毛沢東の闇
先日、NHKのBS特集番組で、中国の文化大革命を3夜連続で取り上げていた。題名を正確に記せば、「民衆が語る中国激動の時代〜文化大革命」というのだが、これをずっと見ていて、私は忘れていた宿題を思い出したような気持ちになったのだ。
なぜかと言えば、2、3年前に文化大革命を挟む前後の時代に興味を持ち、関係の本を何冊か買い集めたことがあったからだ。私が知りたかったのは、毛沢東という複雑な人間の心の闇についてであり、そして林彪が企てたというクーデターの内実についてだった。その他、この時期に聡明沈着な周恩来がいかに行動したか、憎嫉の念に凝り固まった江青がどんな風に暗躍したか知りたかったのである。
だが、手始めに出版されたばかりの中国現代史関連の本を購入して半分ほど読んだところで、探索作業が停滞してしまった。文中に「中央委員会報告」だの、「党中央書記処、総書記」だの馴染みのない文字がぞろぞろ出てきて、甚だ読みにくかったからだ。実のところ、こんな具合に中途でストップしたまま、薄暗い脳味噌の中で仮死状態になっている課題が、ほかにも少なくとも1ダースはあるのである。たとえば、戦前の共産党を崩壊寸前まで追い込んだ「スパイM」の問題がある。警察当局から共産党に送り込まれた「スパイM」が党の最高幹部にまで昇進し、党員に大森銀行襲撃を実行させている。私は、この何とも奇妙な事件の真相を知りたいと思っているのだ。そんな眠っていた問題意識が急に目覚めるのは、今回のようにテレビを見ている場合が多い。私に取ってテレビは、脳組織を活性化する薬剤の役割を果たしているのだ。
――さて、毛沢東の話になるが、戦後の半年くらいまでは、彼の名前はあまり知られていなかった。戦後最初の総選挙で当選した議員の中には、質問演説の中で毛のことを「けざわ・ひがし」と言うものがいたくらいなのだ。
しかし、中国の内戦が激化し、中国共産党が国民党を圧倒する勢いを示すようになると、「長征」のリーダーとしての毛沢東の名前が日本でも広く知られるようになった。エドガー・スノーの「中国の赤い星」がベストセラーになるに及んで、彼は「進歩的人間」の間で人気絶頂のヒーローとして躍り出たのである。
何しろ、この長征で共産軍は、国民党軍の追跡を逃れて1万2500キロもの距離を大移動したのだから、まさに気の遠くなるような話だった。この移動の過程で、10万人いた共産軍が僅か数千人にまで減少したと聞けば、その苦難のほどが推察される。長征に関する本を読んでいて、私が一番感心したのは、移動の途中で多くの兵士が餓死したけれども、一番先に餓死したのが炊事係の兵士だったというくだりだった。私は戦争の末期に最下級の兵卒として軍隊生活を体験したが、兵営の中で一番栄養が好さそうなのは炊事係の下士官やその下にいる兵隊だった。だが、中国共産党の炊事係は、仲間の兵士たちを飢えさせまいと努め、自分の食べる分を後回しにしたから、最初に餓死してしまったのだ。
内戦に勝利して、毛沢東が国家主席になった頃から、マスコミの論調が少しずつ変わりはじめ、毛を賛美するニュースと並んで、彼の独裁を非難する記事が現れ始めた。だが、進歩派日本人の毛に対する信頼は揺るがなかった。彼は、三大差別の撤廃をスローガンに掲げ、それを着々と実行していたからだ。三大差別とは、次の三つだった。工業と農業の差別
都市と農村の差別
頭脳労働と肉体労働の差別
この三つの差別がなくなれば、完全な人間平等社会が実現する。毛の平等観は徹底していて、運動会などで、学童が競争して一等になったり二等になったりすることも好まなかった。そして、彼は職業に貴賎がないということを実証するためには、すべての人間が天賦の能力を開発しマルチ人間になる必要があると考えていた。そういう万能人間が多くなれば、集団という集団がすべて他に依存することのない自給自足の社会になり得ると考えたのである。
毛沢東は、文化大革命時代に農村を改編して人民公社を発足させている。この人民公社は、内部に工場などをかかえこんだ多機能集団だから、都市などに依存しなくてもやって行ける。毛は、また、高学歴であろうが、無学歴であろうが、給与に高下の差のない社会を理想としていた。中国の若者たちが、毛沢東を熱烈に支持したのも、毛の思想を貫くヒューマニズムに共鳴したからだった。
だが、時代の経過と共に、人道主義的革命家としての毛沢東のイメージにかげりが見えてくる。毛の恐ろしさのようなものを私が実感したのは、彼が民主化論者を一掃するのを見た時だった。
共産中国が発足してしばらくすると、共産党による一党支配を批判し、民主化を望む声がぽつぽつ現れ始めた。こうした動きを不快に思った毛沢東は、施政の参考にするから、百万の花が一斉に咲き出すように、各人の思うところを遠慮なく発表してほしいと訴えたのだ。百花斉放・百家争鳴運動の提唱である。これを真に受けて、いままで政府批判を控えてきた大学教授らが、次々に活発な政策論を展開し始めた。
毛沢東は、百花斉放の運動が頂点に達したところで、政府機関、党機関を総動員して反撃に転じ、民主化を要求した論者を右派分子として厳しく糾弾し、論壇から追放してしまったのだ。そしておいて、「大躍進」運動に取りかかるのである。この運動は、ソ連のフルシチョフへの対抗意識に基づいて着想された、農工にまたがる国民的大増産運動だった。
だが、「大躍進」は無残な失敗に終わり、さしもの毛の地位も揺らぎ始める。この時、中国国内の餓死者は1500万人に達したと言われるから、その被害がどれほど大きかったか分かる。当然、毛への批判がわき上がった。朝鮮戦争の時、中国人民軍を率いて戦った総司令官の彭徳懐などは、「貴方は以前に私を10日間罵った、今度は私が20日間罵る番だ」と毛沢東を満座の中で攻撃している。
当時、毛沢東は党主席と軍事委員会主席を兼ね、劉少奇は国家主席だったが、共産中国のリーダーとしての毛の地位は、こうしたことから劉少奇に奪われそうになった。不安に襲われた毛が、劉少奇を追い落とすために企画したのが文化大革命だったのである。
1965年に始まる文化大革命が10年間続く間に、劉少奇は国家主席の座を追われて獄に入れられ、軍のトップは彭徳懐から林彪に代わっている。この文革も毛の犯した失政の一つで、これは大躍進に匹敵するほどのダメージを国家に与えた。
劉少奇を追放して全権を握った毛沢東は、ナンバー2のポストに林彪を据える。だが、この林彪がクーデターを計画して失敗し、国外に脱出しようとしたものの、飛行機が墜落したために死亡している。その頃、毛は重い病気にかかっていたし、ライバルの周恩来もガンで苦しんでいたから、黙っていても林彪は国家主席になれたのである。それなのに彼は、クーデターを計画した。なぜだろうか。
国家主席と党主席を兼ねていた毛沢東が、国家主席を劉少奇に分け与えたのは「大躍進」運動の翌年のことだった。毛は大躍進が順調に走り出したので、後のことは劉に任せて理論研究に専念したかったのだ。劉少奇は毛にとって革命運動を共にしてきた長年の盟友であり、出身地が近いこともあって毛が最も信頼する同志だった。毛は、念には念を入れて、劉少奇の下にケ小平をつけた。ケ小平は、実務家として衆にぬきんでる存在で、毛に愛されていたからだった。
「大躍進」が失敗に終わり、毛沢東への批判が集中したとき、劉少奇とケ小平のコンビは党内各層からむしろ同情された。本来なら二人は運動の推進者として毛と共同で責任を負わなければならないところだったが、党員たちは大躍進という無謀な計画を強行させたのが毛沢東であり、劉とケはもっぱらそれがもたらした混乱の後始末に追われていたことを知っていたからだ。
大躍進後の中国を建て直すことでも、劉とケのコンビは着々と成果をあげていたから、党員たちは、もはや毛沢東の時代は終わったと感じ始めた。長征以来の旧世代も、声高にスローガンを掲げて国民を鼓舞する時代は終わり、劉・ケのもとで日々のルーティンワークを着実にこなす時代が来たと思ったのだ。党が必要としているのは、革命の闘士ではなく、堅実な実務家だという認識が、党員の共通見解になり始めたのである。
こうした状況下で、毛沢東は再起のチャンスを虎視眈々とうかがっていた。
だが、これまで何時も毛を支持してきた周恩来も今度ばかりは中立を守り、毛を責めない代わりに彼を擁護もしないという姿勢をとり続けていた。革命世代のほとんどすべてが劉少奇を支持する側にまわった今、毛沢東にとって信頼できそうなのは妻の江青とその取り巻きだけだった。だが、江青は党内で奇妙なほど人気がなかった。それに引き替え、劉少奇の妻の王光美の方は、その美貌と才気によって国内のみならず、外国にも広くその名を知られていた。
周恩来は中立、江青は党員に信頼されていないということになれば、毛は林彪を頼りにするしかなかった。
林彪は、毛沢東を厳しく批判した国防部長彭徳懐の下位にいたが、彭徳懐を追い落として国防部長のポストにつくことを狙っていた。彼は毛を非難する彭徳懐に対抗する手段として、毛を賛美し始めていたのである。彼は部下に命じて軍の広報誌に毛沢東の語録を連載させていた(この連載記事をまとめたものが、紅衛兵の教典「毛沢東語録」になる)毛沢東は、この青白い顔をした野心家をあまり信用していなかったが、自分を賛美し続ける林彪を見ると悪い気はしなかった。それで、毛の方からも林彪を公開の席で賞賛するようになった。すると、林彪はこれに力を得て、ますます毛沢東崇拝の運動を広げ、その効果が現れて、若い世代の間に、毛を神格化する空気が徐々に醸成され始めた。
天才的な戦略家である毛沢東は、このチャンスを逃さなかった。絶体絶命のピンチに立っても、常に大胆な戦略によって危機を乗り越えてきた彼は、若い世代を味方につければ、既成勢力に対抗できると考えたのだ。毛沢東は雌伏4年の後に、「資本主義の道を歩む実権派」を攻撃する論文を書いて、劉少奇と彼に率いられた党官僚に挑戦状を突きつける。文化大革命の幕が、切って落とされたのである。
以後の展開は、あれよ、あれよという間だった。精華大学などの学生が壁新聞を貼りだして毛の動きに呼応したのを手始めに、実権派打倒の動きは高校生から中学生へと波及して行き、天安門広場に数十万の紅衛兵が集結するまでになった。若年世代は至る所で、権威に反抗し始めた。学校の生徒たちは担任の教師をつるし上げて謝罪させ、役所では下僚が上役を会議室に閉じ込め、時には暴行を加えた。これらの「造反」に火を注いだのが、「毛沢東の親友」林彪であり、江青を中心とする「四人組」だった。彼らは、騒動の現場に駆けつけて、ボヤを大火事にして回った。
毛沢東はこうした動きを制止するどころか、「造反有理」(反抗には理由がある)というスローガンで造反を奨励したから、混乱は底なしの広がりを示しはじめた。信じられないような実話がある。ソ連の首相コスイギンが、中国政府の代表者に国際電話をしたら、交換手の娘が、「あなたのような修正主義者の電話を取り次ぐことは出来ません」といって通話を切ってしまったというのだ。
毛沢東は、敵に致命傷を与えるまでは手綱をゆるめなかった。そして、ついに紅衛兵の追求の手は劉少奇のところまで伸びてくるのである。
劉少奇や周恩来は、北京の中南海と呼ばれる地区に住んでいた。ここは政府の高官の住む地区なので堅固な塀によって囲われ、出入り口を門衛が守っていた。だが、紅衛兵たちは門衛の制止を無視して、中南海の内部に押し入ってくるようになった。そして、無断で劉の住宅の中に踏み込み、室内の至る所に「劉少奇10の罪状」というようなビラを貼り付け、劉に反省文を書かせ、二時間も頭を下げて謝罪の姿勢を取らせた。そして電話線を切断し、劉が外部と連絡を取れないようにして意気揚々と引き上げたのだった。
劉にとって耐え難かったのは、紅衛兵たちが彼の子供たちを使って父親を攻撃させたことだった。彼は、離婚した妻との間に一男一女をもうけていたが、この二人も紅衛兵になっていたのだ。毛の妻江青は、劉の娘を呼んで、「あなた方の継母は、あなた方の本当のお母さんをいじめて追い出したのよ。私だって何十年も彼女から圧力を加えられ続けてきたわ」といって、「父を捨て、継母を捨てること」を求めた。
江青が劉の妻を憎む背景には、こんなこともあった。劉の妻王光美は、夫に同行してインドネシアを訪問することになったとき、江青にどんな服装で行ったらよいか助言を求めた。彼女は、片や国家主席の妻、片や党主席の妻という理由で、江青に連帯感のようなものを感じていたのである。江青は、「ネックレスはしない方がいいわね」と答えた。
だが、現地から送られて来た電送写真を見ると、王光美はちゃんとネックレスをしている。これを根に持った江青は、王光美が精華大学の紅衛兵に引き出されて、広場で糾弾されたときに、絹のストッキングとハイヒールという姿にして、首にピンポン球を繋いでこしらえたネックレスを掛けさせた。
劉少奇を糾弾する紅衛兵の動きは、次第に気違いじみたものになっていった。中南海の塀の外は、スローガンを書いた横断幕や赤旗で埋まり、よしず張りの小屋がぎっしり建ち並び、中には劉の処罰を求めて、断食闘争に入るものまで現れた。
劉に対するつるし上げは、彼の邸内で行われた。紅衛兵らは追求の合間に、絶え間なく「毛沢東語録」で劉少奇の顔を引っぱたいたので、劉の顔は腫れあがり、鼻には青いアザが残った。足も踏みにじられて痛み、彼はびっこをひいて歩かなければならないようになった。
中国人の著した「ドキュメント・中国文化大革命」によると、劉は波が打ち寄せるように繰り返し襲来する紅衛兵の追求を受け、肺炎から危篤状態になった。
<劉少奇の肺炎は、このときは一応治ったが、すっかり弱ってしまって、床から起きることもできなかった。顔はやつれ、体はやせ細り、髪も髭もぼうぼうとして汚かった。服を着替えさせ、洗ってやる人もいないし、体を支えて便所に連れて行ってくれる人もいないので、衣服は汚物にまみれていた。長い間床にふせっているため、下肢の筋肉が萎縮して脚はやせこけ、全身に床ずれができた(「ドキュメント・中国文化大革命」)>。
劉少奇がこうした悲惨な状況になったときでも、紅衛兵らは昼夜ベッドのそばから離れなかった。劉少奇が暴力をふるったり、自殺するのを防ぐため、いっそう見張りを強化しなければならないというのだ。かくて、劉少奇の両足は、包帯で固くベッドにしばりつけられ、ゆるめることを許されなかった。
一九六八年十月五日、劉少奇は悲しみと憤りのあまり、二度うめくように泣いた。それ以後、劉少奇は自律神経失調症と脳貧血のために脳軟化の症状を呈し、それがしだいに悪化して、劉は自分で物をのみこむことができなくなった。そのため彼は、鼻からさしこまれたチューブで栄養を取るようになった。・・・・ 十月十七日、劉少奇はついに危篤状態に陥った。点滴がなされ、鼻にはずっとゴム管が差しこまれたままになっており、吸痰器が出てくる痰を吸い出していた。こういう悲惨な状態のまま、彼は、河南省の開封に移され、小さな家に幽閉されたのだった。
十月中旬と下旬、劉少奇はたえず高熱を出したが、適切な治療を受けることができなかったため、十一月十一日の深夜、病状が突然悪化し、息切れがし、唇がまっ青になり、体温が四〇・一度に上がり、十二日の朝六時四十五分、心臓が止まった。救急班が駆けつけたのは二時間後であった。2
劉少奇が紅衛兵の突き上げを受けて、国家主席のポストを追放された後に、劉の跡を継いで毛沢東の後継者になったのは林彪だった。経歴からすれば、ナンバー2の地位は周恩来が継ぐべきだったが、それを差し置いて林彪が毛沢東の後釜になったのである。
これは林彪が毛沢東賛美を繰り返して、毛の復権を助けたからでもあるけれど、それだけではなかった。林彪は彭徳懐の下で国防部長のポストを狙っていた頃から、着々と軍の内部に味方を増やし、彭徳懐を追い落として軍の実権を握ってからは、共産党中央委員会にも配下を次々に送り込んで委員会内の最大勢力になっていたのである。中央委員会の勢力分布を見ると、林彪グループは江青一派に支えられた毛沢東グループを圧する勢いになっていたから、毛も林彪の存在を無視できなかったのだ。党の中央委員には周恩来を支持する者もいたが、これはごく少数だった。周恩来は、派閥を作ることを意識的に避けていたからだ。
党の副主席になった林彪は、「四人組」と呼ばれている江青グループに接近する。
早くから林彪の野望に気づいてい毛沢東は、林が江青と手を結んだのを見てますます警戒の念を強くした。毛沢東は妻江青の野心にも気づいていて、注意を怠らなかったのである。毛沢東が、自分の跡目を狙う江青を叱責した手紙が残っている。毛は、林彪と江青の同盟関係も最終段階になれば破綻し、両者が食うか食われるかの決戦になると予測していたけれども、そうなる前に両派の力を削いでおく必要を感じはじめたのだ。
そこで毛沢東は、憲法を改正して国家主席のポストをなくしてしまった。国家主席だった劉少奇が追放されてから、このポストは空席になっていたのである。毛は、林彪がこのポストを狙っていることを知っていたのだ。林が党の副主席というポストに加えて、国家主席の座に据われば、彼の地位は不動なものになり、その力は毛沢東を凌ぐほどになる危険性があった。
毛は林彪の長男・林立果が推進する「軍内部の一握りをつまみ出せ」と称する運動に対しても警戒を怠らなかった。父親と並んで国防軍内部の枢要な地位にあった林立果は、反林彪のメンバーを一掃するために、彼らに右翼分子というレッテルを貼り、「人民日報」などに「一握りをつまみ出せ」という論文を載せていたのだ。
毛沢東は、「戦旗」に載っている林彪派の論文を読んで、「軍内部の一握り」という文字の上に×印をつけ、そこに「不相」(相応しくない)という赤文字を記入して林彪に届けさせた。林彪と江青は狼狽した。林彪の妻の葉群は、この件で盟友の江青に愛想を尽かされることを恐れて、「一握りをつまみ出せ」という言葉は最初の原稿にはなかったのに、別の人間が付け足したのだと必死になって弁解している。
林彪関係の本を通読していて驚くのは、林を国のトップに押し上げるために、息子の林立果と妻の葉群が身を挺して活躍していることだ。葉群は夫のライバル羅瑞卿を引きずり下ろすために軍幹部の会合に乗り込み、11時間にも及ぶ大演説をしている。
ヒネケンというオランダ人ジャーナリストの書いた「中国の左翼」という本を読むと、著者は葉群のことをこう説明している。
<葉群についてはほとんど知られていない。彼女は林彪より二十二ほど年下で、一九五九年林彪の国防部長就任後、中央軍事委員会で林彪の秘書をつとめていた。二人の結婚はおそらく六〇年頃と思われる。葉群がようやく政治の第一線に登場しはじめたのは、彼女が四十歳ぐらいの頃である。しかし、葉群は林彪との結婚後、驚くべき野心を示しはじめた>
このあとに続けてヒネケンは、林彪が発表した重要な論文を調べ、それと同じ趣旨の論文をその数年前に葉群が発表していることを明らかにしている。つまり、著者は林彪の演説や論文の起草者が妻の葉群であり、林が実は22歳年下の妻に操られるロボットだったとほのめかしているのだ。いや、ほのめかしているだけではない、著者はこうまでいっているのである。
<このことから、林彪の発想の根源は実は葉群だったのではないかという疑念がわいてくる。そして、これは単に理論面のことだけではない。実際行動においても、林彪と、一九六二年以降しだいに重要性をましつつあった軍総政治部との連絡係りをつとめたのは彼女だった。
・・・・一九六八年、葉群は中央軍事委員会弁公庁主任の要職に任命され、その翌年初めて中央委員に選出され、同時に林彪腹心の将軍数人とともに政治局員に選ばれた。それ以来、彼女は林彪の秘書長のように振舞っていたが、このような状況は多くの人の顰蹙を買っていた。しかし、林彪はどちらかというと内向的な人物で、外部との接触は全て葉群を通じて行なうことを選んだ(「中国の左翼」J・V・ヒネケン)>。
毛沢東は、林彪グループが発信し続けるPRの内容にクレームをつけるだけではなかった。地方巡視の折に各地の軍司令官や幹部を集めて、林彪の動きを警戒するように言い含めている。いよいよ毛は、林彪一派を追放する態度を明確に示し始めたのだ。
「毛沢東や周恩来が強くなれば、こっちが危なくなる」、これが林彪、葉群、林立果をはじめとする林一派の合い言葉になった。彼らは、毛が劉少奇を倒したやり方を片時も忘れなかった。毛はナンバー2を指名し、相手を後継者にしておきながら、そのうちに実権を相手に奪われるのではないかという猜疑心にとらわれ、相手をつぶしにかかる(聡明な周恩来が意識的にナンバー2になることを避けているのは、こういう毛の気質を読んでいるためかもしれなかった)
クーデターを起こして毛沢東を倒す決意を固めた林彪について、アメリカ人の記者サン・スーインは彼には心気症の傾向があったのではないかと言っている。
「彼は口数が少く、いつでも体のことを案じていたね」と、林の率いる軍の政治委員であった高栄韓が記者に語ったという。彼には精神分裂症(躁鬱病?)的傾向があって、鬱のあとには躁が訪れ、モルヒネや阿片をしばしば用いる麻薬中毒患者だったともいっている。林は、寒さ、風、すきま風、暑さそして昆虫が嫌いで、旅行のときはスーツケースに一杯の薬を持っていった。
実際、林彪はじっと静かにしていればよかったのである。あと5年おとなしくしていたら、周恩来も毛沢東も相次いで病没し、自然に彼は中国のリーダーになっていたのだ。彼は毛沢東が国家主席を廃止したあとで、配下に命じてこのポストを再度制定するように建議させている。こんなことをすれば、多くの政治局員から疑念を持たれるに決まっているのだ。
躁状態になったときの誇大妄想なのか、林彪は全権を獲得したら「林王朝」を発足させ、息子の林立果を皇帝にすることを夢見ていたともいわれる。皇帝は後宮に仙女のように美しい女たちを集めていた。だから、彼は林立果のために美女をたくさん用意すべく、全国から多くの娘たちを集めたといわれる。
そのくせ、毛を打倒するプランを考えることに疲れて、林彪は計画の立案と実行を林立果に丸投げする姿勢を見せている。こんなことでは、海千山千の毛沢東に対抗できるはずはなかった。
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林彪の一派が、不穏な動きを示していることは毛沢東の耳にも入っていた。だが、林彪は軍を押さえているから、直ぐに彼を捕らえて糾弾するという訳にはいかない。身の危険を感じた毛は、南方視察を口実に北京を離れて武漢に赴き、そこで軍の幹部を集めて林彪と林立果を攻撃する演説を行っている。それは極めて激しいものだったらしい。
毛の演説内容は、即座に林彪の知るところとなった。彼は決戦の時が来たと感じ、上海にいる林立果に毛沢東暗殺の指令を出した。この時、林彪が頭に描いていた計画は、次のようなものだった。
南方視察の毛沢東一行は、武漢の視察を済ませてから、汽車で上海に回ることになっている。息子の林立果は、これを途中で待ち受けていて暗殺する。毛の暗殺成功というニュースが届いたら、林は自派の北京グループに出動を命じて中央政治局を急襲し、政治局員らを殺害する。こうして林は一挙に党を乗っ取ろうとしたのだった。
だが、もしもこの計画が失敗したら、第二段階に移行することになっていた。一味の黄永勝が地盤にしている広州に逃れ、そこで毛に対抗する政権を樹立して持久戦に持ち込むのである。林彪が広州を選んだのは、海峡を隔てて台湾に蒋介石軍が存在することを念頭に置いていたからだと思われる。彼は、いざとなったら、蒋介石と手を組むつもりだったのである。
林彪の間違いは、毛沢東暗殺の実行を年若い息子に託したことだった。
林立果は前々から暗殺実行部隊を編成していたが、そのメンバーは主として彼の若い仲間たちからなっていた。そのため、林彪の指示を受けて、いざ行動に移るという段階になると、各人の思いつきに近い案が次々に持ち出されて収拾がつかなくなった。ある者は、鉄橋を爆破すればといいと言い、ある者は線路脇の燃料倉庫を爆破し、人々が消火で騒然となっている間に車室に乗り込んで殺してしまえと主張する。飛行機で毛の乗った列車を爆破し、蒋介石軍の飛行機がやったと見せかければ、というものまであらわれた。
結局どの案が採用されたか不明のままだったが、直前になって現場に赴いた実行部隊がひるんでしまってチャンスを逃したことは確からしい。襲撃は実行されなかったけれども、林立果グループの奇怪な動きは毛沢東周辺の疑念を招き、毛は予定のコースを変更して急遽北京に戻ってしまう。とにかく、林立果の率いる上海グループは、毛の暗殺に失敗したのである。
計画の失敗を知った林彪は、娘の林立衡を北京にほど近い北載河に呼び寄せている。北載河には林彪の別荘があり、林彪夫妻はこの別荘で事態の推移を見守っていたのだった。夫妻は当初の計画が失敗しことを知って第二段階に移ることを決意し、家族全員で広州に飛ぶために娘を別荘に呼び寄せたのだ。夫妻はこれと同時に息子の林立果にも、上海を離れて別荘に集まるように命じている。
夫妻は娘には計画を明かしてなかったので、彼女を別荘に呼び寄せるに当たって、「前から予定していたお前の結婚式を、取り急ぎ今すぐ挙行することにした」という口実を用いた。そして、自分たちが異様に興奮しているのは、娘の結婚式を控えているからだと見せかけた。
いざ結婚式が始まると、林彪の妻・葉群は感情を抑えることが出来なくなった。彼女にとっては、林立果も林立衡も先妻の子で彼女とは血のつながりがなかった。だが、葉群は娘の婿を抱きしめて激しく泣き出したのである。
林立衡は敏感な娘だったから、両親の行動に腑に落ちないものを感じた。それで用務員を使って事情を探らせてみると、両親は毛沢東暗殺に失敗して南に逃げる相談をしていることが分かった。林立衡が両親と兄を裏切って、周恩来に秘密を告げる気になったのは、彼女も文化大革命の影響を受け、たとえ相手が肉親であろうと毛沢東に仇なす人間を許すことができなかったからだった。
北京にいた周恩来総理は、直ぐに手を打った。彼は中央護衛局に命じて北載河の林彪一家を監視させた。そして、北載河のそばの山海関に林彪が使用しているイギリス製の航空機トライデントが待機していることを知ると、現地の責任者の李作鵬にトライデント機を出発させてはならないと厳命した。
ところが現地の責任者の李作鵬は、林彪の同志だったから直ちにこのことを林彪に急報する。そこで林彪は、南に飛ぶことを断念して、北のソ連に逃れることを決断するのである。広州に到達するまでには中国本土上空を長く飛ばねばならないから、中国機に撃墜される危険があった。だが、北に飛べばその危険性が少なくなると思ったのである。
林彪は専属運転手に防弾装置付きの自動車を用意させて、妻の葉群、息子の林立果と車に乗り込み、フルスピードで山海関の飛行場に走らせた。林彪一家を監視していた中央護衛局の自動車も、その後を急追する。次に述べるのは、先にも引用した「ドキュメント・中国文化大革命」の中の一節である。
<零時二十二分、林彪の車が256号機(トライデント機)の前に到着した。タンク車がちょうど飛行機に給油中であった。林彪一味は車が停まるのも待たないで、あわただしく車から飛び降りた。葉群、林立果、劉捕豊はピストルを手にして、やたらに叫んだり、わめいたりしていた。
「早く! 早く! 早く!飛行機を早く動かせ! 飛行機を早く!」
同時に、飛行機の操縦キャビンの下に走っていって、まだタラップがかけられていないので、キャビンの小さいラダー(ハシゴ)を伝って、一段ずつコックピットに登っていった。彼らは副操縦士、航空士、通信士が搭乗するのが待ちきれず、飛行機の始動ボタンを押し、滑走を強行することを要求した。
飛行場は命令によって夜航灯をつけておらず、飛行機も滑走ランプをともしていなかったため、滑走するとき、飛行機の右翼が滑走路のわきに停まっていたオイル車のタンクの蓋にぶつかって壊れ、翼の上の緑色のガラスのランプ・グローブと飛行機のガラスなどを壊した。零時三十二分、いっさいの通信を遮断して、まっ暗やみの中を、256号トライデント機は離陸を強行した(「ドキュメント・中国文化大革命」)>。
トライデント機が飛び立ったことを知った周恩来は、自ら無線を使って機上の林彪に向かって引き返すように訴えたが返事はなかった。その後も、周は北京の東郊飛行場でも、西郊飛行場でもいいから戻って来てくれ、自分が迎えに行くからと訴え続けさせたが返答はなく、そうこうしているうちにモンゴルにトライデント機が墜落したというニュースが届くのである。
周恩来が、林彪一家の脱走を毛沢東に報告したとき、毛は落ち着いてこう答えた。
「天は雨を降らさねばならず、娘は嫁にやらなければならない。奴を好きなところに行かせたらいい」
――それにしても、林彪はじっとしていれば何事もなく中国最高の権力者になれたのに、どうして暴発してしまったのだろうか。私は、エドガー・スノーの「中国の赤い星」の中にそのヒントが隠されているような気がするのである。index.htm
林彪は革命第1世代に属している。長征に参加した第1世代の中では、林彪は最年少者だった。
「中国の赤い星」を読むと、林彪のことを、「28歳になる紅軍の戦術家で、有名な彼の率いる紅軍第一軍団は一度も敗北したことがないと言われていた」と書いてある。彼はその後、軍事的天才という栄光を背に紅軍大学校の校長になっている。
若くして天才といわれた男たちがたどる人生コースには、共通点があるように思われるのだ。自負の念が強すぎて、世俗的な面でも最高の地位につかなければ気が済まないのである。それも、一刻も早く実現されなければならない。三島由紀夫はまだ壮年の段階でノーベル文学賞をほしがり、その夢を断たれた時に暴発して自死してしまっている。
三島には、天才的な才能に加えて、お山の大将になりたがる稚気があった。林彪にも「林王朝」を夢見るような稚気があり、それが彼を悲劇的な死に追いやったように思われるのだ。
(未完)