大杉栄に花束を(5)

1・伊藤野枝

神近市子は、親の取り決めた結婚話を拒否して上京している。その点では伊藤野枝も神近市子に似ているが、違うのは神近が婚約の段階で故郷を脱出したのに対し、伊藤野枝は郷里の福岡近郊で式を挙げ、新郎と一泊した後に婚家から逃げ出していることだ。従って、伊藤野枝の籍は婚家に残ったままだったし、その頃の言い方を借りれば「彼女の処女は新郎に捧げられた」のである。

婚家を脱出した野枝は、上京して辻潤の家に逃げ込む。辻潤は野枝が学んでいた上野高等女学校の教師で、英語を担当していた。郷里に帰って挙式する以前の野枝は、辻潤と恋人のように親しくしていて、登下校を辻潤と共にしたり、放課後、音楽室にこもって二人で一緒にピアノを弾いたり、歌を歌ったりしていたのである。

しかし辻潤は、必ずしも野枝を愛していたわけではなかった。
幕臣あがりの役人を父とし、裕福な札差の娘を母とする彼は、生粋の江戸っ子だったから、九州の田舎から出てきた野性的な野枝にひかれはしたが、彼女への感情は興味以上に出ていなかった。彼は女学生時代の野枝のことを「甚だ土臭い襟アカ娘」だったと書いている。

辻潤がさほど愛してもいなかった野枝に宿を貸し、結局彼女と同棲するようになったのは、彼の側に現世を投げてしまったようなニヒルな気分があったからだった。実父に自殺されてから、彼は一家の長になって母と妹を養っていた。それで、野枝と同棲することに反対する者もなかった。

野枝に逃げられた末松家では、彼女の行方を突き止め、早急に嫁を返すように辻潤に迫った。花婿の末松福太郎は愚図と見られるほどおとなしい男だったが、すっかり腹を立てて東京まで追いかけていくと息巻いたり、「ノエオカエサネバウッタエル」と電報を打ったりした。

それでも野枝が帰ってこないので、末松家では女学校の校長に抗議することになる。校長は辻に、野枝と別れる気がないのなら辞職してもらうと宣告した。すると、辻は前途の見通しが全くないにもかかわらず、「それでは辞めます」と言って、さっさと辞表を出してしまったのである。

こうしたさなかに、野枝は「青鞜社」の平塚らいてうに宛てて身の上相談の手紙を出している。切手三枚を貼った分厚い手紙で、その中には細かなペン字で、彼女の生い立ちから始まって、親から強制された結婚に抗して婚家から脱走したいきさつを述べ、これからも自己に忠実に生きる所存だという決意を披瀝してあった。

平塚のところには、全国から身の上相談の手紙が殺到していたが、野枝の手紙は群を抜いて光っていた。数日後に平塚家の女中が野枝が訪ねてきたと告げたので、平塚は「どんな人?」と質問した。「子守娘のような人です」と女中は答えた。

平塚は、「子守娘」のようだという野枝の初対面の印象を「その人は16ばかりの可愛い少女で、これがあの激しい手紙を書いた人とはちょっと意外なくらいでした」と語っている。平塚自伝のなかに描かれている野枝の肖像は次の通りだ。


                 
「その黒目勝ちの大きな澄んだ眼は、教養や聡明さに輝くというより、野生の動物のそれのように、生まれたままの自然さでみひらかれていました。話につれて丸い鼻孔をふくらませる独特の表情や、薄く大きい唇が波うつように歪んで動くのが、人工で装ったものとはまったく反対の、じつに自然なものを身辺から発散させています」(平塚らいてう自伝、『元始、女性は太陽であった』)

 伊藤野枝

平塚は自分とは全く違うタイプの野枝に引きつけられ、彼女を援助して自立させることで、これまで机上の空論だった自らの女性解放運動を実践段階にまで進めようと考えた。まだ26才だった平塚が自分よりさらに10才若い少女のアドバイザーになったのだ。

平塚は野枝に郷里に帰って、婚家との関係を清算するように助言し、旅費を貸し与えている。九州に戻った野枝は、末松家から援助して貰った金を返済することを条件に離婚を承知させて東京に戻ってくる。帰京した彼女を平塚は雑誌の編集助手に雇い、毎月10円の手当を与えることにした。青鞜社員として活躍する舞台が、野枝の前に開けたのである。

伊藤野枝は、自分の前に立ちふさがる壁を独力で切り開いていく女だった。九州から上京して上野高等女学校に入学するのにも、彼女はこれと同じ手紙戦術を用いている。

野枝は福岡市近郊の今宿村に瓦職人の子として生まれた。
家が貧しかったので、8才の時、口減らしのために父方の叔母の家に預けられた。叔母夫婦の家には、野枝より二歳年長の一人娘がいたので、夫婦はその遊び相手にもと思って野枝を引き取ったのだった。

叔母の家で6年を過ごし、高等小学校を卒業した年に、叔母一家は仕事の関係で上京することになった。野枝は今宿村の実家に帰され、郵便局に就職して女事務員になる。だが、郵便局に勤めていたのは9ヶ月に過ぎなかった。東京から休みで帰省した従姉の話を聞いているうちに、自分も従姉と同じようにどうしても女学校に行きたくなったのだ。

それからの野枝は三日おきに叔母の連れ合い代準介に宛てて、自分も東京の女学校に入学させてほしいという嘆願の手紙を出すことになる。どれも分厚い手紙だった。叔父が隣家の大衆小説家村上浪六にこれらの手紙を見せると、浪六は「この子は見所があるよ」と言ったので、遂に準介も野枝をもう一度預かることになる。相手をうんと言わせるまで、手を抜かずに攻め立てるのが彼女の流儀なのである。

上京の途中で、野枝はもう一人の叔母の家に立ち寄っているが、このとき従妹の指輪を無断借用して旅費の足しにしている。彼女は、自分の目的を達するためには、他人の思惑や迷惑を無視する図太い神経を持っていた。

叔父は野枝を娘の学ぶ上野高等女学校に入学させることにして、二年生への編入試験を受けさせるつもりだった。ところが野枝は、二歳年長の従姉と同じ学年への編入試験を受けると言い張って聞かない。

叔父は口を酸っぱくして、無茶なことはやめろ、編入試験に落ちたら田舎に帰してしまうぞと説得した。が、彼女はあくまで四年生への編入試験を受けると頑張り続ける。根負けした叔父は、野枝の希望通りにするしかなかった。

編入試験の日まで、あと二ヶ月しかなかった。この短い期間に、彼女は英語と数学をゼロから学習しなければならない。野枝は従姉の使っていた教科書を借りて、猛烈な勉強を始めた。叔母は、その頑張り方ときたら見ていて怖いほどだったと語っている。


「三日間徹夜で勉強して、一晩寝るとケロッとして、また2〜3日徹夜するんですからね」

編入試験に合格して従姉と同じ学年になった野枝は、学校の女教師に総スカンを食らいながら、これはと思う教師に近づいていった。それが後年のダダイスト辻潤だったのである。彼女は「若いのか、年寄りなのか分からない」風貌をした辻のなかに、他の教師にはないユニークなものを感じ取っていたのだ。

辻との生活は、最初のうち順調だった。辻は、野枝と繰り広げる性の世界に夢中になった。彼はセックスが死に繋がるほど底深いものであることを16,7の小娘から初めて教えられたのだ。彼は野枝との生活を回想してこう書いている。


昼夜の別なく情炎の中に浸った。はじめて自分は生きた。あの時、僕が情死していたら、如何に幸福でありえたことか!

辻は野枝を教育することにも喜びを感じていた。野枝は、辻の教えることを瞬く間に吸収して、めざましい勢いで成長した。思想上の師として辻は自らの信奉するスチルネルの哲学を野枝に注入しはじめる。


人は他者を支配したり命令したりしないで、自分に出来ることだけをしていればいいのだ。自分に出来ないことは他人に任せたらいい。

すべての人間を愛し、すべての者と交わりを結ぶ必要はない。互いに利益を受ける者とだけ交わればよい。

人は自分の性情のままに生きるべきなのだ。他人に認められなければ自分の価値が信じられない人間は、<自己の所有者>とはいえない。そうした人間は世俗の価値観が変わるたびに、自分を変えて行かねばならぬ。

スチルネル流の唯我論を実生活の上でも実行しはじめた辻は、教師を辞めて無収入になったのに一向に働こうとしなかった。野枝が苛立って辻を責めると、彼は「俺は尺八でも吹いて、ひとりで放浪したいんだよ」とうそぶくばかりだった。

野枝は、翻訳や雑文の仕事を探してきて辻にあてがったり、彼の訳したエレン・ケイの「恋愛と道徳」などを伊藤野枝の名前で雑誌「青鞜」に連載したりしなければならなかった。

辻の名前を天下に知らしめることになった「天才論」(ロンブローゾ著)の翻訳も、野枝が仲介して出版にこぎつけたものだった。訳書は20数版を重ねるというベストセラーになり、久しぶりに家計が潤った。これを機に二人は正式に結婚し、野枝は辻家の籍に入ることになる。

そんなことをしているうちに、今度は野枝の名前が一躍全国に知られることになった。以下は近藤冨枝の著書からの引用である。


野枝が世間的に売り出したのは、大正二年八月号の『青鞜』誌上で発表した「動揺」である。「動揺」は、雑誌『フューザン』に属する木村荘太という新進作家から愛の告白を受けた野枝の心の動揺について、両者の往復書簡をまぜながら、そのプロセスを叙述した作品である。

しかも同じ月には荘太も雑誌『生活』に「牽引」としてこの事件を小説化した。一方、『時事新報』や『都新聞』もこの事件を記事にし、寄席でも新講談に仕立てて呼びものにするという有様。そのうえ、三か月後の『青鞜』十一月号にはらいてうが「『動揺』に現はれた野枝さん」を書き、翌年の一月号に、小倉清三郎という性科学者が「野枝子の『動揺』に現はれた女性的特徴」を発表し、野枝は一躍『青鞜』の看板スターにまつりあげられてしまった感があった。

なお、この恋愛騒ぎのとき野枝が妊娠七か月であったことは、彼女の並はずれた生命力を物語るものであろうか。
                                              
 結局失恋した荘太は、四十年後にまたも『魔の宴』を書き、野枝とのいきさつを委しくのべたなかに、その愛が真実であったことを改めて話している。なお荘太はこの本の上梓の日を待たずなぜか自殺をとげた(「伊藤野枝」近藤冨枝)。

教育関係者たちからは非難の的になっていた「青鞜社」に集う女たちも、一部の先進的な青年の間では好奇とあこがれの目で見られていたという事情があるのだ。「智恵子抄」の長沼智恵子、そして青山菊栄・野上弥生子は皆それぞれ個性的な青年に見初められて結婚しているし、「白樺」の武者小路実篤・長与義郎・岸田劉生も「新しい女」と恋愛し、結婚している。

木村荘太がいきなり野枝にラブレターまがいの手紙を出したのも、「青鞜社」の女へのあこがれからだし、野枝が木村と文通するようになったのは彼女が次第に辻潤への失望を深めていたからだった。

だが、野枝には木村荘太との関係を発展させて行くつもりはなかった。彼女には恋愛などより、もっと大きな野心があった。平塚らいてうに代わって、自分が「青鞜」の編集長になろうとする野心だった。

「青鞜」は、最盛期には発行部数三千を数え、十分採算のとれる雑誌だったが、野枝が編集陣に加わって3年たつ頃には、部数も減って経営が苦しくなっていた。「青鞜社」の運営に情熱を失った平塚は、「青鞜」を盛り返してみせると意気ごむ野枝に多少の未練を残しながら編集長のポストを譲り渡すことにしたのだ。

この20才の若き編集長は、家に帰れば辻潤との間に生まれた1才の長男を抱え、破天荒なやりかたで主婦業をこなしていた。金盥を鍋の代わりに使ってすき焼きをするかと思えば、鏡をひっくり返してまな板にするという具合だった。

2・日蔭茶屋事件

大杉は第一期「近代思想」時代から、「青鞜社」の動きを注目して、青鞜社員が演説会を開けばそれを傍聴に出かけていた。彼はまた「青鞜」の愛読者でもあり、伊藤野枝の名前で訳出されたエレン・ケイの「恋愛と道徳」とエンマ・ゴールドマンの「婦人解放の悲劇」に注目していた。そして、平塚らいてうが前者に伊藤野枝が後者に心酔しているらしい点に興味を持った。

平塚がエレン・ケイを全面的に支持するのに対して、野枝は「青鞜」誌上でエレン・ケイの理論には賛同するが親しみを感じないと述べ、エンマ・ゴールドマンに対してはその勇気と燃えるような情熱に惹かれると書いていたのである。エンマは、ロシアに生まれ渡米後に無政府主義者になり、産児制限運動や反戦運動のため何度も投獄されている不屈の闘士だった。野枝は彼女の「何物にも顧慮せず、自己の所信に向かって突き進む」ところ、つまり権力に対して体当たり的な反逆行動にでるところに共鳴したのだ。

大杉は「近代思想」に平塚と野枝を比較する時評を書いた。


こういっては甚だ失礼であるかも知れないが、(野枝が)あの若さでしかも女という永い間無知に育てられたものの間に生れて、あれ程の明晰な文章と、思想とを持ち得た事は、実に敬服に堪えない。

これは僕よりも年長の男が、等しく亦らいてう氏に向ってもいい得た事であろうが、しかしらいてう氏の思想は既にぼんやりした或る所で固定して了った観がある。僕は氏の将来よりも寧ろ野枝氏の将来の上に余程嘱目すべきものがあるように思う

大杉は、エンマ・ゴールドマンが自分と同じ主張をしていることを知って、エンマを介して野枝に連帯感を持つようになったのである。エンマは言っている。


彼等(注:支配層)の成功は決して個人主義の影響によるものではない。否、全く群衆の怯懦と怠慢と絶対服従とに起因しているのである。群衆はただ支配され、圧倒され、指導されんことのみを求めている。

大杉と野枝が初めて顔を合わせたのは、大杉が野枝を賞賛する時評を書いてから二ヶ月後のことだった。大杉と野枝の共通の友人である渡辺政太郎が、大杉を野枝の家に案内してくれたのである。その時の様子を、岩崎呉夫は「炎の女 伊藤野枝伝」に次のように書いている。

野枝は、まず、大杉が丈夫そうなのでびっくりした。
「堺さんの書いたものに、あなたは<白皙長身>とあったので、もっと病人々々した方だと思っていましたわ」
大杉は笑って、「すっかり当てがはずれましたね。こんな真っ黒な頑丈な男じゃ、申し訳ないみたいだな」

大杉の方でも、野枝の印象がすっかり変わっていることに驚いた。
2年前に「青鞜講演会」の壇上で野枝を見たときには、まるで校友会の席上で話をする女生徒のようだったが、今や「すっかり世話女房じみてしまっている」のである。

話の途中で、辻との間に生まれた赤ん坊がむずかり始めた。すると野枝は赤ん坊を抱き上げて乳首を含ませた。

大杉は、「青鞜」の編集者ともあろう者が、初対面の客の前で平然と胸を開いて乳房を見せることにたじろぐ思いをした。小柄な体にも似合わず、野枝の乳房が形よく盛り上がっているのを見た大杉は、結核を病んで薄く萎えた妻保子の乳房を思い出さずにはいられなかった。

大杉が第一次「近代思想」を廃刊にしたのは、野枝宅を訪問した直後だった。だが、「近代思想」に代えて発行した月刊「平民新聞」は、たちまち発売禁止の処分を受ける。打撃を受けた大杉は、野枝が「青鞜」の編集後記で政府に抗議してくれていることを知って感激する。


◇ 大杉荒畑両氏の平民新聞が出るか出ないうちに発売禁止になりました。あの十頁の紙にどれだけの尊いものが費やされてあるかを思いますと涙せずにはいられません。

両氏の強いあの意気組みと尊い熱情に私は人しれず尊敬の念を捧げていたl人で御座います。・・・・・・大杉荒畑両氏には心から同情いたします。何だか空々しく変に聞こえますが今の処他に言葉が見あたりませんから。

野枝は、さらに政府に押収されることになった「平民新聞」第二号を自宅に引き取って隠している。その雑誌を大杉が取りに行くと、野枝は「<平民新聞>も毎号毎号やられちゃ堪らないでしょう。せめて紙だけでも毎号<青鞜>から寄付しましょうか」と提案する。

「青鞜」の内緒の苦しさを知っている大杉は、野枝の申し出を有り難く辞退した。そして野枝から問われるままに、社会主義運動・無政府主義運動の実情を率直に語った。国内に3000人と言われる「主義者」たちは、堺利彦の「待機主義」に賛同して鳴りを潜め、大杉・荒畑の活動を傍観している。そして、身近な家族の賛同もなかなか得られない。

これを聞いて野枝は「青鞜」誌上に「私はまだソシャリストでもないし、アナアキストでもない。けれどもそれらに対して興味を持っている。同情を持っている。それが正しい主張であるからには、同情をもつのは当然である」と記してから、この時大杉の口から聞いた憤懣をそのまま自分の意見として発表する。


私は彼等(注:官憲)の横暴を憤るよりも、日本におけるソシャリストの団結の貧弱さを想う。あの大杉、荒畑両氏のあれだけの仕事に、何等の積極的な助力を与えることも出来ないあの人たちの同志諸氏の意気地なさをおもう。

併しそれも無理のない事かもしれないが、他はおいても、私はあれに匹敵する位の刊行物がもっとどしどしいろんな方面から出るのが当然だと思う。

さらに私たち婦人としての立場から、それ等の主義者の夫人たちがもつと良人に同化せられることを望む。夫人は同志の結合が良人達の団結をどの位助けるものかと云うことを考えられるならば、もう少し広い心持ちになられて欲しい。私が今まで直接間接に聞き知った夫人連の行為は或は態度は、あまりにはがゆいものであった。

野枝は、官憲にマークされる危険を冒して大杉のために公然と世論に訴えたのだ。だが、この時、野枝自身が、ある点で大杉よりも危険な状況に立っていたのである。

「青鞜」の読者は、野枝が編集長になってから減る一方だった。彼女はやむなく雑誌のページ数を減らし、紙質を落とした。上質紙を使っていた「青鞜」は、号を追うごとに上ザラからザラ紙、センカ紙へと紙質を落としていった。

こうした状況の下で野枝のイライラした気分が、身近にいる辻潤に向けられるのは自然の道理だった。彼女は生活上の無能力者たる辻が、脂下がって「おれは結局自分に惚れてばかり暮らしてきた人間だよ」とか、「<酔生夢死>って言葉は、おれみたいなボヘエムにとっては懐かしい言葉だなあ。<國に奉仕し>とか<社会に貢献し>とか<人類の愛に目覚め><意義ある生活を送り>なんて言葉の正反対が<酔生夢死>の境地じゃないかね」と言うのを聞いていると、むかむかしてきた。

野枝が辻に愛想を尽かしたのは、谷中村問題で彼と争ったときだった。野枝は自宅に訪ねてきた宮島資夫夫妻と足尾銅山事件の話をして、政府のやり方に大いに憤慨したのだが、それを傍らで聞いていた辻が二人だけになると「谷中村について何の知識もなく、自分の子供の世話さえ満足に出来ない女がやたらに興奮している」と冷笑したので、カッと頭に来てしまったのだ。

カッとした野枝が大杉に宛てて綿々たる手紙を書いたのは、彼女が大杉にひそかに思慕の情を募らせていたからだった。手紙は谷中村問題で辻と衝突したいきさつを洗いざらい記したあとで、「あなたの方へ歩いてゆこうと努力してはいませんけれど、ひとりでにゆかねばならなくなるときを期待しています」という含みのある言葉で結ばれていた。野枝は、この手紙で自分が辻を棄てて大杉のふところに飛び込む用意のあることを告げ、大杉の覚悟を促したのだった。

大杉は、この手紙に返事を出さなかった。野枝は「彼もまた私の世間見ずな幼稚な感激が、きっと取り上げる価値もないものとして忘れ去ったのであろうと思うと、何となく面映ゆさと、軽い屈辱に似たものを感じた」と語っている。

やがて辻との関係はついに修復不可能なところまできた。辻は野枝が「青鞜」の編集を引き受けるときに、妻の収入増への期待もあって、全面的に編集に協力すると誓ったにもかかわらず、何一つ助力してくれないばかりか、辻夫婦の家に同居することになった野枝の従妹にちょっかいを出すようになったのである。辻潤は告白している。


同棲してから約六年(注・事実は満三年)、僕等の結婚生活は甚だ弛緩していた。加うるに僕はわがままで無能でとても一家の主人たるだけの資格のない人間になつてしまった。

酒の味を次第に覚えた。野枝さんの従妹に惚れたりした。従妹は野枝さんが僕に対して冷淡だと云う理由から僕に同情して、僕の身のまわりの世話をしてくれた。野枝さんはその頃いつも外出して多忙であった。

しばしば別居の話が出た。僕はその従妹との間柄を野枝さんに感づかれて一悶着を起したこともあつた。(略)野枝さんはおそろしいヤキモチ屋であった。

内外共に火のつくような危機的状況のなかで、野枝は二番目の子供を出産する。この頃から、野枝の書くものに挑戦的な筆致が目立つようになった。野枝はキリスト教系の団体「婦人矯風会」が6カ年計画で公娼を全廃する計画を立てたときに、「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」と題した反論を発表するのだ。

このなかで野枝は、社会事業にたづさわる婦人団体の女性たちが、なんの不自由もない上中流階級に属し「それ等の諸団体の専業などというのは、唯単に社会的な信用を得る口実の一つであって、いずれも婦人連の虚栄心、交際機関としてより他に存在の理由を認め得ない」と述べ、その「慈善のための慈善」を主にした博愛精神のいやらしさを非難したのだった。

野枝の文章を読んだ青山菊栄(後に山川均と結婚)は、後輩の野枝が「婦人矯風会」の偽善性を否定するあまり、公娼制度そのものを肯定する形になっていることを批判した。この時、青山は26才、野枝は21才だった。

批判された野枝はヒステリックに反撃した。


「あなたは本当につまらないあげあしをとっていますね。煩いちやありませんか。倣慢だとか傲慢でないとかそれが私の態度なら面倒臭いからどちらでもあなたの下さる方を頂戴しておきますよ。どつちでも私に変りはありやしないから」

このへんに野枝の喧嘩っ早さがあらわれている。少女の頃の野枝は兄が悪童たちにいじめられて帰ってくると、すぐさま復讐のために飛び出していって男の子を相手にとっくみあいのケンカをしたと言われる。彼女はその時分からアマゾンのような女の子だった。夏になると、4キロメートル離れた能古島まで泳いでいったり、めまいがするほど高い櫓の上から飛び込みをしたりしていた。

味方に対しても遠慮会釈もなく喧嘩を売る戦闘的な野枝の態度は、彼女を四面楚歌のなかに置くことになった。

一方大杉の方も追いつめられていた。
第一次「近代思想」廃刊後に月刊「平民新聞」を出したものの発売禁止つづきで、廃刊にせざるを得なくなり、それではと第二次「近代思想」を刊行したが、これも初号から発売禁止の連続で廃刊に追い込まれてしまう。

その大杉にとってさらなる打撃になったのが、彼の女性関係に対する同志の白眼視だった。彼は第二次「近代思想」が行き詰まりの様相を呈し始めた頃から、愛人の神近市子と打開策を練り、金銭的な援助も受けるようになっていた。そこへまた伊藤野枝が現れる。大杉は野枝の持ちかける相談に乗り、彼の方からも雑誌の件で彼女の意見を求めるようになっていた。二人が顔を合わせる機会が増え、彼らは日比谷公園の木陰で接吻する関係になった。

岩崎呉夫は伊藤野枝伝のなかで、大杉の生涯にあって最も大きな痛手はこの時期に盟友の荒畑寒村と決別したことだろうと推測している。荒畑は思想的に大杉から離れ始めただけでなく、大杉の奔放な女性関係にも批判的な目を向け始め、「近代思想」の同志と共に彼に背を向けるようになったのだ。

荒畑は菅野須賀子が処刑されてから、須崎で知り合った11才年長の女郎を妻に迎えていた。この女を心から愛している彼からすれば、大杉が神近市子・伊藤野枝のような女に迷って糟糠の妻保子を顧みないことを黙視できなかったのだ。

大杉はこの時期に「自由恋愛論」を唱えている。それぞれ独立した生活基盤を持った男女が、互いを縛り合うことなく多角的な愛情関係を持つことが望ましいというのである。こうした理論を荒畑は感覚的に受け付けなかった。その点は他の同志も同様で、彼らは自由恋愛論を大杉が自らの行動を正当化するためにでっちあげた屁理屈と取ったのである。この時期の「主義者」たちは、男女関係に対して総じてピュアな考え方をしていたのである。

荒畑らと疎遠になった大杉は、新しく雑誌を出そうにも同志の力を借りることが出来ない。大杉はすでに多くの出版社から前借していて、直ぐにも返済しなければならない文債をいくつもかかえていた。彼が当てに出来るのは、もはや神近市子と伊藤野枝しかいなかった。が、その神近は大杉とのスキャンダルがたたって新聞社を辞めていたし、野枝は「青鞜」の廃刊によって無収入になっていた。


一時は随分この雑誌の創刊に熱中していた神近も、そのころでは、もうだいぶ熱がさめていた。僕が彼女にばかりではなく、なお伊藤にもいろいろと雑誌の相談をしかけて、伊藤がその保証金の奔走をしたりするようになってからは、彼女はむしろ僕等の計画に対して多少の反感をすら持っているようだった。

・・・・・彼女は、僕等の計画の上に、また僕や伊藤の上に、どうしてそんな金ができるものかという侮蔑や冷笑も持っていた。

 実際僕等は随分困っていた。そして僕や伊藤が困りきっている時には、いつも神近が助けに来てくれていた。そんな場合の十円か二十円の金すらも工夫のできない僕や伊藤に、数百円というまとまった金のできるはずのないことを思うのも、彼女としては当然のことであった。

そして、今から思えばこうも邪推されるのであるが、彼女はそれを知りぬいていて、郷里まで金策に行くという伊藤に二度までも旅費をかしたのであった(「自叙伝」)。

これを読むと、神近は新しい雑誌を大杉と共同で出すつもりでいたが、後から野枝が入ってきて雑誌が三人のものになることに不満を感じだしたのである。彼女は、大杉の愛がより多く野枝の方に傾いていることも感じはじめていた。

神近は、青山という友人をまじえて大杉と三人で書店に立ち寄ったことがある。
店頭に並んでいる雑誌のひとつに「自由恋愛実行団」という6号記事があった。それには「大杉は保子を慰め、神近を教育し、野枝と寝る」とあった。それを読んで神近は「本当にこの記事の通りなのよ」と感想をもらしている。

大杉との関係はフレンドシップに過ぎないと自分をごまかしてきた野枝は、人間関係がもつれてくると生来の闘志を燃やして、大杉を神近や保子から奪い取ってやろうと考えるようになった。野枝はまず、辻と別れることにして、彼に離婚を切り出した。辻はしばらく瞑目して考え込んでいたが、「幸福に暮らしなさい」といって妻の申し出を受け入れた。話はすぐにまとまり、長男は辻がひきとり、次男は野枝が育てることになった。一度言い出したら後に引かない野枝の性格を知り抜いている辻は、黙って身を引くことにしたのだ。辻は書いている。


野枝さんは子供の時に良家の子女として教育され、もつとすなおに円満に、いぢめられずに育って釆たら、もつと充分に彼女の才能を延ばすことが出来たのかも知れなかった。もっと、落ちついて勉強したのかも知れなかった。

不幸にして変則な生活を送り、甚だ変則に有名になって、浅薄なヴァニティの犠牲になり、煽てあげられて、向う見ずになった。強情で、ナキ虫で、クヤシガリで、ヤキモチ屋で、ダラシがなく、経済的観念が欠乏して、野性的であった──野枝さん。

しかし、僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君は更に野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた。

野枝と魔子

家を出た野枝は、赤ん坊を背中に背負って大杉のいる下宿屋福四万館に駆け込んだ。だが、彼女は大杉の「自由恋愛論」の信奉者だったから、大杉に依存して生きるつもりはなかった。大阪毎日新聞社の菊池幽芳が彼女の自伝を買ってくれると約束していたので、大杉とは別に居を構え、原稿料で自活して行く予定だったのである。


 当時僕は、女房の保子を四谷の家に一人置いて、最初は番町のある下宿屋の二階に、そしてそこを下宿料の不払で逐い出されてからは、本郷の菊坂の菊富士ホテルというやはり下宿屋に、伊藤と二人でいた。

二人とも、二人いっしょにいることは、決して本意ではなかったのだ。二人とも、同じように家を棄てて出て、一人っきりになることを渇望していた。だが僕は、女房とまだ縁が切れずにいる上に神近や伊藤との関係があった。伊藤は、家とともにその亭主とも縁は切れているが、新たに僕との関係があった。そして、こうした厄介な関係の上からのみでも、二人ともいっしょにいるうるさい生活にたえられなかったのだ。
                              
 伊藤は最初からそのつもりで、家を出るとすぐ、赤ん坊を抱えて下総の御宿へ行った。そこは、かって彼女の友人の平塚らいてうが行っていて、彼女には話なじみのところだったのだ。彼女は当分そこで、ほんとうの一人きりになって、勉強する覚悟だった(「自叙伝」大杉栄)。

自活を目指して千葉県の旅館に移ったけれども、野枝の前に思わぬ誤算が待っていた。野枝が自らを缶詰状態にして旅館で書き上げた原稿を、菊池幽芳が「非常な賞賛の言葉」とともに送り返してきたのだ。新聞への掲載を拒否されたのである。たまたま、野枝のところに来て泊まっていた大杉の所持金も尽きて、二人は全く動きがとれなくなった。このときに、神近が救いの手をさしのべてくれたのである。

神近は、大杉にこう言って20何円かの金を届けてくれた。
「あなたが困るのも私が困るのも同じことだ。野枝さんが困って、そのためにあなたが困れば私もまたそのために困るのだ。だから、だれのためかれのためということはいっさいいわずに、お送りしましょう」

神近がなけなしの金を貸し与えたのは、大杉を野枝から引き離すためだった。だが、東京に戻ってきた大杉が一人でいたのは束の間のことに過ぎなかった。千葉に残った野枝は、にっちもさっちも行かなくなって、赤ん坊を近くの村人に預け、大杉の下宿に転がり込んで来たのである。二人の同居は4,5ヶ月つづいた。彼らは自由恋愛の理論を実践できないまま、ぐずぐずと日を送ることになった。

この土壇場から脱出するために、野枝は伝手をたどって遠縁の頭山満のところにまで金策に出かけている。頭山が「今、手元に金がない」といってこれも右翼の大物杉山茂丸への紹介状を書いてくれので、野枝は杉山に会いにも行った。すると杉山は、大杉と話をしたいという。それで大杉が杉山に会いに行くと、彼は国家社会主義くらいのところまで軟化したらどうかと勧め、そうすればいくらでも金を出してやるという。

大杉は杉山の勧めを断って帰ってきたが、相手と話しているうちに、内務大臣の後藤新平に頼めば何とかなりそうだという感触を得た。後藤と言えば、「危険思想取り締まり」の総元締めであり、これに金を無心するなど常識では考えられないところだが、彼は後藤に面会してまんまと300円をカンパさせることに成功するのである。

予想外の大金が入ったので、大杉はまず50円を妻の保子に届けた。彼女には長い間生活費を渡してなかったのである。次に、野枝が質屋に預けていたお召しの着物を受け出させた。彼女はその時ぼろぼろになった寝間着一枚で暮らしていた。

大杉は後顧の憂いがなくなったので、これをチャンスにして仕事に専念する気になり、日頃仕事場にしている葉山日蔭茶屋に出かけて溜まっている文債を片づけることにした。

大杉は野枝と別居する決心もしたが、これは持論を実践するためでもあったが、野枝と一緒にいると情痴の世界に溺れて仕事が出来なくなるという事情もあったらしい。大杉が野枝に出した手紙に次のようなものがある。


ほんとに僕は、幾度も言ったことだが、こんな恋はこんど始めて知った。

もう幾ヶ月もの間、むさぼれるだけむさぼって、それでもなお少しも飽くということを知らなかったのだ。というよりむしろ、むさぼるだけ、ますますもっと深くむさぼりたくなって来るのだ。そしてこのむさぼるということに、ほとんど何等の自制もなくなっているほどなのだ。

辻潤もそうだったけれども、大杉にとっても野枝はいくら抱いても、むさぼっても、なお足りないほど深い魅力を持った女だった。並の男だったら野枝の魅力に溺れてダメになるかもしれず、辻には幾分その気配があったのだが、大杉には情痴に流されないだけの確固とした姿勢があったのである。

大杉が神近に日蔭茶屋にでかけること、そして野枝とは別居する予定でいることを告げると、彼女は大喜びだった。そして、大杉が日蔭茶屋に一人で出かけることを確かめてから、あとから自分も訪ねて行くと約束した。大杉も久しぶりに神近と一夜を明かすことを歓迎して、「待っているよ」と応じた。

ところが大杉は不用意にも、神近が到着する前に野枝を帰せば問題なかろうと野枝を伴って葉山に出かけたのだ。だが、野枝が帰る前に神近が宿に来てしまったため、甚だ具合の悪いことになり男一人女二人がひとつ部屋で寝ることになる。

床に入ってから、心配になって大杉が様子をうかがうと、顔まで布団をかぶって寝ている野枝を神近が恐ろしい顔をして睨んでいた。殺意を浮かべた顔だった。しかし、その夜は何事もなく終わり、翌朝、野枝は東京に帰った。

その夜、宿に残った神近は金の問題を持ち出した。
「私今ね、あなたが金のないときのことと、ある時のこととを考えているの」
「というと、どういう意味だい?」
「野枝さんがきれいな着物を着ていたわね」

大杉は、腹を立てた。

いつでもあのくらい気持よく、しかも多くは彼女から進んで、出していた金のことを、今になって彼女がいい出そうとは、まったく僕には意外だった。そしてこの場合、金ができたから彼女を棄てるのだ、というような意味のことをいわれるのも、まったく意外だった。そしてそれが意外なほど、僕は実に心外にたえなかった(「自叙伝」)。

腹を立てながらも、大杉はふと目をやると神近は垢じみたメリンスの袷を着ている。そういえば、ふだん他人の着物なんぞにちっとも注意しない神近が、野枝の風体をじろじろ見ていた。大杉は、この時になって、やっと神近が彼に金を渡すために着物を質に入れていたことを思い出したのだ。野枝の着物を質屋から受け出してやる前に、まず神近の着物を受け出してやるべきだった。

しかし彼は、憤慨のあまり「金のことなら君に借りた分は明日全部返す」と言い切ってしまっていた。二人は険悪な空気を残したまま、布団に入った。暫くして大杉がうとうとしていると、神近が彼の布団に入ってこようとした。それを大杉は手厳しくはねつけた。そして彼は、(いよいよだな)と思った。今夜こそ、彼女は本当にやるだろう。

二人の間がうまく行かなくなった頃から、神近は口癖のように「あなたを殺してやる」というようになっていたのだ。彼は神近の襲撃に備えて直ぐ起きあがれるように準備を整えていた。が、あまり緊張しすぎて、いつの間にか眠ってしまった。それでも柱時計が午前三時を打つのを耳にした。

彼は、ふと喉のあたりに熱い玉のようなものを感じた。「やられたな」と思って彼は目を覚ました。「熱いところを見ると、ピストルだな」

見れば、神近が障子を開けて室の外に逃げ出そうとしていた。
「待て」
「許して下さい」
大杉は神近の後を追って階段を駆け下りた。(つづく)

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