岸田国士の「暖流」

岸田国士は気になる存在だった。
何しろ彼は戦争中に見た映画「暖流」の原作者だったし、戦後になって偶然読んだ「村で一番の栗の木」という彼の戯曲も大変面白かったからである。

昭和19年といえば敗戦を翌年に控えた年で、この年に東京で学生生活を始めた私は、一年足らずの期間に「暖流」という映画を三回も見ている。東京には映画館が浜の真砂のようにたくさんあり、いろいろな映画を上映していたが、そのほとんどが「戦意高揚」のために制作された国策映画で、食指を動かすに足るようなものはひとつもなかった。そのなかで、僅かにリバイバル上映されていた吉村公三郎監督の「暖流」や、小津安二郎監督の「戸田家の兄妹」が私たち学生を引きつけていたのである。

同じ映画を三回も見れば、遠い昔のことであっても、記憶は鮮明に残っている。映画の中の情景が昨日見たようにマザマザと脳裏に焼き付いているのだ。

「暖流」の主要人物は、志摩病院の建て直しに乗り込んできた青年事務長日疋祐三を主役に、彼を愛する病院長の娘志摩啓子と看護婦石渡ぎんの三人で構成されている。観客の興味は、日疋祐三が二人の女性のうちのいずれを選ぶかということにむけられるのだが、日疋はあらゆる点で啓子より劣る看護婦石渡ぎんを選ぶのである。

日疋祐三には硬派の男優佐分利信、病院長令嬢啓子には高峰三枝子、石渡ぎんには水戸光子が扮していた。いずれも役柄に相応しい俳優たちで、これ以上ない配役だと思われた。

私は吉村公三郎が何かの雑誌で、日疋が石渡を選んだ理由を説明しているのを読んだことがある。その記事の中で、吉村は、「どっちの女が日疋を必要としているかといえば、石渡の方だったから日疋は彼女を選んだのだ」と主張していた。吉村は、こうした彼独自の見方を明確に打ち出すために、あの映画を作ったと語っていた。

院長の娘啓子が一人でやっていける自立した女だから、彼女は日疋の選択からはずされたという吉村公三郎の解釈が正しいとすれば、日疋祐三は完成品よりも、未完成な女の方を選んだということになる。そして映画は間違いなく、そうした観点で作られていたのだった。だからこそ、幕切れの場面が哀切を極めるものになったである。

日疋祐三は志摩家の破産を救い、病院の再建にも成功したあとで、報告のために海岸で保養中の志摩母娘を訪ねる。報告をすませた日疋は、娘の啓子と散歩に出て、そこで石渡と結婚することを告げる。啓子が理知的で自立した女だったら、日疋の話にショックを受けても、平静を装うことができたはずだった。だが、啓子はあふれ出る涙を抑えることができなかった。彼女は、日疋の考えていたような理知的な女でも、しっかり者でもなかったのである。啓子は涙を隠すために海の中に駆け込んで顔を洗う。そして、日疋のところに戻ってきて晴れ晴れした表情で「おめでとう」と祝福するのだ。啓子のこのけなげな態度が、戦時下の学生たちの胸を打ったのである。

私が戦後に「村で一番の栗の木」を除いて岸田国士の作品を読むことを拒否していたのは、彼が戦争中、大政翼賛会の文化部長をしていたからだった。戦争に協力した作家を、当時の私は唾棄していたのだ。ところが、今度、古山高麗雄の作品をまとめて追加注文した中に「岸田国士と私」という評伝があって、それに目を通しているうちにオヤと思った。さらに、巻末に掲載された岸田の年譜を読むに及んで、彼に対する見方を改めざるを得なくなったのである。

 明治二十三年(一八九〇)
 十一月二日、東京・四谷右京町に岸田家の長子とし
 て生れる。父庄蔵は当時近衛砲兵聯隊附大尉。祖父
 (父方)は廃藩まで紀州蒲の槍術指南番で三百五十
 石位の家柄であった。母楠子は旧姓村辻、紀州藩家
 老の出であった。

こうした記述に始まる年譜を追っていくと、岸田は尚武の家系を継いで陸軍幼年学校に入学し、それから陸軍士官学校に進んで職業軍人になるというコースを歩んでいる。

そして22才で久留米連隊の少尉に任官した岸田は、この久留米連隊の連隊旗手を命じられている。このことだけで彼がいかに将来を嘱望されていたか分かるのだ。連隊の中で最優秀と目されている将校が、天皇から下賜された連隊旗を奉じる旗手に任命されるからだ。しかし、彼はその二年後に軍人としての輝かしい未来を投げ捨ててしまう。休職願いを出して久留米連隊を去り、上京して、市内の貸間を転々としながら、フランス語の個人教授や家庭教師をして生活費を稼ぐ生活に入るのだ。彼は、幼年学校時代にフランス語を選択し、ルソーやシャトーブリアンに心酔していたのだった。

東京でその日暮らしの生活を続けながら、彼は自分と同じように陸軍幼年学校に学んでいた先輩から助言を得ようと思った。先輩には仏文学者の内藤濯とアナキストの大杉栄がいた。彼は、訪問先を二人のうちどちらにするか迷った末に、内藤を訪ねている。この時、もし岸田が大杉を訪ねていたら、彼の人生は大きく変わっていたに違いない。岸田は行動的な男だったから、フランス語で身を立てることに決めると、フランス語に磨きをかけるための東京大学フランス語専科に入学して力をつけ、更にフランスに渡って現場でフランス語を習得しようと企てる。このフランス渡航がなかなかの冒険だったのである。

乏しい渡航費しか用意できなかったから、彼は貨物船でまず台湾に渡り、それから香港に赴いて、そこで三井物産仏印出張所通訳の職を得てハイフォンに上陸している。ハイフォンでフランスに渡る見通しのつかないまま、三ヶ月を過ぎしているうちに、トランプ賭博で大金を手にする幸運に恵まれる。岸田は、その金で即座に船に乗り込み、マルセーユにたどり着くことができたのだった。その時、彼は30歳になっていた。

フランスで2年間過ごす間、岸田は日本大使館、国際連盟事務局の嘱託などいろいろな仕事をしている。これが並の作家とは違う広い社会的視野を彼にもたらすことになり、大政翼賛会の文化部長に招聘される原因になるのである。父の訃報に接して帰国した彼は、翻訳活動のかたわら戯曲を発表して新進作家として認められるようになる。彼は評論家、新聞小説作家としても活躍の場を広げ、ジャーナリズムの世界に確固とした地位を占めた。

年譜によると、「暖流」は昭和13年に朝日新聞に連載されている。昭和13年といえば日中戦争たけなわの時期で、日本が南京占領に続いて武漢三鎮を陥落させた年である。そうした時期に、岸田は戦争のにおいをほとんど感じさせない「暖流」のような小説を書いているのだ。

軍隊を嫌ってフランスに渡った自由人岸田は、帰国すると近衛文麿の大政翼賛会に目をつけられる程度に「国家主義」的になっていた。彼は自由主義と国家主義の中間にあって、バランスをとりながら作家活動を続けていたから、「暖流」の主人公日疋祐三もそうした中間型境界線型の人物として描かれている。

評伝を読んでいるうちに、右と左の中間を綱渡りしながら生きた岸田の、その綱渡りの軌跡を作品の中に探ってみたくなった。そこで私は岩波書店から刊行された「岸田国士全集」28冊をインターネット古書店から取り寄せて、まず、「暖流」から読み始めたのである。

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何しろ今まで岸田国士の作品をほとんど読んでいなかったから、彼の全集を読んでも容易に岸田の全体像をつかむことができなかった。それでも私は、彼の長編小説「暖流」「双面神」「由利旗江」「善魔」をはじめ、いくつかの戯曲を読むことは読んだのである。岸田国士のイメージがおぼろげながら浮かんできたのは、これらの作品からではなく、「妻の日記」という短い随筆を読んだからだった。

岸田国士は、私事については語らなかった作家だといわれている。彼は死ぬまで私小説を一つも書いていない。その彼が身辺について語った希な文章が「妻の日記」という随筆なのである。しかし、これも岸田夫人の日記はわずかしか載っていない上に、叙述の大半は若い女性への訓戒にあてられている。大政翼賛会の文化部長という自己の職責を意識して、どうしても本音よりも建前を優先した文章になってしまうのだ。それでも、文中にはこうした一節があった。

「私はただ、世の常の夫として、「妻」なるものの全貌を、その死とともにはじめて胸中に描き得たことを識り、驚きをもって、彼女の生前の日常を想い浮かべている」

人はよく、大切なものを失ってみて、初めてそれが大事なものであったことを知るという。喪失することによってしか、そのものの価値がわからないという事実が、一番痛切な形で現れるのは妻を失った場合なのだ。人は年配になると、妻に死なれてがっくりして、生きる気力をなくしてしう男たちを数多く見るようになる。亭主関白で威張り散らしていた男ほど、妻に死なれるとがっくり来るのである。そして、妻の後を追うようにして死んでいったりする。離婚した夫婦の場合でも、事情は全く同じで、「あんな馬鹿女と別れてせいせいした」と豪語していたサムライが、離婚して一年たつかたたないうちにぽっくり死んでしまったりする。女房の存在をろくに意識していなかった亭主は、女房に死なれて、やっと相手がベターハーフであり、自分は「より良き半身」に支えられていた「悪しき半身」だったことに気づくのである。

岸田国士は、妻の死後、妻によって埋められていた日常生活の一部が空洞化した事に気づく。その空洞部分にに妻の営為を充当してみて、初めて彼は妻なるものの全貌を把握したのだ。彼はそこから更に、女の生涯がどんなものかを悟るようになる。彼は書いている。

「かうして、妻の日記を手がかりに、私は、一人の女の生涯について考えはじめた」

岸田国士の発見は、それだけにとどまらなかった。彼は娘時代の妻の日記に、死の前兆のような文章があることに気づく。

「何というさびしさだ。・・・・そんなにさびしがっていいものか。いいもわるいもない。さびしいんだからしかたがない」(岸田夫人の若き日の日記)

楽しいことがいっぱいあるはずの娘時代に、岸田の妻は振り払っても振り払っても湧いてくるさびしさを抑えることができず、ついに諦めてそれを受け入れてしまっていた。岸田はそういう妻に、(彼女には、短命の予感があったのではないか)と直覚する。人は自己の死を漠然と予感しているときに、なんとも名付けようもないさびしさに襲われるのである。

岸田国士自身も死の二ヶ月ほど前に、自己の死を予感している。彼はその頃、「雪だるまの幻想」というラジオドラマを書いたが、これは生者である岸田が、死んだ妻と対話するという構成になっていて、岸田は死んだ妻にこう話しかけるのだ。

老人――お前は、自分の短命を、ひそかに覚悟していた、と、おれは、あとになって、気がついた。

すると、雪人形に身を変じた妻は、「お別れするのが、ずいぶん辛かったわ」と答える。岸田は妻と話しているうちに、つい、こんな愚痴をこぼしはじめる。「もう生きるということにはあきあきした。しかし、このままでは、お前のそばに行けないだろうな」

これに続く問答は、次のようになっている。

雪人形――もう、ひと息だわ。
老人――それは、わかってゐる。
雪人形――子供たちは、もう大丈夫でせうね。
老人――ああ、大丈夫だとも…‥・。
雪人形――そんなら、早く、いらっしゃい。
老人――どうすれはいいんだ?     
雪人形――あたしの肩におつかまりなさい。
老人――もう眼が見えないよ。
雪人形――しばらくの我慢よ。すぐ、眼の前が明るくなってよ。
老人――思いがけないことだ。ありがたいことだ。どこへでもつれていってくれ。
雪人形――手をはなしちやだめよ。

このラジオドラマは、老人が雪だるまになってこの世から消えるところで終わっている。

岸田国士を知る多くの友人たちは、このドラマに現れた岸田の「弱さ」を見落としていたのではなかろうか。岸田は情に屈しないタフな男として文壇人の支持を受けて大政翼賛会の文化部長になったのだが、彼らが岸田に期待したのは軍部からの圧力を阻止して文学を守る防波堤になってくれることだった。古山高麗雄の「岸田国士と私」には、この間の事情を物語るエピソードが載っている。

<高見順の『昭和文学盛衰史』に、昭和十五年九月下旬に、河上徹太郎、 械光利一、武田麟太郎、島木健作ら『文学界』系の作家評論家十人ほどの集まりで、河上氏が、
「実はすでにお聞き及びかと思いますが……」
「今度できる『新体制』組織の文化部門の重要な地位に、民間から岸田国士が起用されることになるらしい」
「われわれとしては、ぜひこの岸田国士を支持したいと思う。その支持ということは、文化統制の防波堤になって貰おうということである」
と言ったと書いてある>

だが、岸田国士は人々の期待に応えたとは言い難かった。事情は、大政翼賛会そのものにも共通していた。

大政翼賛会は軍部の暴走を阻止するために、近衛文麿のアピールにこたえて非軍部の諸勢力が大同団結したものだった。近衛は大政翼賛会をバックに軍部と闘うことを期待されたにもかかわらず軍部と妥協し、あろうことか東条英機に首相の座を渡して政界を去ってしまうのだ。そのため、大政翼賛会は軍部を押さえるどころの話ではなくなり、軍部を支える支援組織になり、軍部もろとも太平洋戦争へと雪崩れ込むことになった。

岸田が信頼する友人たちは、彼の大政翼賛会入りには反対していたが、岸田は「他の人には勤まるまいから」とか、「僕がやらなきゃ、もっと悪くなるからね」と語って、火中の栗を拾う覚悟で文化部長に就任するのである。岸田は、日本人が日本人に向かって日本を礼賛するという夜郎自大的な風潮を苦々しく思っていた。たとえば、膝の曲がった日本人の体格の方が、西洋人より美しく優れているというような論をなすものが多かったからだ。その、実例。

「日本人の生活様式がより自然の理法に適ってゐ、例へぼ穀物を主食物とし、膝を折って坐るといふやうなくせが、筋肉の布置を最も円満にし、関節の機能を十分に発達させ、西洋人にはみられない安定な均整美を作り出してゐるうへに、戦争に強い原因ともなつてゐる」

そこで文化部長になった彼は、真の愛国心、真の日本文化とは何かということを説き始める。在任中の二年間、彼は文学作品を一本も書くことなく、講演のために全国各地を飛び回り、疲労困憊してへとへとになるのである。

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岸田国士は最初、劇作家として出発した。
フランスから帰国し、34才で「古い玩具」「チロルの秋」「紙風船」などの戯曲を発表したとき、彼は三島由紀夫のデビュー時を凌ぐといわれるほどの衝撃をもって文壇から迎えられた。以来、彼はめざましい勢いで次々に戯曲を発表する一方で、劇団の結成にも尽力し「文学座」のリーダーになっている。彼は舞台監督として自らも劇を演出した。

小説などには見向きもしないで、演劇の世界に没頭していた岸田は、昭和4年に朝日新聞から連載小説の執筆を依頼されると鮮やかな転身を示し、それ以来、ぱったり戯曲を書かないようになった。34才から39才までの五年間を演劇一筋で過ごし、それ以後は小説プロパーの作家になったのである。

思想面でも、岸田は何度か変身を続けている。
デビュー当時、彼の戯曲が注目されたのは、それが表現の点でも、思想の点でも、すべてが新しかったからだった。世評の高かった「紙風船」は、結婚一年後の若夫婦二人を登場人物にして、場面も住宅の一室だけに限定した斬新な戯曲であった。

日曜日のある日、夫婦は今日一日をどう過ごすかで軽い口喧嘩を始める。そして、旅行でもしたいなということになった。

夫──日帰りで鎌倉あたりへ行くのもいいな。
妻──行きたい処があるわ。
夫──さうするっていふと、東京駅を八時何分かに出る汽車がある。
妻──二等よ。
夫──当り前さ。早くあの窓ぎはの向ひ合った席を占領するんだなあ。おれのステッキとお前のパラソルとを、おれが、かう網の上にのせる……。
妻──あたし、持ってる方がいいの。
夫──さうか。後からはいって来る奴らは、おれ達を見て、ははあ、やつてるなと思ひながら成るべく近くに席を取るに違ひない。
妻──馬鹿ね。
夫──汽車が動き出す。
妻──窓を開けて頂戴。
夫──煤がはいるよ。あれ御覧、浜離宮の跡だ。
妻──まあ。

こんな調子で夫婦が想像上の旅を面白おかしく続けているうちに、急に妻が泣き出すのだ。だが、深刻になりかけた場面を庭に飛び込んできた紙風船が転換させてくれる。人間心理の深淵をかいまみせながら、それは暗示するだけにとどめ、劇は薄氷の上を滑るように軽やかに進行するのだ。

こういうモダニズムを基調にした岸田国士の作風が変化するのである。最初の小説「由利旗江」は世界恐慌に突入した時代の空気を反映してシリアスな内容になり、自分の意志を貫き通す理知的な女性を主人公にしている。岸田は、由利旗江というヒロインを通して、新しい時代の新しいモラルを描こうとしたのである。彼が打破しようとしたのは、保守派が礼賛してやまない日本的な家族制度だった。

由利旗江は、結婚した女たちが自己を失っていくことに怒りを感じていた。女性が自分の生き方を守ろうとしたら、結婚すべきではないし、結婚したとしても夫と同じ家に住むべきではない、夫婦がそれぞれ別の家に住んで夫婦生活を続けるべきだと考えるようになっていた。

彼女は、資産家の跡継ぎで、教養もある理想的な恋人と深い関係になる。そして相手の子供を身ごもりながら、断固として結婚を拒み、ついに恋人と別れてしまうのである。彼女は出産後、生まれた子供のことを相手にも知らせず、自活の道を講じながら独力で子供を育てるのだ。

「由利旗江」で高い評価を得た岸田は、以後、注文に応じて続々と新聞小説や雑誌連載小説を書くようになる。そして、それらの作品のヒロインは、いずれも由利旗江の面影を引きずっているのである。彼女らは、容貌まで似ている。「暖流」の志摩啓子は浅黒い顔をして、引き締まった体を持った理知的な近代女性だった。「善魔」の鳥羽伊都子も、浅黒い肌をした理知的な夫人で、最後まで自分の意志を曲げない。これに対して、流されるままに生きる「暖流」の石渡ぎんは、色白で柔らかな姿態をしているのである。

岸田作品のヒロインたちは、教育のある聡明な女性なはずだった。それなのに符節をあわせたように最初の恋愛で間違った選択をしている。これは一体何故なのだろうか。「暖流」の志摩啓子は指に刺さったミシンの針を抜いてくれた医者に心を許して婚約するが、やがて彼を捨てて日疋祐三に乗り換える。「善魔」の鳥羽伊都子は高級官僚の夫を愛して結婚したものの、やがて夫を捨てて家出をする。「双面神」の日下千種はいったんは海軍少佐と婚約し、程なく相手と別れて別の男性のもとに走る。

岸田作品のヒロインたちが、多くの男性の中から一人を選択した理由は、相手が思いやりのある聡明な男に見えたからだった。だが、相手と交渉を重ねるうちに、近代的で教養ありげに見えた男の内面に卑小なものを見てしまうのだ。そこで、彼女らは「恋人の選び直し」を行い、見かけはパッとしないが実務能力に長けた行動的な男性を選ぶのである。「暖流」と「双面神」などは、人物配置から物語の運び方まで、双生児のように似ている。

これらの作品で岸田国士は、浅薄な西欧模倣に反対し、疑似的な近代を否定する。しかし、それだけではない。岸田作品のヒロインたちは、恋人の疑似近代的なものを憎み、そして又日本伝来の封建的なものにも反発しているのだ。岸田は、当時流行していた近代の否定に同調する小説を書いているように見える。だが、彼の真意は近代の超克ではなく、封建的なものに対抗し得る真の近代を確立することにあったのである。

その岸田国士が、親しい友人たちの反対を振り切り、近衛文麿と三回も面会し、大政翼賛会の文化部長になったのだ。そして東奔西走しているうちに、ミイラ盗りがミイラになり、軍部の支配に抵抗するという初志を放棄してしまうのである。彼は、真の近代を日本に根付かせるために努力しながらも、大政翼賛会入りをしたことによって民族派に転身し、身も心もズタズタになってしまう。

岸田が過労のため聖ロカ病院に入院するほど奮闘したことについて、福田恒存は、岸田の内部には崩壊を避けようとする意識と、崩壊を急ごうとする意識が、表裏をなして存在していたと論評する。岸田は、日本が敗れることを恐れて国民を鼓舞する一方で、日本は敗れた方がいい、敗れるべきだとも考えていたというのだ。

「妻の日記」には、岸田が文化部長を辞めた頃の岸田夫人の日記が転載されている。

七月二十八日
翼賛会をやめてほっとした彼の顔。
ご苦労さま。そして、私がこんな風で、なんにもできなかつたこと、ごめんなさい。のうのうと休ませてあげたい。痛いところがあればさすつてもあげたい。しかし、家にゐて、あれこれと気をつかふのは彼。お国のためといふ言葉が、こんなに身近な言葉だとはつい知らなかつた。
なにかしら、得意と安心。だが、私も疲れた。

七月三十一日
家族の世話をやく時、彼の注意は綿密をきわめ、そのため何かいたましい感じすら感じさせる。

この日記を書いてから一ヶ月とはたたない八月の下旬に岸田夫人は死去している。岸田国士は大政翼賛会の文化部長に就任したことによって、自らの心身を傷つけ、愛する妻をも失ったのである。これは、随筆「妻の日記」に見られるような状況に深入りしてしまう彼のやさしさと「弱さ」のためだった。

転向を繰り返しながら、岸田国士が夢見ていたのは、「善魔」のなかの三国連太郎のような生き方だったと思われる。

戦後に発表した長編小説「善魔」の主人公三国連太郎(俳優三国連太郎の芸名はここから来ている)は、恋人の父親から、善が悪に敗北するのは、善のなかに無抵抗主義があるからだと教えられる。悪と戦うには、善もまた悪の持っているような魔性の力を持たなければならぬというのである。

また、この作品には主人公の上司の新聞社編集部長が語るこんな言葉も載っている。

「われわれ人間は、絶
対に、意志の力なんていふものを信用してやしませ
んからね。それよりも、恐怖ですよ、一番人間の行
動を左右するのは……。何かが怖い……何かを憚る
……何かにおびえる……。それは、結局、すること
よりも、しないことを意味するモラルの前提です。
弱いから美しいといふ論理もそこから生れる。僕たindex.htm
ちは、どうもこのま、ぢやダメですよ」

三国連太郎は、これらの意見を身に体して悪との戦いに乗り出すのである。

岸田国士はこれと同じ志向を抱きながら、生来のやさしさと弱さから状況に流され、右と左の境界線上を歩むことになったのだった。
    
(補遺)
「暖流」を読んでみると、日疋祐三が就任したのは志摩病院の事務長ではなく、院長の代理としての「主事」だった。日疋が石渡ぎんを選んだのは、彼女をスパイに使ったことへの贖罪の意識に加え、彼女に対してなら何かしてやれるという自信が持てたからだった。彼は、志摩啓子に向かって自分の気持ちをそのように説明している。