誰も愛さなかった男と女

久しぶりに週刊誌(週刊現代)を買って、「わが人生最高の10冊」という記事を読んでいたら、某証券会社の社長が「人を愛することができない」(中島義道)という本を挙げていた。同氏が書いている解説は、次の通りだった。

 自分の
 家族をケチョンケチョンに
 けなした上で「最後に自分
 は嘘つきだから書いたこと
 は全部嘘です」と来る。そ
 こまでされると、すごくカ
 タルシスが得られるんです
 よ。あまりにもひどいもの
 を見せられたおかげで、浄
 化作用が生まれるというか

私も物好きな人間だから、こんな紹介文を読むと、つい、ふらふらと問題の本を手にいれたくなる。

この本の著者中島義道は、電気通信大学の教授で哲学を教えている。彼は、ほかにも「無用塾」という哲学の私塾を開いていて、著書も多いらしい。が、私はこれまでこの人の存在を全く知らずにいた。

彼は、1946年に東大法学部を卒業し、その31年後に東大人文学部に再入学して、大学院修士課程を修了している。その6年後には、ウイーン大学の哲学科を修了しているから、かなり風変わりな経歴の持ち主である。

入手した中島義道の本を通読してみる。確かに彼は自分の家族をケチョンケチョンにけなしている。中島義道によると、彼の父親はこんなふうな男なのだ。

<父は自分の世界に閉じこもっており、そこから一歩も踏み出すことはなかった。
彼はいわゆるエゴイストなのではない。自己利益を第一に優先し、他人を蔑む人ではない。彼は他人の悪口をいっさい言わなかった。妻に対しても子供たちに対しても、要求は無限に少なかった。ただ、妻や子供の身になって考えることがまるでできない。いや、その欲求が限りなく希薄である。少年期から私が何に悩んでいるか、まったく無関心であった。小学生のころ死ぬことが怖いと訴えても、高校に入り体育が厭だから退学すると訴えても、大学に入って断続的に二年間もひきこもっていても、そのことでいささかも動揺することはないように見えた(『ひとを愛することができない』)。

中島は、こういう父親を、「人を愛することを知らない冷淡な男だった」と断じ、母親はこの父を40年間ひたすら憎み続けたという。

では、母親は、どんな女性だったのだろうか。

<母は逆に、私の悩みを全身で浴びるようにとらえて、自分自身がおかしくなってしまうのだった。「おまえのことを思っているよ、おまえがかわいくてたまらない、おまえが心配で死ねない」とたえず呟いていた。だが、そう語れば語るほど、すべてが自分のためだという明晰な直観が私の身体を貫く。彼女は私を同化しょぅと試みており、ああ、こうした母親が子供を巻き添えにして無理心中するのだろうなあと思った(『ひとを愛することができない』)>。

著者の中島は、父親の人柄について、角度を変え表現を変えて、さまざまに説明する。そして、その後で判で押したように、父の愛が欠如していたことを責めたてるのである。それから著者は、自分もやはり人を愛することの出来ない人間で、自分がこうなったのも父の血を引いたからであり、責任は父にあるというのだ。

中島が父をどのように描いているか、もう少し引用してみよう。

<父は、浮気をすることなどまず考えられない男である。妻子に手を上げることも怒鳴ることもない。給料はすべて完全に妻に渡す。仕事は早々と切り上げて帰宅し、妻の手料理をうまそうに食べ、妻に対して何の文句も言わず、しかも彼ひとりそこにいるという明晰な印象を与える。その日一日外で起こったことは何も語らず、母の話を聞いている素振りは見せるが、何の興味ももたないことは明らかで、ただ黙々と食べている。いや、父は母の顔さえまともに見ていない(『ひとを愛することができない』)>。

<(父は)自覚がないほど、ゆったり自己中心的である。その表面的態度は、いわゆるエゴイストと正確に逆である。表面的には、絶対に自分を中心にしない。けっして「おれが、おれが」とは言わない。いつも柔和で謙虚(そう)であり、自己を主張しない。それでいて、結果として、すべて自分の思うがままにしているのだ。

・・・・彼は、妻から毎日罵倒されるそんなわが家が好きだったのではないかと思う。彼は妻が好きであり、三人の子供たちも好きであった。このことは疑いない。しかし、愛してはいなかった。このことも疑いない。

・・・・彼は、「思わず」ということがない。「意に反して」ということがない。「ついうっかり」ということがない。すべてが、機械仕掛けのようにオートマティカルに動いていく。

・・・・ひとの噂もしない。自分の仕事についても、自分の青春時代、少年時代についても、自分の親族についても語らない。沈黙して、ただそこにいるだけなのだ。それで自己充足しているようなのである((『ひとを愛することができない』)>

察するに著者の父親は、自己施肥系の人間であり、静かに独り立つ樹木のような人間なのだ。樹木は自分が必要とする肥料を、年毎に足下に散らす落ち葉から得ている。それで「自己施肥系の生体」と呼ばれるのだが、中島の父も自分の必要とする精神的栄養素を自らの手で調達しているから、他者の愛がなくても生きて行けるのである。

著者は勘違いしているのである。父親は生まれつき冷淡で無感動な人間なのではない。彼は繊細で傷つきやすい性格だからこそ、他者に依存しない、周囲から影響を受けない生き方を手探りで探してきたのだ。

彼が一家の主として水準以上の努力を続けながら、妻に憎まれ、息子にも愛されなかったのは、その自己充足型の生き方が内面の強さから生まれたのではなく、自己の弱さを守るための自己防衛欲求から来ていたからだろう。

母親に対する著者の見方も厳しい。

<母は父が最も大切にしているものを嫌った。父がそれを大切にする素振りをはげしく嫌悪し、断罪した。それは、第一に父の命であり健康であり、第二に父の仕事である。
母は父が自分の健康を気づかうと、眼をつりあげてはげしく攻撃した。風邪気味でマスクをしていても、「具合がよくない」とぼそっと呟いても、次の瞬間に

「あなたは自分しか大事じゃないんだから! 

妻や子がどんな状態にあっても気がつかない自分勝手な人間なんだから! 

そうやって、自分だけ九十までも生きるんだから」

という叫び声が家中に響きわたった。そして、若いころからジーゼルエンジンに凝って、仲間と会社を設立して失敗に失敗を重ねたことを何度も責めたて、「ジーゼルエンジンが妻より子供より大事なんだからー」と繰り返し言った(『ひとを愛することができない』)>。

母は、何が何でも夫に復讐してやらなければという執念に取り憑かれていた。彼女は、夫に向かって口癖のように、「あなたには、妻なんか必要ないのよ。女中か看護婦がいれば十分なのよ」と言っていた。

母の罵倒は、止めどもなく続く。

「ちっとも男らしくなくて、鈍くて、趣味なんか何もなくて、自分だけよければいいんだから」

「ちびで、頭でっかちで、毛がなくて、なまっ白くて、首が短くて・・・・」

怒りで暴走し始めると、母の全身は小刻みに震え始め、形相が変わるのだった。晩年になると、母の怒りは狂気すれすれのところまで行った。彼女は父の愛を求め、それが得られなかったために軽い狂気を発散して生きるようになったのだ。

だが、父はそれなりに母に愛情を示していたのである。母が脳腫瘍で入院したとき、七十九歳の父は毎日病院に通った。だが、父は病室に行っても優しい言葉一つかけるでもなく、ただ、枕元で静かに腰掛けているだけだった。父は毎日、同じ時間に家を出て、同じ時間に病院に着く。雨の日も風の日も休むことなく通った。

著者の目から見ると、父の態度のどこからも、母が心配でたまらないというふうには見えなかった。父は恐ろしいぼど落ちついていて、全身のすみずみまで平静なのである。七時間を超える母の手術中も、わずかでも取り乱すことはなかった。いらだつこともない。退屈することもない。何の不平も言わない。ただ、ゆったりと控え室に座っていた。

手術後の母は、リハビリをかねて病院の廊下を散歩するようになった。父は、その体を支えるように一緒に歩いてやっていた。この光景を見て、著者の姉と妹は、「おかあさん、とても嬉しそう」と言っていた。著者は、母を見て、「この人は幸福を拒否し続けて生きてきたのだ」と思った。父に対する過剰な期待をしなければ、母は幸福になれたのである。

著者の母親には、色々と問題があったようだ。そしてそれは彼女に責任があると言うより、彼女が育った家庭環境に原因があるようなのだ。彼女の母(つまり著者の祖母)は、「徳山小町」といわれたほどの美女だったが、結婚して5人の娘を生むと彼女らを美しい順にかわいがった。著者の母は、醜い方に属していたから母親の愛を受けることがなかった。彼女が、夫から愛されることを執拗に求めたのも、幼い頃からの愛情飢餓に由来すると思われる。

差別されながら育った著者の母は、自分が母親になると自らの三人の子供を差別して育てた。とりわけ、母は二人の娘を露骨に差別し、常々、妹を人前に出し、不美人の姉には、「おまえは出てこなくていいからね」と言い渡していた。

母からすると、次女と息子は自分に似ていて、姉は「おとうさんそっくり」なのだった。母は、その他の点でも子供たちを容赦なく評価した。妹と姉は字がうまかったが、著者は下手だった。著者が妹と年賀状を書いていると、母は妹の年賀状を手に取り「ほんとうに上手だわ」と真顔で褒める。そこで、「おかあさん、ぼくのはどう?」と著者が見せると、「ほっはっはっ、読めるだけ」と突き放してしまう。

母が怒ると、子供たちはじっと息を潜める。母は、しばしば子供に体罰を加え、濡れ雑巾で、からだじゅうをびしびし引っぱたくこともあった。幼いとき、とくに姉はその犠牲者だった。お祭りで無駄遣いしたと言って、母に髪の毛をつかまれ、部屋をぐるぐる引き回されたこともあった。と思うと、母は著者と妹を膝に乗せて抱きしめて、「かわいい、かわいい」と頬をこすりつけたりする。

母に愛されなかった著者の姉は、60歳になってもまだ独身で、今なお母と同じように「ほんとうの愛」を求め続けている。彼女は数々の失恋を経験した後に、クリスチャンになり、テレビを見ていても、登場する人物について、いちいち「愛がある」「愛がない」と色分けしている。

著者は、「ほんとうの愛」を求め続け、愛なき人間を厳しく断罪する女性に囲まれて育ったのだ。そのため女性に対し、さらには人間全体に対し、素直に対応できないようになってしまった。

──『ひとを愛することができない』を読み進んで末尾の方にさしかかると、意外な記述にぶつかる。

<母は十九歳のとき二十九歳の父と結婚した。結婚当初から中島の一族によって、陰湿な嫁いびりに遭っていた。中島の家は江戸時代から続く名字帯刀の庄屋の家で、野蛮であり封建的であった。母は子供が生まれるまでは籍に入れてもらえなかった。はじめの子(姉)が生まれたときに入籍したが、女の子であったためにお仕置きを受けたという。

・・・・母は気位の高い「姑」によって徹底的にいじめられた。絶望した母は、乳飲み子の姉を背負って関門海峡に何度も身を沈めようとした(『ひとを愛することができない』)>

著者が生まれると、母は祖父母から将来家長になる息子を取りあげられてしまった。このため、著者は折り紙付きのお爺さん子、お婆さん子になる。母は祖父母から、「文句があるなら、子供たちを置いて出ていけ」と言われた。こういう時に、父は母を庇ってくれなかった。母が父を不倶戴天の敵のように憎んだのは、昔の恨みを忘れないからだった。

こんな訳だから、著者の母がヒステリックになって、時に常軌を逸した行状に出たとしても不思議はなかった。そして著者が父よりもむしろ母の影響を受けて、型破りな生き方をするようになったとしても、それも不思議ではなかった。著者は、「母が死んだときも、父が死んだときも、全く悲しくなかった」と語っているけれども、それも幼児期に祖父母に引き取られて育てられたことや、込み入った家庭事情を考えあわせたら無理からぬことだったといえる。

さて、本の末尾に出てくる意外な記述は、もう一つあるのだ。著者の体験した「女難」の話がそれである。

<中学三年生のころ、(二十八歳くらいの)担任の女性教師から異常なほどひいきされた。彼女は京都への修学旅行のあいだずっと私にぴったり寄り添って、恋愛話ばかりするのだった。
同じころ、独身の音楽教師(彼女も二十八歳くらい)も時折私を彼女の下宿に呼んで、レコードを聴かせてくれたり、ピアノの個人レッスンをしてくれたりした。そして、十五歳の私に自分の進行中の恋愛談をするのだった。夏休みには彼女の実家にも呼ばれた。性的関係らしきものの片鱗もなかったが、ときおりまじまじと私の顔を見て、「いい男になるのよ」と言った(『ひとを愛することができない』)>。

26歳の著者は、ミユヘンオリンピック参加奉仕団の一員として初めてヨーロッパに渡った。週末にパリを訪れ、カフェに座っていると、数人の日本人女性から声をかけられた。夜の観光バスに乗れば、30歳過ぎの女性が近寄ってきて、飲食代をすべて払ってくれただけでなく、ツアーが終わると、「私のホテルに来ない?」と誘った。

女性だけではなかった。ドイツのザルツブルグで、イタリアのベネチアで、彼はホモの男たちからも誘われている。

これについて、著者は「自分には人から愛されないのではないかという不安があり、それで無意識のうちに他人から愛されよう、気に入られようと必死の努力をするのではないか」と自己分析している。そのくせ、彼は人から愛され、気に入られると、今度はそれを大変な重荷と感じるのだ。

帰国してからも、著者は至る所で、女から、そして男から、欲望のこもった目で見られるようになる。そういうことが重なると、自然に分かってくることがあった。

<私が(知ったのは)彼女たちを真剣に愛さなければ愛さないほど、つまりどうでもいいという態度をとればとるほど、彼女たちはますます私を愛するようになった、ということである。
そして、興味深いことに、愛される技術を磨きあげ、それを自由自在に活用できるようになったとたんに、私は愛index.htmさないで愛されることに嫌悪を覚えるようになった。自分は充分に愛されうる、もう大丈夫だとタカを括った瞬間に、ゲームの意味がころりと変容したのである(『ひとを愛することができない』)>。

親の愛も、姉妹の愛も、著者をいいようがないほど疲労させる。妻に愛されていると感じると苦しいし、息子から愛されていると感じると鬱陶しく思われる。そのことを著者はこう定式化する。

「私は自己愛が崩壊しないかぎりでしか、他人を愛することが出来ない」

著者は、自己愛を乗り越えて他者を愛することの出来ない自分を、しきりに責めているが、人間は大抵そんなものではないだろうか。特に、研究者や学者は内面の静謐を必要としているから、人を愛することで内面に無用な波乱を起こしたくないのだ。だから、愛を手に入れても、直ぐにそれを負担に感じ始める。著者の父親にしても、内面を静かに保つために家族との関係を平淡なものにしておきたかったのである。

愛には、エゴに起因する狭小な愛と、存在するものすべてに対する博大な愛がある。小さな愛に執着すれば、大きな愛が失われる。著者が親や姉妹、妻や息子から愛されたりすると、苦しくなったり疲労したりするのは、それらの愛が全体愛と折り合うことのないエゴの愛だったからではないか。