曾野綾子の作品 1 曾野綾子が何時だったか、「私はショウ(賞)もない女だ」といっていたことがある。彼女は、一度芥川賞の候補になったことがあるだけで、その後、何の賞も得ていないからだ。確かに、彼女には代表作といえるようなものはない。
ただし、彼女のエッセーには一つだけいいものがある。「誰のために愛するか」というベストセラーになった本で、このなかで彼女は、恋愛にしろ親子の愛情にしろ相手のために自己犠牲を敢えてするような愛はほとんどなくて、たいていは自分のための愛、利己的な愛にすぎないと書いていたのである。
曾野綾子のデビューは、大変華々しかった。彼女は有吉佐和子とならんで才女の双璧とされ、その育ちのよさと美貌とで世の注目を集めた。その上、作家の三浦朱門と結婚して「おしどり夫婦」と評されたのだから、デビュー後もマスコミが放っておく筈はなかった。かくて曾野は現在に至るまで、人気作家の地位を守り続けているのである。
その彼女が長らく鬱状態にあったと、夫の三浦朱門が「文藝春秋」で証言しているのだ。その記事を読んでみると、曾野綾子の症状は皇太子妃である雅子妃のそれと驚くほど似ているのである。
才女として脚光を浴びつづけていた曾野綾子が、何でまた鬱になったのだろうか。三浦朱門の語るところによれば、こうである。
<(曾野綾子は)若い女流作家として世に出
たため、広告に大きな写真が出たり、テ
レビに出演したりして顔がよく知られて
しまった。街を歩いていても、本にサインして
ください、と声をかけられたりす
る。マスコミからも世間からも、一挙手
一投足が見られているような気がして、
身動きがとれない。つまり彼女にとって、日本という国そ
れ自体が、いつも身構えていないといけ
ない世界だったのです。>名声を得た途端に曾野綾子にとって、日本の全体が自分を注視し、自分を監視する息苦しい世界に変わってしまったのだ。彼女には、安心して息をつける場所が何処にもなくなった。
そういう彼女にとって唯一の救いは、この日本を出て外国で暮らすことだった。三浦夫妻は、ある年、ブラジルで開かれたペンクラブ国際大会に夫婦で出席したあと、アメリカ縦断のドライブ旅行をしたことがある。夫婦交代で自動車を運転しながらのアメリカ縦断であった。
<このアメリカ縦断ドライブ旅行が、
彼女にとっては完全な解放でした。初めての
外国。道行く人は誰も自分を知らない>これ以後、曾野綾子は外国旅行を渇望するようになったのだ。
この二年後、彼女の身に再び外国旅行をするチャンスが訪れた(当時の日本は、外貨割当制度を取っていて、民間人が自由に外遊するのは不可能だった)。ウイーンで日本文化に関する国際会議が開かれ、これに招聘されていた三島由紀夫が、自分の代わりに出席してくれないかと三浦朱門に頼んできたのだ。
だが、三浦朱門がオーストリア大使館に出かけて打ち合わせをしてみると、相手側は出席者が三島でないことに不満を持っているらしかった。それで、三浦朱門は会議に参加することを断って帰宅した。そして、妻に「ウイーン行きは止めたよ」と何気なく告げたところ、曾野綾子が、ウワッと大声を上げて泣き出したというのである。彼女は泣きながらこう言った。
「外国に行きたかったのに」
三浦は、妻がこんなにも激しく感情をぶちまけるのを見たことがなかった。曾野綾子は外国旅行をそれほどに渇望していたのである。裏返して言えば、日本での日々がそれほど苦痛だったのだ。
曾野綾子は鋭敏な頭脳と繊細な感受性を持っていたから、常住注視の的になっている生活に耐えられなかった。雅子妃は曾野綾子を上回るほどの才知と感受性を持っているから、他者の注視を浴びることに曾野以上に強い痛みを感じるのだ。
雅子妃の経歴は、恐るべきものである。彼女はアメリカでハーバード大学を卒業し、イギリスのオックスフォード大にも留学している。そして帰国してから東大法学部に学士入学しているが、茂木健一郎によると、この学士入学試験は極めて難関で、百名以上の受験者のうち合格するのは僅か数名に過ぎないそうである。世界最高水準の三つの大学に合格するには、世界性を持った知性と強靱な意志が必要である。そうした鋭敏な女性が、皇太子と結婚したことで生活が激変し、何処に行っても好奇の目で見られるようになったのだ。
人々の注視の的になることが、どうしてそれほど苦痛なのだろうか。曾野綾子や雅子妃の気持ちが理解できないという者も多いかもしれない。だが、それは内省的な生活に馴れていない人間の感想である。一人静かに勉強や思索を重ねてきた聡明な女性にとって、群衆の好奇心まるだしの露骨な視線のなかに投げ出されることは、耐え難いほどに苦痛なのである。
雅子妃にとって更に苦痛だっのは、「公務」をおえて東宮に戻ってくれば、今度はそこにも百余名の役人がいて、その注視を浴びることになるからだった。妃が心を許せる場所は、何処にもないのである。加えて、宮中祭祀という問題があった。これに参加することも彼女には苦痛だった。
宮中祭祀については、右翼系の学者が一斉にその必要性を合唱している。彼らは天皇の必要性を論証しようとして苦慮し、宮中祭祀の執行者というところに天皇の存在理由を求めていたから、「雅子妃の神事忌避」が我慢ならないのである。京都大学教授の中西輝政などは、そんな皇太子妃なんか離婚してしまえという趣旨の乱暴な記事を書いている。
私はこういう高慢ちきな右翼学者らに問いたいのである。そういうあなた方は、シャーマニズムを本当に信じているのですか。皆さんの自宅に神棚はあるのですか。神社の前を通るとき、立ち止まってちゃんと頭を下げていますか、と。
こう言い換えてもいい。諸君は、天皇が神事を執り行うことで五穀豊穣が約束され、天皇がそれを怠れば凶作になると本気で信じているのですか、と。
まともな思考能力を持っていたら、現代人がシャーマンの呪術力を信じられる訳はない。右翼の学者らは、自分では古神道を信じていないくせに、天皇にシャーマン的神事を履行することを求め、皇太子妃がそれに熱心でないから皇后になる資格はないなどと言い募るのである。
外国人は、高度な科学知識をそなえている日本人パイロットがジェット機の操縦席に成田山の札をぶら下げていることに奇異の目を向けている。そのパイロットも実は本気で成田山の効能を信じているわけではなく、操縦席にそれを置いておくのは単なる気休めに過ぎないのだ。雅子妃が無神論者かどうかは知らないけれども、もし彼女が潔癖な合理主義者として神事に加わることに抵抗を感じているとしたら、その辺は大目に見てやるべきではなかろうか。自らは神道に無関心なくせに、雅子妃が神事に熱心でないからといって最大限の言葉で糾弾する学者らの厚顔には驚くほかはない。
曾野綾子や雅子妃にくらべると、紀子妃には少し鈍いところがある。彼女はいろいろ不合理なところのある皇族制度や宮廷のしきたりに疑問を感じる代わりに、そのシステムの上に乗って人々から賛美されることを楽しんでいる。曾野や雅子妃が内省的なインテリタイプとすれば、紀子妃は外向的なミーハータイプなのである。
だからといって、紀子妃が「妃殿下」という身分にふさわしくないと言っているのではない。皇族にも様々なタイプの人間がいるのは、当然のことだからである。皇室改革の第一歩は、多様なタイプの人間がそのなかで生きられるような寛容な体制に作りかえることではなかろうか。
2「曾野綾子の作品」という題をつけたけれども、実はあまり彼女の作品を読んでいない。処女作の「遠来の客たち」にはちょっと感心したが、その後の彼女の作品は大体において通俗小説ばかりで、あまり感心しなかったからだ。
小説はダメだが、エッセーには見るべきものがあった。そう思ったのは、曾野の「誰のために愛するか」を読んだからで、その後も彼女が池田大作の文章を辛辣にこき下ろしているのを見て、その勇気に感心した。私は高校の図書館係だった頃に、創価学会がこれだけ大きくなっている以上、池田大作の本も図書館に置いておくべきではないかと思い、参考のために彼の自伝風の本を読んだことがある。
それは実に不思議な本だった。読んでいるはしから、内容をどんどん忘れてしまうような文章で書かれていて、あとで思い出そうとしても頭に何も残っていないのである。原因はその本が新聞記事風の無個性的な文体で書かれ、内容に知性のかけらも感じられなかったからだ。当時、池田大作には、大作ではなくて「代作」ではないかという風評が流れていたから、この本もお抱えのライターが書いたのかもしれない。
その後、曾野綾子のエッセーをいくつか読んでみると、反俗的であろうとして右傾化したり、カトリックに肩入れしすぎてバランスを失ったりしたものが目についた。彼女の「遠来の客」は、ルース・ベネディクトの『菊と刀』を下敷きにしている。彼女には、日本の風俗慣習や伝統的文化に違和を感じるところがあり、彼女が量産するエッセーはこの違和感を母体にして書かれているように思われるのだ。つまり、曾野綾子のエッセーには、バター臭い家庭で育った令嬢による、怖い者知らずの放言集といった感じがあるのである。
曾野のライバルだった有吉佐和子は、反俗的なエッセーを書いて敵を作るような愚かなことをしないで、着々と実績を積み上げて曾野との差を広げていった。有吉は、功成り名遂げた文壇の大家らに高く評価され、そのため彼女は、「ジジイ殺し」といわれていた。文壇の大家を籠絡するな有吉の処世術に対抗するためには、曾野はあえて反俗的な孤高路線を突き進むしかなかったのかもしれない。
私は曾野の小説もエッセーも読まないようになっていたから、彼女がその後何を書いているか知らずにいた。彼女が自邸にペルーのフジモリ元大統領を引き取っていることは、新聞で読んでいたが、曾野に対する興味を失っている身には、最早、彼女が何をしようと特別の感想は浮かばないようになっていた。曾野綾子について興味を呼び覚まされたのは、前に触れたように三浦朱門の手記によって彼女の鬱の症状が雅子妃のそれに酷似していることを知らされたからだった。それでグーグルの検索で曾野綾子について調べたら、「遠来の客」で日本的なものに否定的なポーズを取っていた彼女がとどまるところを知らず右傾化して、日本礼賛の「愛国者」に変貌していた。
例えば、彼女は産経新聞にこんなことを書いているらしかった。
<いまや「自称弱者」が、弱いことを盾にして
他者を攻撃している。「加藤智大」は、その最たる
者だ・・・・・ホームレスは、彼らだけが『眺めの良い川辺で
生活で出来る(!)』のに、社会が悪いと不平を述べる。
こんなものは、すべて甘えである。『貧しい国の国民は、生きるか死ぬか
の世界にいる。彼らに、そんな「甘えの論理は通用しない」』>頭の悪い保守主義者は、いつでもこうした「弱者の脅迫」理論を持ち出して社会保障政策に反対する。アフリカの難民などと比較して、飢え死にしないだけでも幸福だと思えと説くのも、彼らのオハコである。産経新聞の保守的な読者を相手に、こんなパターン化した主張をしているうちはいいけれども、チリのピノチェト軍事独裁政権を擁護するに至っては、もういうべき言葉もない。曾野綾子は、ピノチェト政権を擁護するという大失態を犯しただけでなく、沖縄集団自決問題でも軍の関与はなかったという趣旨の発言をして、高校の歴史教科書の記述に非難の声をあげている。
こうした重大な失言を繰り返しているから、曾野への風当たりは極めて強く、ちゃんねる2にも彼女を攻撃する発言がたくさん載っている。だが、彼女を応援する書き込みもかなりあり、曾野のファンクラブも出来ている。割合からすると、曾野否定が三分の二、肯定が三分の一くらいであろうか。そこで、次に否定論を二本、肯定論を一本引用する。
<その1>
彼女は今までずっと挫折もなく“勝ち組”で生きてきたから
思考が男性の右翼のようになってる。
同じ女性としてああはなりたくない人間のひとりになっちゃった。昔彼女のエッセイを読んでて大嫌いになった。
そのエッセイには
「フーテンの寅さんは人気があるけどとんでもない!
ああいう性格破綻者を家族にもったなら、家族は悲惨!
とうてい映画のように笑ってられない。」
というようなことを書いていた。
寅さんのように変っているけど、ちゃんと自分の稼ぎで
生活している人を「性格破綻者」と断じているのは
彼女のモノの見方を象徴していると思う。><その2>
フジモリ氏は日本で曾野綾子さんの別邸、ついで田園調布にある彼女の自宅に匿われています。曾野さんは周知のように、日本の非常に保守的なカトリック教徒として、これまで政治的な発言を繰り返してきました。
彼女は73年のチリ軍部クーデタの直後にチリを訪れて、クーデタ支持派のキリスト教民主党を取材し、クーデタの正当性を声高に語ったという経歴を持っています(確か『諸君!』に彼女のルポが掲載されたはずです)。もっとも、軍部による虐殺や拷問が国際的な非難の的になり、また、キリスト教民主党が軍部からうとまれるようになってからは、チリについて発言はしていないようです。
曾野さんがフジモリ氏に「亡命」先を提供したうらには、オプス・デイの影があるのではないでしょうか。彼女はチリで軍部クーデタを公然と支持することで、おそらくラテンアメリカのオプス・デイにはよく知られた名前になっています。そのオプス・デイと深いかかわりを持っているアルベルト・フジモリ氏の日本「亡命」に力を貸したのですから、なんらかの関係をそこに見て取ることが可能です。
なお、オプス・デイは各国で「神の御業」を推進するさいに、資金的にはさまざまな財団や公的資金に頼ることが多いようです。曾野さんは日本財団(笹川一族の競艇商売の隠れ蓑)の会長でもあります。日本財団はフジモリ氏が大統領になってから、驚くほどペルーに対する援助金を増やしています。このあたりも、もっと調べるとなにか出てきそうです。>
<その3>
<産経新聞で曽野さんの文を読むが、時たま「あっ」と思う新鮮さがある。
この方は財団の資金で世界の未開地区に援助をされているが、ご自身で
未開地区へ行き援助の実態を見て、援助の評価をされている。緒方貞子さんと共に日本の女性の世界への顔と思っているが。>
3曾野綾子は、父が箱根のホテルのマネジャーをしていたため母親と二人だけで暮らしていた。母と娘は一体となって生きていて、最初に曾野の作品を読むのも母親、作品を批評するのも母親だった。そこへ、まるで入り婿のような形で、曾野と結婚した三浦が入り込んできた。三浦は、「結婚した当時、曾野は22才の学生だったから、そうせざるを得なかった」と弁解している。本来三浦家を嗣ぐべき彼が、実父母を家に残して妻の家で暮らすのはいかにもおかしな話だったのである。
この不自然な家族関係は、夫妻の双方に禍根を残すことになる。三浦は実の親を捨てたという罪悪感に苦しむことになるし、曾野は母を取るか夫を取るかで悩むことになるのだ。曾野は結局、母を捨てることを選んだ。その間の事情を、三浦は次のように説明している。
<だから彼女は母親を超克するという道
をえらんで、ウツ状態を脱したようで
す。つまり、ウツの原因として母親を選
ぶのがもっとも簡単だった。母親は娘に
どんなに扱われても我慢してくれる。そ
れも母性愛の一種ですから。しだいに、
彼女は母親に守られている娘から、母親
を庇護する側に意識が逆転していきまし
た。そして文学的にも、母の批評という
くびきを逃れて書けるようになった。>三浦の手記によると、曾野は母を題材にした作品を書くことで、母親の支配から抜け出ることに成功したという。
曾野綾子の作品が食い足らない理由は、彼女が通俗性の強いフィクションを多く書いているからだった。しかし、彼女が母との葛藤を描いた私小説を発表しているとしたら、曾野作品に関する印象も変化するかもしれない。それで曾野の作品目録を調べてみると、それらしい小説を見つけることが出来た。「木枯しの庭」という長編小説の広告に、次のような文章が載っていたのだ。
「子にとって親とは一体何なのか? 人はなぜ愛しながら憎まなければならないのか? 親と子の関係を極限まで追求した注目の長編」
早速、インターネット古書店に「木枯らしの庭」を注文した。
本が届いたので読んでみたら、私の予想は完全に外れていた。「木枯らしの庭」は例の通り曾野式の通俗小説だったのである。内容は広告にあったように親子の関係を取り上げた長編小説だった。が、母親との関係に悩む主人公は、女流作家ではなくて、40才を過ぎた公文という息子で、キリスト教系の大学の教授だったのだ。
アテがはずれたけれども、読んでみるとなかなか面白くできている小説だった。大学教授公文は好ましい女性と次々に知り合い、中には男女の関係になった女性もいるのだが、息子と二人だけの暮らしに固執する母親のことを考えると、どうしても結婚に踏み切れない。
母は他人の不幸を見聞きするのが好きだった。そうすれば、それと引き比べてわが身の幸福を実感できるからだった。他家の不幸を知ったときの母の口癖はこうだった。
「本当に、お気の毒にね。・・・・・
その点、うちはあなたと私がこうやって二人で暮してる限
り、本当に安定してるみたいねえ。あんまり不運なことも
起きないし、考えてみたらここ十何年って、うちは不幸な
目に会ったことがないのね」公文自身も、「ますらお派出夫」のように甲斐甲斐しく母の世話をしながら過ごす生活に半ば満足していた。それはそれで、居心地がよかったからである。だから、愛する女との結婚を諦めて独身を続けていたのだが、最後になって彼は母との一見快適な生活が、実は荒涼たる「木枯らしの庭」に他ならなかったことに気がつくのだ。
<この荒れた庭は、昔から母と公文のものであった。「二
人だけ」以外の誰もが、ここに立ち入ったことはなかった。
そこは寒く、いつも木枯しが吹いてはいたが、そこは二人
だけの世界であった。二人は、他に、どのような庭を期待したらよかったとい
うのだろう。二人はその木枯しの庭以外のものを知らなか
った。良くも悪くも、それが二人の確固たる現実であった。
そこには憎しみが、枯葉の音になって常に舞っていた。し
かも、憎しみには、「愛」などと違って、はるかに強く、
確実に人の心を犯すものがあった。>この幕切れの場面などは、いかにも手慣れた感じなのだが、曾野が通俗作家から容易に脱出できないのは、この長編で「罪」の問題を取り上げながら、それを突き詰めて考えることが出来ず、結局、問題をうやむやのうちに終わらせているからだった。
公文は、人にはいえない罪の意識に苦しんでいた。彼は、後輩の助教授千治松がアメリカに留学するに際し、妻と二人の子供を連れて行くけれども、老母を一人だけ日本に残して行くことに怒りを感じていた。そして、そういう男は罰せらるべきだと考えていた。
公文が時間をつぶすために川沿いの道に自動車を止めて週刊誌を読んでいると、目の前の砂利山のそばで男の子が二人で遊んでいた。公文は男の子のうちの一人が千治松助教授の息子ではないかと思ったが、以前に一度しか会ったことがなかったので自信がなかった。その子が助教授の息子であるかどうかは別にして、公文は子供たちに砂利山に登らないように注意した方がいいと思った。そんなことをすれば、砂利山が崩れて子供が生き埋めになることを知っていたからだ。
しかし公文は、何もしないでその場を去り、その後、助教授の子供が行方不明になったことを知ってからも、砂利山の件を告げないでいた。曾野綾子は、沈黙を守る公文の内面を仔細に描きながら、そして人間の罪について問題提起をしておきながら、彼女自身の回答を出すことをしないでいるのである。神父になった旧友に、「カトリックでは、罪をどう定義しているんだ?」と問い、「罪だと思ったものが罪なんだ」という回答を得たことを記し、「すると、悪いと思わないで殺せば、人殺ししても罪にならないこともあるんだな」と反問して、相手から、「理論的にはそうだ」という答えを引き出しておきながら、それ以上に進むことが出来ないでいるのである。
曾野綾子が、この問題について奇妙なことを書いているので、その全文を引用してみる。
<・・・・・・公文は、一つ一つではなかったが、自分が、
あの千治松の息子を砂利置場に放置して、声をかけなかっ
た背後にある、自分の腐敗した心理の堆積を、ありありと
思い出していた。それは復讐だったのだろう。誰に対し
て?一応は千治松に対してである。しかし、千治松だけ
ではないようにも、公文は思っていた。公文は彼の他に、
自分を痛めつけた一団の人々の影を見ていた。それは決し
て特殊な状況ではないということも知っていた。誰もが、
そのような、自分の運命と心理に対する「殺し屋」的な存
在を持っているのが普通なのだ。しかし、あの時、自分は、
最も手近なやり方で、復讐を果そうとしたのだ。>この文章をゆっくり読んでみると、曾野綾子が被害妄想に取り付かれていることが判明する。公文は年老いた母を日本に残して渡米しようとしている助教授に対して罰を加えるべきだと思った。曾野にいわせれば、その公文の怒りの背後には、すべての人々に対する公文の怨念が隠れているというのである。作者としての曾野は、公文が隙あれば彼を攻撃しようとする「殺し屋」のような人間に取り囲まれているから、万人に対する復讐心を抱くようになったと説明している。そして彼女は、公文が万人に対する敵意の個別的な現れとして助教授への処罰欲を燃やしていると説明する。
これは公文のことではなく、曾野自身のことではあるまいか。
曾野綾子のエッセーに共通しているのは、弱者や敗者に甘い顔を見せてはならない、彼らは直ぐつけ上がるからという大衆蔑視の姿勢だった。そして、それは、奇しくも三浦朱門の基本的な態度でもあった。三浦は教育課程審議会の委員長として「ゆとり教育」を推進していたが、その根拠になったのは被支配層にはほどほどの教育を施しておけば十分だという治者の論理だった。彼の発言は妻の曾野並に過激で、「サブページ2」によれば、雑誌「現代思想」には三浦の次のような言葉が載っているという。
(「ゆとり教育」によって学力低下にならないかとの質問に対して)「そんなことは最初から分かっている。むしろ学力を低下させるためにやっているんだ」
「今まで落ちこぼれのために限りある予算とか教員を手間暇かけすぎて、エリートが育たなかった」
「ゆとり教育というのはただできない奴をほったらかしにして、できる奴だけ育てるエリート教育なんだけど、そういうふうにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ回りくどく言っただけだ」
「エリートは100人に1人でいい。非才、無才はただ実直な精神だけを養ってくれればいいんだ。」
──三浦夫妻による大衆蔑視の発言を見て行くと、作家として一流という評価を得られなかった男女の怨念のようなものが感じられるのである。