死刑囚と結婚する女 1index.htm 時々、新聞などで死刑囚と結婚する女性の記事を読むことがある。そんな時に、問題の女性は人道的な気持や同情から、あえて獄中の男性と結婚したのではないかと思っていた。だが、今度ETV特集で、「死刑囚 永山則夫」という番組を見ていたら、そんな認識を改めざるを得なかった。永山則夫と結婚した和美という女性は、人道的な気持からではなく、もっとギリギリの心境から結婚に踏み切ったのである。
永山則夫の著書「無知の涙」がベストセラーになったときに、私は同書を少しだけ読んだが、あまり感心しなかった。それが尾を引いて、以後、永山について関心を失い、彼が三度の裁判で一度は無期懲役になっていたことや、獄中結婚していたことを知らずにいたのだ。
TVを見ていて、永山の生育環境について何も知らないでいたことに気づいた。さらにインターネットで調べてみると、永山則夫は言語道断といっていいほどの悲惨な環境に育っているのである。ここが永山問題のポイントだったのだ。
彼は、リンゴ剪定師の子として北海道の網走に生まれた。8人兄姉の7番目の子供だったが、家にはこのほかにもう一人の子供がいた。長男が高校生だった頃に女友達を妊娠させたので、生まれてきた子を家で引き取って育てていたのである。一方、長女は精神に異常を来して、網走の精神病院に入院していた。
父親はどうしようもない極道者で、バクチの金がなくなると、一家が明日食べる米まで持ち出して金に換えるというような男だった。母親は夫を殺すことも考えたが思い止まり、二人の女児と長男が女に生ませた孫を連れて実家のある青森の小さな町に移った。この時、母親の一行を駅で見送った永山則夫は、当時5才だった。則夫が、「かあちゃん、おらも連れてって」と泣きながら列車を追いかけたという哀切な話が残っている。
置き去りにされた4人の兄姉弟は、自力で生きていくしかなかった。姉は新聞配達、兄たちは鉄屑拾い、則夫は港で魚くずを拾って帰るというような暮らしを続けているうちに、見かねた近所の人の通報で福祉事務所が仲に入って、4人の子供は青森の母のところに送られることになる。6畳二間のボロ家で、母と子7人の生活が始まった。
母は一家の生活を支えるために、リンゴの訪問販売をしていた。朝リンゴを背負って家を出て、帰りは暗くなってからだったから、家には子供たちだけになる。注目すべきは、母親不在の家の中で、兄たちがよってたかって則夫に暴力を加え、彼を徹底的にいじめたことだった。そのため、彼は北海道の姉に救いを求めて、青函連絡船で函館に渡ったりしている。
小学校から、中学校にかけて、則夫は頻繁に家出をした。万引きをする癖もついた。母や学校の担任教師は、家出をして遠い他郷にいる彼を迎えに行ったり、万引をして捕まった彼の身柄を警察に引き取りに行かなければならなかった。則夫が家にもどると、兄たちのリンチが待っていた。学校に行けば 級友から家出常習者、万引常習者としてイジメの標的になった。
中学を卒業した則夫は、集団就職で東京に出ている。東京の職場では、まじめな働きぶりが認められて、支店をまかされたりしたこともあったが、どうしても一つの職場に定着できなかった。そこで彼は職を変えて各地に転々と移り住み、挙げ句の果てに国外脱出を計画して二度まで密航を実行している。無断で外国船に乗り込んで発見され、日本に送り返されることをくりかえしたのだ。
15才で東京に出て、19才で連続射殺犯になるまでの間、則夫は住む場所と仕事を目まぐるしいほどに変えている。そして、この間に何度となく自殺未遂を繰り返しているのだ。彼が何とか一カ所に落ち着いたのは、皮肉にも逮捕されて留置場に放り込まれてからだった。そこで彼は本を読み、手記を書き始める。彼の書き綴ったノートはたちまち10冊にもなった。元々、彼は頭の良い少年だったのである。
永山則夫が獄中で貪るように本を読み、痛恨の過去を振り返って手記を書いているという噂が広がると、本にすることを勧める出版社が現れた。こうして獄中手記「無知の涙」が世に現れることになる。本は爆発的に売れてベストセラーになり、印税は、1,158万円にもなった。
永山則夫の「無知の涙」を読んで感銘を受けた読者の一人に、武田和夫がいる。
武田は全共闘の闘士として安田講堂に立てこもった東大法学部の学生だった。闘争が終熄を迎え、仲間たちが次々に復学してからも、彼は民衆と共に生きることを選び、大学を中退して山谷に住み込んで日雇い労働をしていた。彼は「無知の涙」を読み、小学校も中学校もまともに出ていない男が、獄中で自分自身を教育し、弱肉強食の資本主義社会を告発するに至ったことに感動したのである。
彼は暇を見つけて刑務所に通い、則夫への差し入れと面会を続けた。則夫が「階級に目覚めた」のには、武田のリードが大きく貢献している。
武田が則夫を階級意識に目覚めさせたとしたら、則夫を人間として目覚めさせたのは和美という女性だった。彼女は、「無知の涙」を読んで、自分も則夫と同じ「捨てられた子」であり、二人は同類だと思ったのだ。
和美は日本人の女を母とし、フィリピン人の男を父として沖縄で生まれた。だが、父がフィリピンに帰ってしまったので、母は生まれてきた和美を役所に届けないまま仕事を続け、やがて和美を祖母に預けてアメリカ人と結婚して渡米してしまった。このため、彼女は戸籍を持たない無国籍人間として生きることになったのである。
彼女には、にがい思い出があった。和美は、街で混血児を援助する国際福祉事務所の看板を見て、自分も給付金を受けられるかもしれないと思い、事務所に問い合わせてみると、白人との混血児は(日に?)10ドル、黒人との混血児は5ドル、フィリピン人との混血児は3ドルだといわれた。
「私は3ドルの女なのか」──和美は激しい怒りを何かにぶつけたかった。一番憎かったのは母だったが、母を憎み通すことは不可能だったから、怒りを社会に振り向け、「いつか見ていろ」と思うようになった。彼女は自分の怒りの感情は、ピストルで4人を射殺した則夫の気持ちと同じではないかと思い、私には、育ててくれたばあちゃんがいたから思い止まったが、則夫にはそういうブレーキがなかったのだと感じた。
和美は19才になって、養父がアメリカに帰国することになったので一緒に渡米する。そして日系人が経営する会社のOLになったが、上司との関係に疲れて睡眠薬自殺をはかり危うく助かっている。こういう経歴を持った和美が、永山則夫を自分の同類だと感じたのは自然なことだった。
和美はアメリカから獄中の則夫に宛てて手紙を書いた。すぐ、彼からの返事が届いた。和美の気持ちはたちまち燃え上がり、アメリカで則夫を支援する署名活動をはじめた。二人の間で手紙の交換が続いているうちに、和美の感情は抜き差しならぬものになっていった。彼女は、ついにこんな手紙を書いた。
「私が生きて行く上で、あなたがどうしても必要です。私は日本に行きます。私と結婚して下さい」
則夫からは、彼女をたしなめる返事が来た。
「和美はまだ若いから、結婚などすれば、必ずあとで後悔することになります。俺は俺の道を進みます。和美も和美の道を進んでほしい」
第一審で則夫には死刑の判決が出ていた。和美は則夫を一人で死なせることは出来ないと思った。それで日本に飛び、武田和夫や支援者の立ち会いの下で、刑務所の面会室で結婚式を挙げたのだった
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東京地裁で開かれた第一回公判における永山則夫の態度は、ひどく横柄だった。裁判長が、「被告人、何か述べたいことがあるか」と質問すると、則夫は傲然と、こう反問した。
「あんた、俺のような男をどう思う?」
裁判長が戸惑って、「どう思うって?」と聞き返すと、則夫は、「四人も殺して、ここに立っているこの男のことだ。あんたに個人として聞きたい」と押し返して返答を求めるのである。20になるか、ならない若者が、年配の裁判長に向かって小馬鹿にしたような口をきいたのである。
「俺のような男が、こうしてここにいるのは、何もかも貧乏だったからだ。俺はそのことが憎い。憎いからやったんだ」
法廷の傍聴人や裁判官を驚かしたのは、彼が犯罪に関する英文の論文集の一節を読み上げて、自身の行動を正当化したことだった。ろくに中学校も出ていない男が、大学生も顔負けの語学力を見せつけたのである(だが、これは河上肇の「貧乏物語」にあった文章を、彼が丸暗記したものだった)。
永山則夫は、ああいえばこういうといった調子で、生硬な左翼用語を振り回して論陣を張った。裁判官から、被害者の家族に済まないと思わないのかと問われると、彼はこう答えた──自分が殺した四人は皆プロレタリアだった。自分は被害者の家族に対してでなく、プロレタリアート全体に謝罪したいと思う、と。彼は自分が死刑になるものと決めて、デスペレートな気持になっていたのだ。実際、彼は、獄中で何度も自殺を試みている。
こんな挑戦的な態度を続けていたら、裁判官の心証を害するに決まっている。一審の判決は、改悛の情なしということで死刑が宣告された。
被告側が控訴して東京高裁で二審が始まってからも、永山則夫の挑戦的な態度は変わらなかった。だが、和美と結婚してから彼は徐々に変化を見せはじめる。和美は法廷での則夫を見て、彼はなぜ独善的な論理で、そして生硬な言葉で、自分の主張を述べるのだろうかと疑問に思った、自分と面会する時には、爺さんや婆さんでも分かるような易しい言葉で話してくれるではないか。
和美は、則夫を素直な気持にするために全力を尽くした。面会時間は20分しかなかったので、言い残したことは手紙にして独房の彼に届けた。則夫も手紙を書いた。永山則夫が処刑されるまでに、和美宛てに書いた手紙は1900通に達している。彼からの手紙には則夫本来のやさしい気持が溢れていた。
やがて、プロレタリアートだけに謝罪したいと言っていた則夫の気持が変わり、被害者の家族にも、そして社会にも詫びたいと言い出すようになった。彼は和美に向かって、自分の代わりに遺族に謝罪をしてほしいと頼むようになる。その際、彼は本の印税を家族に贈ることも依頼した。
和美は、北海道や名古屋など、あちこちに散らばっている被害者の遺族を訪ね、霊前で焼香した後で印税の贈与を申し出た。さまざまな経緯の後に、名古屋の遺族以外の三家族は金を受け取ることを承知した。則夫は贖罪の第一歩を踏み出したのである。
則夫は母に対しても謝罪しなければならなかった。
則夫の肉親で面会に来てくれたのは母親だけだったが、その母親の顔を見るなり彼はいきなり激しい言葉を投げつけていたのである。
「おふくろは、俺を三回捨てた」
「そんな・・・・一度だけだけど」
母親が泣き出すと、則夫も泣き出し、20分間の面会時間は母子の流す涙、涙で終わった。それだけでは則夫の気持ちは収まらなかったらしく、この時彼は母の贈ってくれた衣類を便槽に投げ込んでいる。
和美は、「おふくろは俺より汚い」といっている則夫をなだめ、北海道の病院に入院中の彼の母を見舞いに出かけた。則夫の母は、青森から北海道に移り、魚の行商をしていたが健康を害し、物乞いに近い暮らしをしていた。則夫は、和美の説得に応じて母に宛ててカタカナだけの手紙を書いている。母は、カタカナしか読めなかったのだ。
和美は被告側の証人として法廷に立つこともした。証言台で彼女が、則夫は罪を悔い、贖罪の日々を送っていると語ると法廷に感動の波が走った。裁判長は涙を押さえるために顔を天井に向けたままでいた。和美の証言で、法廷の空気は一変したのだった。
それ以後、審理は順調に進み、二審では最初の判決を覆す無期懲役の決定が出た。永山則夫は東大闘争生き残りの武田和夫の影響下にあるうちは、裁判所に対する抵抗路線を取っていた。だが、彼は妻和美の説得を受けて抵抗路線から協調路線に転じた。そのために、彼は死刑を逃れることが出来たのである。
この判決に対して検察側が黙っているはずはなかった。世論も刑が軽すぎるとして、判決への批判が沸騰する。最高裁は二審の決定を否定して、裁判の差し戻しを命じ、則夫の死刑が確定する。被告が希望の火を灯し始めた時に、残酷にも裁判所は再び死刑を宣告したのだ。
永山則夫は、「熱いトタン屋根の上の猫」のような男だった。学校ではイジメにあい、家に帰れば兄たちのリンチを受け、安住の地はどこにも得られなかった。15才以後の彼は住む場所や職業を絶え間なく変えて、永続する人間関係を築くこともないままに過ぎていた。だから、彼は逮捕されてからも、弁護士と信頼関係を作ることが出来なかったのだ。則夫が弁護団を頻繁に解任したのには、こうした事情がある。
則夫は最高裁の判決が出てから、弁護団を解任しただけでなく、妻の和美とも離婚している。そして、以前の戦闘的な姿勢を取り戻したが、1997年8月1日東京拘置所で処刑された。享年48才だった。則夫は広さ僅か2畳の独房で20歳から48歳までの28年間を過ごしたのである。
インターネットには、和美が情状証人として裁判所に出廷したときの証言が採録されている。
「80年12月に獄中結婚してから、経済的に自立しなければならないのに、ひんぱんに面会に来ることをもとめられて、定職に就けなかった。板橋区内で英会話の塾を開いたりしたが、今は店員をしている。
私と永山君は一つ屋根の下で暮らしたいと思っても、そうすることが出来なかった。やがて私のことをCIAのスパイと言うようになり、彼のことを理解できなくなった。なぜ永山君はもっと素直になれないのか。
・・・・自分のことを天才と称しているが、彼が書いた「大学理論ノート」を若者に読ませても通用しない。
解任された弁護士の先生方や、彼を救いたいと思う人たちが次々に去り、結局は一人になったのは、彼の精神状態が健康でないからだ。精神鑑定を受けることを今も頑なに拒んでおり、このままでは永山君に対して公正な裁判が行われたことにならない」
NHKテレビがETV特集で放映した「死刑囚 永山則夫」という番組は、則夫の元妻和美の語りを軸に展開している。現在54才になるという彼女は、頭を丸刈りにした荒法師のような風貌で永山則夫について語り続けた。その語る言葉は明快で、論旨にいささかの乱れもなかった。
彼女は元夫の則夫よりも数等しっかりした女性だった。則夫の法廷闘争を指導したと思われる武田和夫も、衆にぬきんでた人物で、こういう優れた人々に支えられながら死を迎えた永山則夫は瞑すべきかもしれない。
自分の遺骨は網走の海に捨ててくれというのが、永山則夫の遺言だった。その遺志は和美の手によって実行された。和美は、オホーツクの海に散骨してから独語するように呟いていた。
「こんな冷たい海なのに」