感情の激しい猛烈な女性だったかは「半日」に尽くされている。

しかし茉莉以下三人の実子の母に対する見方は少し違っている。彼らは口をそろえて、茂子が愛矯に乏しく面白味のない女だったが、嘘の嫌いな真面目な人間だったと証言しているのだ。生真面目で自分の外に出られなかった女という杏奴の言葉が、茂子に関する最も正確な批評と思われる。

彼女は最初の結婚に失敗してそのいきさつを小説にしているが、それを読んで感じるのは、茂子が何故自分は離別されたのか全く理解していないし、又理解しようともしていないということだ。自分の感情に囚われ、自分の中に閉じこもっている茂子は、自分の行動が引き起こすリアクションものみこめないし、他人の目に自分がどう映るか想像することすらできなかった。

日露戦争から母峰子が死去するまでの約十年間、峰子を中心とする弟・長男グループと妻茂子とその実子グループは、さして広大とはいえない観潮楼(鴎外の屋敷)を二つに仕切って、別々に暮らしている。鴎外は茂子グループと起居を共にした。

峰子グループは次第に茂子グループに押されて行き、居住部分を茂子らと交換して裏手の方に移ることになる。同じ屋根の下に住んでいながら鴎外との接触頻度の少なくなった母が、機会を捕らえて彼と口をきこうとする。すると茂子がヒステリーを起こして狂ったように叫ぶのだ。

「丸であなたの女房気取りで。会計もする。側にもいる。御飯のお給仕もする。お湯を使う処を覗く。寝ている処を覗く。色気違いが」

明治42年1月30日、姑と嫁の争いが昂じて、鴎外は賢所に参内する予定を取りやめなければならなくなる。そしてその数日後に「懇親会」に描かれた新聞記者と取っ組み合いの喧嘩をして怪我をするという事件が起きるのである。家庭内のトラブルで異常に疳がたかぶっていた鴎外は、彼に似合わしくないつかみ合いの喧嘩をはじめたのだ。

この危機に臨んで鴎外は久し振りに創作の筆を取り、「半日」を発表する。文学作品としての評価はさほどでもない「半日」であるけれども、鴎外がその「思量」を自己の実生活に振り向けた最初の述作であるという意味で、これは注目に値する作品である。

「半日」を書いた時の年令は、鴎外が48才、茂子が30才で、もしこれを自然主義の作家が取り上げたら、初老に達した夫が若い妻の機嫌を取るために母と長男を冷遇し、裏の住居に追いやる痴情の物語になっただろう。そして作品は、気ままな女のまわりを、意気地のない男が、未練がましく付きまとう近松秋江式のものになった筈だ 。

だが、「半日」は自然主義好みの陰湿な家庭内葛藤を取り上げながら、一向に深刻になっていない。じめついてもいない。明晰な「思量」の目が、茂子の行動を正確に描き出し、これらの行動の生まれ出る原因・背景を分析した上で、今後の行動の予測までしているからだ。茂子のなし得ることと、なし得ないことを本人以上に鴎外の方がよく知っている。自分の内にこもって「外」の見えない女と、見え過ぎる位に「外」の見える男との違いである。

ここでは茂子の小さな自我が、鴎外の大によって包まれている。「半日」を自家用の文学といったのは中野重治である。この作品は事の訳を理解しようとしない妻に向かって、「お前の姿はこうだ」と鏡を持ち出して映して見せ、その自粛を求めた茂子用の修養教材なのだ。

鴎外は母の代弁をすることで母の気持をなだめながら、作品の中に妻の言い分をすべて書き込んで暗黙のうちに母の自粛をも求めており、母に対する教材にもなっている。

鴎外は「半日」を書いた二ヵ月後の4月に「懇親会」「魔睡」という作品を書いている。「魔睡」は、鴎外とも面識のある高名な医師から妻茂子が催眠術をかけられたというショッキングな事件を題材としており、「懇親会」は既述のように新聞記者から暴行を受けた体験を題材にしている。いずれも鴎外にとって肌に焼饅を押し当てられるような屈辱的な事件を題材にしている。

この二作品は、明らかに加害者に対する悪意に基いて書かれており、これを公表することによって自身も手傷を負うことを覚悟の上で、書かずにはいられなくて書いた、冷たい怒りの渦巻いている作品である。そこには医学生時代のシニシズムや、ドイツ留学で身につけた唯我論的ニヒリズム、妻の茂子をして「西洋の悪党じみている」(「波欄」)と言わせた鴎外のアウトロー的性格が色濃く影を落としている。

しかしそれだけではない。それだけでは「芸術作品」にはならないのである。「魔睡」には、冷たい水晶が赤く燃える怒りの炎を封じ込めているといった趣があるが、この「水晶体」と感じさせる澄んだものが「思量」なのだ。

鴎外は、この作品で二つのことを実現して、自己を救済しようとした。企図の第一は、自分の怒りを実際よりも小さく造形して、事件が彼の内部で完全に処理され消化されていると表明することである。彼はこう書くことで、その形で自分を安定させようとしたのだ。世評を望ましい地点まで誘導し、あわせて自分自身をそこに定着させようとしたのである。

第二に鴎外は事実を暴露して相手に思い知らせてやると同時に、「思量」によって事実を芸術化し、膠着して身動きならなくなっている自分を事件から引き離そうと企てたのだ。事件を活字にして公表すれば、自ら恥をさらすことになるが、他面、事件は自分から切り離されて独立した客体になる。

事件を外部化し他化し過去化することで、頭を切り換えて新しいテーマに取り組むことが出来る。鴎外全集は、全部で38巻ある。彼がこんなにも大量の本を残したのは、無拘束に移り動く「思量」の成果を散逸させないで、「業績」として残しておくためだったが、もっと大きな理由は「思量」を常に新しい対象に向かって展開させるためだった。

「ヰタ・セクスアリス」によると、学生時代の彼は寝る前に毎日、日記をつけ、日々を「きちんと締め切る」ことにしている。鴎外は、書くことによって過去を締め切り、過去にケリをつけ、思量エネルギーを回収して未知の新しい方面に差し向けたから、著書の数も自然に膨大なものとなり、そのあるものはサラリーマンの提出する出張報告書のように平板なものにもなったのである。

「是れが過去である。そして現在は何をしているか。わたくしは何をもしていない。一閑人として生存している。・・・(中略)・・・剰す所の問題はわたくしが思量の小児にいかなる玩具を授けているかと云うにある。爰に其玩具を検して見ようか」(「なかじきり」)

上に引用した鴎外の文章を読めば、彼の文体の特色がよく分かる。まず全体を見渡し、それから順序をおって、事実をひとつずつ叙述していくのだ。急がず慌てず、必要なことを簡潔に語り、語り終えればそれを過去のこととして葬り、ずんずん先へ進んで後戻りしない。

書き終わった後は、刈り入れを済ませた麦畑のようにすべてが奇麗に片づいて見通しが抜群によくなっている。これは、しかし、彼の文章の特徴というより、その「思量」の特徴なのである。こういう思量を働かせて、彼は不快な事件を過ぎ去ったものとして「締め切り」、自分から隔離しようと企てたのだ。そしてその企図は成功し、「魔睡」は草入り水晶のように、怒りを静かに内に閉じ込めた緊張感溢れる作品になったのである。

明治42年3月の「半日」発表以後、堰を切ったように創作をはじめた鴎外は、陸軍部内からの批判を浴びることになる。彼は妻を愛したことで森家の秩序を崩し、創作を開始したことで軍内部での自分の地位を危うくした。危険は内と外から同時に鴎外に襲いかかってきたのである。

当時、鴎外は陸軍省の幹部であり、大臣・次官に次ぐ局長という地位にあった。当時の軍人の常識では、文学の本道は漢詩文であって、創作するなら漢詩か和歌程度にとどめておくべきだとされていた。鴎外が局長の身で「軟文学」に手を染めるなど、もってのほかと考える軍人が少なくなかったのである。

小倉時代の鴎外について、近所の主婦は私服の時と軍服の時とでは彼の態度は全く違っていたと語っている。私服の時は柔和で親しみやすかったが、軍服を着ると厳しい表情・態度になって近寄りがたかったというのである。

近寄りがたいと思われるのは、彼の望むところだった。軍服によって彼が人から敬遠されるとしたら、現世との間に距離を置きたい彼にとって、こんなに有りがたいことはないのだ。このように彼を守る盾ともなっていた陸軍での地位が、現役作家として文壇に復帰した途端に揺らぎはじめたのである。

軍人特有の文学軽視の感情を露骨に示して鴎外に臨んだのが、彼の直接の上司、陸軍次官石本新六であった。鴎外を腹の中で軽蔑しきっている彼は、鴎外が自分のところに来て何を言っても鼻であしって相手にしなかった。鴎外が「半日」を書いてから半年後「ヰタ・セクスアリス」を発表して発禁処分を受けると、石本次官は早速鴎外を呼び付けて厳しく戒告し、その執筆活動に制限を加えようとした。石本次官との関係は日を追って悪化し、鴎外は前後三回にわたって次官に辞意を表明している。

これが大事に至らなかったのは、賀古鶴所の仲介によって鴎外が陸軍の大ボス山県有朋の庇護を受けていたからであった。

鴎外は明治42年から明治43年にかけて「鶏」「金貨」「里芋の芽と不動の目」「普請中」「あそび」などの諸作品を発表している。いずれもクラウゼヴィッツの説く将帥的人間をテーマにした作品で、内外の危機に直面して動揺する自分を鎮静させることを目的に執筆されたものである。鴎外はいわば自分用の教材としてこれらの短編を書いたのだ。

鴎外が一部の読者に嫌われるのは、これら一連の作品に見られる構成にあった。高い姿勢を保持して生きる精神的強者の周辺に弱者を配置し、動かない強者のまわりを弱者がめぐるという太陽系的な人物構成の中に、鴎外の独善と優越感を読みとるからだ。

鴎外好きの読者が愛するのも、上記の作品群である。人間的な愚かしさ・感傷・欲望を受け付けず、習俗に同調することをきっぱりと拒否して冷然と孤独を守る主人公に、読者は自分の理想を見るのだ。

この時期の鴎外は、家庭で言葉の使い方一つにも気を配っていたと於菟は言っている。森家では鴎外が言い方をちょっとでも間違えると、たちまち母と妻の関係が険悪化する不穏な状況が続いていたのだ。

陸軍省の内部でも事情は変わらなかった。こういう神経を擦り減らすような日々を乗り切っていくには、石本次官から何と言われようと創作活動を続け、「情操不動」の将帥的人物像を造型して行くしかなかった。少なくとも将帥像を造型している間は、彼は心の平衡を保つことができたのである。

クラウゼヴィッツ的将帥像を造形した一連の作品の中で、その複雑な味わいのために、最も興味をひかれるのは「あそび」である。「あそび」の主人公木村は離婚歴のある独身者で、役人と作家という二足のワラジをはいている中年男となっている。だが読者の目には木村とは、森鴎外その人にほかならぬことが直ちに分かるようになっている。

作品には木村が起床してから勤務先で正午の号砲を聞くまでの半日が取り上げられているが、この間に事件らしいものは何一っ起こらない。作品の実質は「木村」の生活記録であって、「森鴎外氏の生活と意見」と題したらいいような内容になっている。

まず、この短編が、非常にのびのびした筆致で書かれていることを言っておかねばならない。鴎外独特の流れるような速筆で渋滞なく書き進められているから、こういう自在な調子が出て来たのである。作者の方でなんの苦もなく書き上げたので、読む側も楽にこれに追従していくことができるのだ。

さて、木村はじっに晴々とした表情をしている。起床して洗面する木村は、「頗る愉快げな、晴々とした顔をして、陰気な灰色の空を眺め」るのだ。「木村を知らないものが見たら、何が面白くてあんな顔をしているかと怪しむ」ほどの表情である。

木村を取り巻く現実はその日の天候のように重苦しい。女中の掃除は乱暴だし、通勤途上で顔を合わせる同僚は愚にもつかぬ議論を吹き掛けて来る上に、役所の上役は気難しい。同僚は皆青ざめた元気のない顔をして、月に一度位ずつ病気をしている。だからこそ木村の天気晴朗な顔付がいよいよ際立ってくるのだ。

周囲とのコントラストを強調するため、鴎外は木村の表情を「晴々とした」という言葉で描写すること八回に及んでいる。もっとも木村の表情はこれだけではない。しかめっ面が三回、無感動なそっけない顔が三回、悪意の表情が一回出て来る。しかしそれらの表情もたちまち基調的表情である「晴々とした表情」に戻ってしまう。

木村は平服を着た将帥なのである。彼は恐るべきタフな男で、「感情上の強硬」を自分のものにした強者なのだ。私達が作中で頻繁にくりかえされる主人公の表情に関する描写を読んで、さほど不自然に感じない理由はなんであろうか。

木村が不快な現実に対して、いちいち適切な批評をくだし、その影響が自己の内面に浸透してくるのを阻止しているからだ。例えば女中のがさつな行動も、「本能的掃除」「舌の戦ぎ」などと命名されて木村の関心外に遠ざけられ、もはや不快な感じを伝えてこない。

鴎外が「あそび」を書き上げたのは、明治43年7月20日である。当時の鴎外はこの作品に描かれているように本当に「晴々とした表情」で毎日をすごしていたろうか。まったく逆なのである。

この年の七月に入ってから彼の心の休まる日は一日とてなかった。日記によれば、母峰子は胃痙攣で苦しみ、石本次官と鴎外との関係は極度に悪化し、鴎外が次官にむかって「事を言う」こと四回に及んでいる。「事を言う」とは多分、言葉をあらげて異議申し立てを行ったという意味だろう。

原稿完成の前日の7月19日から、次官室で週一回の局長会議がはじまっている。議案は陸軍医務局の権限を縮小することを内容にした条例改正案だった。もしこれが通るようなことになれば、辞表をたたきっけて陸軍を退く覚悟を固めていた程、鴎外にとっては重要な議案だった。

つまり、こういうことなのである。鴎外はこの時「晴々とした表情」をしていたから「あそび」を書いたのではなく、「晴々とした表情」を喪失していて、再びこれを取り戻したかったから「あそび」を書いたのだ。

「魔睡」の場合と同様に外部の見方を望ましい地点に誘導し、あわせて自分自身をそこに定着させるために、この風変わりな作品を書いたのである。これを書く時に鴎外が頭においていた「外部」とは陸軍と文壇であり、前者は彼を不真面目・不謹慎だとして非難し、後者は彼を真剣でないとか二重生活者だとかいって酷評を浴びせていたのである。

これに対して鴎外は、左様、自分は何事もあそびの気持ちでやっている不謹慎な男ですと言って、怒れる牛の前で赤い布を振ってみせるのである。彼は相手の非難を逆手に取って、私はまさにお説の通りの人聞だし、もしかするとお宅の考えている以上に怪しからん男かもしれないよと居直ってみせる。

鴎外はそうやって相手を挑発した上で、「この遊びの心持は『与えられた事実』である」と付け加えて、これは生得のものだからどうしようもないと弁明する。生れつきの性質だとなれば、誰も文句のつけようがない。論争はこれでおしまいである。

鴎外は、「晴々とした表情」を保つ木村を描くことで、自分が世評を軽く受け流している精神的な強者であることを証明してみせる。そして、そうした挑戦的な態度とは裏腹な、弁明と陳謝をも作品の中に書き込むのである。硬軟自在、このへんがいかにも鴎外らしいところである。

「あそび」には論理の筋が一本通っていて、整合性を保っている。その一貫する筋とは、「晴々とした表情」を生み出すのはあそびの心持だという主張である。木村が家庭でも役所でもどこでもこの表情でいられる理由は、どこにいても彼があそびの心持でいられるからだという。

二重生活を継続するのもあそび、芸術活動もあそび、役所の仕事もあそび、すべてがあそびなのだ。役所の仕事はあまり面白くはないが、著述生活の単調を破り、そびを多面化させるという効果はある。適当なあそびがほかにあれば、役所をやめてそっちに切り替えてもいいと匂わせて、鴎外は近い将来に見込まれる医務局長辞職のケースに備えている。

鴎外は小倉時代に「先ず勉むべきは、人に対せんとき汝の眉根に皺なく汝の気色晴れやかならんことなり」(「人主策」)と書いている。そして晴れやかな表情は良心から生まれること、良心に従って信じることを実行していれば、晴れやかな表情が消えることはないと言っている。

原田直次郎を追悼した文章でも、原田の妻が貧窮の中にあって常に晴々とした顔色でいたことを、原田の良心的な生き方と対比して書いている。「晴々とした表情」を生むのはあそびなのか、良心なのか。いうまでもなく良心の方である。では、鴎外は何故あそびだと書いたのだろうか。

明治43年7月の段階で、彼の最も必要としていたのがあそびの心持だったからだ。彼は陸軍省の会議室で必死の攻防をくりかえしながら、これを言葉を荒らげて物を言うようなやり方ではなく、あそびの心持でやりたかったのである。

生身の鴎外は焦慮に身を焦がしていたが、思量者としての鴎外はこういう時期にもあそびの心持を保持していて、実生活者鴎外が苦しみ悶える傍らで、晴朗な微笑を失わなかったのである。思量者としての鴎外の特色は、自身が立たされている悲劇的な局面を第三者として傍観し、周囲が深刻視するような社会現象をエンターティンメントとして眺めることだった。

思量者鴎外は、実生活者鴎外を傍観している。鴎外は死の床についた時に、見舞いに通う妹に向かって、今日は頭の具合はいいが身体はよくないというように、頭と身体を分けて説明していた。同様の言明は、賀古鶴所宛の書簡にも見られる。

「思量快」と「存在不快」

思量者鴎外と実生活者鴎外の関係を、「思量快」と「存在不快」と言ってみてもいいかもしれない。彼にとって、存在することは苦痛だったが、思量することは常に快楽だったのである。

快と不快を同時に味わいながら生きていた鴎外は、激化する「存在不快」を鎮静させるために、「思量快」の想起を必要とした。思量なら、どんな不快な状況をもあそびの心持で眺めることができるからだ。思量に表情があるとしたら、それは「晴々とした表情」以外のなにものでもないのである。

「あそび」の木村は自宅で二つの机を90度の角度を作るように配置している。一つの机上は常に空虚にしておき、新聞を読んだり仕事をする時にはこの空虚な机を使う。もう一つの机には仕事用の書類や資料が、問題の緩急の差によって格付けされて並んでいる。好悪の噸ではなく、仕事の緩急の順に並んでいるのである。

木村の書斎に見るこの配置は、鴎外の頭の構造を思わせる。木村の生活記録は、鴎外の思量生活の解説書になっている。木村はゆっくり構えてこっこっ仕事をする。その結果ぐんぐん仕事のはかが行く。この仕事のやり方も、鴎外の思量の展開法そのものを思わせる。

娘の杏奴は書いている。

「父は一旦はじめた事は何事でもたゆまずに始終つづけていて、しまいには必ず、その事をやり遂げる。決して途中で物事を打ち捨ててしまうという事がなかった。私は父についていつも一番感心させられるのは、この父の気力といったようなものの、激しい力である」

作品「あそび」の持つ複雑な味わいは、「思量快」と「存在不快」が真水と塩水の混じりあった湖のような鴎外の内面を、思量の側から眺めたところに存する。

この時期、鴎外は極めて多忙だったが、会議や宴会の合間・車中で過ごす時間など、細切れの時間はかなりあり、これを活用して「ゆっくり構えてこつこつ仕事をする」方式で作品の結構を煮詰めていったのである。こういう下準備があったから、着筆後は流れるような速度で書き上げることができたのだ。

そして鴎外の思量の純良な部分は、練り上げられた構成の上を滑るようにして文が走っていく時にあらわれてくるのである。前段の下準備の段階にはなかったイメージ・思考・判断・着想が新たにわきでて、柔軟な思量の形をあぶり絵のように浮き上がらせる。

明治44年10月、鴎外は職を辞して専業作家として立つことを決意した。鴎外は、そのための「足場を作っておく」ために「灰燼」を書き始めた(山県有朋の執り成しで結局辞職するには至らなかった)。本格的な長編を仕上げて、これを手土産にして文壇的地位を確立しようとしたのである。

鴎外はこれまでの自作品を登山の前の足ならしのようなものと見ていた。足ならしは終わり、これから本格的に山に登るのだという気構えで書き出したのが「灰燼」であった。

冒頭の部分を読めば彼の意気込みの程がよく分かる。葬式の行われる寺院の描写は珍しく丹念に書き込まれ、貰い物をあてにしてハイエナのように集まってくる近所の主婦達、木の枝に手長猿のようにぶら下がって遊ぶ子供達、そして、その子供たちを思わずぎょっとさせるほど冷徹な表情をした主人公の風貌などが、順を追って描かれる。

陸軍を退くのだから、もう誰に遠慮することもない、そう考えて鴎外はこの長編の中に彼の現世厭悪の感情を存分に書き込んでいる。「青年」が春の世界だとすると、「灰燼」は冬の世界である。これが完成すれば、正宗白鳥のニヒリズム、谷崎潤一郎の悪魔主義も一挙に色あせる深刻無比の文学が誕生するはずであった。

鴎外は主人公について、これは現世の一切に苦痛と苦悩を感じている男で、彼にとって快楽とはその苦悩が薄らいだ刹那のことで、苦悩なき日に幾分の快楽があるに過ぎないと言っている。鴎外はここで自分の内面を語っているのである。

山口節蔵は、現世を厭悪する第一次性格の上に柔和忍辱という第二次性格をかぶせて生きている。羊の皮をかぶった狼なのである。ここで鴎外は、やはり自分のことを書いている。節蔵は愛しているものを追及していって、そのものへの嫌悪に到達するという固有の精神構造を持っているが、これも鴎外が隠し持っていた性格特性の一つなのだ。

鴎外の内部には「あそび」の木村も住んでいたし、「灰燼」の節蔵も住んでいた。「あそび」は「思量快」の側から現世を見ているのに対し、「灰燼」は「存在不快」の側から現世を見ている。生きることを業苦と感じる鴎外の内面感覚が、この作品のライトモチーフになっている。

では、節蔵の目に映る現世とはいかなるものであったか。未完に終わった「灰燼」の最後に節蔵が書こうとする小説の見取り図が出て来る。「新聞国」と題する、マスコミ社会の概略をデッサンしたものである。ここで彼は現代社会の各部門を個別に分析し、現世の総体を永久循環を続ける回転車のようなものだと断じるのだ。

マスコミの取材攻勢を受ける有名人は、擬態本能に基づいて新聞には見せ掛けの外皮を書かせる。本当のところを、ひた隠しに隠し通すのだ。ではその「大切そうに隠している」ものが何かといえば「なんでも無いのである」と冷嘲する。こんな調子で節蔵は取材する側と取材される側をやっつけ、最後に読者大衆をやっつけ、マスコミに関わるすべてのものを完膚無きまでにやっつける。

マスコミの送り手も受け手も、固定した思考形式・判断形式の内側に閉じ込められている。書く方も読む方も、新しいものの中に古い型を見いだして安心と満足を感じる。かくて新聞は、真に新しいものや意味のあるものから目をそむけ、古い型を単調に繰り返す永久循環型自己運動の中に落ち込むのだ。

私は最初「灰燼」を読んだ時に、鴎外は氷のように冷酷な文学とか血の流れるような風刺とか大層な触れ込みで節蔵の書こうとする小説の見取り図を紹介しはじめたものの、現代社会について思うような分析ができず、ついに手に負えなくなって作品そのものを中断したのだろうと思った。

だが、読み直してみると、「新聞国」の風刺は十分鑑賞に値するものになっている。ここには現代社会を一望した鴎外流の「地形観」がある。彼はこの作品の冒頭から現代社会の虚妄性について縷々語り、現代社会は事実によって動くのではなく、マスコミが伝える「仮想現実」によって動かされていると指摘する。

「灰燼」が「新聞国」のところで終わっているのは、この部分が手に負えなくなったからではなく、この部分を書くことで、当初彼の意図した現世に対する見取り図を提出し終えたと思ったからだ。

では、鴎外はなぜ「灰嬢」を中断したのだろうか。もし鴎外がこの作品を完結させ、作家として一山越えていたら、その後の鴎外の作家的方向は現在見るものとは別のものとなったにちがいない。鴎外はこれを仕上げて、現世に対して抱いている毒を一挙に吐き切ってしまうべきだった。

カタルシスは、一つの感情を徹底的に突き詰めて、その底まで達した時の反転現象として起きる。だが、鴎外は生への厭悪をとことん突き詰めることをしなかった。彼が、現世への「厭悪と畏怖」をいつまでも内面に抱えて行かなければならなかった理由がここにある。

「灰燼」中絶の原因が、作品そのものの内部にひそんでいることも事実だろう。鴎外の短編は非情な将帥のまわりを弱兵の群れが取り巻くという構成を取るが、長編小説の方は、主人公の上昇運動を中心に据えている。常識の狭い世界から、脱常識の広い世界に向かう上昇運動である。鴎外の用語を使うなら、主人公の覚醒(鴎外はこれを「醒覚」と書く)をテーマにしている。(「青年」の小泉純一、「雁」のお玉)

ところが困ったことに山口節蔵は最初から完壁に覚醒してしまっている。現代人を縛っているイリュージョンからすっかり解放されて、科学の根底にも形而上的原則があることを見抜いているような男なのだから、これ以上の前進運動を起こしようがないのだ。

もし運動が起きるとしたら、イリュージョンの世界に戻るという逆行現象が起こるだけである。鴎外の聡明をもってすれば、作品の内包するこれらの問題点を解決することもさほど困難ではなかったはずで、「大塩平八郎」という歴史小説で、鴎外は一度はイリュージョンを捨てた大塩が再びイリュージョンの虜になって身を滅ぼして行く経過を冷静沈着に描いている。

「灰燼」を中絶したのは、医務局長を辞職しないで済んだ鴎外が、自分のおかれている立場を考慮したためだろう。乃木大将自刃のショックもあったであろうし、歴史小説に手をつけてみたら意外に筆がのびたという事情もあるかもしれない。しかし結局彼は自らの「境遇」への配慮から「新聞国」の見取り図を提供した段階で踏み止どまり、途中で鉾をおさめてしまったのである。

森鴎外は「官位」という盾によって身を守らなくては生きていけない弱い人問であった。小倉に左遷された鴎外は、大学教授への転身を考慮したが、このときにも彼は大学に奉職しても、せめて高等官の身分はほしいと言っている。

軍官僚の総帥山県有朋に対する鴎外の態度は、見苦しいと言っていい程だった。鴎外は無位無冠の唯の「ひと」として生きたいという希望も持ちながら、「石見人森林太郎」という立場に戻り得たのは、死んでからだった。皮肉な言い方をすれば、彼は死んで解放されるまでは、陸軍省・宮内省・文部省など「官権威力」の側にいたかったのだ。

鴎外が「官権威力」から離れられなかったことは、大正5年陸軍省を辞してから僅か一年半で帝室博物館総長に返り咲いたことでも分かる。これは退役後、書斎で暮らすようになってから、体調がすぐれなくなったためと説明されている。だが、この弁明をあまり信用しない方がよいだろう。彼が貴族院議員になりたかったことは確実であるし、爵位だってほしかったにちがいないのだ。

だが、それは名誉欲や権力欲からではなかった。弱い自分を守るためなのである。こう考えてくると、「本家分家」に記されている鴎外の生き方への疑問も自然に解けてくる。「冷眼に世間を視る」という態度と「折りもあったら立身出世をしようという志」は、本来矛盾する筈である。冷然と世間を見下しておいて、世間的出世を求めるなど、滑稽というほかはない。しかし立身出世が身を守る防御用の盾を意味するなら、これもやむを得ないことだったかもしれない。

鴎外は身を守る装置・システムを内外両面にわたって構築し続けたために、「思量快」と「存在不快」の対立という内面構造をそのまま持ち越してしまった。自分を守るのと一緒に、内部矛盾も守り抜くことになったのである。

現世厭悪の念は死ぬまで癒えることがなかったばかりか、盲腸を手術しないで氷で冷やすようなことを続けたために、症状は目に見えないところで着実に悪化していったのだ。

鴎外の生涯は、破綻なき生涯であった。大小さまざまの危機を天性の聡明な頭脳によって回避し、自己と周囲との関係を絶えず修復しながら大団円に達した生涯であった。彼は「捨てる覚悟」を胸に置いて生きることを基本方針としていた。だが、順調に昇進を続けた彼は、ついにこの覚悟を実行に移す機会がなかった。あまり巧く行き過ぎて、捨てるべきものを捨てることさえできなくなってしまったのである。

この結果、彼は幼少期以来の痼疾を増悪させ、「永遠の不平家」(「妄想」)として多量の毒を飲み込んだまま生涯を閉じることになる。鴎外の生涯を眺めた後で、「狩野亨吉の生涯」(青江舜二郎)という本を読むと、鴎外と狩野亨吉が写真のネガとポジの関係にあるように思われて来る。安藤昌益の発掘者であり、夏目漱石の友人として知られている狩野亨吉は、森鴎外の陰画のような人間だった。

二人の経歴と才能には、驚くほどの共通点がある。ほぼ同時期に生まれた彼らは(鴎外の方が三才年長)、父が単身赴任の形で東京に出たために、鴎外は10才まで狩野亨吉は12才までそれぞれ故郷に残って母に育てられている。

一家転住で東京に移った二人が、貸本屋の本を濫読しながら少年期を過ごし、やがて語学の力をのばして行った点もよく似ている。鴎外はドイツ語だったが、狩野は英語とフランス語に長じていた。大学時代の狩野亨吉は、日本語で講義される内容も英語で筆記していたという。英語を自国語のように使いこなしていた彼には、そうする方が楽だったのである。

両名の心性の相似は、彼らの好んだ学問領域にも現れている。鴎外は、史伝物執筆を機に考証学にのめり込み、自分の体質に最も合った学問が考証学であることを知った。狩野亨吉の専門も江戸時代の思想家の発掘、批判だった。二人が、江戸時代の儒者や思想家の著書をひもとくことを無上の楽しみにしていたことは、彼らが語学の達人で、欧米の学芸に通じていただけに興味が深い。外国語に堪能なインテリが、余暇に漢籍を愛読する事例は間々見かけることである。

大学に入学するまでの二人の足跡は瓜二つといっていい位に似ている。が、この後、彼らは対照的な人生を歩むのである。鴎外は陽のコースを歩み、狩野は陰のコースを選ぶのだ。

狩野亨吉は陰のコースを歩んだが、これは実は鴎外が心ひそかに望んでいて果たせなかった生き方だった。鴎外は大学の医学部を卒業した後、文科大学に再入学したいという希望を持っていた。狩野亨吉の方は、大学の理学部を卒業してから、躊躇無く文科大学の哲学科に再入学している。

鴎外は大学卒業後、隠棲して読書三昧の生活を送りたかったと告白している。けれど、彼は、それは理想でしかないと諦めて軍医になった。

ところが狩野亨吉は、哲学科を卒業して就職するまでの間に、前後二年聞、勉強に専念する期間を持ち、第四高等学校教授になったのもつかの間、二年でこれを辞職して四年問に及ぶ浪人生活に入っている。彼は就職を勧める友人の言葉に、「金のある間は遊んでいる」と淡々と語っている。

そして彼は、京大文科大学長を44才で退官してから78才で死ぬまで、市井の隠者として生きるのである。狩野亨吉は生涯独身を続けたが、これも鴎外が果たせなかった夢の一つだった。

二人は、実人生のもたらす刺激を眩し過ぎると感じる繊細さを隠し持っていた。これは世俗社会にあっては「弱さ」として受け取られる。この弱さを防衛するために鴎外は自己を「特化」して高級官僚になったが、狩野亨吉は弱さに徹して市井に身を隠したのである。

鴎外を特色ずける「思量」も、狩野亨吉を特色ずける「鑑定」も、このような内面的な資質抜きでは考えられない。鴎外は学問と芸術の間に質的な差別を設けていない。鴎外の思量は、あらゆる知的造作物を自らのための素材、ないし玩具と見る融通無碍なものだった(「妄想」に「どんなに巧みに組み立てた形而上学でも、一編の叙情詩に等しいものだと言ふことを知った」という一節がある)。

彼の思量は自由にひろがって、世界各地の文化特性を検証する文化人類学的領域(あるいは比較文化史的方向)に及び、そこから再び収斂して日本に帰るという運動を繰り返した。地球を股にかけて移り動いた鴎外の思量の跡が「人種哲学梗概」「黄禍論梗概」「仮名遣意見」「当流比較言語学」「礼儀小言」などに結実している。

一つのテーマについて彼なりに納得が行くと、思量はそこから離れて次に移る。。鴎外の思量は、彼がいみじくも言っているようにムク鳥の行動に似ていて、けっして一点に膠着することがなかった。新しいものへの好奇の念を動因として絶えずあちこちに移り動くのである。

要するにそれは、定形を持たない平面的な思考で、非体系的・無中心的・遠心的に働く思考だった。

彼が子供達に示した驚嘆すべき愛情、あるいは崖上から眺めるありふれた光景に対する愛、身辺の片々たる書籍に向けた愛など、すべては思量に裏打ちされた愛であった。彼の思量は、これらの愛を内に含みながら、興味の対象を求めて無拘束に移り動いた。ニヒリズムの匂いがするほど自由気ままに、移り動いたのである。ここが、彼と二宮尊徳らと違うところだった。

狩野亨吉は鴎外とは違っていた。彼は、科学者の「何事をも拒否せず、厳密に探求に従事する態度」は心の冷たさを示すのではなくて、温かな愛の心を示しているという。彼の思考は、この立場から、一定の方向を志向し続けたのだ。

彼は「科学はあらゆる事物を相対的なりと見る所に妥協の精神を包含し、個々の事物をそれぞれ必然的なりと見る所に自他共存の雅量を発露するのであるから、これ程公平穏当なる見方をする学問はない」と言っいる。狩野亨吉は、科学を支えているのは愛だと言っているのである。

狩野亨吉が科学に特有なものとしてあげる「妥協の精神」「自他共存の雅量」「公平穏当なる見方」は、ヒューマンな精神に一致している。科学者は、本来ヒューマニストなのであり、人道主義者にならざるを得ないのである。

私は前々から漠然と森鴎外の人生を失敗だと感じていたが、狩野亨吉と比較することで、この印象がいよいよ強くなる。退官後の狩野亨吉の生活は安泰とはいえず、弟子のヤスリ会社に関係して莫大な借財を負うなどして経済的には苦難続きだった。

見兼ねた友人達が彼のために東北大総長・東大総長・皇太子侍講などのポストを次々に用意するが、狩野亨吉はそれらを皆断ってしまう。性に合わぬ役職につく位なら、貧乏暮らしをしていた方がよかったのである。

厭なことや面倒なことを徹底して避け、好きなことだけをしながら安藤昌益・志筑忠雄・本多利明の発掘という大きな業績を残したのだから、狩野亨吉の生涯は成功といってよかった。

生涯独身だった彼は「自家発電」(オナニーのこと)の愛好者で、その前戯としてもっぱら春画を画いていた。しかし亨吉の場合、これらの行動には陰湿な感じがさらさらない。彼は日記に、オナニーの用具として昆布などを使用したことを記し、その使用感を「もっとも有力近来稀に見る所なり」などと記入している。

性欲は万人が具有するものであり、その充足法も各人各様である、おのれの性生活を隠したり恥じたりする必要は毛頭ないと彼は考えていたのだ。彼の言葉をかりれば「不自然亦自然」なのである。

好きなことだけして一生を送った狩野亨吉とは違って、鴎外は好きでもないことに絶えず頭を使わなければならなかった。地位が要求し、職務が命じる問題を思量の対象として取り上げなければならなかったのである。鴎外は他者の要望に応えて頭脳労働を重ねて行くうちに、次第に本来の自分を見失っていくように感じはじめた。

「金毘羅」の主人公は、船の中で「自分の体も此船と同じことで、種々な思想を載せたり卸したり、がたがたと運転しているが、それに何の意義もない」と考える。自分は他人のために知的荷物を運ぶ貨物船のような存在だという感想は、鴎外自身のものと見て間違いはないだろう。

自身を船に警えた7年後に、彼は自己の思量を荷馬車に警えて「空車」という短文を書いている。情感に誘われ、自らの内的必然に導かれて思考する者に、こんな感想が生まれて来る筈はない。

帝室博物館総長兼図書頭となった鴎外は、「帝謚考」を完成し、続いて「元号考」の著述に着手している。同時に彼は、山県有朋の知的ブレーンとして、持てる力のすべてを投入して政治綱領の作成に当たっている。大正デモクラシー期の政界で、日に日に孤立の色を深めて行く山県をサボートするために、彼は内外の文献を渉猟して山県政治の綱領を考えてやっているのだ。

「帝謚考」以下の著述にしろ、綱領立案にしろ、現代の視点からすると瓦礫の山を築くような空しい作業であった。こんなことに鴎外晩年の思量が浪費されたかと思うと、やり場のないような怒りがこみ上げて来る。

晩年の鴎外は、深夜独りになって涙を流すような深い悲哀の中で生きていた。

中夜兀然坐

無言空涕洟

丈夫志気事

児女安得知

これは渋川驍の鴎外論に引用されている晩年の漢詩である(全集には採録されていない)。この中の「児女」は妻子を意味するものではあるまい。当時流行の白樺派の文学や漱石門下の作家たちをさしている。鴎外は大正の文学を児女の文学と見ていたのだ。「児女」を拡大解釈して大正デモクランーに心酔する青年男女とすることも可能である。

注目すべき点は、それまでの将帥と弱兵という対立構造にかわって、ここには丈夫と児女という構図が現れて来ていることである。志気ある丈夫と志気なき児女。「冷顔鉄面」の将帥が、深夜一人涙する丈夫へと変化しているところに歳月の推移と鴎外の悲哀の深まりが感じられる。

だが、鴎外の現世に対する対抗的な構えは少しも変わっていない。そして最後にやってくるのが、臨終の床で鴎外の残した有名な遺言である。ここで鴎外は「官権威力」への対抗の姿勢をはっきりと打ち出している。現世への強烈な厭悪の感情は表出の場を求めてやまず、いまわの際になって、あれ程までに激しい語気となってほとばしり出るのである。

比楡を用いて言えば、森鴎外はホバークラフトのような人間だった。ホバークラフトは下方に空気を吹き付けて浮上し、地表すれすれの高さでどこへでも移動する。鴎外は現世への愛と興味を抱きながら、現世への厭悪の念から着地することができなかった。ホバークラフトに働く重力に相当するのが現世への愛であり、重力に逆らう空気噴出に当たるのが現世への厭悪の念なのだ。

愛と一体となっている「思量」は現世への着地を欲していたが、「存在不快」が着地することを拒み、かくて鴎外は地表すれすれのところを宙に浮いたまま右に左に動き回るしかなかったのである。

続く