散歩コース
散歩といっても、犬に運動させるための散歩で、自分のためにする散歩ではない。自分のためならその日の気分によって散歩したりしなかったりということになるが、犬が相手だとそういうわけにはいかない。時間が来ると、犬はけたたましく吠え立てて催促するので、こちらも腰を上げざるをえないのだ。
散歩コースは、ごく簡単である。堤防上の道を一直線に先へ先へと歩いて、適当なところまで行ったら、また、戻ってくるだけなのだ。堤防上を少し進むと、あまり見かけない形をした橋がある。水神橋である。
水神橋
この橋は、昭和10年代に作られた。すべてがコンクリートで作られ、形も斬新で、当時としてはモダンな橋だったが、今では老朽化が目立ち、たびたび、補修の手が入れられている。この記事を書いている今も、橋脚の補修工事が続けられている。
レイプされた娘
戦時下の中学校で学んだ私たちは、この水神橋について特殊な思い入れを持っている。級友の一人が、この橋を渡ったところでレイプされている若い娘を見かけたのだ。晩秋の早朝、刈り入れのすんだ田圃の藁塚の陰だった。加害者は中年の男だったそうである。
彼はその現場を目撃しながら、そのまま黙って通り過ぎ、登校してからクラスの仲間にそのときの様子を話した。この「実見談」は私たちを妙に興奮させた。級友が口々に質問してくるので、彼はほとんどクラス全員に対してこの話を聞かせてやらなければならなかった。
私たちは皆、目を光らせて、根ほり葉ほり質問を浴びせかけたが、彼に向かって「警察に通報したか」と問いただすものは一人もなかった。レイプされた娘を哀れに思いはしたが、私たちはそれが警察沙汰になるような重大な問題だとは思ってもいなかったのだ。
「女性が時に、手込めにされるのは仕方ないことだ」
これが当時の中学生の感覚だったのである。そして、それは世の中全体の考え方を反映するものでもあった。だから、私たちは、その現場を直接目にするチャンスに巡り会えなかったことを残念に思ったのだ。ひどい話である。
奇怪な塔
老朽化した水神橋の反対側には、県営のアパートがある。
5階建てのアパートの背後には、写真に見るようなキノコ型をした塔がそびえている。これはいったい何のために建てられたのか見当がつかないけれど、人づてに耳にしたところでは、火災が起きたときの放水塔なのだそうだ。
写真の後背部に段丘の稜線が見える。稜線の左端は下方に折れている。この部分はV字型の窪みになり、段丘の上に出る通路になっている。
水神橋の上流100メートルのところにもう一つ橋がある。「新水神橋」と命名されている。これは最近に作られた橋だから幅員も広く、幹線道路ともつながり、市内交通の要衝になっている。
犬の散歩は、新水神橋のところまでで、ここで回れ右して帰途につくのが慣例である。犬もその辺を心得ていて、橋のたもとまでくると足を止めて私の顔を振り仰ぐ。犬が、
(もう少し散歩したいな)
というような顔をしているので、その先へ進むこともある。
その先は、広々とした水田地帯で、春になれば一面の水田になり、秋になれば黄金色の稲田になる。秋口に水田地帯を歩いた者は、あたりに新穀の香りが充満していることに驚くに違いない。穂を結ぼうとしている稲は香ばしい匂いを放ち、それが集まって独特な香りの世界を作り出すのである。