ネズミと暮らしていた頃

今年の猛暑がもたらしたものに、ヤブ蚊の急増という現象がある。畑の草を鎌で刈り取っていると、草むらの中に潜んでいた蚊が次々に襲ってくるのだ。こんなことは、今までになかったことである。急増したのはヤブ蚊ばかりではなかった。ネズミも又、急に家の中を跳梁するようになったのだ。

9月中旬の晴れた日のことだった。

二階の自室でパソコンに向かっていると、ドーナツを包んだ紙が風に煽られて、カサコソと音を立てはじめた。ドーナツは、二つ並べて配置してある机の、隣の机に置いてある。

カサコソという音が、いつまでも続くので不審に思って隣の机を見ると、ひどくちっぽけなネズミが紙の隙間に首を突っ込んでドーナツを食べているのだった。ネズミは、白昼、私が手を伸ばせば届くところまで接近して来て、平気でエサを漁っているのである。生まれて間もないネズミらしいから、まだ人間への警戒心を持っていないようだった。

これ以来、ちょいちょい小ネズミを見かけるようになった。真っ昼間、部屋のあちこちに出没するネズミを見ていると、精米屋の物置に間借りしていた独身時代が思い出された。その物置には、おびただしいネズミが棲み着いていたのである。

そのネズミだらけの物置を借りられるように周旋してくれたのは、Kという友人だった。級友のKと私は、東京郊外と都心を結ぶ同じ路線の電車で通学していたから、しょっちゅう顔を合わせていたが、特に親しいというわけではなかった。そのKに「どこかに部屋を貸してくれるような農家はないかな」と相談を持ちかけたのは、私が中高併設の私立学園に就職することが決まったときだった。
 
Kの家は、畑や田んぼがうち続く村部にあり、K自身の家もかなり大きな農家だったから、彼なら貧乏教員に部屋を貸してくれそうな農家を知っているかも知れないと思ったのだ。時代は敗戦から3年たったばかりで、新卒の学校教師には、高い敷金を払ってアパートを借りるような余裕がなかったのである。

すると、Kは心当たりがないではないといって、近所に隠居所を持っている精米屋があり、その隠居所は今空き家になっているから、貸してくれるかも知れないと教えてくれた。

「それは、ありがたい。オレは、卒業したら今の下宿を出ることになっているんだよ」と打ち明けると、Kはこともなげに、「だったら、オレんとこに来いよ。精米屋の方も、隠居所を貸すということになれば、あちこち手入れする必要が出てきて、すぐに入居という訳にはいかないよ。だから、うちに来て待機していればいい」というのである。

願ってもない話だったから、私は下宿をしていた知人の家を引き払って、早速、Kの部屋に移った。そして一ヶ月近くも、Kの部屋で暮らすことになったのだ。彼と同居しているうちに、裕福な農家の長男で、おっとり育てられてきたと思っていたKが、私などの及びも付かない行動的な人物であることが分かってきた。

Kの家は、立派な構えで部屋数も多かったのに、彼は母屋から離れた倉庫の突端に中二階形式の小部屋を取り付けて、そこで寝起きしていた。部屋の骨組みだけを大工に頼み、後は全部自分で作ったということで、外から見るとその部屋は宙に浮いた鳩小屋という感じだった。この部屋に入るには、まず、ハシゴを使って床の真ん中にあけられた四角な穴をくぐり抜けなければならない。そして部屋に入ったら、風呂に蓋をするように、その四角な穴を板でふさぎ、下から吹き込む風を防ぐのである。部屋は六畳の広さで、そこに机と椅子に本箱を持ち込んでいるから、室内はいよいよ狭くなる。そんなところに、Kと私は毎晩枕を並べて寝ることになったのだ。

Kがそんなにまでして家族から自分を隔離すべく努力しているのは、両親や弟妹とは異なる自己のアイデンティティーを確保するためだった。この一ヶ月間、彼は私と政治論議、思想論議を戦わせながら、自分の恋物語について話してくれた。彼が叔母の家に行って、部屋に一人でいたら、従妹が走り込んできてKを押し倒すようにして接吻したというのだ。

「おとなしい奴でね、そんなことをする娘には見えなかったんだが」と彼はため息をついたが、私からすれば温和な彼がそんな恋をしていたとは想像すらしていなかったのである。

精米屋の主人との交渉でも、Kは実務能力を発揮した。

Kは、私が彼の部屋に転がり込むと直ぐに私を引っ張って精米屋を訪ね、隠居所を貸してくれるように交渉をはじめた。だが、主人の反応はよくなかった。主人には、隠居所について何か計画があるようだった。私は直感的に、この話は見込みがないなと感じて、帰途についたときに、「よそを探した方がよさそうだな」と言ったが、Kは、「いや、何とかなるよ」と泰然自若としている。そして、暫くすると、また、精米屋を一緒に訪ねることを提案する。

気乗りがしなかったが、Kの後について精米屋に行くと、彼は隠居所の話をしないで主人と世間話ばかりしている。そして、一時間あまりすると、何の成果もないままに、あっさりと引き上げる。こんなことを繰り返しているうちに一ヶ月が過ぎ、頑なだった精米屋の主人が、隠居所はお貸しできないが物置でよければタダで貸してあげると言い出したのである。

私は勘定高そうな主人の表情を見て、これはダメだなと簡単に諦めてしまった。だが、Kの方は私を精米屋に連れて行って、私という人間を相手に馴染ませれば、主人も情に絡まれて態度を変えてくるはずだと読んでいたのである。

雨露をしのげればどんなところでもいいと思っていたが、タダで貸してくれるという物置の中に入ったときには、少なからず驚いた。まわりを土蔵のように土壁で厳重に塗り固め、入り口にも重い板戸が付いているけれども、内部には使われなくなった精米機器やら道具類がゴタゴタ押し込んであり、しかも足下には床板がなくてコンクリートの土間になっているから階下で寝起きするわけにはいかない。

二階に上がろうにも階段がなく、Kの部屋と同じで四角な穴が天井に開いているだけだった。ここでもまたハシゴを使ってこの穴から二階に上がるしかない。二階は文字通りの屋根裏になっていて、立って歩くことが出来るのは棟の下だけで端の方に行くと背中を丸めなければならなかった。その二階にも道具類が収納されていて、居住空間は窓際の四畳ほどしかないのだ。精米屋の主人は、そこに古畳四枚を敷いて、夜に寝られるようにしてくれていた。

今なら、誰でも「こんなところで暮らせというのか」と怒り出すようなところだったが、その頃の住宅事情ではあまり不平は言えなかったのだ、まして、主人はタダで貸してくれるというのだから。こうして、私の二年に及ぶネズミとの共同生活が始まったのである。

精米屋の物置に移ってからしばらくして、田舎の母親が様子を見に訪ねてきた。自炊して暮らしているという息子のことが心配になったのだ。

母は、すっかりびっくり仰天したらしい───がらくたを詰め込んだ物置の二階に万年床を敷いて、私がネズミと一緒に暮らしているのを見たからだ。肥満気味の母は、二階に上がるのに、危険を冒して植木屋が使うようなハシゴを上らねばならなかったのだ。

私が自炊をしていると聞かされていたのに、物置には台所もないし、トイレもないのだ。飯を炊く時には、戸外にある手押しポンプ式井戸で米を洗い、七輪を軒先に置いて炭火で炊かねばならない。そして、雨が降れば、傘をさして、畑の隅の外便所に走るのである。

母は息子とゆっくり話せるように日曜日にやってきたのだが、折悪しく勤務先の学校に用事ができて、私は急に登校することになった。それで母を物置に残して駅に急いだら、これから畑に向かうところだというKとぱったり顔を合わせた。Kは、思わしい就職口がなかったので家にいるのだった。

「どこに行くんだ?」
と、Kに質問されて、「学校だよ。お袋が来ているのに、呼び出されたんだ」と答える。
「そうか、たいへんだな」といって彼は畑の方に歩いて行った。

結局、学校の用事は午後までかかり、私は急いで精米屋に戻った。これから母を泊める場所を探す必要があったのだ。まさか、物置の二階に母を泊めるわけにはいかない。連れだって駅に向かう道すがら、母はこんな話をした。

「お前の留守中にKさんが、来てくれたよ」

Kは一人で物置に取り残された私の母が退屈しているだろうと思って、物置にやってきて話し相手になってくれたらしかった。「Kさんって、面白い人だね。ボクは、どんな偉い人とでも対等に話せるといっていたよ」と母。

母がKに、わざわざ来てもらって申し訳ないと礼をいったら、Kは自分の特技は誰とでも話せることだといって母を安心させたのだ。実際、Kはいろいろな人間と話をすることを楽しみにしていた。

──母は田舎に帰ってから、家族や親戚などに私の暮らしぶりを一つ話のように話したらしかった。帰省したときに私は、知り合いから「えらいところに住んでいるんだってね」とよく話しかけられた。だが、母が物置で一夜を過ごしたとしたら、もっと驚いたに違いない。

物置に移ってすぐに、ネズミが多いらしいことを感じたが、昼間のうちはあまり気にならなかった。ネズミというのは、人間が寝静まってから活動を開始するのである。私がびっくり仰天したのは、電灯を消して床についてからだった、二階のあちこちからネズミの動き回る気配が一斉にはじまったのだ。

ネズミが走ったり、堅いものをカリカリ囓ったりしても、それほど気にならなかった。問題は、歯で紙を引き裂く高い音で、これが変に神経を逆なでにするのである。ネズミは子供を生む前にお椀型をした巣を作るのだが、その巣作りの素材として藁くずやボロのほかに細長くちぎった紙を使用する。あっちでも、こっちでも母ネズミが競って巣を作るから、ピリピリ、ビリビリという音が絶えなく聞こえてくるのだ。いったい、彼らは材料になる紙をどこから持ってくるのだろうか。

最初の夜も、次の日の夜も、そのまた次の夜も、ネズミが紙を裂く音が気になって寝付けない。ノイローゼになった私は、正気の沙汰とは思えないような阿呆なことをした。「にゃー、にやー」と暗闇に向かって、猫のなき声をしたのである。

当時、米は配給制だったから、配給所にいって買ってきた貴重な米をネズミに食われてはならなかった。そこで米を麻の袋に入れて、頭上の梁に吊しておくことにした。この袋は口を巾着袋のように紐で閉じる仕掛けになっているので、いかにネズミでも内に入り込むことができないと思ったのだ。

翌日、帰宅してハシゴを登り、階上の机の前に座ろうとしたとき、肩が麻袋にぶつかった。すると、驚くべきことが起きた。キッチリ口を閉じておいたはずなのに、袋の中から子ネズミが現れて、紐を伝って梁に上がり、暗闇に姿を消したのである。ボー然としていると、その後に続いて、袋の中から次々にネズミが姿を現すのだ、二匹、三匹、四匹・・・・

もっと驚くべきことが起きた。

私は田舎から出て来るときに、布団のほかに短冊型の経机を持参した。学生の頃、この机の前にあぐらをかいて座り、本を読んだりレポートを書いたりしていたのだった。物置の二階に移ってからも、この机を壁際に置いて、授業の下調べなどをしていた。

夜、この経机に向かって本を読んでいたら、目の前の土壁に埋め込んである横柱の縁に子ネズミが現れ、一方から他方へ通り過ぎていった。その横柱は土壁の中に塗り込んであるけれども、その一部が壁の外にはみ出ている。といっても、はみ出ているのは1〜2センチに過ぎない。その僅か1〜2センチ幅の上端を廊下のように使ってネズミが通り過ぎたのである。

やがて一匹が通り過ぎると、次の一匹がその後を追い、何時の間にやらネズミの往来が絶えないようになった。山深い森の中などに「けものみち」が出来るというけれども、ネズミも「ネズミみち」を作って移動する習性があるらしかった。古今亭志ん生の自伝を読むと、「ナメクジの艦隊」という話が載っている。貧乏時代の彼の借家にナメクジが這い回り、艦隊のようだったというのだが、その伝でいえば、目の前に見るネズミの行列はネズミの騎馬隊ということになる。

ネズミの騎馬隊は、目の前50センチの至近距離を行き来しているのだから、手袋をはめて片っ端からネズミをつかみ取ることも可能だった。捉まえたネズミを袋に入れて用水路にでも放り込めば、少しは彼らの数も減るかもしれない。が、ネズミの鋭い歯をみると、下手に掴んだりすると噛みつかれそうで怖くなる。私は天性の臆病者なのである。

それから、こんなこともあった。

ある日、帰宅して壁に掛けてあった衣類を取ろうとして手を伸ばしたら、ぐにゃりとした暖かなかたまりを掴んだ。とっさに、(あ、ネズミだ)と思って、振り払ってから、よくよく見たらコウモリだった。物置の窓は、ガラス戸ではなく全面板の板戸になっている関係で、私は採光のため窓を昼夜開け放しにしていた。それで、コウモリも平気で窓から出入りするようになり、天井裏に住み着いていたのだ。

とにかく、ネズミはあきれるほどたくさんいたのである。だが、私が見かけるのは、ほとんど子ネズミばかりだった。子ネズミは、まだ生きることに拙だから、人を恐れることを知らない。空のバケツに落ち込んで息絶えたり、私が飯を炊く鍋に入り込んで外に出られなくなったりするのは、そのためだった。こんな子ネズミだから、猫の格好な獲物になるのである。

私は、物置を餌場にしている猫を見たときの驚きを忘れることが出来ない。その猫は精米屋近辺をテリトリーにして、ほかの野良猫を寄せ付けないでいる凶悪なボス猫だった。彼は、毎日好きなだけ子ネズミを食べているために骨格から何から猫のレベルを超えて大きくなり、見たところ中型犬並の大きさになっていた。凄みのあるのがその猫の目で、まさに猛獣の冷たく据わった目なのである。

・・・・というような話をしていると切りがないが、私が物語ろうとしたのは、このネズミと一緒に暮らした精米屋寄留時代こそが、私の人生で一番幸福な時代だったらしいということなのである。

───あれから、20年後、私は郷里で高校教師をしていた。担当教科は社会科だった。社会科という教科はいくつもに細分されていて、そのなかに「倫理社会」という科目が含まれている。その頃、私は「日本史」「世界史」のほかに、この科目も担当していたのだった。

「倫理社会」の教授法には、思想史的授業法とテーマ別授業法の二つがあり、一般的には思想史的授業法を採用するのが普通だったが、ある年、テーマ別の授業を試みたことがある。テーマ別授業とは、「友情と恋愛」とか、「人権」とか、具体的なテーマをとりあげて、それについて討議し、考察をする授業だ。

このテーマ別授業で「幸福」について取り上げたとき、私は授業に先立って自身の体験を反芻し、これまでに一番幸福だった時期は何時だったろうかと考えてみた。すると、意外なことに、精米屋の物置で暮らしていた二年間が頭に浮かんできたのである。

あの物置での生活は、不都合なことだらけだった。台所も水道もない物置での自炊は、不便この上なかったし、それに物置の中に巣くっていたあのおびただしいネズミどもである。精米屋の物置は、2〜3ヶ月もすれば、誰でも白旗あげて逃げ出すようなところだったが、私は二年間もあそこに腰を据えて動かなかったのだ。

なぜかといえば、あの頃の私が求めていたのは、誰の干渉も受けない住居であり、誰に気をつかう必要もない部屋だったからだ。つまり、私は完全自由な居住空間を求めていたのである。

旧制中学を出て上京してからは、全寮制の学生寮に放り込まれ、戦争が敗色濃厚になって工場に動員されれば、工場の寮に入れられた。そして、徴兵されたら、今度は新兵いじめの横行する兵営での集団生活が待っていた。こうして日本が戦争に負けるまで、私は鶏舎のニワトリのような集団生活を余儀なくされ続けたのだ。

戦後には、知人宅で間借りをすることになった。そこには集団生活に伴う煩瑣な規則や仲間同士の揉め事がなかった。そのかわりに、知人の家族に気を遣って暮らさなければならなかった。だから、私は、ひたすら誰にも干渉されない自由な生活をもとめていたのだ。

物置は精米屋の家族が暮らす母屋や、精米作業所とは別棟になっており、まわりを田んぼや畑で囲まれていて、一日中ひっそりしていた。ネズミには悩まされたけれども、精米屋の物置は、「単独生活者の一人暮らし」を夢想していた私にとっては、まず、申し分ないところだったのである。それに、家賃がタダの自炊生活は、とにかく安上がりだった。薄給の新米教師だったにもかかわらず、月給の半分あれば暮らして行けたのである。

私は就職祝いに実家で作ってくれた背広一着で夏冬を過ごし、特に欲しいと思うものは何もなかった。食事も、配給の米を七輪で炊いて、納豆で食べていれば、満足だったから、毎月、相当額の金が残るのは当然のことだったのだ。

懐が豊かになったので、古本屋めぐりに精を出すようになった。在学中は、学生運動に明け暮れて、落ち着いて本を読む時間がなかった。私は就職してから、遅ればせながら古本屋で大塚久雄の史学や丸山真男の政治学論攷に関する本を探して目を通すようになり、そして、また、、武田泰淳や坂口安吾の小説を耽読するようになったのだった。

土曜日は、本当に楽しかった。

授業を済ませて、電車に乗り帰途につく。その途中のいくつかの駅で下車して、行きつけの古本屋を訪れるのである。古本屋のガラス戸をくぐると、宝の山に入ったような気がするのだ。店内には、知的な喜びや官能的な興奮をもたらしてくれる本が、ぎっしり並んでいるのである。その店をでると、また電車に乗って別の駅で降りる。そこにも行きつけの本屋があるのだ。

何冊かの古本を仕入れて、精米屋に通じる駅で降りる。駅前の商店街を抜けると、風景は一変して田舎道になる。道のあちこちにキャベツ畑があって、モンシロチョウ、モンキチョウが群がり集まっている。キャベツが列をなして並ぶ畑の上方一面に蝶が群がるありさまは、紙吹雪を散らしたようだった。

そんな長閑な光景を眺めながら帰途をたどる胸の中は、喜びではち切れんばかりだったのだ。これから、あの物置で、誰にも邪魔されずに本を読むことが出来るのだ、そう思うと、読書の喜びが、早くも胸にこみ上げてくるのである。

本に読みふけっていると、心に光の灯籠のようなものが出現する。そして、それが室内いっぱいに拡がり、自分が灯籠の核心にいるような気がしてくるのだ。

光の灯籠は、至る所に現れた。

駅で降りて商店街を抜け、田舎道にさしかかれば、キャベツ畑を点綴したまわりの光景がそのままで光の灯籠に変わり、帰途をたどる自分がその核心にいた。

──私は、物置に向かって歩いて行く20年前の自分の後ろ姿を眺める。その後ろ姿は、喜びにあふれ、その喜びのなかで精神の純一状態が保たれていた。

一番幸福な時期は何時だったかと自問したとき、私が自然に物置での二年間を思い浮かべたのは、私が物置の二階という他人に煩わされない孤独な「場」を持っていたからであり、それに加えて、好きな本を耽読するという純一行動があったからではなかろうか。とすれば、人間が幸福になるための必要条件は、私的空間を超えて地球そのものを自己本来の「場」と考え、そしてその「場」において善をなそうとする純一な気持ちを持ち続けることなのだ。

私はこれまでに物置で暮らした二年間ほど、たくさんの本を読んだことはない。土曜日の夜は、大体、夜を徹して本を読み、起き出すのは翌日の正午頃になった。私が眠い目をこすって軒先で朝飯を炊いていると、精米屋のおかみさんがよく声をかけたものだった。

「そんなに寝ていて、よく目が溶けてしまわないわね」

私が返事に窮して、「いや、目は大丈夫ですよ」と答える。すると、そのトンチンカンな返事がおかしいといって、おかみさんは大いに笑うのである。

学生時代に同じ路線の電車で通っていたもう一人の級友Aは、大手の出版社に就職していた。彼は、たまに電車の中で会うと、「昨夜は、来日したソ連バレー団の公演を見に行ってきたよ」というような話をしてくれた。そして、「あんたも東京にいるんだから、精々、新劇の芝居やバレーを見ておいた方がいいぞ」と忠告してくれた。Aは私にこんなことをいうこともあった。

「君は、よく本を読んでいるけど、ちっとも偉くならないなあ」

Aが偉くなるというのは、人間的に立派になるという意味だったが、当時の私はそういう意味で偉くなることを拒否するために本を読んでいたのだった。宮沢賢治風にいえば、褒められもしないし、くさされもしない普通のひとになることを目指して本を読んでいたのだ。

───私が就職して二年で田舎に引き上げることになったのは、潜伏状態にあった結核が悪化したからだった。病気を悪化させたのは、食うものもろくに食わないで、精米屋の物置で夜更かしを続けたためだったかもしれない。

私はその後、精米屋のあった村を訪ねていない。だが、高度成長期を経て、あの辺がすっかり変わってしまったことは知っている。そのことは、私があの地にいた頃**村だったのに、大量の都民がなだれ込んだ後には、地名が**市に変わっていることでも分かる。

私は、50過ぎになってから、思いついて「単純な生活」という自費出版の本をだした。いろいろと世話になったKに一冊を献上したら、彼は、「こっちは<甘い生活>を送っている。その罰で、糖尿病になってしまったよ」と自嘲混じりの返事をよこした。開発ブームに乗って、Kも大いに潤ったらしかった。

Kは金満家などにならず、話し好き、世話好きの教員でいた方が幸福だったのではないかと思う。私が田舎に引き上げてから、Kは教員になっている。教師としての彼は、生徒からも、父母からも愛され、周囲の信頼は厚かったと聞いているけれども、「にわか成金」になったことで、そのうるわしい生活が狂ってしまったのである。

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