「死の棘」の子供たち
「死の棘」というのは、空恐ろしい作品である。
島尾敏雄は、この作品で夫に浮気をされて精神に異常を来した妻を描いたのだが、普通この種の作品は第一ステージで妻の狂態を描いておいて、第二ステージでは夫婦関係が破綻するか、和解するか、とにかく解決編にたどり着くことになっている。ところが、この作品では妻が夫をなじり、夫が土下座して謝る場面が延々と続き、そのまま最後まで行ってしまうのである。
狂った妻は、一旦夫に謝罪させて落ち着きを取り戻す。けれども、直ぐに原点に戻って怒りに燃えて夫をなじりはじめる。謝られても彼女の内部で何も問題は解決されていないのだ。こうした描写が切りもなく続くから、読者は自分が狂った女と生活を共にしているような暗澹たる気分になるのだ。
この作品には、妻と愛人が庭でつかみ合いの喧嘩をする場面が出てくる。夫は、地面を転がる愛人が見覚えのあるパンツをはいていることを認める・・・・。こうしたリアルな描写を随所にはさんでいるから、読者は読んでいるうちに無間地獄に落ち込んだような気分になるのである。
島尾夫妻は、争いを始めると互いに夜と昼の区別が付かなくなってしまう。夫婦には幼い兄妹がいた。一体、子供たちは、昼夜の別なく陰惨な争いを続ける両親をどんな目で見ていただろうか。
そうした疑問を持っていたから、息子の島尾伸三が父を回顧する本を出したと聞いて早速それを手に入れて読んでみた。「小高へ」と題するこの本には、「父 島尾敏雄への旅」という副題が付いている。
だが、読み始めて拍子抜けがした。本には、島尾敏雄のことも、その妻である島尾ミホのことも僅かしか触れてなくて、叙述の大半は子供の頃に住んでいた小岩の風物や父のふるさとや親戚のこと、そして高校時代に父と旅した琉球への紀行文で占められていたからだった。
例えば、最初の方に次のような文章がある。
< 妹、マヤの死は、十年経っても、私を悲しませるのに充分です。
どうして彼女を、狂った母の家から救い出せなかったのか……。
闇のなかに今も輝きつづける霊であることを私は知っています。暗い気持ち
になっている時には、特にそれを思い知らされるからです。一度は救い出すことに成功したのですが、三年経ったころに、また母に引き
戻されてしまい、マヤはそれから八年もしないうちに、骨だけにまで痩せ細っ
て、死んでしまいました>こうした文章を読めば、誰でもことの詳細を知りたくなる。しかし、この事については、著者はこれ以上何も触れていないのである。
両親が自分たちの問題にかまけて、子供たちに注意を払わなかったから、妹マヤの面倒は二歳年長の伸三が見なければならなかった。
< マヤはどこへ行っても両親の後を追いかけません。だから、私が、おしっこ
やうんちの世話をしなければならないのです。電車に乗っていても、「おにい
ちやん、うんち」って、言うんだもん>母は、子供の面倒をあまり見なかったが、夫に死なれ、息子が結婚して独立すると未婚の娘マヤを手元から離さなくなった。精神の安定を欠いている母は、身近に誰か肉親がいないと不安なのだ。母は娘を必要としていながら、自分の要求を娘に押しつけるだけだった。彼女は、以前に夫を責めることで夫を支配していた。今度は、自らの理不尽な要求を娘に押しつけることで娘を支配するのだ。
だが、著者は母を一方的に断罪してはいない。夫の浮気を知る以前の母は、映画好きの明るい女性だったのである。
<おかあさんの好きなアラン・ラツド主演で、たてつづけに三、四回は見た
「シェーン」・・・・・このころのおかあさんは陽気なものが大好きで、明るい洋画と、トニー谷や
兵隊生活を笑いものにした柳家金語楼というコメディアンの主演する映画や、
ラジオの落語や漫才を聞くのが大好きでした。おとうさんがお笑い芸人を好き
になった1960年ごろには、おかあさんは冗談が判らない人になっていまし
た>だから、著者は別のところに、こうも書いている。
<楽しいことを考えるのが得意だったおかあさんの夢を、片っ端から壊
したのは、外出が多くて難しい顔ばかりしていたおとうさんに違いありません。
私は今だって「おとうさんのバカ」と、言いたいです>
では、今は写真家になっている著者は、どのような少年だったのだろうか。彼は高校生の頃に落第して一年生を二度やっている。彼は、自分の先天的な素質を母から受けていると述べる。
<先天的な要素をおかあさんに、後天的な要素をおとうさんとおかあさんの暮らしぶりから見出せるかもしれません>
小学校一二年生頃の彼には、奇妙な振る舞いが多かったらしく、両親は何度も息子を精神病院に入れようとしたという。30になった息子が恋愛を始めたときにも、両親は彼を精神病院に入れようとした。
確かに、この本を読んでいると、ちょっと変だなと思う箇所がある。後半の方に、「琉球旅行」という章があるのだが、これが奇妙なのである。これは、「ユリイカ」という雑誌社から父親の思い出を書いてくれと依頼されて執筆したものだった。
彼は、「この作文は出版社の注文に従って書きはじめています」と断ってから原稿をスタートさせる。そして、あっけらかんと、「注文の枚数をとにかく文字で埋めさえすれば、幾ばくかの支払いを受けられるはずです。・・・・それにすがりつかねばならない無職の私です」と打ち明けるのだ。原稿の終わりは、「書きかけですが、この作文をこの辺りで終わりにします。出版社の注文の枚数に達したようだからです」となっている。
注文の枚数だけはキチンと守っているが、島尾敏雄のことを書いてほしいという要望にはほとんど応えていない。父親について語る代わりに、彼は自身について多くの筆をついやしているのである。文中で彼は自分自身をしきりに責める。
<自分を犠牲にする愛に無関心でした。神の声から逃げ回ってきました。知り
合ったり好きになった人の幸福を食い荒らし、迷惑をかけ、傷つけ、都合が悪
くなると逃げだすということを繰り返してきただけなのです>そして自身の「病歴」についても、ありのままに語るのである。
<中学のころから落ち
着いて字が読めない病気が続いているのです。ノートに数行も字を書くと、頭
が混乱して、字が書けなくなるのです。人の話も、一人の話を聞いているのが
我慢出来ないのです。じつとしていると頭のなかに幻覚のような声が、不愉快
な別の話を幾つも始めるのです。数人の人が別々に話していると落ち着くのに
です。教室が騒がしくて、友達とふざけ合っていると、同時に読書に集中出来
るのです。これでは勉強なんて出来っこありません>最後の章は、「骨」となっている。島尾敏雄の葬儀の場面を取り上げているこの章まで読み進んできて、初めて読者は飢えを充たされたように感じる。島尾家の実像が紙背から浮かび上がってくるからだ。
著者の伸三は、父が亡くなったとき、妻と共に香港に行っていた。母からの電話で父の死を知った彼は、(葬式が済んだ頃に戻った方が面倒がなくてよさそうだな)と考える。彼は世間とのつきあいが苦手なのである。だが、帰宅してみると、葬儀はこれからというところだった。母は彼を父が倒れていた書庫に連れて行って、お父さんはこうしていたのよと、発見されたときの父の格好をして見せた。
ところが、父が倒れていたという書庫が問題なのであった。
両親はお互いの世界を尊重するという趣旨から、父と妹の所持品は二階、母のものは一階に置くことにしていた。父にとって、頭痛の種は膨大な蔵書をどうするかということだったから、「もう全部売り払おうか」と口にしたこともあったが、別居後も父の蔵書の管理係をしていた伸三は、「売るのは何時でもできる」と反対した。父が死んだら古本屋をやって生きて行こうと思っていた妹のマヤも反対したため、結局、本は二階の一部屋を書庫代わりにして、ここに詰め込むことになったのだった。
父が蔵書の処理に悩んでいたとしたら、母の懸念は着物だった。母は着物のためだけに階下の一室を使っていたが、この部屋をゴミ箱のようにしてしまった彼女は、父との取り決めを破り、着物を入れてあるタンスを二階に置きたいと言い出したのだ。それで父はやむを得ず、書庫にしていた二階の部屋を母に明け渡し、蔵書を新たに作った書庫に移すことにしたのである。その書庫とは、ガレージを改造して作ったものだった。
伸三は、「おかあさんの浸食力が無限大であることを知らされ、自分の配慮の足りなさを嘆きました」と書いている。
この頃には、万事に几帳面だった父は従来の緻密さを失って少しおかしくなっていた。だから、伸三は帰国後に父母の暮らす鹿児島に行って、蔵書を移転してやるつもりでいたのに、父は衰弱している体を鞭打って自力で蔵書の引っ越しに着手し、持病の心臓病で倒れてしまったのである。
責任を感じた母は、伸三に会うなり、「伸三、ごめんね、わたしは、おまえのおとうさんを殺してしまった」と詫びた。母に詫びられた伸三は、「おとうさんは緻密さを失っておかしくなりはじめていて、もう死んでもよいころだったので、むしろ、ありがとうと思いました」と、どきっとするようなことを書いている。
だが、伸三は父の遺体を見たときの印象を、「血のにじんだ包帯を巻いた、お父さんの顔はあまりにも痛々しくて、惨殺されたみたいに見えて来ました」とも書いている。父が頭に包帯を巻いていたのは、母が頑強に主張して頭蓋骨を開けたからだった。この件に関連して、不思議な記述があるので、その全文を引用してみる。
<どうやら、頭を輪切りにして、頭蓋骨の蓋を開けたみたいです。その手術に
ついては、疑問がいっぱいあって、開けなくてもよいのに、おかあさんの強い
要望で開けたので、死ななくてもよいのに、死んじゃったのだと話してくれた
人がいましたが、本当のことはわかりません。輪切りにする直前まで、おとうさんは口元から涎がこぼれているのではない
かと、ハンカチを手に何度も拭っていたのだそうです><血の滲んだ包帯を巻いた、おとうさんの顔はあまりにも痛々しくて、惨殺さ
れたみたいに見えて来ました。おかあさんも、そう感じたのか、誰にもおとう
さんの顔を見せてはいけないと、言い出しました。悪事を隠すようで、気が進
みませんでしたが、おかあさんの言いつけなので従わざるを得ません。間違って誰かが顔を覗かないように、妹と登久子さんと子どものマホとで棺
桶を見張ることにしました。おとうさんのそんな悲しい姿を他人に見せるわけ
にはいかないと、おかあさんは何度も言い訳めいたことを言いました>葬儀の準備も葬儀も、すべて母の命令通りに行われた。
伸三・マヤの兄妹は、母に命じられるままに柩の中に眠る父の手足の爪を全部切り、一緒に切った頭髪と共に和紙に包んだ。妹のマヤは終始震えていた。矢継ぎ早に命令を下しながら母の目は、次の命令材料を探すためにあたりを見回しているのだ。
葬式は教会で行われた。
告別のミサを終えて、車で火葬場に行く途中、母は柩の中の父に聞かせるために歌をうたった。火葬場に着いてからも、母は係員の指示に逆らって葬儀社の社員に命じて追加の骨壺を用意させたりした。
葬儀が済むと、伸三はすぐ自分の妻子を東京に帰している。理由は、「この家の狂気にどっぷり浸食されないため」だった。すべての親戚縁者が去り、母と二人の子供だけになったとき、母は雨戸を閉め切って、居間の机の上に新聞紙を並べさせた。深夜であった。
それから母は新聞紙の上に二つの骨壺の中身をあけさせて、形のいい遺骨だけを選び出して綺麗な方の骨壺に入れさせた。命令役は母で、検分役は妹、実行するのは伸三だった。
伸三は、いつものように母の命令を忠実に実行した。そのあとで、彼は思い切った行動に出るのである。
<おかあさんの顔を見つめながら、私は悲しいふりをして、大きな骨をガリガ
リと食べてみせました。妹は、迷わずに泣いて食べだしました。ギクッとした
表情を慌てて吹き消すと、おかあさんは嫌そうに、小さな骨を捜しだし、それ
を食べました><おとうさんの骨は、形の良いものだけの入った奇麗な壷と、粉々の骨の入っ
た白い壷に分けられ、奇麗な壷がおかあさんのもの、白い壷がお墓へ入れるも
のになりました。粉々の骨の入った白い壷を抱えて、私は登久子さん(注:妻)
と二人で福島県相馬郡小高町の、深夜の小高駅に降り立つことになるのです>葬儀の夜、母子三人で死者の骨を食べるという異様な光景は何を語っているのだろうか。
父を追憶するための本と銘打っておきながら、著者は父についても母についても僅かしか語っていない。彼が顧みて他をいうというような態度を示すのは、酷烈を極めた両親の争いを思い出したくないからだろう。父母のことについて語ろうとすれば、拒否反応が働くのである。
──狂っていた母も、やがて落ち着いて出版社の依頼に応えて本を書き、夫と並んで作家と呼ばれるようになった。母に執筆の依頼が来るようになったのは、父が「島の果て」によって母をメルヘンの中の王女のように美しく描いたやったからであり、さらに「死の棘」で父が母を並ぶもののない有名な女にしてやったからだった。だが、母はそのへんを誤解して、自分を過大評価している。
母は父への愛を誇示していた。喜びと悲しみを乗り越え、父への比類のない愛を培った女として世間に自分を売り込もうとしていた。伸三はそうした母に反発を感じながら、これまで抗議する方法を知らなかったのだった。
伸三がとっさに思いついたのは、父への愛を示すために遺骨を食べてみせることだった。彼は母に、(あなたは、これが出来ますか)と訊ねたのである。彼のたくらみは、「おかあさんの顔を見つめながら、私は悲しいふりをして」骨を食べたという一節に現れている。妹も兄の意図を悟り、躊躇なく骨を食べ始めた。仕方なしに母が嫌々小さな骨を食べたという文章に、してやったりという伸三の気持ちが表れている。
母に対する伸三の感情は、母が親戚の間で嫌われ者になっていたことを記した文章にも表れている。父の島尾敏雄は、弟と金を出し合って墓を建てた。そして両家から死者が出たら、みなここに葬ることにしていた。この墓に最初に入ったのは島尾敏雄で、続いて妻ミホと娘のマヤがここに葬られた。
だが、叔父の家族は、ミホが葬られてからは、ミホと同じ墓にはいるのは嫌だといって、生前から別の墓に入ることを決めてしまっていた。伸三はため息混じりに、「わがままの強い人は、良くも悪くも影がおおきいのかもしれません」と書いている。
母は父の島尾敏雄が特攻艇「震洋」の隊長になり、特攻隊員として死を目前に控えているときに知り合った。彼女は父が出撃するのを見送ってから、断崖から飛び降りて自殺するつもりだった。それほどの思いを寄せていた父との気持ちが結婚後離れはじめたとき、母は絶望の淵に沈んだのだ。
伸三は、そういう母の気持ちも十分に理解していたから、彼の本には、次のような言葉も載せている。
「おかあさんは、ずっと孤独の恐ろしい海を生きてきた人だと感じました」