時を送りて、終わりを待つ

正確な言葉を忘れてしまったが、晩年の空海はその心境を現すのに「終わりを待つ」という言葉を使っている。すべての人間は終わりを待つ存在である。老境に入るとこの言葉は、ひとしお身にしみてくる。

再び妻子と一緒に暮らすようになって、私は憑き物が落ちたように気楽になってしまった。この後、終わりを待つしかない人間が、何も無理をすることはない。で、丸坊主にしていた頭髪を伸ばし始め、作業服以外の衣類も身につけるようになった。といっても、洒落始めたのではない。だぶだぶのズボンや上着、「寛衣」を着るようになっただけだが。

嗜好も変わった。
これまでは、岸田劉生とかレンプラントとか、重い感じのする絵が好きだったのに、今ではワイエスが好きになっている。クラシック音楽についても同じような現象が起こり、ベートーベンやブラームスの代わりに、フランス印象派の作曲家の音楽を好んで聴いている。

最も変わったのは読む本だ。
今は翻訳もののミステリーしか読まないようになって、自分でも変われば変わるものだと思っている。昔は、作りものの最たるものがミステリーだと思って、外国もののミステリーなど手を触れたこともなかったのである。書棚にはミステリーのストックがないため、この種の本を読むためには新たに文庫本などを買い足さなければならず、書店に出かけてハヤカワ文庫の前に立つことが多くなっている。

言い忘れたが、パソコンに手を染め、こんなホームページをこしらえているのも私の「堕落」の現れなのである。

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