鴎外の場合
鴎外は肉親に対して深い愛情を注いでいた。特に四人の子供への愛情の深さには、驚嘆するほかはない。それは全く、度肝を抜かれる程で、遺児達の手記を読んで何度瞠目したかしれない。
例えば、長男於菟の手記にはこんな一節がある。
「夏の夕食後父が散歩に行こうといって着流しのまま玄関を出た。私は何かにすねていて出なかったら父は先にいってしまった。祖母に『お父さんが連れて行くという時は行かなければいけないよ』といわれて、あとからかけ出すと父は隣家の前で待っていた。私は何も言わずに涙ぐんて父の左手にすがった」
これは一見、なんでもない話のように見える。だが、本当はこれは実に凄い話なのである。子を持ったことのある者なら皆覚えのあることだが、一旦すねて「行かない」と言い出した子供が親の後を追って来る可能性など、まず、無いといっていい。
だから於菟自身も、父はもう遠くにいってしまったに違いないと思って慌てて家を駆け出したのだ。ところが父の方は、子供の気が変わることもあり得ると思って、徒労に終わることを承知で隣家の前で子供を待っていたのである。これは、そういう話なのだ。
子供が家に残っていたら、父が戸口で待っていてくれたことには気づかずに終わる。そして、実際、家族の多くは、鴎外のこの種の配慮を知らないままに打ちすぎることが多かった。誰も気のつかないところで、家族の為に心を砕く。そして、すべてを自分一人の胸におさめて死んでいく、これが鴎外の生涯だったのである。
二度目の妻との間に生まれた三人の子供を、毎夜、便所に連れていってやるのも鴎外の仕事だった。眠っていた子供が夜中に尿意を感じてモゾモゾ動きはじめると、むっくり起き出してくれるのは決まって父親の鴎外だった。
鴎外は既に初老に達し、昼は陸軍省医務局長、夜は現役作家という多忙な生活を送っている。睡眠の時間は、一分でも余計に欲しかったに違いない。その鴎外が、未だ若くて昼間家にいる妻に代わって、母親の役を代行していたのだ。
トイレの件で、一番世話になったのは末子の類だった。彼は毎夜、父に手を引かれて便所に通った思い出を書いている。鴎外は、用を足す類を優しく見守り、そのひりこぼしたものを懐から取り出した懐紙で丁寧にふき取ってから、又、手を取って寝所に連れ戻してくれた。
彼は、握り合った父の手から「無限の優しさが伝わってきた」と書いている。
次女の杏奴が女学校の受験勉強をしている時に、鴎外は彼女の為に歴史と地理の本を全部抜き書きにして要点を整理してやった。杏奴は「死期の迫った父にとって、そうすることは、きっと辛い面倒な事だったにちがいない」と書いている。
夏目漱石は、妻子に対して癇癖をぶちまけていたので、子供達はこんな父親は早く死んでしまえばいいと思っていた。家庭における漱石が「虎狼的父親」だったとすると、鴎外は「慈母観音的父親」だったのだ。
長女の茉莉は、女学校で「神」についての説明を受けた時に、反射的に父親の顔を思い浮かべたし、次女の杏奴は死んだ父は星になったと思った。杏奴は書いている。
「父の死後、長い間、母と私は家の中で泣いてばかりいた。はじめて外に出て私達は暗いガァドの下を通っていた。母は『あの星がパッパのような気がするよ』と言った。星がほんとにたったひとつ光っていた。私はそんな気がして来て泣きそうになった。母も泣きたいのをやっと我慢しているのが感じられた」
重要なことは、森鴎外の愛がわが子だけに向けられた閉鎖的なものではなく、茉莉の表現を借りると平らに深く保たれた愛だったということである。鴎外の母峰子が「博愛」だと言って不満を漏らしたほど、子供なら誰でも愛した。鴎外は又、一人一人をよく識れば一人に偏した愛を抱ける筈はないし、深く究めればその思想に偏することもなくなるとも語っている。
風景についても同じで、長男於菟と末っ子の類は、「なんでもない景色を見て楽しむことを知らなければいけない」という鴎外と一緒に、散歩の途中、目前の風景をゆっくり眺めるのを常とした。履いていた下駄を尻に敷いて、坂の中ほどに座り込み、眼下の風景を何時までも眺めたのである。
書物を愛していた鴎外は、本を大事に扱った。頁を繰る時には、手を慎重に上の方に廻してめくったし、傷んだ本は丁寧に繕い、書庫にある本は、年に一回日に当てて虫のつかないようにした。鴎外のこまやかな配慮は、片々たる物材の上にも及んでいたのである。
鴎外の愛が、存在するものすべてに行きわたる公平公正なものだったからこそ、父と一緒にいても子供達はその愛を負担と感じなかったのだ。彼らは、ただ、父の「のんびりした気持(於菟)」や「やわらかな楽しい気持(杏奴)」が自分に乗り移ってくるような気がしていただけだった。
子供達はそれぞれ、父が自分のどんな細かな感情をも無言の中に理解してくれていると信じていた。類は病気をした時の記憶を次のように語っている。
「真っ黒な愛情のこもった目で母がじっと見るよりは、病気そのものを問題にしていないというふうな父の微笑が、病人にはよかった」
類のこの言葉は、傾聴に値する。鴎外の弟妹や遺児たちが、あれほど彼に敬愛の念を注いだのは、鴎外の情愛が人並みはずれて深かったというだけではない。鴎外の心の広さ、事の軽重と順逆を理解しするその精神の豊かさが、彼らの心底からの信頼を集めていたからである。
類の感想は、鴎外作品を読み進む読者のそれと同じである。すこやかに活動する精神の前では、災厄・苦難もたいした問題とは感じられなくなる。読者は鴎外の作品を読みながら、流れるように展開する彼の清朗な精神活動を感受する。そして鴎外の頭脳が自分に乗り移ってきたように感じて、日頃の悩みを忘れ、「事の軽重と順逆」をおのずから理解したような気になり、身の回りの些事への無用な拘執から解き放たれるのだ。
鴎外の本質は、源実朝以来最高の官位を極めた文学者というところにあるのではない。また、テーべの百門にたとえられた多方面の業績にあるのでもない。
「純粋持続」という言葉を連想させるような、その切れ目のない知的活動、桑の葉を食みっずける蚕のような絶えざる「思量」、それを支える公平無私の愛こそが鴎外の本質なのである。
鴎外の人生観を要約したものとされる「自彊不息」という短文の書き出しは、「万物ハ活動ス。活動ハ天地宇宙ノ大原則ナリ」となっている。
彼によれば、活動の量は植物から動物、動物から人類というふうに上昇する。そして、活動量の最大なるものが「精神上ノ活動」である。未開人の活動は瞬間的には大きいけれども、トータルしてみると精神的な活動を不断に続ける文明人には及ばない。
人間の価値は「活動ノ分量ト方向」によって決まる。「完全ナル人トナル」ことをめざして精神的な努力を死ぬまで続けるける者が最高の存在なのである。
「完全ナル人トナル」というのは、中江藤樹や伊藤仁斎が目指したものであった。夏目漱石も、四国松山で中学校教師をやっていた頃に、高浜虚子に「あなたは、何になりたいか」と問われて、「完全な人間になりたい」と答えている。彼らは皆、「理想的人格」「完全人間」を求める点で、精神的な血族だったのである。
完全な人間を目指して「自彊不息(自ら努めて止まない)」を続けた鴎外が到達した境地も、中江藤樹や伊藤仁斎の世界に酷似している。長女の茉莉が、鴎外から直接聞いた言葉として伝えているものを挙げてみよう。
「金を汚らわしいというのは、間違っている。ものを知らない人間が持つことが、いけないのだ。金があるなら、持っているがいい。いつでも未練なく捨て得る心を持っていればいいのだ」
「名誉もあれば、持っていていい。どうしても無い方がいいと騒ぐほど、いいものではない」
木下杢太郎によれば、鴎外は「俗に制せられさえしなければ、俗に従うのは決して悪いことではない」と言っていたという。
これらの言葉を読むと、習俗を頭から否定することなく、むしろ微笑して名利を求める人間の行動を眺めていた藤樹らの姿勢が思い出される。鴎外の愛は、「人間と生まれて人間を愛する愛、生き物を愛する愛、草花を愛する愛」だったと茉莉は言っているが、彼女が藤樹や仁斎を知ることがあったら、父は彼らと同質の人間だと思ったにちがいない。
硬質の人間像
肉親の語るヒューマンな鴎外像を頭に置いて、明治40年代に書かれた鴎外の現代小説を読むと、かなりの違和感におそわれる。
鴎外は、その現代小説の中で、どんな局面に置かれても状況に巻き込まれず、端正に自己を保持し続ける人物を描いた。「鶏」の石田少佐、「あそび」の木村、「普請中」の渡辺参事官等々、枚挙に暇がない程である。
鴎外自身もそうした硬質の人間だったと思われている。私事を冷静沈着に処理した上で、余裕をもって現世に臨み、時流に逆らわず、時流に流されず、世俗に対して一定の距離をとって生きた人間、冷たく輝く星のように明治日本を見下ろしていた人間と思われている。
現実の鴎外は、これらの作品に描かれているような硬質な人間でも、冷徹な人間でもなかった。彼は決してタフな人間ではなく、むしろ芯のところに弱いものを隠した臆病な人間だった。
この点は四人の遺児が異口同音に証言しているところで、茉莉は「家の人の見た父は善良そのものであり、赤ん坊のように弱い所さえあった」と言い、於菟は父が曝書をしている脇で遊んでいても、子供に遠慮して手伝えとは言わなかったと語っている。於菟が自発的に手伝ってやれば非常に喜んだが、自分で子供に用事を言いつけることはなかった。
鴎外の人間的なひ弱さ・線の細さは、病気を連想させるという理由で便器を見るのを厭がったという話や、実弟の死体解剖に立ち会っていて失神したという話にも示されている。彼のこうした弱さは、その過敏で繊細な感覚や、豊かな想像力から来ている。
音に敏感な人間は、音の作る甘美な世界を楽しむことができる反面、至るところで遭遇する騒音・雑音に苦しめられる運命にある。
私が本当に鴎外に魅かれはじめたのは、40代に入って彼の素顔に接したと思った時からであった。鴎外は何時も微笑している。だが、それは瀕死の重病人が、自分の味わっている苦痛を人に告げても分かりはしないと思って、「苦しくはない」と微笑してみせるような笑顔なのだった。
鴎外は生きることを業苦と感じるようなタチの人であり、その苦痛を和らげてくれるような思想的処方箋を求めて、死に至るまで模索を続けた男なのである。「豊熟の時代」に彼がものしたあの特異な現代小説も、自分自身のために調剤した鎮痛剤であり、精神療養用のテキストだったのである。
生きることを業苦と感じる繊細な人間だったが、鴎外は神経症になることはなかった。私の疑問は、彼が自身の弱さや繊細さを残したままで、どうして中江藤樹らと同じような精神的的世界を構築し得たかということだ。
この点について、先回りしてポイントを記しておきたい。
蟹などの甲殻類は、自分を守るために二重の方法を採用する。第一の防護手段は石の下や岩陰に隠れることであり、第二のそれは、硬い外皮を身にまとうことである。彼らが二重三重の手厚さで自分を守らなければならないのは、次の理由による。
1、内骨格を持たない
2、柔らか過ぎる肉を持っ
鴎外も内骨格を欠いた上に、柔らか過ぎる肉を持っていた。この場合、内骨格とは哲学的信条(精神的バックボーンと言ってもよい)であり、柔らかな肉とは繊細で傷付きやすい感受性を意味している。鴎外が哲学を持たなかったといえば、首をひねる向きもあるかもしれない。
しかし彼は、体系的な信念信条を持つことを意識的に避けていた。彼は明治20年代に文学論争、医事論争を積極的に展開したが、特定の思想体系の信奉者としてものを言ったことは一度もなかった。「暫く***の塁に拠る」と称して、ハルトマンその他、その時々に異なる思想家の説を援用して論争に臨んだのだ。
鴎外研究家の悩みは、彼の思想的背景を掴むことが出来ないことである。彼自身、自分は外国から思想や文化を運んでくる貨物船のような存在だといったり、中身のない「空車」だといったりしている。
甲殻類が二重の防護壁によって身を守らなければならなかったように、鴎外も二重の壁を必要としていた。この壁に守られていたから、人間的な弱さを保ったままで、ノイローゼになることもなく、明珠的思想世界に到達できたのだ。
鴎外にとって、石や岩のような外部的防壁に相当するのが「森家」と「陸軍」だった。もっとハッキリ言えば、鴎外は母と山県有明の庇護に頼ることなしには、あれだけの活動をすることができなかった。そして甲羅に相当するものが、「冷顔鉄面」「.情操不動」という鴎外愛用の仮面だったのだ。
巷間、「森家のエゴイズム」ということが言われる。これは鴎外の母峰子が醸成した森家独特の計算高い気風をさすもので、鴎外の表現を借りれば「一種の気位の高い、冷眼に世間を視る風と、平素実力を養って置いて、折りあったら立身出世をしようと言う志」(「本家分家」)を中核とする気風のことだ。
峰子という母親はまことに強腕の女性で、森家繁栄のために生涯抜け目なく立ち回り続けた。家付き娘だった彼女は、養子の夫を督励して一家の経済的基盤を固めさせ、その上に長男鴎外を中心とする栄光の森一族を作り上げたのである。
峰子は、無信仰で主義もモラルも理想もない女性だった。息子の鴎外と孫の於菟のためなら、恥を恥と思わず、平然と汚れたこともやってのける押しの強さを持っていた。
鴎外はこういう母親の庇護下に、母鳥のふところに抱かれた雛鳥のようにして幼少期を過ごした。幼少の鴎外を特徴ずける少女のようなひ弱さは、母の過保護と教育ママ風の早教育によるものだった。
少年時代、鴎外は、いつでも母にぴったり寄り添われて机の前で本を読んでいた。この結果、鴎外は幼年期を通して「外」の世界に対して「厭悪と畏怖」を感じるようになるのだ(「ヰタ・セクスアリス」)。
空き地で花を摘んでいると、近所の子供から「男の子の癖にあんなことをしている」とからかわれる。木戸の前を通ると気味の悪い木戸番の親子が鴎外に猥褻な言葉を投げ掛ける。
藩校に通うようになると、途中に恐ろしい犬や悪童が待ち構えていた。だから小心な彼は、一人では通学できず、藩校と自宅の間を母や祖母に付き添ってもらって往復しなければならなかった。母の庇護は家庭内でも必要だった。弟の篤次郎が腕白坊主で兄を凌ぐ風があり、それを父が助長する傾向があったからだ。弟を制して兄を立て、鴎外に森家の跡継ぎとしての権威をつけさせることも峰子の仕事だった。
少年期の鴎外は、外社会との接触を避けて家にこもり、一人で孤独な時間を過ごした。そうした少年の常として、読書に楽しみを見出したところまでは他と同じだったが、特徴的なことは、彼が家にあった古い道具や骨董品に一方ならぬ強い関心を持ったことである。彼の興味は、子供らしい空想に向かわないで、具象的なものに向けられ、その思考はそれらの用具を使っていた過去世代の生活に向けられたのだ。
成人してからも、鴎外は地方出張のたびに、名所旧跡を訪ねる代わりに手近な墓地に出かけ、墓石に刻まれた墓誌などを手帳に書き写している。
思考が抽象的なもの原理的なものに向かわないで、常に現実的なもの具象的なものに向かうという鴎外世界の原型が、すでにこの頃から芽生えているのである。
鴎外は、「外」に対して度を越すような警戒心を持っていた。彼は病菌を移されることを恐れて、絶対に銭湯に出かけなかった。単身赴任中は、借家の風呂を使うことすらしないで、入浴する代わりに湯で身体を拭いて済ませた。
「鶏」の石田少佐は、これを生活上の無頓着主義から来ているように吹聴している。だが、事実は「銭湯恐怖」から来た行動だったのである。
彼は、便所の把手に直接手が触れることを恐れて、いつも紙をあてがってからしていた。彼は、このやりかたを子供達にも実行させている。彼は又、家族に列車の洗面所を使用することを禁じた。いずれも病菌に対する過剰な警戒心から来た行動で、こうした「外」に対する神経質な態度は、幼少期の「外界恐怖」に原形を持つものなのである。
鴎外は医薬類の使用を嫌っていた。理由は自然治癒力への信頼からだが、それがあまりにも極端なので軍医部内でも一つの謎とされいたという。これなども「外」に対する過度の警戒心から来ていると思われる。
攻撃性の背景
母峰子の手で栽培植物のように育てられた鴎外は、やがて大学医学部予科の寄宿者で寝起きするようになる。鴎外が年令を詐称して僅か12才で医学部に入ったことは、いろいろな意味で彼の将来を決定することになる。
まず、彼は少年の身で既に青年期に達している同級生(16,7は若い方で、多くは20代だったと鴎外は言っている)と生活を共にすることになった。「ヰタ・セクスアリス」には、鴎外が同じ年頃の少年と砂場で相撲を取っているところを、もう大人と言っていい同級生達が、「まるでチンコロだな」と冷やかしながら見物する場面が出て来る。
鴎外は、こうした残酷と言ってもいいような年令格差の中で何年間かを過ごした。彼をホモの相手として付け狙ったり、彼を気晴らしの道具として玩弄を加えて来る年長の級友にかこまれて、鴎外が感じたのは、やはり「外」に対する強い「厭悪と畏怖」であった。
鴎外はこの時期を「純抗抵」によって凌ぎ、やがて級友の賀古鶴所と同盟を組むことによって逆に仲間を上から睥睨するようになる。今や級友から「駿馬」と呼ばれ、一目も二目も置かれるようになった鴎外が、その「得意」の状況の中でドイツ人教師シュルツに反抗したことは注意されてよい。これは、その後の鴎外の行動に見られる特徴の一つだからだ。
体力的に劣っていた頃の鴎外は、級友に対抗するには知力しかなかった。彼は知力で級友を凌駕し、子供扱いする仲間たちに学業で対抗したのだ。学年が進み、体格の面で級友に追いつくと、これまで畏怖の対象だった彼らへの感情が、反対方向に大きく振れるようになる。支配される立場から、支配する立場へ移行し、専守防御から反転攻勢に転じたのだ。この頃から、彼には争気の強さが目立つようになる。
医学部に進んだために、鴎外が医学生に共通するシニックな気風の影響を受けたことも重視されなければならないだろう。「ヰタ・セクスアリス」「独逸日記」を読む限り、鴎外の学友達はその大多数が主義もモラルも持たない露悪家によってしめられている。
彼ら医学生が、形式や虚飾に囚われず、非現実的な空論を侮蔑して快楽の追及に専念するのはいいとしても、内面的な要求や、自己および社会に対する懐疑を持たないのは困った点だった。彼らの思想的教養といえば、級中の最年長者の鰐口(谷口謙がモデルといわれる)が韓非子を読んでいる程度であった。
彼らは無思想・無理想という共通の基盤の上で、ドライに才気を競い合った。特に軍医になった者達の競争は激しかった。彼らのほとんど全員が唯我独尊の排他主義者で、昇進を目指して絶えざる白兵戦を演じていた。
当時、軍医社会というのは実力本位の特殊社会であった。軍上層部からも、帝大出の若手軍医たちは、無能な上司を「同盟罷工」によって追放するような過激な一派と見られていた(井上光中将の談話)。
そのなかで、鴎外は、同期生との白兵戦に勝利して、仲間のトップを切って、ドイツに留学することになる。
彼はその底深い現世厭悪の念を忘れるために、学業や軍務に精励して来たのだった。学校に適応できない生徒は、勉強に精出して良い成績をあげ、その成績によって自分を守ろうとする。幼少期の鴎外を守ってくれたのは「神童」という世間的評価であり、事情は医学部予科時代においても、陸軍軍医部においても変わらなかった。
世に出てからは、現世の側から必要とされる存在になることで、外社会に安定した座を占めようとしたのである。
ドイツ留学を終えて帰国した鴎外は、名実共に森家の当主になる。帰朝後の彼は、エネルギーを二つの方面に振り分けて行動した。昼間は陸軍軍医学校教官(程なく、校長になる)として衛生学を講義し、夜は自宅に文学サロンを開いて若手の作家たちと歓を尽くしたのだ。この両刀使いの生活は、最初は巧くいった。
鴎外は「外」の世界からの雑音を陸軍軍医学校長という防波堤によって防ぎ、その内側の静謐な湾内で「思量」の舟を動かしたのである。
彼は、理性を実生活処理のための実務的理性と、思弁のための観想的理性に分けたアリストテレス型人間だった。アリストテレスは、観想中心の生活をするには、実生活処理用のエネルギーを削減する必要があり、それには「中庸」を基準にして生きなければならないと言っている。鴎外も、エネルギーを対世間・対思量の二段に分けて配置し、なるべく前者へのエネルギー配当を減らそうと心がけた。
「金も名誉も、あれば持っていた方がよい」と語る鴎外は、博士号でも位階勲等でも、人のくれるものは何でも拒まずに受けた。それらは母峰子が求めてやまないものだったし、彼自身も別の理由でそれらに価値を認めていたからだ。
地位・名誉・金は、俗世間と彼との間の距離を広げてくれるからだった。「得意」の境涯は、そうしたプラスのほかに、著作活動を自由に展開できるというプラス面も持っている。だが、それは同時にエネルギー配置のバランスを崩させる危険性をも伴っていた。
責任感や気負いから、現実との接触面に過度なエネルギーを注ぐと、鴎外を鴎外たらしめていた内なるエネルギー展開への配当が減少する。するとバランスが崩れて、現世に対する厭悪の感情が突風のように吹き出してくるのだ。
「得意」の時期に疳をたかぶらせて、必要以上に攻撃的になるのが鴎外の特徴だった。エネルギーを二段に配置して生きて来た鴎外は、この二段構造が少しでも崩れると途端に不安定になり、激越なことをしでかしてしまう。
ドイツ留学によって一段と力を付けた鴎外は、現世に対する「厭悪と畏怖」の裏返しとして、外社会への批判と反発をあらわにするようになったのだ。
家長としての鴎外の行動にも、神経的ないらだちが目立っようになる。弟篤次郎の養子の話を打ち壊し(篤次郎本人はこの話に乗り気だった)、自らの結婚生活も僅か二年足らずで破綻させた。家中の者が、鴎外の顔色をうかがってピリピリしているというような状況が続いた。
軍医としての鴎外の行動も、急速に攻撃的になっていく。次々に医事雑誌を発刊して、医学界のボスに向かって攻撃の矢を浴びせるようになった。その執拗な論陣の張り方は、関係者をして鴎外を「執筆狂」「書痢」と呼ばせるに至った程だ。
この点は文学論争においても同じで、石橋忍月・坪内逍遥を完膚なきまでにたたき伏せて論壇のリーダーとなるや、新聞・雑誌に彼に関する批評が載ると、一言何かいわれれば十言を返すというような反応を示した。その過敏な態度は常軌を逸しており、鴎外自身も後年、「(あの頃の自分は)気違いじみていた」と回顧している。
峰子は癇癖をつのらせる鴎外をハラハラして見守っていた。が、彼女は見守るだけで終わるような女ではなかった。息子の離婚の後始末に奔走した後は、独身になった息子の性欲処理用に妾を探して来てあてがうというようなことまでしている。
そして妾を近所に住まわせ、鴎外が所在なさそうにしていると、「行っておいでよ」と息子を促して妾宅に送り出している。
その妾も、子供が生まれて来ると面倒なことになるので、石婦(ウマズメ)の女を探して来たのだ(実際は、彼女は石婦ではなかったが)。
彼女は息子の役にたちそうな上司・友人の私宅を歴訪し、医学界・文壇の情報を集め、それぞれの分野についての恐るべき消息通になった。彼女は完全に鴎外と一体化し、彼女が判断して鴎外の利益になると思うことは、先回りして手を打って回った。それはしばしば行き過ぎていたり、ヒイキの引き倒しに終わることも多かったが、鴎外はそれを表立って咎めることをしなかった。
次の書簡は、鴎外が小倉から賀古鶴所にあてて出したものである。
「此頃母上つまらぬ事にて御訪問致候由お困りと存候 最早世間も小生を小倉のものとあきらめ候へども母のみはさうはまゐらず又それが母のありがたき処なれば奈何ともすべからずと存候」
私達はこの一節の中に、有難迷惑な母親の行動を、そこに潜む心根ゆえに「奈何ともすべからず」として耐えていこうとする鴎外的な態度を見ることができる。鴎外が常に行き過ぎる傾向のある母の行動を黙認して来たのは、その母性愛もさることながら、彼にはどうしても母の助力が必要だったからだ。
峰子には女中や馬丁を巧みに使いこなす統率力があり、吝薔だ冷酷だと周囲から陰口をたたかれながら、着実に資産を殖やしていく才覚もあった。日常生活に伴う避け難い雑事雑用を、彼女程適確に処理する者はいなかった。
彼女は鴎外を卑近な現実から守る盾になってくれたのである。鴎外は母を失った長男の於菟の訓育を含め、家事一切を峰子に委ねることによって、文壇と医学界にまたがる幅広い活動に専念できたのだった。
鴎外の悲劇
鴎外の部下だった山田弘倫は、陸軍省医務局長時代の鴎外について活写している。
師団長会議などが済んだ後に、陸軍大臣官邸で宴会がある。宴会が終わると、一同はくっろいで談笑をはじめる。その時の鴎外の様子を山田弘倫は次のように記している。
「先生はいつも部屋の一隅に座を占め、肩をすぼめ、手を膝のあたりに組み、恭謙というよりはいかにも恐縮という態度であり、或は周囲に何か汚い物か、恐ろしいものを見ている人の様な姿でもあった。だから我々下僚としても、他に対して何となく肩身狭くさえ感じていたものだ。全く義理に縛られたような気持で、殆ど居たたまれぬ程のつらさから自然と身体の縮まる思いで居られたのかもしれない」
私は「周囲に何か汚い物か、恐ろしいものを見ている人の様な」という部分に注意をひかれる。
鴎外は師団長会議におけると同様に、文壇においても終始居心地の悪さを感じていた。「ル・パルナス・アンビユラン」「不思議な鏡」などの文壇寓意小説の中で、鴎外は苦痛に耐えないという表情を垣間見せている。6才の鴎外が木戸番の親子に向けた「厭悪と畏怖」の目差しは、成人してからもそのまま持ち越され、今度は陸軍の将官達や文壇の作家たちに向けられているのだ。
山田弘倫は、鴎外が会食を好まず、そういう際には自分の弁当を個室に運んで一人で食べたことも記している。
鴎外に対する評価は、昔も今も作家の間で、鋭く分裂している。鴎外は、その家族や「三田文学」系の作家達から神のように畏敬されている反面、多くの作家仲間から毛嫌いされていた。「文豪」と呼ばれる作家達の中でこれ程評判のよくない人物も珍しいのだ。
岩波書店刊行の「座談会明治文学史」を見ると、鴎外は出席者から悪罵に近いような攻撃を受けているし、一時は鴎外と盟友関係にあった幸田露伴の鴎外評価も極めて厳しいものだった。
この流れはその後も続き、中村光夫は鴎外の生涯を概観して、「狂念妄想」に充ちた一生だったと切り捨てている。私も、これまで「鴎外は虫が好かない」という一般読書家の言葉を何度耳にしてきたろうか。
文士たちの間で鴎外の評判が悪かったのは、彼が壮大な門構えを構築してその内部に立てこもり、そこから高い姿勢で文壇に臨んだからだが、比較的身近にいて鴎外を嫌った人々は、母親や山県有朋を盾として身を守った鴎外の「狡猾さ」を問題にしている。
鴎外が母親や山県有朋に頼らざるを得なかったのは、彼の弱さであり、彼は自分でそれを十分承知していた。鴎外は、小倉に左遷されてから、その弱点の克服に乗り出さざるを得なくなるのである。