漱石の「門」
1昔、江藤淳の漱石論を読んでいたら、「谷崎潤一郎は、『門』を理想主義的な夫婦愛の小説として読んだ」という一節があって、これが私の頭にずっと残っていた。当時、私は「門」という作品には、「それから」の後日談という程度の意味しかないと思っていたのだ。しかし、この時(なるほど、あれを宗助と御米の愛情物語として読む読み方もあるんだな)と思い知ったのである。
だが、「門」のことは、そのまま忘れてしまっていたら、「日本人が知らない夏目漱石」(ダミアン・フラナガン)という本に、漱石がもっとも愛していた作品は「門」だったという文章があった。晩年の漱石が、弟子の松岡譲に、そのように語っていたというのである。私は、これにもまた、驚かされた。そこで、もう一度「門」を読み返す気になったのである。
この作品は、休日のある日、宗助が日当たりのいい縁側に寝そべって、細君の御米と気楽な会話を交わすところから始まっている。夫婦が暮らしている借家は崖下の暗い家だが、役人をしている宗助の収入は一応安定しているし、夫婦には子供がいないから、経済的には女中を一人雇う程度の余裕がある。二人は、これといって不満のない幸せな日々を送っているのである。
だが、その二人の幸福を脅かす暗い影が、ちらちらと現れる。小説は、それを時系列にそって一つずつ叙述して行くのだ。御米の病気、宗助の歯の治療、そして宗助の弟小六を同居させなければならなくなったことや、その小六の行状が不安の原因としてあげられる。これに人員整理を始めた役所から、いつ宗助が馘首されるかもしれないという不安が加わる。
しかし、これらが夫婦の結びつきを揺るがすことはなかった。夕食の後、毎晩、火鉢を挟んで向かい合って座り、一時間は話し込むことを例としている二人である。協力して何とか心配事をやり過ごしていくのだ。そして、そのたびに、二人の結びつきは強くなる。もともと、彼らを脅かす不安なるものは、どれもさほど深刻なものではなかった。今までの生活が、あまりにも平穏だから、気になっただけのことなのだ。
数ある不安のうちで、宗助をもっとも脅かしたのは、崖上に住む家主の家に、御米の前夫安井がやってくるということだった。宗助は、家主の坂井から、板井の弟と一緒に安井が訪ねてくると知らされて、すっかり動転してしまうのである。宗助は一別以来、安井の消息を知らずにいたが、安井は坂井の弟とともに蒙古で活躍しているのだという。
安井は、宗助が京都の大学に学んでいた頃の学友で、御米はその安井の妻だったのである。宗助は安井から御米を奪い取り、「略奪結婚」したことで世間を狭くし、大学を追われ、地方勤務の小役人になった。安井も大学をやめて満州に渡る。宗助の不倫は、「前途有望な」二人の学生の人生を大きく狂わしてしまったのである。
宗助の実家は裕福で、彼の父親は、妾を囲ったり、抱え車夫を邸内の長屋に住まわせてるような暮らしをしていた。従って、事が起こるまでの宗助は親元から潤沢な仕送りを受け、卒業後の明るい未来を確信しながら学生生活を送っていたのだった。
それが、スキャンダルを起こしたことで家からの送金を断たれて、自力で生きて行かなければならなくなった。追い打ちをかけるように、半年後に父が死亡したため、地方勤務の宗助は亡父の遺産の処理を東京在住の叔父に任せることになる。この叔父が、「心」に登場する「先生」の叔父と同様に亡父の残した資産の相当部分を着服する。
不倫騒動を起こすまでは軽薄なくらいに活発だった宗助は、御米と所帯を持ってからというもの、煮え切らない愚図な男に変わっていた。遺産問題も、彼がてきぱき行動していたら被害を食い止めることができたのである。だから弟の小六は、こういう兄を、「ただ身勝手な男で、暇があればぶらぶらして細君と遊んでばかりいて、一向頼りにも力にもなってくれない、心底は情愛に薄い人だ」と決めつけている。
その煮え切らない宗助が、安井が出現するかもしれないと知って慌てふためき、自分の性格を根本的に変える必要に迫られるのである。
今までは忍耐で世を渡って来た。是からは積極的に人世観を作り易えなけれはならなかった。そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。
こうして宗助は彼としては珍しく思い切った行動に出る。役所から休暇を取り、鎌倉の禅寺に泊まり込んで座禅をすることにしたのだ。宗助は、老師から公案を与えられ、十日間考えて解答を差し出したが、その解答は、老師によって、
「もっと、ぎろっとした所を持ってこなければ駄目だ。その位なことは、少し学問をしたものなら誰でも言える」
と一蹴されてしまう。
何の得るところもなく宗助は帰宅する。すると、彼の留守中に坂井の弟と安井は蒙古に戻り、相手と顔を合わせる心配はなくなってしまっていた。宗助が人員整理の対象になることもなかった。その上、頭痛の種だった弟の小六は、坂井の家の書生になって崖の上に移ることになり、宗助と御米の身に久しぶりに平和が訪れるのである。
淡々と運んできたこの物語は、次のようにして終わっている。
御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、「本当に難有いわね。漸くの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。
宗助ほ縁に出て長く延びた爪を切りながら、
「うん、然し又じき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。
一体、漱石はこの何ということもない作品のどこが気に入っていたのでだろうか。彼が全作品のうちでこれをもっとも愛した理由は、何だったのだろうか。
2 それを明らかにするには、比較対照上、漱石が最も嫌悪していたという「虞美人草」を読んでみる必要があるかもしれない。衆知のようにこれは、漱石が大学教師を辞めて朝日新聞社の専属作家になった時の第一作で、極めて通俗性の濃い作品である。
登場人物は善玉と悪玉にはっきり区別され、最後に悪玉が敗北することになっている。まさに絵に描いたような勧善懲悪の小説なのだ。善玉は思索の人甲野、正義の人宗近、その妹糸子などであり、悪玉は甲野の異腹の妹藤尾とその母である。善玉と悪玉の中間に帝大を銀時計で出た小野がいる。
藤尾はこの小野に目をつけ、彼を籠絡して意のままに支配しはじめる。小野は恩人の娘小夜子と許婚同様の関係にあるのに、藤尾の誘惑に負けて小夜子を捨てようとするのだ。この作品には、随所に甲野の哲学的感想やら宗近の志士的気概が披瀝されているけれども、物語の主軸になっているのは藤尾と小野の関係なのである。
ここで正義の人宗近が立ち上がり、小野を説得して藤尾との関係を絶つことを決断させる。小野は翻意して小夜子のもとに戻る。漱石は、読者受けをねらったのか、最後には藤尾に自殺までさせている。
漱石がなぜ「虞美人草」を嫌ったかは、「坑夫}の次に書かれた「三四郎」を読めば明らかになる。「三四郎」には、甲野に相当する思索家広田先生や、藤尾に相当する誘惑者美禰子が登場するが、広田も美禰子も単なる善玉・悪玉では割り切れない複雑な性格を与えられている。
甲野は、いわば「上がり」に到達してしまった完成人として描かれる。従って、彼は未熟な社会のなかでは、悲劇的な予言者として生きるしかない。だが、広田先生は内部に未発の可能性を残した「偉大なる暗闇」であり、余裕を持って社会に対している。甲野が世界を悲劇として見ているのに対して、広田先生は喜劇として眺めているのである。
美禰子も、藤尾のような露骨な誘惑者としては描かれていない。彼女は広田によって無意識の偽善者と呼ばれ、三四郎の前に誘惑者として立ち現れるけれども、彼を誘惑するのは打算からではなかった。無垢な男性に接したときに女が見せる反射的本能的反応から半ば無意識に誘惑行動に出たのだった。
藤尾は類型的な女王型の女として描かれているが、美禰子の方は人間的な奥行きを備えており、彼女が自らを「ストレイ・シープ」(迷える羊)と呼び、「お貰いをしない乞食」だと自認しているのも、内々、魂の飢えを自覚しているからなのだ。彼女が、つきまとうようにして広田や野々宮のまわりから離れようとしないのも救いを求めてのことなのである。
三四郎に対する美禰子の気持ちは、愛に似て愛ではなかった。
美禰子は、ウブな三四郎が彼女の無意識の媚態に惑わされて自分を愛し始めたことを知りながら、彼に愛情を感じることはなかった。それは、まさに「Pity is akin to love」であって、憐れみではあるけれど、愛とは別種の似て非なる感情だったのである。彼女は、三四郎も「迷える羊」であって、自分と同様、広田・野々宮の後追いをしていることに「同病相憐れむ」感情を抱いていた。その憐れみには、田舎者に対する都会人の優越感もあったが、決定的なのは、知性を含んだ人間の総合的な能力において美禰子の方が三四郎よりはるかに立ち勝っていたことだった。美禰子は、三四郎の未熟さに対して深いいたわりと憐れみを感じていた。
漱石はこの小説をビルディングスロマンとして書き始めたはずなのに、こと三四郎に関する限り、「迷える羊」のままで突き放している。彼は熊本から出てきたときと同様に、果てしない彷徨を続けるだけで、作品の終わりになっても、まだ自分の進路すら決めかねている。
美禰子の方は、三四郎を迷わせた自分の罪深さをハッキリと自覚している。だから、彼女は別の男との結婚を決めた後、傷心の三四郎を前にして「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」とつぶやくのだ。
「青年」の小泉純一も問題を抱えて上京するが、最後に自力で鮮やかな解答を出してしまう。「三四郎」に刺激されて「青年」を書いた鴎外は、すべてを未解決のままにして三四郎を放り出した漱石のやり方に疑問を感じ、劣等生三四郎の対極にある存在として優等生小泉純一を創造したのだった。
だが、漱石は「三四郎」を書くことによって新たな方向をつかんだのである。
漱石は、「草枕」の画工、「野分」の道也、「虞美人草」の甲野などによって、世俗を見下ろすような超越者を描いてきた。だがそれ以後になると、超越者を前面に押し出すことをやめてしまう。「三四郎」では、広田先生は主役の座を追われ、その警世家的な役割も著しく縮小されている。そして、「三四郎」以後の作品になると、もうこの種の超越者は全く出現しなくなるのだ。漱石は、片方に功利的な世俗を置き、他方に真理を体得した超越者を置くという割り切れた構造の小説を書くのをやめて、さまざまな問題を抱えた個人が同一平面上でもつれ合う小説、つまり「迷える羊」たちだけで構成された小説を書くようになるのだ。
そして、それらの作品はどれも読者の期待するような終わり方をしていない。漱石は、三四郎の問題を解決しないまま放り出したように、その後に書かれた作品の主役たちも、負わされた課題を解決出来ずに終わり、よく行った場合でも登場人物が小康状態に到達したところで筆を置いている。作中の人物たちが、「迷える羊」の状態から救い出されることは、遂にないのである。
漱石が新聞小説三作目に「三四郎」を書いて、「虞美人草」で取り上げたテーマをもう一度俎上に乗せたところに彼の作家としての人間としての独自性が現れている。間違いを犯したら、その原因を突き詰め、スタート地点に戻ってやり直すというのが彼の生涯を貫く流儀だった。彼は「虞美人草」の通俗性をすっかり洗い落とし、装飾過多の文章を簡素化し、改めて前作と同じテーマに挑んで「三四郎」を書いたのである。
3 漱石は「三四郎」に続いて「それから」を書いている。
題名を「それから」としたのは、「三四郎」の続編だからだと彼は明言するのだが、続編という意味が通例とはかなり異なっている。「それから」が「三四郎」の続編なら、「それから」の主人公代助は、三四郎の後身でなければならない。ところが、三四郎をどう成長させても、代助のような複雑なインテリになる見込みはない。それに三四郎をめぐる人間関係のどこを探しても、「それから」の三千代や平岡を想像させる人物は見あたらないのだ。
学生時代の代助は三千代に好意を抱いていたが、平岡が三千代を愛していることを知って身を引き、二人を結婚させるために尽力する。三四郎が代助であり、その友人与次郎が平岡だとしたら、二人が同時に愛情を寄せていた女性が一人いなければならないが、「三四郎」には、そのような女性は描かれていない。
代助は、三千代に愛されていることを承知で、彼女を平岡に押しつけている。そのため、代助は、平岡と三千代の結婚生活が破綻したことについて、責任を感じなければならない立場にある。作品のポイントがそこにあるにもかかわらず、「三四郎」には痕跡すらないのだから、代助は三四郎の後身ではありえないのだ。
男女の性を転換させて、代助を美禰子の後身、三千代を三四郎の後身と仮定すれば、何とか辻褄が合ってくる。代助は三千代を捨てた過去を持つが、美禰子も三四郎を捨てた過去を持ち、そのことで「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」と自らを責めている。
代助は三千代に負い目を感じていたから、彼女との関係をのっぴきならないところまで推し進めてしまった。愛するものに負い目を感じているのは、三四郎ではなくて美禰子の方なのである。
漱石は「三四郎」の世界を裏返すことで、「それから」の世界を成立させたと見ることもできる。美禰子は「Pity is akin to love」と悟って、三四郎を捨てたが、「それから」ではこれを反転させてPityが愛に発展するさまを描いている。実際、三千代に対する代助の愛が決定的になるのは、不幸な境遇に突き落とされている相手への同情と憐れみからだった。
同一のシチュエーションを土台に、逆の物語を展開させるのは漱石の常套手段であった。彼は一人の女を二人の男が愛するという小説を繰り返し書いている。代助は学生時代に友人と同じ女を愛して、友人に女を譲った。「心」の先生はその逆の行動に出て、親友を自殺させてしまう。
「それから」の代助は、新聞連載当時、一部の階層から圧倒的な支持を受けたという。代助が大学卒業後に空疎な「道義心」を一つずつそぎ落として行って蘇生し、浅薄な日本社会を告発する立場に転じたこと、そして、その立場からあえて無為徒食の生活を選んだことを時の知識層や学生が賛同したからだった。
しかし、これは何となくおかしいのではなかろうか。彼は父や兄から、手厚い援助を受けて、優雅な独身生活を送っているのである。その恩義ある父と兄が何者かといえば、彼が侮蔑してやまない功利的な日本社会における成功者なのだ。
彼は、書生と婆やにかしずかれながら毎朝起きると「女が御白粉を付ける時のような手付きで」顔や髪の手入れを行っている。そんなナルシシズムの権化のような道楽息子が、いかに痛烈な文明批評を展開したところで、並の読者からの共感を得られるはずはない。漱石もこの辺について反省したらしく、「それから」以後には、登場人物に日本社会を告発させるようなことをさせていない。
4 代助を三四郎の後身と考えることは困難だが、「門」の宗助を代助の後身と考えることにさほど抵抗はない。漱石は旧作に制約されることを嫌って、舞台装置を新たにしただけで、両作品の基本的な人間関係はほとんど変わっていない。
ただし、代助・三千代の組み合わせに比較すると、宗助・御米の人柄はずっと単純になっている。宗助には、代助ほどの鋭敏な感性はないし、代助ほど知的でもない。三千代と御米は、落ち着いた女という点では共通しているが、御米は三千代ほどソフィストケートされていないし、三千代ほど情熱的でもない。
漱石は、代助・三千代の肖像を油絵のように濃密に描いたけれども、宗助・御米の方は水彩画のように淡い色調で描いた。代助・三千代のアクを洗い落とすと、宗助・御米になるのだ。
宗助と御米が結ばれるまでのいきさつも、ごくお座なりに書かれている。京都の大学で親しくなった友人の安井が、長期休暇を終えて再び京都で顔を合わせたら、妹と称して妻を連れてきていた。安井が学生の身でどうして御米を妻としたのか、そして御米がいかなる素性の女か、作品の中では一切説明されていない。
この御米と宗助が,作品の中で二人だけになるのは、二度しかない。一度目は、宗助が安井の所に遊びに行ったら留守だったので暫く御米と雑談しただけだし、二度目は御米が外出したついでに宗助の下宿に立ち寄っただけのことである。それが、いきなり「大風は突然不用意の二人を吹き倒した」という一行で、彼らが不倫の関係になったことを説明するのである。
話を刈り込んでいるのは、これだけではない。漱石が夫婦関係をテーマに小説を書くときには、夫婦それぞれの背後にある親戚・知人を登場させて人物配置を重層的な構造にする癖がある。「明暗」では、津田の背後に上役の吉川とその夫人があり、お延の背後には金持ちの叔父岡本が控えている。津田夫婦は二人で目に見えない戦いを繰り広げながら、それぞれの背後にある保護者にも気を遣わねばならず、また彼らからの厳しい評価を受けなければならない。
「門」にも叔父の一家が出てくるけれども、作品が取り上げている時点では、中心人物の叔父は死去して叔母と甥だけが残され、もはや宗助の煩いの種になるほどの存在ではなくなっている。弟の小六は御米にいろいろと気を遣わせているが、これも別に苦痛を感じさせるほどではない。家主の坂井は、宗助夫婦に好意的で、小六を書生として自宅に引き取ってくれる。
漱石は、宗助夫婦の周辺から心理的な負担になるような人間関係をすべて取り払い、周囲から切り離された二人だけの小世界を読者の前に提出する。
夫婦は例の通り洋灯の下に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所丈が明るく思われた。そうして此明るい灯影に、宗助は御米丈を、御米は宗助丈を意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼等は毎晩こう暮らして行く裡に、自分達の生命を見出していたのである。
夫婦は世間から見捨てられたことによって、二人だけで向き合う小さな世界を獲得した。崖の下の暗い借家は、漱石が読者のために用意した観察用の水槽であり、読者はこの水槽の中で演じられる日陰者夫婦の内心の劇を、とりわけ宗助の心のドラマを見て行けばよい。
御米はどんな時にも夫に微笑をもって対し、帰宅した宗助の語るその日一日の出来事に耳を傾ける。煮え切らない夫の行動も黙って見守り、仮にも宗助を批判するようなことはない。宗助は叔父の生存中に、叔父の不正について問い質す機会がいくらでもあったのにぐずぐずして動かなかった。彼が、その点について御米に筋の通らない弁解を繰り返しているうちに、叔父に死なれてしまうのである。
豊かではない家計をやりくりしている御米は、まとまった遺産が入ってくれば助かったに違いない。にもかかわらず、彼女は宗助の言い訳をそのまま受け入れて、批判がましいことを一言も口にしなかった。「いいのよ、そんなこと」と微笑んでいるだけだった。
作品全体を通して、彼女の内面に関する説明は皆無に近く、その性格については、「御米は若い女にありがちの嬌羞というものを、初対面の宗助に向かって、あまり多く表さなかった」という一節がある程度なのだ。作品には、彼女がこだわっている点を、ひとつだけあげてある。
夫に対して隠し立てをしない御米も、易者に二人の間に子供ができない理由をズバリと指摘されたことは黙っていた。彼女は三度妊娠したものの、結局、幼子を死なせたり流産したりで、子供を持つことが出来なかった。そのことを御米は自分の責任として、夫に対して負い目を感じていたのである。
漱石は、問題をかかえた夫婦を描くときには、ほとんどすべて子供がいないことにしている。「それから」の三千代は平岡との間に子供をもうけたが、すぐ死んでしまっているし、「心」の先生夫婦にも子供はいない。「明暗」の津田夫婦も子なしである。漱石はこれらの夫婦に子供が出来ない理由を、天が下した罰であるかのような書き方をしているが、これは作品の中から夾雑物を省き、夫婦間の葛藤を純粋な形で展開させるためなのである。
5宗助は世間から非難される立場になった当座、社会に対する憤懣を押さえがたく、世にときめいている者を見ると憎悪を感じた。
学校を己めた当座は、順境にいて得意な振舞をするものに逢うと、今に見ろと云う気も起った。それが少時くすると、単なる憎悪の念に変化した。所が一二年此方は全く自他の差違に無頓着になって、自分は自分の様に生れ付いたもの先は先の様な運を持って世の中へ出て来たもの、両方共始から別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、何の交渉も利害もないのだと考える様になってきた。
ところが、数年すると、「得意の人」に対する憎しみは消えてあきらめに変わり、さらに無関心へと変化していく。そして、弟の小六から「兄さん見た様になれたら好いだろうな。不平も何もなくて」と批評されるようになるのだ。
宗助が、こうした「低次の悟り」に到達したのも、そばに御米がいてくれたからだった。
夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪えかねて、抱き合って暖を取る様な具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米が何時でも、宗助に、
「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」と云った。
御米に対する宗助の愛も、御米のそれに劣らなかった。妻に対しては全く秘密を持たないできた宗助が、安井が現れることを隠し通したのも御米を心配させたくなかったからだった。彼らは、互いをかばい合い、いたわり合っていた。外部世界に対して無関心な彼らも、お互いに対しては細やかな注意を怠らなかったのである。
結婚してから6年たつというのに、まだ一度も争ったことがないという宗助夫婦の関係を、作者漱石は無条件で肯定しているわけではない。作者は、宗助が肝心の問題をないがしろにして、その日暮らしの平和を貪っている様子を様々な角度から描いて行く。
彼らの愛に陰りを与えるのに、隠微な罪の意識がある。
宗助と御米の一生を暗く彩どつた関係は、二人の影を薄くして、幽霊の様な思いを何所かに抱かしめた。彼等ほ自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものが潜んているのを、仄かに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互いと向き合って年を過ごした。
しかし宗助夫婦は、時間の経過と共に薄らいでくるように思われる「幽霊のような」罪の意識を押し隠して、今では、世間に対して居直るような気持ちにすらなっていた。
彼等は自然が彼等の前にもたらした恐るべき復讐の下に、戦きながら跪づいた。同時に此復讐を受けたるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。彼等は鞭たれつつ死に赴くものであった。たゞ其鞭の先に、凡てを癒やす甘い蜜の着いてゐる事を覚ったのである。
宗助も、「それから」の代助同様に、自分たちの犯した罪は人間性の自然に従ったもので、咎められるべきものではないと感じている。代助は三千代への愛を成就させることが「自然の命じる」ところであり、「天意に叶う」ものだと信じていた。そのことで彼は父と兄と社会を敵にしてしまったけれども、自分は「正当な道を歩んだ」という揺るがぬ確信を抱いていたのである。
宗助も、代助と同じような確信犯だったが、社会から浴びせられる非難を甘受する謙遜な気持ちもあり、この二つの感情の均衡の上に「低次の悟り」を築いていたのだった。彼は世間から鞭打たれるのと引き換えに、御米との愛の生活を獲得した。だからバランスシートはちゃんと合っており、自分の行動を後悔することもなかったのだ。
だが、密室の中での排他的な愛には、いつしか倦怠感が訪れる。
彼等は此抱合の中に、尋常の夫婦に見出難い親和と飽満と、それに伴ふ倦怠とを兼ね備えていた。さうして其倦怠の慵い気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事丈は忘れなかった。
宗助は御米を手に入れるために「生死の戦い」を繰り広げ、「青竹を炙って油を絞るほどの苦しみ」を味わったが、戦い済んで日が暮れた今は、押し流されてたどり着いた地点に安住して、それ以上の努力をしないでいた。
その日暮らしの生活に満足する宗助のイージーな精神が、隠微な罪の意識をそのまま残存させ、、二人だけの密室の愛に倦怠感を覚えさせるのである。安井が出現すると聞いて、惨めなほどうろたえてしまうのも、彼が根本的な解決を怠ってきたからだった。
6 動揺した宗助をいきなり鎌倉の禅寺に飛び込ませるのは唐突にすぎるような感じもする。だが、漱石自身もおそらく宗助と相似た状況の下に鎌倉の禅寺で参禅したことがあったので、あえて作品の中に自分の体験を書き込むことにしたのだろう。漱石は、宗助にも自分と同じ「父母未生以前の本来の面目」という公案を出されたことにしている。
参禅によって自分を再生させるという期待はもろくも崩れ去り、宗助は「喪家の狗」のようにすごすごと家に戻ってくる。彼は、門を叩けば中から扉を開けてもらえるという空しい希望を抱いて山中にこもったが、やはり扉は自力で開けなければならないのだった。
彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち疎んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
帰宅した宗助は、御米に迎えられ、「後生だから一休みしたら銭湯に行って、頭を刈って髭を剃って来て頂戴」と命じられる。
宗助は御米の言葉を聞いて、始めて一窓庵の空気を風で払ったような気がした。一たび山を出て家へ帰れば矢張り元の宗助であった。
「一たび山を出て家へ帰れば矢張り元の宗助であった」という一節によって、「門」という作品が二重の円環構造を形成していることが判明する。
縁側に寝ころんだ宗助が、御米と気楽な会話を交わす場面から始まったこの作品は、同じく宗助が縁側で御米と会話する場面で終わっている。これが外側の円環である。「事を好まない夫婦」の平和な一日から作品は始まり、巡り巡って、夫婦が平和な一日を迎えるところで作品は終わっている。
この外側の円環の内部に、もう一つ、宗助の内面の旅路が描かれ、これも円環構造で終わっている。自分を改造しようと禅寺にこもってみたが、帰宅したらもとに自分に戻っていたという円環構造。
宗助は、この内外二つの円環構造から永久に抜け出すことが出来ない。その日その日の平和を維持するために、あくせく心を労し続けるのが、宗助の宿命らしいのである。
彼の頭を掠めんとした雨雲は、辛うじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、是に似た不安は是から先何度でも、色々な程度に於て、繰り返さなけれは済まない様な虫の知らせが何処かにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。
漱石は、「三四郎」から「明暗」に至る作品で知識人のエゴを描き続けた。
これらの作品に登場する人物のうちで、最も凡庸な印象を与えるのは「門」の宗助であり、これらの作品に描かれた夫婦のうちで一番無個性的なのが宗助・御米夫婦なのだ。そして、漱石が自作作品の中で「門」を最も愛したのは、宗助・御米が毒を含まない凡庸で無害な人間だったからだと思われる。「彼岸過迄」の須永、「行人」の一郎、「心」の先生、「明暗」の津田は、それぞれ少しずつ異常だった。須永の千代子に対する愛、一郎の妻に対する疑惑は、どう考えても常軌を逸しており、漱石もそれを自覚して彼らを正当性を読者に受容させることに頭を絞っている。作者は、彼らがそうなった必然を読者に納得させるために心を砕きながら、同時に読者に妥協して世間的な意味での彼らの立ち直りの方策を探っている。
須永と一郎は、明敏な頭脳を持ちながら、自ら迷路に踏み入り、内にトグロを巻くような精神状態に陥った。さらに「心」の先生に至っては自殺までしている。
「心」の先生ほど、若者を惑わせる作中人物はいないのではなかろうか。
ある詩人の一人息子は、これを読んだあと飛び降り自殺をしている。確か、まだ中学3年生の若さだった。これは「心」の先生に触発され、先生と心理的に一体化したことによる「倫理的自殺」であって、漱石にはそうさせるような危険な筆力があるのだ。だが、作品の魔力が解けてみると、先生の行動はやはり非常識でアブノーマルなのである。先生は、叔父に財産を奪われたかもしれない。でも、彼は一生遊んで暮らして行けるだけのものを手に入れている。叔父のために路頭に迷い、貧窮のどん底に落とされた訳ではないのだ。
そこから感じられるのは、むしろ物欲に執着し、自分の権利だけに敏感な先生の主我的な性格なのだ。先生が「私」に向かって、「お父さんの亡くなる前に、遺産相続の件をハッキリさせておけ」と忠告するする場面も、執念深い先生の性格をかいま見るようでゾッとしない。
先生は、友人のKが下宿の「お嬢さん」を愛していることを知ると、先手を打ってお嬢さんと婚約してしまう。先生もお嬢さんを愛していたのだから、これは「それから」の代助の論理に従えば、自然に従い、天命にかなった行為なのである。あまり褒められた話ではないとしても、それほど深刻な犯罪的行為とはいえない。仮に、先生がお嬢さんをKに譲ったとしたら、将来「それから」の二の舞を演じることになるだけではないか。
問題は、Kがそのあとで自殺してしまったことである。しかし、Kが自殺したのは養家との関係が破綻して経済的に追いつめられたことに加え、思想的に行き詰まったことが原因であり、お嬢さんの問題は最後の一突きに過ぎない。Kを自殺に追い込んだ責任を一身に背負い込んで、先生が(自分は社会に出て働く資格がない)と思いこんだとしたら、それは自虐的に過ぎるというものだ。
それだけ重い罪の意識を持った先生が、宗教的世界に沈潜する訳でもなく、贖罪のための奉仕活動をすることもないのは不思議といえる。先生は毎月Kの命日に墓参りに出かけるだけで、後は手を束ねて自分を責めるだけなのだ。そして、明治天皇の死に接して、突如、自殺してしまう。読者は先生の死を感動と共に受け入れる。けれども、落ち着いて考えれば、先生の行動は筋違いであり何となく変なのだ。
漱石は、先生の行動を無条件に肯定しているのではなく、その生き方を相対化する場面を作品の中に、僅かではあるが織り込んでいる。例えば、先生は深夜目覚めて、隣との境の襖が開いていることを怪訝に思い、隣室のKが自殺していることに気づくのだが、これは死ぬ前にKが先生に別れを告げたことを暗示している。狷介なKにとって、先生は唯一の友であり味方だった。彼は、いまわの際に、襖を開けて先生の寝顔を眺め、ひそかに別れを告げてから死んだのだ。Kは先生を恨んではいなかった。
「明暗」の津田は、これまでに取り上げてきた主人公に較べたら、常識的な人間である。彼はインテリ風の自意識過剰に陥ってはいない。しかし津田と周辺人物の間で交わされる暗闘は、児戯に類するような些細な問題から発している。津田とお延の関係が紛糾するのは、富裕な叔父を持つ妻にくらべて、津田の実家が見劣りするからであり、そのことを隠そうとして津田が小細工を弄するからなのだ。
これらの主役たちに較べたら、「門」の宗助は、何と単純なことだろう。宗助と御米の夫婦関係は、何と尋常でノーマルなことだろう。
宗助以外の主役たちは、それぞれ取るに足りない些細な問題に頭を悩まし七転八倒したあげく自らの人生を狂わせて行くのだが、宗助は世の常の心配事に対して、ありきたりの対応をして、うやむやのうちに問題をやり過ごす。そして心配事がなくなれば「雨雲が過ぎ」たようにほっとして、また、その日暮らしの生活に戻っている。
漱石には、菫よりも小さな人になって、物陰でひっそり生きたいという秘めたる欲求があった。宗助はそれを体現しているような人物なのである。そして、宗助は、ウイリアム・ジェームスの「多元的宇宙」に共感する漱石の思想に対応するような人間でもあった。これが、漱石をして自作中で「門」を最も愛させた理由だったのではないか。.
漱石はウイリアム・ジェームズの「多元的宇宙」に共感していることを、かなりの熱意をこめて語っている。ウイリアム・ジェームズは、この本のなかで宇宙全体を統括する原理のようなものの存在を否定して、この宇宙は異なる原理によって動く多様な小宇宙の寄せ集めから成り立っていると主張しているらしい。だが、これら小宇宙は他に対して閉鎖的な自律的世界を形成しているのではなく、他の宇宙と互いに影響しあい、絶えざる変化を重ねているのだという。大宇宙はこうした小宇宙の連合体なのである。
現代の世界をグローバル化の進展過程にあると考え、やがて世界は一元化するという見方がある。これに対して、世界はイスラム世界やアジア世界、あるいは南米世界というような異なる原理で動く世界から成り、これらが互いに影響し合って多元的な世界を形成しているとする見方もある。ウイリアム・ジェームズは後者の見方に立っているのだ。
異なる原理によって動く多元的な宇宙を、さまざまな楽器から成るオーケストラにたとえるなら、これはあらかじめ与えられた楽譜を演奏するオーケストラではない。即興の音楽を演奏し続けるオーケストラなのだ。この即興の曲には、終わりがない。従ってその曲が完成することは永遠にないのである。
漱石が苦闘の末にこうしたウイリアム・ジェームズの考え方にたどり着いたとすると、彼は若い頃の考え方を大幅に修正したことになる。
松山時代の漱石は、高浜虚子に「将来どんな人間になりたいか」と問われて、「私は完全な人間になりたい」と答えている。この不遜ともいえる言葉を支えていたのは、彼の内部に自らが「異様の熱塊」と呼ぶ精神的な上昇欲求があるからだった。この頃の彼は、求道の志を固くし、精進を重ねて行けば、完全な人間になることも不可能ではないと信じていたのである。
つまり、彼は精進の果てに到達すべき完成点があり、そこまで行って「完全人間」になれば、最早その境地から退転することはないと考えていたのだ。「野分」の道也や「虞美人草」の甲野は、そのような完成人として描かれている。
漱石が、若き日に思い描いていた理想的人間像を具象化した道也や甲野を描いたのは読者に妥協したためであり、彼の胸にはその後に身につけたウイリアム・ジェームズ的な、あるいはベルクソンの「創造的進化」的な人間観が芽生えていた。そして「虞美人草」以後、漱石は、自分の本音を出しはじめる。(人は安息の地を求めて努力するが、それが得られることはない。人は、互いに傷つけあい、変化しあって、ただ不定の未来に向けて生き続けるだけだ)という本音を作品の中に書き込むようになるのである。
一昔前まで、求道の果てに「則天去私」の境地に達して大往生を遂げたというような漱石神話が盛んだった。しかし「則天去私」などというのは、無内容な点で、受験生が壁に掲げる「努力第一」などのスローガンと同様であって、意味のあることを何も語っていない。
漱石が、晩年になっても、東洋的な悟境を求めていたことは間違いないし、その心境を「則天去私」という言葉であらわそうとしたことは事実だろう。しかし、その「天意」とは、人を安定した永遠の秩序に導く倫理的意志のようなものではない。人間と人間、人間と自然が互いに影響しあって進行する世界の、その無限の変容と進化を背後から支えている意志なのである。
「天意」に従って「私」を棄てるというのは、不定の未来に向かって進む自己及び世界を素直に受容することであり、個人的には自己の運命を無条件に引き受けることにほかならない。「門」の宗助夫婦は(不定の未来に向けて手探りで生きるしかない)という人間の実相を体現したような男女である。彼らは、降りかかってくる吉凶禍福をあたかも自然現象のように受け入れ、嘆くことも人を恨むこともなく、互いを支えとしてひっそり生きている。
そこには彼らなりの静かな諦めがあり、、故意か偶然か、その点が漱石の晩年に到達した諦観を体現する人物になっていた。これが晩年の漱石をして「門」を愛させた理由ではなかったろうか。
(04/4/10)