毛沢東の光と影

日本でも、一時、評判になった「ワイルド・スワン」(上下)という本を読んでみた。この本は、ロンドン大学で教鞭を執っているユン・チアン女史が著した、祖母、母、娘三代に及ぶ女性の目で見た中国現代史である。著者は、この本の中で毛沢東の政策が、中国の民衆にどれほど大きな犠牲を強いたか、歯に衣着せぬ調子で詳述している。

例えば、毛沢東はその詩人的着想から大躍進政策をスタートさせた。全国の農村に原始的な溶鉱炉を築かせて、製鉄事業に着手させたのだ。農民は農作業を放棄して、鉄の生産を競い合いあったから、農業生産物は激減した。燃料の薪を手に入れるために樹木は切り倒されて、山は丸坊主になった。この結果激しい飢饉が起こり、中国全体で3000万人もの餓死者が出たといわれる。

幼児を誘拐して来て殺し、その肉をウサギの干し肉と偽って売るような悲惨な事件も起きている。これほどの犠牲を払って生産した鉄は、粗悪でとても使い物にならなかった。

大躍進政策の失敗もあって、実権を劉少奇一派に譲らざるを得なかった毛沢東は、雌伏数年の後に紅衛兵を道具に使って文化大革命を起こす。当時、中学生だった著者も紅衛兵になって、毛沢東崇拝の日常を送っている。紅衛兵は「旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣」の四旧打破をスローガンに荒れ狂い、中学生は担任の教師にリンチを加え、大学生は、毛沢東に批判的態度をとる知識人、大学教授、党幹部を広場に引っ張り出して吊し上げた。

六歳のユン・チアン

著者の両親も、四川省の党幹部だったために、連日、吊し上げと、殴る蹴るの暴行をうけた。父親はそのため、一時的に精神に異常を来したほどだった。

紅衛兵たちは、経験交流のために全国各地を流れ歩き、中国には一種の「子供天国」が出現した。巡礼にやってくる紅衛兵たちに宿所を斡旋するために、各地に「接待所」がもうけられた。紅衛兵たちは、旅費も宿泊料も食費も無料だった。著者も友人と連れだって、北京に出かけている。著者の弟の一人は巡礼のため家を出たきり、一年間も戻ってこなかった。

文化大革命によって政敵を葬った毛沢東は、神格化されて、その扱いは戦前の日本の天皇と同じようになった。新聞には毎日のように毛沢東の写真が載る。そのため、人々は新聞を足で踏んだり、反故として利用することが出来なくなった。ラジオは休みなく、毛沢東語録を放送し、若者らは熱に浮かされたように、毛沢東のために死ぬことを誓い合った。

だが、生徒や学生たちは、毛沢東の権威が確立すると、「下放」と称して農村に送られてしまう。知識人や党幹部も農村に追放されていたから、彼らは自分たちが攻撃したメンバーと同じ運命をたどることになったのだ。

毛沢東のやることは、先の先まで見通す戦略眼に基づいている。ガンジーも、一旦、政界から身を引いたあとで、返り咲きを狙って後継者に戦いを挑むが、暗殺されて再挙はならなかった。ガンジーが失敗し、毛沢東が成功した理由は、時の運ということもあるが、後者が先の先まで読む深慮遠謀を持ち合わせていたからだった。

1例をあげれば、毛沢東は革命が成功して暫くすると、「百花斉放、百家争鳴」運動を展開している。知識人や学者・芸術家に対して、党や国家への批判を奨励したのである。そして彼らに存分思うところを言わせたあとで、運動を「反右派」運動に切り替えて、運動期間中、目に付いた「危険分子」を一掃してしまうのだ。これを狡猾な罠というのは簡単である。だが、独裁的な権力を握った人間が、罠やペテンのためとはいえ、自己に対する批判を野放しで許した例は歴史上殆ど存在しない。

毛沢東は単なる戦術家ではなく、もっと大きな見通しを持った戦略家だったのである。彼は長期的な目標を達するために、短期的な損害を意に介しなかった。有名な「大長征」にしても、国民党軍の激しい攻勢を凌ぐには、相手の手の及ばない遠方の僻地に根拠地を移すしかないと決断し、犠牲を覚悟の上で、大遁走を決行したのだった。その途上で、大半の共産軍兵士は命を落とし、延安までたどり着いたものはごく僅かしかなかったが、彼にとってはこれも計算済みのことだったのである。

一旦、延安に拠点を設けると、中国各地に散らばっていた左翼勢力が徐々に集まってきて彼は大長征以前の勢力を回復する。延安で毛沢東がやったのは、集まってきたメンバーを思想面と倫理面で鍛え上げることだった。彼は、国民党がトップから底辺まで腐敗しきっていることを知っていた。彼は戦後に国民党と共産党が合作する時代が来ることを予想して、民衆の心を掴むには党員のモラルを高くしておく必要があると考えたのだ。

日中戦争に際しても、彼は思い切ったやり方を採用している。日本軍が進出してくると、農村の首長や地主は財産をかき集めて非占領地区に逃げ出し、村落には支配層がなくなるという現象が出現した。共産軍はこうした農村から自由に兵士を徴募して、部隊をふくらませることが出来たはずだが、毛沢東は、そうする代わりに自軍の兵員を村落に派遣し、自治組織の構築に当たらせた。だから、毛沢東軍は、進めば進むほど、兵員が減少していった。普通、勝ち進めば兵士が雪だるま式に増えて行くものなのである。

そしてこれが、第二次世界大戦後の内戦で、決定的な威力を発揮するのである。都市を基盤にして商工業者と手を結んだ国民党に対して、毛沢東は、地方を取り込んで「農村によって都市を包囲する」という状況を作り出した。輸送線を切断されて孤立した都市=国民党は、じわじわと追いつめられ、遂に総崩れになったのだった。

優れた先見性に基づいて大目標を設定し、途上の犠牲や損害をあえて意に介しない毛沢東の非情な人間性を身近で見ていた周恩来は、決して毛沢東に逆らうことをしなかった。周恩来は、あれだけの政治的才能を持ちながら、ナンバーツーの立場に甘んじ、死ぬまで毛沢東を補佐し続けた。敵に回したら、毛沢東ほど恐ろしい人間はいないことを、聡明な周恩来はよく承知していたのである。

毛沢東は非情な人間だったが、どんなときにも理想主義を捨てることはなかった。彼はスターリンやヒットラーのように秘密警察を使って政敵を葬ることをしなかった。党員の資質を高めるための「整風運動」も、上意下達式の命令によらなず、党員同士の相互批判によって、腐敗を事前に防ぐという手段をとった。

彼の根っこは、若い頃に心酔したカント的な理想主義にあったのである。マルクス主義はその上に接ぎ木された二次的なものだった。

共産党員になってから、彼は湖南の農村で対地主闘争に専念することになる。この活動を通して彼は、身を粉にして働く小作農の生活に密着し、新しい時代を作るのは彼らの勤労精神にほかならないと確信するようになる。こうした確信に彼を導いたのは、学生時代から培ってきた清教徒的な理想主義が意識の底にあったからだ。

毛沢東が旗を振れば、紅衛兵が一斉に従った。毛沢東思想には、若い世代に特有の理想主義を励起する要素が含まれていた。

彼は、心情的に競争をきらった。テストの成績で、順位を決める学校制度を好まなかった。彼があまりスポーツに好意を持たなかったのも、それが「競技」であり、競争によって順位を決めるからだった。こうした競争社会を嫌悪して徹底した平等主義をとる彼の行き方は、多くの若者の心を打ったのである。

彼はファッションを憎み、女性が化粧をしたり,お洒落をしたりすることも好まなかった。彼は終生、貧農的勤労主義あるいは小農的精神主義を捨てることはなかったのである。だから、彼は文化大革命で、知識人と学生を争わせた後で、両者を刑務所に入れる代わりに、田舎に追いやって百姓仕事に精出させたのである。

毛沢東には、戦略目標を達成するためには民衆に犠牲を強いてもやむを得ないとする非情な面と、愛と勤労を尊ぶ清教徒的な理想主義者という面があった。彼は光と影をまとった二面的な人間だったのである。

ガンジーも禁欲的な理想主義者だった。引退後の彼が返り咲きを狙ったのは、かつて自分が指導していたインド国民会議派がイスラム陣営と対立して、その排除を企てたからだった。彼はヒンズー教徒とイスラム教徒が協力して新生インドを建設すべきだという理想を捨てなかったから、イスラム教徒との協調を拒む国民会議派を許すことが出来なかったのだ。

毛沢東が、文化大革命を起こしたのも、中国共産党が原則を捨てて現実主義に走ったと見たからだ。独立運動・革命運動の始祖は、高い理想を掲げることによって運動を成功に導く。そして、後継者が現実主義に走ると、再び原理主義の旗を振りかざして反撃に出るのだ。ガンジーと毛沢東の弱点は、古い理想を追い求めるあまり、戦後の市民的マイホーム主義を受容する包容力を持たなかったことである。

毛沢東の清教徒的理想主義を自国に移植しようとしたカンボジアのポル・ポト派は、毛沢東に見るような柔軟な二面性を持たなかったために、この世の地獄図を現出してしまった。フランス革命におけるジャコバン党の例を引くまでもなく、戦略的な見通しを欠いて、闇雲に理想だけを追って行けば、結局血で血を洗う悲劇を生み出してしまう。

現在のユン・チアン

「ワイルド・スワン」を読んで感じることは、中国の民衆が20世紀を通して筆舌に尽くしがたい苦難を舐めてきたことである。日本人も敗戦の前後に飢えと寒さにさいなまれた。あれは、もう二度と体験したくないような厳しい歳月だったが、期間にすれば10年か15年のことに過ぎない。

しかし、中国の民衆は、20世紀の初めから、軍閥の抗争、国民党と共産党による北伐、この両党の血で血を洗う内戦、日本軍の侵略、太平洋戦争、戦後の内戦等を体験してきた。そして、それがようやく終わって、共産中国が成立したと思ったら、大躍進政策、文化大革命で、またもや、塗炭の苦しみを味わわされてきたのだ。われわれは、こういう中国の民衆に対して、もう少し思いやりや同情の気持を持つべきではなかろうか。

ユン・チアンは、両親が文化大革命の犠牲になったために、毛沢東を鋭く断罪している。戦後の毛沢東に、失政が多かったことは事実である。だが、彼が戦後の内戦を勝ち抜いて中国を統一したこと、そして、スターリンにもならず、ポル・ポト派のような行き過ぎにも陥らなかったことを、高く評価してもいいと思うのである。

戻る