井上ひさしの閲歴
文藝春秋の7月号に、「井上ひさしの絶筆ノート」が全文掲載されているというので、雑誌を手に入れて読んでみた。井上ひさしが亡くなったことは知っていたが、彼が肺がんで173日間闘い続けたということは全く知らないでいたのだ。
問題の記事を読み終わったとき、彼が前妻との間で繰り広げた離婚騒動は結局どうなったか、改めて好奇心がわいてきた。私は、下世話な問題に興味を持つ金棒引きなのである。井上ひさしは、離婚の前後に前妻との間で熾烈なバトルを演じたのだが、再婚した夫人とは円満に暮らしていたようなのだ。夫人によると、井上は最後に病院から自宅に戻り、家族に見守られながら、静かに終末を迎えたというのだ。前妻とあれほど衝突し続けた彼が、おだやかな死に方をしたとは意外だった。
夫人は井上の「闘病記」に注釈を加えるに当たって、夫のことを「ひさしさん」と記している。こういう場合、妻は夫のことを「井上は――」と書くところだが、夫人は夫への敬愛の念を込めて「ひさしさん」と「さん」付けで呼んでいるのである。夫人は23年間の結婚生活のあいだ、夫と喧嘩したのは片手で数えるほどしかなかったとも記している。
井上ひさしが前妻の西館好子と離婚したときには、マスコミが大騒ぎしたものだった。離婚の原因が、やり手で評判だった西館の浮気にあったからだ。
西館好子は、夫の作家活動を支える優秀なプロデューサーであり、マネージャーだった。彼女は男勝りの有能な女だったから、夫を督励して原稿を書かせるだけでなく、夫と協力して「こまつ座」を立ち上げたときには、座長に据わっている。彼女は劇団を思うままに切り回しているうちに、舞台監督の男性と恋仲になり、二人で劇団員の相当数を引き連れて、独立してしまったのだ。
ワイドショウを通して、この騒動を眺めていた視聴者は、西館好子の気ままな行動に義憤のようなものを感じたものだった。ワイドショウを見ていて私が不思議に思ったのは、井上も西館好子も、そして二人をめぐる周辺の人々も、それぞれ取材記者の求めに応じてカメラの前で意見を述べているのに、肝心の西館の愛人だけは一度もテレビに顔を出さなかったことだ。これは、西館が男をかばって、愛人の近くに取材陣を寄せ付けなかったからに違いなかった。彼女は愛する男のためなら、何でもする女なのである。
離婚が成立してかなりたったころ、何かの雑誌に、西館好子が井上作品の上演許可を前夫に求めているという記事が載っていた。これも虫のいい話だった。前夫を裏切ってこまつ座をめちゃめちゃにしておきながら、自身の始めた劇団が営業不振に陥ったからといって、前夫の作品を使わせろと要求しているのである。
井上・西館の関係について私が知っているのは、このへんまでだった。だから、井上の手記を読んでいると、自然に二人のその後について知りたくなるのである。
インターネットの「Wikipedia」によると、井上の三女の石川麻矢と前妻西館好子の二人は、それぞれ、「激突家族」「修羅の棲む家」という本を出している。そして、両者ともに、これらの本で井上を厳しく批判しているというのだ。井上ひさしは西館と離婚後、共産党幹部米原昶の娘の米原ユリと結婚し、幸福な家庭を築いていた。三女の麻矢も前妻も、これに怒りを感じて、何とか井上夫妻にケチを付けようとしたのである。二人が揃って井上ひさしを天皇制否定論者だと記しているのも、そうすれば彼の評判を落とすことができると信じていたからだ。
特に、西館は、井上ひさしへの憎悪をむき出しにして、彼の家庭内暴力を暴き、自分が受けた被害を次のように数え上げている。
「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」
彼女は著書で前夫の暴力を暴くだけでなく、家庭内暴力をテーマにして、全国各地で講演を行っている。
もし、別れる前に井上が西館に暴力をふるったとしたら、それは妻の浮気に嫉妬したからだ。どんなに謹厳実直な男でも、信頼していた妻に浮気をされたら、常軌を逸した行動にでるものなのである。
娘と前妻の攻撃を浴びながら、井上は反論することなく沈黙を守っていた。マスコミもまた、西館のアピールを黙殺して、井上の家庭内暴力について追求することはなかった。理由は、西館好子の身勝手で気ままな行動に愛想を尽かしていたからだろう。母に同情して父を非難していた三女も、その後に父と和解して小松座の代表に就任している。
こういう過去を持った井上ひさしが、妻ユリと三女麻矢、それから井上とユリの間に生まれた長男の三人に手厚く看取られながら、75歳の生涯を終えたのである。
今度「Wikipedia」を読んでいると、井上ひさしの閲歴には、色々考えさせられるところが多いと感じた。まず、その冒頭の部分を見てみよう。
<5歳で父と死別し、義父から虐待を受ける。その後、義父に有り金を持ち逃げされ生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会の孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」にひさしを預ける。
そこでは修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。
このような修道士たちの生きざまは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人(洗礼名:マリア・ヨゼフ)。高校は仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学、在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している>
井上ひさしが前妻西館好子と激しいバトルを演じたのは、実母との関係がトラウマになっていたからではないかという気がするのだ。夫と死別後に母は別の男と再婚したが、その男は幼い井上を虐待した。義父の虐待が続いたのは、実母が体を張って義父の行動を阻止しなかったためだ。そして、こういう場合、母親は常に男に逃げられることを恐れて、男の行動を黙認してしまうのだ。
にもかかわらず、男は有り金をさらって逃げてしまったから、母は井上を育てることが出来なくなって孤児院にあずけてしまった。こうした母を身近に見ていて井上が、女というものに絶望したであろうことは容易に想像できる。
孤児院に預けられたら、そこで彼らの世話をしてくれる修道士たちは実の母親よりもずっと愛情を持って接してくれた。だから、井上は広島の原爆孤児をテーマにした作品を書くときも、母親ではなく父親を登場させて、「父と暮らせば」としたのだ。
そして西館好子と結婚して、彼女の自己中心的な振る舞いを目にすると、彼は実母を思い出さずにはいられなかった。井上が前妻と激しく衝突したのは、西館の中に母親の面影を見たからではなかろうか。
孤児院では修道士らに見守られながら勉学に励み、東北地方でトップを争う進学校の仙台一高に合格している。それ以後の井上のコースはよく知られているとおりである。高校を卒業して上京し、上智大学の籍を置きながら、ストリップ劇場フランス座の座付き作者になって舞台用の脚本を書いたり、NHKの「ひょっこりひょうたん島」のシナリオを書いたりしているうちに作家としての将来が開けて行くのである。
井上ひさしは子供の頃から孤児院で集団生活を体験し、上京してからもフランス座やNHKで多くの未知の人間とチームを作って劇作活動を続けた。そんなこともあって、文壇に出てからも彼は多くの作家たちと隔意なくつきあい、日本ペンクラブ会長を始め、いくつもの文芸協会の理事に就任している。
彼は必ずしも人格者ではなかった。少年時代には猫にガソリンをかけて火をつけたり、猫を火の見櫓の天辺から落として死なせるなどの動物虐待を行っているし、都落ちして岩手県の療養所で事務職員をして溜めた金を赤線に通い詰めて二ヶ月で使い果たしたりしている。こんな破格なところも、作家仲間の目には魅力に映ったのかも知れない。
彼が社会に目を開き、「九条の会」の主要メンバーの一人として憲法擁護に努力するようになったのも、こうした多彩な閲歴を生きてきた結果だった。実のところ、私はあまり彼の作品を読んでいないので、井上ひさしの全集があったら読んでみようと思った。それでインターネットで調べてみたら、不思議なことに彼の全集も作品集も刊行されていなかった。