はじめに 老子を読んでいると、三島由紀夫が反面教師として浮かんでくる。
老子はエネルギーをシフトダウンして、ゆっくり生きようと提唱しているのに、三島はエネルギーをトップのところまでシフトアップして、全速で突っ走る生き方をしたからだ。老子を開けば、、次のような章句が並んでいる。
木強ければ折る
物壮なれば老ゆ
善く士たるものは武ならず
鍛えてこれを鋭くすれば、長く保つべからずいずれも三島に対する警告の言葉みたいではないか。だが、反老子的な生き方をしたお陰で、彼の周辺が活気に満ちていたことは間違いない。社交上手だった彼の家には、海外からも客が押し寄せ三島との歓談を楽しんだ。彼の生き方が、そうした千客万来の賑やかな日常を生んだのである。
私はこれから三島由紀夫の生涯を概観するけれども、こちらは何しろ生来の老子愛好家だから、以下の拙文が三島ファンの逆鱗に触れるだろうことはほぼ確実である。
討ち入り
三島由紀夫が自衛隊員の決起を促すために市ヶ谷自衛隊総監部に乗り込んだのは、昭和45年11月25日であった。
それまでに三島はかなり入念な準備を積んでいたように見える。市ヶ谷に同行した「楯の会」の学生らの選定をその年の4月中に済ませているから、少なくとも決行の半年前には具体的な準備に入っていたのである。
6月13日には、同行する学生たちと計画の具体的な内容を決めている。市ヶ谷駐屯地に赴いて東部方面総監を人質にした上で、自衛隊員の決起を促し、国会を占拠するという計画である。その後も彼らは頻繁に顔を合わせて計画に手直しを加え、11月25日の決行の日に至っている。
しかし、それにしては決行当日の彼らの行動はあまりにもお粗末だった。猪瀬直樹の「ペルソナ(三島由紀夫伝)」、ヘンリー・スコット=ストークスの「三島由紀夫 死と真実」などに依拠しながら、当日の状況を再現してみよう。
総監室に乗り込んで益田兼利陸将を縛り上げるところまでは計画通りに進んだ。だが、廊下から総監室に入るドアをバリケードを築いて封鎖したものの、隣りの部屋に通じるドアを閉鎖することを怠ったため、ここから幕僚らの突入を招いてしまう。三島はこのとき、日本刀を振るって獅子奮迅の働きを見せ、何人もの幕僚に斬りつけて重傷を負わせている。自衛官らをバルコニー前に集結させることにも成功した。だが、ここにも誤算があった。この日、900人の精鋭部隊は富士演習場に出かけていて留守で、残っていたのは通信・資材・補給などの実戦とは縁のない留守部隊だった。
集まった自衛官の前に、同行した学生がバルコニーから垂れ幕を巻きおろした。しかし白地の布に書き連ねたアピールの檄文は、細字で書かれていて隊員たちには読みとれない。ここは、太字でスローガンだけを箇条書きにしておくべきだったのである。
::::::::バルコニー上から訴える三島
続いて学生の手でビラが撒かれた。だが、束のまま放り投げられたから、ビラは固まったままドスンと地に落ち、自衛官の手にほとんど渡ることなく終わった。もし全員の手にビラが渡ったとしても、あまり効果はなかったちがいない。今読んでみても、檄文には三島らしい華がないのだ。
やがて、三島がバルコニーに登場する。
このころになると事件を聞きつけたテレビ局などのヘリコプターが上空を旋回し、騒然とした雰囲気になった。これでは集結した全員のところまで三島の声は届かない。自衛官への演説を1時間近く予定していながら、彼らはマイクを手配することをしなかったのである。自衛官たちは私語を始め、三島を野次り、演説に耳を傾けるものはなかった。苛立った三島は、「静聴しろ、静聴ツ」とか、「静聴せい、静聴せい、静かにしろ」と叫ぶ。しかし聴衆からは、「聞こえねえぞ」「ばかやろう」「下へ降りてきてしゃべれ」という罵声が返ってくるばかりだった。
三島は、最後に蒼白になって訴えた。
「諸君の中には一人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」
三島は10秒ほど待った。
「一人もいないんだな。よし、俺は死ぬんだ。憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。(ゆったりした口調で)それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。(皇居に向かい正座し)天皇陛下万歳、万歳、万歳」バルコニーから総監室に戻った三島は、誰にともなく「仕方がなかったんだ」とつぶやいて、切腹の準備を始めた。
上着を脱いで上半身裸になった彼は、「やあっ」と廊下にまで届く凄まじい気合いを入れて、短刀を臍の下4センチのところに突き刺した。
介錯を命じられていた森田必勝は、次に自分が切腹することになっていたから動揺していた。振り下ろした刀は三島の肩を切り裂いただけだった。二回目も失敗した。森田は最後の力を振り絞って三回目の刀を振り下ろしたが、やはり三島の首を切り落とすことはできなかった。
「浩ちゃん、代わってくれ」
森田の差し出した刀を剣道の心得がある古賀浩靖が受け取って、一刀のもとに三島の首を切断した。こうして「天才作家」三島由紀夫は45年の生涯を終えたのだった。まさに壮絶な死であった。
臆病者
壮烈な死を遂げた三島は、日頃「尚武の精神」とか「文武両道」を強調していたが、さほど勇気のある男ではなかった。彼が金箔付きの臆病者だったという証言がたくさんあるのである。
三島由紀夫は、林房雄との対談で学生時代に書いた遺書について大いに弁じている。昭和20年2月15日、軍隊への入隊命令を受けた時に彼が書き残した遺書は、以下のような文面になっている。
遺書 平岡公威
一、御父上様
御母上様
恩師清水先生ハジメ
學習院並二東京帝國大學
在學中薫陶ヲ受ケタル
諸先生方ノ
御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
友情マタ忘ジ難キモノ有リ
諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ルー
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
御父上、御母上二孝養ヲ尽シ
殊二千之ハ兄二続キ一日モ早ク
皇軍ノ貔貅(ひきゅう)トナリ
皇恩ノ万一二報ゼヨ
天皇陛下萬歳末尾を「天皇陛下萬歳」で結んだこの遺書に関連して、三島は次のように語るのだ。
「それにしても、『天皇陛下万歳』と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。
いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい何だったんだろうか。僕は少なくとも、戦争時代ほど自由だったことは、その後一度もありません」
三島のこの言葉に嘘はないかもしれない。実際、戦争中の彼は天皇のため、皇国のために、命を捨てる覚悟でいたのである。
しかし、三島は入隊前の身体検査で軍医が「この中に肺の既往症がある者は手を挙げろ」と言ったときに、サッと手を挙げるのだ。彼は嘘をついて兵役を逃れた「入隊拒否者」だったのである。
この時の自身の振る舞いについて、彼は「仮面の告白」に次のように書いている。
「何だって私はあのようにむきになって軍医に嘘をついたのか?
何だって私は微熱がここ半年つづいていると言ったり、肩が凝って仕方がないと言ったり、血痰が出ると言ったり、現にゆうべも寝汗がびっしょり出たと言ったりしたのか?」
必死になって嘘をついたお陰で彼は、入隊を免除され帰宅を許された。
検査場の門を出るやいなや、三島は付き添ってきた父親と一緒に脱兎のごとく逃げ出した。「さっきの決定は取り消しだ」と言われはすまいかと、父親の表現によれば「逃げ足の早さでは脱獄囚にも劣らぬ」勢いで、一目散に駆けだしたのだ。三島の恐怖症については、空襲警報が鳴り出すと真っ先に防空壕に逃げ込んだというような逸話があるし、あれほど作品の中で海を美しく書いた三島が、家族で海岸に出かけても海が怖くて泳ごうとしなかったという話にも現れている(夫人の談話)。
だが、こうした弱さは誰にもあることである。だから、あまり詮索しないとしても、彼の「蟹」恐怖の激しさには、やや異様なものを感じる。三島は料亭の出す膳に蟹があると、恐怖のあまり顔色を変えたというし、蟹という文字さえ嫌悪したというから、症状は半端ではなかった。
「からっ風野郎」という映画に出演したときの挿話にも、引っかかるものを感じる。彼はこの時の映画監督(増村保造?)をひどく怖がって、撮影所長以下のお歴々に泣きつき、彼らに立ち会ってもらって最後の場面の撮影を完了したというのだ。
恐怖に駆られて子供が親にすがるように、本能的に撮影所長にすがる。世俗的な権威にすがる代わりに、日本刀にすがる場合もあった。
明敏な頭脳を持っていた三島は、対談・討論などで誰を相手にしてもひけを取らなかった。だが、唯一の例外が新左翼系のいいだ・ももで、彼と対談するときには日本刀持参で席に臨んだという。そして形勢が不利になると、話の途中で相手の頭上で白刃をぶんぶん振り回した。何時でも優位に立っていないと不安になる三島は、こんな子供っぽいやりかたで頽勢を挽回しようとしたのである。
特に勇敢とはいえなかった三島が、市ヶ谷の総監室で見事に腹を切り得たのはなぜだろう。当時の新聞報道によると、一緒に死んだ森田には「ためらい傷」があったが、三島にはそれがなかったという。彼のこの果敢さは、何時いかにして生まれてきたか、それを探ることがこの文章の主たる目的である。
生育環境
彼の気の弱さ、そして大人になっても抜けない幼児的な恐怖への過剰反応を生んだのは、特異な生育環境だった。人が臆病になるのも、粗暴になるのも、幼児期の生育環境の結果であり、本人の責任とはいえない。三島の場合は特にそうなのである。
三島は生後49日目に両親から引き離されて、祖母の手元に移された。その頃、彼の両親は祖父母と同居して二階に暮らしており、祖父母は階下にいたから、赤ん坊の三島は二階から階下に移されたのだ。母の倭文重が息子に会えるのは、日に数回の授乳の時だけだった。
祖母の夏子は、独裁者として家の中に君臨していた。彼女は樺太庁長官まで勤めた夫を憎み蔑んで尻の下に敷き、息子夫婦を頭から押さえつけて一言も文句を言わせなかった。家族全員が腫れ物にさわるように祖母に接したのは、彼女が夫から性病をうつされてやや精神に異常を来していたからであり、座骨神経痛に悩まされて騒音に過敏に反応したからだった。
三島は、老いの臭いと病臭のこもる祖母の部屋で、12年間を過ごしたのである。三島が自家中毒で死にかけるという出来事もあって、祖母は何より孫の病気や怪我を恐れた。留守中に三島が階段から落ちて怪我をしたと知らされたときに発した祖母の言葉は、「死んだのかい」だった。
::: 祖母夏子と三島
祖母は三島が「危ないこと」をするのを恐れ、外出を禁じた。そして年上の女の子3人を友だちとしてあてがい、おはじきや折り紙で遊ばせた。
小学校に上がるようになると、帰宅した三島は祖母の用意しておいたオヤツを食べ、彼女の枕元で勉強する。祖母は事故を恐れて学校行事の遠足にも三島を参加させなかった。そして三島に家門の誇りと、貴族趣味を教え込んだ。
夏子の祖父は若年寄にも取り立てられた名門旗本永井玄蕃頭であり、彼女は皇族の有栖川宮熾仁邸に12歳から17歳までの5年間、行儀見習いのため住み込んでいたのである。
三島は物心ついたときから、祖母の命じることにはどんなことでも従った。彼は、幼い囚人だった。しかし、注目すべき点は、三島がこうした状況を決して嫌ってはいなかったことである。彼は成人してからも病臭の籠もる祖母の部屋を懐かしんで「私の内部のどこかがまだ暗い病室の枕元のほうが好きだったのだ」と書いている。
三島のあとに生まれた妹と弟は、両親と一緒に二階で暮らしている。そのことを不満に思うより、家の中の絶対的権力者である祖母に自分だけが選ばれ、特別に庇護されていることを喜ぶ気持の方が強かったのだ。生まれつきひ弱で、学校に通うようになってからは「あおじろ」とあだ名されるような三島は、支配される不満を感じる前に、庇護される特権を誇らしく感じたのである。
三島が数えで13歳になったとき、祖父が「いくらなんでも中学生ともなれば、他の弟妹と離しておく訳にはいかないだろう」と夏子を説得してくれたおかげで、彼は両親と一緒に暮らせるようになった。両親は三島を引き取ることになったのを機に、祖父母とは別の借家に移り住むことになる。
祖母の支配から脱したと思ったら、三島は今度は父親の圧制下でくらすことになった。三島の父は農林省の役人だったが、文学に興味を示し始めた息子が気に入らず、三島が小説本を読んでいると、それを取り上げて床に叩きつけたり、書きかけの原稿を引き裂いてゴミ箱に捨てたりした。三島が可愛がっていた猫を捨ててしまうかと思えば、悪戯をした息子を木刀を持ち出して折檻しようとした。
三島の父は、息子に厳しい態度で臨んだ理由を「抵抗が人間を育てるんだ。そのために僕は、倅にきびしく当たってきた」と弁明している。
こうしたときに、三島を庇ってくれたのが母親の倭文重だった。彼女は息子が詩に関心を持ち始めたと知ると、三島を連れて詩人の川路柳虹宅を訪ね、息子の指導を頼んでいる。川路は華麗な作品を作る詩人で、私には三島の人工的で壮麗な文体は、川路の影響を受けているように思われる。
三島は自分を庇護してくれる母を他のいかなる人間よりも愛していた。
猪瀬本には、友人の見聞として、20代の三島に関わるこんな話が載っている。ある時、友人が三島を訪ねていったら、倭文重が「ちょっと足が痛くて」と言った。すると、三島が「お母ちゃま、どこ、どこ?」と人目もはばからず、一心に母の足をさすり始めたので、目のやり場に困ったというのである。同じ頃に、三島は二人の女性に求婚したが、実らなかった。
その理由を娘の一人は、「あれほど濃密な母と息子の関係を見せられると、とても入り込んでいけないと思われたから」と語っている。三島を庇護してくれたのは、祖母や母ばかりではなかった。
学習院中等科に通うようになった三島は、同学年の友人よりも年長の先輩や教師との交渉を深め、彼らの手厚い庇護を受けている。最初につきあった年長の先輩は、8歳年長の坊城という上級生だった。当時高等科3年だった坊城は、中等科1年の三島が校友会誌に発表した作品を読んで感心し、彼の方から交際を求めてきたのだ。そして二人は毎日のように長い手紙を交換するようになった。坊城の次に親しくなった東文彦も、5歳年長の先輩である。
三島の早熟の才能に目をつけたのは、先輩ばかりではなかった。
国語教師の清水文雄と、その後任の蓮田善明は、三島を高く評価し、その作品を自分たちの関係している同人誌に紹介する労を取っている。高等科に入ってからはドイツ語教師新関良三にも目をかけられた。清水と蓮田は「日本浪漫派」系の教師だったから、三島もその影響下に保田与重郎などの作品を耽読するようになった。日本浪漫派系の詩人や作家たちは、あの破滅的な太平洋戦争のさなかに、競うようにして死と滅びの美しさを歌い上げていた。
三島と同じく戦中派の私は、日本浪漫派に心酔している友人を何人か知っているけれども、そのうちの一人が「これはいいなあ」と、まるで夢見るような表情で賞賛した保田与重郎の作品を思い出す。それは、ビルマ戦線かどこかで、友軍とはぐれてしまった兵士が象にまたがって森の奥から戻ってきた話をメルヘン風に描いた作品だった。
戦争末期の青年たちは、日本浪漫派を読むことによって間近に迫った死を一種の恍惚状態のうちに待ち望んでいた。それは蛇を前にした蛙が、麻痺したようになって赤い口の中に呑み込まれて行くのに似ていた。
あれだけ聡明な三島が、さほど優れているとも思われない国語教師に惹かれ、その導きのままに日本浪漫派に傾倒ししていったのは、庇護してくれるものに随順するという物心ついた頃からの習性による。
三島は学習院高等科を首席で卒業し、天皇から恩賜の銀時計を貰っている。
後年の天皇主義は、こんな所に根を持っているのかも知れない。天皇主義者になってから、彼は天皇みずから自衛隊の各部隊に連隊旗を手渡せ、と提言している。そうすれば、天皇と隊員を結ぶ感情的な靱帯は、一層強くなるというのだ。彼が学習院を首席で卒業したことは、彼がペン習字の手本のような文字を書いていることと並んで興味深い。祖母や母を喜ばせ、目をかけてくれる教師たちの期待に応えようとすれば、どうしても世俗の側に立ち優等生という勲章を目指して努力しなければならない。すれっからしに見える三島の内部には、庇護者に純情を捧げる熱いロイヤリティーが潜んでいた。三島には、目をかけてくれる上長の人間への臣従癖があるのだ。
彼は川端康成の紹介で文壇に登場し、「盗賊」を出版したときに川端康成から序文を書いて貰った。この序文を保管する封筒に、三島は「川端康成氏から賜はりたる序文」と記している。
夢想
少年期の三島は、門の外に出ることを許されず、危ないことは一切禁じられ、祖母の病室に幽閉されていた。並の少年なら、このまま温和な人間になったかもしれない。しかし三島は想像力を駆使して外の世界に逃れ出て、そこで祖母から禁じられている危険なアヴァンチュールを楽しむ能力を持っていた。
彼は空想の中で勇士になり英雄になって、決死の冒険に挑戦する。が、その果てに勝利の栄光が待っているのではなく、悲劇的な死の待っている点が、大方の夢物語と違っていた。5歳で読み書きができるようになった三島は、手にはいる限りのお伽噺を読んだ。だが、彼は、王女たちをどうしても好きになれず、殺される王子や死ぬ運命にある王子に興味を覚え、「殺される若者たちを凡て愛した」のだった。
祖母は三島が事故死することを恐れていたから、彼は逆に自分が殺されたり、戦死したりする場面に刺激を感じるようになった。祖母が家系を誇り、宮家で過ごした過去を語り草にしたから、彼は無知で粗野な糞尿汲取人を愛したのだ。
(「仮面の告白」では、彼が糞尿汲取人に惹かれた理由を同性愛の嗜好があったからだと説明している。諸般の事情から見て、三島がホモだったという伝説は甚だ疑わしい。彼は文学的な戦略上、自分を同性愛者であるかのように見せかけたのだ)
子供の頃、死にからまる耽美的な空想にふけっていた三島は、祖母の手を離れて両親と暮らすようになると、空想の対象を変化させはじめた。両親が安全を旨とする小市民的な生活を送っていたので、三島は平穏な生活を覆すような凶事を待望するようになったのである。大抵の三島論は、15歳の三島が作った「凶ごと」という詩を引用している。
わたくしは夕な夕な
窓に立ち椿事を待った
凶変のどう猛な砂塵が
夜の虹のように町並みの
むこうからおしよせてくるのを凶事を待望し、悲劇的な死を願っていた少年が、さらに成長して学習院高等科に進む頃になれば、二・二六事件の青年将校たちに関心を持つようになるのは自然なことだった。なぜか戦時下の東京には、血盟団、五・一五事件、二・二六事件などに関する本が大ぴらに売られていたのである。
重要なことは、三島が処刑された青年将校たちの心情に目を向けたことだった。日本浪漫派の洗礼を受けて、「高貴な魂は卑俗な現実の前に滅びて行かざるを得ない」と考えていた彼は、その「高貴な魂」を青年将校たちの上に見たのである。
どのような戦争にも、人間を純化する側面があるものだ。
戦争中に「農耕隊」に編成された農学校生徒の話を聞いたことがある。彼らは松林の中の寮に泊まり込んで、食糧増産のために毎日、あちこちの空き地を耕して回ったのだが、国のため天皇のために働いていると思うと空腹も疲労も全然気にならなかった。毎朝、戸外で洗面していると、松林の向こうから朝日が射してくる。その朝日が清らかな霊気を含んで輝いていた。それは、この世ならぬ光に見えた・・・・。
この農学校生徒に限らず、個を越えた大きなもののために生きようと思ったときに、人はこれまで知らなかったような浄福に包まれる。三島も、天皇のために兵を起こし、その天皇の命令で逆賊として処刑された青年将校の運命に自分を重ね合わせたときに、怒りとも悲しみともつかない深い激情のとりこになったのだ。
彼がそれまでに知っていた死は、自傷行為としての死であり、耽美的な死だったが、青年将校たちの死は、自分一個のためではなく、他のなにものかのために身を捧げ、酬われることなく終わった死だった。
芸術至上主義
三島は学習院高等科時代から、世に出るために人一倍努力を重ねている。
国語教師の清水・蓮田を介して文壇人や編集者への接近をはかり、大学に入ってからは勤労動員先の工場が休みになるたびに作家訪問を試みている。お陰で、「花ざかりの森」の出版にこぎつけはしたが、功を焦る三島の行動は関係者にあまりいい印象を与えていない。詩の師匠だった川路柳虹は、三島のことを「あれは早熟でも天才でもない。ただの変態だ」と冷評していたし、つてを頼って作品を読んで貰った志賀直哉(志賀の娘は三島の学友)からは、「平岡(三島の本名は平岡公威)の小説は夢だ。現実がない。あれは駄目だ」とにべもなく一蹴されている。
詩人の伊東静雄は、「花ざかりの森」の序文を何度頼まれれても、書こうとしなかった。それでもあきらめず三島は伊東の自宅まで押し掛けて頼み込んだが、伊東はやはり断っている。彼はその日の日記に、三島のことを「夕食を出す。俗人」と書き、その後、また三島が手紙で序文を頼んで来た日の日記には、「平岡から手紙。面白くない。背のびした無理な文章」と記している。
当時、「文芸」の編集者をしていた野田宇太郎は、三島が持ち込んだ原稿を読んでその才能を認めたが、「岬にての物語」には感心しなかった。達者な文壇小説にすぎないという印象を受けたからだった。
野田が「君は一体文壇の流行作家になりたいのか?」と問いただすと、三島は平然と「有名な流行作家になりたいです」と答えて、以後野田から遠ざかってしまった。野田は「もう私の利用価値もそこが見えたのだろう」と推測し、「私は小賢しい三島という男がいやになった」と書いている。
努力の甲斐があって、戦後、川端康成の紹介で三島の作品が「人間」に作品が掲載されることになった。三島にはジュリアン・ソレルの面影があると感じていた「人間」の編集者は、そのころ「光クラブ」の経営に失敗して自殺した学生高利貸しをモデルに作品を書いてみないかと勧めた。彼と三島の間に共通するものを感じたからだった。三島も乗り気になって原稿を書き始めたが、「青の時代」と題名をつけて作品を発表する段になると、掲載誌をアイデアを出してくれた「人間」から、「新潮」に切り替えてしまった。「新潮」の方が大きな雑誌だったからだ。
「人間」の編集者は、(三島はまさにジュリアン・ソレルだな)と思った。
三島は、その後も能力のない人間や、利用価値のない者を冷酷に切り捨ててきた。これは流行作家に共通した行動ともいえるが、三島のように目から鼻へ抜けるような人間のすることだと、こうした点がよけいに目に付くのである。しかし、これらは彼がすぐれた作品を次々に発表しているうちは問題にされることはなかった。こうした性癖は、才能ある作家にはつきものだと大目に見られたのである。
実際、デビュー後の三島の活躍は目覚ましかった。
まるで鶏が卵を生むように易々と短編・長編小説やら、エッセー・作家論を発表する。しかもそのどれもが、水準を抜く出来映えなのである。彼は魔術師のように巧みに言葉を操り、明晰で切れ味鮮やかな文章を書いた。意表をつく構成、あっと驚くどんでん返し、鮮やかな論理展開、どれをとっても水際だっていた。彼を新進作家たちの中においてみると、カラスの群の中に舞い降りた鶴のような感じだった。三島の成功は、戦後日本の市民的幸福にシニックな冷嘲を浴びせる作品を量産したことにあった。
記憶が定かでないけれども、「日曜日」という短編があったと思う。日曜日だけにデートできる貧しい恋人が、一年先の分まで日曜日の予定をギッシリ立てている。ところが、その二人はデートの帰りに、プラットホームから落ちで電車に轢かれるのだ。そして、この作品は二人の首が線路脇にごろりと転がってしまうところで終わるのである。
丹念に作り上げた予定表も、ちょっとした事故で簡単に崩れ去る。市民的幸福なんて、そんなものだよと三島は言うのである。
「私の修業時代」で、三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。
「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)
市民的幸福に対する呪詛に近いまでの攻撃は、福祉国家否定へと発展する。三島は週刊誌の質問に答えて、「人間の絶望的状態である完全福祉国家」といい、「福祉国家までいかないと、福祉国家の嫌らしさは分からない」と放言している。
デビュー後の三島の長編小説には、共通の特色がある。
「愛の渇き」のヒロインは、密かに愛していた若者が愛を返してよこしたとき、嫌悪感に襲われて相手を殺してしまう。「沈める滝」の青年技師は、愛人関係にあった人妻を棄て、女を自殺に追い込んでしまうが、それは不感症だった女が性の喜びを知るようになったからだった。
三島の最高傑作とされる「金閣寺」も、似たような構造をしている。金閣寺を愛していた青年僧は、美が滅びるのは、美そのものよりも美しいと言う理由で金閣寺に放火する。そして美の囚われ人だった彼は、寺を焼き払うことによって初めて自由になり、蘇生する。自由を実感するためには、愛するものを抹殺するしかないという冷酷なまでの自己中心主義。
三島の主人公たちは、愛の完成・美の享受を目指して営々と努力して目的を達する。普通、物語はここで大団円になり、めでたしめでたしで終わるところを、三島はくるりと反転して彼らを奈落の底に突き落とすのだ。そして、その後には歌舞伎にみるような残酷な殺しの場面が続く。彼らは揃って、愛するヨハネの首を欲しがったサロメ的人間なのである。
芸術至上主義の裏側
市民的な幸福や常識的なモラルをシニックな目で描いた三島は、登場以来、芸術至上主義者と目されていた。だが、彼の実生活は芸術至上主義とは程遠いものだった。というより、彼は自分が作品の中で軽蔑して見せた常識的・世俗的な幸福の中にぬくぬくと安住していたのである。
職業作家になったばかりの頃に、二人の女に求婚して両方から断られるという苦い経験をした三島も、今や、「上流社会」の女性たちからから競って秋波を送られる身になった。
彼は夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になったが、執筆のかたわらスタンドプレーも忘れなかった。彼は乗馬クラブに通い、馬を馬場から一般道に進め、避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。
軽井沢では、上流の令嬢や夫人によるパーティーが開かれていた。三島はそれらに顔を出して、岸田今日子・兼高かおる・鹿島三枝子・「鏡子の家」のモデルになった人妻などと親しくなった。
やがて彼は歌舞伎の楽屋を訪ねた折りに一緒になった料亭の娘と親しくなり、三日にあげず旅館で逢瀬を重ねるようになる。肉体交渉を伴うこの関係は、数年間続いている。
彼の「世俗的生活」を象徴するのが、ビクトリア朝風の白亜の邸宅だった。
「鏡子の家」の印税を前借りして建てられたというこの家は、欧米人の目には異様に映り、日本人にはグロテスクに見える金ぴか趣味の邸宅だった。家の中には、骨董品を寄せ集めたような得体の知れぬ家具がごたごた並び、ソファには三島が少年時代から大事にしていたお気に入りの人形が置いてあった。さほど広くない庭の真ん中に「理性に対する軽蔑の象徴」として大理石のアポロ像が据え置かれて、訪問客の目を驚かせた。客の応対に出る女中は、西洋風の白いキャップに白エプロンという格好をしており、食後には客にブランデーと葉巻が出された。三島邸を訪ねた外人記者は、「これほど西洋式を徹底する日本のインテリを見たことがない」と語っている。
::: 三島邸−中央にアポロ像が立っている
三島の所有する「外車」も人目を引いた。彼はアメリカ製の大きな青い自動車を買い込んでいた。とにかく彼は他人と違うことをしていなければ気が済まなかった。「三島由紀夫 死と真実」の著者によると、彼にとっての日常とは、やたらに自分を飾り立て、派手な演技をする舞台に他ならなかった。
三島は、約束の時間を違えず、原稿の締切も厳守するという市民的な美徳の持ち主だったが、同時に金の貸借にも合理的で、友人に貸した金などを厳しく取り立てた。
こうした作品と実生活の乖離はどこから来るのだろうか。
三島由紀夫の基層にあるのは紛うことなき俗物性だった。
彼には祖母直伝の貴族趣味と、両親から受け継いだ小市民主義があり、また、自身で育てたエリート意識があった。三島は、祖母・母・先輩・教師の庇護を離れて自立するようになってからも、自分を支えてくれるものを求めた。それが、世評であり、他から抜きんでることであり、たえず周囲から注目されることだった。彼は世俗的なもので身を包んでいないと安心出来なかった。それは、自分には何か大事なものが欠けているという強い不全感があったためと思われる。祖母や母から行き過ぎた庇護を与えられているうちに、彼はそれは自分に何か欠けているものがあるからだと感じるようになったのだ。
俗物的な生活を送りながら、反俗的な作品を書くという二重の構図は、祖母に守られて安全第一の日々を送りながら、頭では流血の死にあこがれた少年期の二重生活を引き継ぐものだった。彼はこの二重性の故に、頭では世俗を否定し、大衆社会現象を軽蔑していながら、その世俗から受容され賞賛されることを渇望したのである。
三島は自らの性格的なひ弱さを克服しようと、いろいろ努力している。だが、その努力も、結局は自分の世俗的価値を高める方向に向かってしまう。
小学生だった頃に、彼は省線電車の中で、大人の乗客をにらみつけ相手が目を逸らすまで凝視を続けるという「自己訓練」を行っている。最初、相手はいぶかしそうに彼を見返すが、やがてうるさくなって視線を逸らす。すると、幼い三島は「勝った」と思うのだ。
三島を知る誰もが口にする彼特有の高笑いを、ラジオで聞いたことがある。私は病気療養中、安静時間にはラジオを聴いて過ごしていたが、ある日、「高校生の作家訪問」という番組を聞いていて、あの有名な高笑いを聞いたのである。それは、相手の感情を無視した傍若無人の哄笑で、聞く者を脅かして不安にさせるような耳障りな笑い方だった。この高笑いを彼は新進作家時代に身につけたと言われる。
話をするとき、相手を真っ正面から見据え、続けさまに相手の心を脅かすような哄笑を浴びせかける対話術は、相手より優位に立っていないと崩れてしまう三島の幼児的な弱さから来ていた。
世俗的な生き方をしながら、反俗的な作品を書き続けるという矛盾は、何時かは馬脚を現さずにはいない。それは彼が、「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった」と誇らかに記してから4年後に起こった。
「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによって、全部成就してしまった。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」
三島は昭和34年(34歳の時)に満を持して「鏡子の家」を発表した。「金閣寺」の成功の後に、渾身の力を込めて発表した自信作だった。しかし、この作品は批評家から全く評価されず、冷たい黙殺をもって迎えられた。
「鏡子の家」には、三島の分身とされる4人の青年が登場する。
ボクサーの俊吉は、全日本チャンピオンになるが、ちんぴらに襲われて拳をつぶされ、右翼団体に加入する。
美貌の新劇俳優の収は、醜貌の女高利貸しに金で買われ、最後にこの女と心中してしまう。
日本画家の夏雄は、自分を天使だと信じている。
商社マンの清一郎は、世界の崩壊を信じている。この小説について、例えばヘンリー・スコット=ストークスは次のように解説している。
三島のこういう四つの顔を配した『鏡子の家』は、一九五〇年代の三島文学の中では最も雄弁に著者自身を語るものといえるだろう。四人が代表する三島の四側面は、いずれもこのころまでは目立たなかったが、やがて六〇年代に入ってはっきり現われてくる。
峻吉に代表される右翼的偏向は、一九六五年以降はとくに顕著になるし、人間は肉体が美しいうちに自殺しなければならないという信念も、六〇年代後半には明確になる。同じことは、流血によって存在の保証をつかもうとする収の欲望や「完全な芝居」への夢についてもいえる。
だが『鏡子の家』の最大の特徴は、四人の登場人物のうち三人までが世界の,崩壊を必至と考えていることだろう。この意味で、三島のニヒリズムは浪曼派のそれと非常に近い。
江藤淳は、三島を指して、挫折した日本浪曼派の最後のスポークスマンだと言い、戦後の三島作品に繰り返し現われる世界崩壊への期待は、浪曼派最大の特色の一つだったと書いている。
「鏡子の家」が評価されなかった理由はいろいろあるけれど、一言でいえばこの4人の登場人物のどれにもリアリティーがなかったことだろう。三島は4人の人物に自分を分け与えるに当たって、彼の持つ二つの側面のうち、市民的幸福を唾棄するニヒルな面だけを投入した。
「僕は俗気があります」と自分から認めていながら、彼は自分の世俗性とその背後に潜む不全感を作品の中に書き込むことを避けた。これでは登場人物が一面的な作り物に堕してしまうのも当然といえる。
ここまで順風満帆、やることなすことすべてが思う壺にはまってきた三島にとって、「鏡子の家」の失敗は大変な打撃だったらしい。彼は大島渚との対談で、「鏡子の家」発表後の文壇の反応について「その時の文壇の冷たさってなかったですよ」と語り、「それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」とうち明けている。事実、この頃から三島由紀夫狂乱がはじまるのである。
三島狂乱
年譜によると、三島は「鏡子の家」を発表した翌年に大映映画「からっ風野郎」に出演している。この時、彼は大映と専属俳優契約を結んでいるから、この後も続けて映画に出る積もりだったに違いない。
「からっ風野郎」での三島の役はちんぴらヤクザだった。
この映画に出たことで三島は、彼を愛する読者たちに幻滅をもたらすこととなった。それまで、三島には天才作家というイメージがあったけれど、映画で見る彼は短躯短足、気の毒なほどに貧相な人物だったのだ。ラッキョウ頭だけが目に付くその体には、未成熟で病的な印象があった。致命的だったのは、役柄の関係もあって、彼が精神的にも深みに欠けた薄っぺらな男に見えたことだった。三島はこの悪評にもめげず、やたらに週刊誌や新聞の三面記事に登場するようになった。
町内会の一員として、はっぴ姿で御輿を担ぐところを写真に撮られるかと思うと、ゲイバーに出かけて自分で作詞したシャンソンを歌い、衆人環視の中で丸山明宏(三輪明宏)と抱き合ってキスをした。
彼が最も熱中したのは、肉体の改造だった。
三島は夜中に執筆し、夜明けから正午まで就寝するのを例としたが、午後からボディービルや剣道の道場に通うようになった。その熱心さは異常な程で、間もなく彼の身体には「隆々たる筋肉」がつき始めた。::: 三島の胸毛も有名だった 不全感の所有者がやることには、限度というものがない。自分の体に自信を持ち始めた彼は、機会あるごとに肉体を誇示するようになった。三島は、「男というものは、うぬぼれと闘争本能以外に何もないのだ」と弁解しながら、機会あるごとに裸になった。
彼は「三島由紀夫展」のカタログに次のように書いている。
「私はようやくこれ(鍛え上げた肉体)を手に入れると、新しい玩具を手に入れた子供のように、みんなに見せ、みんなに誇り、みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。私の肉体はいわば私のマイ・力ーだった。
・・・・・しかし肉体には、機械と同じように、衰亡という宿命がある。
私はこの宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもっとも危険な道を歩かされているのである」かくて「薔薇刑」と題する自らのヌード写真集を出版し、「わが肉体は美の神殿」と自称するにいたる。ここまで来ると、もう狂気の沙汰としか思えない。彼は書斎に等身大の鏡を据え付け、自分の姿を鏡に映しながら執筆しているという噂がたった。
三島がしきりに愚行を重ねるのは、自分を評価しなくなった知識人に当てつけるためだった。すると、その度に、彼に対する評価は落ちていった。三島文学は本質的に青春文学だから、若かった頃に三島の作品を愛読した読者も、年を取ると次第に彼の逆説や反語、装飾過多の文章をうるさく感じるようになる。そこへ三島の露出趣味である。年輩の読者の三島離れは、急速に進行し始め、その結果、新作を出すと20万部は売れていた彼の著書が、1960年代(35歳以後)には2〜3万部しか売れないことが多くなった。彼が苦々しげに「作家殺すに刃物はいらぬ、旧作ばかりをほめればよい」と書いたのもこの頃である。
世評にも増して三島を打ちのめしたのは、相次ぐ旧友の離反だった。
彼は当代一流の知性である中村光夫・大岡昇平・福田恒存・吉田健一と「鉢の木会」を作って定期的に交流していた。自分にとっては先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは三島の大きな自信になっていた。が、ある日メンバーの一人から、「お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな」と面罵される事件が起きたのだ。
三島は「鏡子の家」に続いて有田八郎元外相をモデルにした小説「宴のあと」」を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。ところが、この時「鉢の木会」の吉田健一は三島を裏切って有田側に立つ発言をしたのである。
「文学座」の運営で同志の関係にあった福田恒存にも裏切られた。福田は、三島由紀夫と杉村春子に後足で砂をかけるようにして、文学座の有力俳優を引き抜き劇団「雲」を発足させたのだ。
そして三島は、杉村春子からも裏切られる。
杉村春子は、昭和38年、三島の戯曲「喜びの琴」を右翼的であるとして、上演を拒否した。この件で、三島は朝日新聞に抗議文を載せ、10年近く続いた彼と「文学座」の濃密な関係は遂に絶たれてしまった。他に、三島は年少の友人黛敏郎とも絶交している。読者の離反、旧友の離反に続いて川端康成がノーベル賞を受賞したことも、三島にはかなりのショックだったと思われる。三島の作品は、若者向きである以上に、外人向きに出来ていた。日本には私小説の伝統があって、作品は作家の生活や人となりと絡めて鑑賞されるのが常だったが、三島は作品を自分から完全に切り離し、それ自体で成立する自律世界に仕立て上げていた。自伝的作品とされる「仮面の告白」ですらそうだった。
これは西欧的な文学作法に他ならなかった。三島も、文学作品は一つの夢をシステマタイズすることによって成り立つと語り、中村光夫との対談では「物語というものは、人を知らぬ間に誘い出し、どこか水の中にポコンと落として溺れ死にさせるようなものですね」と言っている。
こうした事情もあって、日本文学を海外に紹介することに貢献したドナルド・キーンなどは、早くから三島に注目し、その作品を英訳して自国に紹介している。三島自身もアメリカやフランスに渡り、欧米の出版業界に顔を売る一方、各国の文学関係者に知己を増やしていた。そのため、1960年代の半ば以降、毎年のように三島がノーベル文学賞を獲得するのではないかという下馬評が流れるようになった。
三島もその気になって、ノーベル賞の受賞がほぼ確実というニュースが流れた時など、自ら記者会見場を予約して吉報を待ったほどだった。が、結果は川端康成の受賞に終わった。三島はその報を聞いて、祝辞を述べるために真っ先に川端邸に駆けつけている。そして「この次にノーベル文学賞を取るのは自分ではなくて大江健三郎だろう」と語り、格別、悔しそうな顔も見せなかった。大江の受賞を予言したところなど、三島の眼力はさすがだった。
苦心の労作が批評家に黙殺されるというようなことは、作家なら誰でも経験することだった。だが、三島は「鏡子の家」が期待したほどの評価を得られなかったことで「狂っちゃった」り、ノーベル賞を逃したことで深刻な失意に陥ったりする。三島は世評を軽蔑するポーズを取りながら、麻薬患者がモルヒネを必要とするように周囲からの絶えざる賞賛を必要としていたのである。
いまや彼の耳に入ってくるのは嘲笑ばかりだった。三島は石川淳に「(僕が)一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする」と愚痴り、林房雄には「身から出たさびだと思っています。やはり僕の行跡がたたっていましてね、何をやったって信じてもらえない」と語っている。三島は、俗物に徹することが出来なかった。彼には天才作家という肩書きがどうしても必要だった。基層の俗物的部分を満足させるには、上層の作家活動で成功し、芸術的価値の高い反俗的作品を書きつづけなければならない。ここに彼のジレンマがあったのである。
三島は文壇に登場する際、戦略として同性愛者を装った。今度は、行動する作家という戦略をとることにして、剣道、ボクシング、空手などに熱中しはじめたのだ。ゴルフをやる作家はいても、武術や格闘技をこなす作家はいない。
行動する作家として認知されるには、理論武装も忘れてはならない。その理論は現代人の手で汚されていない、そして今も脈々と日本人の意識の底を流れる地下水系のような思想でなければならない。
アメリカの社会学者リースマンの著書を愛読していた三島は、社会には「横の社会」と「縦の社会」があり、前者は個性を失った砂のような人間によって形成される大衆社会だが、後者は歴史的民族的社会で、このなかに「汚れていない思想」が眠っていると強調する。
この見地から彼が持ち出してきたのが「葉隠」であり、陽明学だった。彼は何かの思想に触れると、たちまちその使徒になり、高らかに人寄せのラッパを吹き始める。
が、文壇の反応は冷ややかだった。彼の行動主義は、それまでに彼が演じてきた人気取りのパフォーマンスと同列に見られ、「ああ、また始まったか」と作品の評価をさらに引き下げることになった。
こうなったら彼に残された道は、暫くマスコミと関係を切り、鳴かず飛ばずの状況に身を置くことしかなかった。が、三島は沈黙を守るどころか、「知識人の顔というのは、何と醜いのだろう!」というふうなことを感嘆符つきで言って、八つ当たりをはじめる。
ドナルド・キーンなど外国の友人は、三島に一年ほどカナダに行ってひっそり暮らすことを勧めている。
だが、三島は自宅に毎日客を招き、マスコミから対談・対論の注文がかかれば、どこへでも出かけていって誰とで議論することを喜びとしているような男だった。そんな男が1年間もの孤独に耐えられるはずがなかった。
だが、この頃の三島は極めて危険な状況にあったのである。
「豊饒の海」に着手する1年あまり前、三島邸に一人の青年が押し入ってきた。この青年はすぐに警察の手に引き渡されたが、三島はこの小事件を素材にした短編「荒野より」を書いている。このなかで、三島はあの青年はどこから来たかと自問し、三島自身の心の荒野から来たのだと書く。
「それは私の心の都会を取り囲んでいる広大な荒野である。私の心の一部にはちがいないが、地図には誌されぬ未開拓の荒れ果てた地方である。
そこは見渡すかぎり荒涼としており、繁る樹木もなければ生い立つ草花もない。ところどころに露出した岩の上を風が吹きすぎ、砂でかすかに岩のおもてをまぶして、又運び去る。
私はその荒野の所在を知りながら、ついぞ足を向けずにいるが、いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければならぬことを知っている。明らかに、あいつはその荒野から来たのである」
三島由紀夫が、何時頃から自死を日程表にのせはじめたか確言できない。
三島には死に向かう体内時計が埋め込まれていたという説もあり、彼は死を恐れていたから、死を選んだという者もいた。あまりたくさん書きすぎて、もう書くことがなくなったので死んだのではないか、と推測する作家仲間もいる。早くに名声を得て、その後もずっと名声を維持してきた作家が突然自殺するというケースをしばしば見受ける。例えば、芥川龍之介は、夏目漱石に認められて早くに文壇に出てから、一貫して第一線を歩み続けた。にもかかわらず、突然、自殺している。
芥川本人は、遺作の中で「ぼんやりした不安」がその原因だと説明している。
しかし友人の菊池寛は、自殺する前の芥川に作家活動を暫く休んで、大学教師にでもなったらどうかと忠告していた。書く素材が尽きて、芥川が自信喪失に陥っていると見たからだった。最初から「一流」の地位を維持してきた芸術家は、そのレベルから脱落することをひどく恐れる。そして、もう一流の地位を維持できないと見切ったときに、実に簡単に自殺する。自分が二流の存在に堕してしまうことが耐えられないのだ。
三島には、まだ種切れの兆候はなかった。執筆依頼が途切れることはなかったし、書きたいテーマも少なくなかった。
だが、彼は疲れ傷ついていた。死を願いつつも、踏み切ることができないでいた。その状態は「鏡子の家」が不評だった頃から、ずっと続いていると言ってもよかった。
スプリングボード
人は外に向けていた攻撃的エネルギーを自分自身に向けることで自殺する、というのが精神分析派の考え方である。
例えば事業家は、攻撃的エネルギーを仕事に振り向けて懸命に働くが、どう頑張っても潰れそうな会社を立て直すことが不可能だと悟ると、エネルギーを自身に振り向けて自殺する。仕事を辞めてからも、事業に向けていた攻撃的エネルギーはそのまま残り、別の攻撃対象を探して自分を殺すことになるのだ。
三島は自分を認めなくなった知識人に戦いを挑み、ボクシングジムに通い、空手初段になって見せた。それだけでは不十分だとして更に戦線を拡げ、民族的伝統の擁護者になって「文化防衛論」を書いたりした。これは、戦後民主主義そのものへの挑戦を試みた攻撃的な著書だったが、話題にもならなかった。
折から、安保反対の風が吹きまくっていたから、好機到来とばかり彼は「敵」の牙城東大に乗り込み新左翼の学生たちに論戦を挑んだけれど、これも三島特有のパフォーマンスと受け取られて三面記事的な興味を呼んだだけだった。彼のやることはすべて空転し、「やはり僕の行跡がたたっていましてね。何をやったって信じてもらえない」と述懐するような結果になるほかなかった。
三島の攻撃的エネルギーが反転して自分に向かった時期に、彼の内部で自己中心主義から天皇中心主義への転換が始まったのだった。
攻撃的エネルギーが自分に向かえば、過去に演じてきたパフォーマンスへの自己嫌悪や、ジュリアン・ソレル的行動への悔恨が群がり起こる。虚偽と汚辱に満ちた過去を思い、自分のエゴ・セントリックな性格を慚愧の気持ちで反省しているうちに、三島は自分にも純な気持ちで生きていた時期があったことを思いだしたのだ。
三島は日本浪漫派に心酔し、二・二六事件の青年将校たちに涙した過去を想起した。あれほど醇乎たる気持で、天皇と国家について思いめぐらしたことはなかった。
自己中心主義を捨てて、主人持ちの身になること、これ以外に自分が再生する道はない。三島はそう思ったのだろう。そして、そうなれば死ねると思ったのである。
主人持ちの人間が死と親和することを描いているのが「葉隠」だった。武士道とは死ぬことと見つけたり、生きるか死ぬか迷ったら死ぬ方を選べ、主人が間違ったことをしたら死んで諫めよ、葉隠のどこを開いても主人持ちの人間の美徳は死ぬことにあると書いてある。
「葉隠」には自己中心的に生きる武士たちの醜さも的確に描写されていた。三島は、それを大衆社会日本に生きる現代人の肖像だと思って読んだ。
彼は「葉隠」を座右の書にするようになった。三島は「葉隠に書いてあるのは、絶対間違いない、聖書と同じでね」と確信を持って語っている。この瞬間に三島の内部で、自死に向けた号砲が鳴り響いたのである。
三島は目から鱗が落ちるような気がしたのだ。自分は子供の頃から死にあこがれてきた。そして大衆社会現象の支配する日本では、自分の生きる場所がないと嘆きながら、女々しく生きながらえてきた。そうなのだ、主人持ちの身になれば死ぬことができる。
三島は下校してから、祖母の用意しておいたオヤツを食べ、枕元に座って勉強した小学生時代の気持ちを思い出した。他者の命に素直に従うことの心地よさ。
あとで誤診であることが分かったけれど、愛する母が余命幾ばくもないと知らされたときの胸つぶれる気持ちも思い出された。母のために祈った、あのときの一念ほどに純粋なものはなかった。
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」にはこんなやりとりがある。
−さうすると三島美学を完成するためには、どうしても絶対的な権威が必要だといふことになり、そこに……
−天皇陛下が出てくる。(笑)
−そこまでくると、私はぜんぜん三島さんの意見に賛成できなくなるんです。 問題は文学上の美意識でせう、なぜ政治的存在 であるところの天皇が顔を出さなきやダメなんですか。
-天皇でなくても封建君主だっていいんだけどね。「葉隠」における殿様が必 要 なんだ。それは、つまり階級史観における殿様とか何とかいふものぢやな く て、ロイヤリティ(忠誠心)の対象たり得るものですよね。……天皇でなく ても いい。『葉隠』の殿様が必要なんだ。三島にとっての天皇は、ロイヤリティーの対象としての天皇であり、もっとハッキリ言えば自死へのスプリングボードとしての天皇だった。
三島の天皇主義
三島の考えている天皇は、現実の天皇ではなかった。美の総覧者・日本文化の体現者として、非人間的な徳性を備えた架空の天皇だった。だから、現実の天皇に対する三島の評価は、極めて低かった。
昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。
皇太子時代の現天皇についても、福田恒存との対談で手厳しいことを言っている。
三島:皇太子にも覚悟していらっしゃるかどうかを、ぼくは非常にいいたいことです
福田:いまの皇太子にはむりですよ。天皇(昭和天皇)も生物学などやるべきじゃないですよ
三島:やるべきじゃないよ、あんなものは
福田:生物学など、下賤な者のやることですよ三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。
彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。そこで彼はこう解説するのである。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」
「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」
彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」
三島は死ぬ覚悟を決めると、積極的に自死する事を予告し始めた。私は三島の対談集を数種類読んでみたが、晩年の彼は自分の死をにおわせる発言を繰り返し行っている。対談相手が(またか)と持て余ますほどに。
ヘンリー・スコット=ストークスは、三島の死に関して「人間の自殺が、これほど綿密に計画されたのは、例が少ないことだろう」と感想をもらしている。そしてまた、対談で、講演で、また評論で、これほど頻繁に自殺を予告している例も少ないに違いない。
一、二例を挙げれば、対談ではこんな風に語るのである。
「ぼくぐらい行動というものにあこがれて自分が行動していない男はいままでない。何もしないで行動行動といっている。・・・・・(が、今に行動するから見ていてほしい)自分だけ死んで笑われるかもしれないけれども、それでもいいじゃないか」
こんなのもある。
「(自分は文学外の行動と、文学が同じ根から出ていることを証明しようと努めてきた)それを証明しようと思って躍起になればなるほど漫画になるのはわかっているけれど、死ねばそれがぴたっと合う。自分で証明する必要はない。世間がちゃんと辻褄を合わせてくれる」
自死の予告は、市ヶ谷のバルコニー上から撒いたビラの末尾にも書かれていた。
「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」
三島がこれほど頻繁に自殺をにおわせたのは、何故だろうか。一般に、予告は、自殺を引き留めてほしいというサインだと考えられている。
彼が最後の瞬間まで生に執着していたことは、上掲の「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」という部分にほの見えているし、
「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」
という辞世の歌からも感じ取れる。
自分の行動を、死を恐れる臆病な世人と対比してみせるところに、かえって彼の未練のようなものが透けて見える。
だが、そんなふうに考えるのはこちらの邪推で、自分を後戻りさせないための手段としてだったのかもしれない。とすると、彼の気持ちはまだゆらいでいたことになり、これもやはり未練の表明だったと言うことになる。
死へ向かって自分を追いつめて行く過程で、三島は「豊饒の海」四部作に着手する。戦争末期に「花ざかりの森」をこの世に残して戦死することを夢見た彼は、「豊饒の海」を遺作として世に残すことに決めたのである。
「豊饒の海」は生まれ替わり物語である。生まれ替わりというテーマを選んだ三島の気持ちには、かすかに死後の再生を期待する願望があったかもしれない。しかし彼はそうした気持ちを「豊饒の海」という題名によってうち消している。豊饒の海は月面にある空虚な海の名前であり、彼はこの題名によって再生譚を否定しているだけでなく、自分の生涯そのものを否定している。
三島は「荒野より」で彼の心を取り囲こむ荒野について語った、月面にひろがる豊饒の海もあの荒野を思い出させる。三島はこうした虚無的な心をかかえて、「豊饒の海」四部作に着手し、自衛隊に体験入隊し、F104超音速戦闘機に試乗し、「楯の会」結成に乗り出したのだった。
「楯の会」に百名足らずの学生を集めたことで、三島は自死へのお膳立てを整えた。そうとは知らない世間からもマスコミからも、三島はすっかり愛想を尽かされてしまった。彼の親しい友人ですら、「その悪趣味や酔狂な行動は時とともにグロテスクの度を増し、楯の会にいたってその頂点に達した」と書いている。
「荒野より」で老人のような寒々とした心境を吐露した三島が、「楯の会」では打って変わって、生来の幼児性をむき出しにしている。彼は会の発足に当たり、全員で巻紙に血書することにした。そして指を安全剃刀で切り血をコップに溜め、血書を済ました後で、皆でコップの血を飲んだ。隊員の中には、脳貧血を起こすものや、吐きそうになるものが出た。
それから彼はデザイナーに頼んで、まるで「ホテルのドアマンのような(猪瀬)」制服を作り、隊の制服にした。この制服を見て、隊を脱退するものも現れた。
「仮面の告白」の読者は、女児のように育てられた三島の過去を思い出して、兵隊ごっこは子供の頃からの彼の夢だったのだろうと考える。だが三島は、委細かまわず隊員を自衛隊に体験入隊させ、自分の前で分列行進をさせた。
ロンドン・タイムズやニューヨーク・タイムズの東京支局長をつとめたヘンリー・スコット=ストークスは、三島に呼ばれて訓練の様子を見学に出かけた。そして「楯の会の隊員が、富士山麓を分列行進するさまは、まるで一団のデクの坊だ」と書いた。
外人記者には、世界的な名声を誇る作家三島が、「楯の会」を発足させた理由が分からなかった。そこで記者が会の目的を質問すると、三島は「サムライの伝統を復活するためだ」と答え、「今なおサムライの魂を持つ日本人は、ヤクザだけだ」と断定して相手を唖然とさせている。
「楯の会」結成は、第二次安保騒動に備える目的だったが、結局、三島の自殺をサポートするだけに終わり、三島の死後解散している。
入念な準備の上に決行したはずの市ヶ谷討ち入りは空振りに終わった。それは、計画が失敗したら全員切腹すると決めていたからだった。そして、参加者全員が計画は結局失敗するだろうと予想していたのである。成功する見込みがあれば、念を入れて計画を練り上げるけれど、失敗するとわかっている計画に真剣に取り組むものはいない。
三島が失敗覚悟で計画を強引に推し進めたのは、切腹という方法で「諫死」をすることが既定の路線として行動予定表に組み込まれていたからだった。天皇と日本国民に反省を促すために、衆人環視の中で死んで見せる、これが彼の数年来の計画だったのだ。
それが年来の計画だったのなら、はたから何もいうことはない。
しかし、それなら宮城の前で一人で割腹自殺すべきだったのではないかという疑問は残る。決行の間近になって、三島は彼と学生隊長森田必勝2人だけで切腹することに変更したけれど、最初は4人の学生全員を道連れにして死ぬ積もりだったのである。結果として、彼は森田という春秋にとむ若者を死なせただけでなく、総監室では刀を振り回して数多くの部外者を傷つけている。ここに伝記作者が、「冷酷なほどの自己中心主義者」と表現する三島の性格の一端が現れている。「東大を動物園にしろ」という本の中で、三島は次のように発言しているのである。
「羽田事件のときつくづくと思ったね。佐藤首相をアメリカヘやりたくなきや、殺せばいいぢやないか。簡単なことだよ。テロは単独行動で、大衆を組織化するといふ彼らの理論に反するかもしれんが、要は度胸がねエんだよ。一人でやる度胸がねエんだ」母
出口裕弘「三島由紀夫・昭和の迷宮」には、三島が死んだ後の母について記した一節がある。
「ジョン・ネイスンによると、自決の翌々日、平岡家は弔問客に門をひらいた。ある弔問者が白薔薇の花束を持って訪れ、三島の遺影を見上げていると、うしろから母の倭文重がこう言ったという。
『お祝いには赤い薔薇を持って来て下さればようございましたのに。公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな』
平岡公威を産み、乳児のうちから姑にその子を奪い去られ、ようやくわが手に取り戻してのちは、一貫して「三島由紀夫」の第一読者だった人の言葉である。」
三島には妹と弟がいたが、妹は戦後間もなくなくなり、弟は外交官になって海外で暮らしていた。だから母にとって身近にいるのは三島だけだった。
母は三島の書斎に自由に出入りして、原稿用紙・ペン・お茶・果物・毛布などを用意してやっていた。彼女は息子の作品を生原稿で読んでいる「第一読者」だった。息子の死後、彼女は家族の誰一人三島を理解しようとしなかったと怒り、その怒りは夫と嫁に向けられた。彼女は夫とはうまく行かず、ひそかに離婚を考えていた。
そういう母親にとって、三島は恋人のような存在だった。事実、彼女は三島が死んだときに「恋人が私の手許に帰って参りました」と言っている。母親は息子の欠点も長所も知り尽くし、彼が何を企てているか察知していながら、そのすべてを許し受容していたのであった。
三島が、天皇主義などではなく、かの谷崎潤一郎のように母親賛歌をうたい続けたら、あのような死を迎えることはなかったろう。
最後に とにかく三島由紀夫は先を急ぎすぎた。彼は自分の作品について次のように書いている。
「書かれた書物は自分の身を離れ、もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ」
彼は一つとして同じ趣向の作品を書いたことはなかった。三島はマンネリズムとは無縁の作家だったのだ。一つの作品を完成するたびに、もっと新しいものを、もっと知的刺激にとんだものをと、自分に鞭を当て続けたから、立ち止まって自分の作品を賞味し反芻するゆとりがなかった。
思想についても同じで、俊敏な三島は次々に新しい思想を渉猟し、それをすぐに評論や作品の中に吐き出して見せた。だが、一つの思想を内部に留め置いて静かに熟成させることがなかったから、それらは単なる彼の知的アクセサリーにとどまり、何の力にもならなかった。吸収したものが「心の糧」になることはなかったのである。
それどころか、彼はとんでもない読み違えをしている。
陽明学は葉隠とならんで、晩期の三島を支えた思想的支柱である。これを彼は行動的ニヒリズムに基づく「革命哲学」だと規定しているのだ。
そして、彼は「陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極地をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである」などと意味不明なことを言い始める。
王陽明は、「万物一体の仁」を説いた愛の哲学者で、行動的ニヒリズムに類するようなことは一言も口にしていない。彼は、人間の内面が二層を成していると考え、下層を躯殻的己、上層を真己に分けている。下層の躯殻的己は私欲に汚れた自己であり、これを突き抜けた上層に天地万物と繋がる宇宙的な自己がある。これが真己なのである。
この真己(良知ともいわれる)が発動すると(致良知)、「知行合一」の行動になる。つまり、内なる愛の本能が具体化されたら、その行動は自ずと理にかなった知的行為になると王陽明はいうのだ。
三島が陽明学を理解できなかったのには、理由がある。
三島は唯識論や臨済禅について作品の中で蘊蓄を傾けているけれど、彼ほど非宗教的な人間はいない。宗教的世界を理解するにはエゴを超えた超越体験が必要とされるが、三島は死ぬまで自我圏内を出ることがなかった人間だった。彼の宗教論議は、すべて頭でこね上げた牽強付会の説であり、真実からは遠いのである。王陽明が二層の自己に開眼したのは、32歳の時、陽明洞という洞窟の中で「光耀神奇、恍惚変幻」の神秘的な体験をしたからだった(洞窟内で霊的な光に遭遇したところはマホメットの体験に似ている)。
もし三島が長生きをして、本気になってインドあたりでヨガの修行をすれば、唯識論も臨済禅も、そして陽明学もすべて自家薬籠中の物にしたはずである。三島なら、ひとたび求道の志を立てたら、インドでもチベットでも、どこにでも出かけて猛烈な修行をしたに違いないのだ。この点でも彼の早世は惜しまれるのである。
(03.4.11)