大杉栄に花束を(6)
落ちた偶像
事件の7ヶ月ほど前に、すでに神近は日本橋の金物店で刃渡り5寸の短刀を金50銭で購入して肌身離さず持っていた。7ヶ月前と言えば、彼女が大杉自身の口から野枝と接吻したことを告げられた時だった。以来、彼女は事あるごとに大杉に「殺してやる」と言うようになったのである。
当夜、神近はこの短刀で眠っている大杉の頸部を刺したが、頸動脈をはずれたために致命傷にはならなかった。大杉の傷は、長さ1・8センチ、深さ2・5センチで、気管に達していた。
大杉は神近に刺された後、跳ね起きて逃げる相手を旅館中追い回している。神近を追って階段を駆け下り、縁側を通り抜けて玄関のところで神近を追いつめたが、逃げ場を失った神近が再び二階に駆け上がり、それからまた別の階段を駆け下りたから、追いかけている大杉の意識は朦朧としてきた。神近が便所のまえでつまずいて倒れ、大杉がその上にかぶさりかかるように倒れ込んだときに、彼の意識はふっとなくなってしまった。
大杉が再び意識を取り戻したときには神近の姿はなかった。彼は這うようにして女中部屋にたどり着き、医者を呼んでくれと頼んでいる。
急を聞いた野枝は、大杉が担ぎ込まれた千葉病院に駆けつけて看護に当たる。そのあとで妻の保子も、宮島資夫と山鹿泰治に連れられて病院に駆けつける。宮島と山鹿は、首に包帯を巻かれた大杉が眠っているのを見て、そのまま引き揚げる。そして野枝が病院の井戸端で何かを洗っているのを見つけるのである。
宮島資夫は、野枝と谷中村事件で意気投合した仲だったが、今度の件では神近市子と保子にすっかり同情していた。立野信之の実録小説「黒い花」は、宮島が野枝を殴る場面を次のように描写している。
「こいつが一番悪いんだ」
と、宮島がまず抱えていた番傘で野枝を殴りつけ、突き飛ばし、二人がかわるがわるに倒れた野枝を足蹴にした。蹴りつけながら、宮島はさも憎さげに、
「貴様なんぞ強姦してやっても、やり足りないくらいだ」といった、という。宮島が野枝を憎むのは、わかっている。彼は、堀保子とも神近市子とも大杉とも共通な友人で、酒をのむとすぐ人に同化し易い、単純な正義漢なのである。
野枝に対する宮島と山鹿の怒りは、決して二人だけのものではなかった。大杉をめぐる三角関係について少しでも聞き知っているものは、みな神近に同情的で大杉と野枝には厳しい見方をしていた。このうち大杉は重傷と報じられていたから、世の非難は無傷で残った野枝に集中することになったのである。野枝には女の友人が一人もなくなった。
神近に懲役4年の判決が下り、保子が大杉と離婚すると、大杉・野枝の孤立は決定的なものになった。これまで大杉の人柄を愛していた社会主義者たちも、彼がスキャンダルを引き起こすことによって左翼運動全体の評判を落としたことを責め、潮が引くように彼の周辺から去っていった。
女性知識人たちの大杉に対する怒りはすさまじかった。田村俊子さえ「大杉だけは本当に憎らしい」と語っているし、日向きん子という女性は、大杉に対する女性の反対同盟を作ろうと提唱したほどだった。
事件後の2年間、雨あられと降り注ぐ世の非難と悪罵のなかで大杉と野枝は身を寄せ合って暮らしていた。その生活ぶりを山川菊栄はいささかの軽侮と羨望をもって次のように語っている。
雨と降る世間の攻撃の中に、食うや食わずの生活をしていながら、金の入った時は手当り次第に賑やかに華やかに、面白おかしく使ってしまう。無い時はまた極端で、絶食をしても平気でいるという点で、二人はいかにも呼吸があっているらしかった。何年もの間、バッと日の射すような享楽の生活と、食うに事欠く貧寒な生活とを交互にくりかえして、その間中、降っても照っても呑気に、むつまじく暮していた。
ジャーナリズムの世界で、あれほど売れっ子だった大杉に原稿を依頼してくる出版社はなくなった。野枝は「高等淫売」「男に媚びて野心を充たす放縦な女」と罵られながら、かつて辻潤のために出版社めぐりをしたように、今度は大杉のために雑誌社・出版社をめぐって注文取りをはじめた。自分自身の原稿を持参してあちこちに売り込むこともあった。
二人にとって冬の時代であるこの2年の間に、野枝は魔子を出産している。子供好きだった大杉は、野枝が注文取りに出ている留守中、翻訳の筆をとりながら魔子の面倒を見たり、雑巾がけや水くみをしていた。大杉は、全然へこたれていなかった。将来の活動にそなえて、住まいを亀戸の労働者街に移したのはこの時期だった。
二年の雌伏の後に彼は野枝と共同で「文明批評」を創刊するが、この雑誌に大杉は意気軒昂たる文章を書いている。
あの事件でもっとも喜んだのは敵だった。そして正直なやつらや不正直なやつらは、あるいは無意識的にあるいは意識的に、少なくともその結果において敵に利用された。肉体的に殺されなかった僕をこんどは精神的に殺してしまおうとした。愚鈍なやつらだ。卑怯なやつらだ。しかし、よく聞け、憎まれ児は世にはびこる、どこまでもはびこって見せる、死んでもはびこって見せる。
「文明批評」も発禁続きだった。が、大杉が労働者街に移り、雑誌を発行し、サンジカリズムの運動を再開したと聞いて、和田久太郎と久板卯之助が大杉家の二階に越してきて住み着くようになる。やがて近藤憲二も居候に加わり、大杉の家は若年のアナーキストが集まるクラブのようになった。日蔭茶屋事件で大杉は古い同志を失ったけれども、代わりに彼に心酔する新しい味方を得たのである。
のちに「大杉一派」と呼ばれるようになる若い同志には、間が抜けるくらいに純情な若者が多かった。大杉は、二階に転がり込んできた和田と久板のプロフィールを描いた文章を残している。
二人が大杉家に持ち込んだ荷物があまり僅かだったので、野枝は大杉に彼らは布団を持っていないのではないかとささやいた。「そんなはずはないよ」と大杉は首をひねった。久板が初めて上京してきたときに、大杉は数人の仲間と金を出し合って布団をこしらえてやったことがあるからだった。
「布団はあるのかい」
と二人に聞いてみた。
「いや、あります、あります」
二人は口早にこう答えながら笑っていた。しかしその
解いた包みの中からはたった一枚の布団しか出てこなか
った。「それじゃしようがないじゃないか」
一月の初めの寒い時だ。一枚の煎餅布団を二人でどう
することができるものか。
「いや、この布団は和田君のです。和田君はこれで海苔
巻のようになって寝るんです」久板はその癖の「いや」というのを冒頭にして笑いな
がら説明しだした。
「じゃ、君の布団はなんにもないんじゃないか」
「いや、あるんです」
久板はこう言いながら薄い座布団を三枚取り出した。「これが、僕の敷布団なんです。そして上には、これや
あれや……」
と言いながら、その着ている洋服とたった一枚のどてら
とを指さして、
「僕の着物の全部を掛けるんです。これが僕の新発明な
んです」久板と和田はまじめな顔をして笑っていた。僕と伊藤
とは少々あきれてしばらく黙っていた。
これはあとで聞いたのだが、前にみんなで作ってやっ
た布団は、この新発明以来誰かにやってしまったのだそ
うだ(「久板の生活」)。
大杉一派の兄貴株である和田久太郎は、「早く金儲けがしたい」というので高等小学校を中退して大阪の株屋に丁稚小僧として住みこんだが、間もなくアナーキズムの洗礼を受け、サンジカリズムを本格的に勉強するために22才の時に上京してきた。そして渡辺政之助が主宰する研究会に通っているうちに久板卯之助、村木源二郎と肝胆相照らす仲になったのである。
彼は貧民街に身を置いて、ポン引き・大道芸人・ごろつき・淫売婦など落魄無惨な人間たちと共にいると心が安らいだ。それで、主義を宣伝するために足尾銅山の坑夫部屋に潜り込んだり、琉球・九州・四国をへめぐって「無政府主義伝道」の旅に出たりしていた。その無理がたたって体をこわした和田は、那須温泉で療養中に、同じく療養に来ていた浅草十二階下で春をひさぐ売笑婦堀口直江と恋に落ちるのである。生まれて初めての恋であった。
女は悪質の性病を持っていたから、和田はたちまちそれに感染した。だが、彼の愛情は変わらず、東京に戻ってからも女のもとに通い続けた。
彼は、大杉が甘粕憲兵大尉に虐殺されると、復讐を誓って戒厳令司令官福田雅太郎大将の暗殺を企てている。甘粕は陸軍刑務所内にいたので、その上官の福田大将を狙うことにしたのだ。彼は至近距離まで迫って福田をピストルで撃ったけれども、初弾は空砲になっているピストルだったので、相手に銅貨大の火傷をさせただけに終わった。捕らえられて無期懲役になった和田は、獄中で縊死している。
仲間からキリストと呼ばれていた久板卯之助は、その名の通りこの上ない純潔な男だった。京都木屋町の宿屋の子に生まれた彼は、中学時代からトルストイを読み、将来は牧師になろうと考えて同志社大学神学部に入学した。だが、教会や牧師の実態をしるにつれて棄教し、大学も中退して牧場の雑役夫になった。
やがて上京した久板は、トルストイ主義者から社会主義者に、社会主義者から無政府主義者へと転身し、和田と同居生活の後に、二人そろって大杉の居候になったのである。
彼は大杉家を出て大塚の労働社に移り運動を続けているうちに、突如、油絵に興味を持ちはじめ各地をスケッチ旅行するようになった。そして真冬の天城山中で油絵の道具を抱えたまま凍死した。無政府主義者の倫理を彼ほど厳格に実践した人物はいなかった。生涯無欲に徹し、四〇を過ぎても童貞だった彼が、純白な雪の中で一人死んでいくとは、いかにも久板らしいと皆が噂した。
二階の居候にはその後近藤憲二が加わり、さらに村木源次郎が加わった。
それ以外にもアナーキストたちは、暇があると大杉の家にやってきて遊んでいったり、泊まっていったりする。大杉は彼らを無差別平等に受け入れていた。だが、一家を切り盛りしている野枝は、人に対する好き嫌いが激しかったこともあって、彼らにいい顔ばかりしていられなかった。彼らのなかには、礼節を無視することがアナーキストの特権であるかのように思いこんで、大杉家にやって来て、やりたい放題のことをする者もいた。吉田一という鍛冶屋職人は、泥だらけの裸足でのそのそ家に上がってきたり、火鉢のなかにぺっぺっと唾を吐いたりした。
ある夜、大杉は野枝に吉田の家に行ってみようと提案した。野枝は気が進まなかったが、魔子を背中におんぶして浅草田中町の裏長屋に出かけた。四畳半の小さな部屋の半分が板の間になっていて、そこが台所だった。押入がついていたが、その半分は便所になっている。室内には悪臭が充満していた。吉田はその部屋に先輩格の同志と二人で住んでいるのだった。
大杉は悪臭も一向に気にならない様子で、吉田とその同居人を相手に愉快そうに談笑している。野枝は我慢がならなくなって、大杉に帰りを促した。すると、吉田は突然、泊まって行けといいだした。吉田の同居人は、こんなところに二人を泊まらせては迷惑だよと吉田をたしなめたが、「いや、だいじょうぶだ。くっつきあって寝れば8人は寝られるよ」と頑として聞かない。
大杉は野枝に言った。
「後学のためだ。ひとつ我慢して泊まってみるか」
その夜、野枝は臭くて薄い布団をかぶって一晩中眠れなかった。寿司詰めの状態で子供をかばって寝ているから身動きもならなかったのだ。朝起きたら、野枝の体は半分痺れていた。だが、そういう野枝も自家を清潔にしているとは言い難かった。彼女には、女らしい神経も感覚も不足していたのだ。子供を育てることにもあまり熱心ではなかった。野枝とそりの合わなかった和田は、婦人公論に載せた「僕の見た野枝さん」にこう書いている。
大杉君には綻びた穴のあいた着物を平気できせて置くし、自分もまた垢染んだ臭いのを澄まして着て歩く。庭に芥だの紙くずだのを散らかし置くのはまだしも、縁先から赤ん坊(長女・魔子)に大便をさせたまま、それを容易なことでは掃除しない。押入の破れ襖を引きあけると、汚れものやおしめがぷうんと鼻をつく。
野枝は29年の生涯に、辻潤との間に2人、大杉との間に5人、併せて7人の子供を生んでいる。大杉家に出入りしていた同志は「野枝は、何時も乳臭かったなあ」と思い出話をしている。
しかし乳飲み子が大きくなれば、子供好きの和田や近藤が面倒を見てくれる。彼女はそれをいいことに子供たちを放っておいたから、彼らは両親の死後、父親の思い出を懐かしそうに口にしているが、母親にはあまり関心を払っていない。
野枝は、貧民街の労働者に馴染むことも出来なかった。
おのれのプチブル根性の叩き直しをはかって、労働者の街に住んではみたものの、野枝は労働者の妻や女性労働者たちの「階級的反感」(『文明批評』第二号)の前で、カルチャーショックを受け、混乱していたようだ。まず、井戸端会議にうまく適応できない。人種のちがう人間をみるような視線に耐えられない。それでも、ちかくに、かつて果敢な大闘争を展開したモスリン工場があって、そこの女子労働者たちが銭湯にやってくる、と聞いた野枝は、さっそくでかけていった。
・・・・脱衣場から、洗い場から、湯舟のなかまで、若い女性でいっぱいだった。気をきかせたつもりの番頭が、野枝の場所をつくったのがいけなかった。
「女優だ」「子もちの女優があるもんか」「キザだ」など、眼の前であけすけにいわれてとびだしてしまう。それでも、気を取り直してまたでかけていくと、こんどは「石鹸を使いすぎる」と面罵される(「大杉栄 自由への疾走」鎌田慧)。
女工たちにとって「女優」は蔑称の一種だった。この話を聞いて、大杉はニコニコ笑いながら、「それはいいところだ、毎日行くんだね」と励ましたが、野枝はとてもそんな気持ちにはなれなかった。
この敵愾心の強いこの辺の女達の前に、私は本当に謙虚でありたいと思っている。けれど、私は折々、何だか堪らない屈辱と、情けなさと腹立たしさを感じる。本 当に憎らしくもなり軽蔑もしたくなる(「伊藤野枝全集」)。
猥雑な世界を愛する和田久太郎は、「そこが野枝さんの一番イヤな処」だったと言って、娼婦を侮蔑する野枝の言動をあげている。
和田が浅草から戻ってくると、野枝はさも厭わしげに尋ねる。
「久さん、またお女郎買いにいったんでしょう?」
消毒液を撒きかねない野枝に、和田は怒りを抑えながら反駁する。
「惚れた女がいるんです。その女は金を払わなければ抱くこともできんのです」若いアナーキストたちから「大杉はいいやつだが、野枝が高慢ちきだから、同志が離れていってしまう」と陰口をたたかれながら、野枝は権力に対しては昂然たる姿勢を取りつづけた。大杉家の前には警官の詰め所が作られ、三人の巡査が常駐していた。大杉や野枝が外出すると、直ぐに巡査の一人が跡を付けてくるのである。
野枝は外出先から警察に電話して、「今日の尾行は馬鹿だから、もう少し利口なのに代えて頂戴」と注文を出したり、汁粉屋に入って尾行の巡査にしるこ代を払わせたりした。岩崎呉夫の野枝伝には、こんな話が載っている。
叔母の代キチさんの思い出話によると、野枝は九州に帰ったときなどすつかり尾行と親しくなり、尾行に魔子を肩車させたり荷物をもたせたりしたという。はらはらしてキチさんが「あんなに汗をタラタラ流さして、鞄持ちや子守をさせては尾行さんがお気の毒じやないか」と叱ると、野枝はけろつとして「いいのよ、すこしは苦労させたほうが本人のためだし、本人だつて手持無沙汰なものだから、あれで結構よろこんで鞄持ちをしてくれてるんですよ」と笑いとばした。
ある時など、深夜に博多から今宿まで帰るというのでキチさんが心配すると「いいえ、ちやんと護衛がついてるのだから安心ですよ」と、尾行をふりかえつて笑ったという。
野枝は家計については、内心ではらはらしながらも、大杉の金銭に執着しないやりかたを受け入れていた。大杉は原稿料などが入ると、それを茶箪笥の引き出しに入れておいて居候たちに自由に使わせた。誰もが必要なときには、勝手に金を持ち出してもよかった。
大杉の家で女中をしていたユキちゃんという娘が、別の家で女中をしていた友達が病気になったので、彼女を自分の部屋に連れてきて無断で居候をさせていたというエピソードにも驚かされる。
こういう太っ腹なところが、幼年学校退学後の彼のところに落ち武者たちを集結させることになったし、大杉の家をアナーキストの合宿所にもさせたのである。だから、大杉の家には、金がないときには徹底的に金がなかった。大杉家の居候をしていた村木源次郎の思い出話によれば、大杉と居候の常食はふかし芋で、赤ん坊を出産した後の野枝だけがお粥だったという。
そのくせ大杉は贅沢な男だとして周囲の顰蹙を買っていた。
汽車に乗るときは必ず二等だったし、酒の飲めない彼が食べる洋菓子も、吸っているタバコもとびきり高価な高級品だった。晩年、アナーキストの世界大会に出席するためにフランスに密航した大杉が一向に家のことを顧みる様子がなかったので、たまりかねた野枝が怒りの手紙を出すと、この「大変のお叱りの手紙」に対して、彼は次のように弁明している。
実際僕は、あなたもよく知っている通り、そしてあなたがよく不平を言う通り、余計なこと(でもないだろうが)はあんまり考えない人間だ。考えたって分らない、またどうとも仕方のないことは、まず考えないことにきめている人間だ。そう修業して来た人間だ。
今も、実際、ウチのことなぞはそうくよくよと考えていない。これからだって、そうくよくよと考えそうもない。社のことだってそうだ。また日本の運動のことだってそうだ。留守中に何とかしてやって行けるだけの方法はとにかくつけて来たつもりだ。
それができるできないは、後に残るものの力だ。力がなくって、または何かの不慮の出来事で、それができなくなったところで、仕方がない。そんなことはウチを出るとうの前からあきらめている。だが、やはりもうよそう。いくら言ったってきりがない。
野枝宛のこの手紙には、大杉の処世観がよく現れている。
彼は何度廃刊に追い込まれても、そのたびに保証金を工面して新しく雑誌を発行しつづけた。どんなに形勢が不利でも、どんなに味方が少数でも、とにかく反権力の声を発し続けたのである。それは日露戦争当時、全国民を敵に回して「平民新聞」を発行し続けた先輩たちにならうためだった。彼らの不屈の闘志に感動した若き日の原体験があるからだった。反権力の闘争には非妥協的だったが、現実の社会を見る彼の目は柔軟だった。
「主義者」の演説会には、臨席の警官が脇に座っていて弁士の話が要点にさしかかると直ぐに「弁士中止!」の声をかけた。これには演説する者も聴衆も、そろって怒りの声を上げたが、大杉は何時も笑っていた。警官が演説を中止させるのも、弁士や聴衆が怒るのも、どちらも自然な反応なのだ。いちいち腹を立てていたら、こちらの体が持たない。だから、彼は臨席の警官と聴衆が一触即発の険悪な様相を呈しているときに壇上に上がると、タバコを取り出して火を付けて一本吸いおわるまで何も言わなかった。これはパフォーマンスというよりも、警官と聴衆の反応を知り尽くしている人間の「芸」のようなものだった。
彼は、野枝が火鉢の中にぺっぺっと唾を吐いたりする男に立腹しているのを見て、こう言ってなだめている。
「ああいう男は、小説の中の人物のように見ることだよ。そうすれば、彼らのいやなところも許せるようになる」大杉は現世を硬軟自在の目で見ていた。
権力には強硬な態度で、世俗に対してはあるがままにあらしめる寛容な姿勢で臨んだのである。世の中は、思うようにならないことばかりだ。人事を尽くした後は、運を天にまかせることである。考えても仕方のないことは、考えないことだ。金があれば高価な洋菓子をむしゃむしゃ食べ、金がなければ三食ふかし芋で済ませて平気でいる。こうした自由無碍の大杉の回りに、その人間的魅力にひかれてつぎつぎに優秀な若者が集まってきた。彼らは、「北風会」と名付ける会を発足させ、雑誌「労働運動」を創刊した。これまでは大杉が一人で資金を集め、寄稿を依頼してまわっていたが、今や彼は顧問格の立場から彼らの雑誌に寄稿していればよくなった。
しかし、彼らにはまだ自力で演説会を開くだけの力がなかった。そこで彼らが編み出したのは、「演説会もらい」という戦術だった。他の組織や団体が開いた演説会に出かけていって、壇上の弁士に質問し相手と討論しながらアナーキズムを宣伝する方法である
この「演説もらい」には、大杉が出かけていって弁士と討論することもあった。賀川豊彦は「演説会もらい」にやってきた大杉に、演壇を乗っ取られた思い出を「改造」誌に書いている。
その翌晩私は神田の青年会館で演説することになっていた。話が中ば頃になって頻りに弥次る男がある。それで私に同情ある聴衆は「彼奴を殴れ」と総立ちになった。すると、その男はつかつかと演壇に近く、進み出て来た。よく見れば大杉君だ! 昨夜は仲よく話した大杉君が、今日は私の演説会を弥次りに来て居るのである。それで、私は大杉君をさし招いて、「僕の話が済むまで待ってくれ給え、話ほ後でしょうや」と云うと、「いやだ、此処で話したい」と云う。
「それでは話し給え、僕の演壇を君に明け渡すから」というような意味のことを述べて、私は引き下がった。聴衆はびっくりしている。大杉君は、・・・・・十数分間も話していたようだった。
大杉は「北風会」のメンバーを引き連れて「演説もらい」に出かけることがあった。一行が会場に入って行くと、聴衆は「大杉一派がやってきたぞ」と騒然となる。彼らが一騒ぎ起こすのではないかと期待するのだ。大杉の方でもそういう期待に応えるために、時にはどてらの上に釣り鐘マントを着て、頭には黒いトルコ帽、首には野枝から借りた毛糸の襟巻きをして会場に乗り込んだりする。すると、その格好を見て聴衆はわーっと歓声を上げ、拍手する。こういう時には、葉山日蔭茶屋事件のスキャンダルさえ聴衆の目には、勲章のひとつに感じられた。
「がんばれよ、大杉」
「しっかりやれ、大統領」という声援が乱れ飛んだ。会場の入り口で警備の警官に入場を阻止され、警察に連行されたことがあった。
「おれは大杉だ! おれは大杉だ!」
頭にかぶった襟巻の奥から目玉をぎょろぎょろさせながら、私服の警官たちに連行されていく大杉の写真が、新聞を飾った。見出しは「おれは大杉だ!」である。のちに久米正雄が大杉の追悼文で、「一等俳優」と形容したのは、このことを指している(「大杉栄」鎌田慧)。
大杉一派の若者たちに囲まれ、民衆の人気者になった彼を、警察は簡単に手が出せなくなった。幼年学校時代に、ナイフを懐にするようになった大杉に下士官らが手を出せなくなったのに似ている。
こういう大杉のところに、ある日、馬某という正体不明の朝鮮人が訪ねてきたのである。
用件は、中国の上海で極東地区社会主義者大会が開かれるので、それに日本代表として参加してくれないかというものだった。馬は堺利彦と山川均に依頼に行って二人に断られ、大杉のところにやって来たのだ。堺と山川が断ったのは、馬の素性が明らかでなかった上に、もし依頼に応じたら「内乱予備罪」にひっかけられて処刑されるかも知れないと考えたからだった。
大杉は赤旗事件以前からエスペラント語教授などを通して朝鮮や中国の社会主義者と親交を結んでいたから、馬が信用できる男だと見極めることが出来た。馬によれば、会議を主催するのはソ連からやって来たロシア人だが、今回の会議はアナとボルを糾合した共同戦線結成のためだという。
大杉は、危険には敏感だったが、今度のことくらいで「内乱予備罪」に問われることはなかろうと判断して馬の頼みを引き受けた。彼はトレードマークになっていた口ひげを剃り落として変装し、巧みに家を抜け出て上海に渡っている。
詰め所の巡査たちが大杉の脱出を10日間も気づかなかったのは、4才の魔子にだまされたからだった。
巡査たちは大杉が少しも外出しないので、どうしたのかと危ぶんでいた。彼が持病の結核で床についていることも耳に入っていたから、魔子の口から真相を確かめることにした。
「マコちゃん、パパさんはいる?」
「うん」
翌日も質問してみる。
「パパさんはいる?」
「うん」
そういう問答を重ねているうちに、巡査はどうもおかしいぞと思い始める。
「マコちゃん、パパさんはいないの?」
「うん」
「いるの、いないの、どっち?」
魔子は「うん、うん」と二回うなずいて逃げていってしまった。会議は、フランス租界に住む共産党員陳独秀の家で開かれた。この席上で、コミンテルンから派遣された密使チェレンは、極東諸国の社会主義政党はコミンテルンの指導下に動くべきだと強調した。チェレンは、自分を頂点にするピラミット型の組織を作るために各国のメンバーを集めたのである。
大杉は、反対した。
東アジアの革命党は、それぞれ自由に運動をする権利を持つと力説したのだ。大杉の主張が通って会議は終わったが、散会後チェレンは、大杉を呼んで運動資金の提供を申し出た。たが、彼はここでもひも付きの金なら貰いたくないと断っている。チェレンは譲歩して、金を自由に使うことを認め、とりあえず2000円を大杉に手渡した。
上海密航後の大杉の行動を見ると、彼が世界人的性格をそなえた人間だったことが分かる。その頃の日本には、コミンテルンの委員とまともに理論闘争できるような者は一人もいなかった。福本イズムの福本和夫も、戦後の日本共産党委員長徳田球一も、コミンテルンの委員の前では子供同然に扱われ、その指示に唯々諾々と従うだけだったのだ。そういうときに、大杉は堂々とコミンテルンから派遣された使者と討論して、自分の主張を通しているのである。
大杉はその世界人的能力を生かして、上海密航の二年後に今度はフランスに密航する。アナーキスト世界大会から招聘状が届いたので、これをチャンスに欧州に渡り、ロシア革命の動向を含め世界の革命運動の実情を直接自分の目で見ておきたかったのである。
しかし、大杉の上海密航を阻止できなかった当局の警戒は厳しくなっていたし、欧州各地を歴訪するための費用を調達するのも容易ではなかった(費用4000円のうち、半分を有島武郎がカンパしている)。これらの困難を乗り越えてフランスへの渡航に成功した点からも、大杉の実務能力の高さが分かる。
大杉の行方が知れなくなったので、警視庁は狼狽するし、マスコミは得たりとばかり、あることないことを書き立てた。
「ロシアへ行ったか 大杉氏の国外脱走」(読売新聞)
「大杉氏は庫倫から赤露へ 旅券なしで悠々」(東京日々新聞)大杉の行方が明らかになったのは、失踪してから半年後、彼がパリの刑務所に収容されていることが判明したからだった。大杉はパリのメーデーに参加して、会場で即席演説して警察に捕らえられたのである。彼は収監一ヶ月後に釈放され、7月に神戸に帰ってきた。大杉がカメラのフラッシュを浴びながら、汽車の一等車に乗りこむところは、まるで凱旋将軍のようだった。
朝日新聞は「一等車に納まって 大杉氏の都入り」という見出しで彼の帰京を報じ、「まさに凱旋将軍の都入り」と書き立てている。
帰京の車中で大杉・魔子・野枝
大杉はそれから僅か四ヶ月後に甘粕憲兵大尉によって憲兵隊に連行され虐殺された。憲兵隊が彼を捕らえたのは、大杉をいつまでも自由に活動させている警察のやり方を手ぬるいと考えたからだった。帰国後の彼は英雄視され、彼の談話や「日本脱出記」などの原稿は新聞・雑誌で引っ張りだこになっていたが、警察はそれ苦々しく思いながら、逮捕の口実を見つけられないで傍観していたのである。
大正12年9月1日、関東大震災が起こると、パニックに襲われた東京市民は3000人といわれる朝鮮人を殺害する。南葛労働会に所属していた平沢計七ら10人の労働者も習志野騎兵連隊によって惨殺されている。
震災直後の混乱が収まった9月16日、大杉は野枝と連れだって妹あやめのところに出かけた。アメリカで暮らしていたあやめは、病気治療のため6才になる息子の宗一を連れて横浜に帰って来ていたのだ。妹を見舞った後で、大杉は甥の宗一を伴って帰途についた。
自宅に到着する直前に、大杉の一行は張り込んでいた憲兵に捕らえられ、麹町憲兵分隊に連行される。そして、そこで三人とも甘粕大尉によって殺されてしまうのだ。名古屋陸軍幼年学校で大杉より6年後輩の甘粕は、大杉、野枝、宗一という順番で、柔道の絞め技で殺したのである。相手の油断を見澄まして、背後から不意に首を絞めるという手口だった。時に、大杉栄38才、伊藤野枝28才、橘宗一6才。
アナーキストには、「行動するアナーキスト」と「静かなアナーキスト」がある。
前者は、古いものを一切「棄脱」して権力と真っ向勝負するタイプであり、後者は、個人として反権力無支配の姿勢を保持しつつ、非妥協の生涯を送るタイプである。「静かなアナーキスト」は、なかなか人目につかない。しかし徹底した人間平等観を持ち、人から支配されることも人を支配することも拒否する人間は、すべてアナーキストである。その意味では、イエスも釈迦もアナーキストだったし、日本の文人の多くも無政府主義者だった。正宗白鳥・有島武郎・宮沢賢治・大宅壮一・埴谷雄高・鶴見俊輔等々、数えて行けば切りがない。
そうした中で、大杉栄は中江兆民・幸徳秋水と並んで、日本では数少ない「行動的なアナーキスト」だった。
しかし大杉は、すぐにテロにでも走りそうな過激派の印象を与えるけれども、暴力類似の行動に出ることは自戒していた。若い同志の中には、要人の暗殺を口にする者もあったが、大杉は彼らを説得して中止させている。
彼が何度発売禁止の処分を受けても屈することなく雑誌を出し続けたのも、スタンドプレーと誤解されかねない派手なパフォーマンスを演じて世間の耳目を集めたのも、国家権力に対しては抵抗する姿勢を見せつけ、「奴隷根性」にとらわれている日本人に反逆する元気を与えるためだった。
月刊「平民新聞」の廃刊を通告するために警視庁に出かけた大杉は、係官にこう言っている。
日本の様な国に生れて来た事をしみじみ不仕合せだと思う。小学校の時は日本は難有い国だと能く教えられたのだが、生長するに連れて益々難有〔く〕なくなる。
思想の発表と云う事は僕等の生命で、之が出来ないと云う国程不幸な国はない。僕の立場から言うと、日米戦争デモ始まって、米国に占領征服されて其の属領となった方が、幾何か幸福か知れない。思想発表の自由を憧憬して止まない。平民新聞を廃刊するに就いて、つくづく之を思う。
確かに彼は少し早く生まれすぎたのである。
ちなみに、主な登場人物のその後について記しておきたい。
辻潤はダダイズムの代表者としてジャーナリズムの世界で活躍し、林芙美子・高橋新吉・宮沢賢治を発掘するという功績を挙げている。だが、ダダイズムが下火になると生活は荒れ始め、酒をあおり、無銭飲食をして店からつまみ出されるようになった。やがて「オレは天狗だ」と吹聴しだし、キチガイ扱いされて青山脳病院、警察病院、松沢病院に収容されている。彼は舞踊家の石井漠に「野枝は自分にとって永遠の女性だ」と語り、野枝との思い出の手紙や写真を収めた行李を預けたといわれている。
神近市子は、戦後社会党左派の衆議院議員になり、5期勤めている。彼女は、代議士として女性の地位向上のために力を尽くした。
甘粕憲兵大尉は、3人を殺しながら、陸軍裁判所で10年の刑に処せられただけだった。しかも、彼は僅か2年8ヶ月で釈放され、陸軍省の費用でパリに留学するという厚遇を受けている。帰国した甘粕は、満州国の特務工作に関係し、権勢をふるったが、日本の敗戦後服毒自殺した。甘粕の扱い方ひとつを見ても、戦前の軍部がいかに横暴だったか分かる。(おわり)