漱石と鴎外 以下少し長くなるけれども、夏目漱石と比較することで鴎外の特質を考察することにしたい。
最初にこの二人の文豪が、弟子たちからどのように見られていたかを見てみよう。鴎外と漱石の両者に師事したのは、芥川龍之介だったから、まず彼の見方から紹介する。
芥川龍之介は「あの頃の自分の事」の中で、漱石が「人格的なマグネテイズム」とでもいうべきものを発散していたと語っている。漱石の影響下に入ると、自分の精神的自由を失いそうになる、そんな危険なばかりの魅力を彼は放射していたというのだ。これが誇張でなかったことは、江口渙の「漱石山房夜話」を読めば一目瞭然である(江口の父は、鴎外と同窓で鴎外と同時期に陸軍に入り、師団軍医部長になっている。江口渙は作家として立つにあたって、父と同僚だった鴎外のもとに赴かず、漱石の門下になっている)
江口渙は東京帝大の学生だった頃、はじめて漱石に会った時の印象を次のように書いている。
「みんなはとぎれとぎれに話をする。先生はわずかにそれに受け答をされる。私はだまって先生の顔を見つめる。先生の顔はじっにいい顔である。大きな額と高い鼻と光のすんだ眼とが、そのりんかくのいい顔を、さらによりよく、よりノーブルにしている。
ことに、ときどき、額をそらせ眉をあげて電灯をあおぐときの、獅子のような眼差しは、何ともいえないほどの、つよい、とおとい偉(おお)きなものを、私の心に焼ぎつけた。
そして、いつのまにか私はすいつけられるように先生の眼ばかり見つめていた(中略)沈黙がちであった先生が、ときどき、ふと額をそらせ眉をあげて電灯の光をあおぐたびに、その獅子のように輝く眼差しの奥から、大きな心の世界が、向き合った私に見えたような気がしたのである。そしてそのたびごとに、私の心はつよい圧力をうけて異常にふるえた。
『そうだ、いましも私の眼の前にいるのは、芸術家とか学者とかいうような個個のものを超越した一個の偉大なる人なのだ。ほんとうのいのちをつかんでいる人なのだ。ほんとうの心の世界にすんでいる人なのだ。』私の心は私にこうささやくのであった」
江口渙はこの文中で漱石を獅子にたとえている。芥川も漱石を獅子に喩えたことがある。若い崇拝者達の目に、漱石はこの世ならぬ力を秘めた巨人と映ったのである。
次は再び芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」所載の「夏目先生」から引用する。漱石と来客が対談している部屋に同席していたら、漱石が芥川に「葉巻を取ってくれ」と頼んだのだ。だが、芥川には、葉巻が何処にあるか分からなかった。
「僕はやむを得ず『どこにありますか?』と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)顎を右へ振った。僕はおづおづ右を眺め、やっと客間の隅の机の上に葉巻の箱を発見した。
(中略)先生は枯淡に住したかったかも知れない.実際又多少は住してゐたであらう。が、僕の知ってゐる晩年さへ、決して文人などと云ふものではなかった。まして「明暗」以前にはもっと猛烈だったのに違ひない。僕は先生のことを考へる度に老辣無双の感を新たにしてゐる。
が、一度身の上の相談を持ちこんだ時、先生は胃の具合も善かったと見え、かう僕に話しかけた。
『何も君に忠告するんぢやないよ。唯僕が君の位置に立ってゐるとすればだね。……』僕は実はこの時には先生に顎を振られた時よりも遙かに参らずにはゐられなかった」
これらの記事を読んで私達が感じるのは、漱石の感情圧の高さである。酸素ボンベの中に詰め込まれた高圧の気体のように、漱石の内部には強烈な感情が圧搾・封入されているという印象を受けるのだ。
漱石の写真を見る時にも同じ印象を受ける。「新潮日本文学アルバム」の中の「大正3年12月『硝子戸の中』執筆の頃」と題されている写真を見ると、漱石は書斎の机に両肘をついた姿勢でカメラを直視している。その漱石のギラギラ光る目に尋常なレベルを越えた過剰なものが感じられるのだ。
野上弥生子は、漱石から「変な執念深さ」という印象を受けたと語っている。その感想も、芥川龍之介の「老辣無双」という批評も、すべて漱石における感情圧の高さに関係している。
しかし漱石の特徴は、その感情の烈日のような激しさにあるのではなく、感情が猛烈なままでおのずと均衡を得ているところにあるのだ。彼が癇癖をつのらせて弟子達を恐れさせ、ささいな問題に不必要にこだわって人を恐れさせることは多かった。
けれども長い目で眺めてみると、紆余曲折をへながらも漱石のしたことは結局バランスを保ち、その感情は正しい方向を目指しているのである。芥川に相談をもちかけられた時の漱石は、相手の気持を傷つけまいとして細心の注意を払っている。この優しい気配りも並のレベルを超えており、だから芥川も「参った」と思ったのである。
激しさと優しさ、青年と気分を同じくする稚気と人生の先達としての老婆心、これら相反するものを兼ね備えた漱石の豊かな内的エネルギーが弟子達の心を捕らえ、「獅子」のように偉大な存在と思わせたのだ。「人格的なマグネテイズム」の根底にあるのは、相反するものを両立させた強烈な精神力なのである。
「文芸的な、余りに文芸的な」には森鴎外の印象についても書いてある。芥川龍之介は、鴎外の短歌・俳句と漱石の漢詩を比較して、鴎外のものは「何か微妙なもの」を欠いているが、漱石のものにはそれがあると言っている。その後で彼は、鴎外が書斎の隅で北条霞亭の手紙を年代順に並べる場面を持ち出している。
この時鴎外は、芥川に古手紙を示しながら江戸時代の手紙は年代を記入してないので、他の研究者はこれを推定するのに困惑しているが、自分は霞亭の手紙数十本をすべて年代順に並べることができると語っている。
芥川は「僕はその時の先生の昂然としていたのを覚えている。こう言う先生に瞠目するものは必ずしも僕一人には限らないであろう」と一応は感嘆の声をあげる。しかし彼は最後に婉曲な言い回しで、文学者に必要なものは古今を貫く学識ではなくて、「微妙なもの」を僅かでも持っていることではないかという意味のコメントを付け加えている。明らかに彼は、鴎外に対し違和と反発を感じているのだ。
晩年の鴎外は、帝室博物館の館長室に訪ねてきた小島政二郎に向かって、静かな口調で自分の余命はいくばくもないと告げたそうである。小島は思わず息を呑んだのだが、鴎外は若い文士達によくこういうハッタリとも取られかねない思い切ったことを口にする癖がある。
鴎外は自身の人間的実力を見せ付けて、青年作家と自分との間に一定の距離を置こうとする。鴎外が求めているのは彼らから「千駄木のメートル」として畏敬されることであって、彼らと一体化することではなかった。漱石は弟子の前で、自分のことを「金やん」と呼んでおどけてみたり、彼らが近くの商店の美人内儀の噂をしていると、それに加わって内儀の動静を手紙で彼らに報告したりしている。
自分のもとに集まってくる文学青年たちに鴎外が見せるのは、たぐい稀な学殖の所有者としての一面だけだった。だから、彼らは鴎外に敬意を払いつつも、親しみを感じることはなかった。漱石のもとに集まる若者たちは、彼を師父として仰ぎ、敬意と共に肉親に寄せるような親身な愛情を寄せたものだった。
自我の傷付くことを恐れる鴎外としては、一種の安全保障戦略として若者たちとの間に距離を置き、おのれの学殖と気概だけを顕示して見せたのである。青年と同じ平面にたてば、彼らが押れ親しんできて、詰まらぬトラブルに巻き込まれることにもなりかねない。
鴎外が意識的に「門下生」との間に距離を置いたと言っても、鴎外の大を損なうことにはならないだろう。アメーバ以下の生命体は、同化エネルギーと異化エネルギーを使い分けて生きている。接近してくるものを飲み込んで同化するか、同化できないものを吐き出して異化するか、反応は二つのうち一つしかないのである。
鴎外は現世に対してまず異化エネルギーを働かせる対人恐怖症タイプの人間だった。彼は現世に強い興味を抱いていたが、同時にそれ以上に強い厭悪感も持っていた。だから彼は実人生と交渉することを出来るだけ避け、ホバークラフトのように、接地面との間に間隙を置いてなめらかに滑走したのである。
これは彼が森家の長男として子供の頃から特別扱いされ、母の峰子が代わって世事を処理してくれたことが影響しているし、留学してショペンハウェルやハルトマンを耽読し、ドイツ系の厭世哲学をたっぷり吸収して来たことも関係している。
ところが漱石の方は同化エネルギー優位の対人依存型の人間だった。彼はどこに行っても孤独だったが、鴎外式にレジグナチオンというようなことを口にしたことは一度もない。飽くまでも他者と同化しようとして、飢えたように「温かい人間の血」を求めたのだ。漱石が鴎外とは逆のコースを選んだのは、やはり二人の育ちと教養の差から来ている。
漱石のジグザグ路線
漱石は不幸な幼年期を過ごしたために、継続的に温かい目で自分を見守ってくれる肉親の存在を知らなかった。彼は長い間、愛情飢餓の状態に置かれていた。長じてイギリス経験主義の哲学に親しんだ漱石は、人は社会の中で経験を積むことによって賢明になるという人間観を身につけた。
こうして漱石は他者と同化し、他者とのナマの交渉を通じて知と愛を体得していく行き方を選ぶことになる。鴎外にとって平均値的人間とは、救い難い愚昧な生き物であり、避けて通るに越した事はない「敵」のような存在だった。しかし漱石は「ただの人」「尋常なる人士」を自分の作品の読者として想定している(「彼岸過迄」緒言)。漱石は、彼らが自分の作品を読んで呉れることを衷心幸福だと思っていたのである。
だからと言って、漱石に現世嫌悪の傾向が無かったわけではない。彼はある意味で、鴎外以上に臆病で、優柔不断な男だった。「三四郎」以後の漱石作品に登場する男性は、いずれもはっきりしない男ばかりで、漱石研究家の間に「恐れる男と恐れない女」という合言葉が生まれている程だが、これも女々しい漱石の性格を反映した結果なのだ。大学予備門時代の漱石が、授業中の教室で発言できないような気の弱さを持っていたことは本人自身が認めている。
だが、漱石の優柔不断は、その内実は鴎外と同じではない。「明治28年5月正岡子規宛の手紙より」と付記されている漱石の漢詩の中に、次の一節がある。
快刀切断両頭蛇【快刀切断す両頭の蛇】
不頭人間笑語講【顧りみず人間笑語講〈かまびすし〉きを】
全集巻末の注を参照すると、冒頭の一行は中国の故事に基いており、「双頭の蛇を切断する」とは世人のために災いを絶つという意味らしい。しかし明治28年5月といえば、漱石が都落ちして松山中学校に赴任してから一カ月後のことである。大学卒業後、精神的危機に陥り二年余り苦しみ抜いた漱石が、死中に活を求めるような想いで四国の田舎町に落ちのびた直後に作ったのがこの漢詩なのだ。漱石は「世道人心」を救うためなどではなく、自己救済のために蛇を切断したかったのである。
漱石は愛弟子の小宮豊隆に「自分は何もかも捨てる気で松山に行ったのだ」と語ったという。東京が嫌になったのなら山口高等学校などの就職口もあったのに、彼はことさら不利な道を選んで松山中学校に赴いた。彼はそういう自分の行動を頭に置いて、二行目に人々の嘲笑を「顧みず」という一行を配したのだ。
こう見て来ると、「両頭の蛇」とは、分裂している二つの心を意味していると解するのが正しいだろう。分裂していた心の一方を切り捨てて、すっきりした気持ちでこの地にやってきたと彼は言っているのだ。彼自身、自分が優柔不断である理由を、分裂している心にあると見ていたのである。
漱石における双頭の蛇は、作品の中に多様な形を取ってあらわれている。彼の作品は自らの内部の双頭の蛇を、紙上で戦わせることによって成り立っているといってもいい程である。「猫」における苦沙弥先生と迷亭、「坊ちゃん」における坊ちゃんと赤シャツも、漱石の内部にあった両面を二つに切り分けて独立させたものだ。
「猫」の苦沙弥先生は鬱状態にある漱石をあらわし、迷亭は躁状態つまり「酩酊」状態にある漱石をあらわしている。「坊ちゃん」の赤シャツも漱石自身の戯画であって、彼は自分の内部にある気障で鼻もちならぬ部分を赤シャツとして外に取り出してみせたのだ。赤シャツは漱石の世俗的部分、坊ちゃんは漱石の反俗的部分を代表している。
「双頭の蛇」という言葉にふさわしい対照を示す作中人物は「心」の「K」と「先生」である。だが、この作品を発表する頃になると、漱石は双頭の蛇を切断しようとはしていない。双頭の蛇を一個の人間を支える相互補完的な二つの要素と考え、両者を共存させる道を探るようになっている。
「心」における、「K」と「先生」は、本来単一の人格内に共存している二要素なのだ。この二つが抱合して一個の人格が成立するのである。それがそれぞれ別人格として分割され、別個の人生を歩むことになったから痛ましい悲劇が発生した。「K」と「先生」が二人共自決して果てたのも、もとをたどれば分割された片面で生きる不全感に起因していたのだ。
「K」は「あれか、これか」のキルケゴール的人間として設定されている。絶対的な道を希求するあまり、その他のすべての人間的欲求を禁圧し、恩義も約束も肉親間の情愛もことごとく踏みにじって顧みない青年なのだ。彼はユガ派の苦行僧のように、肉体を虐待すれば精神は逆比例的に輝きを増して来るはずだと考えている。しかし精神を支えるのは肉体なのだから、過度に肉体をいじめれば精神自体も衰弱してしまう。
「K」は事件が起こる以前に既に「燃え尽き」症候群に取りつかれており、早晩自殺する人間だったのである。彼は自らの道念に固執して、もうひとつの自己に敵対し、その敵対していた自己から復讐されて死を選んだ。
「先生」の方も、事件の起こる以前から自殺に走る構造的な必然の中におかれていた。彼は「人間を愛せずにはいられぬ人」だったから、お嬢さんへの愛を自覚すると彼女を獲得するために走り出さざるをえなかった。そしてこの結果彼は自らの内部にある道念に敵対することになり、その復讐を受けて自殺するのである。
約言すると、「K」はおのが内なる「先生」的部分を無視し、「先生」の方は内なる「K」的部分を無視したために、二人とも引き裂かれた樹が衰弱して枯死するように死んでいったのである。作者の漱石は、その点を中心的な主題にしてこの作品を書いたのだった。
「心」に関する読者の誤解の最も大きなものは、作者漱石が「先生」及び「K」の「倫理的な」生き方を肯定し、登場人物と完全に一体化しながら作品を書いていると想像することではないだろうか。
読者をして「先生」の自殺に至る筋道を全面的に受け入れさせ、「先生」に対して熱い愛惜の涙を流させた漱石自身は、決して「先生」を是認してはいないのである。
漱石は、つくづく考えて、「双頭の蛇」の一方を切り捨てて内面を一元化させることの不可能を悟り、矛盾し対立するものを抱えたまま生き抜こうと決心したのだ。禅書を開いて「一切放下」の心術を練り、双頭の蛇を快刀で切断することを何度も夢見た漱石ではあるけれども、彼は結局与えられた自己の資質のすべてを生かしきることを心に決めたのである。
彼はそういう結論が作りあげた複合的多面的な人格をもって自宅に集まってくる弟子達に対し、弟子達はそこに単純な彼らの及び難い漱石の大きさを見て心服したのだ。漱石に巨人的なものがあったとすれば、それは内なる矛盾を持ちこたえて行った持続力に外ならない。
矛盾を抱えながら、漱石がそれを何とかして両立させ、その結果を理論化しようとしたことは漱石全集中の評論編、講演筆記編のいたるところにみとめられる。ここでは明治43年夏、胃腸病院入院中の「断片」の中から彼の模索の跡を探ることにする(原文は英語混じりのメモだが、すべて和文に改めた)
○アル主義ヲ奉スルハ可。他ノ主義ヲ排スルハ「ライフ」ノ多様性ヲ一様化セントスル知識欲カ、盲目ナル情熱(「若さ」)ニモトズク。そう片付ねば生きてゐられぬのは単調な「ライフ」デナケレバ送レヌト言フ事ナリ。片輪トモ言イ得ベシ。「ライフ」ハ行為ニテ確定ナリ思想(感情)二於イテ不確定ナリ。不確定ナルハ茫漠ナル故ニアラズ。アラユル選択ヲ具備スル故ナリ
○「ハーモニー」。「ライフ」ノ調和トハアラユル要素ガ援ケ合フテ「一目的」ニリードスルノ意味ニアラズ。敵対要素、排除部分ニ適当ナ場ヲ与エテ価値ノ序列ヲツケル事ナリ。ダカラ結果ハ合力ナリ。加算ニアラズ。二重性ニテモ三重性ニテモ差支エナシ。諸要素ニバランスガ取レタトキハ不活発デ差支ナシ
この「断片」の中で、漱石は「心」のKや先生のように一元的原理に基づいて生きることを否定している。それでは「ライフ」が痩せたものになり、奇形化してしまうというのだ。
異質なものを抱え込んで生きることは、それらを溶け合わせて膨らませることではない。相反する要素にも存在の場を与えてやり、ことに臨んで敵対要素がその固有な形を維持したまま、力を合わせるようにするのである。砂糖と塩を「合力」させることによって甘みを一層増させるように。
これとほとんど同じことを、鴎外が「混沌」という講演の中で言っているので、比較のために引用してみよう。鴎外はヨーロッパに留学した学生達のうちで、最初から内面が整然とまとまっていて物事をてきぱき処理できる秀才タイプの人間が成功しないで、当初は椋鳥のように「非常にぼんやりしている」者が後になってかえって大きく伸びているという事実をあげてから、次ぎのように説いている。
「整理は厭でもします。整理はするけれども混沌たるものは永く存在する。奇麗さっぱりと整理せられる筈のものでない。思想とか主義とか何とか言うものが固まるのは物事を一方に整理したのである。第一の整理法の外に第二の整理法がある。第一の法ばかりを好いと思っているのは間違っている」
自己も自己を包む外部世界も一個の生命的全体であって、外見上は混沌としている。この「混沌たるもの」を強いて理論化し体系化しようとすると、自分自身を枯渇させることになる。われわれは内なる「混沌たるもの」を整理する代わりに、その活用を考えるべきである。
「混沌たるもの」が有効な訳は、漱石によれば「アラユル選択ヲ具備スル」からであるが、これを鴎外は「幾ら混沌とした物でも、それが動く段になると刀も出れば槍も出れば何でも出て来る」というふうに表現する。漱石も鴎外も、自身の可能性を殺す「主義」やイデオロギーに対して否定的な見方をしていたのである。
にも拘わらず、「鴎外は聡明至極で筆致も明快であったが、心の動きが単純であった。漱石は複雑である」(正宗白鳥「作家論」)というような批評が生まれてくるのは、鴎外が作品を明晰なものにする必要上、主要な登場人物を内部矛盾のない「情操不動」型人間に仕立て上げ、漱石はその反対に「敵対要素」を一杯抱え込んだ結果として「不活発」にしか動けない人間を長編小説の主役にしたためである。
鴎外はおのれの心の二重性三重性を感じながら、作品では敢えて矛盾を乗り越えた将帥型強者を描いた。漱石は鴎外が避けて通った主題に取り組み、自己の原質のすべてを生かし切ろうとして悩み傷つく人間を描いたのだ。
「心」を書いた時の漱石は、矛盾するものを両立させて生きるのが人間本来の在り方だという判断に立って、イプセン風の単線型路線の挫折するプロセスを描いた。「心」という作品が一種暗い輝きを放って若者達を魅了してきたのは、「K」と「先生」が片面的であるが故に、ことさら純粋に映ったからであり、そして片面で生きる不具性がそのカタストロフィーにリアリティを与えたからに外ならない。
ところで、漱石が相矛盾するものを最後まで持ちこたえていったとすると、漱石の内面には中心点が二つあったということ、すなわち彼の人格は二重中心の楕円形のごときものだったということを意味しはしないだろうか。仮にその通りだったとして、それではその二つの中心とは何だろうか。
これを「心」における「K」的なものと「先生」的なもの、つまり求道的なものと愛情志向的なものというふうに解釈するのは短絡的に過ぎるだろう。むしろ漱石がしばしば用いるハートとヘッドの対立という枠組みを援用した方がいいかもしれない。
二つの中心点は、漱石に見られる多面的な二律背反傾向を集約するようなものでなければならない。そう考えると、ハートとヘッドの対立というような組み合わせも尚不十分だということになる。
漱石には、森鴎外的高所志向と狩野亨吉的低所志向が共存していた。社会的なキャリアという点で、鴎外は石段を上るように着実に上昇して行ったが、漱石の行程は上昇志向と下降志向が交互にあらわれるジグザグの線を描いている。
このジグザグ型人生は、すでに彼の中学時代から始まる。漱石は二年分を飛び級して小学校を卒業した後、普通学を主として教える正則中学に入学したが、やがてこれでは帝国大学に入学できないと気ずいて英語を主とする変則中学に転校する決心を固める。ところが彼は、正則中学を退学しておいて、あろうことか漢学中心の二松学舎に入学して一年間を過ごしてしまうのだ。
そしてようやくその二松学舎を退学してからも、直ぐ変則中学に移らないで、一年半もの間、どこかでぶらぶらしている。漱石の伝記作者を悩ます「空白の期間」「謎の一年半」がはじまるのである。
やがて大学を卒業した漱石は、東京高等師範学校の講師になった。これで、ようやく社会的上昇の緒についたと思ったら、彼は松山中学の教師になってしまう。
洋行問題についても漱石は屈折した反応を示している。友人に向かって松山中学に転じた理由を、金を溜めて洋行するためだと説明したこともあるほどの留学志望を、いざその可能性が濃厚になってくると急に逃げ腰になって洋行を辞退するような口吻をもらし出すのだ。
帝大教授というポストに対する態度にもジグザグ型の反応が見られる。このポストが目睫の間に迫った時、漱石は反転して「新聞屋」になってしまう。一定の方向性をもって進んでいたかに見える漱石の人生行路は、その到達点に届く前に常に断ち切られる。
めざす駅に近ずくやいなや、突如列車から飛び下りてしまう乗客のような振る舞いをするのだ。こういうジグザグ型行動は、彼の社会行動に見られるだけではない。彼の内面的な閲歴を調べると、この特徴は更に顕著になる。
漱石に関するエピソードのうちで、ある意味で私達に最も強烈な印象を与えるものは高浜虚子の語る松山時代のエピソードである。漱石は虚子と松山市内の石手川の堤を歩いている際に、あなたはどんな人間になる積もりかと虚子に問われて、「私は完全な人間になりたい」と答えているのだ。17,8の若者の返答ならいざ知らず、敗残兵のようになって四国に落ち伸びて来た28才にもなる男が、こういう途方もないことを真面目な顔をして語っているのである。
鴎外も晩年、「自彊不急」の中で「完全な人聞」をめざすべきだと書いている。しかしこれは人間一般の究極的な目標という意味で言っているで、漱石のように彼自身の切実な課題として言ったのではなかった。
途方もないという点では、イギリス留学中に思い立った「文学論」の構想にしても同じである。彼は英文学史上の諸作品に対するイギリス人の評価と彼自身のそれとが微妙に食い違っていることにこだわって、文学そのものに対する科学的研究に乗り出した。文学評価の客観的基準を掴もうとしたのだ。だが、そんな基準を確立し、それに基づいて文学書を読むような人間は、この世に一人だってありはしない。
大体、文学の本質を科学的に解明するということ自体、無謀もいいところなのだ。
漱石の設定する内面的課題は、いつでも人間の現実能力を数オクターブも超えた過大なものなのである。漱石の掲げる目標は原理的には到達可能だが、現実的には何人にとっても到達不可能であるような目標なのである。原理的なものへの固着、これが漱石の特徴だ。漱石は「道草」のなかに、自分には「異様の熱塊」があると書いている。「異様の熱塊」の正体は、実に不可能を可能にするために漱石の内部に取り込まれた異常に高潮したエネルギーなのである。
ところがその一方で、漱石は何もしないで寝転んで過ごすという存在仕方を生命の基底からの要求のように渇望している。イギリス留学中、妻にあてた書簡で「日本に帰りての第一の楽しみは(中略)日のあたる縁側に寝ころんで庭でも見る是が願に候」と書いた漱石は、事実よくごろりと横になって昼寝を貪っている。彼は実生活において臥位の姿勢を好んだばかりではない。漱石作品には、いたるところに仰臥し午睡する登場人物が出現するのだ。
蓮見重彦の漱石論は、第一章を「横たわる漱石」という標題にしてこの種の描写を全集から枚挙式に抜き出している。これは結局、「高等遊民」として狩野亨吉のように生きたかった漱石の希求を物語っているにちがいない。漱石は「生きているうちに何か仕遂せる、又仕遂せなければならないと考える男」(「道草」)であると同時に、「仰臥人知唖」「黙然見大空」という漢詩にあるような無為と放心の生活を夢見る男だったのだ。
この両者を組み合わせれば、その内面的な軌跡もまたジグザグ型を形成することになるだろう。一部の精神医が漱石は躁鬱病だったのではないかと想定するのもこのへんの事情を頭に置いてのことなのである。
漱石における二重中心の一方の極が、エネルギーを過度に取り込んで内圧をたかめている「異様の熱塊」だとすれば、反対の極にあるのはこれを冷却緩和して自己を相対化しようとする「平凡尋常の人」(明治43年小宮豊隆宛書簡)たろうとする志向ではなかろうか。
エネルギー操作という点からすると、一方はエネルギーをシフトアップするように働き、他方はシフトダウンさせるように働いくのである。
漱石の内部には、「求道者漱石」と「高等遊民漱石」が同居していたのだ。
鴎外の単一路線
漱石のジグザグ路線に比較すると、鴎外の生涯コースは一本の線のように乱れがない。漱石は最初文学とは無縁の建築家を志しているが、鴎外は物心ついたときから医者を目指し、生涯それで一貫している。
軍医になってからも一本道を歩み続け、時に動揺もあったけれど軍医として最高のポストまで上り詰めた。退官後は帝室博物館長に就任し、帝展の審査員になるなどして、死に至るまで「高級官僚」の立場から、学芸の世界に目を光らせ続けた。
この迷いのない生涯は、「俗に制せられなければ、俗に従うのは悪いことではない」という彼の信条に基づいて、世俗と妥協することで成し遂げられたものだった。彼には隠逸への強い憧れがあり、文学一筋で生きたいという希望もあったが、それらを非現実的な夢として自ら葬り去り、「立身出世コース」を歩み続けたのだ。
俗に生きるためには、次々に押し寄せてくる俗事に個人的感情を切り捨ててつき合って行かなければならない。意に添わぬ儀礼の場にも立ち会わなければならない。
鴎外晩年の日記を調べて、高橋義孝は「宛然点鬼簿の感じが日記の上に漂」っていると書いている。日記を読んでいたら、葬式に列した記事が連続して出てくるので、まるで「死者名簿」を繰るような気がしたというのだ。鴎外が葬式仏教を好まなかったことは「灰燼」を読めば明らかである。彼は死後に僧侶によって戒名をつけられることを拒否して、墓石には「森林太郎墓」以外の文字を彫りつけてはならぬと遺言している。その彼が、まるでルーティンワークであるかのように、他人の葬儀に列席しているのである。
正月三カ日の鴎外日記には、毎年、年賀のため上司の私邸を歴訪する記事が載っている。漱石が寝ころんで屠蘇酒を飲み、訪れてきた高浜虚子の謡に耳を傾けているときに、鴎外は礼装に身を固め上司の屋敷をせっせと巡り歩いていたのだ。
明治政府の高官ともなれば、いかに宴席嫌いの鴎外といえども、定期的に宴席に顔を出さなければならない。彼は、宴席に付き物の芸者を「見るのも嫌だ」というくらい嫌っていたし,宴席で無意味な会話を交わすことにも耐え難い苦痛を感じていた。にもかかわらず、列席しなければならない宴会の数は、地位の上昇とともに年を追って増えて行ったのである。
「俗に従う」上で、こうした儀礼的な行事に参加すること以上に大事なのは、世俗的なモラルを尊重する姿勢を世に示すことだった。
鴎外はいろいろな箇所で、自分は一日も欠かさず勤務に精励していることを書きとめる。自分が下僚の持ってくる文書に、ぺたり、ぺたりと印を押す捺印機械になり下がっていると自嘲して見せながら、孜々として働く自分をPRすることを忘れない。
鴎外が、母に孝養を尽くしたことは疑いを入れないだろう。しかし「即興詩人」の序文に、本の活字を大きくしたのは母の老眼を顧慮したためだと書き、「鶏」のなかに「母の手紙丈を将校行李にしまって、外の手紙は引き裂いてしまった」と書いたりするところに、何となく意図的なものを感じるのだ。
母の手紙を大事にしていることを記すのはいい。だが、それを強調するために「ほかの手紙を引き裂いてしまった」とまで書くのは、少しやり過ぎではないかという気がする。漱石は妻から「あなたは何でも世間に反対する拗ね者だ」となじられていたが、鴎外は周囲からアウトサイダーと見られることを警戒し、自分が道徳上の保守派であることを印象づけようと腐心している。
こうした「俗に従う」単一路線は、幼少の頃から母に厳しく躾けられ、成人してからも暗黙裡に母から強要されて身についたものだった。母峰子は男まさりの野心家で、夫を含め家族の全員に鞭を当て続けたが、長男の鴎外には格別に注意を払って処世術を教え込んだのである。
彼女は、食事のたびに、家族全員を相手に、修養に役立つような世上の美談佳話のたぐいを話して聞かせた。彼女は立身出世コースに乗るには、「道徳家」という評判が有効であることを知っていたのである。そして、彼女の考える道徳なるものは、出世のために裏工作に精出すことと矛盾するものではなかった。
峰子は、鴎外が離婚してから母親代わりに孫の於菟の面倒を見ていた。日露戦争が始まった明治37年の峰子日記に、中学生だった於菟の成績を心配した彼女が、学科担任の私宅を片っ端から歴訪する記事が載っている。青木堂から買い求めた菓子を手土産に、教師宅を巡り歩いて校長宅にも立ち寄っている。そして数学担当の教師から、休日に於菟の勉強を見てやろうという約束を取り付けて帰宅するのだ。
この私宅訪問は峰子の得意芸だったらしく、於菟の家庭教師をしていた帝大生から、大学での成績が悪かったと聞くと、その担当教授の私宅に乗り込んで談判してやっている。自宅にくる家庭教師の為にも、裏工作をしてやるのだから、彼女のボス的資質は半端ではなかったのである。
青年期に入った鴎外が、母の行動に批判的になっただろうことは十分想像できる。だから、ドイツ留学から帰国し、家長の地位を母から譲り受けたとき、鴎外は自分の考えで家を切り盛りしようとしている。だが、その結果は惨憺たるものだった。以後、彼は自分が家政の問題に手を出すと、ろくなことにならないと肝に銘じるのである。
聡明な鴎外は、態度を改め、母の敷いてくれた守旧派路線を歩むようになる。現世とつきあっていく以上は、そのルールを尊重して生きるしかないと、彼は悟った。何百年、何千年と続いてきた慣習には、それなりに合理的な根拠があるのだ。
俗に生きるからには、一切の感情的反応を殺して、愚劣だったり、嫌悪感をそそったりする会議や行事に参加しなければならない。一日の生活の過半が、こうした会議や行事に列席することで成り立っているとしたら、それらの席に「当事者」としてではなく「傍観者」として臨むしかない。軍医総監として陸省の枢軸にありながら、鴎外は結局、言葉の正しい意味で当事者ではなかった。文壇でも彼は傍観者であり、母峰子の支配する家庭内でも、彼は傍観者だった。
情感が生み出すもの
中江藤樹らは、暗いトンネルを通過して、明るい世界に出ることができた。トンネルを抜け出る前と後では、彼らの人柄は一変し、彼らは自分を縛り付けていたリゴリズムを捨て去って、人間の自然性を肯定する余裕のある立場に移っている。
再生以後の彼らは、「世界は永遠に途上にあるがゆえに、現在の世界が終着点だ」というように感じている。彼らは、この世界には人知で把握できるような合理的な意味はない、と考えるようになる。
世界はすべてを未解決のままにして先へ進んで行く。人間が世界に向って投げかける問いに対する解答はない。人の企図は常に未遂に終る。世界は巨大な河のように、ただ流れ動いて行くだけである。終末はないのだ。
無意味、無目的な世界の中にあって、人間が感得できるのは、諸力の総合によって生じた川の流れるような「世界作用」「世界運動」だけである。私達のささやかな営為も、この世界作用の一環にほかならないのだ。
この営為のなかには、私達の内面的活動も入っている。情感は世界作用を映し出し、世界作用と一体となって動く。情感において私たちが感じ考える時、世界が私たちにおいて感じ考えているのであり、情感に基づいて私たちが行動する時、世界が私たちを通路として自己を具現しているのだ。
狩野享吉は、先に触れたように科学的方法の特色は非情厳正なところにあるのではなく、その逆のところにあると言っている。科学者の「何事をも拒否せず、厳密に探求に従事する態度」はその心の冷たさを示すのではなくて「寛容」な精神を示しているというのだ。
「科学はあらゆる事物を相対的なりと見る所に妥協の精神を包含し、個々の事物をそれぞれ必然的なりと見る所に自他共存の雅量を発露するのであるから、これ程公平穏当なる見方をする学問はない」と彼は言う。
自然科学の特色は、温い寛容な態度で自然に接するという点にある。自分の気に入らない現象も否定しないで受け入れ、それと虚心にっき合って行くところに学問が成立する。あらゆる存在は世界作用の一環として、何処かに有用なところがあるから現存するのである。だから、科学者は自分の学説に反する厭な存在・現象とも妥協し、それぞれが成り立っている条理を考えてやるのだ。
自然科学は情感に基礎をおく学問なのである。私達は万人共通の情感にうながされて日常の用を足し「開かれた心」で現象を見たり味ったりする。それと同じ心理的基盤から科学は生れ育って来たのだ。
岡潔は、数学とは数を用いて各人が自らの欲する秩序を形成する行為であり、詩人が言葉を用いて詩的世界を構築するのと何等異るところはないと言っている。従って、数学者の数だけの数学が生産されるのだが、岡潔はこれら無数に成立する数学のうちで、後世に残るのは人間性に合致する数学だけだと強調する。
「人間性に合致する数学」、すなわち情感に基礎を置いた数学が残るのである。
情感は普遍的な学問として結実するが、そのほかに、もっとマイナーな、もっと私的な、実生活上のシステムをも生み出す。私達は世界というハードウェアを利用するためのソフトウェアを、それぞれに開発している。各自が各自に与えられた時処において自然に身につけたソフトウェア・ノーハウを「芸」と呼ぶならば、これも情感がもたらしたものなのだ。
森鴎外の「安井夫人」には、若き日の安井息軒が開発した実生活上の新技術について書いてある。安井息軒は21才の春、父から金子10両を貰って田舎を出発し、大坂藩邸の長屋に落付いた。そしてここで自炊しながら勉強したが、倹約のために大豆を塩と醤油で煮て副食にすることにした。
これは手間もかからず保存もきき、副食としては恰好のものだったから、近隣の面々もこれを真似して、この煮豆を彼の名前を取って「仲平豆」と呼ぶようになった。
同じ長屋に住む者が、あれでは身体が持つまいと心配して栄養の為に酒を飲むことを勧めると、素直に聞き入れた息軒は毎日一合ずつ酒を買い、夜勉強する前にそれを徳利に入れ、コヨリで縛って行燈の火の上に吊しておいた。深夜になって、あたりが寝静まった頃に、燈火で尻をあぶられた徳利の口からほうほうと蒸気が立ちのぼってくる。すると彼は本を読むのをやめ、徳利の酒をうまそうに飲んで寝るのであった。
こうした実生活処理上の独創力と学問上の独創力とは無縁ではない。個性的な業績を残した学者・芸術家の私生活は一見平凡だが、細部についてみると、随所に工夫の跡が見られ「芸」や「術」を含んだ独創的な生活システムになっている。
宮沢賢治は自炊していた頃、飯びっの中味が腐らないように紐で縛って井戸の中に吊している。子供の頃の中江兆民も井戸の効用に着目し、暑さを凌ぐ方法としてツルベに掴まってって井戸の中に入るという独創力を示した。一家をなしてからの兆民の避暑法は、子供をタライに乗せて池の中を押し廻るというものであった。
キュリー夫人はパリで苦学中、実質本位の生活をした。彼女の部屋には最少限必要なものしか置いてなく、ここを訪れた婚約者のピエール・キュリーはそのあまりの貧しさに胸が痛くなったという。しかし、この部屋には路ばたから摘んで来た雑草の花が、コップの水にさしてあった。それがピエールの目に泌みるほど新鮮に映った。愛する婚約者を迎えるに当って、未来の大科学者は、実験に当って示したと同じ巧まざる創造力を発揮したのだ。
情感と感情
生命体がこの世にあるのは、自己愛があるからだ。エゴイズムというのは、生命機能の不可欠な一部で、これを奪い取られたら種として滅亡するしかない。同じように、生命機能の不可欠の一部になっているのが「全体愛」であって、生命体は自分が置かれている世界の総体を無条件で受け入れている。全体への愛を生まれながらに持っている。だから、すべての生物は何時までも生きていたいと思うのだ。
そして、自己愛は感情から生まれ、全体愛は情感から生まれるのである。
情感は、この広大な世界に対して生起する。感情は、世界の一部を生存空間として切り取って、この生存空間内で生起する。
感情は接近してくるものを同化するか、異化するかの二者択一の反応をするが、情感は感情が異化したものを含めて、存在するもの一切を肯定する。ヒューマニズムは、こうした情感の上に成立する。情感は「科学的精神」の母胎であると同時に、すべての「民主的思想」「人道主義思想」の母胎になっているのである。
情感は、感情的着彩を施されない事実そのままの世界を見る。だが、情感に配当されているエネルギーは待機電力並の量しかなく、情感の動きも微弱で定めなく移り動く。だから、情感の世界は、科学や哲学の母胎であるのに、これを意識面に取り込むのは容易ではない。
情感の世界をとらえるには、感情野にあるエネルギーを、挙げて情感野を照らし出すために投入しなければならない。感情的エネルギーを自我防衛のためために使わないで、次元を異にする他の領域のために使うのである。つまり、おのれを無にして事実唯真の世界を見るためにエネルギーを使うのだ。
情感がとらえる事実唯真の世界には、主宰者はいない。一切の思い入れを棄て、虚心になって私達を取り巻く世界を直視すれば、この世界内に創造者・主人・オーナーのたぐいは存在しない。いるのはユーザーばかりだ。すべての物、あらゆる生命体は、それぞれ一個のユーザーとして、同等の資格でこの世界の内部にある。
情感の世界は深い奥行きを持っている。動物達が天敵をさえ利用して、過繁殖による種の自滅を防いていることはよく知られている。天敵を利用して間引きをするのだ。人間的是非を超えた世界である。
草食動物はライオンが間近かにいても、相手が満腹して寝転んでいれば平然とその近くで草を喰べているし、逃げる時にも相互の安全距離が保たれているうちはさほど狼狽しない。恐怖すべきは、飢えた敵が安全距離を越えて迫ってくるという状況であって天敵自体ではない。動物には外敵を完全に排除しようという欲求はない。
植物になると、自らを他にわかち与えることによって繁殖している。花は蜜を蜂に与えることによって交配を成就し、果実は欲する者に果肉を贈与することによって種子の拡散をはかっている。生命体にとって本質的に悪であるような他者はないし、常に敵対しなければならぬような状況もない。
生命体は圧力がかかって来た時、これを攻撃と見て押し返えず代りに推力として利用し、凹部にさまたげられれば反対側に廻ってこれを凸部として利用する。老子はこの世界が「神器」であって、この中に「棄物」は何もないという。用の立場から見れば、毒も薬となり、「ファウスト」のメフィストテレスのような悪を欲する存在も次々に善を生み出して行くのだ。
中江藤樹、伊藤仁斎、良寛などは、こうした万物受容の哲学に立って、後半生を生きた。彼らがここまで到達できたのは、自我の内部に凝滞していた感情的エネルギーを、挙げて情感野に振り向けることに成功したからだ。
彼らは、生きる主軸にしていた朱子学や禅学から離れ、それまでの生活を根こそぎ抜き捨てることで、凝滞していたエネルギーを自由エネルギーに転換させることが出来た。この点で、森鴎外の生き方は不徹底だった。鴎外が「悲哀の人」にならざるを得なかった原因がここにある。
中江藤樹らに比べたら、夏目漱石の生き方も不徹底だったが、彼は、行き詰まるたびに思い切った転身をはかっている。死中に活を求めるような体験を繰り返しているのである。鴎外もしばしば行き詰まりを経験した。小倉に左遷されて、軍官僚としてのトンネルを体験した後、生まれ替わったような人柄になって帰京したところなど、伊藤仁斎や良寛を連想させるところがある。
しかし、彼は生活の主軸を変えることがなかった。小倉以後も、本質的に彼の人間は変わっていない。「沈黙の塔」に見るように、鴎外は時代への強い批判を持っていたが、自身を「当事者」ではなく「傍観者」と位置づけるという自己欺瞞によって危機をやり過ごしている。
長女の茉莉が、鴎外の愛は「人間と生まれて人間を愛する愛、生き物を愛する愛、草花を愛する愛」だったと言い、その愛は常に「平らに保」たれていたというとき、彼の目は情感野を俯瞰する包越者の目に近いように思われる。「傍観者」、実は全体愛の体現者という気がしてくるのだ。
しかし、鴎外が見ていた世界は、伊藤仁斎や中江藤樹の見ていたそれとは微妙に異なっている。仁斎らは成心のない自然な態度で情感野を眺め、そこから感じ取ったことを虚飾を加えずに思想化している。彼らの思想世界は、流露するように展開し、自ずからまとまりを保っている。体系的な一貫性があるのだ。
鴎外の世界は、随時、必要に応じて「思量」を駆動させた結果として生まれた。彼の目はなにものも見落とさず、その判断は常に冷静沈着だった。鴎外の聡明さは飛び抜けており、彼は同時代の誰よりも老熟した目をそなえていた。
にもかかわらず、鴎外の世界には満ち足りた感じがない。その作品には、現世を観望する透徹した視線と豊かな学識があり、読者はこれを読んで静かな喜びを感じるが、同時に鴎外自身の胸を満たしているのは、寂しさではないのかという印象を受ける。
「百物語」の末尾に、鴎外は飾磨屋と自身を重ね合わせて「傍観者というものは、矢張り多少人を馬鹿にしているに極まっていはしないかと僕は思った」と書いている。彼は、自分と飾磨屋は同類だと見ていた。
何かの席上で、鴎外は漱石や上田敏とテーブルを同じくしたことがあった。このとき、鴎外はマスターベーションの話を始めて、一同を困惑させたという。これなどは彼に言わせれば、飾磨屋流の「人を馬鹿にした」行動だということになるかもしれない。が、結果は多分、その場から浮いた形になった自分を、鴎外は苦い気持ちで眺めることになったろうと思われる。
彼は、不快な状況に臨むのに、遊びの気持をもってしたと言ったり、本来苦痛を感じるような場にあっても、平然としている事が出来たと書いたりする。だが、彼がそうしたことを口にすればするほど、彼の感じていたであろう失意の念が伝わってくるのだ。
葬式について、彼が作品の中でどのように取り上げているか、「灰燼」について検してみよう。次の一節などは、作家としての鴎外の力量を示している。
「丁度節藏と向き合って、親族席を背にして据わってゐる、二十ばかりの僧が、外の僧と声を合せて経を読んでゐる。物欲しげな、何物にか甚だしく餓ゑてゐるやうな、蒼白い、頬のこけた、長い顔が口を円く開いてゐる。善く揃った、真っ白い歯が、上下とも殆ど皆露れてゐる。雨垂拍子に読む経の文句と共に、上顎と下顎とが開いては又合ふ。此僧は経を噛んでゐる。そのかちかちと打ち合ふ歯の音が、蓄音機の肉聲に伴ふ雑音の如くに、徴かではあるが、まぎれなく聞えてゐる。節藏の官能は稍久しく此僧の歯に集注せられてゐた。節藏は一種の肉体的快楽を以て此歯を見、此歯の音を聞いてゐた」
節蔵は、葬式が嫌いだし、僧侶も嫌いだった。
「節藏は一頃かう云ふ光景(注:ぴかぴかな袈裟を纏った僧侶が習慣的に読経する光景)に接すると、行きなり飛び出して、坊主頭を片端からなぐって遣りたく思って、それを我慢するのに骨の折れた事がある」
だが、節蔵の気持ちは段々変わっていく。
「それから後に、又一頃こんな様子を見ると、氣が苛々して、それがこうじて肉体上の苦痛になって、目を瞑り耳を塞いでも足りなく思って、集まってゐる丈の人に皆顔を見られるのも構はずに、つと席を起って遁げて帰った事もある」
そして最後には、節蔵は次のようになる。
「それが今は平気で僧侶のする事を見てゐられるやうになってゐる。節藏は人足が土や石をかつぐと同じ心持で棺をかついでゐるのを見て恬然たるが如くに、僧侶が器械的に引導をしたり回向をしたりするのを見て恬然としてゐるのである」
節蔵が体験した三段階の心境の変化は、多分、鴎外自身のそれを投影したものだろう。節蔵の口を借りて、鴎外はもう葬式に出ても、僧侶の所作を恬然と眺めることができるようになったと言っているのだが、鴎外が「恬然」という言葉を使うたびに、私たちは彼の心事がそれとはほど遠いところにあることを感じないではいられないのだ。
岩波国語辞典によれば、「恬然」とは「恥ずべき事などを何とも思わないで、平気でいるさま」のことである。鴎外は、ほかの作品でもしばしばこの言葉を使って、彼が事に臨んで平然としている様子を描写している。だが、そこでも読者の受ける印象は逆であって、冷顔鉄面を装う彼に、ある種の痛ましさを感じてしまうのである。
恬然たる態度を装って現世を傍観する鴎外の胸にあったのは、深い悲哀なのだ。彼は夥しい著作を残している。が、それらにはまとまりもなければ、核となるものもない。それは、彼の人間そのものに中核が無かったことを示している。彼のエネルギーは、「思量」と実務に引き裂かれ、比類なく明敏だった彼の頭脳を本来の対象に向けることができなかったのだ。
鴎外は自らの性格と著作に、確かな核がないことを承知していた。彼は、その理由を他の誰よりも明確に知っていた。だが、彼はついに生活を改めることが出来なかった。鴎外にとって、それが「奈何ともすべからずと存候」という次元の問題だったからである。
遺児の語るところによれば、縁側にしゃがんで庭を眺めているときなどの鴎外は、何ともいえないほど寂しそうで、見るに耐えなかったという。