死を恐れないために
幸福の絶頂にあったトルストイが、死の恐怖に取り憑かれたのは、40歳を過ぎてからだった。この「40歳を過ぎて」というところがポイントなのである。人間は、およそこの頃から、自らの死を常時意識するようになるからだ。
そして、その恐怖感は、60歳を過ぎると徐々に薄らいで行くのである。私は知り合いの老人から、「死を恐れる気持ちは、年を取れば薄らいで行くよ。その境目になるのは、やはり還暦の頃かもしれない」と聞かされたことがある。加齢と共に恐怖感が薄らぐ理由は、その老人によると、死を恐怖することに慣れっこになって、感覚が鈍くなるからだという。
私は半信半疑でいたが、60代になったある日、ふと、自分の過去を振り返り例の老人の言葉を思い出したのだった。確かに、加齢と共に死を意識することが少なくなり、死を忘れていることが多くなったのである。そして、この傾向は、頭脳の働きが鈍化してくることも加わり、今ではほとんど死を意識することなしに毎日を生きている。
しかし、その主たる理由は、例の老人のいうように、死を恐怖することに慣れたからではないように思われる。
私は定年退職して畑の中の家に移り、「晴耕雨読」の生活を始めたとき、(人が生きるということは、この程度のことでしかなかったのか)という拍子抜けのするような感慨に襲われた。孔子は、「十有五にして学に志す」ことから始めて、人間の一生を順を追って概観している。賢愚美醜の差はあるが、人は大体において孔子の描いたようなコースをたどって生きるものなのだ。人が40歳頃から死を強く意識し、60を過ぎれば死の恐怖が徐々に薄らいで行くように出来ているのも、人類共通のパターンにほかならない。
人類共通のコースを歩み、年老いて引退という段階になって人は、「生きるとは、こんな事だったのか」というニヒリズムに近い脱力感にとらわれる。人々から羨まれるような輝かしい生涯を送った人間にとっても、凡庸な人生を送った人間にとっても、ニヒリズムに似た脱力感に襲われる点は変わりがない。人間の生涯とそれに伴う悲喜哀歓は、基本的に万人同じなのである。
実際、老年になって感じる脱力感や拍子抜けするような空虚感は、遠い昔からすべての人類が味わってきたものなのだ。般若心経の「色即是空」、聖書の「空の空なるかな」という言葉には、「人間の生とは、こんなものだったのか」と呟いて来た人類幾千年の苦い思いがこめられている。
そして、この想いこそが人を現世から切り離すスプリングボードになり、死を静かに迎え入れる心情的基盤を形成する。人が死を迎えるに当たって感じる「厭離穢土」という感覚の母胎になっているのも、この「生」に対するデスペレートな洞察なのである。
だが、生きることの本質を洞察しただけでは、人間は安んじて死んで行くことは出来ない。それ以外のプラスアルファが必要なのだ。生きることの実態を見切り、いかに現世を厭離したところで、人はそれだけで死の恐怖から抜け出ることはできない。未だ何時までも生きていたいのである。では、そうした執着を捨てさせるプラスアルファとは、何なのだろうか。
ここで注目すべきは、死の恐怖におびえるのは男性の方であって、女性は割合にあきらめがいいというという事実なのだ。臣下に命じて不老不死の妙薬を探しに行かせるのは男の帝王であり、女王がそんなことをしたという話は聞いたことがない。そして、死の恐怖をテーマにした作品を書いた作家・画家も、男性が多く、女流は少ないのだ。
死ぬことについて女性が男性より淡泊なのは、女性には腹を痛めて産んだ子供がいるからではなかろうか。母親にとって、子供は文字通り自己の「分身」であり、その愛する子供を死後に残すことで、彼女らは自分の生命の永続を信じ得るのである。男性も自分が死んでも、自らの血をひく子供が後に残ると頭では考える。だが、父親と子供の間には壁があり、父親は母親のように、子供を自己の分身として実感することができない。
男性が自身の生命の永続を信じるためには、自分の思想なり、創造物を残し、それらが永遠に残ることを確信しなければならない。別の言い方をすれば、自分の死後にも、自分の志を受け継ぎ、自分と同じ行動を選択してくれる第三者がいると確信できなければならない。そのことが信じられるなら、つまり、自分の代理人として生きてくれる第三者が存在するとしたら、死を恐れなくて済むのである。
いや、自分の生命を引き継いでくれるのは、人間である必要もない。自然を愛するものにとっては、美しい自然を残すことが、自分を残すことなのだ。彼らは、自然保護のために命を投げ出すことだってするのである。
つまり、こういう事なのである。――人が死を恐れないようになるためには、自分以外の他の存在への愛を保持していなければならない、何故なら、死ねば何もかもなくなってしまう個人にとっては、自分以外の愛するものに自身の生命を仮託するという方法しか、死後も生き続ける手段がないからだ。
再言するけれども、自分しか愛し得ないものの前途は、真っ暗なのである。エゴイストが自己の生に執着するのは、死という絶対的な虚無に対抗する手段を持たないからだ。ここに以前に書いたブログを引用する。
<江原啓之のテレビ番組は、二回ほど見たことがある。馬鹿馬鹿しいと言ったら、これほど馬鹿馬鹿しい番組はなかった。江原は、相談者の背後に守護霊がいると「霊視」するのだが、彼が守護霊として名指す霊は、相談者に関係のある死者のものだけではない。世界史上の適当な人物を選び、その霊魂が守護霊になって相談者を守っていてくれるというのである。だから、守護霊になってくれる歴史的人物は無数にあり、選択範囲の広いこと、まるでバーゲンセールの商品みたいなのだ。
おまけに、守護霊には本守護霊の他に、副守護霊もいるそうだから、そのアホらしさには脱帽するしかない。そして、正・副二組の守護霊は、江原の口を借りてこもごも尤もらしい助言をすることになる。すると、相談者は随喜の涙を流すのだ。今や、江原啓之をかこむ集まりは「愚者の楽園」の様相を呈し、人間はどこまで愚かになりうるかという事例の展示場になっている>
守護霊があるなどという馬鹿げた妄想を信じて、江原某の嘘八百に引っかかるのは、自己愛が強すぎるからだ。彼らは、「自己愛が強すぎる」などといわれれば色をなして反論し、私は家族を愛しているし、祖国も愛していると言い張るにちがいない。それは、それである意味で正しい。
江原と同じく盛んに「霊」を持ち出す「幸福の科学」の開祖も家族を愛し、そして日本を愛して、タカ派的発言を繰り返している。だが、江原・大川の家族愛・祖国愛は、自己愛の歪んだ変形物でしかない。彼らが家族愛というときの家族は、独立した人格を持った個人ではないし、彼らのいう祖国は国際協調下にある平和国家日本ではなく、ハリネズミのように武装した強国日本なのである。
彼らが何かを語れば語るほど明らかになるのは、彼らが徹底したエゴイストであり、自分のことしか考えていない自己肥大者だということだ。江原・大川とその信奉者を眺めて感じることは、愛する他者・他存在を持ち得ないが故に、自身に執着せずにはいられない人間の悲惨さである。
心を開いて観望すれば、人類は自己教化を続け、創造的進化を繰り返している。この人類に想いを置き、この人類に愛を寄せれば、死の恐怖は少しは鎮まるのではなかろうか。自分自身に集中していた愛を、自分以外のものに拡げ、人類から宇宙そのものまで拡張したときに、死の恐怖は消えるのである。死とは、全有のふところに帰ることなのだから。