「人間臨終図巻」の人々

「人間臨終図巻」(上巻)を読了した。これで古今東西にわたる四百名余りの人間が、どのようにして死んだかを概観したことになる。下巻でまた同じ数の臨終に接したら、何と九百人分の死に方を知ることになるのだ。

「死」というのは、万人共通の単純明快な事実だけれども、そこに至るまでの道筋は千差万別である。例えば島木赤彦は、臨終の部屋に詰めかけた斎藤茂吉をはじめ40人余の人々に見守られながら死んでいるのに、「海国兵談」をあらわした林子平は、


    「親もなし妻なし子なし版木なし
         金もなければ死にたくもなし」


という短歌を残して、一人寂しく死んでいる。

上巻を読み終えて感じたのは、こちらに予備的な関心事があると、それに関連した人物の記事が印象に残るということだった。

私は以前に佐田啓二や若尾文子についてのエピソードを読んで、興味を覚えたことがある。佐田啓二は、ある会合に出席するために都内の有名料亭に出かけたら、応対に出てきた若い女中が、「どなたさまですか?」と尋ねたというのだ。女中は、その頃人気絶頂の佐田啓二を知らなかったのである。

すると、佐田は惨めなほどに顔をゆがめた。打ちのめされたような惨憺たる表情になったのである。若尾文子の話は、もっと単純で、大映の看板女優になった彼女は、撮影所に出勤して自分の名札をひっくり返すときに、ライバルの女優の名札を憎らしそうに爪で、ピン、ピンとはじくのを常としていたという。

人間は、「人も羨む有名人」になっても、欲望は留まるところを知らないらしいのだ。人間臨終図巻には、これに類する話がいくつも載っている。

夏目雅子はお嬢さん育ちながら、闘争心が旺盛だった。彼女は白血病で死んだけれども、入院中、口にするのは仕事のことばかりだった。彼女は、今どんな映画や舞台がはやり、女優の誰が人気を集めているかをしきりに尋ね、「私がいない間の映画は、みんなコケればいいんだわ」と半分本気で言っていたという。

プレスリーに至っては、やることがもっと派手だった。彼は一万八千坪ある自邸で、心臓発作のため死亡した。プレスリーは、彼に代わって新しいスターになった歌手がテレビに登場すると、銃を持ち出してテレビの中のライバルを狙い打ちしたそうである。

「放浪記」を書いた林芙美子が死んだとき、葬儀委員長になった川端康成は、次のような挨拶をした。

「故人は、自分の文学的生命を保つために、他に対して時
にはひどいこともしたのでありますが、しかしあと二、三
時間もたてば、灰となってしまいます。死は一切の罪悪を
消滅させますから、どうかこの際、故人をゆるしてもらい
たいと思います」

この「他に対するひどいこと」とは、彼女の猛烈なライヴァル意識から、特に同性の女流作家を傷つけるような言動が多かったことをさしている。

作家やその他の芸術家の死因を見ると、圧倒的多いのが結核による死であり、頭の狂った芸術家の発病原因で大多数をしめるのが梅毒だった。ほかに自殺の多いことも芸術家の特徴の一つで、私は「麦と兵隊」のタフガイ火野葦平までが自殺していたことを知って驚いた。これまで知らずにいたのである。

火野葦平は高血圧による眼底出血のため右目が失明状態になったとき、ノートの見開き二ページに遺言を書き、その二ページを糊付けにして、後は健康状態を記す日記として使用し続けた。彼はその翌年アドルムを飲んで自殺している。人間臨終図巻によると、彼の自殺は関係者によって長い間隠し通された。それには、こんな事情があったらしい。

「その翌朝、自宅のある九州若松を寒冷前線が通って雪模
様となり、冷え切った書斎で葦平が死んでいるのを家族が
発見したが、それまでの彼の決意を夢にも知らなかったの
で、だれもが心筋梗塞による病死だ、と考えた・・・・・」。

ノートに「遺書」が隠されていることには誰も気づく者はなかった。母親のマンは、片時もそばを離れず、蒲団の中に手をさしいれ、足首を撫でさすり、息子が死んでからも、「まだ、ぬくい」とつぶやきつづけた。

のちにこのノートは発見されたが、母と妻にはこのことはなお知らされなかった。火野の三回忌の読経中にマンが、また十三回忌の未明に妻が、それぞれ葦平に呼ばれたかのように死去したので、ようやく火野の死の秘密が世間に知られることになった。

寺田寅彦の妻が悪妻だったということも初耳だった。

寺田が脊椎の骨腫瘍で寝付いたと知って、幸田露伴は岩波書店の小林勇と共に見舞いに出かけた。二人を迎えて、寺田の妻は、「ちょっとお持ち下さい」と二階に寝ている夫に知らせに行った。階段を上る彼女の足音があまりに無神経で乱暴なので、幸田露伴は、「寺田君よりオレの方がまだ幸せかもしれない」と思った。露伴の妻も有名な悪妻だったが、寺田の妻ほどではないと思ったのだ。

だが、寺田の妻が荒っぽい所作を見せるのには、理由があった。寺田夫人紳子は、以前に二人の妻を病気で失った寺田にとっては三番目の妻で、寺田はこの妻が子供を産むと先妻の子供たちとの間に悶着が起こりはしないかと考え、彼女とは性交渉を持たないようにしていたのだ。寺田は紳子夫人と17年5ヶ月も生活を共にしながら、夫婦ではなかった(らしい)のである。

初耳といえば、溝口健二監督と田中絹代の関係も、私には初耳だった。

溝口健二は、「西鶴一代女」「雨月物語」「山椒太夫」などを監督し、黒澤明と肩を並べる世界的な大監督であり、田中絹代はこれらの映画に主演した大女優であった。日本の「国宝的」大監督と、「国宝的」大女優は、おたがいに愛情をいだきあって愛人関係になっていたのだ。にもかかわらず、二人の関係は一向に進展しなかった。

溝口には、発狂して精神病院に入院中の正妻がいたし、正妻の入院後、溝口は妻の弟の未亡人ふじを実質的な妻にして同棲していたから、田中絹代の割り込む隙はなかったのである。田中には、ハッキリしない溝口への不満があったところへ、次のような噂が流れてきたので、絹代は腹を立てて溝口と絶交してしまった。絹代が映画監督をやろうとしたら、溝口が「絹代のアタマでは、監督はやれません」と反対したというのである。

その田中絹代の耳に、溝口健二が白血病で死の床にあるという話が入って来る。彼女は昔の恋人を見舞いに出かけた。溝口は田中を迎えて淡々と言葉を交わしていたが、その顔はかがやくようだったといわれている。

外国人のラフカディオ・ハーンや魯迅の話にも心引かれた。

ラフカディオ・ハーンは、狭心症の発作に襲われたときに、死を予感して妻に遺言を告げた。自分が死んでも、決して泣いてはならない、遺骨は瀬戸物屋に行って、三銭か四銭の安い瓶を買ってその中に入れてくれと。


「私の骨いれて、田舎の寂しい小さな寺に埋めて下さい。私、死にましたの、知らせ、いりません。もし人が尋ねましたならば、はあ、あれは先き頃なくなりました。それでよいのです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい」

この時には大事に至らずに済んだが、その一週間後にハーンは死んでいる。

ハーンは、妻に遠慮して食後のタバコを庭に出て吸うのを例としていた。その日の夕方、庭でタバコを吸っていたハーンが、薄闇の中から青ざめた顔で座敷に上がってきた。

「ママさん、先日の病気、また参りました」

妻の節子が、急いで彼をベットに寝かせようとすると、

「人の苦しがるのを見るの、不愉快でしょう。あなた、あっちへいって、なさい」

ハーンはベットに横になって暫くすると、息絶えていた。その顔には苦痛の色はなく、微笑の影が宿っていた。

魯迅の項を読んでいて感心するのは、彼には全く売名行為がなかったことである。彼はノーベル賞を辞退しているし、自叙伝を書こうともしなかった。

「私は自叙伝を書くつもりはないし、誰かに書いてもらいたくもない。私の生涯にはとりたてて語るようなことは何もない。私の伝記程度のものなら中国では四億も集まるだろう」

そして家族には常々、こう言い含めていた。

「私の葬式には、人から金銭を受け取るな。お前たちは、私のことなど早く忘れて、それぞれ自分の生活の道を歩め」

しかし烈々たる闘志は最後まで失わなかった。彼は、遺書にこう書いている。

「キリスト教徒は臨終ですべてを許すそうだが、私には敵が多い。私を恨むなら勝手に恨め。こちらも誰一人許しはせぬ」

私は以前に触れたように、「餓死」の問題に関心を持っている。それで、人間臨終図巻のなかのこれに関連した人物の項を特に注意して読んだ。たとえば、ゴーゴリや内田魯庵の項である。

宇野浩二全集を購入したときも、彼の書いたゴーゴリの評伝を興味深く読んだものだった。宇野浩二はトルストイやドストエフスキーよりも、ゴーゴリを愛していた。私も学生時代に森田草平の訳で「死せる魂」を読んで以来、ゴーゴリのファンになっていたのである。

ゴーゴリは、「鼻」「検察官」「外套」など多量の毒を含んだ作品を発表して注目され、30才で大作「死せる魂」に取りかかった。宇野の本によると、ゴーゴリはこの作品を三部に分け、第一部では人間の持つあらゆる醜悪を摘発し、第二部でその醜悪さに苦悩する人間を描き、最後の第三部で理想的な人間を描こうとしていたという。

ところが、ゴーゴリは第一部を発表し、第二部をほぼ完成した段階になって、突然、自身に対する疑惑に取り付かれる。彼は強い罪悪感に襲われて、ペンが全く進まなくなった。彼は友人に宛てて、嘆きの手紙を書いている──「私の創作力は全く衰えた。一枚どころか一行がやっとだ。人は40才でこんな老人になるものだろうか」

人間臨終図巻では、彼の絶食死に絡まる事情を次のように書いている。

「ある夜、彼は跪いて熱心に祈ったあと、蝋燭を手にして十字を
切り、自分の『死せる魂』第二部の原稿を暖炉に投げこみ、
その蝋燭で火をつけた。召使いはその重大さに驚き、泣き
ながらとめたが、ゴーゴリは『お前とは関係ない。お前も
神に祈れ』といって、十字を切って召使いに接吻した。そ
して、長椅子につっ伏して、声をあげて泣き出した。

 彼がなぜこういう行為に出たかは、永遠の謎である。
 しかし彼は、その翌朝トルストイにいった。『何という
悪魔の力強さだろう。僕が死後の記念として残そうと思っ
た原稿を、あいつが焼いてしまったよ』
                        
 この日から彼は一切の飲食を拒絶した。終日寝巻を着て、
足を机の上にのせて坐ったきり、ほとんど人を近づけなか
った。

牧師が来て、食事や薬を勧めてもゴーゴリはとり合わず
ついに医者が呼ばれて、強制的に頭部に氷嚢をつけたまま
風呂にいれたり、はては手足をおさえつけて蛭を吸いつか
せたり、芥子泥をぬりつけたりした。

 二月十六日の夜十時過ぎに衰弱し、狂乱状態になった
ゴーゴリは、『梯子を! 梯子を』と、意味不明の言葉
をさけんだ。それが彼の最後の言葉となった。あくる日の
朝八時頃、彼は絶命した」
(注:文中に出てくるトルストイは文豪のトルストイとは別人)

宇野浩二の評伝によると、絶食期間は2月11日から2月21日だから、絶命するまでに10日を要したことになる。相当頑固な人間でないと、断食して死ぬという芸当は難しいらしいのだ。

内田魯庵は明治期に活躍した批評家兼翻訳家で、日本に初めて「罪と罰」を紹介した人物である。彼は、臨終の四五日前に、自分でも、もうとてもダメだと観念して、食物も薬も一切拒否するようになった。両手で唇をふさぎ、口に何も入れさせなかった。夫人が言葉を尽くして勧めると、ようやく少しばかりの薬を口に入れるが、すぐ吐き出してしまう。「こんな役に立たない体になって、おめおめ長く生きているのは、皆に気の毒だ」という諦観から出発した行動だった。

自発的な餓死ではなく、懲罰で餓死させられた者もある。コルベ神父は、そうした人間の一人だった。

コルベ神父は、昭和5年に来日して日本国内で布教に当たっていたけれども、第二次世界大戦の直前に故国のポーランドに呼び戻されて修道院長になった。だが、それも束の間、彼はボーランドに侵攻してきたドイツ軍に捕らえられてアウシュビッツ収容所に送られる。

収容所で一人の脱走者が出たため、ドイツ軍は懲罰のため数十人のポーランド人を無作為に選んで「飢餓刑室」に放り込んだ。コルベ神父はその選に入っていなかったが、選ばれた囚人の身代わりに自分を処刑してほしいと申し出て、囚人一名の命を助けている。

強制的な絶食二週間後には、囚人たちはコルベ神父一人を残して皆餓死した。収容所長は癇癪を起こして、神父に毒薬を注射して殺してしまう。

人間臨終図巻上巻の最後の方に、伊藤整が取り上げられている。

年譜によると、伊藤整は昭和44年、64歳の春先から体調を崩し、血便などの兆候を見せ始めたらしい。だが、彼は文芸春秋社の文化講演会講師として四国へ旅行している。これが悪かったらしく、以後急激に病状が悪化し、5月6日に神田同和病院に入院することになった。

病院での最初の診断は、慢性腸閉塞症ということだったが、入院一週間後に開腹手術をしてみると胃ガンの末期であることが判明した。胃ガンのため腹膜炎を起こしていて、これが腸閉塞の症状をもたらしていたのである。既に成人していた長男と次男は、担当の医師と相談して、このことを本人と他の家族には秘密にしておくことにした。

・・・・・ガンを恐れ、ガンを嫌悪していた伊藤整は、それ故に医者や息子の言葉にコロリとだまされた。彼は、癌研付属病院に移されてからも、まだ自分がガンであることに半信半疑でいた。

・・・・・気分のいいときには、彼は病気が治ったら、利根川沿いの港町に隠棲する夢を描き、古い大きな農家を探しておいてくれと人に頼んでいる。だが、時折、強い不安に襲われることもあった。藤枝静男は、伊藤整の態度には儒教武士的な面影があると書いているけれども、彼は病床でしばしば涙を流している。

入院一週間後には、早くも次のような文章が見える。

『十一時眼が覚めて朝五時まで眠れず。輾転反側す。時々流涕して幼時を思う』

9月になると病状は深刻になり、一晩中、嘔吐を繰り返して眠れないようになった。この間、妻も眠らずに夫を介護していたが、そんな最中に彼は死についての自分の覚悟を妻にいろいろ語っている。 

人間臨終図巻の著者は、伊藤整が気分のいいときには、早朝病院の近くを散歩したと書いている。著者は、伊藤整が妻や看護婦の同行を拒み、時には道ばたにしゃがみ込んだりしながら一人で歩いたことを記しながら、「穏やかな相貌の下に、伊藤整は強い意志を持つ人間だった」と賞賛するのである。

しかし、最後の時が迫った。医師から臨終の近いことを知らされた妻は、あちこちに電話をかけた。見舞客が続々と駆けつけたが、伊藤は誰にも会いたくないと言って、独りで苦しみ抜く。夕方、彼は主治医に、もつれた北海道弁で懇願する。

「先生、もう死ンしてくンさい」

しかし、数時間して九時頃に、

「死にたくないなア」

三十分後の九時半頃に、もう一度、「死にたくないなア」といった。

何時も無口な主治医が、伊藤の絶命後、「よく我慢して下さった」とつぶやいた。

夏目漱石は、「死にたくない」といって亡くなったというけれども、伊藤整の最後はこれを思わせる死に方をしたのである。

              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

:::私は以前に伊藤整の死に関連して、以下のような雑文を書いているので参考のために付記しておきたい:::        

藤枝静男著作集を読んでいたら、伊藤整の病床日記に関する感想が載っていた。

藤枝は、伊藤整の病臥態度を、「儒教武士的ともいえる自己抑制に満ちた態度」だったと賞賛しているので、伊藤整全集を取り出して「病中日記」を読んでみた。これは伊藤整が亡くなる年(昭和44年)の6月1日から10月21日にかけての日記で、彼は11月15日に逝去しているから、ほとんど死の間際までつけていた日記ということになる。

藤枝静男は、初対面の伊藤整について、こんなことを書いている。

<「ぼくが一番恐れているのは脳溢血と癌です。癌は嫌ですね」と(伊藤整が)云われたので、「僕もよくは知りませんが、脳溢血の方はどっちかといえば血管の自然の老化現象のひとつで不可避の生理的変化に近いからなかなか難しいでしょうが、癌の方は器官の一部に起きる病的変化だから解決の方法は案外早く見つかるような気がします」と答えた。
すると、それまで当然のことではあるが口先きだけの、しかし温味ある受け答えをされていた氏の表情が急にうち解けたものに変化した。>

伊藤整は、藤枝が医師であることを知っていたから、ガンの話を持ち出したのである。そしてガンの治療法も早晩発見されるかもしれないと聞かされると、急にリラックスして藤枝にうち解けた表情を見せたのだ。

ガンを恐れ、ガンを嫌悪していた伊藤整は、それ故に医者や息子の言葉にころりとだまされた。彼は、癌研付属病院に移されてからも、まだ自分がガンであることに半信半疑でいたのである。

伊藤整の病床日記を読むと、病状がノコギリの歯のように上り下りしていることが分かる。

<この数日平熱。爽快>

<平熱四日つづく。元気なり>

というような記事の合間に、発熱や嘔吐の記事が出現し、「これですっかりよくなった」と喜色を浮かべて日記を書いた数日後に、病状が再び悪化、すべてはぬか喜びに終わっている。

こんな記事もある。

<午前便意あり座薬を使ったのだが固くて出ない。指先でほじくりだすという荒作業により固いところを出した>

日記には、彼の病気について文壇では次のような「世論」が一般的になっていることも記されている。

<丹羽文雄をはじめ、私の病気理由不明で熱が何十日も続くようなら病院を取り替えるべきだとの意見が文壇に一般化していた由>

気分のいいときには、彼は病気が治ったら、利根川沿いの港町に隠棲する夢を描き、古い大きな農家を探しておいてくれと人に頼んだりしていた。だが、時折、強い不安に襲われることもあった。藤枝は、伊藤整の態度には儒教武士的な面影があると書いているけれども、彼は病床でしばしば涙を流しているのである。

入院一週間後には、早くも次のような文章が見える。

<十一時眼が覚めて朝五時まで眠れず。輾転反側す。時々流涕して幼時を思う>

9月になると病状は深刻になり、一晩中、嘔吐を繰り返して眠れないようになった。この間、妻も眠らずに夫を介護していたが、そんな最中に彼は死についての自分の覚悟を妻に語っている。

<生死について貞子に話しているうちに涙出てとまらず。これで終わっても仕方ないと思う>

10月になると、病院側から癌研病院長と相談して新しい治療法に切り替えようと思うがどうかと意見を聞かれる。それまで考えまいとしてきたガンの疑いが、いよいよ現実のものになってきたのである。その日の日記。

<私の方はぎょっとする。しかし従うほかなし。夜涙出てとどまらず。仕事中途のもの多い故なり>

伊藤整は、ガンかもしれないという疑いを濃くしながらも、まだ、そう断定することを避けていた。癌研病院に転院する前の10月18日の日記は、次のようなものであった。

<・・・・私は癌研附属病院の黒川利雄氏のもとへ。それが癌のせいなのか、単なる内科の名手の手に託されるのか分らぬ。貞子たち、決して癌ではないというが、私は最悪を考えて涙流れる。『年々の花』ひとつでもまとめたし>

こうして癌研に移った伊藤整は、一月とたたない11月15日に死去するのだ。まだ、64歳の若さだった。

伊藤整はあまりにも才気煥発に過ぎるため、文壇人から一歩距離を置いて眺められていた。そんな俊敏な彼も自分の病気については、最後まで明確な判断を下すことが出来なかった。その理由はガンに対する恐怖ということもあったが、日記に記しているように彼にはやり残した「仕事」が山ほどあったからだった。私達が彼に対して同情を禁じ得ないのもそのためである。

(追記)

若い頃、伊藤整の書くものは何でも面白く読んでいた。
彼が、「抑圧の強い日本社会では、知識人は仮面紳士になるか逃亡奴隷になるしかない」と書けば、その絶妙な比喩に拍手したし、「若い詩人の肖像」などを読めば、芸術家を目指す若者の内面が手に取るように見て取れて興味深かった。

しかし、伊藤整に親近感を感じたのは、「得能五郎の生活と意見」や「鳴海仙吉」などの身辺雑記ものを読んだからだった。それには、文筆業者として周囲と摩擦なくやって行くために、あれこれ気を遣っている伊藤の日常がユーモラスに語られていた。彼は自分がいかに臆病で小心な男であるかを証明するために、第三次世界大戦の勃発に備え、自宅の庭先で山羊を飼っているなど打ち明けるのである。

写真で見る伊藤整も、そのエスプリに充ちた身辺雑記の内容を裏付けるかのようだった。知的で、いかにもやさしそうな笑顔。文壇評判記といった種類の記事によると、作家仲間の間では彼は誰に対しても微笑を絶やさない温厚な紳士として知られているということだった。

そうした伊藤整のイメージが崩れたのは、彼の死後に息子が雑誌に書いた追憶記事を読んだときだった。息子は、「子供の頃、父に階段から蹴落とされたことがある」と語っていたのだ。

それよりもっと驚かされたのは、伊藤整が若い頃から奮闘的人生を送っていたらしいことだった。彼は小樽高等商業学校を卒業して、市立中学校の英語教師になっている。が、僅か二年後に教師を辞めて上京し、東京商科大学(現在の一橋大学)を受験し合格しているのである。

彼の父親は村役場の吏員で、妻との間に12人の子供をもうけていた。このうち7人は死んで5人が生き残っていて、伊藤整はその長男だった。こういう家庭に生まれた彼が、上京して学生生活をやり直すためには相当額の資金を必要としただろう事は間違いない。ところが、彼は教師をしていた二年の間に、何と千三百円もの大金を貯金していたのである。しかも彼は、この間に、実家に月30円ほどずつ仕送りをしていたし、「雪明りの路」という詩集の自費出版もしているのだ。月給85円の新任教師の身で、どうしてこんな手品のようなことが可能だったのだろうか。

伊藤は学校の宿直室に泊まり込んで下宿代を節約しながら、夜間学校の教師をしたり、外人に日本語を教えて副収入の道を講じたりしていたらしい。それにしても、二年間に千三百円を貯金するためには、毎月54円ずつ積み立てて行かねばならず、これをやり遂げるには、強靱な意志の力と才覚が必要なのである。

上京した伊藤整は、この強靱な意志と目から鼻に抜けるような才覚で着々と文壇的野心を実現して行くのだ。マルクス主義文学の退潮後、日本のジャーナリズムは欧米の新しい文学的潮流に目を向けるようになるだろうと狙いをつけた伊藤は、ジョイス文学の紹介者になり、自らも「意識の流れ」の手法に基づいた作品を発表しはじめる。

こうして新進作家として登録された伊藤整は、戦後になると文学理論と実作の双方で実績を積み上げて行く。それだけではなかった。彼は「女性に関する十二章」などのベストセラーを連発して、経済的にも大いに潤い、文壇長者番付に顔を出すようになった。彼は名声も富も手に入れ、若き日の目標をすべて達成したのである。

だが、平野謙全集8巻を読んでいるうちに、意外な文章にぶつかった。伊藤整は、こういう順風満帆の人生を否定していたというのだ。以下は、問題の平野謙の文章である。

<「四季」伊藤整追悼号(昭和四十五年十月)の伊藤礼の『最
後の心情吐露』という文章は、つぎのような言葉で結ばれ
てある。

家庭生活において、伊藤整はほとんど心情吐露を
しなかったが、死ぬ前日になって、一生でいちばん大きな
心情吐露をしたという。「俺はバカだ。俺はバカだ」と、
何回か呟いたということである。>                    

伊藤整が死に臨んで、なぜ自分の人生は失敗だったと総括したのか、その真意は推察するしかない。けれども、常識的に考えれば、伊藤整は上昇欲求に突き動かされ、脇目もふらずに走り続けた自分の人生を、もっと他の生き方もあったのではないかと見直す気持ちになっていたと思われるのだ。

彼の最後の作品「変容」には、生き急ぐような形で死んだ流行作家倉田満作に対する感想が語られている。

<・・・・・彼は自分の健康を無造作に扱った。それが彼の浪費だった。彼は時間も体力も、投げ捨てるように生きていた。

そして彼のまわりには、倉田満作の生涯の終わりの黄金の滴りのような生命を吸い取り、盗み貪る友人や弟子や出版業者たちが群れていた。>

彼は、倉田満作という作中人物のなかに、自らの人生を書き込んだのだ。黄金の滴りのように貴重な生命を、ひたすら原稿を書くことで費消してしまった自分への苦い気持ちを、彼は倉田満作に託して述べているのである。

晩年の我執三部作といわれる「氾濫」「発掘」「変容」は、成功を夢見て努力し、無事目標を達した主人公が見た荒涼たる世界を描いている。彼らは絶望しつつ、そのなかで同時に救いを予覚しているのだ。「発掘」の主人公は、「死の方に立ちのいた筈の自分が、実は理解と慈悲の体現者なる神のようなものの方へ立ちのいた、とも考えられた」と述懐している。

「発掘」を書いたときの伊藤整の年齢は58才だった。老年の心境を語るには彼は未だ若すぎたため、主人公にこうした晦渋な述懐をさせることになったのである。

人間は、ある年齢を超えると世の中を死者の目で眺めるようになる。卑近な例をあげれば、年を取るにつれて何時となく愛する妻子の未来を死者の目で眺めはじめるのだ。豊臣秀吉は、自分が亡き後の秀頼のことを心配して、有力大名を次々に病床に呼び寄せ、相手の手を固く握りしめて、「(秀頼のことを)頼みますぞ、頼みますぞ」と懇願したという。だが、秀頼は、秀吉の死後あえなく敗死している。

もし秀吉に現実をあるがままに見る死者の目が備っていたら、配下の大名の手を握りながらも、我が子の将来について楽観しなかったろう。希望的観測を抱いても何の効もないことを承知していたからだ。

希望的観測が何の力を持たないことは、近親者の未来についてだけではない。社会も世界も、なるようにしかならないのである。個人が世のため人のためにどんなに献身しても世界が変わらないし、個人がどんなに熱誠を込めて祈っても、この世は明るくならない。

人は元気なうちは生者の目で世界を眺め、その上に自分の実現しようとする未来図を描く。が、60を過ぎ、退職でもして第一線を退けば、死者の目で、つまり事実唯真の目で自他を眺めるようになる。すると、個人の献身や祈りをはねつける巨大な怪物のように見えた世界が違った印象を与えるようになる。

死者の目は、希望的観測を交えない無私の目なのだ。無私の目が見るこの世は、天国でもなければ地獄でもないが、ゆったりと流れる大河のように、知と愛の実現を目指して少しずつ流れ動いている。伊藤整の言葉を借りれば、現世は「理解と慈悲の体現者なる神のようなもの」に教導されつつ無限の運動を続けているのだ。

医師によれば、人間の遺伝子の中には死が組み込まれているという。フロイトも、人間には死を願い、死を待望する「死本能」があると言っている。冷徹な「死者の目」を背後から支えているのは、遺伝子に組み込まれている死本能なのではなかろうか。

人は老いることによって、生者の意識のなかに死者の目が生まれたように感じる。だが、生者の意識は自己欺瞞に覆われて常に真実を見誤るのに、死者の目はあるがままの現実を総体として受容する。死者の目は、真実直視の目なのである。

伊藤整に悔いがあったとすれば、生者の立場にとらわれて、思い切って「理解と慈悲の体現者なる神のようなもの」の方向に飛躍できなかったことに対してだろう。