画学生の「静かな旅」


フランスの女性画家が書いた中国留学記を半分ほど読んだところで、読者は「静かなる旅人」というこの本の題名に疑問を持つのではなかろうか。この題名だと、本の中身はフランスの美術学校をトップで卒業した女子学生が、中国の風景画に魅せられて中国重慶の美術大学に留学し、静かな精神を保持したまま、異国での絵画修行に専念した体験記というように取れるからだ。

ところが、本を読み進めていくと、文化大革命後の混乱した中国で留学生が上へ下へと翻弄される話ばかりが出てきて、「静かな旅」を感じさせる描写は何処にもないのだ。何しろ、冒頭から、著者がホッケー選手らに集団暴行されそうになったエピソードが出てくるのだから。

著者のファビエンヌ・ヴェルディエは、パキスタン航空の北京行きチケットを買って飛行機に乗り込む予定だった。ところが空港に行ってみると、航空機のエンジントラブルのため出発は24時間後になるという。24時間後に飛行機に乗ったら、国際試合を終えて帰国するパキスタンのホッケーチームも乗り込んできた。

ようやく出発して飛行機は何とか、パキスタンのカラチに着いた。すると、ここでも乗り継ぎ便がエンジントラブルのため、出発は24時今後になるという。やむを得ず飛行機を降りると、貧しい子供たちがわっと押し寄せてきて、ヴェルディエの長い髪やスカートを引っ張り、背中のリュックにぶら下がって離れない。震えあがった彼女が、やっとのことで空港の外に出ると、別の物乞いたちが殺到してくる。彼女は恐怖の余り、その場で気を失ってしまった。

気がついた時には、彼女はクルマのなかで、周りにいるのは機内で一緒だったホッケー選手たちだった。やがて、クルマは選手らの宿舎らしい建物に着いた。なかに入ると、窓には鉄格子がはまっていて、逃げ出せそうもなかった。自分は彼らに輪姦されるかもしれないと、彼女は直感した。それだけはなんとしても避けなければならない。

ヴェルディエは、コーチに囁いた。

「あなたと一晩過ごすから、ほかの選手に部屋から出るように言って」

室外に退去させられた選手たちは、どんどんドアをたたいて自分の番を要求する。カトリック系の女学校を出て厳しく教育された彼女は、何とか輪姦を免れたものの、コーチに抱かれて出血し、北京に着いてからもまだ出血が続いていた。

重慶にある四川美術学院に6年間在学している間にも、ヴェルディエはさまざまなピンチに立たされている。地方の葬式儀礼に興味を持って、その様子をカメラで撮影したら、逮捕され三日三晩、留置場のコンクリートの床に転がされていたこともある。警官たちは横暴で、そこらに唾を吐きながら彼女を罵り続けたが、逮捕の理由はその地区が外国人の立ち入り禁止地区だったからだった。彼女は知らずにそこに行って、写真を撮ったため、スパイの嫌疑がかけられたのである。

こんな体験もした。

ある年の夏休みに、上海を見物するため美術学院教師の親戚の家に宿泊したときのことだった。家に部屋は一つしかなく、その部屋に祖父母から孫に至る三世代の家族が同居していた。たらいは一つしかなく、朝起きて顔を洗うときには三世代の家族がそれを順繰りに使っている。

部屋の隅にバケツが一つあって、それが全員の便器だった。ヴェルディエは、家族のいる前ではどうしても用を足すことが出来ず、自分が用を足している間、皆に目隠ししていてくれと頼んだ。一同は大笑いしながら、頼みを聞き入れてくれた。

ヴェルディエの見聞録を読みながら、認識を改めた部分がある。

今まで、私は次のように考えていたのである──チベットは、ダライ・ラマを元首とする宗教国家で、チベット内部のあらゆる町・村には僧院があり、住民はその支配下にあって農奴のような生活をしている、と。だが、チベットを訪ねたヴェルディエは、私の想像とは異なるチベット像を描き出していた。

チベットでヴェルディエは聖地巡礼をする女たちと一緒に旅をし、彼女らと同じ寺院に泊まったが、チベットの女性たちはすべて利発で生き生きとしていた。彼女らはよく笑い、遊びもいたずらも大好きだった。厳しい自然のなかで、極端に質素な生活を強いられながら、彼女らが皆、真の幸福感に満たされて生きていることをヴェルディエは信じないではいられなかった。

旅をしながら、ヴェルディエは女性が組織する他の行脚グループともすれ違ったが、彼女らは決まってこちら微笑を送ってよこした。それは幸福感に溢れた、輝くような美しい微笑だった。チベットの女たちが幸福なのは、中世以来、隣の中国やインドでは女性蔑視の習慣が続いていたのに、チベットだけが唯一女性を尊敬していたからだった。

チベットの男性も、精神の豊かさと内面の高い品格を感じさせた。ヴェルディエの見るところでは、彼らは、陽気でありながら孤高を保っていた。こうした男たちと一緒にいると、楽しく安心感があった。

私は、チベットを僧侶の独裁下にある農奴制の地域と思っていたが、どうやらチベットはプラトンが描く哲人国家に近い国らしかった。ダライ・ラマは世襲によって選ばれるのではなく、ダライ・ラマが死去したときに生まれたと思われる幼児の中から高僧たちが選別して選び出していた。選ばれた幼児は高僧らによって育てられ、チベットの元首に相応しい人物に教育されるのである。

元首が公正な手続きで選び出され、幼児期から厳しい訓育を施されるのに対応して、一般の僧侶も少年少女期から親から引き離されて僧院で育てられる。こうした体制下にある僧侶たちだから、腐敗した僧侶や無能な尼僧は少なく、住民の信頼を集められるのだ。

───さて、著者は、揺れ動く中国に渡り自らもピンチに立たされながら、どうしてその体験記の題名を、「静かなる旅人」としたのだろう?

著者自身の説明によると、中国の絵画を学ぶためには、独特の筆遣いを習得することから初めて、中国絵画の背後に流れる仏教や道教の思想を体得することへと進まなければならないのである。そしてそこから、さらに自己抑制へと進んだうえで、最後に習得したことの一切から離れて自由にならなければならない。そして最後には愚直な人間になり、「うつけもの」として生涯を送らねばならない・・・・

「旅」というのは、中国絵画のイロハから初めて、愚直に至るまでの長い修行の過程を歩むことであり、この修行をする人間が「旅人」なのだ。この旅は人の目に触れない静かなものだから、修行者は、「静かなる旅人」と呼ばれるのである。

では、ヴェルディエは、どのようにして静かな旅をしたのだろうか。彼女の四川美術学院での6年間の旅はどのようなものだったろうか。

2

そもそもヴェルディエが中国に留学することになったのは、交換留学生としてだった。彼女はツウールーズの美術大学に在学中から中国美術に興味を抱き、独学で中国語を学習し、やがて中国人女性を捜して文法や文字の書き方、簡単な話し言葉を教えて貰っていたのだった。

そうした彼女の耳に、ツウールーズの市長が中国四川省の重慶と姉妹都市協定を結ぼうとしているという情報が入ってきたので、ヴェルディエは市長に面会して、中国に行って絵の勉強をしたいという希望を語ったのだ。すると市長は、「では、中国に出かける際、あなたも同行できるように計らいましょう」と言ってくれた。ヴェルディエは、それでは満足しなかった。

「いえ、私は中国に留学して現地の大学で美術の大家に師事したいんです」

市長は呆れたような表情になって、

「マドモアゼル、あなたの要求は桁外れですよ。あなたの在学していた美術大学では、あなたがパリで勉強を続けられるように奨学金を出そうと言っているそうじゃないですか。あなたは、それを拒否して、今度は私の提案も拒否する。でも、あなたの考えは正しいかもしれない。現地に行ったら、あなたが交換留学生になれるように努力してみましょう」

こうしたいきさつがあって、ヴェルディエは交換留学生として重慶にやってきたのである。

ヴェルディエに対する中国側の待遇は、きわめてよかった。学院は学生たち全員が寄宿舎に入る全寮制の学校だったが、他の学生は暖房もない二段ベットの8人部屋に押し込まれていたのに、ヴェルディエだけに一人部屋があてがわれ、奨学金も中国人学生には月60元なのに、ヴェルディエには教官の月給と同額の120元が与えられていた。

彼女に対する物質面の待遇は申し分なかったけれども、学習の方はそうはいかなかった。
ヴェルディエを受け入れた四川美術学院では、彼女の作品を見て困惑していた。彼女の画学生としてのレベルは、すでに学院で学ぶ必要がないほどの水準に達していたし、彼女が学院で学びたいと願っていた書道と文人画の講座が文化大革命の結果、廃止されていたからだった。書道も文人画も清算すべき旧時代の遺物とされていたのである。

それでも以前に書道と文人画を教えていた教授が二人、住居と年金を与えられて近くに住んでいるということだったので、個人教授を受けようと考えてヴェルディエが訪ねていくと、最初の一人からは問答無用で断られてしまった。次に黄原という老教授を訪ねて指導を頼むと、彼はヴェルディエが持参した書の作品を眺めた上で弟子にしてもよいと言ってくれた。

「私はこの大学に五十年以上いるが、あなたのような素質ある学生に会ったことがない。文化大革命後は、書道のことを聞きに来る者すらいなくなったんだよ。とにかく、当局から師弟関係を正式に認めてもらい、少なくとも週に一度は私のところへ通えるよう申請しよう。そうすれば、じつくりと基礎から修練することが可能になる」

こう言ってから黄原老師は、厳しい表情になった。

「ただし、最初にはっきり言っておくが、私から書道を習うつもりなら十年の覚悟が必要だ。これは絶対条件だ。それができないなら、やめたほうがいい」

二十歳そこそこの学生でしかなかったヴェルディエは、二つ返事で「はい、もちろんです!」と答えていた。しかし、最初の講義で黄老師が持ち出したのは、篆刻を学んで来るようにという予想もしない要求だった。書道や文人画を修める前にマスターしておくべきことは筆の使い方ではなく、鑿の使い方だというのである。

ヴェルディエと黄原

黄原先生が篆刻家の程軍への紹介状を書いてくれたので朝早く訪ねて行くと、ヴェルディエの前に現れた程軍の片手は手首から先がなかった。文化大革命が荒れ狂っていた時代に、伝統美術の権威だという理由で、彼は紅衛兵から手首を切断されたのだった。

数ヶ月の篆刻修行で、ヴェルディエの手は切り傷だらけになった。ヴェルディエが制作した刻印を持参して黄原老師に見せると、相手は、「悪くないね」と一応は褒めてくれた。続いて彼女が学院の教室で描いた絵画を見て貰おうとすると、「そんなものは見たくないな。ゴミ箱に捨てることだ」という。

ようやく書道の勉強を始める段になって、黄原がヴェルディエに命じたのは、「一」という文字を書くことだった。中国の文字も絵も、一を礎石にしている。だから、この水平に引く横棒に生命を吹き込むことが出来るまで、修練を続ける必要がある。

自室で「一」という横棒を書くだけの日々が始まった。

ヴェルディエが「一」と書いた紙を携えて黄原の部屋に行くと、老師はそれをいちいち添削し、正しい墨のすり方を教えてくれる。黄原が彼女の部屋に来て、「雲は水蒸気から出来ていて、常に動いている。そんな雲の息吹を感じさせるような一を書いてご覧」と言い残して立ち去ることもあった。

数ヶ月の間、「一」と格闘しているうちに、ある日、奇跡的に完璧な一を書くことが出来た。黄原はそれを祝って、ヴェルディエを食事と京劇に招待してくれた。一の次は太い点「、」だった。

「筆を紙に下ろす前に、精神の準備が出来ていなければならない。そうでなければ、一画にも点にも生命の息吹を吹き込むことが出来ない」

黄原の指示に従って、単調な修練を繰り返しているうちに、ヴェルディエは精神で文字や絵を描くことの重要性を理解するようになった。その頃から、黄原はヴェルディエに所蔵している墨だけで描かれている水墨画を見せてくれるようになった。こうしたやりかたで、彼はヴェルディエを書から風景画へと導いていったのである。

「作品を完了させようとすると、それは死んでしまう。たいていの作品は、最後の一筆がよけいだ」という中国絵画に関する黄原の話を聞いていると、ヴェルディエはフランスの哲学者ジャンケレヴィッチの言葉を思い出した。

「未完成のなかに生命は宿る」

黄原は、また、こんなことも言っていた。

「自分の創作に生命を吹き込もうとしたら、宇宙の法則に従いなさい。天が混沌から生まれたのと同じで、あなたも自分の直感に従い、形のない混沌をかき分け、さまざまな造形物に到達しつつも、それを超越していきなさい。ものごとの精神を表現することを目指し、精神は山にも植物にも宿っているということを忘れてはいけない。山にも植物にも魂がある、天がそれを与えた。
混沌を恐れることはない。造形は、必ず無形から生まれる。一個の壷も、その中に無の空間を閉じ込めることによって形をなしている。すべての造形は、無に限界を与えることによって成り立っている。混沌から一部の空を切り離したものともいえる」
  (この辺の言葉からは、西田幾多郎の著書「無の自覚的限定」が思い出される)

「絵を描くということは、行為ではない行為なのだ。自己を意識せず、欲望も捨て、自然にまかせて行動すること。自己を忘れ去ることで、天と天の創造物すべてと同化することができる。
考えること、欲求すること、計算することをやめなさい。精神の調和を完全に保てるように、あらゆる雑念や俗事から解放されなさい。合理とか理屈という基準からも遠のきなさい」

  (このくだりからは、道元の「正法眼蔵」が思い出される)

ヴェルディエがマスターしようとしていた文人画は、写生ということをしない。いや、意識的に写生することを拒否している。なぜなら、文人画を描くアマチュア画家たち(「文人」とは、専門的な絵師ではない一般インテリを指す)は、目に映る風景を描くのではなく、各人の想念のなかにある自然を描くからだ。つまり、文人画とは哲学的な画であって、宇宙を象徴した超自然的な画なのである。

黄原老師は、世界の本質を「無」と見る禅者風の自然観を持っていたから、弟子のヴェルディエにも禅者の目で風景を見ることを教えた。ヴェルディエは何とかして師匠の思想的な立場に近づこうと努力しているうちに、「一」や「 、」の書き方を練習したことが文人画を描く基礎訓練になっていることに気づいた。

想念のなかにある風景を描くには、専門絵師が写生するときに用いる筆遣いではうまくいかないのである。「一」や「 、」を繰り返し書いているうちに身についた融通無碍の描線でないと、内的なイメージを表現することが出来ない。

ヴェルディエは、黄原が、「山にも、植物にも魂がある、天がそれを与えた」という意味が分かって来たような気がした。彼女は、山にも植物にも宿っている精神的なものを表現することを目指すようになった。そうすれば、彼女の描いた山や植物を見るものは、その画を通して自らの内面の姿態を感じとる。画家と鑑賞者の心が、画を媒介にして一つに繋がるのである。

ヴェルディエは、こうして「内面の旅」を続けながら、未だに古いものを残している中国の現実にも目を向けていた。近代化を目指すこの国には、まだ、ぞっとするような残酷な光景が残っていた。

<あるとき女子トイレで、一人で木の箸を使って堕胎しょうとしている女学生に出くわした。私は、あわててやめさせようとしたが、彼女は激しい口調で叫んだ。


「ほっといてよ!」
「出血多量で死んでしまったらどうするの。あなたの助けになってあげたいのよ」
「助けたいなら、なにもしないでくれればいいの。もし見つかったらおしまい、田舎に送り返されるだけ。だから、黙ってあっちに行って。私にやるべきことをやらせて!」


 この女学生が直面している恐ろしい状況に、少なからぬショックを受けたが、なにもできないまま、トイレから出るしかなかった。それでも、彼女を外部から守るため、入口を見張ることにした。中から聞こえてくるうめき声に、私の震えはとまらなかった。


 彼女が出て行ったあとの血だらけのトイレの掃除をし、残されていた箸をゴミ箱に捨てた。その後何カ月も彼女を大学で見かけることはなかった(「静かなる旅人」)>

一人っ子政策が実行されていた中国では、出産の問題をめぐって、あちこちで、むごたらしいことが行われていた。ヴェルディエが友人になった画家夫婦の家に招待されたので訪ねていったら、夫婦からこんな話を聞かされた。

「さっき近所で、ある男が自分の赤ちゃんを食べたという話を聞いたわ」

ヴェルディエは、「そんなこと、まさか」と絶句してしまった。夫妻は、信じられないかもしれないが本当のことだと言って、新聞などに載っている悲惨な話をいくつも紹介してくれた。こうした残酷な事実が続出するのも、中国では個人の生命を尊重する習慣が根付いていないからだった。

< ある日のこと、市場に出かけたとき、人だかりができて、みんながトラックに向かってなにやら怒鳴りちらしている光景に出くわした。そのトラックには、鎖につながれた罪人がすし詰め状態で乗せられ、死刑執行場所に護送されるところだった。


 罪人とはいえ、処刑前の数時間の生命を尊ぶという気持ちは微塵もなく、民衆は唾を吐き、スイカの皮を投げつける者もいた。


「あの人たちは、殺人犯か強盗なの?」


近くの男性に尋ねたところ、「自業自得、あいつは泥棒なんだよ。スイカを盗んだんだ。昔はそういうときには手を切断されたが、今は銃殺刑になる。見せしめが必要なのさ」(「静かなる旅人」)>

──ヴェルディエはさまざまな体験を重ねながら、6年間の留学を終えてフランスに帰国している。彼女が学んでいた四川美術学院には、ヴェルディエの後を追うような形で欧米から何人もの留学生がやってきたけれども、中国の前近代的な生活に耐えることが出来ず、みな中途で帰国してしまっていた。そんな中でヴェルディエが学院の課程を最後まで完了したために、重慶市では彼女の作品の展覧会を開いてくれ、その祝賀会には市の有力者が多数出席してくれた。

帰国した彼女は、フランス語を話すことに難渋し、何か質問されると、とっさに中国語で答えるという風だった。だが、ヴェルディエは6年間に及ぶ「静かなる内面の旅」を続けたお陰で画家として一皮むけ、風景に宿る霊的なものを描きうるようになっていた。そして、自然の前では自分も石や水や植物と同根の存在であり、すべてのものが自分の家族であると感じるようになった。

帰国後、彼女はフランス外務省の中国文化担当官に選ばれて、中国に着任している。


現在の彼女は結婚して夫との間に男の子をもうけ、パリ郊外の田舎で暮らしている。最後に、「静かなる旅人」の末尾に記されている、ヴェルディエの言葉をいくつか引用する。

・・・・私はいま、世捨て人に近い環境に身を置き、自然と溶け込んだ生活をしている

・・・・集中力を高めるために、私は世間から身を引いた

・・・・簡素でありふれた生き方が、小さなものへの愛着をはぐくんでくれる

・・・・老師から伝授された思想が、私の血となり肉となるのに、20年を要した

・・・・沈黙と無言を友とする生活が、私の日常となっている

・・・・中国語で言う「ベンダン」、つまり愚直にならなければいけない。それこそ、道教の師が説く基本理 念にほかならない・・・・                      

               

作品を製作中の著者