つげ義春の青春
1 つげ義春のマンガのなかで、ほとんど注目されていない作品に「峠の犬」というのがある。放浪癖のある犬を主人公にしたマンガで、長編ものを描かなかったつげ作品の中でも最も短いものに属する。
この作品の中で語り手になっているのは、温泉宿の女中たちに反物を売り歩いている行商人で、彼が五郎と名付けられた犬の話をするのである。五郎は、一年ほど前に近所をうろついている野良犬だったが、それを隣家で飼うことになり、行商人も何となく五郎を可愛がってやるようになった──これが、そもそもの発端なのである。
行商人が五郎に餌などを与えると、五郎の方でもある程度は行商人になついて来て、彼が旅仕事に出かけるようなときには街道の辻まで見送りに来たりする。そこで行商人は、旅回りを終えて家に戻ってくるときに、五郎への土産に魚を買ってきたするのだ。その五郎が行商人の留守中に行方不明になってしまうのである。
一年後、行商人は旅仕事に出ることになり、ふとした気まぐれからこれまで通ったことのない道を選んで合掌峠に出てしまう。この峠の名前は、その昔、西国の高僧が乞食のような姿になってここまで来て、西に向かって合掌したまま息絶えたことから来ている。
峠の茶屋で休んでいた行商人は、店先に五郎がいるのに気がつく。それが紛れもなく五郎であることは、その犬の右の耳が動かないことからも明らかだった。それが五郎を見分けるの特徴になっていたのだ。
行商人が思わず、「五郎」と声をかけると、茶店の主人はそんな呼び方をしても返事をしない、あれはハチという名前なのだ、という。そして、ハチは変わりものの犬で、一昨年行方不明になってなっていたのが、去年ひょっこり戻ってきたのだと説明する。
峠の犬ハチ
その夜、茶店に泊まった行商人は、翌日、雨の中を引き返すことになる。この時の行商人の心境は、ト書きで次のように説明されている。
それにしても五郎の行動は思いめぐらせど不思議でならない。犬には犬の考えがあるのでしょうか、それとも私がこの峠に来たのと同じように、フト気が向いただけのことなのかもしれない。しかし私はもと来た道を引き返さなければならない。引き返さなければならない理由はなにもないのだが。
帰りがけに、行商人は小屋の中に寝そべっている五郎と目を合わせる。五郎は知らん顔をしている。そこで行商人は、「相変わらず無愛想なその様子からは私のことを覚えているのかどうかわからない」と呟きながら「ゆっくりゆっくり峠をおり」ていくところでこのマンガは終わっている。
2 昭和40年代といえば、大学紛争が頻発した時期で、これと符節をあわせるように新しいタイプの漫画家が出現した。漫画雑誌「ガロ」を根城にした白土三平・水木しげる・つげ義春などの漫画家である。
このなかで、インテリの間で最も人気があったのがつげ義春だった。私の手元には、そのころに刊行された「つげ義春の世界」(青林社発行)という単行本がある。これは16名の執筆者による「つげ義春論」を採録したもので、論者の全員が熱烈なオマージュを彼にに捧げている。
執筆者たちは、まるで競争するようにつげ義春作品の深読みを行っている。その様子は、「存在論的反マンガ」(石子順造)、「内臓外出は表現への転換点」(鈴木志郎康)などの哲学的な表題を見ただけでも明らかだろう。私もこれから、少し「峠の犬」について我流の解釈を試みたいと思っている。そのためには、どうしてもつげ義春の経歴を知っておく必要があるので、これから彼の「断片的回想記」などを参照にしてその人生行路を眺めてみることにする。
3 つげマンガを愛する作家の一人に車谷長吉がある。それも不思議ではない、車谷の自伝的作品とつげ義春の回想記は感触の点で大変よく似ているからだ。二人とも自身の弱点・欠点を露悪的なくらいにさらけ出し、さらに一族の恥となるような秘事をもおおっぴらにしている。車谷は父が狂死したことや祖母が高利貸しだったことを告白し、つげ義春は祖父が泥棒をしていたことを語る。
つげ義春の父は料理人で、父が伊豆大島の旅館へ出稼ぎに行っているときに、つげは東京葛飾の母の実家で誕生した。母が産婆の来る前につげを生み落としてしまったので、母の実父が泣き声もあげない赤ん坊に人工呼吸を施し、しまいには両足を持って振り回したという。
つげを生んでから、母は父の待つ大島に渡ったが、大島での生活は5年ほどで終わり、一家は母の郷里である千葉県の大原に移る。父は家族を千葉に残して、またもや東京の旅館に出稼ぎに行くが、そこで病気になって死んでしまう。
母は3人の子供を抱えて実家の近くに引っ越し、まだ小さな子供を背中にくくりつけて軍需工場で働くことになる。つげを含む3人の男の子は、「気まぐれで勝ち気」な母の腕一つで育てられたのである。
つげが葛飾区立石小学校に入学した頃から空襲が激しくなり、やがて兄が学童疎開で家からいなくなる。工場の社宅で暮らしている母とつげにとって、新潟県赤倉温泉に疎開した兄からの手紙を読むのが唯一の楽しみだった。兄に続いてつげも学童疎開で赤倉温泉に移るけれども、この頃から彼の赤面癖が激しくなる。
戦争が終わり、東京に戻ってきても赤面癖はひどくなる一方だった。授業中に教師から指名されただけで赤くなるので、国語の時間に朗読の順番が近づいてくると仮病を使って難を逃れるようになった。運動会が迫ると、こんなことまでした。
秋の運動会のとき、大勢の人の前で走るのが恐しくて自分の足の裏をカミソリで切ってしまった。怪我をしたと偽れば、運動会に出なくてすむと思ったのでそうしたのだが、傷は計算以上の大きさになり、数日も治らなかった。
敗戦で軍需工場がつぶれたので、母は千葉から魚・海苔を仕入れてて来て行商をするようになった。夜は仕立物の賃仕事をするのである。間もなく母は再婚し、義父が同居するようになる。その義父の発案で、つげは兄と二人で駅前でアイスキャンデー売りをやり、夏が過ぎると近所の芝居小屋でアルバイトをするようになった。このため、彼は小学校5年生の一年間を学校に行かなかった。
「断片的回想記」には、つげも兄も小学校を卒業すると直ぐメッキ工場に就職したとあるが、この頃には新制中学が発足していたはずだと思うけれども、どうだろうか。とにかく、兄弟は小卒の身で健康に有害なメッキ工場で働くことになる。つげの職場では、元工場長がメッキの毒にやられて肺病になり、工場の片隅に板で囲った2畳の部屋を与えられてそこで寝ていた。
元工場長の妻は二人の小さい子供を抱えて、毎日、鉄屑拾いに歩き回らねばならなかった。つげは偶然にも、この病人が死ぬところを見てしまった。何気なしに板の隙間から部屋の中を覗いたら、病人の前に二人の小さな子供が神妙な顔で座り、病人はこの二人に一生懸命に何かを言い聞かせていた。つげは何となく「これは死ぬぞ」と思った。すると、相手は本当にことんと死んでしまった。
病人の妻が不在だったから、彼が皆に急を知らせたが、職工たちは誰も知らん顔をして、「肺病で死んだら、菌がとぶから近づくな」と注意するだけだった。まもなく父親を失った一家は、消えるように何処かへ行ってしまった。
メッキ工の仕事がいやでたまらなくなったつげは、メッキ工場から逃げ出したい一心で密航を企てる。そして、横浜に出かけニューヨーク行きの汽船に、一日分のコッペパンとラムネだけを持って乗り込むのだ。だが、出航後数時間で彼は発見されて大騒ぎになり、すでに黒潮にのっていた汽船は回れ右して観音岬まで引き返すことになった。彼はそこで船から降ろされ、巡視船で横須賀の海上保安部に連行される。
つげは、去って行く汽船の鳴らす汽笛が、「脳天を打ちのめすようだった」と書いている。
密航に失敗したつげは、家にいるのも気まずくなり、以前から船員になる夢を語り合っていた親友の家がそば屋をやっていたので、そこに雇ってもらって出前持ちになった。彼はここで異性との最初の出会いを体験する。
そのそば屋にサッちゃんという美しい女の子が働いていた。年はぼくと同じだったので、なんとなく気が合っていた。あるときサッちゃんは、戦争で両親を失くしたことや、自分の境遇がいかに不幸であるかを、涙を流しながら語ったあとで、今度の休みに映画に行こうと誘ってくれた。休みの日は小雨が降っていた。彼女としめし合わせていた映画館へ、ぼくは長靴をはいて走って行った。サッちゃんは、よそ行きの洋服を着て化粧をしていた。それがなんだか急に大人のように見えて、ぼくはきまりが悪くてうつむいてばかりいた。
映画館の中へ入ってから、サッちやんはぼくの手を握ったので、ぼくは悪い事をしているような気持ちになり、目を閉じて、ずっとうつむいていた。しばらくして気が付くと、場内は休憩時間で明るくなっていた。そして、雨で遊びに行けなかった先輩たちが、ニヤニヤしながらすぐそばに立っていた。
その後、先輩たちにおかしな目で見られるのがいやで、サッちゃんと付合わなくなってしまった。サッちやんは間もなく店にくるヤクザ者にだまされて、駄目な女になってしまった。
つげマンガには、おかっぱ頭の美少女がよく登場するが、その原型はこのサッちやんにあるかもしれない。つげがそば屋で働いていたのは、7,8ヶ月に過ぎなかった。思春期に入るにつれ、彼の赤面癖がますますひどくなり、人に会うのが苦しくてたまらなくなったからだった。
人に会わないで、一人で部屋にこもり、好きな絵を描いたり空想にふけったりする人間にふさわしい仕事としては、漫画家以外に思い当たらなかった。彼は書きためたマンガを手に、出版社巡りを始めた。いくら人に会うのが嫌いだと言っても、最早、それしか生きる道がないのだから出版社訪問を続けるしかない。1週間後にようやくつげのマンガを採用してくれる出版社が見つかり、彼はマンガ家としてデビューすることになったのである。
念願のマンガ家になったけれど、ノイローゼは一向になおらない。
親兄弟とも顔を合わせたくないので、部屋を仕切って一畳の自分だけの部屋を作ったり、押入の中に潜り込んでじっとしていたりする。女を知れば度胸が出るかもしれないと、はじめて売春婦を買ってみたら、生きる勇気が湧いて来た。彼は歓喜のあまり、中川の土手を自転車で無茶苦茶に走りまわった。川縁で仰向けに寝ていたら、うれしくて涙が止まらなかった。しかし、生きる勇気は長く持続してくれなかったから、もう一度、同じ売春婦を買いに行くと、女は別の客を取っていた。つげの胸は張り裂けそうになり、以後二度と赤線地帯に出かけることはなかった。
なんとかマンガで自活できるようになったつげが、家を出て錦糸町にあるぼろアパートに引っ越したのは20才のときだった。彼はそこで30になるまでの10年間を過ごすのである。ノイローゼは相変わらずだった。彼は3畳間のアパート代を2年分も溜めてしまい、食事を一日一食に減らし、血液銀行に血を売って暮らさなければならなかった。
若き日のつげ義春
マンガを描こうと思っても、栄養失調で体力も気力もなくなっているから、ペンを取ることもできない。肝臓病で黄色くなった目で、終日、天井を眺めているだけだった。そんなつげに同情したのか、コケシというあだ名の娘が彼に近づいてきて一緒に暮らすようになった。会って二回目に同棲の相談がまとまったというから、まさに電光石火の早業である。
彼女の貯金で大塚のアパートに移り、新生活を開始する。
生活は依然として苦しく、同棲2年目に家賃を一ヶ月遅らせて、アパートを追い出され、女との同棲もあえなく終ってしまった。つげは再び錦糸町のぼろアパートに舞い戻ることになる。木村という以前に一二度口をきいたことのある男が、3畳の自室に彼を居候させてくれたのである。木村はつげと同じ年の若者だった。つげは時期を明らかにしていないけれど、彼が自殺を試みたのはこの居候時代のことだったらしい。彼は睡眠薬(プロバリン)百錠を買い、飲み屋にいた「Kさん」(木村氏のことだろう)に酒を飲ませてもらい(酒を飲めば薬の効きがいいと聞かされていたのだ)、アパートに帰って洗面所で睡眠薬を飲んだのである。
部屋に戻り、後からついてきた家主の飼い犬としばらく遊んでいるうちに唇がしびれ、膝の力が抜けてきた。それで万年床に横になり、死の到来を待つことにした。体が泥沼に沈んでいくように重くなる。彼は犬に「バイ、バイ」と手を振って見せ、様子がおかしいと心配して部屋に戻ってきたKと夢うつつの状態で口をきいているうちに意識がなくなった。この時、彼はふところに20円しか持っていなかった。
4 こうしてみてくると、つげ義春には対人恐怖症の症状が数多く認められる。事実、彼自身も自分のことを対人恐怖症者と呼んでいる。
「対人恐怖の人間学」(内沼幸雄)によれば、対人恐怖症の患者は、すべての人間に恐怖心を抱くのではなくて、特定の人間との交渉だけを回避しようとする。この症状を持つ者は、家族・親戚・親友と一緒にいても平気だし、見ず知らずの赤の他人のなかにいても平気で、苦手とするのはその中間にある人間群に対してなのである。親疎の別という基準からすると、いわば、親しくもなく無関係でもない中間距離にある人間たちとの交渉を忌避したくなるのであり、具体的には学校の教師や級友、職場の仲間や近所の知人が問題になる。
だから重症の対人恐怖症者が生きる方法は、旅回りの職業を選び、自宅にはたまにしか戻らないという生活をすることである。こうすれば、中間領域にある人間と交渉することなく生きてゆける。
つげのマンガには旅をテーマにしたものが多い。彼のエッセーや絵も、その大半は温泉巡りや貧乏旅行をあつかったもので、彼がいかに見知らぬ他郷での安らぎを求めていたかが分かる。
対人恐怖症が重いか軽いかは、中間領域にある人間が多いか少ないかによって計られる。リラックスできる身近な人間が少なく、赤の他人と感じる人間も少なければ、中間領域にある人間の数が相対的に多くなる。この領域の人間が多くなれば症状は重くなるのだ。
旅に出ても、つげ義春は、本当にくつろぐことができなかった。
「颯爽旅日記」というエッセーを開くと、行く先々で、彼が気弱くも、ひるんでしまう記事にぶつかる。
・・・・特急に乗り、食堂車へ行く。初めてなので気後れする。へたなものを注文して食べ方を知らないと恥をかくので、コーヒーとサンドイッチにするが、劣等感のためノドを通らず食べ残す。・・・・(虫に刺されて足が腫れたので医者を捜して待合室に入る)超満員。待合室で他所者を見る無遠慮な視線にひるみ、玄関の外に出て地面にべったり座り込む。
・・・・すぐ風呂にはいりに行こうとすると、渡り廊下の前に、さきほどの客たちがかたまっている。気おくれし部屋に戻るが、雨で濡れたせいか寒い。
旅に出ても本当にくつろぐことの出来なかったつげが、家にいても安定感を得られなかったことは、部屋を仕切って一畳の自室をつくり、押入に隠れてじっとしていたというような話からも明らかだ。中間領域を避けるために旅に出ても駄目、家に戻っても駄目ということになったら、どうすればよいか。あとはもう自殺しかない。そう思って睡眠薬を飲んでみたが、死ぬことも出来なかった。出口なし。
宗教に頼ろうとしたこともあった。彼が苦しんでいるのを見かねて、家主がつげを自分の信仰している教団に連れて行ってくれたことがある。彼は気が進まなかったが、アパートの家賃をため込んでいる手前、断りかねて家主の後についていった。
得度を授りに(剃髪をするわけではない)池袋のお寺へ行くと、大勢の信者がナムミョーホゥレンゲキョの合唱をしていた。ぼくは「ドキリ」とした。それはバッハを聴くよりも、はるかに感銘の深いものだった。思わずしらず涙が落ちそうになり、頭を下げて、その場へ土下座をしたい気持ちだった。
自分はいままで一人で苦しんでいたが、実はこの世の出来事は、孫悟空が一 千里をひと飛びにして威張ってみせたが、それはお釈迦様の掌の出来事でしかなかったように、どんなにもがき苦しんでも、慈悲深い神のフトコロにいるのだから安心のように思えた。
彼は感動したものの、現世利益ばかりを説く教団の説法が馬鹿らしくなって、やがて入信するのを止めてしまう。
八方ふさがりの状況の中で、彼は水の中にあっても濡れない方法を自得しなければならなかった。中間領域の人間関係はもちろん、その他の領域での人間界にも安らぐことができないとしたら、小手先の技法ではなく、根底から自己を変革し、何処にいても平気でいられる方法を探り当てなければならぬ。
赤面癖などのマイナス要素を抱え込んでいながら、社会から受容されようとあがく。自分には欠陥があると知りながら、尚かつ人に愛されようと腐心する、これが対人恐怖の原因だとしたら、解決策は居直ることしかないのである。
方法はふたつ、まず第一に、自分のマイナス面を隠そうとしないで、衆目にさらすことであり、第二に、愛を乞う立場を棄て、独立自尊型の人間になることである。要は、世間的な規範にとらわれず、独自の哲学に基づいて生きることなのだ。わが国には、対人恐怖症克服のため、私生活の暴露に踏み切った私小説作家が多い。つげ義春も逃げ回ることを止めて、敢えて自分の内幕を公開することにしたのだった。それが「断片的回想記」であり、そして、次に述べる「蒸発旅日記」なのだ。
「蒸発旅日記」は、ちょっと世間に類を見ないような旅行記で、彼はここで淡々と脱モラル・脱常識の生き方を公開している。
つげ義春は、昭和43年初秋に九州に旅立った。
昭和43年といえば、つげが30才か31才になった頃で、自殺未遂後立ち直って、「ガロ」に傑作を次々に発表していた時期である。九州に出かけたのは、小倉に婚約した女性がいたからだった。彼は、相手と結婚したら、東京には帰らず、そのまま九州に住み着く心算でいた。ところが、その婚約した相手が誰かといえば、二、三度手紙をやりとりしただけで未だ一面識もない女性だったのである。判明しているのは、相手が彼のマンガのファンで、最近離婚し、産婦人科の看護婦をしているということくらいだった。
(彼女がひどいブスだったら困るけど、少しくらいなら我慢しよう)というのが、結婚前のつげの心境だった。彼はマンガを描くのを止め、適当な職業を見つけて、その女とひっそり九州で暮らそうと考えていたのだ。手にしているのは、20万円余の所持金と、列車の時刻表だけだった。
それでも迷いはあった。このまま引き返そうかと躊躇しながら九州行きの列車に乗り込む。そして山口県の小郡を過ぎたあたりで、彼は通路を隔てた隣の席に座っている若い女性にふと声をかけるのである。
「九州はどんなところですか」
その問いに答えて、女は九州見物なら熊本がいいと勧め、自分はこれから熊本に帰るところだが、よかったら案内すると申し出た。つげは、熊本もいいなと思い、この人柄の良さそうな女性についていって彼女と結婚しようかと考える。結婚相手は誰だっていいのである。しかし、相手には熊本に実家があり、実家には親も兄弟もいる、するとなんだかんだと面倒なことになるな、と思案しているうちに、諦めた方が良さそうだということになった。それで、娘と別れ予定通り小倉で下車する。
個人医院で住み込みの看護婦をしている婚約者が、つげの泊まっている旅館に来てくれた。小柄なやせ型の美人で、性格もよさそうだった。相手はうれしそうにニコニコして、すぐうち解けてくる。だが、つげはどことなくしっくりしないものを感じた。感覚的に合わないような気がするのである。
相手は離婚のいきさつやら何やら、いろいろとしゃべって、その日は医院に帰っていった。次に彼女と会うのは、医院が休みになる一週間後の日曜日である。そこで、つげは、待つ間を利用して九州各地の温泉宿を訪ねることにする。
湯平温泉では、ストリップを見に出かけ、杖立温泉でもストリップ小屋に入った。そして小屋で踊っていた娘と話がついて、彼は連れ込みホテルに出かけることになった。翌朝10時頃に目覚めると、相手はいなくなっていて、枕元に書き置きがある。それには、こうあった。
あなたと文通がしてみたいのでお便り下さいませ。
あなたが言ったように髪を長くします。
黙って帰ってしまって申し訳ありません。
でも気持ちよさそうに眠っていたのでさよならしました。
あなたもいろいろ考えずに頑張ってください。
お手紙くらい下さいね。
つげは、ホテルを出てストリップ小屋に出かけたが、相手は留守だった。彼女との別れを惜しむ彼の気持ちは、思慕ではなくて結婚願望から来ていた。彼は「ストリッパーのヒモになって、方々の温泉地を流れ歩くのも悪くないな」と思ったのだ。
一週間後、小倉に戻って旅館で「婚約者」と再会する。
相手は外泊の許可を取ってきたと言って、その夜はつげのところに泊まり、翌日も一日中、宿で彼と一緒に過ごした。つげはそのまま相手と同棲する気になりかけていたが、女の方は彼にひとまず東京に帰って、改めて出直してくれという。それで、つげは東京のアパートに帰ることになった。もう二度と戻らないつもりでアパートを出たのに、また、東京に舞い戻って来てしまった。これでは、もう「蒸発」も東京を棄てようとする悲壮な決心も、おしまいである。「蒸発旅日記」の末尾は、こうなっている。
その後S子(「婚約者」の名前)からは度々哀切な手紙が来て私はぐらつくこともあったが、ついに一通の返事も出さなかった。いま思うと軽薄な真似をしたものだと恥じいるばかりだが、私の蒸発はまだ終ってはいないような気もしている。現在は妻も子もあり日々平穏なのだが、私は何処かからやって来て今も蒸発を続行Lているのかもしれない、とフト思うことがあるからだ。
この文章の眼目が、末尾の3行にあることは明らかだろう。
このいい加減とも無責任ともいえる行動こそ、つげが対人恐怖を乗り越えた証しなのである。彼は自分を「蒸発者」と規定したのだ。蒸発者、あるいは脱世間者は、「便あれば休す、何ぞ必ずしも丘山を尊ばん」と言った良寛のように行動する。この九州旅行でつげは風まかせの動き方をしている。少しでも心惹かれる女に出会えば、その女と結婚してその地で暮らそうと考える。蜘蛛の子は、尻から糸を出して風を利用して空中を流れ漂い、その糸が絡まったところに巣をかけて自分の生きる場所にする。世間を棄てた僧たちは、自らを「雲水」と称して雲や水のように流れ漂い、生活する便益があれば、そこに荷を下ろして仮住まいの場所とする。その場所は、必ずしも風光明媚なところでなくてもいいのである。
つげは、この旅日記の中で、蒸発者が「現実とか日常とか、あるいはこの世からこっそり抜け出てしまったような心理状態になる」ことを記し、九州まで流れて行った彼自身の気持ちを「この世から脱けた者がまた九州という現実のこの世に何食わぬ風を装って紛れ込もうとしている」というふうに説明している。
彼は人気漫画家になり、妻子に囲まれた安穏な生活をつづけながら、自分を何処か遠くから流れて来て偶然そこに根を下ろした蒸発者だと感じている。今いる場所も、そこに便益があるから一時的に留まっているだけで、そのうちにまた流浪の旅に出ると予想しているのである。
5 ここで「峠の犬」という作品に戻る。五郎という犬については、ト書きで次のように説明されている。
「ひどく愛想のない犬なのであまり可愛がられていない」
「近所に遊び仲間のいないせいもあってか、庭から外へめったに出ない」
「たいてい虫ケラや小鳥なんかと遊んでいる」
五郎は、蒸発者つげ義春そのままではないか。彼は、五郎という犬を通して自画像を描いているかのようにみえる。
五郎には放浪癖があり、そこらをうろついていて餌をくれる人間があればその家に居着いて飼い犬になるが、飼い主や近辺の人間たちに邪険に扱われたり、その場所に飽きてくるとると、ふっといなくなって別の飼い主のところに移ってしまう。
五郎を、峠まで来て合掌しながら息絶えた高僧と重ね合わせて見ることも出来よう。高僧は各地をさまよい歩いて、最後にこの峠にたどり着いた。とするなら、合掌峠は脱世間者が到達する最後の聖地境地ということになる。ここは西方浄土を臨む聖なる地なのである。
反物商いの行商人は、世俗的人間を象徴している。彼らは脱世間者の聖なる境地までたどりつくことがあっても、すぐ、そこから世俗の世界に引き返してしまう。
五郎は感興の赴くままに峠を下りて世俗の世界に遊ぶこともある。しかし、再び聖なる峠に戻ってくる。相反する生き方をしている五郎と行商人は同じ現世に住んでいるから、ちらりと袖触れあうこともある。「峠の犬」の最後の一齣には、地蔵が描かれている。物言わぬ地蔵は、五郎的人間と行商人的人間が混じり合って暮らす人の世を静かに眺めているのである・・・・・。
「峠の犬」の最後の齣
「峠の犬」が発表されたのは、つげの九州旅行よりもずっと前のことだ。九州まで行って、また、東京に戻って来たつげの行動をこの作品は予告しているように見える。だが、彼を直ちに峠の犬と同一視するのは間違っているかもしれない。峠の犬は世俗の世界で少し遊んでから聖なる地に戻って来るが、つげ義春は反対に聖なる九州に留まることを止めて、東京という世俗的な世界に帰ってしまうからだ。つげがマンガ家の生活をやめて、どこかに隠遁の地を求めでもしたら話は別である。しかし彼はまだ東京にいて、出版社を巡り歩いて反物を売って歩いているのだからまだ行商人の境位にいるのである。
6 話は変わるけれど、中野孝次の「麦熟るる日に」を読んで、昔の級友を思い出した私は、つげ義春の「断片的回想記」を読んで、結核療養所で知り合った療養仲間を思い出した。私は「断片的回想記」を読むまでは、この療養仲間のことをほとんど思い出すこともなく過ぎていたのである。
A はベット一つを隔てて右隣りに寝ている患者で、発病前は建具職人をしていた。年齢は30代半ばで、もう若くはなかった。彼は寝ているよりは座っている方が楽らしく、安静時間が終わると、ベットの上であぐらをかくか、片方の膝を立てるかして、一種独特の座り方で自由時間を過ごしていた。そして、隣の患者がいないときに、ベット越しにこちらに声をかけてくるのだ。
Aは何時でも機嫌がよかった。私がいる大部屋には、たえずニコニコしている小学校教師もいたが、その明るさとAの機嫌のよさは違っていた。小学校教師の明るさが教室で小学生に見せる笑顔をそのまま持ち越したようなものだったが、Aのものは底にニヒリズムを隠した機嫌のよさだった。
「オレはねえ、二人の弟を殺しちまったよ」と述懐したことがある。
Aの両親は、東京の下町で自宅を店にして小商いをしていた。商売は父親一人でやっていけるので、Aを長男とする三人の息子は、それぞれ職人や労務者になった。兄弟は仕事から帰ってくると、一間しかない二階で枕を並べて寝み、朝になると各自の職場に飛び出して行くのだった。そのうちにAが結核になり、一日中、二階で寝ているようになった。当時は結核に対する効果的な治療法がなかったから、両親もAをそのまま放っておいたのである。そのうちに病気は二人の弟にうつり、彼らは相次いで亡くなってしまった。あっという間のことだった。
「オヤジもやっと、オレを療養所に入れる気になってね、あちこち運動してオレをここに送り込んだんだ」
Aは、二人の弟の死を何の感情もまじえず語った。後悔も罪悪感もなく、早霜にやられて庭の花が枯れてしまったというような日常的な表情で、平然と弟の死について語るのである。親方のおかみさんとの不倫について語る時にも、Aの口調は淡々としていた。先に誘ったのはおかみさんの方だったという。Aは新劇俳優の宇野重吉に似た愛嬌のある顔をしていたから、女性にはもてたかもしれない。
「親方が組合の用事なんかで留守をするだろ。すると、おかみさんがすぐ仕事場に来るんだ。チンボであそこをこすってやると、喜んじゃってさ」
Aは弟の死について語るときと同じように、おかみさんとの情事を自慢するでもなく懺悔するでもなく、至極当たり前の表情で語るのである。Aと話していると、彼は身に降りかかる吉凶禍福をまるで自然現象のように受け止めていることが分かった。いいことも悪いことも、何事も深刻に受け止めないで、軽くやり過ごしてしまう。その場限りの生き方。たまに余分の金が入ってもその日のうちに使ってしまい、なければないで煎餅布団をかぶって寝ている。思想性なし、倫理性なし、将来性なし。これが「庶民」の生活の実態なのだった。
中野孝次は、こういう世界から抜け出そうとして必死になって勉強した。彼は知的な生活を渇望しただけでなく、社会的上昇の階段を登るためにも努力したのだった。しかし、Aやつげ義春が置かれていた境遇は中野のよりもさらに厳しく、上昇欲求を抱く余裕すらなかったのである。とすれば、Aは中野が地獄と見た世界を極楽と見て、そこに腰を据えて、どろんこ遊びをする子供のように毎日を機嫌良く過ごすしかない。
つげは、Aのようにニヒリズムを背景にした楽天主義でもって生きることが出来なかった。そうするには、感受性があまりにも鋭敏すぎたのである。つげのような人間は、蒸発者として所与の現実から脱出し、他界からの目で現世を観望するしかない。「沼」以後のつげのマンガは、この他界からの目によって描かれたマンガなのだ。
「庶民」という言葉で概括されている人々にも、中野孝次タイプもあれば、Aのようなタイプもある。つげ義春のようなタイプは滅多に見あたらないが、それだけに実に貴重な存在に思われるのである。