大杉栄に花束を(3) 原点への回帰
小学校を卒業して新設の新発田中学校に入学した大杉は、ここで2年間を過ごすことになる。中学校時代は器械体操と野球に熱中し、学校を引けてからも柔道・撃剣:棒術の道場に通って、もっぱら肉体の鍛錬に明け暮れている。
「こうして一日とびまわっては、大飯を食っていた」(「自叙伝」)から、背丈がぐんぐんのびて同年配の仲間を凌駕するようになった。何をやっても人より秀でていた彼は、運動能力の点でもずば抜けていて、陸上競技でも、武技の試合でもほとんど仲間に負けたことがなかった。
実際、大杉は何をやらせても人並みはずれて器用な男だった。刑務所では下駄の鼻緒を作らされたが、荒畑寒村によれば「私たちの間では、一番早くていい仕事をするのが大杉で、その製品は授業士が品評会に出すと褒めたくらいだった」(「寒村自伝」)という。
昔の中学校は男だけの世界だったから、彼は小学校時代のように女の子と疑似恋愛をすることはなくなった。その代わり、彼は二年生になると、稚児さん趣味の風習に染まり、下級生の一人を「弟」にして可愛がっている。この男色趣味は陸軍幼年学校に入ってからもつづき、学校から懲罰を受けることになるのである。
陸軍幼年学校も男だけの世界だった。
学校は全寮制で、日曜以外の外出は禁じられていた。授業中は手を両膝の上に置いて、微動だにしないで教官の目を睨んでいなければならなかったし、新聞の閲覧も禁じられていた。生徒たちは、外部から完全に隔離された世界で、3年間を過ごさなければならないのである。こうしたスパルタ式の教育方針は反動を生む。各学年には、一定数の不良グループがうまれ、校則に反してひそかにタバコを吸ったり、男色を目的に下級生の寝室を襲撃したりしていた。入学早々、反逆精神旺盛な大杉は、不良グループの上級生に見込まれて、その仲間に入れて貰うことになる。
最古参生たる第一期生の「仲間」には、学校の中では、どんな悪いことでも無事にやれた。たとえば煙草は、もし見つかれば、営倉物だった。しかしそれも、彼等だけには、安全な場所があった。国の先輩は僕をそこへ連れて行くことは最初遠慮していた。が、他国の先輩、ことに東京から来た先輩が、すぐに僕をそこへ連れて行った。
また、これは見つかれば軽くて重営倉、重くて退校の処分に遇うのだが、夜みんなが寝静まってから左翼のほうの寝室(注:下級生の寝室)へ遊びに行くことも、やはり東京から来た先輩に教わった(「自叙伝」)。
二年生になると、大杉に対する風当たりが強くなった。彼を庇護してくれた三年生がいなくなり、新しく最上級生になった生徒たちが大杉を目の敵にして制裁を加えるようになったのだ。彼は無抵抗で殴られながら、ただ倒れないように用心していた。倒れたところを蹴られると、重傷を負うおそれがあったからだ。
生徒の監督に当たる下士官も、大杉をマークしていた。
校内の士官・下士官には、大杉を可愛がってくれるものと憎むものがハッキリ分かれていたが、彼が二年になると大杉を可愛がっていた下士官が転任になり、その後に別の下士官がやってきたのだ。彼は大杉を憎み、意地悪く彼のあとを嗅ぎ回って、何やかと生徒監に報告するようになった。だが、彼は平気だった。タバコがなくなると、夜、下士官室に盗みに出かける。ある夜、いつものように下士官室に忍び込んで机の引き出しを探していると、大杉嫌いの下士官につかまってしまった。彼はすぐさま、生徒監の室に連行された。
下士官は上官に報告する。
「実は下士官室のタバコがちょいちょいなくなるし、昨日は私の金がなくなりました。それで今日こそは犯人を取り押さえようと待ちかまえていたら、大杉がやって来たんです」
大杉はしらを切って抗議した。
「タバコや金を盗ったことはありません。ズボンのボタンがなくなったんで、今晩中に付けておこうと、ボタンを取りに行っただけです」幸いにも生徒監は大杉を愛している中尉だった。中尉は大杉に訊ねた。
「そのズボンというのは、どれだ?」
「今はいている、このズボンです」
彼は生徒監室に連行される途中で、あらかじめ引きちぎっておいたボタンのあとを見せた。「うん・・・・」
中尉は暫く黙っていてから、本人の将来のために、今回の件は不問にしておいてくれないかと下士官を説得し始めた。下士官は不承不承に承知した。しかし、この下士官は決して諦めてはいなかった。大杉は修学旅行の夜、またもや、彼の待ち伏せに引っかかるのである。
下士官どもの僕に対する追窮はますます残酷になった。そしてついに、もう一度あぶないところで退学されかかった。四月の中ばごろに、全校の生徒が、修学旅行で大和巡りに出かけた。奈良から橿原神宮に詣でて、雨の中を吉野山に登って、なんとかというお寺に泊った。第二期生だけがほかの宿で、第四期生と僕等とが一緒だった。
修学旅行や遊泳演習の時には、それがほとんど毎晩の仕事であったように、「仲間」のものは左翼や下級生の少年を襲うた。その晩も僕等は、坂田と一緒に、第四期生の寝室に押しかけた。
その途で僕は、稲熊軍曹(注:タバコ事件の当事者)がその室のふすまの隙間から、僕等を窺っているようなのを感じた。が、そうした場合によく、なるようになれという気になる僕は、構わず目ざす方へ進んで行った。しばらくすると、広い室の向うの障子が少し開いて、そこから軍曹らしい顔が見えた。僕ほある少年の〔十一字伏字〕いたところであった。軍曹の顔が引っこんだ。まだその辺をうろついていたらしい坂田は、急いで反対の方の側の障子から逃げた。
僕は黙って軍曹の引っこんだあとを見ていた。軍曹は曹長を連れて来た。そしていきなり僕を引っばって行った(「自叙伝」)。
その翌日に、校長の山本少佐の口から大杉への処分が言い渡された。
「重営倉十日のところ、とくに禁足30日に処す」というものだった。この懲罰は彼に意外なほどのショックを与える。僕はこの懲罰がどうしてあんなに僕を打撃したのかよく分らない。僕は生れてはじめて、そして恐らく絶後であろうと思うが、本当に後悔した。三十日間の禁足をほとんど黙想に暮らした。そして従来の生活を一変することに決心した。
まず煙草をよした。そして、今まで暴れまわることに費していた休憩時間を、多くは前庭の植物園で暮した。学校の前庭は、半分が器械体操場で他の半分が立派な植物園だった。
・・・・・・僕はこの植物園の中を、小さな白い板のラテン語の学名や和名などを読みながら、歩き暮らした。そしてたえず今までの生活を顧みながら考えていた(「自叙伝」)。
大杉は、誰に憚ることもなく自分の求めるものを追求していたのであった。そしてそれを妨げるものがあれば、果敢に反撃していた。ゴム毬が圧力を加えられれば反撥するように、彼は外からの圧迫に対して常に反抗していたのである。
だが、自由気ままに行動した結果が、犬や猫をなぶり殺しにすることになり、下級生相手に男色をすることになった。非行がここまで来ると、生命の深所から自責の声がかかり、彼を打ちのめすのだ。彼は、悪夢にうなされ、自己嫌悪に襲われる。彼の内部には自由を渇望する強い欲求と共に、非常にナイーブな「良心」の声があって、彼の逸脱を鋭く咎めるのである。
この反省はさらに、僕を改心というよりもほかの、他の方向へ導いて行った。それは僕が果して軍人生活にたえ得るかどうかということであった。吉野事件(注:男色事件)では、将校会議で僕の退校処分を主張した士官もあったそうだが、そして北川大尉の代りにきた国の津田大尉と受持の吉田大尉とのお蔭でようやく助かったのだそうだが、実際僕は退校する方がいいのじゃあるまいかと考えだしたことだ。
下士どもの僕に対する犬のような嗅ぎまわりは、僕の改心になんの頓着もなく続いた。そして時々やはり、なにかの落度を見つけた。僕はまず、果してこの下士どもの下に辛抱ができるかと思った。彼等を上官として、その下に服従して行くことができるかと思った。尊敬も親愛もなんにも感じていない彼等に、その命令に従うのは、服従ではなくして盲従だと思った。
そしてこの盲従ということに気がつくと、他の将校や古参生に対する今までの不平不満が続々と出てきた。僕ははじめて新発田の自由な空を思った。まだほんの子供の時、学校の先生から逃れ、父や母の目から逃れて、終日練兵場で遊び暮したことを思った。
僕は自由を欲しだしたのだ(「自叙伝」)。
これまで衝動的に行動してきた大杉の頭に、はじめて「自由」という観念が生まれたのだ。同時に、「自由のための反逆」という行動式が彼の意識の中に明確に刻印されるようになる。
この時の意識転換を理論化したのが「奴隷根性論」なのである。人は奴隷根性から、自らの手足を縛って動きがとれなくなっている。そして、おとなしく服従することを美徳と考える犬のモラルを身につける。挙げ句の果てに、支配者のために死ぬことを至上の善とする倒錯した道徳まで生み出してしまう。
従って、「生の拡充」のためには、まず第一に自縄自縛のモラルをかなぐり棄て、ただ単純に自由を求めなければならない。生の拡充とは、自由獲得のためにたたかうことを意味する。抵抗せよ。権威に反逆せよ。
だが、陸軍幼年学校にいたころには、まだ、その反逆精神はここまで理論化されていなかった。だから、彼は陰鬱な少年になり、夜、寮を抜け出して植物園のベンチに腰掛けてしくしく泣いているかと思うと、檻に閉じこめられた野獣のように目を光らせてあたりを睨みまわしていたのである。
・・・・・こんどは、兇暴な気持が襲うてきた。鞭のようなものを持っては、第四期生や新入の第五期生をおどして歩いた。下士官どもにも反抗しだした。士官にも敬礼しなくなった。そして無断で学科を休んでは、一日学校のあちこちをうろつきまわっていた。軍医は脳神経衰弱と診察した。そして二週間の休暇をくれた。
学校の門を出た僕は、以前の僕と変らない、ただ少しなにか物思いのありそうな、しかし快活な少年だった。そしてその足ですぐ大阪へ行った。大阪には伯父が旅団長をしていた。僕は毎日、弁当と地図とを持って、摂津、河内、和泉と、所定めず歩きまわった。どうかすると、剣を抜いて道に立てて、その倒れるほうへ行ったりもした。そして、すっかりいい気持になって学校へ帰った。
が、帰るとまた、すぐ病気が出た。兇暴の病気だ。気ちがいだ(「自叙伝」)。
大杉が大きなナイフを手にして校内を闊歩するようになると、これまであれほど彼を虐待していた下士官たちは恐れて何も言わなくなり、彼の敬礼の仕方にあれこれと難癖を付けていた士官も、自分に敬礼しない彼を目にしても、見て見ぬふりをするようになった。こちらが腹を据えてかかれば、相手はたじろぐのである。
そして、ついに大杉は校内の暴れ者と撃剣場で決闘することになる。
決闘の場にやってきた相手は顔を合わせるなり、直ぐにナイフを取り出した。彼もいったんポケットのナイフを取り出そうとしたが、研いだばかりのナイフで応戦すれば相手を殺してしまうかもしれないと考えて思い止まった。このへんが、大杉の賢明なところだった。福沢諭吉は幕末の混乱期に危険地帯を旅するとき、世人とは逆にわざと刀をはずして出かけた。反逆を鼓吹する文章を書きつづけるようになった大杉は、天皇について触れることだけは慎重に避けている。不敬罪・大逆罪に名を借りたフレームアップを警戒してのことだった。
素手で立ち向かっていった大杉は、相手を組み伏せたものの、下からナイフで何回も突き刺されて、全身が急に冷たくなるのを感じた。左手も動かなくなった。彼は全身を真っ赤な血に染めて立ち上がった。相手の生徒は、こういう大杉を茫然と眺めていた。
この刺し傷で、彼は二週間をベットで過ごしすことになる。すべてが終わったあと、大杉と加害者の生徒は二人とも退校を命じられた。時に、大杉は16才であった。
新発田に戻った彼が家族から精神病者扱いされて、離れに押し込められたことは前に触れた。
幼なじみの礼子の尽力で上京することになった大杉は、若松屋という下宿に落ち着いた。東京には退役陸軍大尉の叔父がいて、その家の前にこの下宿があったのである。
彼は下宿の一室で懸命に勉強した。その一方で、一番安いというだけの理由で「万朝報」という新聞を購読して熱心に読んでいる。陸軍幼年学校では、新聞を読むことが禁じられていたから、紙面を通して知る社会の動向がなにもかも新鮮に映った。
僕はその新聞全体の調子の自由と奔放とにむしろ驚かされた。そしてことに秋水(注:幸徳秋水)と署名された論文のそれに驚かされた。彼の前には、彼を妨げる、又彼の恐れる、何物もないのだ。彼はただ彼の思うままに本当にその名の通りの秋水のような白刃の筆を、その腕の揮うに任せてどこへでも斬りこんで行くのだ。
ことにその軍国主義や軍隊に対する容赦のない攻撃は、僕にとってはまったくの驚異だった、軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人教育を受け、そしてその軍人生活の束縛と盲従とを呪っていた僕は、ただそれだけのことですっかり秋水の非軍国主義に魅せられてしまった。
僕は秋水の中に、僕の新しい、そしてこんどは本当の 「仲間」を見出だしたのだ(「自叙伝」)。
上京してから、進学準備の方は順調に進んだ。
彼は東京外国語学校の仏語科に入学することを目指していたが、そのためには中学校の卒業免状を取っておかねばならない。それで、彼はどこかの中学校にもぐりこむ必要があった。幸い彼は編入試験に合格して順天中学校の5年生になることが出来た。
この時期に注目すべきことは、大杉の下宿に陸軍幼年学校を追い出された問題児たちが次々に集まってきたことだった。名古屋・大阪・仙台などの陸軍幼年学校を、男色その他の問題で追放された仲間が8,9人、大杉を中心に集まり「名誉回復のために」勉強に精出すことを誓い合ったのである。
天衣無縫に行動するように見えて、グループリーダーとしての大杉は仲間の向学心を刺激するのに妙を得ていた。このリーダーシップは、後にアナーキストグループの指導者になったときにも発揮されている。グループメンバーは彼と一緒にいると自分が成長して行くことを感じることができた。
こうして、幼年学校の落ち武者どもが、ほとんどみな僕の下宿を中心にして集まった。そしてその次の年には、みんな無事に中学校を終えて、僕と島田とは外国語学校に、登坂と田中とは水産講習所に、谷は商船学校に、みなかなりの好成績ではいった(「自叙伝」)。
彼が皆に推されてリーダーになったのには、その明るく屈託のないパーソナリティーも関係していたと思われる。山川均は回想記に書いている。
私の記憶には、十数年のあいだ見たあの屈托のない、
何かすることを求めている大きな眼と、罪のないいか
にものんきそうな大杉君の笑い声がこびりついている。私にはうなだれた、心配顔をした大杉君などは想像に
描くことすらもできぬ。
だが、考えてみれば幼年学校で懲罰を食らってから上京するまでの彼は、精神病者と疑われるほど陰鬱で暗い顔をしていたのである。
大杉は自暴自棄になることがあり、陰惨なニヒリズムに落ち込むこともある。けれども、立ち直るのも早かったのである。立ち直りのきっかけは、いろいろだった。投獄されて独房に放り込まれるという状況が再起のきっかけになったこともあれば、住む場所やつきあう人間を変えることで立ち直ったこともある。
山川均は、大杉が引っ越し魔で、一月に一回は転居していたと言っている。これなども、彼が無意識に探り当てた自分を新しくする方法だったかも知れない。居を変えることによって気を変えるのである。
とにかく東京に出てきた彼は、幼年学校時代の陰鬱な気分をすっかり洗い落としてしまったのである。そういう彼が、新しい世界を求めてキリスト教に入信したのも不思議ではない。明治時代の若者は、忠君愛国の旧道徳から抜け出るための通過儀礼として、先ずクリスチャンになったのだ。
新しい進歩思想を求める要求なぞが手伝って、順天中学校を終る少し前から僕はあちこちの教会へ行きはじめた。そして下宿から一番近い、またそのお説教の一番気にいった、海老名弾正の本郷会堂で踏みとどまった。海老名弾正の国家主義には気がついたのかつかなかったのか、それともまだ僕の心の中に多分残っていたいわゆる軍人精神とそれとが合ったのか、それは分らない。とにかく僕は先生の雄弁にすっかり魅せられてしまった。
まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髭をしごいては、その手を高くさしあげて、「神は……」と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等といっしょに、先生が声をしぼって泣くとやはり一緒になって泣いた。
先生はよく「洗礼を受けろ」と勧めた。「いや、まだキリスト教のことがよく分らんでもいい。洗礼を受けさえすれば、すぐによく分るようになる」と勧めた。僕はかなり長い間それを躊躇していたが、ついに洗礼を受けた。その注がれる水のよく浸みこむようにと思って、わざわざ頭を一厘がりにして行って、コップの水を受けた。
このキリスト教は、僕を「謹厳着実」な一面に進めるのに、だいぶ力があったようだ(「自叙伝」)。
洗礼を受けたものの、大杉の理解している神は海老名弾正のものとも違っていたし、一般の信者のものとも違っていた。彼は神を自己の内部にあるものと考えたのである。漠然と生命の根元によきものがあると感じていた彼は、超越者として外にある神を想像することが出来なかった。キリスト教に入信するや否や、大杉は一人合点で神は個人の心に内在すると決め込んでしまったのだ。
こういう大杉だったから、後にキリスト教を棄てるとスチルネルの「唯一者とその所有」などにかぶれ、神に替えるに自我をもってして自我絶対主義者になったりする。
「新しい進歩思想を求める要求」は、クリスチャンの彼を更に社会主義に導いていった。彼を促して社会主義に向かわせたのは、丘浅次郎の「進化論講話」だった。
(矢野竜渓の)『新社会』は少し早く読みすぎたせいか、その読後の感興というほどのものは今なんにも残っていない。しかし『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなって行くような気がした。今までまるで知らなかった世界が、一ページごとに目の前に開けて行くのだ。
僕はこの愉快を一人で楽しむことはできなかった。そして友人にはみな、しいるようにして、その一読をすすめた。自然科学に対する僕の興味は、この本ではじめて目覚めさせられた。そして同時に、またすべてのものは変化するというこの進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残っていたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはいりやすくさせた。
「なんでも変らないものはないものだ。旧いものほ倒れて新しいものが起きるのだ。今威張っているものがなんだ。すぐにそれは墓場の中へ葬むられてしまうものじゃないか」(「自叙伝」)
念願の外国語学校に入学した大杉は、ほっと一息ついた。彼はリラックスした気持ちで、これからうんと勉強して陸軍大学のフランス語教師になってやるぞなどと考えた。そうすれば、幼年学校時代の友人に今度は教師として教壇上から再会できる。
だが、彼が外国語学校に入学した明治36年は、日露戦争の前年にあたり「ロシア討つべし」という世論が沸騰している時期だった。そうした中で、「万朝報」を退社した幸徳秋水と堺利彦は、平民社を設立し、週刊「平民新聞」で非戦論を唱え始める。大杉は居ても立ってもいられなくなった。戦争熱に浮かされた国家に逆らい、社会全体を敵にして、反戦の孤塁を守る幸徳秋水らを座視していることが出来なかったのだ。
「平民社の旗挙げにどうしても一兵卒として参加したい」と思いつめた大杉は、その年の雪の降る寒い晩、数寄屋橋にあった平民社を訪ねている。毎週、平民社で開かれている社会主義研究会に出席するためだった。
この夜の研究会に20名ほどの出席者があったが、一人ずつ自己紹介することになった。「自叙伝」によると、彼の挨拶は「軍人の家に育ち、軍人の学校で学び、軍人生活の虚偽と愚劣を痛感したので、社会主義のために一生を捧げることにした」というものだった。
しかし、この夜出席した仲間の記憶では、彼はいきなり「僕は人殺しの子です」と切り出して皆を驚かせたという。こういうパフォーマンスで人をアッと言わせるのが彼の得意とするところだった。これが後年の大杉を人気者にもし、また、反感を抱かせる原因にもなっている。
大杉がはじめて平民社の研究会に出席した時、彼は18才の若さだった。この二年後に外国語学校選科を卒業するまで、彼は平民社の研究会にかかさず出席し、やがて学校の行き帰りに毎日平民社に顔を出すようになった。そして雑誌の帯封を書く手伝いなどをしたけれども、その内実は彼自身が言うように平民社にいって「遊んでいた」のであって運動にはほとんどタッチしていない。
この頃、「平民新聞」の発行部数は4,500部ほどで、社会主義の支持者は全国で3,000人程度に過ぎなかった。そして、主義を普及するために活動しているアクティブな社会主義者にいたっては、60人前後しかいなかった。
大杉と同年配の荒畑寒村はじめ何人かの仲間は、「社会主義伝道」と称して宣伝用のパンフレットや新聞を荷車に積んで各地をめぐりあるいていたけれども、彼はこの種の運動に加わっていない。
平民社にやってくる大杉は学生服をきちんと着て、頭を油で綺麗になでつけていた。それで、仲間は大杉のハイカラを縮めて「大ハイ」と呼んでからかっていたという。当時、彼は20才年長の女と同棲していたから、女の好みで身なりをこぎれいにしていたのかも知れない。
何でもあけすけに書いている大杉も、この女のことは自分より20才年長だったということ以外に口を緘して語らない。
彼はこの頃にキリスト教を棄てている。棄教の理由を彼は以下のように説明しているが、これだけが原因だったとは思われない。年増女と愛欲生活を送るようになったことも関係しているのである。
(本当の宗教は、トルストイが説くように一種の共産主義運動だと思っていたのに)しかるに、戦争に対する宗教家の態度、ことに僕が信じていた海老名弾正の態度はことごとく僕のこの信仰を裏切った。海老名弾正の国家主義的大和魂的クリスト教が、僕の目にはっきりと映ってきた。戦勝祈願会をやる。軍歌のような讃美歌を歌わせる。忠君愛国のお説教をする。「われは平和をもたらさんがためにきたれるにあらず」というようなクリストの言葉をとんでもないところへ引合いに出す。僕はあきれ返ってしまった(「自叙伝」)。
キリスト教から離れ、社会主義の実際運動にもタッチしないで、この時期の大杉が女に庇護されながら、もっぱら遊び暮らしていたかといえば、そんなことはなかった。彼は語学の才能を生かして、外国の社会主義・無政府主義の文献を読み、理論の面では誰も太刀打ちできないほどになっていたのである。後に山川イズムによって一世を風靡する理論家山川均も、大杉の早熟ぶりに感嘆しているし、先輩の幸徳秋水も彼を後継者と見込んで、バクーニン全集を贈っている。
その理論家の大杉が、初めて逮捕されたのは、電車賃値上げ反対運動に参加したからだった。彼はこれ以後22才から27才までの5年間に頻繁に入獄している。
刑務所は彼の生き方を根本から変えた。それで大杉は「僕は監獄でできあがった人間だ」と公言するようになる。ちなみに、山川均も獄中で自分の生き方を深刻に内省して再出発をはかっているので、先にその方から見てみよう。
大杉より5才年長の山川は、明治33年にクリスチャン仲間と語らって「青年の福音」と銘打ったパンフレットを定期発行していた。その3号にグループの一人が「人生の大惨劇」と題する記事を書いたのである。
この筆者は、皇太子の「御学友」につながる某家の者から、皇太子の「御成婚」にからまる秘事を聞き込んできて、それを題材に散文詩のような告発記事を書き、それが不敬罪にひっかかったのだった。
後に大正天皇となる皇太子は、九条公爵家の第四女節子と婚約し、これが「御慶事」として当時の新聞に大きく報じられた。しかし、実はこれは慶事でも何でもなく、節子姫の意に反した結婚だった。それで、結婚は愛によってのみなさるべきで、「家」が権勢欲のために娘に結婚を強いたとすれば、それは純潔な少女の貞操を売ることになると筆者は論じたのである。
だが、筆者は訴追されることを恐れて、皇室とか「御慶事」の言葉を使うことを避け、分かるものには分かるというような曖昧な書き方をしていた。山川はこれとは別に「苦笑録」という題で、世のキリスト教徒を批判する短評を書いた。キリスト教徒が、皇室に阿諛してやたらに「御慶事」を祝福することを厳しく非難したのである。
その結果は、惨憺たることになった。「人生の大惨劇」の筆者と共に、山川均も重禁錮三年六ヶ月、罰金百二十円、監視一年に処せられたのだ。
同志社時代からすでにそういう傾向にあったのだが、とくにその後の私は、指導してくれる人も頭をおさえる人もないのをいいことに、ますます思い上がって独りよがりとなり、誰も彼もが低俗とるに足りない人間に見え、腐敗と堕落したこの世の中は、軽蔑と罵倒にしか値しないものに思われてきた。そしてただ大言壮語することだけで、ひとかど社会の改革者をもって任じ、殉道者的な感傷にひたっていた。なに一つ身についた学問も技能もなく、これという才能も力量もないくせに、それでいて自分は誰にも負けないほど何でもできるくらいに高くとまっていた。
勉強を忘れてはいなかったが、実際には、規則正しい勉強はしていなかった。こういう無軌道ぶりから私を引きもどしてくれるものがなかったなら、私はたぶん一種とくべつの型の不良青年にでもなっていたろうと思う。このとき運命は、この思い上がった青年の首根っこをつかまえて、巣鴨監獄の独房にほうりこんだのであった(「山川均自伝」)。
これまでの自分をつくづく反省した山川は、入獄期間中に経済学を本格的に勉強するという目標を立てた。社会主義を口にする以上、経済学をマスターしなければ話にならないと考えたのだ。それからの山川のやり方は徹底している。
彼が一番読みたかったのは、マルクスの資本論だった。だが、いきなり資本論に飛びついてしまっては、経済学の全貌が分からなくなる。それで英文の資本論を読むのは最後に回して、まずマーシャルの入門書と経済学史を読むことから初め、それからアダム・スミス、リカード、シニア、ミル、と読んでいって再びマーシャルに戻るという読み方をしたのだった。山川は入獄中、経済学以外の本を一冊も読まなかった。そして経済学の基本的な勉強に打ち込み、出獄の日を迎えても、まだ肝心の資本論にたどり着くことが出来なかったという徹底ぶりだった。
では、大杉はどうかといえば、彼は生来の楽天主義から刑務所に入れられても全然へこたれた様子を見せていない。
僕はもう面白くてたまらなかった。きのうの夕方拘引されてから、はじめての入獄をただ好奇心いっぱいにこんどはどんな処でどんな目に遭うのだろうとそれを楽しみに、警察から警視庁、警視庁から検事局、検事局から監獄と、一歩一歩引かれるままに引かれてきたのが、これで十分に満足させられて、落ちつく先のきまった安易さや、仲間のものとすぐ目と鼻の間に接近している心強さなどで、一枚の布団に柏餅になって寝る窮屈さや寒さも忘れて、一、二度寝返りをしたかと思ううちにすぐ眠ってしまった(「自叙伝」)。
彼は入獄期間中、刑務所では大体、こういう調子で過ごしている。山川と同じように、下獄は彼にとって勉強のチャンスだった。彼は刑務所に入るたびに新たに一つの外国語をマスターすることにしていて、これを「一犯一語」と呼んでいる。
語学の習得法は、幼年学校で身につけたものだった。
本はアメリカで出来たフレソチ・ブックとかいうので、英語でフウト・ノオトがついていた。僕はまだ碌に発音もできないうちから、そのノオトと大きな仏和辞書と首っ引きで、一人で進んで行った。そして二学期か三学期かの始めに、原書の辞書を渡されてからは、先生のいう通りに分っても分らんでもその原書の辞書ばかり引いていた。先生はまた、この辞書と同時に、向うの子供雑誌の古いのを折々分けてくれた。
「分っても分らんでもいい、とにかく読んで行け」というのが先生のモットオだった。僕は忠実に貰った雑誌の始めから終りまで読み通した。ちっとも分らんのを二度も三度も読み通した。そして、そうこうしている間に、原書の辞書の方もいい加減分るようになり、子供雑誌も当てずっぽうに判読するようになった(「自叙伝」)。
刑務所の独房で、彼は午前中を語学の習得にあてて、エスペラントから始まってイタリア語、ドイツ語をマスターしている。
獄中で彼が自分の性格分析を行い、深刻な反省をしている点も山川と同じだった。
僕は元来ごく弱い人間だ。もし強そうに見えることがあれば、それは僕の見え坊から出る強がりからだ。自分の弱味を見せつけられるほど自分の見え坊を傷つけられることはない。傷つけられたとなると黙っちゃいられない。実力があろうとあるまいと、とにかくあるように他人にも自分に見せたい、強がりたい。時とするとこの見え坊が僕自身の全部であるかのような気もする(「自叙伝」)。
大杉は自身の性格的な弱点を克服するためにも、「滅茶苦茶に本を読んだ」。そのうちに自ずと転機が来たのである。彼のその後の人生を決定するような転機である。
かくして僕は、かって貪るようにして掻き集めた主義の知識をほとんどまったく投げ捨てて、自分の頭の最初からの改造を企てた(「自叙伝」)。
大杉がほかの凡百の「主義者」と違うところは、既成理論の受け売りではなく、自分自身の実感に支えられた理論を新たに作り、これに基づいて行動しようとしたことだった。彼はすでに述べたように、社会主義に関する知識の広さで皆から一目置かれた。
しかし彼は顧みて忸怩たる想いがあったのである。成る程、社会主義理論に関する知識は人よりも持っている。しかし、それらの知識は上っ面だけのことで、理論の基礎になっている科学的知見はなきに等しい。
彼は幸徳秋水宛の手紙に「どのアナアキストでも、まず(その著書の)巻頭には、天文を述べてある。次に動植物を説いている。そして最後に人生社会を論じている」と書き、「論理は自然の中に完全に実現されている。そしてこの論理は、自然の発展たる人生社会の中にも、同じくまた完全に実現せられねばならぬ」と述べて基礎学としての自然科学の重要性を説いている。
ここにマルクス主義とアナーキズムの違いがある。
マルクス主義は、経済現象を科学的に研究して社会発展の法則を見出すけれども、アナーキズムは目を自然界に向けて、自然界にある平準化の法則を社会内部においても貫徹させようとする。勢いアナーキズムは大雑把な宇宙哲学のようなものになり、宗教思想に近いものになる。かくて社会変革の理論としての精密さにおいてアナーキズムはマルクス主義に遠く及ばないものになる。だが、大杉にとっては理論が精密であるか、体系化されているかというようなことは問題ではなかった。人間の本能は、他からの抑圧を排除して、自由に生きることを求めている。反権力無支配の平等社会こそ、すべての人間が待望している理想的な社会であり、この理想社会を実現することが万人に共通する生命的要求なのである。
大杉は自己の生命の深みに立ち戻って、自分が納得できる理論、自分がよってたつ革命理論を構築しようとしたのだった。出来合いの理論に頼るのではない。振り出しに戻って自分の頭をいったん白紙にするのである(「白紙主義」)。自分を根底から改造した上で、自己の行動指針としての社会主義理論を生み出すのだ。
こうした観点から、彼は膨大な計画をたてた。
それから、以前から社会学を自分の専門にしたい希望があったので、それをこの二カ年半にやや本物にしたいときめた。が、それも今までの社会学のではつまらない。自分で一個の社会学のあとを追って行く意気込みでやりたい。それには、まず社会を組織する人間の根本的性質を知るために、生物学の大体に通じたい。次に、人間が人間としての社会生活を営んで来た径路を知るために、人類学ことに比較人類学に進みたい。
そして後に、この二つの科学の上に築かれた社会学に到達して見たい。と今考えると誠にお恥かしい次第だが、ほんの素人考えに考えた。それには、あの本も読みたい、この本も読みたい、と数え立ててそれを読みあげる日数を算えて見ると、どうしても二カ年半では足りない。少なくとももう半年は欲しい。
こうなると、今まで随分長いと思っていた二カ年半が急に物足りなくなって、どうかしてもう半年増やして貰えないものかなあ、なぞと本気で考えるようになる(「自叙伝」)。
これらの計画は部分的にしか実行されなかったが、原点に立ち返って自分自身の内面から発想するという「白紙主義」は完全に身につき、出獄後、「近代思想」誌に発表した彼のユニークなエッセーや論文は論壇の注目を集めることになる。
監獄で自己形成を果たしたという点では、山川均と大杉栄は共通している。だが、その結果山川はマルクス主義の忠実な祖述者になり、大杉は既成理論を棄てて独自理論を打ち出すことになったのである。
ロシア革命後、仲間たちが一斉にマルクス主義に走ったにもかかわらず、大杉だけがアナーキズムから離れなかった。これは、彼が自ら生み出した「生の哲学」ふうのアナーキズム理論に立って行動していたからだった。
彼は自前の理論を持っていたのである。(つづく)