「殉死」に見る惨劇
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以前にも触れたように乃木大将に対する評価は、明治世代と大正世代の間で鋭く対立している。明治世代は彼を軍神と仰ぎ、その遺徳をたたえるために東京赤坂の乃木神社を含め全国に四つもの乃木神社を作っている。明治世代で注目すべきは、世間一般の民衆だけでなく、当時最高の知性だった森鴎外・夏目漱石すらも乃木に敬意を払っていたことだろう。鴎外は、乃木殉死の報を聞いて即座に、「興津弥五右衛門の遺書」という作品を書いているし、漱石は乃木の遺書「明治十年の役において軍旗を失い、その後死所を得たく心がけ候もその機を得ず」を読んで感動し、作品「心」に「先生」の言葉として、こう書いている。
「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを
読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳の
ために死のう死のうと思って、つい今日迄生きていたという
意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ
覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。
・・・ 西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年迄には
三十五年の距離があります(「心」)」
明治の教養人は、乃木大将の古武士的性格やストイックな生き方を高く評価していたのだ。彼らの中から、「乃木式」といわれる簡素な生活法を実践する者が続出したのも不思議ではない。鴎外も又、乃木式生活の実践者の一人と見られていた。その頃、これら実践者たちは「精神家」と呼ばれた。乃木は「精神家」の輝ける開祖だったのである。大正世代が反発したのも、この精神家に対してだった。大正世代はヒューマニズムの洗礼を受けていたから、ナショナリズムと結びついた精神主義など容認するはずがなかった。新時代の若者たちの目には、彼ら精神家はむしろ精神屋というべき存在であり、精神主義の名のもとに習俗に媚びているように見えたのだ。乃木大将は日露戦争後に明治天皇のお声掛かりで学習院の院長になったが、武者小路実篤・志賀直哉など学習院に学ぶ学生たちにとって軍神乃木希典など単なる道化役者に過ぎなかった。
大杉栄の父親は職業軍人で、新発田連隊の内部では「精神家」と呼ばれていた。この父親の下から、アナーキスト大杉栄が生まれたのである。乃木大将に対する評価は、世代対立ということを抜きにしても賛否両論に分かれ、「殉死」という小説で乃木を描いた司馬遼太郎も、乃木を半ば否定するような書き方をしている。
司馬遼太郎はこれまで乃木について書くに当たって主人公のプラス面を7割、マイナス面を3割の割合で書いているように思われる。だが「殉死」では、乃木のマイナス面を7割、プラス面を3割の比率で書き、彼の作品としては珍しく辛口の仕上りになっている。そのため、彼は発表に際して読者から反発されるのではないかと心配していたが、それは杞憂に終わった。
彼はこの作品で、「毎日芸術賞」を授与されたのである。私も世評の高さに惹かれて「殉死」を読み、私の知っている司馬作品の中では一番の出来ではないかと感じている。
では、司馬遼太郎は殉死の原因となっている軍旗を奪われる場面をどう書いているのだろうか。
乃木は、問題の西南戦争に熊本鎮台歩兵台十四連隊の連隊長心得として出陣している。連隊長といっても、彼にはまだ実戦を指揮した経験が一度もなかった。彼はもともと軍人には不向きの人間だった。少年の頃から神経質で脅えやすく臆病だった。長州藩士の子供
は、試し切りのために日頃、野良犬や猫を切ったといわれるが、乃木は恐怖が先だって試し切りすることが出来なかった。それでも十代の頃、彼は六ヶ月ほど洋式軍事訓練を受けている。これだけの経験しかなかったのに、薩摩藩の黒田清隆が口をきいてくれたおかげで、乃木は23才のとき東京に呼び出されて陸軍少佐に任命されている。そして、その4年後に連隊長心得になって小倉に赴いたのだ。
乃木少佐にとって最初の戦闘は、彼の率いる部隊が熊本城を包囲していた西郷軍の一部と接触したことによって起きた。乃木隊は400余名、西郷軍もほぼ同数で、昼間の間は、敵味方一進一退で戦っていたが、夜になって薩摩の抜刀隊が夜襲を仕掛けてくると、乃木隊は算を乱して退却し始めた。
動転した乃木は離れた地点にいた配下の一個大隊を呼び寄せるために、自ら伝令になって走り出したのである。連隊長ともあろうものが部隊を捨てて伝令に飛び出すようなことは、どこの国の戦史にも例がない。
乃木連隊長と共に最前線にいた連隊旗手の河原林少尉以下の10名は、取り残された状況下で敵の襲撃を受け、河原林少尉は戦死し、軍旗を奪われることになった。翌日、敵は奪った軍旗を前線に持ち出し、官軍に見せびらかした。帰隊した乃木は軍旗を取り戻すために必死になって戦ったものの、六日目に左足を負傷して野戦病院に送られる。指揮官を失った乃木連隊は他の部隊に組み込まれて雲散霧消してしまう。乃木にとってこれ以上の恥辱はなかった。司馬遼太郎は、「殉死」のなかにこう書いている。
「乃木の敗戦についての自責がすさまじく、久留米
の野戦病院から脱走してふたたび戦線に加わったという、
そういう悲痛な狂操ぶりも軍首脳に好感をもたせた。
薩軍が熊本からひきあげたあと、熊本城に入った乃木
にはひどく思いつめた様子があり、だれの目にも自殺
の危惧があったために、同郷の少佐児玉源 太郎がしき
りに説諭し、監視し、ついには監視しやすいように児玉
が上申して鎮台司令部付の参謀にした。(「殉死」)」乃木の自責はそれだけで終わらなかった。参謀の身でありながら、熊本城内から彼は不意に姿を消してしまったのだ。兵士たちは手分けをして乃木を捜し、行方不明三日後に山王山の奥で餓死しようとしている乃木を発見した。西南戦争以後、乃木の人柄はがらっと変わったように見えた。それ以前の乃木は、ダンディーな洒落者だったと陸軍大将田中義一は語っている。
「乃木将軍は若い時代は陸軍きってのハイカラであった。
着物でも紬のそろいで、角帯を締め、ゾロリとした風をし
て、あれでも軍人か、といわれたものだ」遊び人風だった乃木が、軍旗事件以後、表情に陰鬱の色が加わり、大酒を飲むようになった。そして、酒を飲めば必ず荒れるのである。しかし、乃木の変化にはまだ先があった。ドイツ留学後にもう一度彼の人柄は、がらりと変わるのである。
2西南戦争終了後、乃木は中佐に昇進し、東京に呼び戻されて歩兵第一連隊長に任命されている。西南戦争ではポカばかりしていた乃木が順調に昇進をしていったのは、彼の閲歴の中に陸軍の大ボス山県有朋の副官をしていたという事実があったからだ。乃木の出世はその後も続き、明治18年には37才で少将になり、熊本の旅団長になっている。そして、その翌年には、ドイツに留学しているのである。
この頃、陸軍では、不思議なことが行われていた。
軍制をフランス式からドイツ式に切り替えたという事情もあったろうが、少将や中将が次々にドイツ留学を命じられているのだ。森鴎外のようなドイツ語に精通していた若い尉官が留学を命じられるのなら理解できる。だが、乃木希典などの将官はドイツ語の素養がほとんどなく(フランス語をマスターしている者なら相当数いた。乃木もフランス語を解したといわれる)、年齢も中年に達していたのである。それが相継いでドイツに留学しているのだ。
ドイツに着いた乃木は、ドイツ軍大尉を教官にして作戦全般について学び始める。講義を聞いた後で、教官が出す練習問題に答案を書き、採点してもらうのである。乃木と同時に留学し、同じ教官から講義を受けた川上操六の進歩は目覚ましかったが、乃木は作戦よりもドイツ軍の服装や容儀に関心を抱いていた。
一年間の課程を終えて帰国した乃木は、時の陸軍大臣大山巌に留学報告書ともいうべき「意見具申書」を提出している。内容は二つあって、一つは「操典」の必要性を論じたもので、もう一つは軍人の服装・容儀に関するものだった。乃木の献策が陸軍によって採用された気配はない。しかし「意見具申書」を提出してからは、彼の生き方は急変する。司馬遼太郎はその変化をこう述べている。
「乃木少将(の態度)だけは一変した。紬の着物も着ず角帯も締
めず、料亭の出入はいっさいやめ、日常軍服を着用し、帰
宅しても脱がず、寝るときも──乃木式といわれ、死にい
たるまでひとを驚嘆せしめたことだが──寝巻を用いず、
軍服のままで寝た。
・・・・独逸人ならば洋式家屋で起居(あたりま
えだが)しているために洋服生活は自然であったが、畳の
上で生活をする乃木希典にとってはこの行態は傍目にはい
かにも窮屈であり、違和感があり、それがために傍目には
悲痛にさえみえた(「殉死」)」乃木は西南戦争で大失敗を演じたのだから、近代的な戦闘技術や作戦について本格的に勉強すべきだったのだ。だが、彼はドイツ留学の便宜をはかってもらいながら、指揮官としての基本を学ぶ代わりに、精神主義の方向に逸脱して行ったのである。
司馬遼太郎は、「精神主義は無能な者の隠れ簑であることが多い」と記したあとで、「乃木希典のばあいにはそういう作為はない」と保証している。だが、これは読者サービスのための断言であって、乃木の精神主義には自己を隠蔽しようとする偽装の面がかなり強いのである。
精神家乃木希典のモノマニアックな行動で、最も大きな被害を受けたのは彼の家族だった。乃木は30歳の時、10才年下の静子と結婚し、勝典、保典の二人の子供をもうけている。結婚生活は順調とはいえなかった。静子が二児をつれて別居したのは、乃木自身の乱酔癖のためでもあったが、乃木家に「口やかましい母と心の曲がった妹がいた」ためだったらしい。
彼は結婚式の当日、照れ隠しのためか予定の時刻より5時間も遅れて帰宅している。そして酒宴になると、同僚や部下と深酒をして杯盤の散乱する中に倒れ込んで起きあがることが出来なかった。彼は後述するように「そとづら」が極めて良く、多くの知友に愛されていたが、身内に対しては常に無理無体を押し通していたのである。
二人の息子は長じると、軍人になることを嫌がった。母親の静子も、子供を陸軍に入れることに反対だったが、乃木は委細構わず二人を陸軍に押し込んでいる。そのため、長男は陸軍士官学校に入学したものの、休日に帰宅すると、そのまま学校に戻ろうとしなかった。母の静子は勝典に同情して、これを機に士官学校を退学させたいと思ったけれども、それには夫の許可が必要だった。
この時乃木は、第十一師団師団長になって、四国の善通寺に単身赴任していた。思いあまった静子は夫と相談するため、四国に出かけた。静子が東京から四国まで汽車や船を乗り継いでやっと夫の間借りしていた金倉寺に辿り着いたのに、乃木は頑として妻に会おうとしなかった。当日は大晦日だったから、乃木は寺院内の自室に閑居して本を読んでいたのである。普通なら、一家の家長は帰省して年末年始を家族と共に過ごすところだが、彼はそうしないで任地から動かなかったのだ。
寺の住職があまりのことに立腹して乃木をなじったが、彼は平然としている。住職が静子を憐れんで、寺の別室に泊めてやろうとすると、乃木はそれも拒んだ。静子はやむを得ず多度津まで引き返して、そこで宿を取らなければならなかった。乃木が妻に会うことを拒否した理由は、バカバカしいの一語に尽きる。静子が事前に来訪する許可を得ていなかったからだというのだ。妻が切羽づまって手順を踏んでいる余裕がなかったと察していながら、乃木は妻に会うことを拒否し続けたのである。
更に愚かしいのは、これを美談として世人が寺の境内に石碑を建てたことだ。題して、「乃木将軍妻返しの松」というのである。日露戦争が始まり、休職中の乃木希典は呼び出されて第三軍の司令官になった。第三軍の任務はロシア軍の築いた旅順要塞を落とすことだったから、司令官には日清戦争で旅順攻撃を担当した乃木がよかろうということになったのである。乃木を任命した参謀本部も、任命された乃木も、前回の旅順戦が簡単にケリがついたので、旅順攻略を最初から楽観していた。大本営の方針は、「強襲ヲモッテ、一挙旅順城ヲ屠ル」というものであった。
第三軍参謀長として乃木に与えられたのは伊地知幸介で、少尉任官後にフランス陸軍に留学し、中尉になると今度はドイツ陸軍に入学したエリート参謀だった。彼は、「ロシア側の旅順配備は手薄」と予測して肉弾攻撃を計画していた。その後この予測を裏切るよう
な事実が出てきても、乃木も伊地知も最初の作戦を変えようとしなかった。司馬遼太郎は、乃木司令部の作戦についてこう言っている。「ともあれ、旅順の山なみを遠望しっつ乃木の軍司令部がたてた攻略計画ほど愚劣なものはなかったであろう。その作戦とは、要塞群の間隙を縫い、歩兵による中央突破を断行して一挙に旅順本要塞の郭内に入る、というものであった。この計画では敵の砲兵は眠っているにすぎず、敵の監視硝は盲人であるということを前提としているのであろう。ほとんど、童話といっていい。しかし、乃木も伊地知も正気であった(「殉死」)」
乃木と伊地知は、大本営や海軍から203高地が手薄だから直ぐ攻撃するようにと指示されても聞き流し、もっと強力な大砲が必要ではないかと問われても必要なしと答え、ひたすら無謀な肉弾攻撃を繰り返した。すべての助言に耳をふさぎ、連日夥しい戦死者を累積させて行く乃木司令部のやり方は、専門家の目から見れば、無能というより狂人の振る舞いに近いと思われた。この旅順攻撃戦で乃木は勝典、保典を戦死させている。
乃木が苦しんでいなかったわけではない。苦しみ悶えたあげく、彼のしたことは、昔と同じであった。
「 乃木は、戦場での死を求めるようになり、
しばしば戦線視察に出ようとし、出れば不必要なまでに
進出し、わざと敵の飛弾を浴びょうとした。その乃木の
挙動に副官たちは異常さを感じ、現場で制止したり、
監視したりした(「殉死」)」3
乃木司令部による絶望的な旅順攻略戦を打ち切らせ、瞬く間に旅順を陥落させたのは児玉源太郎だった。満州軍総参謀長だった児玉は、現地に乗り込んで乃木司令部の指揮権を奪い、自ら陣頭指揮して旅順要塞を落としたのだ。児玉源太郎の経歴を見ると、彼は何度となく乃木が失策した後をカバーする仕事をしている。最初は西南戦争で軍旗を敵に奪われて動揺した乃木を落ち着かせる仕事だった。次は、日清戦争後に台湾総督になった乃木が台湾統治失敗の責任を取って辞職したとき、その後を引き継いで台湾総督になり、島の治安を回復することに成功している。そして、今度は旅順攻略の作戦を転換させ乃木の失敗の尻ぬぐいをする仕事だったのである。児玉は乃木希典の無能を誰よりも知りながら、乃木の美点も承知していた。乃木には軍人の才能が全くなかった。乃木は旅順戦の後、奉天会戦に参加したが、ここでも大きな失敗をしている。だが、軍人としての才能がゼロに近い乃木ほど、軍人らしい男はいなかったのも事実だった。乃木は戦場では惨憺たる結果しか残せなかった。けれども、旅順戦の後に敵将ステッセルに示した態度などは誰にも真似の出来ないものだった。
司馬は、乃木がスッテセルと水師営で会見した場面を次のように書いている。
「乃木は降将ステッセル以下
に帯剣をゆるし、またアメリカ人映画技師がこの模様を逐
一映画に撮ろうとしてその許可方を懇望してきたが、乃木
はその副官をして慇懃に断わらしめた。敵将にとってあと
あとまで恥が残るような写真をとらせることは日本の武士
道がゆるさない、というものであり、このことばは外国特
派員のすべてを感動させた(「殉死」)」また、「日本の百年(筑摩書房)」の著者は、乃木がアメリカからやってきた老写真師をいたわって相手の宿舎に果物の篭を届けた挿話を記したあとで、乃木の性格をこう説明している。
「乃木のなかにある悲劇的なストイシズムは、激情的な人
情愛と結びついて、一種の謎めいた印象を与えることがあ
った。冷血と素朴な人情との不思議な結合がその人がらで
あった」戦争が終わって凱旋した乃木は、第三軍司令官として明治天皇に拝謁して報告を行った。
「このあと、自分の戦闘経過を記述した復命書にも、『旅順ノ攻
城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天附近
ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠乏ニ因り退路遮断ノ任務ヲ全クスル
ニ至ラズ。又敵騎大集団ノ我左側背ニ行動スルニ当り、コ
レヲ撃推スルノ好機ヲ獲ザリシハ、臣ガ終生ノ遺憾ニシテ
恐懼措ク能ハザル所ナリ』と書いている。自分の屈辱をこの
ように明文して奏上する勇気と醇気は、おそらく乃木以外の
どの軍人にもないであろう。この復命書を児玉が私(ひそか)
に読んだとき、
『これが乃木だ』
と、その畏敬する友人のために讃美した。児玉にとって
乃木ほど無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあま
りな無能さのゆえに殺したいはどに腹だたしかったが、し
かし軍事技術以外の場面になってしまえば児玉は乃木のよ
うなまねはできない自分を知っていた(「殉死」)」乃木には確かに人間としての美点が少なくなかった。司馬遼太郎は、乃木が自分を常に悲壮美の世界に置き、自らに酔う精神の演技者だったといっている。だが、彼が見え透いた自己劇化を繰り返したのは、その性格の中に根深い劣等感と女性的なナルシシズムが絡み合う形で混在していたからではないかと思われる。
司馬は、乃木が殉死する前に近所の写真師を呼んで写真を撮らせていることを弁護するためか、彼は昔から写真を撮らせることが好きだったと強調している。が、彼が新聞記者に写真を撮らせるだけでなく、自分でも写真師を呼んで写真をとらせていたのは、自己愛の欲求と無関係ではなかった。
大体、日清・日露の戦争に参加した将軍のうちで、乃木だけが生前から聖将だの軍神だのと喧伝されること自体がおかしいのである。姉崎嘲風も、「御大葬の当日に自殺するがごとき、何等か芝居気染みたり」と指摘しているという。古武士的だったといわれる乃木の行動には、ウケ狙いのスタンドプレーと思われるものが多い。「御馳走する」と予告して客を呼んでおいて、出されたものは蕎麦だけだったというような話が目につきすぎるのである。
劇的なことの好きなナルシストが演じる最後にして最大の演技は、自殺にほかならない。三島由紀夫は、空襲警報が鳴ると真っ先に防空壕に逃げ込むほど臆病だったが、切腹自殺をしている。彼が敢えて切腹という壮絶な死に方を選んだのは、生来の臆病を上回るほどナルシシズムが強かったからだ。生命よりも「名を惜しむ」気持ちの方が勝っていたのである。
三島の場合と違って、乃木には死を望む切実な理由があった。明治世代の人々は乃木殉死の必然性を理解し、その点に共感したから彼の死に対して惜しみない敬意を払った。が、大正世代の若者は乃木の自殺をウケ狙いのスタンドプレーとしか解しなかった。そして乃木希典の妻静子も、大正世代に近い目で殉死を見ていたと思われるのである。
乃木が殉死する少し前、乃木邸に家人や親類の者が集まって雑談していたことがある。妻の静子は、皆の集まっていることに勇気を得て前々から気にしていた問題を持ち出した。夫と二人だけの時には切り出せなかった話題である。
「跡目のことですけど、天子様さえ御定命のことはどうにもなりません。あなたにもしものことが、私が難渋します」
「べつに、こまりはすまい」と乃木はいった、「もし困ると思うなら、お前もわしと一緒に死ねばよかろう」
「いやでございます」と静子はハッキリといった、「わたくしはこれからせいぜい長生きをして、芝居を見たり、おいしいものを食べたりして、楽しく生きたいと思っているのでございますもの」静子がこれだけのことを言ってのけたのは、前述のように親戚の者たちが同席していたからだった。結婚生活34年の間、彼女には楽しいことが何一つなかった。頼りにしていた二人の息子にも死なれて、最早、先のよろこびもない。夫と死別したら、まず人生を楽しみたいというのが彼女の正直な気持ちだったのである。
──いよいよ、御大葬の日がやってきた。
乃木は前夜に予約しておいた近所の写真師がくると、「今日の写真は自然な格好がいいだろう」といって新聞を読むポーズをとった。しかし服は陸軍大将の礼装で、胸にはありったけの勲章を並べた。静子はまだ夫の決意を知らなかったから、乃木が御大葬に参列するものと思っていた。その点を確かめると、夫は、「行かぬ」という。夕刻になって彼女が二階の乃木の部屋の戸を開けようとしたら、鍵がかかっていた。乃木が室内から、書生や女中を御大葬の拝観に出かけさせるように命じた。
書生と女中を外に出して静子が二階に戻ると、鍵がはずしてある。乃木は軍服姿で端座していた。かたわらに軍刀が置いてある。窓の下の小机に、「遺言状」と墨書した封筒が乗っている。
「察しての通りだ」と乃木はいった、「午後八時に御霊柩が宮城を出る。号砲が鳴る。そのときに自分は自決する」
午後八時までには15分しかなかった。乃木が葡萄酒を求めたので、静子は階下の台所に行って、そこに来ていた姉の馬場サダ子と姉の孫英子と言葉を交わし、二階に戻った。乃木は葡萄酒を静子に注いでやって別れの盃を交わした。──分かっているのはこのへんまでである。
乃木と静子は話しているうちに、静子も死ぬことになったらしかった。それまでは、乃木も妻を道ずれにするつもりはなかったから、遺言状の宛名に静子の名前もあり、妻に言い残す言葉もちゃんと添えられていたのである。
階下にいた姉の耳に、不意に静子の叫ぶ声が聞こえてきた。
「今夜だけは」
姉は緊張して息を詰めた。そのあと、意味の聞き取れない疳のこもった声が二、三続いた。少しの間があり、二階から重い石を畳に落としたような音が聞こえてきた。姉は階段を駆け上り、鍵穴から乃木の名を呼んで必死に叫んだ。彼女は妹が乃木に折檻されていると思ったのである。
「静子に罪があるなら、私が幾重にもお詫びします」
室内から、乃木の返事が聞こえてきたが、何と言っているのか意味は聞き取れなかった。静子は恐らく夫と一緒に死ぬ積もりになったものの、女の身で色々始末しておきたいものがあったに違いない。それで今夜だけはと頼んだのだが、乃木が叱りつけて即座に自死を決行させたのだろう。静子は短刀で三度自ら胸を刺したけれども、死にきれなかった。次は司馬の推測である。
「(刺し傷は)浅かった。希典が手伝わざるをえなかっ
たであろう。状況を想像すれば希典は畳の上に、短刀をコ
ブシをもって逆に植え、それへ静子の体をかぶせ、切先を
左胸部にあてて力をくわえた。これが致命傷になった。刃
は心臓右室をつらぬき、しかも背の骨にあたって短刀の切
先が欠けていた(「殉死」)」。この状況を想像すれば、静子は無理心中で殺されたような印象を受ける。まさに惨劇だったのである。