中里介山の「大菩薩峠」

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「大菩薩峠」の作者・中里介山といっても、知らない人の方が多いだろうと思う。私も、中里介山の名前だけは聞いていたが、戦後、上京するまでは彼に全く関心がなかった。ところが、病気で一年休学して復学することになったとき、好意から部屋を貸してくれた知人の家に、「大菩薩峠」全巻があったのである。

東京での生活が落ち着いてから、「大菩薩峠」を借りて一巻目から読み始めた。地の文が、「です、ます」調で書かれているので、まるで講談師の口演を聞いているような気がした。だが、主人公の「机竜之助」は、勧善懲悪の講談には絶対に出てこないようなニヒルな剣客で興味をひかれた。何しろ彼は、作品の中に登場したと思ったら、巡礼の老人をいきなり斬り殺してしまうのだ。理由は、だだ辻斬りをしたくなったからなのだ。

こういう男だから、御岳山上の奉納試合で兄弟弟子の宇津木文之丞と戦うことになったとき、相手を撃ち殺してしまう。そして、試合前にひそかに机竜之助を訪ねてきて、せめて試合を引き分けにしてほしいと懇願した宇津木の内妻お浜を犯して、自分の女にしてしまうのだ。そこで、宇津木の弟の宇津木兵馬は、兄を殺し、兄嫁を奪った冷血無惨な机竜之助を不倶戴天の仇としてつけ狙うことになる。

「大菩薩峠」を読んでいて面白かったのは、ここまでだった。二巻目以降になると、机の存在はどこかに行ってしまって、顔半分に火傷の痕があるために何時も頭巾をかぶっているお銀さまやら、俊足の盗賊・裏宿の七兵衛が現れて、誰が主人公であるか分からなくなる。ストーリーは、逃げる机とお浜を宇津木兵馬が追うという形で展開するはずだったのに、業を背負った男女らの大曼荼羅絵巻に変わってしまうのである。

ところが不思議なのは、「大菩薩峠」の人気だった。私は二、三巻目で投げ出してしまったのに、本を読むという習慣が全くない知人の家に、「大菩薩峠」だけが全巻揃って並んでいる。中里介山の「大菩薩峠」の愛読者は、当時の実業界の大物から、皇族に至るまで数限りなくいたらしいのだ(渋沢栄一や大正天皇の皇后である貞明皇后も「大菩薩峠」の愛読者だったという)。

中里介山を愛読する作家や評論家も多かった。芥川龍之介、谷崎潤一郎、宮沢賢治、大宅壮一などは絶賛に近いほどに「大菩薩峠」を評価しているし、その流れは現在にも及び、桑原武夫、鶴見俊輔、堀田善衛などもこの作品に関心を持ち、その分析を試みているのだ。

遅ればせながら、私が中里介山に興味を持ち始めたのは、本屋の店頭で尾崎秀樹の「中里介山」という本を立ち読みしたことが機縁になっている。同書の最初のページに、こうあったのである。

  隣人より村落へ─村落より都会へ─都会より国家へ
    国家より人類へ─人類より万有へ─万有より本尊へ

  
私は、この本を購入して読んでみたけれども、半分ほど読んだところでストップしてしまった。中里介山の評伝を読むには、最小限「大菩薩峠」を読み通していなければならないらしかったが、とてもあの大曼荼羅絵巻を読み通す勇気はなかったからだ。「大菩薩峠」は大正二年から書き始められ、昭和十六年まで、延々三十年近くを要して書き継がれ、原稿用紙にして2万枚に及ぶ大作なのである。しかも、未だに完結していないのだ。

とても中里の作品を読む気がしないので、せめてもと思って別の著者による中里の評伝を手に入れて読んでみた。松本健一の「中里介山」である。この方は、「大菩薩峠」の分析が中心になっているから、作品を読んでおく必要がますます強くなっている。だが、やはり今はそんな余裕はない。で、順序を逆にして、先に中里の人間像を明らかにしおいて、「大菩薩峠」を読むのはそのあとに回すことにしたのである。

そんなわけで、ここには、松本健一氏の本から、氏のまとめた「大菩薩峠」梗概の文を拝借し、作品紹介に代えておくことにする。

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<(作品の)主人公は机竜之助であり、かれこそは中里介山の自画像である。そうおもって、音無しの構えを得意とする盲目の剣士・机竜之助の顔をひとり合点に想い浮かべていると、その顔の横には、宇津木文之丞の内縁の妻で、机竜之助にょって犯され、かれの子を生みながらも、はてはかれによって殺されてしまうお浜の顔が浮かびでてくる。かの女の顔は、机竜之助の目の治療代をつくろうと遊女屋に身売りしたお豊の顔に重なり、また御高祖頭巾に火傷の顔をつつんだお銀さまの顔に重なりもするのだ。

そうして、お銀さまの顔の横には酒乱で悪旗本の神尾主騰が、あるいはがんりきの百蔵.裏宿の七兵衛、清澄の茂太郎、盲目僧の弁信、十八文の道庵先生、お松、宇治の米友、馬鹿の与八などが、つぎつぎと浮かびでて机竜之助の顔はついにかれらのただなかに埋もれてしまう。これは、作者中里介山の足跡が歴史の草叢にまぎれてしまうのと同じである。

『大菩薩峠』では、これらいくにんもいくにんもの人間が、生と邂逅と愛憎と別離と死とのドラマをくりひろげる。そこでは、個々においてはあれほど明瞭な顔かたちをもって登場していた人物たちが、結局のところ、区別を必要とされなくなってしまう。悪旗本の神尾主謄は、進歩的な善人旗本の駒井能登守に対峠しながら、ついには読者のなかに親しく住みついてしまうのである。

かくして、個々の人物にかわって小説の前面におしだされてくるのは、人間の生きざまという、懐かしくも哀しい風景である。善悪ともに、人間の内部に存することによって、ひとは生きてゆくことじたいにおいて、修羅たらざるをえない。それが哀しくないはずがあろうか。そう、介山はいいたそうである>。

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中里介山は、27歳になったとき、勤務していた都新聞社の仲間に呼びかけて、「独身会」というサークルを作った。そして、「独身」という同人雑誌まで発行したが、ほどなく発禁処分を受けたため、この方はやむなく廃刊にしている。

尾崎秀樹は、その著「中里介山」の中で、中里が生涯独身を通したのは、「世人が妻子のために払う労力を世の中のために振り向けたい」という念願からだと解説している。彼は生涯を通して「世の中のため」に 努力しているから、結婚しなかったのはそのためだとという説にはかなり説得力がある。

だが、彼には、ホイットマンのように放浪を求める性癖があった。ホイットマンは、「ローファー」(放浪者)として生涯を過ごした詩人で、彼はその放浪の過程で、宇宙万物は同根であるという思想に到達している。

中里も、作家生活に入ってから人生の三分の一を旅で過ごしたと言われるほど旅行を好んでいた。そして、彼はホイットマンと同じように、万有宇宙と一体化する思想を抱くようになった。ホイットマンとの類似は、まだまだある。ホイットマンは、小学校すら途中退学したほどで、学歴らしいものをほとんどなかった。彼は新聞社の見習い植字工をしながら本を読む習慣を身につけたのだが、中里も当時の4年制小学校を卒業後、三年制の高等科に進んだだけだから、今で言えば中学一年生程度の学歴しか持っていない。中里も、ホイットマンのように独学で和・漢・洋の教養を身につけたのだ。

しかし中里介山自身にいわせると、彼の独身主義は、幼少時代の家庭環境から来ているという。

<そもそも私をして斯く家庭嫌ひにならしめた動機といふものは、自分の天性も性癖もありませうけれども、幼少時代の余りに苛酷なる家庭を見せつけられたからで・・・・生涯斯様な苦を負ふて人生に再行路をつゞけるに堪へられない、出来るだけ之を脱却し、退避しなければならぬといふ観念が牢乎として植付けられてゐたのかも知れません>。

中里介山は、東京郊外の多摩川のほとり、三多磨といわれる地方の豊かな農家に生まれた。ところが、父親というのが百姓仕事の嫌いな怠け者で、たまに畑に出るときにも着流しに角帯という、まるで呉服屋の番頭のような格好で出かける始末だった。その上、賭将棋で家の財産を食いつぶしてしまったから、家のは年中、祖父母や両親の争いが絶えなかった。若い頃の中里は、家庭不和の元凶である父親をドストエフスキーの小説に出てくるような性格破綻者だと考えて激しく憎んでいた(父親の死後になると、「父ほど不幸な人は、世に二人とあるまい」と思うようになる)。

中里介山が書物の世界に目覚めたのは、高等科を卒業する前後に小学校の校長佐々黙柳の家に寄宿するようになってからだった。佐々校長は中里の才能を惜しんで、短期間ではあったが、彼を自宅に引き取って勉強させてくれたのである。この佐々校長は生涯独身を貫いた古武士風の人物で、自宅にある蔵書を彼に自由に読ませてくれた。中里は校長のために炊事や洗濯をしながら、夢中で「平家物語」や「源氏物語」を読みふけった。

中里が独身生活に憧れるようになったのは、いざこざの絶えない実家に比べて、佐々校長の暮らしぶりが如何にもさわやかに見えたからだった。もし彼が校長宅に寄宿することがなかったら、世俗の生活に疑問を持つこともなかったろう。彼は多感な少年期に世の常の家族とは全く異なる知的でストイックな独身者の生活を垣間見て、強い衝撃を受けたのだ。以後、彼は佐々校長のような簡素でさわやかな独身生活を夢見るようになる。

小学校の高等科を卒業した中里は、上京して東京在住の従兄の家に身を寄せ、電話交換手になっている。だが、電話交換手に女子が採用されるようになると、彼はあっさり馘首されてしまう。免職になった中里のところに、多磨の実家から帰郷を促す便りが届いた。父が吐血して倒れたというのだ。実家の要請に応えて中里介山が帰郷したのは十五歳のときで、彼を待ち構えていたのは、三人の妹をふくむ一家八人の家族だった。祖父は二年前に亡くなっていたが、祖母は健在で、二女キクはまだ十歳に満たず、三女ケイは満五歳、四女ミヨはやっと三歳になったばかりだった。

中里は家族を支えるために母校の西多摩小学校の代用教員になった。彼は勤務の傍ら正教員の資格を取るために講習会に通い、四年後に本科正教員の資格を得ている。教員としての彼の給料は、始め4円50銭だったが、正教員になると16円になった。だが、給料が高くなっても、彼の生活は惨憺たるものだった。父とのいさかいが絶えなかったからである。

彼の日記には、「父が怒った」「又々父怒る」「父が怒って始末におえない。大いに衝突して、其れが為に一日欠勤」というような文字がずらずら並び、怒り狂った父が、中里の大事にしているナショナル五級のリーダーと数冊の雑誌を引き裂き、火中に投じたことなどが書かれている。中には、こんな一節もある。

「生徒には馬鹿にされる。頭痛はする。父には怒られる。銭は一文もなし」

日記に「生徒には馬鹿にされ」とあるけれども、生徒間での中里の受けはなかなか良かった。

彼と生徒たちの年齢差は僅か十歳ほどしかなかったから、生徒を上から押さえつけようとしても効果はなかった。それで、生徒が授業に飽きて来たとみると、彼は『平家物語』や『三国志』から子供たちの喜びそうな物語を選んで話してやった。コロンブスやリンカーンの逸話を話してやることもあった。ときには、彼は自分でひねり出した創作物語を生徒たちに語ってやったりした。

こんな悪知恵を働かせることもあった、習字の時間などに机の上に紙と筆を置かせて、授業中のように見せかけておいて、お得意の創作物語を話してやるのだ。不意に校長などが通りかかってガラス障子ごしに中を覗いても、生徒はしーんと中里の話に聞き惚れている。校長の佐々などは、すっかり感心して、新米の教師のくせに生徒をここまで統制できるとは見事なものだと褒めてくれた。

教師としてさまざまな工夫を凝らすだけでなく、中里は村民を教化するためにも努力していた。彼はすでに小学校高等科に在学している頃から、「少年夜学会」というサークルを作り、仲間を集めて学習していたが、母校の教師になってからは、この「少年夜学会」を発展させるために手を打っていた。彼はそれと平行して「青年義会」を組織して地域の若者たちに対する啓蒙活動にも乗り出し、さらに村内にキリスト教を根付かせようと苦心している。彼が学校の同僚教師である久保川きせ子の下宿している屋敷をキリスト教講義所にして、ここに村民を集めようとしたのも、彼の推し進める社会活動の一環だったが、彼が熱心に布教につとめた本当の理由はきせ子に惹かれていたからだった。彼は電話交換手時代にキリスト教にちょっと触れた程度で、まだクリスチャンといえるような段階になっていなかったのである。 

中里が久保川きせ子と同僚になったとき、彼女は中里より7歳年長で23歳だった。きせ子は背のすらっとした美女で、医者を目指している婚約者がいた。この時、中里はまだ16歳だったから、心の中できせ子に憧れているだけで、とても彼女への愛を打ち明ける状況にはなかった。この時期に、彼は印象的な俳句を作っている。

  大空に星一つあり恋の闇

小学校の教員という立場を忘れて、キリスト教の布教に走り回っている中里介山を苦々しい目で眺めている郡の視学がいた。この並木鹿之助という男は、中里の庇護者である佐々校長が生きているうちは手が出せなかったが、佐々が亡くなると早速中里に山一つ越えた五日市の小学校に転勤することを命じた。

中里介山は、これを思想弾圧と解して、赴任後半年もたたないうちに辞表を出し、ふるさとの多磨を捨ててしまう。

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五日市小学校を辞めた中里は、東京に移り豊島区岩淵小学校の教師になっている。郡部の学校では正教員で月給16円だった彼も、都市部の小学校に移ると代用教員扱いになり、月給も10円に減額された。収入は減ったけれども、首都での生活は充実していた。

時は日露戦争を間近に控えた明治36年で、彼は血気盛んな19歳だった。この年に「万朝報」を脱退したメンバーが「平民新聞」を創刊している。中里は、幸徳秋水や堺枯川が「万朝報」にいた頃からその論説を愛読していたから、その二人が、日露戦争開戦に賛成する社主に抗議して万朝報社を辞め、週刊「平民新聞」を創刊したと知ると、直ちに「平民新聞」の読者になり、紙面をむさぼり読むようになった。それだけではなかった。彼は同新聞に積極的に投書しはじめ、一年とたたないうちに「平民新聞」の常連寄稿家になったのである。

新聞の常連ライターとなった彼は、幸徳秋水や堺枯川をはじめ、平民社に集まる多くの評論家や新聞記者と親しくなる。それとともに、中里の反戦論はいよいよ激しさを増して、舌端火を吐くばかりになる。

「敵、味方、彼も人なり、我も人也。人、人を殺さしむるの権威ありや。人を殺すべきの義務ありや。あゝ、言ふこと勿れ、国の為なり、君の為なり」

日露戦争が終わると、平民社に集った若い文学者たちは「火鞭会」という組織を作って、機関誌「火鞭」を創刊する。中里もこれに参加して、機関誌に小説や詩を発表していたものの、暫くすると「火鞭会」を退会してしまうのだ。

彼は、この時期、内村鑑三の主宰する「新希望」誌に、「余が懺悔」と題する文章を寄稿している。それによると、彼が社会主義に走ったのは、虚栄心がつよく生意気だったからだという。そして、自分は不遇な環境に反逆し、社会と人にたいする怨みから「主義者」になったと告白する。

「余は社会主義者なりき。余は社会主義の真理を知る。然も余が社会主義に趣きし動機は根底に於て誤まれり。救ひ、助け、愛さんが為に社会主義に趣かずして怨み、憤り、呪はんが為に之に走せたり」

今まで中里が先達として仰いでいたのは、幸徳秋水と堺枯川だったが、日露戦争後になると内村鑑三をはじめ、田中正造、徳富蘆花などに接近するようにようになった。この頃の彼はトルストイに傾倒し、「イワンの馬鹿」などから強い影響を受けている。彼が、「手に肉刺(まめ)のない人の教えは断じて信ぜぬ」と明言して、農本主義に傾斜して行ったのも、トルストイの影響だった。

こうした思想的な転換と符節を合わせるように、彼の身辺にも慌ただしい動きがあった。母が夫を土蔵に置き去りにして、子供たちを引き連れて中里のもとに身を寄せて来たのだ。だが、当時21歳で月給10円の彼の身では、とてもこの大家族を養うことは出来ない。そうした事情を察したのか、平民社で親しくなった田川大吉郎が彼を「都新聞」に招いてくれた。田川は、都新聞の主筆をしていたのである。

新聞記者になってから、中里は文芸、美術、身の上相談欄を担当して、怠りなく勉強した。英訳の「レ・ミゼラブル」を原語で終わりまで読み通しているし、プラトン全集を耽読してもいる。こうした蓄積をバックに、彼は主筆の田川に小説を書きたいと申し出て、都新聞に「氷の花」という小説を連載し始めるのだ。中里、25歳の時であった。

その後も彼は、自身の担当する文芸欄に自作の小説を掲載し続け、大正二年になると「大菩薩峠」を連載する。この作品は連載当初から評判になり、これで中里の作家的地位が確立することになった。彼は約6年間、作家と「都新聞」記者という二足の草鞋をはいて奮闘していたが、その間に両親が相継いで亡くなり、弟妹もそれぞれ結婚やら古本屋開業やらで独立していった。それで、彼は34歳をもって新聞社を辞めて作家の仕事に専念することが出来るようになった。

自由の身になった彼は、かねてからの念願だった旅行を盛んにする一方で、頻繁に住まいを変えている。明治末年から大正11年までの十数年の間に、彼は同じ借家に3年以上留まったことはなかった。1〜2年の周期で引っ越しを繰り返している。旅行好きで、「引っ越し魔」というところに、この世を仮の住まいと見る彼の仏教的な無常観が透けて見える。

新聞社を退社後、中里は執筆活動に専念しながら、実に多面的な社会的事業を展開している。彼は、高尾山麓に六畳一間の畑付きの草庵を結んで「引っ越し魔」の生活に終止符を打ち、農本主義を基本にした定住生活に入る。そして、ここを拠点にさまざまな試みに着手するのである。彼は草庵の近くに、敬天、愛人、克己をスローガンとする「隣人学園」を開設して自身で子供たちに講話をしている。二年後には、草庵を青梅線沿線の多摩川をのぞむ地に移すが、これは高尾山のケーブルカー工事が始まり、騒音に耐えられなくなったからだった。新たに引っ越した草庵も、六畳二間に風呂場がついた簡素なものだった。

中里は早くから塾教育や農園の経営、鍛錬道場、それに介山文庫などを設立する夢を抱いていた。彼は、その第一着手として草庵前の空地に武術道場を開いた。間口五間、奥行三間の建物で、この道場は、近くの若者たちによっておおいに利用されたが、昭和六年には自費出版のための印刷所に切り替えている。

昭和五年五月から、念願の塾教育を行うために西隣村塾を開き、その翌年には大菩薩峠記念館をひらいた。西隣村塾は、学業と労働の一体化を目標にしていて、塾生には日に数時間の生産的勤労を課し、自給自足の生活を求めている。塾生は十五、六歳から二十五、六歳まで幅広い年齢層を含んでいた。塾生たちの入塾の目的もまちまちで、上級学校への受験勉強をねらう者、失業中の者などもいて、塾は彼らの雑多な要求を充すことができず、無残な失敗に終っている。

彼は、そのほかに「一人思うことが万人の思いにかよう」という華厳経的な発想から隣人之友社をおこして機関誌「隣人之友」を発行し、そして又「山上山下会」をおこして機関誌「峠」を創刊した。「山上山下」とは、「上求菩提 下化衆生」という仏語に基づく民衆救済のための組織だった。「隣人之友」には、中里の哲学に基づくスローガンが印刷されていた。

  隣人より村落へ─村落より都会へ─都会より国家へ─国家より人類へ─人類より万有へ─万有より本尊へ

私はこのスローガンを読んだときに、ヤスパースの「包越」を連想した。ヘーゲルは、精神展開の筋道を弁証法によって説明するが、ヤスパースはそれよりもっと簡明な包越という概念によって説明する。精神は、古い思考をうちに包みこみながら、より広い世界に飛躍して過去を相対化するというのだ。

中里は、身近な仲間を少年夜学会や青年義会に組織することから社会的活動を始めた。それから、村民全体を相手にしてキリスト教布教の活動に乗り出し、東京に移ってからは、反戦運動を通して都市と国家を対象にした運動に変わっている。最後に彼の運動はトルストイの影響下に人類を対象にするものにまで発展する。

こういうフィールドの拡大は、彼の拠って立つイデオロギーと連動していて、中里をして社会主義からキリスト教へ、キリスト教から仏教へと向かわせている。そして万有世界を視野に納める終着点に到達すると、彼はすべてのイデオロギーを包越した「あそび」の境地に参入するのである。

後年、中里は、「大菩薩峠」のモチーフを「人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の堺に参入する」ことにあると説明している。「大菩薩峠」は大衆小説だという批評に反発した彼は、「遊戯三昧」とか、「カルマ曼荼羅世界」という言葉をしきりに駆使しはじめる。こうした中里介山の立場は、「人間の絆」を書いたサマセット・モームのそれに似ている。モームは人間の営為を生涯かかって編み上げる織物に喩える。その織物にはいろいろな絵柄が織り込まれているけれども、結局それらは無意味であり、人間のすることは遊びに終わるというのである。

中里介山も、個々の人間の生涯を曼荼羅のなかに置いて眺める。すると、人間の生涯は結局のところ遊戯でしかないことが明らかになるのだ。この広大無辺な万有世界の中で、すべての人間が無意味な遊戯を重ねて死んで行くのだ。

中里介山という作家の一番基層にあるのは、ニヒリズムにほかならなかった。

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中里介山は、小学校を卒業する前後に佐々校長の家に引き取られ、暫く生活を共にした。その時、中里は佐々校長のストイックな暮らしぶりを見て、自分も将来校長のような簡素な独身生活を送りたいと考えるようになった。彼は子供たちを集めて「隣人学園」を開いたときにも、「克己」を重視した指導方針を打ち出している。

中里は28歳で「独身会」を組織し、その宣言通り生涯独身を通した。彼の独身生活は、佐々校長譲りの簡素でストイックなものだった。「大菩薩峠」がベストセラーになって多額の印税を手にしながら、彼の住まいは六畳間一間しかなかったし、次に建築した家も六畳間二間だけだった。食事も菜食を中心にしたごく質素なもので、こんな話が残っている。

後輩の作家平山蘆江が先輩の中里をもてなすために自宅に招き、妻手製の天ぶらをふるまったことがある。蘆江としては精一杯のサービスだったが、介山は護厳な態度で、蘆江に告げた。

「僕は菜食主義者です。今日はせっかくのお心づくしだから頂戴しますが、今後もし御馳走して下さるようなときには、どうか精進揚げだけに願います」

内心貧しい料理しか出せなくてびくびくしていた蘆江は、介山のこの言葉に救われたように思い、あらためて中里介山の人物を見直したという。

しかし、独身主義者の落ち着く先は、ストイシズムではなくて「遊戯三昧」なのである。

独身者は、家族持ちの所帯主に比べて、時間的にも経済的にも有利になる。彼らは、世俗の親たちが家族のためにあれこれと心配りをしているときに、自分一人の面倒を見ればいいだけだから、時間と金に余裕が生まれる。もし、彼らが計画的に暮らしたら、仕事もうまく行くだろうし、経済的にも豊かになるはずなのだ。

ところが、独身者の多くがそうはならないで、場合によればホームレスになってしまう。家庭人は思わぬ収入があれば、将来に備えて残しておくけれども、独身者は金を残す家族がいないので生きているうちに全部使ってしまう。独身者は、生きているうちに時間と金を自分のためだけに使ってしまうのだが、その使い方に当人の人間性があらわれ、知的レベルが低ければバクチや女道楽などに走るが、レベルが高ければ、永井荷風や中里介山のような使い方をすることになる。

中里の言い方を借りれば、意図して独身を選ぶものは、「制度の外で生きようとする」人間である。だから、好きなことだけをして、その他の雑事は捨てて顧みない。中里は、子供の頃から「少年夜学会」を始め、実に多くの社会的事業に手を染めてきた。だが、事業が停滞したり、彼自身の心境が変化すると、それらの活動を何の未練もなく放棄して、肩書きなしのゼロに戻ってしまう。無飾のただの「ひと」に戻るのである。

中里は、人間関係においても、先輩との関係を永続させることがなかった。一時期、師事していた幸徳秋水や内村鑑三との関係も、彼の側から切ってしまって、最終的には孤立の道を選んでいる。彼は多くの事業をスタートさせたが、どこか醒めているところがあって、自らの行う社会的な営為を一種の「遊戯」と見ていた。こう見てくると、「大菩薩峠」が物語としての一貫性を持っていない理由も呑み込めてくる。彼は作品の各パートをその時々の気分に従って遊戯行為として書いたのだ。彼は、「大菩薩峠」20巻の後書きにこう書いている。

<『大菩薩峠』は一先づこれで完結といふ事になりました。……この一種異様なる作物───作者はこれを呼んで何処までも戯作といひたいのです、作者は遊戯といふことを大乗の極と信じ、すべての宗教も───道徳も、芸術も、此処へ来なければ徹底したものと思ふことが出来ないと信じてゐます。すべての喜怒哀楽が遊戯相であって、戯作の本旨はその遊戯相の表を描き裏をうつすものであると信じてゐます>。

彼は、作品の内的な関連を無視して、感興の赴くままに多種多様な登場人物を創作し、彼らに型破りの動きをさせる。こんな書き方をしていたら、本来なら読者に愛想を尽かされて、原稿の注文も来なくなるところだが、読者は彼を見捨てることがなかった。桑原武夫によれば、それは中里が日本人独自のシャーマン的感性を探り当てたからだという。

桑原は、日本文化には西欧的な層、アンチ西欧的な層、シャーマン的な層という三つの層があるというのである。中里が机竜之助を創造して以来、時代小説の主役に机と同型の丹下左膳だの眠狂四郎などが登場したし、中里が脇役に裏宿の七兵衛という俊足の盗賊を登場させてから、後世の時代小説はこれと同型の盗賊や掏摸を脇役として登場させるものが多くなった。中里が日本人の意識に潜む古層を掘り出したために、後輩の作家らが彼を追尾するようになったのだ。

しかしながら、中里介山の生涯を追尋して行くと、最後になって彼に裏切られたような気持ちになる。

日露戦争を厳しい態度で否定した中里は、日中戦争にも反対している。彼は戦争を強行する政府に対抗する砦として、広い畑を併せ持つ「西隣村塾」をスタートさせ、日本国家が圧力を加えてきても、畑で自給自足しつつ飽くまで闘いつづけるという不退転の決意を示した。昭和13年には、自費出版の著書「百姓弥之助の話」の中に出征兵士を送る行列を見て、
   
     「生き葬ひ!」

とつぶやいたことを書き込んでいる。彼は兵士を送る行列を、葬式の行列だと感じたのだ。

その中里が、日本がアメリカに宣戦布告をしたと知って欣喜雀躍するのである。昭和十六年十二月八日の開戦の詔勅に接して中里は、日記にこういう勇ましい漢詩を書き付けた。

  日本神武国
  顕正破邪軍
  粛然如深海
  乾坤雷発鼓

おまけに彼は、これを大書して海軍省に送ろうとしている。太平洋戦争が始まったとき、自由主義系の作家たちには、これまでの主張を覆して皇軍の戦果を絶賛するものが多かったが、日露戦争の頃から戦争に反対していた作家で中里介山のように態度を変えたものはほとんどなかった。単身で生きている独身者は、足手まといになる係累を持たないだけに、反戦論から好戦論へと身軽に転向できるのである。

これは「37日間漂流船長」の武智三繁さんにも、あてはまる。一日一食で暮らしていたこの人は、中里介山よりもはるかに清潔でストイックな生き方をしていたと思われるが、本を出したり、ラジオに出演したりして臨時収入が増えてくると、とたんにラブホテルを転々とする女狂いの生活にのめり込んでしまった。

中里介山、武智三繁という二人の独身者の生き方を眺めると、独身者の生活と対比される結婚生活が人に何をもたらすか少しばかり理解されてくるのだ。