パール・バックの彷徨 1 学生時代にパール・バックの「大地」を面白く読んだことがある。が、この作品を物語性豊かで厚みのある長編だとは思ったけれども、所詮、大衆小説ではないかと考えて、それ以上パール・バックに関心を持つことはなかった。だから、彼女がノーベル文学賞を取ったことも、「母の肖像」「母よ嘆くなかれ」が、わが国でベストセラーになっていることも長い間知らずにいた。
「大地」を読んでから20数年をへて40代になったある日、行きつけの古本屋で「母よ嘆くなかれ」という本を見つけた。裏表紙に鉛筆で書き入れた値段を見ると、100円という安さだった。それで、何となく買ってきて読んだのである。本そのものが薄かったし、内容もやさしく書かれていたから、またたく間に読み終えた。読み終えてから、これはベストセラーより、ロングセラーになるような本ではないかと思って奥付を見ると、こうなっていた。
昭和25年 初版発行
昭和39年 24版発行確かに、これは長く読み継がれるに値する本で、そのことがすでに証拠づけられていたのだった。これは、読者を静かに考えこませる本なのである。「母よ嘆くなかれ」は、こんな具合に書き出されている。
「私は、この物語を書こうと決心するまでにはずい分長い間かかりました。これはうそ偽りのない本当にあったことなのです。そして、そのためにこれは話しにくいことなのであります。今朝、およそ一時間ほど冬枯れの森な散歩して帰ったあとで、私は、とうとうこの話を書くべき時が来たと決心しました・・・・・」
パール・バックが書くことをためらっていたのは、彼女が知的障害児の母だったからだ。
パール・バックにとっては、自分が知的障害者の母になるなど、およそありえないことだったのである。父方の家系には言語学や文学の部門で業績を上げた有名人がいたし、母方の家系も高い教養を持ったものばかりだったのだ。
「私の家族はみんな馬鹿げたことや、ぐずぐずしたことを黙って見ていられない性質でした。しかも私は、自分たちより鈍感な人に対して我慢出来ないという、私の家族の癖をすっかり身につけておりました。そこへ自分でもわけのわからない欠陥をもって生れた娘を授けられたのです。
このような子供を授けられるということは、本当に残酷で不正であるとさえ私には思えたことがありました」
自らの家系に誇りを持っていた彼女は、最初、我が子の障害をなかなか認めようとしなかった。娘はパール・バックが若さの絶頂にあるときに中国で生まれ、見るからに利発そうな赤ん坊だったからである。顔かたちがハッキリして、珍しいほど美しくもあった。生後一ヶ月の赤ん坊をバスケットに入れて船のサンデッキにいたら、デッキを散歩していた乗客たちは立ち止まって皆ほめてくれた。
「綺麗な子だな。こんな綺麗な子は、めったにいない」
「あの深みのある青い目をごらんよ。本当に利口そうだわ」パール・バックは、娘が3歳になっても話すことの出来ないことや、娘の注意力がほんの一瞬しか続かないこと、身軽に歩き回る動作に目的がないこと、青く澄んだ目の深みにうつろな影のあることなどを見て、ようやく一抹の不安を感じ始め、そして娘が四歳になってから、ついに子供が知的障害児であることを認めざるを得なくなったのである。
娘に障害のあることが判明してから、こういう子供を持った親だけが知っている終わりのない悲しい旅がはじまった。パール・バックはアメリカに戻り、どこかに自分の子供を治してくれる人がいるに違いないと探し始めた。持てる時間と金のすべてをささげて、アメリカだけでなく世界中を歩き回る旅をはじめたのである。
彼女は娘を連れて各地の病院をめぐり、評判のいい個人医があればその門を叩いた。効果のある治療をしてくれた医者は一人もいなかったが、医師たちは最後に言い合わせたように、「望みがないわけではないですよ」と慰めてくれる。それでパール・バックは勇気を出して、改めて娘を連れて次の病院に向かうのだった。
パール・バック母子の終わりなき旅は、ミネソタ州のメイヨー・クリニック病院で終止符が打たれた。この病院で娘は多種多様の検査を受け、最後に小児科長の部屋で診断結果を知らされた。
日はすでに暮れ、院内の関係者はほとんど引き上げ、巨大な建物は静かで虚ろな感じがした。小さな娘は疲れ切ってパール・バックに頭をもたせかけながら、静かに泣き始めていた。
「何故でしょうか」とパール・バックは、これまで数え切れないほどしてきた質問を小児科長に投げかけた。
「わかりません」
「望みはないでしょうか」
「いえ、あきらめずに色々やってみるつもりです」
母子は小児科長の部屋を出て、ガランとしたホールの方へ歩いていった。ある部屋を通り過ぎようとしたとき、室内から出てきた見覚えのある小児科医に呼び止められた。相手は、目立たない感じの、言葉のアクセントから見てドイツ人の医師だった。
医師は尋ねた。「科長は何といいましたか」
「あの方は、駄目だとはおっしゃいませんでした」
すると相手は強い口調でいった。
「奥さんに申し上げますが、お子さんは決して正常にはなりません。ご自身を欺くことはおやめなさい。貴女が真理を受け入れなければ、貴女は生命をすりへらし、家族は乞食になるばかりです。
お子さんは決してよくならないでしょう。お子さんは、よくても4才程度以上には成長しないでしょぅ。
奥さん、準備をなさい。お子さんが幸福に暮せるところをお探しなさい。そして其処にお子さん置いて、貴女はご自分の生活をなさい。私は貴女のために本当のことを申し上げているのです」
名も知れぬドイツ人医師の言葉は、パール・バックの全身を刺し貫き、まるで手術で患部を切開するようだった。彼女は悪夢から覚めたような気がした。医師の手際は鮮やかで、しかも迅速だった。
パール・バックは娘を連れて中国に帰り、次にアメリカに戻ったときには、病院巡りを打ち切って、娘を入所させる施設探しに取りかかるのである。障害者を持つ親の心配は、自分が死んだ後、誰が子供の面倒を見てくれるかということである。子供が生を終えるまで、責任を持って預かってくれる施設を探すのは容易なことではなかったが、彼女は何とかそれに成功している。
パール・バックは、障害児を持った悲しみをいかに克服したかについても、率直に書いている。彼女は娘の死を願っていたことまで告白するのである。
<もし、私の子供が死んでくれたらどのくらいいいかわからないと、私は心の中で何べんも叫んだことがありました。
このような経験のない人たちには、これはおそるべき考えに聞こえるに違いありません。しかし同じ経験を知っている人たちには、おそらくこれは何も衝撃を与えるようなことには響かないと私は思うのです。
私は娘に死が訪れるのを喜んで迎えたでありましょうし、今でもやけりその気持に変りはありません。というのは、もしそうなれば、私の子供は永遠に安全であるからです>
2 知的障害の子供を持った母親が、名医を求めて果てしない旅を続ける話を以前にも読んだことがある。その母親が病院を立ち去ろうとしたら、病院関係者らしい見知らぬ女性が、「こんな事をいつまで続けるつもりですか。ご自分の人生を台無しにしてはいけませんよ」と耳元に囁いて去っていったというのである。 これは恐らくパール・バックの「母よ嘆くなかれ」から換骨奪胎したエピソードなのかもしれない。回復の見込みのない家族の世話をして一生を終える者がいたとしたら、それは水に溺れているものを救おうとして相手に抱きつかれ、一緒に溺死する救助者のようなものではなかろうか。人間には、自分の一生を思い、どこかで決断を下さなければならない時があるのである。
パール・バックは、「障害者を抱えている親には、克服しなければならない問題が二つある」という。一つは、自分が死んでからも、子供が生きて行ける道を講じておいてやらなければならないことであり、もう一つは、「そのような子供を持った悲しみにどうやって耐えて行くか」という問題に取り組むことだという。
癒すことの出来ない悲しみにとりつかれると、以前に喜びを与えてくれた風景とか花とか音楽がすべて空虚に感じられ始める。娘が障害を持っていると知ってからは、パール・バックは音楽を聴くことも出来なくなった。
彼女は普段通りに暮らし、来客にも会い、自分の義務を果たしていた。だが、客が帰ると彼女の全身を悲しみが包み、彼女は泣くしかなかった。すると、娘は泣いている母親をじっと見つめ、それから笑いだすのだった。
「私が、世の中の人々を、避けることの出来ない悲しみを知っている人と知らない人たちとの二種類に分けることを知ったのは、この頃のことでした。悲しみには和らげることの出来る悲しみと、和らげることの出来ない悲しみしみという根本的に違った二つの種類があるからです」
人の前では平静を装うことをしているうちに、彼女は他者と「誠の交わり」を経験することが出来なくなった。友人たちは彼女の表面的な明るさについて行けないものを感じるようになったのだ。友人たちは、パール・バックのなかに何か浅薄なものを感じ取っただけでなく、彼女に人間としての冷たを感じ、それに反発するようになったのである。
そんなパール・バックが蘇生したのは、あるがままの事実を受容するようになったからだった。この悲しみは死ぬまで自分から離れることはないし、また、誰も自分を助けることが出来ない──そう悟った瞬間に、彼女はこれが自分の運命なのだ、自分はそれを生きて行くしかないと覚悟したのだった。
彼女が悲しみとともに生きて行くことを覚悟したときに、悲哀克服の第二段階が始まった。彼女は、悲しさのなかにあっても、楽しみを求めることは可能であり、積極的に楽しみを求めるべきだと考えるようになったのである。
すると、娘が軽蔑されたり、いやがられたりしない施設で、彼女と同じレベルの仲間と暮らすようにしてやらなければという積極的な気持ちが湧いてきた。パール・バックは自分の悲しみの中に浸っていることをやめ、娘のことを第一に考えるようになったのだ。
彼女は、率直に書いている。
<私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしているかぎり人生は私にとって耐えられないものでありました。そして、私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることが出来るようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解出来るようになったのでありました>
パール・バックは、それまで娘が世の中に出ても苦労しないようにと、少しずつ文字を教えていた。やがて娘は易しい文章なら読めるようになり、努力すれば自分の名前を書けるようになった。
パール・バックが娘に文字を書く練習をさせているときだった。
<私は偶然、娘の手をとって字を書かせようと、私の手を彼女の手にかさねたことがありました。彼女の手は、なんと汗でびっしょりぬれていたのです。私はその両手を取って、それを開いて見ました。両手ともびっしょりとぬれていたではありませんか。その時、私は、子供が自分自身では何もわからないことに一生懸命になって、私を喜ばせようとする天使のような気持から、ただ母親のために非常に緊張しながら字を書くことを覚えようとしていたことを知ったのです>
この可憐な魂に無理をさせてはならないと、パール・バックは考えた。、娘に出来もしないことをさせて一体何の益があるだろうか。娘も一人の人間であり、幸福になる権利を持っている。娘にとっての幸福とは、与えられた能力のままで生活するということなのだ。
パール・バックの娘が一番好きなのは音楽を聴くことだった。彼女は流行の歌を嫌い、クラシック音楽なら何時間でもレコードに聴き入っていた。交響曲を聴いていると、彼女の口元に微笑が浮かび、その目は遙か彼方を見つめて恍惚の世界に入っていた。
娘は、大好きなクラシックを聴きながら生きて行けばいいのである。パール・バックは、あるがままの娘をそのまま受け入れ、それ以上期待しないことを心に誓った。
(わが国のノーベル文学賞作家大江健三郎にも、知的障害を持つ息子がいて、彼もまた音楽に非凡な才能を示している)
パール・バックは娘が9歳になったときに、彼女自身が慎重に選んだ施設に娘を入れている。この時、娘は小さな腕を母親の首に回して離れようとしなかった。パール・バックはそういう娘を引き剥がし、後を振り向きもせずに帰途についた。
彼女は施設の保母が娘をしっかり抱き留めていてくれることを感じながら、(振り返ってはならない、振り返ってはならない)と自分に言い聞かせて施設を出て行った。
パール・バックは、「あれから何年もたち、今では定期的に家に帰ってくる娘は一週間もすると施設に帰りたがるようになった」と書いている。
パール・バックの長い戦いは終わったのである。彼女はこの体験記を、次のような文章で終わりにしている。
<私たちは喜びからと同じようにまた悲しみからも、健康からと同じようにまた病気からも、長所からと同じようにまた短所からも・・・・・おそらくはその方がより多くのことを学び得られるのです。人の魂は十分に満たされた状態から最高度の域に達することは滅多になく、逆に奪われれば奪われるほど伸びて行くものです。もちろんこれは、幸福より悲しみが、健康より病気が、そして富裕より貧困がよいというのではありません>
──「母よ嘆くなかれ」を読んで不満を感じるのは、叙述の中に具体的な地名や人名などが省略されていることだ。彼女は何故中国で暮らしていたのか、夫は何の職業で、どんな人物なのか、娘の名前はなんというのか、それら一切が記されていない。そのため、ある種のもどかしさが残るのである。
私は、日本人女性では神谷美恵子に興味があって少し調べてみたことがあるが、アメリカ人女性に興味を持ったことはなかった。しかし、パール・バックについてはもう少し知りたいと思っている。
3 アメリカ人を見ていて感じることは、彼らが実によく食うことである。鯨飲馬食という言葉があるけれども、彼らは大量のビフテキや肉料理をぺろりと平らげ、ビールやウイスキーを水のようにぐいぐい飲んで、見るからに強靱な肉体を作り上げている。こういう食い方、飲み方を先祖代々続けてきたのだから、彼らの肩幅は広く胸板は厚くなるのも何の不思議もない。
UFCという総合格闘技の団体では、ローマ帝国時代のコロセウムを小型化したような金網でかこんだ舞台装置を作り、この中で世界中から集めてきた男たちに殴る・蹴る・押さえ込む、何でもありの流血の格闘技で競わせている。WOWOWは定期的にこれを中継しているが、たまに出場する日本人選手をアメリカ人選手と比較すると、その体格、体質の差には暗然とせざるを得ないのだ。
これがボクシングだったら、ボクサーの技術がものをいうから日本人でも彼らと対等に闘うことができる。だが、総合格闘技となると、体力勝負が基本で、日本人に勝ち目がなくなる。我々は、ただアメリカ人のバイタリティーに感嘆するしかなくなるのである。
さて、アメリカ人のバイタリティーに感嘆するのは、総合格闘技の男たちに対してばかりではない。アメリカ女の知的格闘力に対しても、嘆声を発しないではいられないのだ。パール・バックやアグネス・スメドレーの伝記を読めば、誰でも既成観念に挑み、これをねじ伏せようとする彼女らのすさまじいばかりのバイタリティーに驚き呆れるのである。
―――パール・バックの最初の戦いは、父親に対するものだった。
彼女の父親は、1880年(明治13年)に中国の杭州に上陸してから、1931年(昭和6年)に南京で亡くなるまで、50年間を中国でキリスト教宣教師として活動している。この父を子供の頃に英雄のように崇拝していたパール・バックは、成長するにつれて父を批判的な目で眺めるようになるのだ。
父のアブサロムには、苦い思い出がある。6、7歳頃、母が隣家の婦人と立ち話しているのを聞いていたら、隣家の女は彼を指さし、こういって母を慰めていたのである。
「あの子はとても醜い子だけれど、どこの家にも出来損ないが一人はいるものよ」
アブサロムは歯を食いしばって考えた。そういえば、母はほかの7人の兄弟ほどには自分を可愛がってくれない。
アブサロムは、自分が魅力のない子で、家族から愛されていないという劣等感を埋めるために、何か人とは違った英雄的な生涯を送らねばならないと考えるようになった。それが、中国に渡って異教徒を救うことだったのである。
彼の意識の底にあるのは、中国人に対する優越感だった。自分はアメリカでは魅力に乏しい人間かもしれない。だが、中国に行けば高級な文明国から来て民衆を救う救世主になれるのだ。
パールの父を含む宣教師たちが、いわれのない優越感をもって中国人に臨むときに、中国人の方でも宣教師への反感から、いろいろなデマを飛ばしていた。宣教師は豚を崇拝しているとか、奴隷を探しに中国へやって来たとか、精力剤にするために中国人の子供の目玉をえぐり出して食べているとか・・・・・。
こんな状態だったから、アブサロムの努力にもかかわらず、成果はほとんどあがらなかった。彼だけではない。当時、中国には千人以上の宣教師が派遣されていたが、彼らが獲得した信者は一万人弱にすぎなかった。宣教師一人あたり、僅かに10人を改宗させただけだったのである。
父に対するパール・バックの批判は、そのいわれのない民族的な優越感に対してだけではなかった。父は聖書の記述を文字通りに解釈し、進化理論に反対してこれを「邪化」理論と呼んでいた。彼はまた、教会が福祉活動に参加することにも強硬に反対していた。父は、旧派キリスト教的信念を片意地に守り、キリスト教の新しい潮流を理解できないでいたのだ。
宣教師仲間の間で孤立しつつあった父は、家族の間でも孤立していた。
母親のケアリーは信仰心が厚く、海外布教を自分の使命と感じて夫と共に中国に渡ったのだが、結核を病んでいて病弱だった。そのために彼女自身マラリアや赤痢にかかり、生まれて来た子供も長男を除いて三人が相次いで死ぬという不幸に見舞われていた。パール・バックは、この夭折した三人の子供の後に生まれた女児だったのである。
理想に燃えて中国にやってきたケアリーも、夫が自分に冷淡なばかりでなく子供の死に対しても感情を動かそうとしないのを見て、次第に夫を憎むようになった。彼女は、子供たちが死んだのは中国のせいであり、そして中国に自分を連れてきた夫のせいだと考えるようになった。そして、その思考はさらに発展してすべての不幸はキリスト教信仰に由来するとまで考えるようになったのだった。
だが、父親のアブサロムは、いい気なものだった。妻のケアリーが苦しんでいるのをよそ目に、妻も自分と同様にこの結婚に満足していると思いこんでいた。パール・バックは、母親の絶望を地中深くに埋め込んだまま、奇妙に静まりかえった家庭で少女期を過ごし一人前の女性になっていった。彼女は次第に、自分よりも聡明な女性を我慢ならないと感じる家父長的な父を憎むようになった。
「パール・バック伝」の著者ピーター・コンは、この頃のパールについてこう書いている。
<夫に対するケアリーの拒絶感は、長くゆっくりと流れる海外の生活で絶え間なく増大し続け、パールの母への同情からくる父への嫌悪感もそれに応じて日増しに強くなっていった>
中国にある女子ミッションスクールを卒業したパール・バックは、アメリカの大学に進学したいと考えるようになった。母との別れを思うと気が重くなったが、息が詰まるような父の影から一刻も速く逃げ出したいという気持ちが強くなったのである。かくてパール・バックは、アメリカのバージニア州にあるランドルフ・メイコン女子大学に入学することになる。
四年間の女子大での生活は順調といってよかった。パールは、二年次にはクラスの会計係、三年次には級長に選ばれ、最後には大学代表という大役を仰せつかっている。そして大学を卒業したとき、心理学の教授から勧められて助手になった。これは学者としての将来を約束されたに等しいものだったが、このとき彼女は父親から帰宅を促す手紙を受け取るのである。母親のケアリーが消化器系の熱病にかかって危険だというのである。
パール・バックは大学での将来を放棄して中国に戻り、以後三年間母の看病をして過ごしている。そして、農業学者の男性と結婚するが、この結婚も知的障害児のキャロルを二人の間に残して破綻するのだ。彼女がノーベル文学賞を受賞するのは、まだ先の話になる。
(つづく)
4「パール・バック伝」(ピーター・コン)は浩瀚な本だが、パール・バックの最初の結婚相手ロッシング・バックについての記述は漠然としている。彼が中国に渡ったのはボランティアとしてだったと書いているかと思うと、次のような意味不明の記述があったりするのだ。
「(彼は)聖職者ではなかったが、農業宣教師として指名されるよう外国使節団の長老教会委員会に応募した」
ロッシングはコーネル大学で農業経済学の学位を取ってから、中国農業について研究したいと願っていた。彼が長老教会に接近したのは、中国に渡る伝手を得るためだったらしい。幸い彼は教団から採用され、中国の宿州に派遣されて農業指導をすることになったが、気持ちは中国農業の研究にあり、キリスト教の布教にはあまり関心がなかった。
中国に滞在する欧米人の多くは、夏になると避暑のために廬山に滞在する。ロッシングも欧米人の例にならって廬山に滞在しているうちに、同じく避暑に来ていたパールと知り合って恋に落ちる。パールも、ロッシングに夢中になり、アメリカにいる親友にこんな手紙を書いている。
「日ごとに幸せになるの。ロッシングは全女性の憧れの男性よ。私を絶対幸せにしてくれるわ。彼ったら、もうめちゃめちゃ善良で、素晴らしくって、純なんだから」
パールは両親の反対を押し切ってロッシングと結婚する。新婚時代の彼女は、幸福な日々を満喫していた。
<ロッシングは調査に戻り、パールは彼の報告書をタイブしたり、彼の目が疲れている時には代わりに読んであげたり、時々通訳をしたりして彼を助けた。1917年9月ロッシソグの両親宛にタイブされた手紙の中で、パールは自分のタイプミスを謝りながらこう述べている。
「もっと練習が必要です。というのは、ロッシソグのタイピストとして、彼が書かねばならない多くの手紙を助けるために十分に熟練したいからです」
ランドルフ・メイコン女子大を優等で卒業後、三年経ってもまだ、バールは自分を夫の手助けという不平等なパートナーシップの中で、喜んで従者として甘んじょうと考えていた。(「パール・バック伝」ピーター・コン)>
だが、彼女は次第に結婚相手に失望するようになる。理由は、夫が女性を男より一段低いものと見て、結婚した女は家事に専念していればそれで十分だと考えていたからだった。
<(パールは)自分が実際に結婚した相手は、自分の最も基本的な要求を抑えつける男だと知った。ロッシングは、明らかに結婚相手の女性に、ごく因習的な期待しか持っていなかった。例えば、教授の妻、無報酬の通訳、研究助手、そして時が来れば母親といった役割に彼女が満足するものと思っていた(「パール・バック伝」)>
ロッシングは、やがて南京大学の教授に就任する。が、パールの目から見ると彼は父親のアブサロムにそっくりだった。父が伝道に熱中して家庭を顧みなかったように、夫は学究的な生活に没頭して家のことには全く無関心だった。そして父が妻は現状に満足していると信じ切っていたように、夫もパールが教授の妻という立場に満足しているものと思いこんでいた。
パールは、夫が近眼で眼鏡をかけていることまで父に似ていると思い、そのことで腹を立てた。彼女は父の独善的な説教や布教活動に何の敬意も払っていなかったが、今や夫が中国人に教える西洋式農法をも同じような軽侮の目で見るようになっていた。彼女は、夫の仕事をこういって辛辣に批評している。
「ところで、しばしば、秘かに疑問に思っていた事ですが、四千年ものあいだ、同じ土地で肥料と潅漑を最も効果的に利用して、今なお近代的な機械類なしに驚くべき生産を上げている中国の農民たちに向かって、アメリカの若僧が一体何を教えることが出来るんでしょうか」
「パール・バック伝」の著者は、夫に対するパールの不満の根底には性的な欲求不満があると暗示している。ロッシングが研究にかまけてパールの性的要求を無視していたことが、彼への敵意を生んでいるというのである。
二人の夫婦生活が淡泊だったためか、パールが一人娘のキャロルを生んだのは、結婚後三年のことだった。「母よ、嘆くなかれ」には、触れていないけれども、パールは分娩数週間後に子宮に腫瘍のあることが発見され、アメリカに帰国して摘出手術を受けている。このため、彼女はもう子供を産めない体になってしまった。
「母よ、嘆くことなかれ」が触れていないことを、もう一つあげるなら、彼女はキャロルの知恵遅れが判明してから、生後三ヶ月の女児をもらってキャロルの妹にしている。パールはキャロルを施設に預けるまで、この二人を姉妹として育てている。その後、彼女はさらに6人の子供たちを養子にして我が家に引き取り、彼らが独立するまで実の子供のように養育している。
パールのこうした行動に彼女の欲望の強さをかいま見ることが出来る。彼女はひとたび性の世界を知ると、これを徹底的に味わいたくて夫に夜のサービスを求めた。そして子供が生まれ、これを育てることに喜びを知ると、7人もの子供を引き取って養子にしている。彼女は、何事についてもほかの女性の数倍の欲求を持ち、それを完全に充足させなければ気が済まなかったのである。
キャロルの生まれた翌年に、母のケアリーが亡くなっている。ケアリーも激しい女だった。彼女は難病にかかって亡くなるのだが、病床では音楽のレコードを聴くことを好んだ。けれども、事情を知らないものが、「主の元にやすみ給え」という賛美歌のレコードをかけると、怒って、「やめて」と叫んだ。
「私は待ったんですよ。でも、無駄骨でした」
彼女は、いよいよ死が迫っても夫の訪問を許さなかった。
「行ってあなたの異教徒を救いなさい」
パール・バックは、母の生涯を「母の肖像」という本にまとめて出版している。愛する母を失い、心の通じ合わない夫と暮らしているうちに、彼女は執筆への衝動を覚えるようになる。それに差別的な扱いを受けている中国の女性のために、何かいわねばならないという義務感も強くなっていた。
当時の中国では、実に多くの女性が、夫や親類の女性たちの酷い仕打ちのために自殺していたのだ。パール自身、口汚い姑によって自殺未遂に追い込まれた若い女性を見たことがある。その女性は首を吊ったが、息絶える前に発見されて床に引き下ろされた。パールがその女性の家に着いた時、彼女はまだかすかに息をしていた。
ところが、横たえられたその女性は耳や鼻を塞がれ、さらに口に猿ぐつわをはめられて息ができないようにされていたのだ。
パールは、これでは窒息してしまうから猿ぐつわを外すように嘆願した。しかし彼女は人々から拒絶され、その女性が殺されつつあるのを知りながら、その場から立ち去らなければならなかった。
人々が縊死しようとした女性の口をふさいだのは、女性の息がほとんど身体から出てしまったので、女性の中にまだ残っている息を閉じ込めておくためだったのである。パールは、この事件を手紙で家族に知らせた後で、こう付け加えている。
「これらの人々の無知や迷信には全く際限がありません」
こうした体験に接するたびに、パールは虐げられている女性のために何かを書かねばならないという気持ちを強くしたのだった。
5
パール・バックが「東の風、西の風」と題する小説を初めて出版したのは、娘のキャロルを施設に預けた翌年のことだった。手のかかる娘の世話から解放されて、執筆の時間がとれるようになったことのほかに、彼女が著作活動に乗りだしたのには二つの背景があったと思われる。
その第一は、この頃にパールが徐志摩という中国の詩人と恋愛関係に入っていることで、徐志摩はその数年後に、飛行機事故で死亡しているけれども、彼の存在がパールの創作欲を刺激したことは疑いないところだ。
もう一つは、家計をロッシングに握られ、パールの自由になる金がほとんどなかったことだろう。ロッシングは知恵遅れの娘のために金を使うことを無意味だと考え、自分の調査研究のために一家の生活費までつぎ込んでいた。南京大学の英文学講師をしていたパールにも収入があったが、彼女はその全額を夫に渡し、そこから改めて家計費をもらっていたのである。
「東の風、西の風」の出版は、最初、非常に難航した。中国で暮らしているパールは、本を出してくれる出版社をアメリカ在住の代理人に依頼して探さなければならなかった。が、ニューヨークじゅうの出版社から断られ、最後にジョン・デイ社がやっと引き受けてくれたのだった。
ジョン・デイ社の社長リチャド・ウオルシュは、「東の風、西の風」に続いてパールの次回作「大地」を出版してくれた。そして、これが大当たりして、パールが一躍人気作家になると、彼はパールのマネージャー役を務めることになる。マスコミ各社の招請に応じて、パールが夫のロッシングと共に、アメリカにやってくることになったからだ。
パールは米国への旅仕度をするとき、これが人々の目に勝利の凱旋のように見えるのではないかと心配していた。彼女はプライバシーを守るのに必死だったのである。彼女は旅程を秘密にし、住所や電話番号も隠し、インタビューや正式な社交行事は断ってほしいとリチャード・ウォルシュや他の関係者に念を押している。彼女は変装して旅をしようかと考えたほどだった。それも、レポーター達に娘のキャロルのことを詮索され、質問攻めにあうことを恐れていたからだった。
リチャード・ウォルシュは喜んで彼女に協力した。「大地」の著者が、あまり業績のあがらないでいた彼の出版社を建て直してくれたからだ。彼はパールの訪米を宣伝に最大限利用したいと思っていたが、彼女の隠密に行動したいという希望を優先することにした。リチャードは、ロッシングとパール夫妻が秘密裏に七月に到着できるようにはからっってやり、パールへの郵便物を振り分け、どの招待を受けるべきかアドバイスしてやった。
とにかくリチャードの最大の仕事は、この国で一番人気のある作家になった女性を群がるレポーター達から隠すことだった。パールのマスコミ嫌いは、結局良い結果をもたらした。リチャードは賢明にも、パールのよそよそしい態度にはある種の魅力があり、ジャーナリストの食指をそそることを見抜いたのだ。彼女は謎の人物となり、「パール・バック」は実在しないかもしれないといった憶測まで出始めた。
以来、リチャードはパールにとってかけがえのない存在になった。彼は彼女の編集者であり出版者であったが、たちまちマネージャー兼代弁者になり、彼女の社交界との繋がりを管理する渉外係になった。彼は彼女の才能を崇拝し、彼女は彼の正確な判断に信頼を置いた。彼らは共通の興味をもち、ジャーナリストとしての成功を分かちあった。
リチャードとロッシングは、違っていた。それは、いわばニューヨーク生まれの教養ある洗練された男と、ユーモアのセンスが全くない技術屋との違いだった。リチャードとパールは、その後数カ月間、ほとんど毎日のように一緒に過ごした。リチャード・ウオルシュはこの時42歳、妻と三人の子供を養っている所帯持ちだった。
リチャードとパールは、数年後、それぞれの配偶者と離婚した上で、結婚する。
パールが離婚したいと申し入れたとき、ロッシングは承知し、周囲に感想を苦々しげに語っている。
「覚悟は出来ていた。私は成り行きを見守っていたが、彼らの振る舞いはかなり図々しいものだった。だが、それに異議を唱えるなんて馬鹿げている」
リチャードは結婚後30年間、パールの著作のすべてを出版し、米国文学史上、最も成功した「著者と出版者のおしどりチーム」と称された。「大地」をはじめ、パールの主要作品はリチャードの助言と激励によって生まれている。
「大地」はアメリカ国内だけでなく世界中で飛ぶように売れ、パールのふところに予想以上の額の印税収入が流れ込むようになった。
<パールの収入はキャロルを一生世話できるはどになった。四万ドルの小切手をヴアインランド・トレーニング・スクール(特殊学校)に寄付したので、キャロルは、ここで一生面倒を見てもらえることになった。
パールは、キャンパス内に、二階建ての、キッチン、バスルーム、幾つかの寝室付きの
離れを建てさせた。玄関には素敵なポーチ、裏には歩いて遊べるプールも備えた。「キャロルのコテージ」として知られるこの家には、パールの娘キャロルと同年代の少女数人を住まわせた。(キャロルは、一九九二年九月に七二歳で死亡するまで、ここで過ごした)キャロルは音楽が大好きだったので、コテージには蓄音機とレコードのコレクションが備えられた(「パール・バック伝」)>パールは、リチャードと結婚後、ニューヨークの私宅のほかにグリーンヒルズ農場にも屋敷を構え、この両方を行ったり来たりするようになる。そのどちらにいるときにも彼女は午前中を必ず執筆時間に当ててペンを走らせていた。
彼女は最初の本を出版してから死ぬまでの43年間に70冊以上の小説を書いている。そのほかに、「母の肖像」「母よ、嘆くなかれ」などのノンフィクションや、時論集、エッセーなどを公刊していて、これを単純に年ごとに割り振れば一年に二冊以上の本を出版していることになる。その作家としての多産ぶりは、全く驚くほどだった。
このほか新聞雑誌への寄稿も多く、講演会の依頼も後を絶たなかった。こうしてパール・バックはアメリカで最も有名な、最も影響力のある女性の一人になっていった。この影響力を生かしてパールは、平等社会実現のために生涯にわたって獅子奮迅の活動をする。ピーター・コンの著した「パール・バック伝」の半分以上は、彼女のこうした活動を紹介することにあてられている。
パールがリチャードと再婚してから二年後に、日中戦争が始まった。米国民は、当初、日本軍の中国侵略に無関心でいたが、パールの熱心な活動によって徐々に中国支援の世論がたかまり、蒋介石夫人がアメリカ議会に乗り込んできて流暢な英語で日本攻撃の演説をすると、中国を助けろという声は米国の隅々にまで行き渡った。蒋介石夫人は熱狂的な人気を集めて、アメリカ民衆のアイドルになった(しかし、パール・バックも米国大統領夫人エリノア・ルーズベルトも、派手好みの蒋介石夫人を嫌っていた)。
その頃の中国では、国民党と共産党が協力して抗日戦線を展開しながらも、内部で激しく主導権争いをしていた。中国にいて、この両党の争いを観察し来たパールは、今でこそ国民党は圧倒的に優勢で政権を握っているけれども、腐敗している国民党は、やがて共産党に取って代わられるだろうと予測していた。彼女は中国支援のために各方面からのカンパを集めながら、歯に衣着せぬ言い方で国民党を率いる蒋介石を非難していた。
事情はパールの盟友アグネス・スメドレーにしても同じだった。彼女はインドの民衆と共にイギリスの植民地支配と闘うためにインドに渡ったが、やがて中国の抗日戦争に協力するため中国にやってきて国民党の腐敗を見て絶望したのだった。それで彼女は国民党と敵対する中国共産党のシンパになり、毛沢東や朱徳と行動を共にするようになる。
パールは、中国支援を続けながらアメリカ国内の社会問題にも積極的に発言している。
黒人にも白人と同等の権利を与えようとする公民権運動をはじめとして、産児制限運動を進めるサンガー女史と提携しての男女同権運動など、あらゆる社会的不平等に対して果敢な戦いをつづけた。彼女は常に公正だった。日中戦争をはじめた日本、そして真珠湾攻撃を行った日本を厳しく糾弾しながら、アメリカ政府が日系アメリカ人を収容所に押し込めると、攻撃の矢を政府に向けた。日系アメリカ人を収容所に入れるなら、ドイツ系アメリカ人をどうして放置しておくのだという論点からだった。
戦争が終わると、パールは反核運動に挺身する。そして原爆でケロイドの顔になったヒロシマの少女たちをアメリカに呼び寄せて整形手術をしてやっている。さらに彼女は、日本・韓国などの女性に米兵が生ませた混血児の救済に乗りだし、「ウエルカム・ハウス」を設立している。
パールの社会事業が成功した理由は、これらの事業にまず自分自身で多額の寄付をしておいて、米国大統領を始め各界の有力者に面会して協力を求め、一般市民に対しても自ら電話したり手紙を書いたりして説得を続けたからだった。
アメリがベトナム戦争を始めた時にもパールは反対して、この戦争に米国は敗北するだろうと予言している。彼女は国内の右翼からは「反米主義者」として攻撃されたし、為政者にとっても核兵器反対を唱える彼女は目の上の瘤のような存在だった。FBI長官のフーバーはパールを憎み、彼女に関する数千ページに及ぶ秘密調査書を作成したといわれている。
こういう彼女にも、別の面があった。夫のリチャードが死亡すると、奔放な老いらくの恋に突き進んだのである。
6
夫のリチャードが心臓発作に襲われたとき、パールは60歳になっていた。最初は軽いと思われていたリチャードの心臓病は悪化するばかりで、7年の長い闘病の後に彼は植物人間になっていた。
パールは夫を看護する傍ら、小説を書き、ウエルカム・ハウス始め多くの社会事業を行っていたから、寸暇もなかったはずだった。だが、彼女はタッド・ダニールスキーというポーランド生まれの若者と浮き名を流している。タッドはテレビ局に勤め、パールの作品をドラマ化しているうちに、この高名なノーベル文学賞作家パール・バックと親しくなり、彼女と共同でドラマを合作するかと思えば、二人でテレビ映画会社を発足させるなど、日々関係を深めていったのである。
二人は食事・観劇・旅行を共にするだけでなく、長期に及ぶヨーロッパ旅行、アジア旅行でも寝食を共にしたから、その濃密な関係は当然ゴシップのネタになった。だが、彼らの関係は、リチャードが亡くなり、パールに新しい恋人が出現すると同時に終わっている。
タッドの次にパール・バックの恋人になったのは、ハーバード大学の哲学部教授を引退したアーネスト・ホッキングだった。彼は90歳の老人だった。一方、パールも夫を亡くしたばかりの67歳の老未亡人だから、二人の関係は絵に描いたような「老いらくの恋」だったのである。
彼らが初めて知り合ったのは、30年ほど昔のことだった。当時、中国の南京で暮らしていたパールは、アーネストが宣教師の活動状況を調べる調査団長になって中国やってきたときに顔を合わせ、互いに強くひかれあったのだ。
アーネストは、パールが夫を失ったことを知ると、妻が死んだときの自らの心境を綴ったエッセー「生と死について」を彼女に送り届けた。二人は、これが機縁になって文通するようになる。手紙の往復は次第に頻繁になり、やがて彼らは互いを恋人として意識するようになった。
ピ−ター・コンの「パール・バック伝」によると、パールはこんな手紙を老哲学者に宛てて書いているという。
「・・・・あなたのやさしさは、私をとても幸せにし、とてもありがたく思っています。お互いが、同じ様に愛し合っていることを知ることほど幸せなことはありません。私は貴方を愛しています。日夜、私が貴方だけを愛していることを忘れないで下さい」
別の手紙の追伸に、パールはこう書いた。
「もし、この手紙が、ラブレターかのごとく聞こえたら、本当に、これは私のラブレターなのです」パールは、何回かアーネストの家に泊まったことがあった。そのたびに彼らは二人だけで数週間を過ごした。ふたりは、暖炉の前に座り、お互いに手を握りしめたまま、一日中黄昏になるまで、愛情をこめて語り合った。そして、ふたりはベッドを共にした。
パールは、彼女の秘書のひとりに、小説「愛になにを求めるか」は、彼女の自叙伝だと語った。この小説の主人公、エディスという女は、エドウィンという老哲学者を、彼のニューイングランドにある自宅にたずね、夕食後、ふたりは全裸になって、明け方まで、しっかり抱き合っているのである。
パールとアーネストの「老いらくの恋」は、パールの人生の空白期に訪れたのだった。夫リチャードを失い、ポーランド人の若者タッド・ダニーレスキーとの不和が日増しに悪化し、パールが人恋しさに耐えられなくなったときの恋だったのである。男勝りに見える彼女の心には、日々の伴侶を求める女らしい渇望があったのである。
アーネストは、世評を気にするパールの警戒心を取り除くことに努め、彼の死が訪れるまでの三年間、男と女の自由奔放な私生活を楽しんだ。ふたりの自伝小説「愛になにを求めるか」は、彼がこの世を去ってから数年後に発表された。
―――パール・バックは、「人間はすべて平等であるべきだ」という信念に従って公正に生きた。彼女の予言が常に的中したのは、公正な目で世界を見ていたからだった。そして、その目は実は彼女が否定していた父親から受け継いだものだったのである。
パールの皮肉な見方によれば、半世紀に及ぶ父親の活動は彼自身のみを幸福にしただけで周囲の誰をも幸福にしなかったのだが、そういうパールは父の献身的な伝道活動を見て、人はどのように社会と関わるべきかを教えられていたのである。ただし、父の守旧的・独善的な言動はパールにとって反面教師の役割をも果たしていたのだが。
父の持っている二つの面は、アメリカ社会自体の持つプラス面とマイナス面を体現したものだった。アメリカの建国精神が何かといえば、愚直なほど素朴な民主主義と合理主義だった。にもかかわらず、そこへ旧派キリスト教の独善と盲信が入り込んで当初の建国精神をスポイルさせていた。パールは父を批判していたときの両面作戦をここでも活用して、開拓時代の原初的民主主義を擁護しながら、その後のアメリカ国民の世俗的独善的社会意識を非難するという両面作戦に出たのである。
パールの行動に狂いが見え始めたのは、彼女の前にダンス教師テオドール・ハリス(愛称テッド)が出現してからだった。彼は最初、ポールの養女たちにダンスを教えるために招かれたのだが、そのうちにパールもレッスンを受けたいといいだしたため、テッドはパール家に日参してパール家の備品の一つになってしまったのである。
テッドは、お世辞たらたらの山師だった。テッドは、パールから著作をプレゼントされた時、大仰にこう言って感謝した。
「私は、これらの本を生涯の最高の宝として、永遠に大事にしていくつもりです」
テッドのこうしたやり口を見て、パールの周辺にいる近親者はテッドを、裕福で孤独な老婆を利用するご都合主義の山師だと思った。しかしテッドは、パールの関心と寵愛を一身に集めた。
パールは彼の同伴を喜び、彼の温かい賛同に鼓舞され、周囲がなんと言おうと彼を全面的に支持し弁護した。そして彼女は、「テッドは、抜け目ないビジネスマンで、かつ素晴らしいパートナーです」と言い張り、彼を財団の幹部に登用しようとしたのだ。金持ちのビジネスマンで「ウエルカム・ハウス」の前会長カーミット・フィッシャーは、テッドのお世辞たらたらのへつらいにムカムカしたが、パールの方は、テッドが彼女に惜しみなく浴びせる称讃を楽しみ喜んでいた。
自宅であろうが、旅行先であろうが、テッドがいつも必ず彼女の脇にいるようになった。彼は、彼女のためにすべての手配をした。彼女の契約の交渉、電話の取り次ぎ、食事の注文、車の中でも、飛行機の中でも、常に彼女の直ぐ隣に座っていた。彼女は実質上、テッドと呼ばれる袋に包み込まれて生きることになり、外の世界が見えなくなった。
パールは、テッドの目を意識して厚化粧をするようになり、高価な宝石で身を飾りはじめた。そして経営問題に無知なテッドを「パールバック財団」の支配人に任命してしまった。直ぐに、この地位を利用してデッドがよからぬことをしているという噂が乱れ飛ぶようになった。テッドは韓国から財団に連れてきた幼い混血児数人にイタズラをしているとか、自動車販売業者が財団に貸し出していたキャデラックを売り払ってしまったとか、テッドはパールの荷物のなかに麻薬を忍び込ませているとか。
パールは薄々テッドが彼女を食い物にしていることを承知している。が、もはや彼女は金で買える伴侶を手放すことが出来るほど若くないことを知っているので、テッドを放任しているのだろう―――これが周囲の見方だった。
やがて、パールは血迷ったとしかいえない遺言状を書くことになる。
<パールは、彼女の七五歳の誕生日を目前に、グリーン・ヒルズ農場を含めて、彼女の全資産を、「パール・バック財団」に遺贈することを発表した。彼女の新しい遺書には、「遺産の一部分を私の子供たちに譲るほかは、私の死後、印税収入は全て私の財団へ行くべし」と指示している。彼女の推定によれば、七百万ドルを財団とその事業のために与えるととになりそうである。
米亜混血児たちを除けは、新しい遺産配分案の主要な受益者は、テッドであった。彼は年間四万五千ドルという、途方もなく多額の俸給を受け取ることになる。(パールは、テッドが財団に留まるか否かにかかわらず、一生、そのような報酬を受け取れる、と遺書の中で述べている)つまり、パールは母親としての義務を放棄し、自分の養子や養女の遺産相続権を、事実上破棄させてしまった(「パール・バック伝」)>。
パールが80歳で肺ガンのため死亡したとき、テッドは葬式には現れなかった。彼は遺産相続を巡ってパール家から訴訟を起こされ、裁判所から、「故人の遺言を無効にする」という敗訴宣告を受けていたのである。