哲学的な自殺

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自殺した哲学者が、自ら自殺する理由についてについて書き、読者にも自殺を勧めた本がある。

その本の新聞広告には、「晴朗で健全で、そして平常心で決行された自死」とあったので、その「自死という生き方」という本を読んでみたら、全編、中年以降の年配者に自殺を勧める本だった。

著者が自殺を勧めるのは、老化による精神の衰弱と自然死による肉体の苦しみを回避するためなのだ。自然死(普通の老齢による死)については、眠るような死というイメージがあるけれども、実際はそんなものでないと著者は指摘する。

「ベストセラーになり、全米図書賞を受賞した『人間らしい死にかた』(ヌーランド著、河出文庫)という本がある。そこには「自然死」について、特に「病院における自然死」についての事例が大量に収集され、克明に分析されている。専門家としてヌーランドは、『はじめに』の所で『私自身、人が死に行く過程で尊厳を感じた例に出会ったことははとんどない』といっている(「自死という生き方」)」

著者は、「自然死」のほとんどが悲惨なものであるのに、識者たちは、「穏やかな自然な死」だの「眠るような老衰死」だのという神話を流しているという。とにかく著者の言いたいことは単純明快である。「老化と自然死」を避ける唯一の方法は自殺することだというのだ。

彼は自説を証明するために、終末医療の先駆者として「聖女」と呼ばれていたキューブラー・ロスの名前を挙げる。彼女は40数年間にわたって数千人の最期を看取って来た愛の人である。

働き盛りだった頃の彼女は、聖女と呼ばれるにふさわしい美しい言葉を残している。

「学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる……いのちの唯一の目的は成長することにある。究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある」

人生最高の報酬と人生最大の祝福は、苦しむ人々を助けることによって得られると彼女はいう。

「人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のようにみえるすべての試練は、実際には神からの贈り物である。それらは成長の機会であり、成長こそがいのちのただひとつの目的なのだ」

こうしたキリスト教精神に満ちあふれた言葉を口にしていた彼女が、晩年、脳梗塞で倒れると、その言動は一変するのだ。

彼女は自分が専門としてきた精神分析学について、噛んで吐き出すように、「精神分析は時間と金の無駄だった」と語り、自分の仕事・名声そして彼女に寄せられる夥しいファンレターなどには、一銭の価値もないと言い切るようになったのである。彼女の毒舌は尽きることを知らない。


「愛なんて、もう、うんざり。よく言ったもんだわ」
「神様はヒトラーよ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出るわ」

著者はこういうキューブラー・ロスの例を挙げて、人は老化すれば豹変し、考えられないほどの知的頽落を見せつける。だから、彼はそうなる以前に自殺せよというのである。

しかし著者の言葉は、説得力を持つに至っていない。それは、彼が自殺を決意してから、あまり時間をおかずにこの本を書き上げたからだった。気が急いていた彼は、十分な検討を経ないままに文章を書き進めた。だから、三島由紀夫・伊丹十三・ソクラテスの死を、老醜を嫌悪しての死という点で共通しているとして三者を一括りにしてしまうような過ちを犯すのである。


三島由紀夫の死には、老醜嫌悪の傾向があったかもしれない。が、伊丹十三が老醜を恐れて死んだとするには無理がある。ましてソクラテスが平然と処刑された理由を、老いによる自己の劣化を恐れたからだなどと断定するのは見当違いも甚だしいのだ。著者は、自説を立証する人物として、もっと相応しい人間をあげることも出来たのに、気が急いて事実を検証することをおこたってしまったのである。

こういう性急な態度は、自著の柱に「葉隠」を持ってきたことにも現れている(彼の著書には「自死という生き方」という名前が付いているが、これは出版者側の付けたものと思われる。原本には、「新葉隠」という題名がついている)。

著者によれば、自殺を覚悟し、死を予定しつつ生きて行くには、死を先取りした「心の枠組み」が必要だが、その「心の枠組み」を構築するための手本が「葉隠」のなかにあるという。葉隠には、「いつでもあっさりと腹を切ることの出来る状態になっている心の有り様」が描かれているというのである。

死ぬべき時に死ぬ自由を保持するには、精神の偉大さと晴朗さが必要だとする著者は、「葉隠的老人道」なるものを提案する。

「そこで、『葉隠的老人道』を提案したい。『老人道』とは何時でも自死を決行する覚悟を身に付けた上で、そして出来れば『死にたがり』になった上で、日々生きることであり、このような態勢を整えたときにはじめて人生を肯定できるのであるし、また老年期を明るく積極的に生きることもできると考えているのである」

葉隠の武士たちは、チャンス到来と見ればすぐに切腹した。生きるか死ぬか迷ったら、問答無用、即刻死を選ぶのが 葉隠の推奨する行動なのだ。著者によると、「切腹とは、個人としての自尊心と主体性を確保するための行動」なのである。封建時代の武士たちは、体制への絶対服従というモラルで縛られていた。そういうガンジガラメの規範から抜け出して武士たちが自己を回復するには、腹を切るしかなかった。

事情はキリスト教的モラルに縛られていた清教徒が、自己を取り戻すために教会的倫理を超えた「西欧型個人主義」を発明したのに似ている。

現代に生きる中高年者は、封建時代の武士や中世のクリスチャンとは異なり、外部規範に縛られてはいない。現代人を縛っている逃れがたいものは、老化によって人間の質が落ちていくという自然過程であり、科学的摂理なのである。中高年者は大自然への反抗として自殺するしかないのである。自殺とは、自然法則による宿命的な縛りから抜け出して、個人の主体性を回復する手段にほかならない。

この本は、「中高年の男女よ、心身の衰えを自覚したら、葉隠武士が腹かっさばいで死んだように、躊躇せずに自殺せよ」と呼びかける。著者は、話を論理的に運ぶ代わりに、読者の覚悟を求める。彼は、死を恐れない昔ながらの美徳を推奨しているのだ。

著者は、読むべき本として一冊だけ選ぶなら、それは夢野久作の「近世快人伝」だろうといっている。この本には、頭山満、杉山茂丸など戦前に活躍した右翼の巨頭について書かれている。彼は分析哲学を専攻する哲学者だったにもかかわらず、戦前の政治浪人や東洋的豪傑に惹かれるバンカラ的心情の所有者だったのである。

彼は「哲学的事業」として予告通り自死した。一体、著者の須原一秀とは、いかなる人物だったのだろうか。

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須原一秀は、二〇〇六年四月はじめに「哲学的事業」の一つとして自殺を決行した。時に65才だった。

彼は、これに先立つ十ヶ月ほど前から日記をつけ始めている。その日記は自殺する半月前まで続いているから、これを読めば死に向かって歩き続けた彼の内面をたどることが出来る。日記によれば、須原一秀はすでに三〇代の終わり頃から、自死について予告していた。親しい友人たちには、「私の人生は65才までだ」と明言していたという。

だが、それは酔余の放言であって、彼が本当に自殺を考え始めたのは、自死決行の一年前からだった。「前年の三月か四月頃に心は決まっていたような気がするが、自分でもそれが本物かどうかわからなかった」と彼は書いている。

彼の気持ちが確定したのは、前年の八月一三日だったと思われる。彼はこの日に自分の決意を親しい友人に告げ、八月一九日には別の友人に、十月四日にはもう一人の友人に打ち明けている。友人たちは須原一秀の決意を聞いて戸惑ったが、結局、普段の須原の言動を思い返して何とか受け入れてくれた。

友人たちが彼の自殺を受け入れてくれたことは、自死の覚悟を持続する上で非常に役立ったと須原は書いている。勇気を得た彼は、後に続く同志にこう提言するのである。

「仲間を作るべきである。出来れば数人で一種の共同体を形成し、自死決行の時期や方法について語り合える仲間がいることはとても重要である。・・・・お互い協力して思いを遂げる手伝いをしてやるのである」

前年の十一月四日には、彼は死後に臓器を提供することを決めて、「臓器提供意思表示カード」に署名している。この頃に、彼は「葉隠」からヒントを得て自殺の正当化理論を確立したので、気持ちが楽になっていたらしく、「何か新しい遊びを思いついた子供のようにワクワクしている」と書いている。死後に残すために書き始めていた「新葉隠」にも興が乗って、筆は滑るように動いた。

しかし年末頃から少しずつ焦りの気持ちが芽生え始め、翌年の三月半ばになると強い焦慮に襲われるようになる。自殺するまでにあと半月しかないのに、遺稿はまだ完成していないからだった。「新葉隠」を完成させることは、重要な「哲学的事業」なのである。

それに彼は、まだ遺書も書いてなかった。それも当然だった。彼はその時期になっても、どこで自殺するのか、どういう方法で自殺するのか決定していなかったのだ。自死するには場所と方法を決め、そのための道具を用意しておかなければならない。それなのに、すべてがまだ手つかずの状態にある──

十二月十八日の日記には、こんな記事がある。気分が落ち込んで、思わず、「ああ、死んでしまいたい」とつぶやいた後で書きつけたものだ。

「もう三ケ月先には死ぬことが確定している人間でも、こんな姑息な手段で自分の気持ちを救っているということは、『死ぬことを前提に生きてこそ、本当の人生を歩むことができる』などという言い草は怪しいものだと感じてしまった。」

一月六日の日記は、こうなっている。

「大晦日も正月も、いつもどおりで特筆すべきことは何もなかった。いつもどおり年越しソバを自分で打ち、友人と三十一日と三日にマージャンをし、一日には神社参りをした。本当に気持ちの上では何も特別なものはなく、人の出入りが多いせいか、総じてご機嫌よく時が過ぎて行った。」

彼は文科系というより、むしろ体育系の人間だったから、二十代から運動を欠かしたことがなかった。自殺を決めてからも、定期的にスポーツジムに通い、エアロビクスで汗を流している。運動も好き、社交も好きだった彼は、平生、「自宅にたくさんの人を呼んで宴会をする」ことに楽しみを見いだしていた。

一月二十日には、最終講義に関する記事がある。

「例年のごとく今週で哲学、論理学、倫理学、語学などの科目の最終講義は終わったのだが、三月に私が死んだというニュースを聞けば受講生たちが思い当たることがあるように、少し狙って内容を展開したが、あまりうまくはゆかなかった。」

最後の日記。

「それはそうと、今の私はあまり時間がなくてあせっている。片付けなければいけない仕事が重なってきたのである。そのせいで、今までの気分の良さがそがれてしまっている。後進の方々には、期日などにはこだわらないように事態を設計されますようお勧めする。」

そして、いよいよ自殺決行の日が来る。

2006年四月初め、彼はある神社の裏山で、頸動脈を刃物で切り裂いた上で、縊死している。こういう自殺的行為を二度重ねるという壮絶な自殺を遂げたのは、失敗することを恐れたからだった。

私は初志を貫徹した須原一秀に敬意を表するものだが、多少、気になる点がないでもない。彼はスポーツマンらしく果断に行動した。だが、遺著「新葉隠」の内容は、必ずしも首尾一貫しているとは言い難いのである。

彼は現在非難の対象になっている自殺を温かい目で許容するような社会、いや自殺が敬意をもって迎えられるような社会の実現を目指していた。彼の主張からすれば、自殺は万人の前に開かれた普遍的な大道になるはずなのに、彼は自殺をエリートのみに許された特権だと取られかねない説明をしている。彼は、人生の何たるかを体得し、自分が過去にしてきたこと、将来なすであろうことを正確に計算できる人間のみ自殺の資格があるというのだ。

彼は自殺をするには、5段階の階梯を踏んで行かねばならぬといい、その第一段階として、「人生の全体の高」と「自分自身の高」について納得済みであることをあげる。「人生の高」「自分の高」とは、わかりにくい表現だが、「高」とは、総量・全体容量を意味していると取れば、自殺するための前提条件は、当人が人生と自己の実質を正確に把握していることだということになる。

彼の理論の特色は、「自分の高」「自己の実質」を、これまでに達成してきた「極み」の量で計測していることだろう。「極み」というのもわかりにくい言葉だが、これは日常生活の中で味わう、かけがいのない幸福感を意味している。彼は自身の体験で「極み」を説明する。

「幼児だった子供二人と女房の四人で自宅の風呂に入っていて、息子が娘にふざけてお湯をはねかけていて、それを避けるため娘が私の首にかじり付き、女房が向こうで頭を洗っている」こういう瞬間に感じられる「これ以上のものは、もう何もいらない」という感覚が「極み」だというのである。

須原は、こういう「極み」体験をたくさん持っている人間として三島由紀夫・伊丹十三・ソクラテスをあげ、だから、この三人は安んじて死ぬことが出来たのだという。そして彼は自分自身を三島・伊丹・ソクラテスの域まで引き上げるために、自らの「極み」についてあれこれと語るのである。彼は自分が敗北者として自殺するのではなく、勝利者として自若として死ぬことを示したかったのだ(彼が自分の人生に区切りをつけるために65才で死んだのには、彼の勤務する大学の定年年齢と関係があるような気がする)。

だが、私は、「人生の高、自分の高」を知った人間は自身の能力の下降を恐れて自殺するという著者の結論に反対せざるを得ない。人は「人生の高」「自分の高」を本当に知れば、自己に執着することを止めて「自分離れ」を起こすのではなかろうか。

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自殺の原因には、いろいろある。事業に失敗したり、失恋したり、研究に行き詰まったりして自殺するのだが、そのメカニズムは精神分析学によれば次のように考えられている。

仕事に熱中するのも、異性を愛するのも、真理を探究するのも広義の攻撃欲求の表れであり、その欲求がいろいろな事情で阻まれると、エネルギーは反転して自己破壊欲求になる。つまり、外部に向けられていた攻撃的エネルギーを自分自身に振り向け、そのエネルギーが限度を超えたときに自殺するのだ。

では、須原一秀の場合は、どうだろうか。

彼が若さを保つために闘いつづけ、その闘いに敗れて攻撃的エネルギーを自己に振り向けて死んだとしたら、彼の場合もエネルギー反転型の自殺ということになる。私が不思議でならないのは、彼が定年になる以前から65歳になれば自身の能力が下降線をたどり始めると決め込んでいたことだ。定年を迎えて、仕事から離れたとき、することがなくなって無聊をかこつのは、シェルドンに言わせると「青春志向型」タイプだが、このほかに「老年志向型」というタイプがあり、この型の人間は競争社会から離れてマイペースで暮らすことが出来る老後に幸福感を得るといわれる。

青春志向型、老年志向型というような区別を問わず、定年退職を迎えた「老人」が共通して開眼する新しい世界がある。

一般に定年退職して暫くすると、誰でも人生の実質・自己の実質がありありと見えてくるものだ。それまでは、人間の一生を謎や神秘に満ちた複雑微妙なものと思っていても、退職して人生と自己の「高」を知れば、生きるということはこの程度のことでしかなかったのかという拍子抜けした気持ちになる。そして以後は、醒めた諦観の目で世界を眺めるようになるのである。

人間というものは、長くても百才という限られた時間枠の中で、全員が同じような欲望を抱き、同じようなことをして、同じように死んでいくのである。人は、犬や猫を眺めて、多少の差はあっても彼らが皆同じような一生をたどることを知っている。「高」を知れば、犬・猫の一生を見ると同じ目で、人間の一生を見るようになるのだ。ビル・ゲイツも、天皇も、ヒラリー・クリントンも、そして近隣の人々も、みんな同じ身の丈をした同等・等質の人間なのであって、みな同じような段階を踏んで成長し、同じようなことを夢見て、同じように死んで行くのである。

すべての人間を同等・等質の存在と見るようになって、初めて「自分離れ」が可能になる。自分を特別視しないで、自分を「その他大勢」の一人として見て、結果として「自分離れ」をおこすのだ。「自分離れ」をおこした人間は、「もう自分のことはいい」と態度転換を試みる。そして、世のため人のためにボランティア活動に励んだり、一文の金にもならない趣味の世界に没頭したりする。個に執着することを止め、まわりの無名の人々の間に紛れ込み、やがて到来する終わりの時を静かに待つ心境になるのである。「高」を知れば、おのずと虚名を追うことを止めて、「無名化」のコースを選択するようになるのだ。

ところが須原一秀は、「高」を知ることの重要性に気づきながら、「高」を知れば、その高を保持するために自死を選ぶ筈だと言い出すのである。彼は「高」を知るという言葉を、自己および社会の総量・全容量を知る、つまり自己および社会の実相を知るという意味で使っている。自己の実相を知ったら、自分を過大に評価することを止めて分相応の生き方をするようになる筈なのに、彼は人が衰えて従来の能力を失うようなら死んだ方がましだと考える。

彼は、65才を正常な知力・体力を保持できる限界年齢と考えて、この年齢になるのを待って自殺した。しかし、私の経験からすると、知力・体力が最高の状態になるのは退職後60才から75才くらいまでの15年間ほどで、その後も体力は別として頭の働きはさほど落ちはしない。にもかかわらず、須原は65才で人生に終止符を打ってしまった。あまりにも見切りが早すぎたのだ。年を取れば、老いた人間にしか見えない世界が見えてくるのに、老後を引き算だけの境涯ととらえてしまったのである