アメリカ人と結婚したら

米谷ふみ子は、「過越しの祭」という作品で芥川賞を獲得した女流作家である。彼女が男尊女卑の日本社会に絶望して、アメリカのニューヨークに渡ったのは、今を去る50年ほど前のことだった。ニューヨークにたどり着くまでに2週間を要したのは、船と汽車を乗り継いでの旅だったからだ。

彼女は元々将来を嘱望されていた画家だった。26歳の時に二科会に出品し「関西女流美術賞」を受賞して奨学金を貰ったために、29歳で渡米することが出来たのだ。渡米後はニューハンプシャー州の芸術家村マクダウェル・コロニーに住み、そこでユダヤ人作家のジョシュ・グリーンフェルドと知り合って結婚する。そして、二児をもうけたのちに、夫と同じように小説を書き始めたのである。

伊藤比呂美もイギリス系ユダヤ人と結婚しているところを見ると、アメリカではユダヤ人と日本人は似たような立場に置かれているのかもしれない。ユダヤ人も日本人も頭がよく勤勉だが、その反面、利己的で狡猾なところがあると敬遠されているのだ。

米谷ふみ子の結婚生活は、順風満帆とは言い難かった。夫の側の親族は、いずれもこの結婚には反対だったから、二人の結婚式にジョシュの親戚は一人も出席しなかった。その上、ニューヨークで新居を持ってみると、義母も義姉もそれぞれ日本人に輪を掛けたような姑根性・小姑根性の持ち主だった。特にひどいのは、ジョシュの姉のシルビヤで、彼女はこんなふうな女だった。

<アメリカ中にこれほど多くの人間が住んでいるのに、選りに違って、とりとめのないアマゾンのような大女と親類になろうとは! この顔ったら! この脂ぎったグロテスクな大きな目鼻に、メークアップをこれでもかとするのだから余計にお岩のようになる(「過越しの祭」)>

シルビヤは、怪物のような容姿のためか、まだ独身で憂鬱症の気味があった。その彼女が弟を自分の所有物であるかのように支配していて、妻である米谷ふみ子を事々に排除しようとするのだ。

シルビヤは、弟夫婦のアパートにやってきてベルを鳴らし、ふみ子がドアを開けてやっても挨拶もしない。じろっとふみ子に一瞥をくれるだけで、弟の部屋に直行する。そして、弟に、「ふみ子は貴方を殺しているのよ」と警告するのである。

たまりかねた米谷ふみ子は、夫に直談判して「私を取るか、姉を取るか」と迫る。姉を取るなら、ジョシュと別れて日本へ帰ると彼女が宣告すると、夫もついに折れてニューヨークを捨てて、ロサンゼルス近郊パシフィック・パリセイズに引っ越すことを承知した。ふみ子はそこで二児を生み、14、5年を過ごすのである。

「過越しの祭」という作品は、そのふみ子らが久しぶりにニューヨークに戻り、親戚の家に招待され一族と共に過越しの祭を祝った時の一部始終を綴ったものだ。過越しの祭というのは、エジプトで苦難の生活を送っていたユダヤ人が、モーゼに率いられてエジプトを脱出した日を祝う祭りで、ユダヤ人はそれ以来2000年の間、毎年この日を祝ってきたのだ。レオナルドダビンチの作品「最後の晩餐」も、この日の夕食を描いたものなのである。

ふみ子が参加してみると、一族の会食は4時間にも及んだ。定めの食事を取り、親戚らの短いスピーチがあった後で、参会者全員がユダヤ教の教典を一節づつ読んでいく。米谷ふみ子は、ここでもシルビヤに意地悪をされる。それにも耐えて座に連なっていたふみ子も、最後には我慢できなくなって席を抜け出してしまう。

米谷ふみ子にとって我慢出来なかったのは、ユダヤ人特有の「選民意識」だった。結婚したばかりの頃、夫婦とシルビヤが三人だけになったとき、シルビヤは言ったものである。

<「わたし達は選民なのよ、アル(注:ジョシュのこと)」


 と煙草の煙を両方の鼻の穴から象の牙のように吐いてシルビヤが言った。


 「わたし達はエホバの選民なのよ」
            
 「だから他の民族よりも秀れているのよ」
                     
 脂ぎった頬を震わせてシルビヤが言った。恰も山上の訓を垂れているモーゼになったように。 この部屋に三人しかいないのだからわたし達は″という意味は、アルとシルビ ヤの二人で、非選民はこのわたしであるということは瞭然としていた>

米谷ふみ子はシルビヤの選民意識に失笑を感じながら、こう考える。

<ユダヤ教徒は自分達が神の選民であると豪語し、キリスト教徒は自分達が神の選民であると豪語する。果ては選民が他の選民グループを殺すことになる。

西洋人は自分のことを褒めそやす。自分が他の人より秀れているのだ、自分のしていることが正しいのだ、だから他の人も同じことをしなければならない。そこに何のわだかまもない。そういうことの原因がここにあるのかもしれない>

──以前にふみ子がジョシュの叔母の家に出かけて、何気なく、自分の感想を正直に語ったことがある。

「旧約聖書であっても、新約聖書であっても、一冊の本ですからね。東洋人から見れば両方とも同じ一冊の本です。それなのに西洋ではこの本をもとにして、ユダヤ教だ、カトリックだプロテスタントだと絶えず揉めているのが不思議でたまりません」

すると、伯父、伯母、姑、義姉らは、座っている椅子から電気ショックを受けたように顔をひきつらせた。彼らの瞳孔は開き、やがて、顔全体が硬直したのだ。ふみ子は、何か悪いことを言ったのかしら、と少したじろいだが、どうしてなのか最後まで呑み込めなかった。

ブルックリン・ハイツの自宅に帰り着いた時に、ジョシュが教えてくれた。

「ユダヤ教徒は旧約聖書しか信じてないんだ。そのため、今まで、カトリックから、又、プロテスタントのナチからもいつも迫害を受けていたのだ。だから、ユダヤ教徒は旧約と新約聖書を決して同一視出来ないんだよ」

ところが選民意識を持ち、自分たちの正しさを確信しているのはユダヤ教徒だけではなかった。アメリカ社会に住み着いたふみ子が一番悩まされたのは、キリスト教の宣教師が異教徒を改宗させようと躍起になり、追っても追っても飛んでくるハエのようにしつっこいことだったのだ。

そのキリスト教の牧師らは、核兵器や原爆にちゃんと抗議したろうか。初めて正面切って反対したのは、バートランド・ラッセルであり、ジャン・ポール・サルトルであり、神を信じない反宗教主義者だったではないか。

アメリカに対する幻想が崩れたのは、それだけではなかった。

ふみ子は過越しの祭に顔を出して、アメリカも又男尊女卑の社会であることを知った。準備のために忙しく動き回っているのは女たちであり、男はのんびり雑談に興じているのである。

男尊女卑という点は、夫婦喧嘩をしてみれば一層疑う余地がなくなった。

ジョシュ・米谷ふみ子に取って頭痛の種は、精神障害を持つ次男のケンのことだった。大食児のケンは13歳にもなると、母親より大きくなり、気に入らないことがあると、ふみ子の髪を鷲づかみにして噛みつくようになった。こういう子供を持った親が望むのは、世間の親の望みとは反対だった。何時までも小さくて無力のままでいてほしいということなのだ。そうすれば幼児のように可愛くて、何時までも手元に置いておくことが出来る。だが、ケンのように成長が早いと、女手では糞便を壁に塗りたくったりするる彼を制御出来なくなる。

夫はケンの面倒をほとんど見ないから、非力なふみ子が一人で事に当たらなければならない。

米谷ふみ子には、「遠来の客」という作品がある。雑誌「文学界」の新人賞を受賞した作品で、これが彼女の処女作だったのではないかと思われる。

「遠来の客」は、こんな状況からスタートする──脳障害を持った次男のケンが、大食漢のためか、一年間に30センチも背が伸びはじめ家族の手に負えなくなったため施設に預けることになる・・・・・

手に負えなくなったとはいえ、ケンは家族全員に愛されていたから、彼が施設に入所するにあたって、家族全員が彼を施設まで送っていくことになった。かくて一同は、自家車ホンダ・アコードに乗り込むことになった。

車を運転するのは父親のジョシュ、その隣に母親の米谷ふみ子がすわり、後部座席にジョンとケンの兄弟が乗って出発するのだが、発車すると直ぐにトラブルが起きる。ケンが兄の髪を大きな手で掴み、自分の方にたぐり寄せたのである。

「ケン、やめろ!」と悲鳴を上げる兄の顔に、ケンが噛みついた。ジョンの頬にはくっきり歯形がつき、血がにじみ出てくる。しかし、ジョシュは運転中でハンドルから手が離せないし、ふみ子も非力で二人を引き離すことが出来ない・・・・

こんな修羅場を展開しながら、家族はケンを施設に送り込んだのだ。だが、長年一緒に暮らしてきた家族である。三週間が過ぎるとケンを自宅に連れて帰ることになった。施設の規約では、入所後三週間たてば入所者の一時帰宅を許すことになっているのだ。

ふみ子は、帰宅したケンに出来るだけのことをしてやりたいと思った。それで食事でも何でもケンを喜ばせることを優先させて、帰宅後最初の食事に彼の好物のおでんを作ってやることにした。これが、家長であるジョシュには不満らしかった。それにケンは、父親にあまり愛情を示さなかった。

先におでんを食べてしまったケンが、自分の部屋に引き下がろうとしてふみ子の頬にキスする。そこへジョシュが部屋に入ってきて、ケンに自分の頬をさしだした。そして、「ダディにもキッス」と催促した。

だが、ケンは知らん顔をして、部屋を出て行ってしまった。

ふみ子はケンが使ったフォークや皿を片づけながら、落胆している夫に、「あなたは、今日もお刺身でしょ」と声を掛ける。うなずいて自分で冷蔵庫から刺身を取り出した夫が、急にがなり立てはじめた。見れば、爛々と光る夫の目がつり上がっている。

「誰がこれにビニールを巻き付けたんだっ!」
「決まっているじゃないの、わたしよ」
「ビニールを巻き付けると、中の刺身が腐るじゃないか」
「腐っているわけがないでしょ。昨日、魚屋さんがワゴンの冷蔵庫に入れて持ってきたものを、そのままうちの冷蔵庫に入れておいたんだから」

米谷ふみ子には分かっていたのである、夫は怒る口実を探していたのだ。夫婦の口喧嘩は延々と続き、それでも何とか収まって食事をする段取りになった。ふみ子は自室に引っ込んでいる長男のジョンを呼んだ。

ジョンには、ケンの食べたのと同じおでんを出したが、アメリカ料理を期待していた彼は不満らしかった。夫はそういう長男を見て、味方が出来たと思ったらしく、「ジョン、食事が済んだら映画にでも行こうか」と話しかける。

ふみ子は腹を立てて、思わず言った。

「まあ、あきれた! あなた達はケンと一緒にいたいので、施設から連れて帰って来たんでしょ。たった二日間だけじゃないの。自分の時間をケンのために全部与えるちゅうことでけへんの?」

少し長くなるが、これに続く夫婦二人のやりとりをそのまま引用してみよう。アメリカ人作家の夫と日本人画家の妻が、まるで子供のような言い合いをしているからだ。

<「じゃあ君は、ケンが帰って来る週末は三人共この子に付きっきりという積りかい?この子がトイレに行けば、三人共トイレに行き、風呂に入れば、三人が一緒に洗ってやるのかい?君にそういう命令をする権利はないね。自然な家庭の状態に返らすのがいいのさ。この子が帰って来ても、僕はオフィスに行って仕事をしますよ。ジョンはいつものように友達の所に遊びにも行くよ」
「そういうても、平日ケン家にいやへんのよ。文句言われへんやないの。仕事する
時間無いなんて言われへんやないの。もう口実は無くなったんよ。わたしなんか、この二日、まるまる自分の時間をケンに与えようと用意してたのに……」

又、アル(注:ジョシュ)が叫び出した。

「君に命令されるのが嫌なんだ!すぐに大声で命令するんだからっ!」

ロを閉じると、アルのこめかみが上下にびくっと動いた。道子(注:ふみ子)の声が、それを凌駕するほど大きくなった。

「大声出してんのはあなたよっー」
アルの声が小さくなった。
「君の方が先に叫び出したんだっ!」
道子も同じように声を潜めた。
「あなたの方が先に叫び始めたんよ。でもまあ、わたしが大声を出してるというんやったら、それでもよろしいわ。理由があんねんから。わたしがあなたに話しかけても何も聞いてへんから大声で話すようになったんよ。叫んでるのではのうて、聴こえるように話してんのんよ。あなたの耳の通りが悪いからやないの」
「聴きたくないから聴かないんだ」
「へえ、そうやったん。結婚した時から、この人耳聞こえへんのやろか。わたしの英語が間違いだらけで判れへんのやろかと考えたこともあったけど、二十年経ったいま、判ったことは、用を足すには大声を出すことやということやったんよっ!」>

夫婦喧嘩はようやく収まったが、ケンの髪を散髪する段になるとまた再燃するのである。「日米夫婦喧嘩図絵」と呼んだらいいようなこの作品は、ケンが施設に戻ることで喧嘩が収まったことを記し、ふみ子が「ケンはお客さんになったんやねえ」とつぶやく場面で終わっている。

米谷ふみ子は、日本とは違うと期待を抱いてアメリカにやってきたけれども、米国も男尊女卑の国であり、民衆の間には信じられないような蒙昧が居座っていた。米国には、産児制限に反対し、学校で進化論を教えることに抗議する宗教右派のような勢力が多数を占めていたのである。index.htm

だが、日本と違うところもあった。アメリカには大学や新聞社を拠点にするリベラルの勢力も確固と存在して、テレビなどのマスメディアを押さえている宗教右派や保守派と戦っていた。米国で自由な言論が花開き、人権が尊重されているのは、この両勢力が一歩も退かずに睨み合うという対抗関係を背景にしてのことなのだ。

米谷ふみ子は米国人と結婚し、アメリカで長く暮らすうちに、米国も日本も、そして世界中の国々をも、相対化して眺める目を獲得した。すると、国境を越えて、いたるところに自分の仲間がいることに気づくようになった。マルクス主義者は、世界中の労働者が連帯して資本家と戦うようになると予言したが、それより以前に、すでに現在の時点で世界のリベラリストは連帯して行動しているのである。

8年前、ブッシュが初めて大統領選挙に立候補したときからふみ子はアンチ・ブッシュの立場で活動している。世界中のリベラリストもブッシュに反対して対立候補のゴアを支援した。そして8年後の今になってみれば、ブッシュ支配のアメリカはふみ子や世界のリベラリストが予言したとおりになっている。

自国を含めてあらゆる国々を相対化して眺めるようになったふみ子は、その立場から日本の動向も眺めるようになった。彼女は例えば、日本の新聞や雑誌にこんな文章を寄せている。

<社会にタブーがあれば、明噺な報道は不可能である。日本のタブーは皇室と右翼と原子炉。日本の右翼はどうしてか皇室と結びつき誰彼なしに殺す。だから、イギリスのように自由に皇室について批判もできない(「なんや、これ? アメリカと日本」米谷ふみ子)>