三浦久の青春 1960年代(昭和35年から45年までの10年間)とは、いかなる時代だったろうか。ベトナム反戦の時代、ヒッピーの時代、若者がドロップアウトして本当の生活を探した時代だった。
当時、日本は繁栄のコースを歩みだしていたとはいえ、まだまだ貧しく、特に地方はそうだった。田舎町の高校生だった三浦の周辺には、自家用車を持っている家は一軒しかなかった。三浦の生まれる直前に父を亡くした彼の家が、あまり豊かでなかったことはいうまでもない。
その三浦が「高校生交換留学プログラム」によってアメリカに渡ったのだから、まず米国の豊かさに圧倒されたのも無理はなかった。彼がホームステイすることになったのは、サンフランシスコ北方の静かな町の個人の家庭だったが、その家のガレージには車2台のほかにモーターボートが収納されていた。
「追憶の60年代カリフォルニア」 三浦久 (平凡社新書)
通学することになった高校でも、多くの生徒は車に乗って登校してきたし、級友には自家用飛行機のライセンスを持っている者もいた。三浦はその級友に「お前にも、操縦させてやるぞ」と誘われて彼と二人でセスナに乗り込み、操縦桿を握ってカリフォルニアの上空を飛んだりしている。
こうした環境の中で、三浦が萎縮しないで「高校生活をエンジョイ」することが出来たのは、フォークソングを通して仲間と知り合うことが出来たからだった。愛用のギターを持参して渡米した彼は、高校のフォークグループと親しくなり、彼らと一緒にパーティーに出かけ、歌をうたうなどしている。
フォーク仲間だけではなかった。彼はスージーというガールフレンドとデートするようになったし、交換留学生同士でグレイハウンドバスに乗って一ヶ月の旅をしたときには、アライダというドイツから来たフォークの好きな女子高校生と親しくなり、二人だけでニューヨークに出かけている。
三浦はこのとき国連ビルを眺めて、将来はこういうところに勤めて国際的な仕事をしたいと思った。帰国して日本の高校に復学した彼は、この夢を実現するために国際基督教大学の社会科学科に進学する。この学科で国際政治学を専攻すれば、目的を達成できるだろうと考えたのである。
学費は自分で稼ぎ出すしかなかった。彼は育英会の奨学金とアルバイトで、大学での一年間を切り盛りして二年生になった。二年生になった5月のはじめ、三浦は校庭の芝生で一枚のビラを目にする。カリフォルニア大学留学生募集のビラだった。それによると、渡航費を自弁さえすれば、授業料は免除され、奨学金も出るという。
試しに受験してみると、応募者30名中、合格者5名のなかに彼も入っていた。かくて三浦は、2年ぶりに再度アメリカに渡ることになるのである。
渡米した彼は、「外国人学生のための英語」のクラスでシャーロッテとめぐりあう。彼女はブロンドの長い髪と透き通るような肌を持ち、何時も優しく微笑んでいる宗教学専攻の留学生だった。三浦は彼女と親しくなり、一緒に図書館に行って勉強するようになる。
三浦はシャーロッテから「仏教の講義が面白いから、聴講しない?」と何度も誘われたが、将来国連のような機関で働くことを目指していた彼は、「なんで君が仏教なかんかに興味を持つのか分からないよ」といって取り合わないでいた。そのシャーロッテが出会ってから半年後に、突然、デンマークに帰国してしまうのである。
彼女に去られてから、三浦は自分がいかに彼女を愛していたかを悟るのである。シャーロッテの帰国は、実は、精神的な問題で医者から帰国を勧められたためだった。彼女が精神に変調を来したのには、自分にも責任の一半があるかもしれない、そうした疑いも彼を苦しめた。
三浦は、夜と昼が逆転した生活を送るようになった。
眠れないままに、夜、海辺を歩き回り、朝方、疲れ果てて部屋に戻る。専攻している政治学の講義に出ても、彼の苦しみとは無縁のことが語られている。そして、ある日,彼はあれほどいやがっていた仏教のクラスに足を向けるのである。程なく、彼は専攻を政治学から宗教学に変更する。シャーロッテにめぐりあったことによって、彼の人生は大きく変わったのだ。仏教の勉強をするようになってから、つきあう友人たちも変わった。
60年代のカリフォルニアには、禅やヨーガにのめり込む学生が多く、三浦はそうした若者たちと親しくなることで60年代を特色付けるカウンターカルチャーに接触するようになる。彼がボブ・ディランなどのフォークを、その深みにおいてとらえるようになったのも、新しい世界に触れたからだった。この時期に彼が知った友人たちには、個性的な人物が多かった。
32歳になるウイルヘルムは、高校生の時に読んだ本の影響でインドに渡り、ヒンズー教のアシュラムで修行した後で、セイロン島に赴いて上座部仏教徒になっている。彼は熱心な菜食主義者だった。三浦が彼のアパートを訪ねたとき、「お昼にしよう」といってウイルヘルムはガーゼで蓋をした大きな瓶を取り出した。中に入っていたのは自家製のアルファルファの芽だった。三浦にも食べろというので口に入れてみると、草を食べているような味だった。ウイルヘルムは、笑いながら「慣れれば美味しくなるよ」と言った。
滞米中にメキシコ五輪があり、三浦がアメリカ人の友人とそのテレビを見ていると、普段、無口な友人が口を開いた。三浦が日本選手の応援しているときだった。
「アメリカが金メダルを取りすぎて恥ずかしい」
「え?」
「アメリカが金メダルを取りすぎて恥ずかしい」と彼は繰り返した。
アメリカには、こんな若者もいるのだった。三浦の親友のジム・グリーンは、空き地に止めたヴァンに住んでいた。その住まいを訪ねたときのことを、三浦は次のように書いている。
彼はぼくに気づくと「カムイン」と言いながら、足をくずし、錆びたドアを開けた。ぼくは靴を脱いで背中を曲げながら車の中に入った。車の中は運転席を除いて座席はすべて取り去られ、マットが敷かれていた。
運転席の横にはみかん箱の本棚があり、ドアの横には煮炊きをするための石油コンロが置かれていた。窓には石油ランプがぶら下がっていた。
彼の生活は質素で無駄がなかった。ソーローの森の生活も、長明の方丈の庵も、ジムの生活に比べたら賛沢に思えるほどだ。彼は菜食主義者で、生の人参をかじったり、ピーナツと干しぶどうを混ぜ合わせて食べたりしていた。煮たものといっても、オートミールかコーンマッシュぐらいだった。そのせいかひどく痩せていた・・・・・・・・・・・
「ここに住んでいれば、安上がりだろうね。一ヶ月の生活費はどのくらいなの?」
「25ドルくらいかな。もっと少ないかも知れない」・・・・・・「トイレやシャワーはどうしているの」
彼はミカン箱の横に置いてあった取っ手のついた大きなアップルサイダーのビンを指さした。
「あれが僕のトイレなんだ。大の方は学校のトイレを使い、シャワーも学校の体育館で浴びている」
アップルサイダーだと思っていたのは、別の液体だった。三浦のもう一人の親友テイヨーの住まいも変わっていた。
彼が暮らしているのは、古い農家の道具小屋で、広さは3畳あるかないかだった。外壁の板は風雨にさらされてひび割れたり、曲がったりしていた。三浦はこうした友人たちとカリフォルニアの山中にある禅道場を訪ねて修行し、日本から著名な禅僧がやってくればアパートに招いてその指導を受けた。
かくて3年が過ぎ、大学を卒業する日が迫って来た。
精一杯強がりながら、今にも泣き崩れそうな孤独な少年の心を秘めて過ごした3年間だった。三浦は東芝EMIから出した「ポジティヴリー寺町通り」というアルバムのなかで、当時を思い返して次のように歌っている。必死だった、貧しかった、頼るものはなかった
淋しかった、苦しかった、行くあてもなかった
生きることに拙かった、あの頃は
ああサンタバーバラの夏三浦は、大学の指導教授から大学院に残るように勧められていた。このままアメリカに留まるべきだろうか。日本へ帰って禅僧になるのも魅力的だった。日本の大学院に入って研究者になり、それから再びカリフォルニアヘ戻って来るという方法も一つの可能性としてはあった。でも彼が一番なりたいと思ったものは、フォークシンガーだったのである。彼はアーティストでありたいと心から思っていた。
将来について思い悩んでいる時期に、彼は一種神秘的な体験をしている。少し長くなるけれども、そのくだりを引用してみよう。
四月二十五日金曜日、ぼくは寝袋を持ってサンタバーバラの山に登ることにした。山の中で一晩過ごそうと思ったのである。山の中で、これからどうしたらいいか考えてみようと思ったのだ。
時々日曜日には説教を聞きに来ていたヴェーダンタ教会を通り過ぎ、行けるところまで車で行き、後は細い道を歩いて登った。しばらく行くと、一本の木が生えている見晴らしのいい場所があった。
はるか下の方に太平洋が夕陽をあびて輝いていた。静かだった。
ぼくはその木の下に寝袋を広げ、その上に坐った。しばらく眼下に広がる荘厳な景色に見とれていた。気がつくと、いつの間にか手を合わせ、クレアモントで覚えたばかりの四弘誓願を唱えていた。衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成何度も何度も大きな声で唱えた。そのうちに陽はすっかり沈み、暗くなり始めた。それでもぼくは四弘誓願を唱え続けた。しばらく唱え続けていると、突然、海のほうから風が吹き上がってきた。凄まじい音である。
その風の音に負けないように、さらに声を張り上げた。風はますます激しく吹き、全山が轟々と鳴った。その時である。「その分別を捨てなさい」という声が聞こえたような気がした。いや、確かに聞こえた。あれほど騒々しかったぼくの心がとても静かになっていたのだから。
もう日本に帰ることに迷いはなかった。あたりはすっかり暗くなっていた。もう山の上で野宿する理由もなかった。月明かりを頼りに山を下りた。次の日、サーフライダーズのアパートのプールの脇でギターを弾いている時に、歌が突然出てきた。ことばもメロディも一緒に出てきた。完成するのに五分とかからなかった。これがぼくの歌、〈私は風の声を聞いた〉である。いい歌なのかどうか分からなかったが、歌わずにはいられなかった。
三浦は1969年8月、旅客船に乗って日本に帰ってくる。
日本に戻ってきて強く感じたことは、わが国の仏教界にダーマ・バムズ(放浪の求道者)が見あたらないことだった。アメリカには、彼の交友範囲だけでも数人のダーマ・バムズがいたのである。私が彼から貰った一枚のCDに「門」というフォークが入っている。彼はこのフォークで大勢に順応して生きる日本人に警告を発している。人々は、自身の大事な夢を捨てて万人向きの広い門をくぐる。が、必要なのは、狭い門を通って自分独自の人生をうち立てることではないか、と。
三浦は、繰り返し訴える。
失われたお前の人生
誰が償ってくれる
誰が生きてくれる彼がカリフォルニア大学で国際関係学を専攻し、国際的な機関に就職していたら、世間的には今より華やかな人生を送ることになったかも知れない。
だが、帰国した三浦は京都大学の大学院に入って仏教学を研究し、かたわらフォーク・シンガーとして生きる道を選んでしまう。そして今は故郷に戻り、百姓仕事をしながら「売れないフォーク・シンガー」として各地で歌を歌い続けている。
彼は自分の生涯を決したのはディランの歌だったと言っているけれど、三浦がサンタバーバラでシャーロッテという女子学生に会うことがなければ、その人生は今あるようなものではなかったろう。青春期における小さな偶然が生涯を決定してしまうというケースは多い。太宰治によれば、女の一生は相手が誰でもいい、ふと男に向けて微笑えむことによって決まってしまうという。
三浦に訪れた青春の偶然は、たくさんの稔りをもたらしたようである。
三浦さんの本が印象的だったので、その本の内容をここにかいつまんで紹介した。私は老齢になってから、かえって、青春の形に関心を持つようになっている。今後もさまざまな青春の形を検討していくつもりだが、三浦さんにそのトップバターになって貰った。