大杉栄に花束を(2)

母と息子

大杉栄の家を取り仕切っていたのは、母の豊だった。
大杉がものごごころついた頃には、一家は父の任地である新潟県の新発田に移り住んでいた。新発田連隊の大隊副官をしてい父の東は、日清戦争に出陣して最高級の金鵄勲章をもらうほど勇敢な軍人だったが、家ではひどくおとなしかった。朝は早くに出勤し、夕方帰宅すると自室に引っ込んで何か読むか書くかしているというふうだった。

父は大杉がいたずらをしても叱らなかったし、女中たちにも小言一つ言ったことがない。そんな父を母は何時も責めていた。「あなたがそんなだから、子供がちっともいうことを聞かないんですよ」

母の豊は、おとなしい夫とは反対に陽性な女だった。


母の声は大きかった。そしてその大きな声で始終なにかいっていた。母を訪ねてくる客は、たいがい門前に来るまでに、母がいるかいないか分かるというほどだった(「自叙伝」)

この元気印の母は、子供の世話を女中にまかせて、しょちゅう出歩いている。


母は大勢の子供をほったらかして、半日も一日も近所のやはり軍人仲間の奥さんのところへ行ってよく遊んでいた(「自叙伝」)

こんな調子だったから、母の知己はやたらに増え、外出すると会う人ごとに片っ端から新発田言葉の大声で挨拶しなければならないほどだった。母親があまり開けっぴろげで開放的だと、子供は内気な恥ずかしがり屋になる一方で、親を見習って社交的にもなる。大杉もこの両面をそなえる人間になった。彼は自分の内向性についてこう書いている。


こういうと人はよく笑うが、僕にはごく内気な、恥ずかしがりのところがある。ちょっとしたことですぐ顔を赤くする。人前でもじもじする。これも生まれつきであろうと思うが、吃りの影響も決して少なくあるまいと思う。

母の天真爛漫な行動と、彼女が仮名しか書けないほど無学だったことには関係があるかもしれない。母は軍人一族の家に育ち、きょうだい・親戚には陸軍中将だの大佐だのがべたべたいる。当然、親は子弟の教育に熱心だったはずだが、どうやら大杉の母だけが勉強嫌いの野放図な娘になってしまったらしかった。

母が漢字を書けないので、母の出す手紙の表書きは小学生の大杉が書いてやった。陸軍幼年学校を放逐された大杉の将来を相談する際に、父の東は息子に、「文学はちょっと困るな」と注文を付けた。この問答を脇で聞いていた母の豊は夫に「文学って何ですの?」と質問している。大隊副官の妻にしては、あるまじき無教養ぶりである。

大杉の母・豊

母は、また、金の扱いにもルーズだった。

 僕は母の財布から金を盗み出すことを覚えた。母はいつも財布をどこかへ置きっぱなしにしていた。そしていり用のたびにあちこちとそれを探していた。そんな風で、自分の財布にいくらはいっているのかもよくは知らなかったようだった。僕ほそれをいいことにして、二、三十銭から五十銭くらいまでをちょいちょいと盗んだ(「自叙伝」)

こういう母だったから、大杉は吃りになったのである。子供が吃音になる原因は、母子関係の齟齬にあると言われている。幼児は、母が無条件に耳を傾けてくれると安心しているから、感じたまま思ったままを自由に口にする。だが、母が忙しすぎて子供の言葉に耳を貸す余裕がなかったり、母がほかのことに気をとられて子供に注意を向けないでいると、子供は母に話しかけるに当たって過度に緊張する。そして緊張し気負った分だけ、吃ることになるのだ。

大杉は自分の吃音は遺伝だと説明しているけれども、元気すぎる母に対抗する必要上、彼は力んで話さなければならず、これが彼を吃音にしたと思われるのだ。大杉ばかりではない、弟の進も何を言っているか分からないほどの吃音だったという。

母は子供が成長してから、さらにその吃音を悪化させている。


      
こうして僕は毎日学校で先生に叱られたり罰せられたりしていた間に、家ででもまた始終母に折檻されていた。母の一日の仕事の主な一つは、僕を怒鳴りつけたり打ったりすることであるようだった。

そしてその叱りかたも実に無茶だった。   
「また吃る」
 生来の吃りの僕をつかまえて、吃るたびにこういって叱りつけるのだ。せっかちの母は、僕がばちばち瞬きしながら口をもぐもぐさせているのを、黙って見ていることができなかったのだ。

そして「たたたた……」とでも吃り出そうものなら、もうどうしても辛棒ができなかったのだ。そしてこの「また吃った」ばかりで、横っ面をぴしゃんとやられたことが幾度あったか知れない。

小学校に上がる頃ともなれば、腕白坊主は母がいくら怒鳴りつけようと箒でひっぱたこうと、最早恐怖を感じないようになる。男親のそれに比べたら、女親の折檻などたかが知れているのである。


母にうんと叱られて、その口惜しまぎれに障子に火をつけた。障子は一度にパアと燃え上がった。母は大声を上げて女中を呼んだ。そして二人であわてて障子を倒して消してしまった(「自叙伝」)

母が折檻すれば、息子が反抗する。二人が日夜繰り広げる騒動は甚だ派手だったが、両者の間に深刻な憎しみも怒りもなかったから、それは馴れ合いのゲームのようなものになる。次に引用する一節は、そうした母子交歓の一端を示している。


「栄」
 と大きな声で呼ばれると、僕はきっとまたなにかの悪戯が知れたんだろうと思って、おずおずしながら出て行った。
 
「箒を持っておいで」
 母は重ねてまた怒鳴った。僕は仕方なしに台所から長い竹の柄のついた箒を持って行った。

「ほんとにこの子は馬鹿なんですよ。箒を持って来いというといつも打たれることが分っていながらちゃんと持って来るんですもの。そして早く逃げればいいのに、その箒をふりあげてもぼんやりして突っ立っているんでしよう。なお癪にさわって打たないわけには行かないじゃありませんか」
 母は僕の頭をなでながら、やはり軍人の細君の、仲好しの谷さんにいった。


「でも、箒はあんまりひどいわ」
 谷のお母さんもやはり家の母と同じように大勢の子持だった。そしてやはりよくその子供を打った。しかし母にこの抗議をする資格は十分にあったのだ。
「それや、ひどいとは思いますがね。もうこう大きくなっちゃ、手で打つんではこっちの手が痛いばかしですからね」

が、僕は母のいうこの「馬鹿なんですよ」に少々得意でいた。そして腹の中でひそかにこう思っていた。
「箒だってそんあに痛かないや。それに打たれるからって逃げる奴があるかい」

大杉は幼稚園や小学校でも、腕白の限りを尽くした。


──幼稚園でのことはほとんどなんにも覚えていない。ただ一度女の先生に叱られて、その顔に唾をひっかけてやったことがあるように思う。

──唾では、その後も一度、小学校の女の先生にひっかけて泣かしたことがあった。

──教員室に幾度とめ置きを食ったかしれない。そして時々(教員室の横の)真っ暗な土蔵の中に押しこまれた。あんまり長く置かれると、退屈して、よくそこに糞を垂れてやった。

そして、こうした腕白の極まるところ、犬や猫に対する残酷な玩弄がはじまった。次に引用する挿話には、大杉という人間を理解するための重要なヒントがいくつも隠されている。


 僕はこんな喧嘩に夢中になっている間に、ますます殺伐なそして残忍な気性を養っていったらしい。なんにもしない犬や猫を、見つけ次第になぐり殺した。

そしてある日、例の障害物のところで、その時にはことさらに残忍な殺しかたをしたように思うが、とにかく一疋の猫をなぶり殺しのようにして家に帰った。自分でもなんだか気持が悪くって、夕飯もろくに食わずに寝てしまった。

 母はなんのこととも知らずに、心配して僕の枕もとにいた。だいぶ熱もあったんだそうだ。夜なかにふいと僕が起きあがった。母はびっくりして見守っていた。すると僕が妙な手つきをして、「にゃあ」と一と声鳴いたんだそうだ。


母はすぐにすべてのことが分った。
「ほんとうに気味が悪いのなんのって、私あんなことは生れて始めてでしたわ。でも私、猫の精なんかに負けちゃ大変だと思って、一生懸命になって力んで、『馬鹿ッ』と怒鳴るといっしょに平っ手でうんと頬べたを殴ってやったんです。すると、それでもまだ妙な手つきをしたまま、目をまんまるく光らしているんでしょう。私もうたまらなくなって、もう一度、『意気地なし、そんな弱いことで猫などを殺す奴があるか、馬鹿ッ』と怒鳴って、また頬べたを一つ、ほんとうに力いっぱいに殴ってやったんです。それで、そのまま横になって、ぐうぐう寝てしまいましたがね。ほんとうに私、あんなに心配したことはありませんでしたよ」

母はよくこういってその時のことを人に話した。そして僕は、その時以来、犬や猫を殺さないようになった。

上記の挿話には、何か思い立つと目標に向かって際限もなく突進する大杉の特徴が現れている。一度欲したことは、行動に移さなければ気が済まず、そして一度動き始めたら途中でストップすることがない。そのまま進めば、彼は破滅するしかないのだが、ギリギリのところで不思議と彼は思い止まるのである。

大杉を思い止まらせるものが何かと言えば、生命の深所から突き上げてくる自戒の念なのだ。自戒の念は、悪夢にうなされるという形を取ったり、激しい自己嫌悪という形を取ったりする。悪夢にうなされるケースをもう一つあげる。神近市子のケースである。

三角関係のもつれから眠っているところを神近市子に刺された大杉は、起きあがって「待て」と声をかける。すると、部屋を逃げ出そうとしていた女が顔を恐怖でいっぱいにして振り返り「許して下さい」と嘆願するのである。事件から半年たっても、深夜、この時の泣き出しそうな顔をした神近の姿が彼の前に現れて消えなかった。

次は自己嫌悪について見てみる。

陸軍幼年学校で男色を咎められた大杉は、30日間の禁足という懲罰を受けた。この時に彼は生まれて初めてというほどの深刻な自己嫌悪に襲われている。そして、以後彼は生まれ変わったように男色の習慣を絶っている。

そして、これらのピンチに際して大杉に救助の手をさしのべてくれるのは、決まって女性なのである。彼を猫の悪夢から救ってくれたのが母親なら、神近市子の怨霊に悩む彼を救ってくれたのは、伊藤野枝だった。

大杉が恐怖のあまり隣りに寝ている伊藤野枝にしがみつくと、野枝は「また出たの?」と言い、「ほんとにあなたは馬鹿ね」と笑いながら彼の頭を子供のようになでてくれる。すると彼の気持ちも静まるのだった。

陸軍幼年学校を放逐されて新発田に戻った大杉を救ってくれたのは、幼なじみの礼子だった。帰宅して暫くの間、母は子供たちに「兄さんは少し気が変なんだから、決して離れに行くんじゃないよ」と言い含めて、大杉に近づかないようにしていた。彼のいる離れは、ていのいい座敷牢になったのである。

大杉に会いに来た礼子は、大杉を解放して東京に出してやるように、熱心に母を説得してくれたのだ。


僕はその話し声を聞いて、本を閉じて、一人でしくしく泣きだした。どんなことがあっても、うんと勉強して、彼女のためにだけでもえらい人間になってみせると一人で誓った(「自叙伝」)

礼子のお陰で、座敷牢から解放された大杉は、17才の元日に上京することになった。母は玄関まで送ってきて、「まあ、あんなに喜んで行く」と言って自分もやはりうれし泣きに泣いていた。

人生の要所要所で女があらわれ、大杉の生涯を大きく変えて行くことは不思議なほどだ。これは彼と女性の間に目に見えないテレパシーのようなものが流れていたためではなかろうか。彼は一種のカンのようなものに導かれて、ある女性には大胆な行動に出るかと思うと、別の女性にはピュアな純情を捧げたのである。

小学生の彼は、近所の女の子と二階に上がって性戯にふけっている。大杉の告白によれば、その女の子と「誰にはばかることもなく、大人のようなことをして遊んでいた」のだ(獄中の金子ふみ子に次のような短歌がある、「大杉の自伝を読んで憶ひ出す幼き頃の性のざれ事 」)。

その反面で、彼は同級生の光子という少女にプラトニックな愛を感じていた。



  光子さんとは学校で同じ級だった。僕はなんとなく光子さんが好きで仕方がなかった。しかしお互の家に交際があるのではなし、近所でもなし、ちょっと近づきになる方法がなかった。

そして学校では、ぶつかりさえすれば、なにかの仕方で意地悪をしていた。
ある日僕は、家にいて、急に光子さんの顔が見たくてたまらなくなった。そしてそとにいた大川津の妹の顔をいきなり殴りつけてその頭にさしていた朱塗りの櫛をぬき取ってそれをしっかと握ったまま光子さんの家の方へ駈けて行った。

光子さんはうまく家の前で遊んでいた。僕は握っていた櫛をそこへほうりつけて、一目散にまた逃げて帰った。

大杉家は頻繁に引っ越しをしたから、やがて彼は初恋の光子と会えなくなった。


学校が別になってめったに会う機会のなくなった光子さんは、折々その小さい弟を連れて、夕方近くの練兵場へ散歩にきた。彼女はたしかに僕に会いにくるのに違いなかった。

その弟を連れてきたのもそとへ出る口実に違いなかった。僕は彼女の姿を見るとすぐに練兵場へ走って行った。二人は一、二間そばまで近よってかすかな
笑を交せば、それでもうことは十分に足りるのだった。彼女はそれで満足して帰った(「自叙伝」)。

「自叙伝」には、これらの記述のほかに、ちょっと注目すべき記事がある。上京した大杉は、20才年長の母親のような年齢の女と同棲することになるが、すでに小学生の段階からその先触れのようなことが起きているのである。


 二軒町のその家の隣りに、吉田という、近村のちょっとした金持が住んでいた。僕はそこのちょうど僕と同じ年ごろの男の子と友達になった。が、すぐに僕は、その男の子と遊ぶのをよして、そのお母さんと遊ぶようになった。
                                                  
 この伯母さんは、火事で火の子をかぶったのだといって、髪を短く切っていた。どちらかの眉の上に大きな疣のようなほくろのある、あまりきれいな人ではなかった。

 伯母さんはその子と僕とにちょいちょい英語や数学を教えてくれた。そしていつも僕が覚えがいいといっては、そのごほうびに僕をしっかりと抱きかかえて額ずりをしてくれた。僕はそのごほうびが嬉しくてたまらなかった。

「私はね、こんな家へお嫁にくるんじゃなかったけど、だまされてきたの、でも、今にまたこんな家は出て行くわ」
 伯母さんはその子供のいない時に、いつものごほうびで僕を喜ばせながら、そんな話までして聞かした。そして実際、その後しばらくして出て行ったらしかった(「自叙伝」)。

大杉の女性遍歴に見られるこうしたマザー・コンプレックスまがいの現象には、彼と母親との間にあった愛情関係が反映している。

大杉の母に対する愛情は「自叙伝」のいたるところに感じられるが、特に母の死について書いた部分にそれは色濃くあらわれている。母は大杉が喜び勇んで上京した半年後に、9人目の子供を流産したのにつづいて卵巣膿腫になって死んでいる。母は新潟の病院に入院してからも、中学校の編入試験を控えている大杉のことを心配して、自分の病気を彼に知らせることを禁じている。

だが、手術に失敗して病が重くなると、しきりに大杉の来るのを待ち望むようになった。彼は母の死を看取った女の言葉を、そのまま自伝に載せている。


「もう大変なお苦しみでね。注射でやっと幾時間、幾時間と命をお止め申していたんです。時々、『栄はまだかまだか』とおっしゃいましてね、そしてあの気丈な方がもう苦しくてたまらないから早く死なしてくれ、死なしてくれとおっしゃるんです。

それでも、私がもうすぐお兄さまがいらっやいますからというと、うんうんとお頷き遊ばして黙っておしまいなさるんですもの。そりゃ、どんなにかあなたをお待ち遊ばしたんですが。

幾度も早く死なして死なしてとおっしゃるんですけれど、そのたびに私があなたのことを申しあげると、頷いては、黙っておしまいになさるんですもの」(注:大杉は結局母の死に目に会えなかった)

大杉は、母の思ったことをそのまま口にしたり行動したりするところを愛していたのである。母の言動は非常識にも無教養にも見えるけれども、偽りのない天真の内面が発露したものにほかならなかった。母の言動には、生命の深所につながるような根源的なものが感じられた。

母の開けっぴろげな行動を愛した彼は、持って回ったような物言いや取り繕ったポーズを嫌った。彼がトロッキーを好む理由は、「ほかの男だとよけいな理屈が先に立つ。が、彼だと、すぐさま、その思うままを述べる」からだった。自伝には、小学生時代の仲間に対する好悪が記してある。


──僕はこの二人のレファインされたお坊ちゃんらしさが気にくわなかった。

──しかしその町人らしいレファインさはたまらなくいやだった。


大杉は後に、本能や感情を高く評価し、「生の拡充」を説くようになる。そして周囲の人間から「礼儀知らず」「人を人と思わぬ不遜」を攻撃されるようにもなるが、もとをただせば、これらは母を範として彼が展開した行動であり、母との日常を見習って身につけた生活方式だったのである。(つづく)

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