水木しげるの怠け者人生

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面白そうな世界があれば、ためらわずに首を突っ込んできたけれども、まだ、足を踏み入れていない世界がいくつかある。その一つがマンガの世界だ。

マンガに興味を持っているにもかかわらず、これまで手塚治虫やつげ義春の作品くらいしか読んで来なかったのには、りゆうがある。マンガを読んでいると、異常に目が疲れるのである。細かな活字で印刷されているミステリー本などを読んでいると、やはり目が疲れる。しかし、マンガを読んでいるときの目の痛みは、活字本を読んでいるときのそれを遙かに凌駕していて、目だけでなく頭の芯まで痛んでくるのだ。

だからブック・オフなどに出かけても、ずらっと並んでいるマンガ本に目をやっただけで通り過ぎてしまう。その補償行為としてなのか、テレビなどでマンガ家の評伝を取り上げているのを見ると、直ぐチャンネルを合わせてしまう。

そんなわけで、半年ほど前にNHKテレビで放映された手塚治虫に関する連続番組は全部見たし、最近では、やはりNHKテレビで取り上げた藤子・F・不二雄や水木しげるの人物伝を見ている。そして、それらの番組を通して知ったのは、人気マンガ家たちの恐るべき繁忙ぶりだった。

藤子・F・不二雄の夫人は、夫の様子を見に行くと、何時でもせっせとマンガを描いており、それ以外のことをしているところを見たことがないという。だから夫人は、夫の人生が何だったかと問われれば、こう答えるのだ、「ずらずらと切れ目なく繋がっている何万枚かのマンガ原稿そのものが彼の人生なんです」と。

実際、人気が出てくると、マンガ家たちは「マンガ家残酷物語」というしかない生活を送ることになる。彼らは、朝から晩まで一日中、ペンをを握ってマンガを描き続けるだけではない、実にしばしば徹夜をするのである。

水木しげるも、三日ごとに各誌の締め切りがやってくるので、締め切り前夜には徹夜をするのが例になっている。それで、彼はしみじみと述懐するのだ。

「徹夜をするのは、一日はいいけれど、二日続けてはだめですね。石ノ森章太郎や手塚治虫は、それをやったから亡くなったんです」

手塚治虫は、60歳で亡くなったが、水木しげるは88歳になっても、まだ、壮健で活躍している。これは、きっと水木が二日続けて徹夜をしないというルールを守り続けたからだろう。

インタビューに答える水木しげるの話を聞いていて、一番印象に残ったのは、「現世は、地獄だ」という言葉だった。彼は地獄という言葉を繰り返し口にして、「特に現代の日本は」と付け加えていた。かたわらに据わっていた夫人が、インタビュアーの思惑を気にして、夫をたしなめたほどだった。

現世は地獄だと言いながら、水木はけろっとした表情で、自分は幸福すぎるほど幸福だから、幸福機能を壊してしまっている日本人に幸福を輸出してやりたいというようなことを言うのである。そして、彼は、「周りからバカだの低脳だのと言われていたので、自分でもそう思っていたが、私は本当は頭がいいかもしれない、才能もあるかも知れない」といって、茶目気たっぷりの表情でにやっと笑ってみせるのだ。

水木によると、彼が輸出したいほど幸福になったのは、不真面目に生きてきたからだという。石ノ森や手塚は真面目すぎたから、早死にをしたが、自分は自分のルールを守って、不真面目にやってきたから生き延びたというのである。

夫人が結婚当座の貧しさを語ると、水木は、「それが今は、あっという間に巨万の富が出来てしまった」と茶化す。すると夫人は、「オーバーなことを言わないでよ」と夫の膝を叩いてたしなめる。夫人は、穏やかで静かで、こんないい顔を見たことがないと思うほど実にいい顔をしていた。NHKのテレビドラマ「ゲゲゲの女房」に出演して水木夫人を演じた女優は、ぎょろっとした目をしていて、まるで実物の夫人に似ていなかった。本物の夫人は、やさしい微笑を絶やさない温かな目をしているのである。

私は、実を言うと、水木しげるのマンガを読んだこともないし、テレビ化された「ゲゲゲの鬼太郎」を視聴したこともない。そしてNHKテレビの「ゲゲゲの女房」を見たのも、最後の数回分だけなのである。

これまで水木しげるというマンガ家とは全く無縁の生活をしていたのに、その「人物伝」をテレビで見て急に彼に興味を感じはじめたのはなぜだろうか。

水木が軍隊で古兵に殴られ続けたこと、そして世に出てからは、現世を地獄と観じるようになったことなどが私自身と似ているからでもあるが、もっと大きな理由は水木と熊谷守一に共通するものを感じたからだった(熊谷守一は、文化勲章をくれるといわれたのに、断ってしまった著名な画家である)。

水木は三人兄弟の真ん中に生まれたが、彼だけが幼稚園に行っていない。朝になっても、彼が何時までも寝ているので、幼稚園に登園する時刻が過ぎてしまったからだ。小学校に入学する年齢になっても、相変わらず寝坊はつづいて、彼が登校するのは何時も二時間目からと決まっていた。彼は寝坊の他に大食という癖を持っていたので、朝遅くに起きると食卓に向かい、皿まで食い尽くさんばかりの勢いで朝飯を食べる。そして兄や弟の食べ残したものまで平らげてから、やっと家を出るのだ。そして授業中は、頭の中で空想ばかりしている。

彼が上の空で授業に臨んでいるため、担任の教師は腹を立て、水木を授業中皆の前で立たせておいた。床にチョークで円を描き、そこから出てはならないと命じた。

熊谷守一も、そうだったのである。教師が一生懸命しゃべっていても、彼は窓の外に目をやり、雲が流れるところや木の葉がヒラヒラ落ちる様子を眺めていた。それで熊谷は授業中に立たされていたり、校長室に連れて行かれて、校長の前で担任に叱られたりしていた。

もっと似ているのは、二人が心底から未開の生活に憧れていたことだった。


熊谷守一は、美術学校を首席で卒業しながら、農商務省の調査団に加わって樺太に渡るというようなことをしている。そして、現地で暮らすアイヌ人の生き方を眺めて、アイヌ人がすっかり好きになってしまうのだ。彼はアイヌ人についてこう書いている。

<彼らは漁師といっても、その日一日分の自分たちと犬の食べる量がとれると、それでやめてしまいます。とった魚は砂浜に投げ出しておいて、あとはひざ小僧をかかえて一列に並んで海の方をぼんやりながめています。なにをするでもなく、みんながみんな、ただぼんやりして海の方をながめている。

ずいぶん年をとったアイヌが二人、小舟をこいでいる情景を見たときは、つくづく感心しました。背中をかがめて、ゆっくりゆっくり舟をこいでいる。世の中に神様というものがいるとすれば、あんな姿をしているのだな、と思って見とれたことでした。

・・・・結局、私みたいなものは、食べ物さえあれば、何もしないでしょう。犬もそうだ。食べ物さえあれば、寝そべっているだけで何もしない。あれは、じつにいい(「へたも絵のうち」熊谷守一)>

熊谷がアイヌ人を愛したように、水木が愛したのはニューギニアの原住民たちだった。

水木しげるは、子供の頃にろくに勉強しなかったので、小学校を出ても進学できる学校がなかった。50人定員なのに受験者が51名しかいない学校があったので、これなら大丈夫だろうと受験してみたら、彼はそのたった一人の不合格者になってしまった。

こんな風にモタモタしているうちに徴兵年齢になり、21歳の水木は新兵としてニューギニアに送られることになる。新兵たちは軍隊に入ると、構成員10名内外の「分隊」に配属されて、古兵たちのしごきを受ける。分隊の中で、最も殴られた新兵は水木だった。

私も分隊で一番殴られた兵隊だったが、教員になったら同僚のなかに、同じように分隊内で集中的に殴られていたという先輩教師がいた。それで、軍隊で殴られる人間にはどんな特徴があるだろうかと、この先輩の行動を観察したことがある。そして、知ったのは、殴られる人間は、殴られることを別に気にもしないでいるということだった。この先輩は、芯からの自由人で、マイペースに徹した生き方をしていた。職員室にいても、まるで周りに人がいないかのような顔で、一人で何か好きなことをしている。

小さな権力を握った古兵たちにとっては、自分の前で平気でいる新兵ほど目障りなものはないのである。他の新兵たちは古兵からの私的制裁を恐れて戦々恐々としているのに、こいつは怖そうな顔をしないばかりか、いくら殴ってもケロッとしている、何というしぶとい野郎だと、小権力者たちは苛立つのだ。

ところが皮肉なことに、古兵たちから目の敵にされていた水木だけが生き残り、9人の分隊員全員が死んでしまうという事件が起きるのである。

オーストラリア軍と対峙する前線近くに陣を張った分隊は、敵軍の急襲を警戒して不寝番を立てることになった。夜、隊員全体が眠りについてから、一人ずつ交代で見張りに立つのだ。ある日の明け方、水木は自分の番になったので、見晴らしのいい場所に移動して警戒を始めた。

やがて、夜が明けて、朝になった。彼は望遠鏡でオウムの群れを眺めて、その美しさに見惚れていると、背後からバラバラと妙な音がしてきた。何だろうと思っていると、左右にビュンビュンと弾が飛んでくる。敵が不意に襲撃してきたのである。分隊の方を眺めると、隊は集中攻撃を受け、手榴弾を投げ込まれて全滅しそうになっている。不寝番の順番が一つ違って寝ていたら、彼も敵の集中攻撃を受けたのである。

水木は、「水木しげるのラバウル戦記」の中に、人間の運命について書いている。

<人の生き死にほど不平等なものはない。特に、戦死し
 たものとそうでないものの差、これほど大きいものはな
 い。もっとも、生きることを無上の価値としてみたとき
 の話だが>

水木は命からがらその場を逃げ出し、友軍の陣地をを求めて三日間ジャングルを彷徨している。敵の目を逃れるため、川を渡り、海に飛び込んだために、彼は越中ふんどしに銃剣一本を差しただけという全裸に近い格好になり、ついにはその銃剣も途中でなくしてしまう。

やっとの事で海軍の部隊に拾われ、それから陸軍の手に渡り、ようやく原隊にたどり着くと、中隊長は冷たい口調で、「お前の仲間はみんな死んだんだぞ。何でお前だけ逃げてきたんだ」と叱りつける。そのあとも苦難は続き、彼はマラリアになって、42度の熱を出して動けなくなるのだ。そんなところに敵機の来襲があり、高熱で隠れることが出来ないでいた彼は爆撃で腕を負傷してしまう。

水木が左手を失うことになったのは、その翌日、軍医によって七徳ナイフみたいなもので腕を切断されたからだった。熱で頭がモーローとしていたから、彼は切断時の苦痛をほとんど感じないで済んだ。二ヶ月ほどすると野戦病院に移される。そして、その後は手足を失った者たちだけを集めた部隊に編入されて、畑仕事をすることになる。そして、やがて敗戦となり、彼は捕虜収容所に収容されるのである。

彼がニューギニアの原住民と親しくなるのは、この頃からだった。

水木は監視の目を盗んで、近くの集落に通うようになった。タバコを吸わない彼は、配給されたタバコと交換で住民から食料を手に入れるようになったのだ。彼は不思議に原住民から愛されて、原住民らは水木のために彼専用の30坪の芋畑を作ってくれたりした。

水木が惚れ込んだのは原住民のこの親切な振る舞いと、一日2〜3時間働くだけで、あとはのんびり遊んで暮らす生活に対してだった。彼は「ラバウル戦記」の中に、こう書いている。

 <彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。時間を持っているとい
 うのは、その頃の彼らの生活は、二、三時間畑にゆくだけで、そのほかはいつ
 も話をしたり踊りをしていたからだ。月夜になぞ何をしているのかと行ってみ
 たことがあったが、月を眺めながら話をしていた。まァ優雅な生活というやつ
 だろうか、自然のままの生活というのだろうか。ぼくはそういう土人の生活が
 人間本来の生活だといつも思っている>

女たちの暮らしも、のんびりしていた。

<彼女たちの生活は、完備した自然の冷暖房の中でまずい物を喰って、粗末な
 ところに住み、なんの娯楽もなく(時たま踊りがあるくらい)、そんなところで
 満足して生活している。まあ、どこを探しても何もないのだから満足せざるを
 得ないのだが、この満足というのがなかなか得難いものだと思う。ま、いうな
 れば何もしないわけだが、ぼくはまたソレが好きなんだナ>

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夏目漱石と森鴎外、二人のうち、どちらがアウトサイダーだったろうか。漱石は、もう少しで東京帝国大学の教授になるところだったのに、朝日新聞社の嘱託か何かになってしまったし、政府が文学博士に推挙してくれた時にも、即座に謝絶している。

これに反して鴎外は、すでに医学博士という肩書きを持っていたにもかかわらず、政府が彼を文学博士に推挙すると、有り難くその称号を受け取っている。こういうところを見ると、漱石がアウトサイダーで、鴎外はインサイダーだったという気がしてくる。が、アウトサイダーだったのは、実は鴎外の方だったのである。

漱石は、高浜虚子と散歩していて、「貴方は、どんな人間になりたいか」と問われたとき、「完全な人間になりたい」と答えた。彼は世の俗物を嫌悪し、しょっちゅう癇癪玉を破裂させていたから、一見、アウトサイダーのように見える。だが、アウトサイダーが、「完全な人間になりたい」などと考えるだろうか。彼は、インサイダーだったから、将来、世に裨益する人間になろうと考えたのだ。

鴎外は、文学者としては、位(くらい)人臣を極めている。中野重治に言わせれば、彼は源実朝以来、文学者として最高の地位まで昇進した男だった。だが、鴎外にとって生きることは業苦に他ならなかった。だから、彼は、つい、「自分は生まれてこない方が良かった」とつぶやいてしまうのだ。

彼が軍医総監になり、医学博士、文学博士になったのは、卑俗な世間から自分の身を守るためだった。だが、そのためには同僚の小池正直らと出世を競わねばならなかったし、作家としては、権力に反感を持つ在野の作家たちから集中攻撃を受けなければならなかった。

だから、アウトサイダーとして生きて行くためには、鴎外は、まず、習俗と対峙して屈しない実力を持ち、それを人々に見せつけなければならなかったのだ。

ドイツ留学を終えて帰国し、小倉に左遷されるまでの鴎外は、逍鴎論争や医事論争で連戦連勝して、その実力を見せつけている。坪内逍遙が苦心惨憺一ヶ月かかって論文を書き雑誌に載せると、鴎外は一読してその日のうちに反駁の原稿を書き上げ、雑誌社に届けるという神速ぶりだった。ほかにも、彼は自ら医学雑誌を発行して、それを舞台に旧派の医学者たちを完膚無きまでに叩き伏せている。

アウトサイダーは、鋭い論法で旧勢力を攻撃したり、習俗にとらわれない奇矯な振る舞いで人を驚かしているが、暫くすると方向転換を試みるようになる。「戦闘的啓蒙の時代」に、群がる敵を片っ端から切り伏せていた鴎外も、左遷先の小倉から戻ってきた時には、人が変わったようになっていた。母親の峰子などは、「林太郎は生まれ変わって帰ってきた」と驚いたほどだった。

アウトサイダーとは、世俗の外に出ることであり、「世間離れ」することだから、いずれは自分独自のモラルや生活様式を構築しなければならなくなる。だが、自己に固執し、アイデンティティーを求めることを焦ると、周囲との摩擦が激しくなって行き詰まってしまう。かくて彼らは、「世間離れ」に続いて自分に執着することを止め、「自分離れ」を計るようになる。アウトサイダーは、「世間離れ」から出発して、やがて「自分離れ」へと、カーブを切るのだ。

小倉に赴任する前の鴎外は、家族からも恐れられていた。彼が帰宅すると、家族全員が緊張してぴりぴりしていたものだった。その鴎外が、幼い息子を連れて散歩にでると、「何でもない景色を楽しむようにならないといけない」といって坂の途中で下駄を脱ぎ、その上に腰を下ろして眼下の街を何時までも眺めるようになるのである。

実際、生まれ変わって帰ってきた鴎外は、家族にとって底知れない魅力を備えた家長に変貌していたのである。長女の茉莉は学校で神についての説明を聞いたときに、自然に父の顔を思い浮かべたという。茉莉だけでなく、家族のすべてにとって鴎外は、この世ならぬ人になったのだ。

「世間離れ」によって習俗を切り離し、「自分離れ」によってエゴイズムを切り離した後には、人間の祖型、純人間のようなものが残る。

ひるがえっって、水木しげるについて考えてみると、彼はたっぷり寝ること、食欲が旺盛であることなどで、最初から小学校ではアウトサイダーだった。毎日、二時間目から登校するような子供が、小学生仲間に受け入れられる筈はない。小学校を卒業したが、彼を受け入れてくれる上級学校がなかったから、水木はティーンエイジャーの時期を半分働き、半分ぶらぶらしているというような過ごし方をして、徴兵年齢を迎える。

軍隊に入るまでアウトサイダーとして生きてきた水木は、戦場に駆り出されても、やはりアウトサイダーとして生きるしかなかった。彼は年季の入ったアウトサイダーだったから、「世間離れ」の段階を早くに済ませ、「自分離れ」の段階に入っていた。そして、祖型人間、純人間の境地を深めつつあったのである。

水木しげるが、ニューギニアの原住民にあれほど愛されたのも、彼に日本人としてのいやな臭みがなく、人類普遍の祖型のようなものを身に体していたからだと思われる。

世俗的欲求を捨て去った後、急いで自己流のモラルを作らなくても、自然に生まれてくるものがあるのだ。水木しげるの場合、たっぷり寝て楽しく食べることを続けているうちに、自ずと内部に人類普遍の生活スタイルやモラルが生まれてきていた。彼は純人間になったのだ。