秋葉街道の秋色
地方紙を読んでいたら、「建設省天竜川上流工事事務所」というところが提供した空撮写真が載っていた。上空から秋葉街道を撮影した写真である。秋葉街道というのは、中央構造線に沿って、信州と遠州(静岡県)を結ぶ古道で、昔から伊那谷を縦貫する裏街道として利用されている。この街道は、交易の道にとどまらず、信仰の道としても独自の文化をはぐくんで来た。
私はこの街道をバイクで何度か行き来したことがあるが、空撮で撮影した写真を見るのは初めてだった。写真は、南アルプスと伊那山脈に挟まれたV字型の谷底を、一本の帯のように這う秋葉街道の特色を、鮮やかにとらえている。折しも、秋で、街道両側の紅葉は見事だろうな、と思った。
気持が動いたものの、年を取ると、出かける決心するまでに時間がかかるのである。反射神経が鈍ってきていて、バイクで遠出をすると、数回は、ひやっとするような目に遭うようになっている。そんなこともあって、直ぐ腰を上げる気にはならなかった。が、空撮写真の魅力に抗しがたく、写真を目にしてから一ヶ月後の、2000年11月6日に、バイクにまたがって家を出た。
「建設省天竜川上流工事事務所」撮影(その1)
当日は、晴れ渡った無風の日で、バイクを走らせるには絶好の日和だった。伊那市と高遠町を結ぶナイスロードという自動車道を高速で突っ走ったが、月曜日だったためか道がすいている。秋葉街道に出ると、道路は更に閑散として来て、ひとっこ一人見えない。私はスピードを思い切ってあげた。高速でバイクをとばす快感。スピードという奴には、確かに生理的な快感があるのである。
市野瀬という集落を過ぎて、いよいよ山道にさしかかる。両側の山肌は紅葉で染まり、路面は落ち葉で埋められているが、まだ紅葉はピークになっていない。分杭峠めざして急な坂道を上り始めた。斜面が急なので、道はループ式にくるくる廻っている。道幅が狭くなり、頭上を大木の枝が覆ってトンネルのようになっている。
「建設省天竜川上流工事事務所」撮影(その2)
急坂を上っていくうちに、バイクのエンジン音に変調の兆しが出てきた。不安になった。以前だったら、この程度のことは気にしないで、バイクを突っ走らせたものだったが、加齢とともに次第に臆病になってきている。速度を落としたら、エンジン音がますます変になってきた。自宅からここまで、速度を落とすことなく走ってきたために、エンジンがおかしくなったのかもしれない。
秋葉街道:分杭峠は高遠と鹿塩の中間にある
エンジンを休ませることにして、バイクを崖際に止めて、写真撮影にかかる。場所を変えて4,5枚の写真を撮る。そして、再びバイクのところまで戻ったときには、私はすっかり臆病風にとりつかれていた。私は頂上を目の前にして、回れ右をして元来た道に引き返したのだ。
(秋を探るためには、必ずしも分杭峠に上る必要はない。林道に入った方が、風情があるに違いない)と自分を納得させて、脇道を探し、比較的平坦な林道に出る。
唐松の林にはいると、短い針のような落ち葉が、はらはらとこぼれてくる。そこを抜けて雑木林に入る。もう少しシ−ズンが深まれば、雨が降るように葉が落ち始め、あたりはカサコソという落ち葉の音で一杯になるのだが、今は思い出したように一枚、二枚と落ちてくるだけだ。完全な無風状態だから、落ち葉は独楽のようにくるくる回りながら垂直に落ちてくる。
分杭峠の手前で撮影
この日は、秋葉街道を縦走することを諦めて、脇道を巡り歩いて帰宅した。当日の日記(5年連用日記)を引用する。
「バイクで入野谷に出かける。完全な無風。スピードを出して舗装路を走っていると、生理的な快感がある。林道に落ち葉が溜まっている。空中を高速撮影映画のように落ち葉がゆっくり落ちてくる。カラマツの落ち葉も、銀針のように降りかかる」日記には、自分が臆病風に吹かれて、峠越えが出来なかったことは書いてない。
廃墟となった仙境
これが二年前だったら、私は業者にバイクを調整して貰って、直ぐにも分杭峠越えに挑戦したに違いない。だが、私は別の峠越えを試みて、バイクの調子が本当におかしくなっているかどうか、確かめることにしたのだ。前回から20日ほどした11月24日に、折草峠を越えて秋葉街道に出ることにしたのである。
折草峠は駒ヶ根市中沢から四徳地区に出る峠で、四徳地区の先に小渋ダムがあり、小渋ダムを越えると、秋葉街道に出ることが出来る。つまり、このコースは分杭峠を経由することなく秋葉街道に出るバイパスのような役割を果たしているのだ。数年前にこのコースをバイクで走ったときの記憶では、峠道は分杭峠ほど急ではなかった。
この日も風のない快晴の天気だった。時間の余裕を取って朝早くに家を出たので、途中でバイクを止めてあたりの風物を眺めたり、変わった地形にぶつかったときには、道路脇にバイクを置きっぱなしにして、そのあたりを歩き回ったりした。正午少し前に、頂上に着いた。そこで少し休憩してから、そろそろ峠を下りていく。
途中で見たため池
小渋ダムに通じる道路は、小渋川の支流四徳川に沿って走っている。旧四徳村は四徳川が切り開いたU字型の窪地に開けた村だったから、百戸足らずの家はこの四徳川の両側に散在していたのだった。このため昭和36年6月に集中豪雨の襲撃を受けると、桃源郷と呼ばれていた四徳地区は一挙に崩壊してしまうのである。
84戸あった住宅の半数以上(48戸)が流失し、全壊4戸、半壊9戸と聞けばその惨状が分かるだろう。地区内にあった農協支所、診療所、分教場も流失し、地区は集落としての機能を完全に失ってしまった。こうなればもう復旧は不可能だから、地区を挙げて離村することになり、現在は民家が一軒も残っていない。
災害以前の四徳地区
四徳地区をバイクで下っていくと、世俗から隔離されて別天地という感じがする。周囲は山また山。その山の中に、ナイフでえぐり取ったように細長い窪地があるのだ。仙境といってもいいし、桃源郷といってもいい、そんな感じのたたずまいなのである。その地が、いまや家一軒ないがらんどうになっている。
大災害をもたらした四徳川も、峠の直下あたりでは、下図に見るようなささやかな流れに過ぎない。だが、少し行くと、両側の斜面からの水を集めて、意外に流れが急になる。
四徳川源流付近
災害時の記録を読むと、集中豪雨による雨水は、上流でせき止められてダムのようになり、それが決壊して一気に下流に流れ下ったらしい。この水の圧力で民家を始め公共建築物までも押し流されたのだ。
峠を少し下ったところに墓地があった。住民がいなくなっても墓地は残り、さほど荒れた様子もない。移住した以前の住民が、定期的に手入れしているのかもしれない。
古びた石塔に混じって、新しい墓石も見える
まわりを見渡すと、杉や檜というような造成林は、ほとんど見あたらず、落葉樹ばかりが目に付く。四徳地区の主たる生業の一つは、炭焼きだったそうだから山に雑木が茂っていた方がいいのだ。それが一斉に紅葉している。誇張すれば、山全体が火事のように赤く染まっているのだ。
紅葉の山肌
四徳川を横に見ながら、舗装された道路を下っていくと、急に視野が開ける。小渋ダムに出たのである。満々たる水をたたえた水面が拡がっている。
日が陰っていたとき
ダムの水面は舐めたように平らだ。微かにさざ波が立つ程度で、水は静謐に重く沈んでいる。変化相を拒んで、「自己同一性」を保持しているのである。バイクを走らせていると、視野は更に開ける。そしてダムに映る紅葉が目を奪うようになる。
日を受けた山肌
ダムを横切って長い橋が架けられている。この橋をわたり山裾の道を廻ると、秋葉街道沿いの大鹿村に出る。
山裾を巡る道路
橋を渡って山裾の道を500メートルほど行ったところで、私は大鹿村には行かずに引き返した。日が傾いてきたし、やや疲れを感じて来たからだ。当日の日記を引用しておこう。
「バイクで近来にない長いドライブ。折草峠を越えて、大鹿村入り口に至るというコースだ。疲れてきて、頭の命じることを身体が受け付けないようになった。帰途、背後から来た乗用車を避けようとして、バイクを側溝に落としてしまう。すると、クルマが止まって、中年の男が二人下りてきて、バイクを引き揚げるのを手伝ってくれた。二人は『気をつけなよ』という言葉を残して、クルマで去っていった」