バランスを取ること
晴耕雨読という言葉を文字どおりに解釈すれば、晴れた日には一日中畑にいて、雨 降りの日にだけ机に向うということになる。
しかし60になった元サラリーマンが、一日中農作業出来るはずがない。
メインは、やはり本を読むことである。晴れていようが、降っていようが、興の赴 くままに本を開く。読書に倦んだときに、ふらふら外出して時間をつぶす代わりに 畑に出て作物の面倒を見る、これが現代の晴耕雨読の実体なのだ。
畑で作業していると、そのうちに疲れてくるし汗でシャツも濡れてくる。そしたら 、家に戻ってシャツを換え、疲れが抜けるまで横になって書見器で本を読む、これ も又 晴耕雨読にほかならない。
要するに、本を読むことと作業することのいずれにも淫することなく、両者のバランスを取って一日を過ごすのが「晴耕雨読の生活」なのである。
実際、読書に疲れた後の畑仕事くらい気分転換に好適なものはない。
下手に盛り場なんかに出ていって、気分を荒らしてしまうと、帰宅して本を開いて も以前の精神状態が戻ってこない。だが、畑仕事の場合は、それを終えて机に向かえば、直ぐに感興が戻ってきて本の世界に没入できるのだ。
ムキにならずに適当に仕事をすべし
これは割合に新しい写真。
どうせアマチュアのする農業だから、何を作ってみても大した物がとれるわけではない。ここは「お遊び」だと割り切って適当に仕事をしていればいいのである。
専業農家は、畑に草をはびこらせるのを恥だと考えて、除草剤を蒔いたりする。だが、こちらは雑草も、わが仲間と考えて至極気楽に構えている。
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上の写真はトマト、葱、ジャガイモの区画で、よく見るとだいぶ草が生えている。この程度の草に神経質になるようでは、百姓仕事は長続きしない。問題は持続。
10年15年と土にまみれた暮らしを続けていると、心の下底に自ずと根を張ってくるものがある。これが大事なのだ。
私は百姓仕事を継続して続けることがなかったら、自身の思想、信条のすべては、根のないタワゴトに終わっていたろうと考えている。
ダメ人間の私が、僅かながら自分を肯定し、己の言説に自信を持ちうるとしたら、それは中年以後根気よく百姓仕事を続けてきたからだ。
スタートは早めに
若いうちから「晴耕雨読の生活」を夢見る者は皆無に近いだろう。
だが、人生の辛酸をなめ、生きることの苦味を知った中年ともなれば、晴耕雨読という東洋の伝統的な生活様式に心惹かれる向きも多くなってくる。そういう人たちには、スタートは早めにと忠告したいのだ。
未だ、活力が残っているうちに一度地方の不動産屋を訪れて農地の出物を探したらどうだろうか。公共機関が貸し出している市民農園を借りるという手もある。しかしこれは長続きしない。やはり自分の畑を持った方がいい。
畑を手にいれたら、その片隅に拠点を作ることである。階下を農機具置き場にして、二階を休息の間とする。新聞の折り込みを見ると、300万円あまり出せば階上階下8畳ずつのプレハブ倉庫(住居兼用)が出来上がるらしい。無駄な出費のように思えるかもしれないが、これが将来への足がかりになるのである。
自分が農業に興味があるからといって、妻子に畑への同行を求めるのは失敗の元。
畑の中に小さな区画を作って、「これはお前たちの畑だよ」と子供に管理責任を持たせたところで長続きはしない。畑は自分の楽しみのために作っているのだと腹を決めれば、家族が冷淡だったとしても腹はたたない。
本当はそこに電気や水道を引きたいところだが、水道管が近くを通っているとは限らない。水道を離れたところから引っ張ってくると意外に費用がかかるものだ。私の場合も、水道工事に予想以上の金がかかってびっくりした。これが市街地並の費用で済んだとしたら建築費は坪25万位で収まった筈である。まあ、当初はポリタンクに入れた水をクルマで運んで飲料水とするというのが、穏当なところかもしれない。
とにかく、場所がどこであれ、農地を手にいれようとしたら、農地委員会との交渉とかいろいろ面倒なことが多い。それらをあまり苦にしないで身軽に動ける若いうちに、早々と手を打っておくに限るのである。
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