鶴見俊輔の母

これまで見てきたのは、父親不在か、父親がいても実質的には不在に近い状況下での母子関係だった。家という密室の中で母と子がマンツーマンの関係で向き合えば、どうしても一方が他方を支配する関係になってしまう。しかし、支配的な母親のもとで、子供がちゃんと成長した事例もないではない。その希なケースがフジ子・ヘミングの場合である。

ピアニストのフジ子・ヘミングは、マンツーマンの関係で母親からピアノを習っていた。母は厳しい態度で娘に稽古をつけながら、口癖のように「お前はバカだ」と叱りつづけた。そのためフジ子・ヘミングは、成人してからも自分はバカだと思いこんでいたほどだった。

フジ子はその後、渡欧してスエーデン人と結婚するが、結局離婚して帰国し、母と二人の生活に戻っている。彼女は支配的だった母を内面に取り込んで上位自我とし、この上位自我のもとで自分を磨き、苦闘の末にピアニストとして大成したのだった。

次に述べる鶴見俊輔は、支配的な母親との戦いの過程で自己を形成し、哲学者として一家をなしている。私は鶴見が主宰する「思想の科学」誌を長年定期購読していながら、彼が手のつけられない不良少年だったことを全く知らないでいた。

それを知ったのは、思索的自伝という副題を持った口述筆記本「期待と回想」上・下を読んだからだった。

これはなかなか面白く出来ていて、少年剣士鶴見俊輔による知的武者修行といった趣のある本だった。 通学していた日本の中学校を追い出され、行き場を失った彼は、15才でアメリカに渡り、そこで大学受験の準備にとりかかる。英語の勉強など、ろくすっぽしたことのない彼は、受験予備校に入学したものの授業が全く分からなかった。

予備校で教科書に指定されている本を開いたら、1ページに知らない単語が15もあった。英文学のテストを受けたら、与えられた課題の本に知らない単語が1ページに39もあるという始末だった。

そこで彼は必死になって英語の勉強に取りかかる。だが、効果はいっこうに上がらない。授業に出ても教師の言うことがちんぷんかんぷんで分からないし、寮にいても友達の言うことは一知半解で意味がとれない。渡米3ヶ月後に心身共に疲れ果てた彼は教室で卒倒し、付属の病院にかつぎ込まれる。10日後、病院を退院した時に何が起こったかを、鶴見俊輔は次のように語っている。


「それで十日ほどして退院して教室に行ったら、英語が全部分かるんだよ。これにはおどろいた。ジキル博士とハイド氏のように、人間が変わっちゃった。・・・言語を一挙につかんだんだ。ぜんぜんわからないと思ってた英語が、ちゃんと自分に入ってた」

まあ、こんな話が織り込まれているので、「期待と回想」を興味を持って読み進んで行ったら、幼児期の彼が母親に厳しく折檻される話が出て来たのだ。母親の話は、この本だけでなく、やはり口述筆記本である「戦争が残したもの」(新曜社)にも、筑摩書房版「鶴見俊輔著作集」にも繰り返し出ている。

鶴見俊輔の母は、明治国家の実務派官僚・後藤新平の娘だった。
後藤新平は、植民地行政に失敗して混乱の極地にあった台湾に民政局長として乗り込んで見事に治安を取り戻し、その後満鉄総裁、鉄道院総裁、東京市長、内務大臣、逓信大臣、外務大臣を歴任した官界・政界の大物で、鶴見俊輔の父鶴見祐輔は、後藤新平が鉄道院総裁だったときの部下だったが、その英才ぶりを見込まれて後藤の娘婿になったのだ。

後藤新平邸の敷地内に家を与えられた鶴見一家は、後藤新平の嫡男が父と衝突して家を飛び出したため、その後始末をしなければならなかった。新平の嫡男は、父が母の死後、若い妾を家に引き入れたので、父の顔をはり倒して家を飛び出してしまったのだ。妾には家政を切り盛りする能力がなかったから、鶴見俊輔の母が妾に代わって家事を見ることになったのである。

父も家にはいなかった。鶴見祐輔は鉄道院をやめて衆議院議員になり、かたわらベストセラー作家として名をはせていた。彼は日本各地に遊説旅行をするだけでなく、アメリカに渡って政界と学界に知己を作り、「日本における数少ないリベラル政治家」として顔を売っていたのだ。

鶴見の母は、本邸に入り浸って子供と過ごす時間を持てなかった。それで必要以上に厳しい態度で息子に臨んだのだ。鶴見が3才になったとき、彼が焼菓子を棚からくすねて食べたことを見つけた母は激しく叱りつけ、「こんな悪い子を産んだのは私のせいだから、この子と差し違えて死にます」と悲愴な顔で言い渡したりした。

「おふくろの仕事は、私を毎日折檻することだった」と鶴見は当時を振り返って語っている。母は明け暮れ鶴見をひっぱたき、柱に縛りつけ、そして、面と向かって「お前は悪い子だ」と責め立てた。あまり「悪い子だ」と連発されるので、彼は自分をほんとうに悪人だと思いこんで、交番の前を通るときには捕まりはしないかと急ぎ足になったり、まわりで悪人の話をしていると、自分のことではないかとびくっとするようになった。

母がこれほど息子を折檻したのは、彼女が早熟な鶴見を理解できなかったからかもしれない。

鶴見は、「2〜3才ころから、私は性に関心を持っていたと思う」と言い、さらに、「私が三、四才から読んだのは、おもにワイセツ文学だった」といっている。講談社の常連作家だった父のところには、同社の6大雑誌を始め、すべての刊行物が寄贈されてきていた。文字を読むことを覚えた鶴見は、まだ学校に上がる前から「団子串助」というような漫画本をはじめとして、大人の読む情痴小説まで耽読していたのである。

母親は、鶴見が、「おふくろは正義の人だけれども、きわめて愚かな人だった。賢かったら、私は立つ瀬がなかったろうね。自殺するほかなかった。彼女が愚かだったから救われたんだ」と批評しているような女性で、口にするのも、「男は男らしく、子供は子供らしく」というふうな平俗な道徳に過ぎなかった。こういう母にとっては、部屋の片隅で目を光らせて成人向けの雑誌を読んでいるわが子が薄気味悪く見えたにちがいない。

鶴見は、母親と目が合うとパニックに襲われるので、母が本宅から戻ってくると目を合わせないように顔を伏せた。すると、これが母を苛立たせ、息子をひっぱたく理由になるのだった。

左端は後藤新平と鶴見俊輔 ・右端が鶴見の母親

小学校に上がるようになると、鶴見は家に帰りたくなくて、よく道草を食った。電車を降りて、道ばたに座ってじっとしているのである。そして遅くなって帰宅すると、なぜさっさと帰ってこないのだといって母が折檻する。

鶴見の胸に、少しずつ反抗精神が育ち始めた。幼い頃から、口やかましく、あれはいけない、これも駄目と言われつづけていると、「何かの仕方で秩序破壊的な行為をしないと、生きる余地がないような」気がして来るのだ。彼は煙にむせ返りながら、「努力して煙草を喫う」ようになった。

そして母が叱るために近づいてくると、机でバリケードを作って立てこもり、相手の目の前でゴールデンバット(煙草の名前)を次々に飲み込んで見せた。煙草を食べれば死ぬと思っていたのである。

家で厳しい折檻を受けている子供は、無気力でおとなしい性格になるか、意地悪でサディスティックな性格になるか、いずれかである。鶴見は、学校に行って毎日級友を泣かせるようになった。「クラスの中で私が泣かさなかった子どもは一人もいない。私が泣かさなかったのは、私だけなんです」と彼は語っている。彼の通っている高等師範附属小学校には、上流家庭の子どもが多かったのだ。

家では、怒りにまかせて女中を足蹴にした。彼が大事にしていた本の表紙を、窓を閉めることをわすれて反り返らせたからだった。

鶴見が本格的にぐれはじめたのは、小学校3年の時、近所の中学生が率いる万引きグループに加わってからだった。金銭を汚らわしいものと思っていた母は、子どもたちに金を与えなかった。欲しいものがあったら出入りの店からツケで買うように命じていたのだ。

お上品なクラスメートに、万引きするところを自慢してやろうと考えた鶴見は、ある日、学校の帰りに級友の見ている前で、大塚駅売店からカルミン一個を盗んで見せた。この「悪事」はすぐさま担任教師に告げ口され、あっという間にクラスだけでなく上級生の間にも知れ渡った。彼は級友から村八分にされ、休み時間の10分間と昼休みの一時間を校庭の隅で独りで過ごさなければならなくなった。上級生から呼び出されて嫌がらせを受けたこともある。級友の村八分は一学期の間続いた。

鶴見は、ますます本の世界にのめりこむようになった。


小学校五年生のころ、それまでも学校にゆくのは好きではなかったが、それがこうじて、朝、出かける前に窓をすこしあけておき、家を出てからもう一度もどってきて窓から家の中に入り、ベッドの下にもぐりこんで本を読んだ。映画館に直接行きたかったのだが、映画館は午前十時まであかなかったので、それまでの二時間あまりをここで本を読んですごした。さすがに毎日休むというわけには行かなかった。  (『再読』鶴見俊輔)

この頃、彼は倉田百三のファンになって「愛と認識の出発」「絶対的生活」を熟読し、中国古典の「荘子」を読んでいる。「私は子どもの頃から哲学が好きで、15才位までにスピノザ、カント、ヘーゲルのものを読んだ」とも書いているから、鶴見は知的にも早熟な少年だったのである。小説も書いた。村八分も解けたので、小学校時代、彼は自分が主宰する回覧雑誌をクラスで発行し、これに空想科学小説やチャンバラ小説を七つぐらい連載した。

多量の本を読み、人間を見る目のようなものが出来てくると、自ずと母との関係を見直すようになる。


──おふくろの子どもに生まれたというのが最大の悲劇だ。私に異常なところがあるとして、そのほとんどは生まれた後でおふくろが私の中につくったものだ・・・・

──私はおふくろの作った母原病のためにかなり病的な性格を持っていた。サドマゾ的人物で、自閉症的で、ほとんどくちをきかない・・・・

母に対してこういう否定的な評価を下す反面で、彼は母がやたらに自分を折檻するのは愛の過剰のためだと知るようになる。


──だけど一方で動物的な勘というか、兄弟姉妹四人の中で、俺だけが愛されているというのはわかるんだよ。だから、(俺は母から)こんなにひっぱたかれたり、縛られたりするんだって。そうすると、おふくろを憎むことは出来ない。

──私はおふくろを愛していた。おふくろも私を愛していた。だから悲劇なんですよ。もう愛情だけはこりごりなんだ。愛情だけはごめんだというのが私の原哲学。

さらに進んで鶴見は、愛する者に折檻を加える母親の性格の奥にあるものをも感じ取ってしまう。母は自分を肯定できない人間であり、自己嫌悪にとりつかれた女なのだ。

アメリカの教育理論が入ってきてから、スパルタ式教育よりも子供を褒めて育てることが推奨されるようになった。確かに褒めて育てた方が、子どもは明るい性格になり、社会に対する適応力も増してくる。

だが、すべての親が子供を褒めて育てることができるかといえば、話はそれほど簡単ではない。そうすることができるのは、自分自身を肯定している親であり、つまりは現世に満足しいる楽天的な親に限られるのだ。

自分を肯定できない人間は、自己の分身であり延長自我でもあるわが子に対して、やはり自身に対すると同じように厳しい姿勢、否定的な態度で臨む。特に、親が自己嫌悪にさいなまれているような場合には、子供に対する態度は過酷なまでに厳しくなる。

フジ子・ヘミングの母が、口癖のように娘を「バカ」と呼び、過酷な稽古を課したのも、彼女自身がピアニストになることに失敗した過去をもち、自分を憎んでいたからではないだろうか。鶴見の母にも、何かしら手痛い過去があり、うちにトラウマを抱えていたのではないか。


(おふくろは)明らかに鬱病。自己嫌悪のかたまりだったね。そのかたまりを私は口を開けて押し込まれたんだ。子ども四人の中で私はおふくろに特別に愛されていた。そうすると叩かれたり殴られたり、サディズムなんだよ。何でもかんでも叱ったね。私の存在自体が気にくわない。しかも、それは過剰な愛のためなんだ。

小学校を卒業し、府立高校の中等部に入学した頃から、鶴見の非行は一段とグレードアップする。カフェ街に入り浸り、女給と肉体交渉を重ねるようになったのだ。彼は小学生の時点で既にセックスの経験を持ち、以後、級友が幼稚に見えて相手にする気がなくなったと語っている。ただし、彼は、「何回か情事を持ったが、自己嫌悪を伴う情事だったから長続きしなかった」と注釈をつけるのを忘れていない。

鶴見は、学校のロッカーに古本屋から買い集めた性書を保管していたため府立高校の中等部を退学になり、次に入学した府立五中も追い出されて行き場を失ってしまう。

この時期に彼は自殺未遂を5回繰り返している。


あのころの私の理想は、あそこ(カフェ街)でカルモチン(睡眠薬)を致死量まで飲んでぶっ倒れて死んで、死体をおふくろに突きつけてやりたいということだった。

彼は致死量の睡眠薬を飲みその都度病院に担ぎ込まれはしたが、絶命する前に発見されるような時間と場所を慎重に選んでいた。自殺未遂は、母親に対して行った彼のデモンストレーションであり、抗議のためのパフォーマンスだった。

困じ果てた母は、彼を親戚の経営している精神病院に入れる。彼はこの病院に3回入院させられたが、そのたびに病室に母が泊まりこんで世話を焼くので、到底精神状態の改善される見込みはなかった。

 不良少年時代

こうした非行によて家族をあたふたさせながら、鶴見の内部に新しい動きが始まっていた。これまで鶴見は家という枠内で主権者たる母に抵抗して来たが、国家権力を敵として否認するようになったのである。時代は急速に太平洋戦争に向かって走り出しつつあった。以前に自由主義的な政治家だった父祐輔も、大政翼賛会に加入し自宅の食卓などで軍部を容認するような発言をしはじめていた。

だが、鶴見はどうしても軍国主義に馴染めなかった。


小学生の頃から自分の中に逃れがたくある、自分が悪人だという自覚が、先生と優等生のくみする軍国主義から私をへだてた。

鶴見は敬愛していた著作家たちが、相次いで右旋回するようになったことに失望し、ひそかに社会主義の本を読みあさるようになる。彼がマルクス主義に傾斜しなかったのは、大杉栄の訳出したクロポトキンの「革命家の思出」を読んで感動したからだった。これ以後、鶴見は自分をアナーキストと考えるようになった。

右傾化する日本に反発して、彼が意識して逆の方向を選択したのも、突き詰めて行けばやはり母に原因があった。

鶴見にとって、母は良風美俗の体現者だった。彼女が人間社会の代弁者のような存在だったから、これに対抗するには少数者の立場に移行するしかなかったのだ。鶴見俊輔は自分を少数者として規定し、自分の生涯の仕事を少数者のための知的な空間を構築することに置くようになる。


私にとって人類は母親なんだ。その母親が押し込んでくるからつらいわけ。それを払いのけようとして、はじめて自分が出てくる。まず、母親があり、それと対抗するものとして自分がある。

母は世の多数派の象徴であり、既成秩序の擁護者だったから、彼は対抗上、少数派としてリベラルな方向に走らざるを得なかったのだ。彼の思考も発言も、ことごとく母によって代表される既成秩序へのカウンター理論になる。


──私がいま書いている著作も、いまここで話していることも、究極的には全部おふくろに対する答なんだ。私の話し相手は、全部おふくろなんです。そのように自分の生涯は集約されるような気がします。

──私のあらゆる対話、あらゆる著作は、おふくろが私にした仕打ちに対する答なんですよ。

しかし、母は単なる俗物ではなかった。母が俗物だったら、彼は母の存在など気にもとめず、軽く黙殺してしまったろう。だが、母は心底からの誠意の人だったから、鶴見はその存在や言い分を俎上に乗せ、真剣にこれへの対抗理論を練らなければならなかったのだ。


母はからだは弱かった。朝は、いちどきにおきあがれず、一度おきてからしばらくからだを曲げて何度も失敗してから起きた。私は母につれられてあらゆるタイプの民間療法をうけたが、それは、母自身がからだの不調にいつも悩んでいたので、おぼれるものがわらにすがるような心境だったのだろう。

四十代で、卒中がおきてからだの自由をうしない、六十になる前にがんでなくなった。

大正時代には天理教を信じ、一九三六年からキリスト教に入信した。キリスト教にはいったのが、私の不良化に悩んだためだったことはうたがい得ない。キリスト教にはいって、何を求めたのかは、おしはかる他ないが、母はつねに、自分の誠意の不足について神にたいして自分を責め、ゆるしをこうていたのだと思う。

もう少し誠意が不足していてくれればよかったと、私は思うのだが、母にして見れば、そういうことは思いも及ばなかった。つねに、自分の誠意の不足を自己批判するという形で自分をすりへらしていった(「私の母」鶴見俊輔)

鶴見は子どもの頃に、親戚の者から「おおきくなったら、何になるか」と問われて、「小間物屋でも開く」と答えている。その理由を彼は、「母がそう答えることを望んでいると思ったからだ」と語り、「母は子どもが大政治家とか立身出世をすることを望まず、地道な仕事に就くことを望んでいた」と回顧している。鶴見の母は、通俗道徳の信奉者ではあったが、人間として生きるポイントをはずしていなかったのである。鶴見はそうした母に一目も二目も置いていた。だから、彼女は死んでからも鶴見を導く道標となったのである。

 ハーバート大学入学当時

二つの中学校を追い出された鶴見は、自分を拾ってくれる中学校を探したがどこにもなかった。当時の彼の人相は極めて険悪だったから、どこに行っても面接の段階ではねられてしまうのだ。写真を見ると、この頃の彼は顔に何かしら不穏な気配をただよわせている。

かくして鶴見は、アメリカに渡ることとはなった。
アメリカの予備校に放り込まれた彼は、語学で苦労したものの、精神的には爽快だった。自らの手でこじらせ悪化させてしまった人間関係から抜け出て、スタートからやり直すことが出来たからだ。彼は猛烈に勉強し、難関のハーバート大学の哲学科に合格する。合格後も超人的な努力を重ね、入学して最初の年には、上位十分の一以内の成績を取っている。

日米戦争が始まると、鶴見は他の日本人と同様に収容所に収監される。この時、彼は米人取調官に、「自分はアナーキストだ」と宣言している。やがて交換船に乗って帰国した彼は、徴兵を避けるために海軍の軍属を志願し、インドネシアのジャカルタ海軍武官府に送られる。そこでの仕事は、ドイツから送られてくる文書を翻訳したり、タイプ印刷で部内向けの新聞を作ることだった。

ほかに彼は、軍人のための慰安所を設営する仕事もしている。定期的に視察や打ち合わせにやってくる将官クラスの軍人のために、慰安婦を探してきて抱かせるのである。

こうした仕事柄、彼にはいくらでも女色をあさるチャンスがあった。けれども、鶴見は現地にいる間一度も女を抱いていない。毎晩、自室にこもって宗教書を読んでいたのだ。宿舎で「童貞番付」なるものが作られたとき、100人の仲間の中で彼は横綱の栄位をしめている。外地で純潔を守った理由として、彼は、「女性と交渉すると、自分の秩序が崩れるという不安を感じたからだ」と述べている。

やがて彼は在米中に患った結核を悪化させてカリエスになった。そして、内地に送還されて敗戦を迎える。彼はラジオを通して聞えてくる天皇の声を、無気味なものに思った。

戦後の彼は京都大学や東京工大で教鞭をとっていたが、大学紛争を機に大学を去り、「思想の科学」誌を主宰しながら、評論家として活動している。彼が取り上げる評論のテーマは実に多彩で、漫画論から始まって人事百般に及んでいる。小学校に上がる前に成人向けの情痴小説を愛読していた鶴見は、還暦をすぎた今、昼間のTVで放映される主婦向けのメロドラマを好んで視聴している。彼が発表する評論には、こうした彼の多元的な興味が反映している。

鶴見俊輔著作集を読んでいると、私は学生時代に愛読していた戸坂潤を思い出す。戸坂も、凡百の社会現象を観察し、その多彩な評論によって国家権力の悪と矛盾をえぐり出していた。

 昭和37年頃

鶴見の多面的な評論活動の底に、権力に対する厳しい抗議が含まれている点は、昔も今も変わりがない。少年時代の彼は、家庭内で権力をふるう母に反抗した。成人した彼は国家的規模、世界的規模での権力悪を標的にして、痛烈な批判を加える。

彼は戦後民主主義を守る闘士であり、ベトナム戦争に抗議する「ベ平連」の枢要なメンバーだった。そして在野の進歩的思想家を発掘し、歴史の中に埋もれている先進的な男女を顕彰している。

彼にいわせると、日本人というのは現時点で主流になっている勢力に自分を合わせようとする習性を持っている。戦後数十年たっても、日本人は世の大勢の赴くところに自分の判断基準をおく大勢順応主義から抜け出せないでいるのである。

鶴見は時流にあわせて転々と立場を変える日本人に関する共同研究を主導して、「転向」という大著を公刊している。そして、最後まで権力に媚態を示さなかった日本人(愛人の男根を切り取ったお定や、大逆事件の被告金子ふみ子)に賞賛の言葉を贈る。彼は有名無名の人物の評伝を数多く書いているけれども、それらはすべて時流に流されず、誇りを守って生き抜いた先人ばかりだ。

彼は子供の頃に傾倒した「誠実な思想家・作家」たちが、時代に迎合して次々に軍国主義者になって行ったことを思い出して、「まじめな人間や理想主義者はこわい」という。そして、「理想を高くかかげたくないという理想が私の中にある」という。

同調過剰の悪癖に陥らないためには、好みを持った方がいいと彼は勧める。好みを持たない人間は、人格のなかに重心がなくてすぐ世の中に振り回されてしまうからだ。永井荷風は9割以上の作家が軍国主義支持に回ったときに、「我は淫楽を愛す」と言って、じっと耐え、最後まで自分を守りきった。

しかし自分の好みを人々に押しつけるような人物に天下を取らせると、東条英機・ヒトラー・ムッソリーニみたいになる。だから人は、そうしないためのブレーキも持たなければならない。そのブレーキを鶴見は、「ある種の空間」と表現するのである。

「ある種の空間」とは、わかりにくい言葉である。彼は別のところで、時流に流されないためには、自分の内部に、「自分を支持する小さい社会」を保持し続けなければならぬとも言っている。人間の内部にある、「ある種の空間」「自分を支持する小さい社会」とは何だろうか。

それは人間の内部で、刻々に動き生成しつつある多元的世界のことだと思われる。ウイリアム・ジェームズは、「宇宙は異なる原理によって動く無数の小世界から成り立っており、それら多元的世界が互いに影響し合って生々流転する統一宇宙を形作る」と主張する。この多元性は外なる宇宙について言えるだけでなく、人間の内面世界にも適合すると鶴見は考える。

人は様々な興味や関心を持ち、多様な判断や信念を持って生きている。人間の内界はそれらが複雑に絡み合い、影響し合って「創造的進化」をつづけているのだ。こうして心に生み出される調和と秩序を、無政府社会が生み出す調和と秩序と重ね合わせて考えることもできる。実際、鶴見は社会現象と人間内面の現象をパラレルに見ている節があるのである。

内面にある多元的要素をイデオロギーによって統一しようとするのは間違っている。内なる無政府状態をそのまま把持している自由人のみが、権力に屈しないのである。人間性の自然に対する鶴見の信頼は甚だ厚いのだ。

鶴見は母についての記述に多くのページを割いているけれども、父についてはごくわずかしか触れていない。彼には、何となく父を冷淡に突き放しているような印象があるのだ。

父鶴見祐輔は、当時における最難関校だった旧制第一高等学校をトップで卒業し、東大を出て高等文官試験に二番で合格している。こういう父を鶴見は、「一番主義」と呼んで冷嘲しているのである。一番主義者はどこに行っても一番であろうとする。大正デモクラシーの時代には、その時代でのトップをねらい、反動期が来れば、またその時代でのトップをねらう。風向き次第で、どんどん立場を変え、何時でも勝者の側にいたがるのが一番主義者なのである。

鶴見によれば、父祐輔は敗戦後進駐軍がやってくれば自分が総理大臣に任命されると思っていたという。彼は自分が自由主義政治家としてアメリカで高く評価されていると思いこんでいたのだ。しかし、蓋を開けてみたら、戦争中に大政翼賛会の総務をしていた彼は、進駐軍の手で政界から追放されてしまう。

母は反面教師だったが、同時に鶴見に対して人間の生き方を教えてくれる導きの星でもあった。彼女は鶴見が立身出世をすることを望まなかった。息子が、正道を踏んで地道に生きることだけを望み、わが子をそのような人間にするために全身全霊を傾注したのだった。

鶴見がクロポトキンを愛し、無政府主義に惹かれたのは、次のような直感に基づいていた。


私は上層出身です。日本人全体の上位一パーセントの暮らしをして、薄々まずいなとは感じてたんだ。自分の家にいずれ民衆が乱入して、全部つぶされると思ってた。叩き殺されると思っていた。そういう民衆に正義があると思っていた。

民衆に正義があるという直感を彼にもたらしたのは、母の生き方そのものだった。

鶴見が交換船に載って日本に帰ってきたことにも、母の影響を感じる。日米戦争が始まった時、多くの在米日本人と同様に、鶴見も日本は負けると見通していた。日本が必ず負けるとしたら、戦争が終わってから帰国したほうが賢明かもしれなかった。敗戦後の日本には、日米両国の橋渡しをする人間が必要になり、そうしたときにアメリカで教育を受けたインテリに出番がまわってくるからだ。

交換船に載って帰国するか、このままアメリカに留まるか、どちらを選ぶのも自由と言い渡されたときに、鶴見は帰国する方を選んでいる。こういうとき、父の祐輔だったらアメリカに残る道を選んだに違いない。だが、鶴見は帰国して、日本の同胞とともに敗戦の苦難をなめる方を選んだのである。

彼は常に強者より弱者、勝者より敗者、多数者より少数者の側に立つことを選んだ。
「思想の科学」誌は梅棹忠夫に言わせると、プロ野球に対して草野球があるように、「草学問」の場だったという。彼が象牙の塔の学者ではなく、草学問のコーチ役を選んだのも、常に弱者の側に身を置き、少数者のために戦うというポリシーを実行するためだった。

マンツーマンの関係で息子と向き合いながら、鶴見の母は子どもをスポイルすることがなかった。母親がいかに横暴であろうと、そこに一点の真実があり、人間としてのポイントをはずしていなければ、子どもは最後には母に従うのである。一般に子どもを無限に受容するのが「母性」と考えられている。だが、人道の方向に子どもを導こうとする姿勢がなければ、母の愛は単なる盲愛に終わってしまうのだ。

わが子に厳しい態度で臨んだ鶴見の母の心に流れていたのは、実は狭い国家意識を超えた人道精神だったのである。


最後に江藤淳の議論に対する感想を述べれば、この「日本的母子関係」論は戦前の日本全体を視野に入れた議論とは到底思えないのである。問題を都市に居住するインテリ家庭だけに限定するなら、江藤の論も一応成り立つと思われる。

江藤は、戦前の父親が独自のモラルを持たなかったために妻や子を心服させることが出来ず、そのため家庭の中に父を排除して母と子が密着する不自然な人間関係が生まれたという。西欧型の社会では、母の崩壊によって息子は母との密着関係から解放され、近代的自我の形成に進むのだが、母子固着の日本型社会では、「母の崩壊」という現象が起きると、息子は心のよりどころを失って彷徨をはじめると解説する。成る程、東京あたりのサラリーマン家庭なら、そんな光景も見られたかもしれない。

だが、農村で家父長の権威が絶対的だったことは、宮沢賢治の「家長制度」という詩によっても明らかだし(別項「宮沢賢治の青春」参照)、都市上層階級での父親の横暴ぶりは永井荷風の自伝的作品を読めば、これもまた明らかだ。日本の家族は、父親のモラル云々を問題にする以前に、問答無用で家長への屈従を強いられたのである。

そして、その忍従を強いられた母子が家長や姑になると、家族や嫁を虐げる存在に変わり、悪しき伝統が延々と再生産された。安岡章太郎をはじめとする「第三の新人」たちは、こうした時代背景の中で育ち、江藤からその自我の弱さや消極的ニヒリズムを批判されることになるのである。

戦後になると、急増した中流のサラリーマン家庭で父親の帰宅が遅くなった。
戦前の母と子は、父親の暴力的支配から身を守る必要上、自然に弱者同盟を作って隠微のうちに結束したが、父親の不在が常態化した戦後の家庭では、最早、家父長による不当な支配を恐れる必要がなくなった。今や母子は、誰はばかることなく自由な二者関係を構築できるようになったのである。

父親不在のもとで母子が二者関係を形成しようとすれば、どんな形態も出現しうる。
母子の双方が相手を尊重して理想的な関係を作り上げる場合もあれば、母が子どもをほったらかして遊び回るという形もありうるし、子どもが母の干渉をうるさがって家に寄りつかないという形も生まれてくる。

では、どういう母子関係のもとで「母の崩壊」という現象が生まれるのだろうか。
江藤は、西欧型社会では母の崩壊によって息子は母との密着関係から解放され、近代的自我の形成に進むと指摘しながら、何が母の崩壊をもたらすのか、そして崩壊にはどのような様相があるかについて具体的に説明しなかった。

私は母の崩壊が始まるとしたら、母子関係が希薄になるからではなく、逆に母子関係が濃密になりすぎ、その中に権力関係が入り込むからではないかと考えている。父親が権力を握っていた戦前においては、虐げられた母子は互いをいたわりあい慰撫しあっていたが、父親が無力になった戦後においては、母と子の間にある種の権力闘争が発生し、どちらかが権力を握って他を支配する状況が生まれる。そして、母の崩壊はこのなかではじまるのである。

理想的な母親は、本来、次のような態度で子どもに臨む。


生じて有せず
為して恃(たの)まず
長じて宰(つかさど)らず

老子によれば、これらは万物を生み出した道(タオ)の振る舞いなのだが、世俗に毒されない母親もこれと同じ態度で子どもに接する。

わが子を生んだからといって、これを所有しようとはしない。
わが子を育てながら、その功を誇りもしない。
そして子どもを一人前に成長させた後は、相手を自由にして支配者にはならない。

これが本来的な母親の姿なのだ。つまり、母子の間に権力関係を持ち込まず、母親は縁の下の力持ちに徹するのである。

ところが子育ての全権を獲得した母親は、子どもを愛するが故に、というより自身を愛するが故に、子どもを激励して成功への道に進ませる。子どもが素直に母親に従っているうちはいいけれども、一旦、子どもが道を踏みはずすと母は権力を駆使して相手をねじ伏せにかかる。この瞬間から、母親は「母性」を失い、崩壊を開始するのである。

父も母も子どもに対して権力的な態度を取らず、その自発性を尊重して行けば、先行き理想的な社会の到来を期待できる。社会の最小単位である家が反権力無支配の結合体になって、はじめて支配関係のない未来への展望が開けるのだ。

もちろん、話はそれほど簡単ではない。個人が覚醒して「立身出世主義」を拒否し、人間平等を徹底する生き方を選択するようになるには、千年万年の時間が必要かもしれない。しかし、いずれは真実が世界の隅々にまで行き渡る新しい時代が来るのである。

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