六三制社会

私は55年体制以後、日本の社会を「六三制社会」と呼んできた。六三制社会とは、教育制度の六三制にちなんだ造語で、昭和30年の保守合同によって、国会の議席数が、自民党6割、社会党3割、その他一割となったことから自然に頭に浮かんできた言葉である。この議席配分を頭に置いて眺めると、さまざまな分野で、主流派6割、反主流派3割、アウトサイダー1割という関係が成り立っていることに気づくのだ。

趣味的なサークルのようなものでも、メンバーの間に何となく生まれてくる主流と非主流が6・3の比率になるし、プロ野球の世界では、巨人ファンとアンチ巨人派の比率が6・3の割合になっている。

日本人の多くは、多数派と少数派があれば、まず、多数派の側に身を置いてまわりを見回してみるのである。事の正邪よりも、身の安全を考えるから、躊躇なく自分も多数派になる。そして、その立場から「無理して頑張っている」少数派やアウトサイダーに憐れみの目を向けるのだ。

だが、日本人は多数派に身を置いても、自身の動機が保身にあったから、少数派やアウトサイダーをあまり追いつめようとはしない。西欧の中世史に見られるような残酷な宗教裁判や政敵への迫害は、日本ではほとんど見られない。

それどころか、わが国で成功するためには、多数派に身を置きながら少数派とも情を通じるという二刀流を忘れてはならないのだ。政界を見ても、岸信介のような保守一辺倒の政治家は、政権を長く維持できない。

企業内の権力闘争でも、多数派に属しながら、少数派にも理解を示すタイプ、つまり敵を作らないタイプの人間が最終的な勝者になり、いつの間にか管理職になっている。自分が多数派であることを楯に、少数派を追いつめるような手法を採るべきではないのだ。

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長野県知事選挙の結果が、話題になっている。マスコミの論評によると、作家出身の田中康夫候補が対立候補だった副知事を向こうに回して大差で当選したのは、「既得権益を守ろうとする組織型選挙への県民の怒りが爆発したためだ」ということになる。

だが、投票にいたるまでの各陣営の動きを注視していた県民の反応は、少しちがう。もっとプリミティブなものなのだ。副知事陣営の運動手法に、生理的と言っていいような違和を感じたのだ。

現知事が引退するらしいという観測が流れてから、おかしな動きが始まったのである。県内の市町村長や業界団体による「副知事詣で」なるものが開始されたのだ。彼らは押し合いへしあい副知事室に出かけて、お世辞たらたら「出馬要請」を繰り広げ、副知事が立候補を表明するやいなや、一斉にお手盛り後援会を店開きさせたのである。

市町村長や業界団体が競って「副知事詣で」をしたのも、偶然ではない。この副知事は「剛腕」をもって知られ、県から予算や仕事を取ってくるときのキーマンと考えられていたからだ。

開票日の田中康夫候補

副知事の側も、支持者のこうした動きを大いに歓迎していた。元の副知事も立候補の準備をしていたから、ライバルの出鼻をくじくためにも、自らの優位を誇示しておく必要があった。

副知事の後援会は、県内百数十の市町村のほとんどすべてに結成されて、後援会長には市町村長がなった。事情は業界団体でも同じで、各団体は続々と副知事の後援会を結成し、推薦団体は3000以上に及んでいる。まるで吹く風に草木がなびくように、県内の既成勢力がこぞって副知事支持に回ったのである。

毎度の事とはいえ、一個の人間としてこうした光景を眺めるのは、あまり愉快なものではない。各層の役職者が、恥も外聞も忘れて副知事への忠誠を競い合う情景を見て、浅ましいと感じない者があるとしたら、その方がおかしいのだ。

皮肉なことに、副知事側は「史上空前」と称された完璧な布陣を敷いたために、県民からそっぽを向かれてしまった。彼らが自重して、運動を半分程度にセーブしていたら、副知事にも当選の目があったかもしれない。

今回の選挙で、副知事側は一二の例外を除き各層、各団体のトップをことごとく掌中に収めた。沸かした牛乳の上皮に当たる部分を、そっくりすくい取ったのである。しかし、上皮だけ見ていたのでは、その下の牛乳本体の動きはつかめない。

日本人は表立って権力に逆らうことをしない。何しろ、日本というのはサラリーマンの信奉する格言第一位が「触らぬ神にたたりなし」という国柄なのである。だが、普段おとなしい日本人も、権力側があまりはしゃぎすぎたり、既成勢力が総結集して力を誇示したりすると、一寸の虫にも五分の魂という反骨を見せるようになる。副知事陣営は、こうした平均的日本人の感情を読み損なったのである。

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選挙においても、多数派は少数派を決定的に追いつめるようなことをしてはならない。まして、長く続いた「六三制社会」も変質の兆しを見せ始めている。多数派と少数派の比率は変わらないとしても、メンバーの流動化が激しくなっている。昨日の多数派が少数派に転落し、少数派が主流になるケースが増えてきたのだ。

さらに注目しなければならないのは、アウトサイダーが増加する気配のあることだ。17歳による殺人が連続して大人を震え上がらせていた頃、新聞に犯人の気持ちも分かるという高校生の投書が載っていた。

身の安全を考えて、いつでも多数の側に付く大人は、人間の「抜け殻」になっているように見える。相手が抜け殻だから、17歳の少年たちは殺すことにも抵抗感がなかったのだろう、という趣旨の投書だった。

ドストエフスキーの「罪と罰」には、自分が卑俗な隣人たちとは違うことを立証するために、金貸しの老婆を斧でぶち殺す青年が出てくる。殺人の動機は、常識的人間への侮蔑なのである。こうしたニーチェ主義を奉じる若い世代が出てきたことも、注目されなければならないだろう。

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