佐野洋子の「役にたたない日々」

1

新聞で佐野洋子がガンで亡くなったという記事を読んでも、最初は彼女が何者だったかすぐには思い出せなかった。私は「過越しの祭」で芥川賞を取った反戦主義の画家や、「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」を書いた詩人や、「神も仏もありませぬ」の絵本作家に深甚なる敬意を払っているが、佐野洋子がこのうちのどれだったか思い出すことが出来なかったのだ。だが、とにかく、その誰が誰だか分からなくなっているところの佐野洋子が亡くなり、自らのガン体験について記した「役にたたない日々」という本を書き残していると知って、その本を読みたくなった。何でも、それはガンなど屁でもないという著者の心意気を披瀝した本だということだった。

だが、「役にたたない日々」にはガンに関する話がほとんど出てこなかった。

著者が横臥して韓流映画を朝夕眺めているうちに、同じ姿勢でTVばかりを見ていたために、あごの骨がはずれてしまったというような話が書いてあるのだ。それはそれで面白かったから、大いに笑ったのだが、読み進めて行くと、やっと最後の章になって、「ガンなど屁でもない」という勇ましい文章が出て来たのである。

佐野洋子の乳ガンを見つけてくれたのは、耳鼻咽喉科医の女医だった。佐野は、乳ガンは小豆大のコリッとした固まりだと聞いていたのに、彼女のものは雑煮のもちみたいなものが左側の乳房にあるだけだったので、それがガンだとは夢にもおもわなかったのである。しかし耳鼻咽喉科の女医は、患部を触った後で、「すぐ病院に行きなさい」と命じた。それで、自宅から六十七歩の近さにある病院に行って診察してもらったら、乳ガンであることが確定し、患部を切除することになったのだ。

佐野洋子の文章が、彼女らしい流儀を発揮するのは、このへんからであった。佐野は、「役にたたない日々」のなかに、こう記している。

「手術の次の日私は六十七歩歩いて家にタバコを吸いに行った。毎日タバコを吸いに帰った」

佐野洋子は、これで万事完了と思ったらしかった。だが、ガンは骨に転移していたのである。ある日、外出してガードレールをまたいだら、ポキッとした感じがあった。それで、病院の整形外科に行ってレントゲンを撮ったら、この前、乳房切除をしてくれた医者が顔色を変えた。

医者は、すぐに癌研を紹介してくれた。癌研では専門病院を紹介してくれる。以下に転載するのは、佐野洋子でなければちょっと書けないような文章である。

「私はラッキーだった。担当医がいい男だったからだ。阿部寛の膝から下をちょん切った様な、それに医者じゃないみたいにいばらない。いつも笑顔で、私、週一度が楽しみになった。七十パパアでもいい男が好きで何が悪い」

「いい男が好きで何が悪い」と啖呵を切った後で、彼女の文はいよいよ佳境に入る。

<初めての診察の時、

「あと何年もちますか」
「ホスピスを入れて二年位かな」
「いくらかかりますか死ぬまで」
「一千万」
「わかりました。抗ガン剤はやめて下さい。延命もやめて下さい。なるべく普通の生活が出来るようにして下さい」
「わかりました」>

佐野洋子は、自由業で年金がないから九十まで生きたらどうしようとセコセコ貯金をしていたが、あと二年しか寿命がないとしたらそんな貯金は必要ない。彼女は病院からの帰途、近所のジャガーの代理店に行って、売り場にあった一台の車を注文した。

「それ下さい」

ジャガーに乗った瞬間、シートがしっかりと彼女を受け止めてくれて、あなたを守ってあげるよと言っているみたいだった。乗っていると、クルマに対する心からの信頼が自然にわきあがって来た。

「あー私はこういう信頼感を与えてくれる男を一生さがしていたのだ」という思いがこみ上げてきた。けれど、あと二年しか生きられないのだから、もう、そんな男に巡り会う可能性はない、そう思うと、がっかりした。「でも」と佐野は思い返した、「最後に乗るクルマがジャガーかよ、運がいいよナア」と。
 
佐野洋子は、七十で死ぬことを理想としていたと強がりを言っている。そして、(神は居る。私はきっといい子だったのだ)と自分に言い聞かせ、(今、自分には何の義務もない。子供は育ちあがり、母も二年前に死んだ。どうしてもやりたい仕事があって死にきれないと思う程、私は仕事が好きではないのだ)と自分自身で確認した。

しかし、不思議なことがおきたのである。余命二年と云われたら、十数年間、彼女を苦しめていたウツ病がほとんど消えたのだ。

彼女は、人生が急に充実して来たような気がした。毎日が楽しくて仕方がなくなった。程なく死ぬとわかるってことは、自由を獲得することではないかと、思った。私小説作家の耕治人は、ガンになったときに、これは罪多き自分に下された罰だと感じて病苦に耐えている。だが、佐野洋子は、ガンになったことを嘘か本当か、神の恵みだと言っているのである。

彼女がガンを神の贈り物と考えたのは、十数年間の鬱病で生きることを負担に感じていたからだろうか。その問題について考える前に、「役にたたない日々」に記された他の記事を見てみよう。

                                     2

佐野洋子が、韓流映画のトリコになったのは、息子の友人が彼女を見舞いに来て、DVDの「冬のソナタ」全巻を貸してくれたからだった。そのいきさつを、彼女はこんな風に書きはじめる。

<三十六の男がリュックサックをしょって見舞いに来た。中からビデオの「冬のソナタ」 全巻を出して「持って来てやった」といった>

佐野は、そのDVDを見始めたら、止まらなくなった。                      
佐野は、何回もボーボー泣いた。彼女は寅さんを見ている時にも泣いたが、こんな風ではなかった。佐野は生まれて初めて、この様な泣き方をしたのである。彼女の魂は、全く別次元の、この世でもあの世でもない世界に迷い込み、心臓をよじるように泣いたのあった。

これが、はじまりだった。韓流ビデオを賛美する佐野の言葉は、尽きることなく続くのである。

彼女はDVDを見て大泣きをしたが、ストーリーの筋立てがめちゃくちゃであることを見逃していたわけではない。物語は、まさにヨン様受難の歴史であった。交通事故に二度も遭っている。二回とも、恋人チェ・ジウに会いに行くところだった。あと三メートルで抱き合えるところで、大きな自動車にはねとばされるのだ。

続いて彼の記憶喪失があり、チェ・ジウに思いを寄せる幼なじみの男も出てくる。佐野はテレビでも映画でも、この男のようなストーカーを見たことがなかった。執念深いのである。執念深いと云えばヨン様も女も執念深い。そのくせチェ・ジウは、ヨン様とストーカーの間を行ったり来たりして、その時々に手を強くひっぱる男の方に気持ちが傾いてしまうのだ。佐野としても気をもまないではいられない。

佐野洋子は、麻薬患者が麻薬に溺れるように、韓流ドラマを追い求めるようになった。韓流ドラマを見ていると、不思議な恍惚感に包まれるのである。佐野は、考え込む、六十六歳になる自分をこれほどまでに幸せにしてくれる韓流ドラマとは、そもそも何なのだろうか。これを知らずに、この幸せを知らずに死んだら、自分の一生は、「あー損したなあ」ということになったろう。

佐野は、自分の生涯を顧みて、こんな幸せな瞬間がいくつあったろうかと、指を折って考えてみた。

振り返ってみると、この幸福感は今までに感じてきた幸福感とは、確かに違うのである。彼女は、これまでに良質の映画を沢山見てきた。泣いた映画も数知れなかった。心あたたまる映画も、悲しみを癒してくれる映画も見た。だが、やはり、韓流ドラマが与えてくれるような至福感はなかった。

韓流ドラマのストーリーときたら、ほとんどがご都合主義のでっち上げばかりだった。辻褄の合わない、ケッと云いたくなるようなもののオンパレードなのだ。でも、見ていると幸せになるのである。えらい人は韓流ドラマの魅力を分析するが、佐野洋子は肩をそびやかせて、こう宣言するのだ。

「好きなものに理由などないではないのよ。ただ、好きなのよ」と。

佐野は、韓国に出かけて、「冬のソナタ」の撮影現場を見に行った。そしたら、そこは、日本からやってきたオバサンたちでいっぱいだった。

佐野もこれらオバサンたちと同じように、韓流ドラマ依存症になり、身をもちくずしてしまった。だが、おかげで、今までオドオドしていた気持がカラッと明るくなった。彼女は、自分がドラマのおかげで解放されたと感じる。だから、同じドラマを何度でも見るのである。大事な時間がつぶれる。お金も馬鹿にはならない。それでも韓流ドラマを見ずにいられないのだ。
 
佐野洋子は、オバサン達は淋しいのだと考える。

彼女らは、やる事がないのだ。そして人生はもう終わりかけているのである。家にはうすら汚い小父さんがころがっている。半端な恋ごころで、あるいは親の云うとおりに見合いなんかして結婚したお陰で、見はてぬ夢をいまだに抱え込んでいるのだ。熱烈な恋も長続きしなかった。もう亭主とセックスなんかしたくない。いや、誰ともセックスなんかしたくないのである。

実際、日本の女たちは、みんな韓流ドラマに夢中になっている。

私は、ある日、BSの番組表を見てあきれてしまった。どの放送局も競争で韓流ドラマを何本も番組の中に組み込み、まるで韓国テレビの番組表みたいなのだ。注目すべきは、昔はフランス映画しか見なかったような上流階級の令夫人や政府高官の妻たちが、娘時代に培った教養をかなぐり捨てて恥も外聞もなく、韓流ドラマにうつつを抜かしていることだ。安倍晋三夫人、鳩山由紀夫夫人などは、佐野洋子同様、韓流ドラマ依存症になっていて、鳩山夫人のごときは、首相夫人という特権を生かして、お気に入りの韓流スターを頻繁に首相官邸に招き、周囲の顰蹙を招いていたほどだった。

だが、日本の男性は、女性ほどには韓流ドラマに夢中になっていない。私なども韓流ドラマで見たといえば、「冬のソナタ」と「猟奇的な彼女」の二本だけだ。私は、この二本を見て、(おや、何かに似ているぞ)と思った、(そうだ。松竹大船撮影所の量産した女性映画に似ている)

松竹大船撮影所は、戦前戦後を通じて現代物、それも「女性映画」を数多く制作していた。松竹映画の戦前の代表作は「暖流」であり、戦後の人気作品は「君の名は」だったが、どうして松竹映画が人気を博したかといえば、観客を当時の世相とは裏腹な温かな愛情の世界に連れて行ってくれたからだった。

「暖流」が封切りされたのは、日本が泥沼のような戦争に突入し、男たちが次々に召集されて戦場に赴いた時代だった。食べるものにも着るものにも事欠き、時を得顔の軍人の怒号ばかりが耳に響く「貧寒時代」だったから、現実を忘れさせてくれる「愛情あふれる温かな世界」を求めて女たちは映画館に足を運び、松竹はそれに応える映画を量産したのである。戦争が終わって飢餓から一応解放されたが、日本にはまだ風呂場のない家が多かった。だから、ラジオ放送で「君の名は」が放送される時間になると、銭湯の女風呂はガラガラになったのである。

日本が高度成長期を経て、各家庭に風呂場が備え付けられるようになると、松竹大船撮影所の女性映画は退潮期を迎え、代わってテレビの「昼メロ」時代が始まる。

一方、韓国では、日本が「昼メロ」時代に入ってからも、依然として松竹大船調の女性ドラマを作り続けている。なぜだろうか。

韓国と日本は、ほぼ同型の社会を形成しているが、生活面をとってみると、あらゆる点で韓国の方が日本より半歩ずつシビアなのだ。第一に、韓国には徴兵制があり、儒教道徳が市民生活の末端まで浸透している。今でも、若い男女は、親の許可がなければ結婚できない。受験戦争は日本より激しく、少子化の速度も日本を上回っている。こういう厳しい社会に生きているから、韓国人は今もなお現実とはかけ離れた世界を求めて、松竹大船調のドラマを作り続けるのである。

佐野洋子は、韓流ドラマを総括して、こういっている。

「ストーリー展開は問題ではない、もう情のみなのだ。恋人同士の恋情の強さ、家族愛の強烈さ、友人同士の自己犠牲、もう情をとことん使い抜くのだ。・・・・韓国人から見たら無表情とあいそ笑いの日本人は気味悪かろう」

佐野をはじめ日本のオバサン族が韓流ドラマに熱中するのは、若かった頃に松竹の女性映画を通して夢見た愛の世界を再体験するためなのだ。オバサンたちが夢想した世界は、文字通り夢に終わったから、赤玉ポートワインをウイスキーに変えるように、松竹大船作品をもっと濃厚にした韓流ドラマに走るのである。

                              
佐野を始め、安倍晋三夫人も鳩山由紀夫夫人も、そして世の韓流ドラマ依存症のオバサンたちも、子供の頃から精神面で、あるいは物質面で、シビアな生活を強いられていたと思われる。彼女らを眺めていると、過去の侘びしかった少女時代が透けて見えるような気がするのだ。

佐野洋子は、確かに、厳しい少女時代を過してきたのである。

                                    3

佐野の「役に立たない日々」は、家庭内の深刻な問題を取り上げる時にも、面白おかしく書いているため、全体を通して気楽に読める。だが、彼女が「波」に連載した「シズコさん」になると、深刻な話が深刻のまま書き込まれている。そのため、読後に、何か、大正年代に書かれた私小説のような印象を受けるのだ。

表題になっている「シズコ」というのは、佐野洋子の母親の名前である。この表題が示すように、本書は佐野洋子と母シズコの関係を赤裸々に描いた作品であって、冒頭からこんな話が出てくる。

四歳位の時、佐野が手をつなごうとして母の手を求めたら、母はチッと舌打ちしてほとんど凶暴とさえいえるやり方で佐野の手を振り払ったというのである。佐野はその時、幼いながら二度と母と手をつなぐものかと決心した。佐野と母との壮絶な関係は、この瞬間からがはじまったのだった。

佐野は、子供の頃の自分は神童かと思えるほどいい子だったと語っている。

<私は多分幼年時代に全ての長い資質を使い果したのではないか。働き者で従順だった。ぐずった事は一度しかない。勇気があって辛抱強く気がきいて、例えば父がまだ煙草をとり出さないうちに灰皿を持って走る子だった。口答えした事もない>

母が、この神童のような娘を目の敵にして苛めるようになったのは、長男が病死してからだった。母は、長男を何ものにも代え難いほどに愛していた。だから、母は本当は最初から長男には水汲みをさせたくなかったのである。

──敗戦で中国から引き揚げてきた佐野の一家は、父の実家の近くにある田んぼの中の家に住んでいた。この家には、水道がなかった。だから、家から三十メートルほど離れた所を流れている細い小さな川から、水をバケツで運んでこなければならなかった。家にはコンクリートの水槽があり、これがいっぱいになるまで、水を運搬するのだ。はじめ母がバケツ二つを竹の天秤棒につるして運んでいたが、すぐそれは佐野洋子と兄の仕事になった。佐野と兄は、毎日、天秤棒の真ん中にバケツをつるしてヨロヨロと運んだ。

ヨロヨロするのは兄がひ弱で、足腰がしっかりしていないからだった。母は、荒い息を吐きながら水を運ぶ長男を見て、「坊やは、やめなさい」と庇った。母は小学校六年生の兄を坊やと呼んでいたのだ。六月の大雨の日に兄は死んだ。

兄がいなくなってから、水運びは完全に佐野洋子一人の仕事になった。彼女は往復する回数を節約したかったから、一人で二つのバケツを天秤棒の両端につるした。初めは両方のバケツに半分位がやっとだったが、彼女は毎日少しずつ水を増やしていって、バケツに七分までの水を運べるようになった。それでも水槽をいっぱいにするには、10往復する必要があった。

ある日、彼女はまだ水槽がいっぱいにならないうちに水槽に蓋をして、何食わぬ顔でいた。だが、母は、すぐに気がついた。このときの様子を佐野は、「シズコさん」のなかにこう書いている。

<母はふたを開けた。ジロリとにらむと「私をだまそうとしてもそうはいかないんだから」と押し殺した声で云うと黙ってバケツと天秤棒を外に投げた。
十歳の私は泣かないのだ。
学校から帰ると母はジロッと私をにらむ。私は水汲みよりも母がジロッとにらむ事が嫌
だった。そのジロッは、「遊ぼうったって、そういかない」を発していた>

母は、5人の子供を産んでいたが、引き上げ前後に長男を含めて3人の男の子を病死させている。生き残ったのは、女の子ばかり2人だった。そこで両親は男の子が生まれることを待ち望んでいたが、田んぼの中の家に移ってから生まれてきたのは、またも女児だった。

赤ん坊が生れるとおむつの洗濯は佐野の仕事になった。おむつは飲み水の川と同じ川で洗う。おしっこのおむつは三回ゆすぎ、うんちはうんちをふり落して、石けんで黄色い色がなくなるまで洗う。うんちがぶかぶか流れてゆくのは、何かしらきれいに見えた。

そのうちに、だんだん寒くなり水が冷たくなる。

佐野は、すすぎをズルし、うんちの色がまだ黄色く残っているおむつを手で絞って誤魔化すことにした。母はジロッと娘をにらむと、しぼったおしめを素早く鼻に持っていき、おしめを土間に放り投げた。

母は黄色の残ったおしめを広げて、佐野の顔に押しつけることもあった。

「なによ、これ。えっ、私をだまそうとしたって、そうはいかないんだから」

佐野は、冬になると山へ薪を拾いにやらされた。竈で飯を炊くのも、ジャガイモを茹でるのも彼女の仕事だった。ジャガイモを茹でているうちに、居眠りをしたことがある。その時のことを、佐野は書いている。

<気がつくと私は板の間にころがされて、母が、ほうきの柄で私をたたきのめしていた。じやがいもが黒こげになったのだ。母はたたきのめしながら、足で私をころがした。
私は虫のようにまるまり悲鳴をあげた。

悲鳴を上げても私は泣かないのだ。母はいつまでも止めなかった。ころがし、叩きのめ
す。

私は殺されるんだ、殺されるんだったら早く死のう。私はたたかれても動かずに手足を
ダラリとして白目を出した>

こういう修羅場も佐野洋子が中学校に入学するまでだった。

<私は(中学に)入学した。十三歳反抗期のスタート。そして全開した。

私が母の何を具体的に嫌だったか、全然思い出せない。何でもかんでもムカついていたのだと思う。母の匂いがむかついた。おしろいの匂いの中に浮いてくる母そのものの体臭、巾の広い背中と臼のような尻。何か云うと間髪をいれず「そんなことありません」と瓦で頭をたたきつけるような口調、私にだけでなく妹や弟にも「うるさい」とまとわりつかせなかった粗暴な身のこなし。それ位しか思い出せない。しかし反抗期に休日はなかった>

佐野は、母が顔にべたべた白粉を塗って厚化粧をするのを嫌い、そして、虚栄心から母が近所の奥さん連に嘘を並べ立てることを憎んだ。

母に対して批判的になってゆくにつれて、二人の妹との関係も変化し始めた。

そして何時か、彼女も加害者になっていた。佐野は家の中で全くロをきかないようになった。八歳年下の妹は、むっつり押し黙っている姉の不機嫌が耐えられないようだった。要領のいい二女は姉を見て学ぶところがあったのである。母から気に入られた二女は、母の目の届かないところで、自分のしたい事をひそかにやっていた。彼女は父にも気に入られていた。愛想がよかったのである。

母は二女の顔を見るたびに「あんたは洋子のようにならないでよ」とお経のように言い聞かせられたと、後年、佐野は妹から打ち明けられている。
        
佐野洋子は、母と二女に対抗するために、十二歳年下の末の妹を味方にした。彼女は、末妹をぺットのように愛玩しはじめた。どこに行くのにも妹を自転車に乗せて行った。午後から雨になると、授業をさぼって幼稚園にいる妹に傘を届けた。妹のセーターにも、ワンピースにも刺繍をしてやった。幼稚園の遠足の弁当も作ってやった。

                                 4

佐野洋子の「シズコさん」は、最初に著者に対する母親の虐待振りを描き、後半に入って、母にもいいところはあったとして、母親の主婦としての有能ぶりを紹介するという構造になっている。そして、巻末になると、まるで一昔前の「母もの」映画のように、和解した佐野と母親が涙を流して抱き合うことになっている。

こうした「母もの」映画的構造は、一応の効果を発揮しているけれども、ここはやはり構造を逆転させて、佐野家の家族を純客観的に描くことから始めるべきではなかったろうか。戦前の家庭は、どこでも子だくさんだった。それで、家事に追われる母親は、仕事の一部を長女に負担させるのが普通だったのである。

長女は家の中では、第二の母の役割を果たしていたから、幼い弟妹のおむつを洗うというようなことは、さほど珍しいことではなかった。私が読んだ生徒の手記のなかに、母からの聞き書きとして、おむつ洗いについて書いてきたものがあった。その生徒の母親は、まだ小学生だった頃、生まれて来た赤ん坊のおむつを真冬の池で毎日洗っていたというのだ。池は氷で鎖されているから、洗う前にまず氷を割らなければならない。そうやって、洗っていると、冷たさが痛みになって手先から脳へと突き上げてきたという。

──ここで著者に代わって、佐野家の概略を紹介してみよう。

父親は、左翼系の研究者だったらしい。戦前の左翼研究者は、弾圧を逃れて中国大陸に渡り、満鉄の調査部に潜り込むものが多かったが、佐野の父親もその一人だった。佐野は、父の職場について、以下のような記述をしているだけである。

<中国で父が行っていた中国農村慣行調査というフィールドワークが、父が死ぬ数年位前に出版された時、朝日文化賞を受けた。
満鉄の調査部の仕事だった。農村慣行調査をするグループの一員だったが、父の友人達はそのグループの人達で、皆家族ぐるみのつき合いをしていた>

佐野の父は、グループ内では仲間から「カミソリ」といわれるほど頭の切れる男だった。が、敗戦で帰国すると高校教師になり、その十一年後に死去している。

この父は、家を残さず、金も残さなかったから、四十二歳で未亡人になった母は、父の友人の仲介で地方公務員になって四人の子供を育てることになる。母の生んだ七人の子供のうち三人は病死したから、その後には三人の娘と最後に生まれた末弟とが残されていたのだ。地方公務員としての母の仕事は、市立の母子寮の寮長だったから、一家はその寮に住むことができた。

母は家事能力が非常に優れていたので、掃除も洗濯も料理も何でも見事にこなし、狭い住居の中は何時でもまるで子供のいない家庭のように整然としていた。三人の娘たちは、その母から料理・編み物・縫い物を見よう見まねで習得したのだった。

彼女の卓越した能力はそれだけではなかった。金のやりくりにも長じていて、薄給の身で子供たちすべてに大学教育を受けさせ、それぞれを地道な職業に就かせている。すぐ下の妹は結婚して奈良で教師になり、末の妹は東京で保母に、弟は市役所勤務の公務員になった。佐野洋子自身は、武蔵野美術大デザイン科で学んだ後にベルリン造形大学でリトグラフを学び、絵本作家になっている。

母は、草月流の生け花の勉強を始めると、師範の免状を次々に取得し、すぐさま生徒に教え始めた。こうして得た収入を加えて母は、独力で家を建てている。彼女は、その家に末子を住まわせ、彼を結婚させて、盤石の生活基盤を整えたかに見えた。

母は、よその人間にも親切だった。父の教え子達が五、六人正月に集まる習慣があったが、母は喜んで彼らをもてなし、楽しそうに話に加わるのが常だった。父が死んだあとも、彼らは二十年以上毎年正月に訪ねてくれた。母は、彼らの恋愛話や、結婚話を聞いいてやり、時には、もたついている恋愛相手の女の所に乗り込んでいって、話をつけてやったりした。佐野の母は、彼らにとっては頼りがいのある母のような存在だった。

そのグループの中の二十歳でがんになって亡くなった青年などは、死にぎわに病院から母に会いたいと云って来たほどだった。

その母の身の上に、末っ子の事故が原因で、突然不幸が襲って来るのである。この弟について、佐野洋子は次のように書いている。

<母の子供の中で、一番くそ真面目で、おとなしく、辛棒強い弟、決して出しゃばらず、他の人が嫌がる仕事を黙々とする弟、しかし神がまるでエース松坂ではないかと思う程、弟に集中命中する様に運が悪いのだった>

弟は、飲酒運転による交通事故を起こして、市役所をクビになってしまったのである。退職金なしの馘首だった。地元のテレビにも、弟の顔写真が映し出されるような事故だったから、佐野洋子を含む肉親縁者が母の家に集まり、小さな家の中はごった返すような騒ぎになった。そんなさなかに、佐野の母が間の抜けたことを口にしたのだ。彼女はこの頃から認知症の兆候を見せ始めていたのである。

「ねえ、ごはんまだ?」

すると弟の嫁は、目を怒らせて、「何云ってるだよ、ごはんどころではないだよ!」と母を丸太棒で殴りつけるような勢いで叱った。

それから嫁は佐野洋子の方に向き直ると、切口上で言い放った。

「姉さん、お母さんを引き取っていただきます」

有無を云わせない口調だった。その恐い目で睨まれて、佐野洋子は思わず、「はい」と答えていた。こうして母は、自分が建てた家から追い出されて、佐野の家に転がり込むことになったのだ。

母は、それ以前にも時々上京してきて佐野の家に逗留することがあったが、何日かすると必ずけんかになった。すでに、母娘の力関係は変わってきていて、佐野が母を泣かすことが増えていた。母が泣きながら、「私のどこが悪いのよ」と訊ねるので、「優しくない」と佐野が答えると、母はぎくっとして黙ってしまう。

だが、母は、恨めしそうにこういうこともあった。

「あんたが私に言ったこと、必ず報いになって自分に返ってくるからね」

そんな憎まれ口をたたいているうちはよかったが、母は次第にボケ現象が進んで、放っておけないようになった。近所の医者に行った帰りに、彼女は家の角のところで、ぼーっと立っていた。何時までも立っているのである。家が分からなくなったのだ。

佐野洋子は、書いている。

<私は正気の母さんを一度も好きじゃなかった。いつも食ってかかり、母はわめいて泣いた。そしてその度に後悔した。母さんが、ごめんなさいとありがとうを云わなかった様に、(註:佐野は、母が「ごめんなさい」「ありがとう」を絶対に言わない女であることにこだわっていた)私も母さんにごめんなさいとありがとうを云わなかった。

今気が付く、私は母さん以外の人には過剰に「ごめん、ごめん」と連発し「ありがと、ありがと」を云い、その度に「母さんを反面教師」として、それを湯水の様に使った。でも母さんには云わなかったのだ>。

佐野洋子は、十八で家を出て女子寮に入ったが、ホームシックになることはなかった。彼女と同じようにホームシックを知らない妹が佐野に尋ねたことがあった。

「姉さんホームシックになったことない?」
「全然ない」

佐野は、こう書いた後で、「かわいそうな母さん。かわいそうな私達」と付け加えている。

母をホームに入れなければならなかったときに、佐野は分不相応な最上級のホームを選んでいる。佐野は、「私は母を愛さなかったという負い目のために、最上級のホームを選ばざるを得なかった」といっている。

<ホームから帰る時、私はいつも落ち込んだ。うば捨て山を見学に行った様な気分になった。自分の老後のために貯め込んだ金を洗いざらいはがし、毎月、私の生活費以上のものを払い込んでいるとんでもなく金がかかるうば捨て山なのだ。

しかし、それ以外に道はなかった。
私は私以外に親にこんな多額の身銭を切った人を知らない。この施設の人は自分の財産がある人で、子供が費用を払っているのは私だけだと事務の人が云っていた。それは、私の母への憎しみの代償だと思っていた>


                                   5


佐野洋子の母は、父が亡くなってから下品になった。
 
それまで一滴も飲んだことはないのに、酒を飲み始めたのだ。母はその時まで、女は酒を飲むものではないと思い込んでいたらしかった。酒におぼれるということはなかったが、それ以来急に下品になったのだ。見栄っ張りなところは変わらなかったから、「下品な見栄っ張り」になったのである。

だから佐野は、母をホームに入れてからも、はじめのうちは一人で母の部屋に入ることができなかった。二人だけになると間が悪くて、どうしたらいいか分からなくなるのだ。それで、ホームに出かけるときには、母を知っている友達を連れて行くことにした。まだ、お客好きの性格が変わっていなかった母は、娘が友達をつれてやってくると、表情がパアーッと明るくなり、一生懸命客をもてなそうとした。

佐野の友人のなかには、自らの母を憎んでいて、 顔を見ると「首をしめたくなる」というものもいたけれども、佐野はその友人の方が自分より増しだと思っていた。なぜなら、友人は素手で首をしめることができるからだ。だが、佐野は素手で母にさわるのは嫌だった。彼女は母の匂いも嫌いだったから、洗濯機を使うことなしには母の下着を洗えなかったのである。
 
佐野洋子は、そういう自分を狂っていると思っていた。しかし、どう努力しても自分の狂気を直すことが出来なかった。母への嫌悪感には、その自己中心的な性格や度外れな吝嗇に対する嫌悪が混じっていたからだった。

子供たちを大学に入れ、独力で家を建てたのに、佐野の母は一千万円余の貯金帳を持っていた。 

母は爪に火をともすようにして、こつこつと金を貯めていたのだ。佐野は、母が自宅に訪ねてきて逗留するときに、一度も土産を持って来た事がないことを思い出した。祖父の墓を作るときにも、母は一銭も金を出していない。全部、叔母が費用を出してくれたのだ。

一緒に食事をしたときなど、食べ終ると母の姿がすっと消えていた。外に出て娘が支払いを済ませるのを待っているのである。佐野の家に来ても、母は絶対に何も手伝ってくれなかった。孫が生れた時にもお祝いをくれなかったし、孫に洋服や玩具を買ってくれることもなかった。佐野が家を買う時には、頭金を貸してくれた。母は何も云わずにすぐ出してくれはしたが、抜かりなく銀行と同じ利子を取っていた。
 
佐野洋子は、惚ける以前の母を見ると、金にまつわるそんないじましいことまで思い出すのである。だが、認知症が進行してから、母は金のことには無関心になった。母は惚けたことで嫌なところを少しずつ振り落とし、愛すべき人間になりはじめたのだ。髪を染めていた頃は下品な印象しかなかったのに、白髪をそのままにするようになったら母は綺麗で上品なおばあさんになった。

それでも母が老人ホームに入って数年たつと、何時しか佐野は母の着替えを手伝うようになった。そして母の靴下を脱がした後で、細くなった足をマッサージしてやるようになった。佐野は冷たい足をさすりながら、心の中で何時でも、「わあ、すげえ、私が母の足をさすっている」と歓声をあげるのだった。

ある日、母をベットに引っ張り上げて寝かしていたら、疲れて息が切れたことがある。それで思わず、「母さん、疲れたよ、隣に入ってもいい?」と尋ねていた。すると、母は、「いいわよ、いいわよ、ホラホラホラ」と布団を持ち上げてくれた。

佐野は、書いている。

<母さんに触れる様になった事はすごい事だった。呆け果てた母さんが、本当の母さんだったのだろうか。呆けても本能的に外敵を作らない様に自分を守ろうとする力が自然に湧いて来るのだろうか。

母さんをひっぱり上げたあと、私は「あー疲れた」と母さんと同じふとんに入った。母は、「ほら、ほら、こつちに入りなさい」と自分でふとんをめくった。私は「落ちちゃうから、もっと向うにつめて」と云うと子供の様に笑った。「ほらもっとこつちに来て、ホラホラ」私は母さんとふとんの中でまだ割っていないわりばしの様になった。

何だ、何でもないじゃないか、くさいわけでも汚いわけでもない>。

母と打ち解けて口をきくようになった佐野は、母がつぶやく言葉を聞いてハッと思った。

「うちに帰ったら、あの子がひとりでいてくれればいいと思うの」

母の頭には、死んだ長男がまだ生きているのだ。「あの子」というのが長男であることに疑う余地はなかった。惚ける以前の母は、長男一人がいてくれればいいと思っていたのである。そもそも母が佐野につらく当たるようになったのは、兄が死んだ時からだった。母は、兄の代わりに娘の私が死ねばよかったと思っていたのだ。

──佐野は母のベットに入り、自然に声に出して歌っていた。

「ねんねんよう、おころりよ、母さんはいい子だ、ねんねしな」

母さんは笑った。とっても楽しそうに笑った。そして母さんも、声に出して歌い始めた。

「坊やはいい子だ、ねんねしなー。それから何だっけ?」
「坊やのお守りはどこへ行った?」
「あの山越えて、里越えて・・・・」

佐野は歌いながら、母の白い髪を撫でた。すると、佐野の目から涙がどっとあふれてきた。佐野の口から、思いもよらない言葉が出ていた。

「ごめんね、母さん、ごめんね。私、悪い子だったね、ごめんね」

佐野は、号泣と言っていいほどに泣いた。母が佐野を優しくなだめた。

「私の方こそごめんなさい。あんたが悪いんじゃないのよ」

何十年も佐野の中でこりかたまっていた母への嫌悪感が一気に溶けていった。佐野は、この瞬間にほとんど五十年以上の年月、彼女を苦しめていた自責の念から解放されたのだった。

彼女は、生きていてよかったと思った。本当に生きていてよかった。こんな日が来るとは思っていなかった。母が昔のまんまの、問答無用で娘の言い分を頭から押さえつける人間だったら、こんな不思議な展開はなかったかもしれない。

母が呆けてからは、さすがに佐野も母に嫌みを云ったり責めたてたりする事はなくなっていたが、心の中では自分の家を追い出されて、さすらい人になってしまった母を冷たい目で見ていたのだ。これも自業自得だからねと、佐野はどこかで思っていた──そういう執念深い嫌な自分が、ようやく消えてくれたのである。

佐野は、この日が自分にとって一生一度の大事件だったと思った。

自分は、何かにゆるされたと思った。世界が違う様相に見えてきた。おだやかな世界。佐野は、(私はゆるされた、何か人知を越えた大きな力によってゆるされた)としみじみと感じた。

「シズコさん」という本は、次のような言葉で終わっている。

<私も死ぬ。生れて来ない子供はいるが、死なない人はいない。
夜寝る時、電気を消すと毎晩母さんが小さな子供を三人位連れて、私の足もとに現れる。夏大島をすかして見る様に茶色いすける様なもやの中に母さんと小さい子供が立っている。
静かで、懐しい思いがする。
静かで、懐しいそちら側に、私も行く。ありがとう。すぐ行くからね。>