臨死体験は、何を語るか
久しぶりに大型古書店に出かけて、「臨死体験」(立花隆)、「雷獣」(立松和平)、「天使の鬱屈」(アンドリュー・テイラー)の三冊を買ってきた。前の二冊は百円コーナーに並んでいたが、あとの一冊はCWA賞を受賞したミステリーで、440円の値札が付いていた。しめて640円の買い物になった。
帰宅してミステリーから読み始める。この程度の本だと、昔は一日半で読み終えたものだが、今回は全然はかどらない。いつの間にか推理小説に対する関心が失われていて、それが読書の速度を鈍化させているのだ。「天使の鬱屈」を途中で切り上げて、立花隆の「臨死体験」移る。
立花隆の説明によると、彼はNHKテレビに招かれて、臨死体験に関する連続番組を持っていたという。だが、彼の手元には、テレビで取り上げることの出来なかった資料がたくさん残ったので、それらをまとめてこの本にしたのだという。
私は昔も今もテレビ人間で、面白そうなTV番組は漏らさず見ている。それに私は、立花隆のファンの一人で、彼の書いたものは「宇宙からの帰還」「サル学の現在」をはじめ、たいていのものを読んで来たのだが、にもかかわらず、立花隆がテレビに出ていたことさえ記憶していない。としたら、その理由は私の内部に臨死体験というようなテーマを強く忌避する感情が居座っていたからである。立花隆が臨死体験に関する番組をテレビで放映したのは1991年のことだったが、それ以前に私は一種宗教的な体験をしていて、それからというもの、霊界とかオカルトとか臨死体験とかの話を嫌悪するようになっていたのだ。
宗教的な体験をすれば、それを機に人は熱烈な信仰者になると考えがちだ。だが、多くの体験者はそれ以後、逆に既成の宗教に背を向けて非宗教的な人間になるのである。そのことは、立花隆も「臨死体験」のなかで指摘していることで、「体験者」には、スピリッチャルとか、霊的世界などについて口にする人間がすべて詐欺師に見え、彼らの語る内容はすべてインチキに見えるるのだ。
私は子供の頃から臨死体験の話を耳にしている。
あれは小学校に入学する頃のことだったが、母親が近所の誰それさんの身に起こったという不思議な話をしてくれた。その人は、病気が重くなって死にそうになったとき、危うく冥土に足を踏み入れるところだったというのだ。
「青い草原のようなところに、天竜川のような川が流れていて、そこを渡ろうとしていたら、後ろの方から、やーいといって呼ぶ声がしたんだって」と母は話し始めた。「やーいという声にまじって自分の名前を呼ぶ声も聞こえたから、川を渡るのをやめて帰ってきたそうだよ。あの川を渡ったら、**さんは死んでいたんだよ」
母がまだ頑是ない子供にこんな話をしたのは、この話が母の心を深いところで動かして、誰か人に話さずにはいられなかったからだろう。母が思い詰めたような顔で話すので、こちらも**さんが歩いていた草原や、危うく渡りかけた天竜川のような川をありありと思い浮かべることが出来た。
小学校の4、5年になると、私は母が定期購読している「主婦の友」の愛読者になった。わが家には、雑誌といえば、こんなものしかなかったのだ。雑誌には主婦向けの連載小説が何本か載っていて、それらも私はちゃんと読んでいた。
そんな中で、「霊界小説」と銘打った小説が、特にはっきりと記憶に残っている。題材の異様さが印象的だったのである。ヒロインは、病気で急死した若い女性だった。
ヒロインがまず通過しなければならなかったのが、死の国に通じるトンネルだった。さまざまの困難に遭遇しながらようやくトンネルを抜けると、目の前に砂漠みたいな平淡な世界が拡がっていて、白い着物を着た死者たちがバラバラになって歩いている。何処へ向かうのか、皆、黙々と果てしない砂漠を歩いていた。
ヒロインは砂漠の旅の途中、罠に落ちてもがき苦しんでいる美しい女を見たりする。生前、驕慢な行動で新聞や雑誌を賑わせていたスキャンダラスな女だった・・・・
しかし、小学校を卒業する頃になると、万事に懐疑的になった。昔、耳にした**さんの話は、彼が病床で夢を見ただけなのだ。瀕死の病人が、三途の川の手前まで行って、川を渡らずに戻ってきたというような話は昔から語り伝えられていたから、**さんもそれに暗示されて似たような夢を見たのだ。婦人雑誌に載っていた霊界小説も、何となく嘘っぽかった(あれは、ダンテの「神曲」を下敷きにした作品かもしれない)。
一体、人は、なぜこうした荒唐無稽な体験談や小説に惹かれるのだろうか。死んで自我が掻き消えることを恐れているからだろう。人が、ありもしない死後世界を信じたがるのは、自分が無に帰することを何とかして否定したいからなのだ。
では、死後の世界を否定していた私が、なぜ今になって「臨死体験」というような本を読む気になったのだろうか。この世は嘘とまことをこき混ぜた「何でもあり」の世界だと達観するようになったからだろうか。それとも、自分の終わりの時が近づいたので、「臨死体験」を否定的に読んで、改めて死後における自我の不在を確認しておきたくなったのだろうか。
「臨死体験」には、いくつかのパターンがあって、その一つが「三途の川」体験なのである。これがスイス人の場合だと、生と死を分かつ境界線が川ではなくて峠の頂になり、峠を越えて向こう側に出れば死ぬところだったが、こちら側に戻ってきたので助かったという体験談になるのだ。
自己の体外離脱という体験もある。瀕死の床にある重病人の「魂」が、体を抜け出て天井まで上昇し、そこからベットに寝ている自分やそれを取り囲む家族や医者を見下ろすという体験である。このほか、「パノラマ回顧」といって自分の一生を細部まで一挙に思い出す体験もあれば、暗いトンネルを抜けたら、光り輝く白色の世界に出ていたというような、まるで川端康成の「雪国」を思わせる体験もある。日本人に多いのは、意識を失ったと思ったら一面の花畑に出ていたという体験らしい。
立花隆は、こういう臨死体験を300例集めて、つぶさに検討を加えている。著書「臨死体験」を読んでいて面白いのは、本の各所に引用されているこの実例の部分であり、おかげで「臨死体験」(上)を退屈しないで読み終えることが出来る。
さて、これらの臨死体験をどう解釈するかについては、二つの見方があるのである。私は「臨死体験」を読み終わって、従来の唯物論的な立場を一層強くしたのだが、時間がたつにつれて霊魂の永世という話にも聞くべきところがあるかもしれないと考えるようになった。早急に判断を下すのを保留して、両陣営の主張を冷静に聞いてみようという姿勢に転じたのだ。
キュブラー・ロスという女性医師は、肉体から抜け出た魂が死後の世界をかいま見るときに臨死体験が生まれると説いている。つまり臨死体験で見た世界は死後の世界であり、人間がそうした体験をすること自体が魂の不滅、死後の永遠の生を立証していると説くのだ。
<われわれの肉体は、じつは繭にすぎず、人間存在の外殻にすぎない・・・・われわれの内なる本当の自己、すなわち「蝶」は不死であり、不滅である>
ネス・リングという研究者も、プラトンの説を引用して次のように言っている。
<プラトンは、われわれ人間は真実在たる魂が肉体に閉じこめられた状態にあるといいました。死とともに、魂は肉体の牢獄から解き放たれ、真実在の世界であるイデア界に入っていく。死んで肉体から解放されたときに、われわれは初めて真の存在形態に立ちかえる>
もう一つの見方は現実主義者のもので、臨死体験における映像など、脳細胞が生み出す幻影にすぎないと一刀両断に切り捨てる。死の間際に神経細胞が弱ってきた状態で特異的な活動をするときに臨死体験が出現する。本当の死がやってきて神経細胞が死に果てれば、それらの体験、それらの映像はたちまち消え失せてしまう。瀕死の病人が、死後の世界をかいま見るなどというのは妄想でしかない。
そして現実主義者は、暗いトンネルを出て、明るい世界に出るというイメージは、胎児が産道を抜けてこの世に生まれてくるときの記憶がよみがえったものだと主張する。「魂の体外離脱」なる現象も、身体情報が脳に届かなくなったときに出現する錯覚だと説明する。身体感覚がなくなれば、自意識はよりどころを失って自分を宙に浮遊しているように感じてしまうというのだ。
この二つの見方のどちらを信じるかという点で、アメリカ人と日本人の間には大きな開きがあるという。米国の世論調査機関であるギャラップによると、死後の世界を信じているアメリカ人は67%あり、医者の32%、科学者の16%も死後における魂の生存を信じているという。
これに対して、日本の統計数理研究所が同じ時期に調査したところによると、「あの世」とか、「来世」を信じている日本人は12%しかいない。こういう日米の国民性の違いは、当然、臨死体験の評価にも反映する。日本人は、おおむね臨死体験に対して懐疑的なのである。
臨死体験を擁護する論者の弱点は、その体験の出現するのが脳内酸素の減少などで脳の働きの弱ったときに限られているという点にある。現実主義者が、死に瀕して脳細胞の活動が半ば停止したときに浮かぶイメージなど、信じるに足りないと主張すれば、神秘主義者は返す言葉がなくなるのだ。
だが、「臨死体験」を読むと、現実主義者からのこうした批判に対して、なかなかうまい反論を展開する研究者がいる。例のネス・リングである。少し長くなるけれども、あとで又取り上げるので、彼の説明をそっくりここに紹介してみよう。
<人が死ぬとき、一連の生物科学的現象が次々に起こります。脳の機能は低下し、失われていきます。肉体のあらゆるシステムが機能を失い、解体していきます。そのこと自体は疑いようがありません。私がいいたいのは、肉体がそのような状態におちいったときにはじめて見えてくる別の現実があるのではないかということです。
人間が健康な状態にあるときの日常的な目覚めた意識があると、それにおおい隠されていて見えない現実が、そのような状況下ではじめて見えてくるということがあるのではないかということです。
それはちょうど夜になると空に星が光っているのが見えてくるようなものです。星は昼間も出ているのに、昼間は見えません。太陽の強烈な光が星の微弱なまたたき
を圧倒して見えなくしてしまうからです。しかし、太陽が沈み、他を圧倒する光がなくなると、全天に光り輝く無数の星が見えてきます。そのときはじめて我々に、宇宙の広がりが見えてきます。昼間、太陽の光の下で我々に見えているのは、このちっぽけな地球という惑星のごく限られた一画だけです。昼間、我々は自分には何でも見えていると思っていますが、宇宙的スケールでいえば、実はほとんど何も見ていないのです。広大無辺な宇笛の広がりが見えてくるのは、太陽が沈んだ夜になってからです。
それと同様に、日常的な意識が目覚めた状態にあるときには、我々の認識は強烈な感覚入力に圧倒されて、本当は見えるはずの内的宇宙の広がりが見えていないので
す。肉体的死の接近とともに、それまで太陽のように輝いていた日常的な感覚能力、認識能力が姿をかくし、それによってはじめて真の内的宇宙が見えてくるのです
>人は正気の時、ありのままの世界を見ていると信じている。しかし、実際は、われわれの見ている世界は、さまざまの現世的欲求や社会的通念に裏打ちされた世界であって、真の世界とはほど遠いものなのだ。
だから衰弱して死に瀕し、現世的欲求も社会的通念も力を弱めてしまえば、それらによって覆い隠されていた本当の現実が見えてくる。こうしたことは、十分にありうることなのだ。
もっと端的にいえば、臨死体験には人間の意識を拡張させる働きがあるのである。
死に瀕した人間のすべてが臨死体験によって意識を拡張しているかといえば、そんなことはない。学者らの調査によると、死線をさまよった後に生き返った人間の40%ほどが臨死体験をしている。そして、この40パーセントの人間は、それ以後、はっきりした人間的変化を見せるのである。私は、臨死体験者の見た世界は幻影にすぎないし、死後の世界などありえないと思っている。だが、体験者が意識を拡張した結果、新しい精神世界に足を踏み入れるだろうことは信じてもいいと思う。次の問題は、その新しい精神世界なるものが、どのようなものかということである。
臨死体験者が、体験の事後に見せる人間的変化について、ある体験者はこういっている。
「毎日、毎日、一つ一つの瞬間を最大限の喜びをもって生きています。私の人生は、臨死体験後、はるかに豊かなものになりました」と。
体験者へのアンケート調査によると、彼らのほとんどすべてが「この世」的な欲望の減少したことを認めている。
「他人にいい印象を与えたいという気持ち」が減少したものは、42.3%
「有名になりたいという気持ち」が減少したものは、46.1%
「他人が自分のことをどう考えているかを気にする気持ち」が減少したものは、65.4%
「生活の物質的側面に対する関心」が減少したものは、73.1%
となっている。
既成宗教に対する態度も大きく変化していて、教会に対する感情をありのままに綴ったものにこんなものがある。
「教会がやっていることを私は何一つ信用していません。教会のやり方が私はきらいです。教会で説教をしていることはみんな嘘です。牧師は神の教えに従わなければどうなるこうなると、聴衆をおどかすようなことをすぐにいいますが、あんなことはありません。私は今後とも自分なりの宗教心を持ちつづけていきます」
「教会には絶対行こうと思いません。教会の教えは、私が臨死体験で学んだことのアンチテーゼです」
「体験後、私は教会に行かないようになりましたが、より深い宗教心を持つようになったと思います」
教会に対する反撥は、教会を通さずとも自分が直接神とコミュニケートしているという自信から来ているのだろう。
ケネス・リングは、こうした変化を要約して次のようにいう。
<具体的には、物質中心主義的生き方から、精神的価値を求める方向への価値観の転換、宇宙的真理を一瞬に洞察する能力の獲得、さまざまの超常能力の獲得、悟りの境地に入ること。万物への深い愛情に包まれることなどがそれに含まれる>
さて、臨死体験者の示したこのような変化は、人間の意識が二つの層から出来ていることを語ってはいないだろうか。「体験者」としての私は、表層に自我意識があり、その背後にそれとは別のもう一つの意識があると考えるようになったが、臨死体験者たちは、表層の意識から深層の意識に移ったことで、かくも顕著な態度変化を起こしたのではなかろうか。
とすれば、自我意識が厚い雲のように真の自己(セルフ)を包んでいるために、人は背後にあるもう一つの意識に気がつかないでいるのである。
だから、瀕死の床に横たわり自我意識が力を失うと、背後からもう一つの意識が姿を現してくるのだ。昨日の朝日新聞に生命科学者柳沢桂子の体験談が載っていた。彼女は難病で苦しみ抜き、夫の承認のもとに自殺をしようとしたほどだった。その彼女が自我意識を捨てることによって、もう一つの意識層に出ることに成功するのである。彼女は次のように語っている。
<十数年前に車椅子で外出したとき、通りかかった女性に「お気の毒ですね」といわれました。「みじめだ」という目で見られているのか、といやな感じがして、木陰で考え込んだときにふっと、「私がいなければ、この考えはない」「自我がなければいいんだ」と気がつきました。
ジェット機で雲を突き抜けて真っ青な空に出るときの感じでした。
悩みも苦しみもない世界がある、と分かったら、もう怖くはない。入ろうと思えば、自我のない世界に入れる。雑念がすべて取り去れれば、真っ青な空の中に自分なしでいられます>
すると、問題は自我意識をどうしてなくすか、真っ青な空を隠している雲をどうして消すかということになる。瀕死の病人は、病気による衰弱で自我意識を弱らせることが出来たし、中村桂子は、意志の力で自我のない世界に入ることが出来た。だが、普通の人間にそんなことが可能だろうか。
それが出来るのである。一番簡単なものに、長距離ランナーが息も絶え絶えに走っているうちに、不意に脳内麻薬の効果で苦しみがなくなり、走ることが楽しくなるという事例がある。現在では、苦しんでいる人間を救う脳内麻薬はエンドルフィンを筆頭に20種類以上発見されていて、肉体的な苦痛だけでなく精神的な苦悩も脳内麻薬によって救われるらしい。
脳内麻薬は、単に苦しみをなくすだけでなく当人に強い幸福感をもたらすのだが、この麻薬を抽出して注射しても幸福感は得られないという。すると、この脳内麻薬が幸福感をもたらすためには、ランナーが肉体的に疲労していることに加えて、それでもなお走り続けようと精神的な努力がなければならないということになる。つまり、物質と精神の相乗作用があって、はじめて苦しみも消え幸福感が生まれるのである。
自我意識の背後に、もう一つの意識がある、そして化学物質と精神活動の複合作用で幸福感をもたらす意識層に到達できる・・・・・ここまではいいのである。しかしフィンランドの医師ルーカネン・キルデのように、臨死体験は異次元世界に通じるものだとまで誇大に説明されると疑問を感じてしまう。彼女は、「肉体は意識のまとう衣服のようなものだ、その肉体が失われても意識がおかしくなることはないし、かえって気持ちがよくなるのだ」と保証し、死は存在しないと言い切るのだ。
<臨死体験は、物理的な日常世界をはなれたスピリチュアルな体験だということです。物理的な三次元世界を離れて四次元の世界にに入ることだといってもいいと思います。要するに、臨死体験は、この日常世界を成立させている次元とは別の次元へ渡るための橋のようなものだといいたいのです。いわゆる死は存在しないのです。
死と考えられているものの実体は何であるかといえば、この三次元の世界で我々が着用している肉体という衣を脱ぎ捨てて、別の次元に入っていくことなのです。次元を異にする世界へ入っていくというと、とても難しいことのように思えるかもしれません。実際にはとても簡単なことです。
テレビのチャンネルを地上波から衛星放送に切り換えるようなものです。テレビを地上システムから宇宙システムへ、システムの次元を切り換えても、見ているあなた自身の存在には何も変化がないように、三次元世界から別の次元へ存在のシステムを移しても、肉体を離れたあなた自身の本質的存在には変化がありません。
別の次元においてあなたは存在しっづけ、考えつづけ、感じつづけます。だから、死を恐れることは何もないのです>
彼女は、死が存在するのは三次元世界だけであり、異次元世界に移れば時間が消失して「今」だけになるという。これは、セルフの感覚や自我意識を永遠に存続させたいとする彼女の欲求が生んだ妄念としか考えられない。
議論をそんな方向に発展させなくても、臨死体験が人生の終末に穏やかな安らぎの瞬間のあることを知らせてくれるとしたら、それだけで十分ではなかろうか。病気で苦しんで死んだ人間も、死に顔は安らかであることが多い。それが臨死体験のもたらした幻覚による効果だったとしても、有り難いことである。錦上さらに花を添えるような異次元説話をこしらえる必要は毛頭ないように思われる(機会を得て「臨死体験」下巻も読んでみたいと思っている)。
(未完)