柳沢桂子の「神秘体験」 1
新聞のテレビ欄に「柳沢桂子が般若心経について語る」という番組紹介があったので、NHKにチャンネルを回してみた。
テレビが彼女を取り上げたのは、柳沢桂子訳述の般若心経が40万部を超えるベストセラーになっているためらしかった。彼女は反訳に当たって、現代詩のスタイルを採用し、誰にも気安く読めるような工夫をこらしている。その工夫が効を奏して彼女の訳本「生きて死ぬ智恵」は多くの読者を獲得したのだ。が、当のテレビ番組で断片的に紹介された現代詩調「般若心経」を読んでも、特に注目に値するようなところはなかった。
本の内容よりも私が注目したのは、彼女の表情だった。柳沢桂子は激痛を伴う難病にかかり、36年間を苦しみ抜いたという。その苦痛があまり長くつづくので、彼女は夫に自殺したいと告げ、夫もそれに賛成したが、娘が必死になって懇願したので死ぬのを思い止まっている。
アナウンサーの問いに答える柳沢桂子は、絶え間ない苦痛によって人間的な感情をすっかり摩滅させてしまったような表情をしていたのだ。何の感情も浮かんでいない白紙のような彼女の顔に、瞬きしない大きな目が、ぎろりと見開かれていた。昔は、知的な美貌で周囲の注目を集めたにちがいない彼女が、いまや冷たい無機質の光を目にたたえ、つくりもののような格好でしずかに坐っている──。
喜びも悲しみも剥落してしまったようなその険しい目差しは、どこから来たのだろうか。病苦だけが原因だとは思えなかった。
すると、その数日後に、柳沢桂子の「語り下し」を掲載した雑誌の広告が新聞に出ていた。「文藝春秋」の10月号が「いのちの悟り──般若心経と私」という題で彼女の神秘体験を記事にしていたのだ。
雑誌を買ってきて読んで見ると、確かに、柳沢桂子の病苦は、すさまじいものだった。彼女は研究者の夫と結婚し二児をもうけ、三菱化成生命科学研究所に勤務することになるが、その頃には既に原因不明の病気にかかっていた。病苦は次々に襲ってくる。彼女が受けた手術だけでも、子宮内膜手術・卵巣摘出手術・胆嚢摘出手術などを数え、しまいには食事が喉を通らなくなった。食物が胃に届くまでに食道が痙攣するのか、激しい痛みを伴うのである。それで心臓付近の中心静脈にチューブを入れて栄養分を補給しなければならなくなった。
こうして入退院を繰り返していたら、勤務先の方でも何時までも彼女を休職扱いにしておくわけにはいかなくなる。45才になったある日、研究所からもう休職を延長することはできないと通告される。覚悟していたとはいえ、この宣告をうけて彼女は激しく動揺した。柳沢桂子が「突然明るい炎に包まれる」という神秘体験をするのは、宣告を受けた翌日のことだった。
柳沢桂子 2
その日、夕食を済ませた柳沢桂子は寝室に戻る途中、息子の部屋の書棚に橋本凝胤の「人間の生きがいとは何か」という文庫本があるのに目をとめた。部屋に戻ってその本を読み始めたらとまらなくなり、読み終わる頃には明け方になっていた。彼女の心をとらえたのは、この本の中の次の一節だった。
人間性とはいかなるものであるか。われわれは人のため
に生きているのではない。社会のためにでも世界のために
でも、世界人類のために生きているわけでもない。それを
世界人類のために生きているような考え方を持たねばなら
ぬように訓練されてきているわけです。(中略)しかしこういうものに、われわれは左右されてはいけないのです。
いつでも一人のときに、一人の生活の中に、道というもの
が厳然となければならないのです。
読み終わって白々と浮かび上がった障子を眺めているうちに、不意に彼女は明るい炎に包まれたのである。気がつくと、それまでの惨めな気持ちは一掃され、何か大きなものにすっぽりと抱きかかえられているような気持ちになっていた。目の前に光り輝く一本の道が見えた。
柳沢桂子のこの体験は、パスカルが「火の夜」と呼んだ体験と似ている。
パスカルも、研究と信仰の両方に行き詰まり、八方ふさがりの状況にあったある夜、火のようなものに包まれるという体験をしている。彼は科学者らしく、この体験の渦中にあってその印象を書き記し、その羊皮紙を胴着に縫いつけて死ぬまで離さなかった。パスカルはこのとき彼を襲った火のようなものを神の来臨として受け取ったのである。柳沢桂子の炎、パスカルの火は、いかなるメカニズムのもとに出現したのだろうか。
柳沢桂子は、この一夜の体験によって、他者との対比や世俗的な評価によって生きるのではなく、自らのうちに深く沈潜して生きる道を探さなければならないという確信を得たのだった。
彼女はそれまで研究者としての功名心に燃え、病院のベットで論文をまとめたり、退院すると自宅に持ち帰った顕微鏡を覗いたりしていた。業績を上げて世間から認められること、それが彼女の生きがいになっていた。だが、病苦のため研究が進まないだけでなく、生命科学研究所という研究のための場をも失うことになった。失意と憤懣はそれだけでなかった。担当の医者は病気の原因が見あたらないことから、彼女をヒステリー性の詐病と診断していたのだ。
あれやこれやで、彼女の欲求不満は雪だるまのようにふくらんだが、その不満や怒りを外に向けることが出来ない。表出不能のエネルギーは、刻々その内圧を高めていった。
パスカルの場合も、同じだった。学問の世界で若くして天才の名をほしいままにした彼は、自分が歓迎されることを確信して社交界に出ていった。だが、紳士淑女のつどう社交界は、科学の世界とは全く別の論理で動いていた。彼は社交界の人気者になるどころか、嘲弄の的になった。彼に残された道は、最早信仰しかなくなった。だが、そこにも壁があってどうしても神と交わることが出来ない。彼も日々募る不満を内側にため込んで、動きがとれなくなっていたのである。
優等生だった柳沢桂子は、世のため人のために真理を探究するとか、研究者になった以上は、業績を上げなければ存在する価値がないとか、結局は対世間的な意識にすぎないもので頭をいっぱいにして生きていた。その硬直した思考を、橋本凝胤の「われわれは人のために生きているのではない」という言葉が一挙に粉砕してくれたのである。
柳沢桂子も、パスカルも、外に向かって発散できないままに内に溜め込んだ感情的エネルギーをかかえこんでいた。それが、不意に逆噴射して各自の内界を照らし出したのである。禅宗の僧侶は、公案を解こうとして四苦八苦しているうちに不意に「打通」して光の世界に出る。あるいはイスラム教の修行者が洞窟にこもって瞑想中に、彼らがイルミネーションと呼ぶ燦然たる光を浴びる。これらは、いずれも本来外に向かうべきエネルギーが、逆噴射して自我の内奥を照らしたことによる「神秘体験」なのである。
パスカルやイスラム教徒のように、彼らを包んだ火や光を神の来臨と取る見方がある。だが、禅僧を含む一般の体験者は、これを個我意識の背後にある魂とか霊性と呼ばれるものだ考える。彼らは、自分が個我意識を突き抜けて魂の野・霊の世界に出たと感じ、自分の内部には、まるで海洋のように広大なもう一つの世界があると思うのだ。そして自分の内部に自分とは別のもう一人の偉大なる真人がいると思ったりするのである。
3
エネルギーの逆噴射によって神秘体験が繰り返し起こるなら、迷いは起こらない。
だが、そうした体験はまれにしか起こらず、体験後も気がつけばおのれの内部に以前の鬱屈したエネルギーが居座っていて、じりじりと心を腐食させて行くことに気づく。神秘体験によって突如あたえられた法悦と歓喜は、たちまち消え去り、翌日には元の木阿弥に戻っている自分を発見する。柳沢桂子が神秘体験によって完全な「安心」を得られなかったことは、その後彼女が宗教書や哲学・心理学の本を読みあさるようになったことでも分かる。彼女は体験のメカニズムを十分把握できないままに、その瞬間に自分を包み込んだ炎を絶対者ではないかと考えはじめる。だから彼女は、その判断を裏付けてくれるエックハルトや暁烏敏の本を愛読するようになるのだ。
エックハルトの思想は、次のくだりに最もよく現れていると彼女はいう。
人間は、自己本来の意志を放棄し、(中略)断乎として
神の人間にあたえ給うすべてのことの中へと脱却すること
が、自己にとって正しく賢明にして快心の業なることを悟
らなければならない。(中略)己れをすてあますところなく己れ自身より脱出した人にとって
は、もはや十字架も苦悩もなく、すべてはただ歓喜であり、
快心事であり、このような人こそ実に神に従い至るからである!
エックハルトの説が正しいとしたら、自分を棄てエゴを脱却すれば「苦悩もなく、すべてはただ歓喜」であるような境地に到達できるはずだった。しかし彼女は一向にそんな境地に入り得なかった。
柳沢桂子は、世俗に縛られていた自分を橋本凝胤の本を読むことによって解き放った。そして自己に忠実に生きようと思い定めて、大きなものに抱き取られたような歓喜と安心を感じた。しかしエックハルトは、神の前に出て、神をわがものとして掴むためには、その自分を棄てなければならないという。
彼女は方針を転換し、エックハルトや暁烏敏に従って、自己を無にして絶対者の世界に参入しようとした。が、救済は依然として得られなかった。彼女はいらだち、師事している牧師に駄々っ子のようにせがんだ。
「神様の顔が見えないのです。神様の顔を見せて下さい」
牧師が紹介してくれたのは、ボンヘッファーの著作だった。ボンヘッファーはヒトラー暗殺計画を企てて処刑されたドイツの神学者で、何の救いも期待できない獄中で「神なしに生きる」という独特な神観を作り上げていた。私はこの人の名前を初めて聞いたが、「ボンヘッファー獄中書簡集」には、以下のような一節があるという。
道徳学的・政治学的・自然科学的な作業仮説としての神
は、廃棄され、克服された。だが、哲学的・宗教的な作業
仮説としての神も同様だ(フォイエルバッハ!)。(中略)われわれは─「タトエ神ガイナクトモ」─ この世の
中で生きなければならない。このことを認識することなし
に誠実であることはできない。そしてまさにこのことを、われわれは神の前で認識す
る! 神ご自身がわれわれを強いてこの認識に至らせ給
う。(中略)神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神
こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神な
自然科学の洗礼を受けた現代人には、もはや聖書の説くような神を信じることはできなくなっている。一切の自然現象・社会現象は、神を持ってこなくても説明できるようになっているのである。
ところが、ボンヘッファーは、現代社会が神なしで運営され、人々が神なしに生きうるようになったのも神の仕業だというのだ。神は、人間をして「神の不在」を当然視するように導いてきたという。その結果、人間は神の前にあって、神と共に生きながら、神をまったく意識しないで暮らすようになった。
柳沢桂子はボンヘッファーの著作に触れることによって、「神の顔が見えない、神の顔を見たい」という焦慮を棄てることが出来た。しかし、まだ古い自己から脱却して、新しい境地におどり出ることがどうしてもできなかった。どうすれば自分を棄てることが出来るだろうか。
4
彼女が自分を完全に無にすることに成功したのは、偶然のことからだった。
車椅子を電動に変えたことで行動半径がひろがった柳沢桂子は、遠出をして道で会う知人とあいさつを交わすようになった。ある日、車椅子に乗った彼女は、同年配の婦人から声をかけられた。
「大変でいらっしゃいますね」
相手はそういって歩み去ったが、柳沢桂子は去って行く相手を見送りながら、「自分は憐れまれているのではないか」と思った。彼女はひどく傷つき、車椅子を道ばたに寄せて考え込んだ。暫くして、どんと背中を押されるように、ひとつの明確な認識が浮かんできた。
自分が憐れまれていると感じてイヤな気持ちになるのも、そこに自分が存在するからだ。その場から自分というものを消してしまったらどうなるか。
(私がいなければいいんだ)彼女は、すうっと楽になった。
聖者がよく口にする、自我がなければ苦しみもないというのは、このことだったのである。この発見は彼女を身震いさせるほどの感動に導いた。あの神秘体験に匹敵するほどの恍惚感に包まれたのだ。柳沢桂子は、この体験以後、自分を不幸だと思ったり、他人をうらやむことがなくなったと語っている。
が、彼女のこの告白は少々疑わしい。なぜなら、このあとで病苦に耐えきれなくなった彼女は、夫に自殺したいと告げて、同意を得ているからだ。夫が妻に同意したのは、彼女が精神的に自分を持ちこたえられなくなっていると判断したからなのだ。「死んで生きる」という認識の効果は、「神秘体験」の効果と同様、それほど長続きしないのである。永続する安心を得るためには、もっと他の何かが必要なのだ。
私はアナウンサーの問いに答える彼女を見ていて、人間的なものを一切削ぎ落としたような顔だと思った。彼女の顔をそのようにしてしまったのは、病苦だけではなかった。自殺の誘惑とたたかいながら生きる苦悶の日々も彼女をそうさせたのである。
モルヒネも効かない柳沢桂子の痛みは、三十数年の闘病の末に抗鬱剤を摂取するという新療法を開始したことで劇的に改善した。一週間で痛みが消え、一ヶ月後には独りで立ち上がることが出来るようになったのだ。
病気が順調に回復過程をたどっている頃、彼女は面識のない編集者から「般若心経を訳してほしい」という依頼を受ける。その依頼に応えて彼女は、僅か二日で訳述を終えている。胸底から言葉が溢れるように出てきたのである。
5
「文春」誌上には、彼女の訳した現代詩風の般若心経が、ほんの一部分だけ再録されている。その片々たる引用部分を取り上げて批評を加えるのは、著者に対して非礼を働くことになるけれども、ここに少しばかり感想を述べさせてもらいたいと思う。
般若心経で最も重要な鍵言葉は、「空」である。
これを著者はどう説明しているのだろうか。
お聞きなさい
あなたも 宇宙のなかで
粒子でできています
宇宙のなかの
ほかの粒子と一つづきです
ですから宇宙も「空」です
あなたという実体はないのです
あなたと宇宙は一つです
「空」というのは、著者も指摘しているように空っぽとか、何もないとかいう意味ではない。実体がないという意味なのだ。ところが著者は、人間を含む宇宙のすべては粒子で出来ているという。としたら、宇宙はまぎれもない実体であって、「空」ということにはならないのではないか。
般若心経は、この宇宙を増えもしないし減りもしない定量の物質(「不増不減の色」)で出来ているとする。
この限りにおいて、宇宙は実体であって、空ではないのだ。これが空になるのは、あらゆる存在が相互依存関係にあり、しかも変転する因縁(直接原因と間接原因)によってくるくる変化しつづけ、定性や定相を持たないからにほかならない。宇宙は、いわば巨大な万華鏡みたいなものであって、万華鏡の筒を時間がゆっくり回転させるにつれ宇宙は千変万化の変化相をみせる。素材としての宇宙は実体だが、運動体としての宇宙は固定した姿を持たず、幻影のように定まらない存在なのだ。般若心経は、この点を「空」といっているのである。
人間という存在も、素材として見れば実体であるけれども、因縁が一時的に和合しバランスを取っている限りにおいて生存する仮の存在に過ぎない。人間は、他の事物と同様に一瞬の停滞もなく変化している。
「万物黙移」「無常迅速」──これが世界の実相なのである。
般若心経はこうした空なる自己に執着しないで、事実唯真の生き方をするように教える。この教典が日本人に愛されてきたのは、「幸福とは欲を持たないことだ」という経験則の根拠を、簡にして要を得たやりかたで提示しているからなのだ。
6
「神秘体験」についての一番大きな誤解は、この体験時に突出してくる霊的な炎や光りが、その供給源を自己の内部に持つと考えることなのだ。神なき現代人は、過去の聖者たちのように、この光体を絶対者とは考えない。自分のなかにあった霊的なものが、突如姿をあらわしたのだと考えるのである。
その瞬間にちっぽけな個我意識が一掃され、内面は輝かしいものでいっぱいになるのだから、体験者がうちなる霊性によって自意識が押し流されたと錯覚するのも無理からぬことといえる。
だが、そう考えるためには、表層の自我もエネルギーを持ち、その背後にある霊的な自己もまたエネルギーを持つとしなければならない。深層のエネルギーは表層のエネルギーよりも強力で、それを一掃するほどの能力を持っていると想定する必要があるのだ。こう考えるのには、かなり無理がある。
柳沢桂子とパスカルの場合を検討してみよう。
二人とも、怒りや苦しみや屈辱感など、さまざまなマイナスの感情を溜め込んでいたが、そうやって蓄積された感情的エネルギーを外に向かって吐き出すことが出来ないと、それは往々にして攻撃エネルギーになり自身を攻撃目標にして我と我が身を殺してしまうことにもなる。溜め込まれたエネルギーが攻撃エネルギーに転化しないで、自己の内奥を照明するエネルギーに転化することもある。柳沢桂子とパスカルの場合はこれだった。彼らはエネルギーを内に向けて、自分の中の未知の領域を浮上させたのである。
深層の意識は、自らは力を持たない受動的な意識である。だから、表層のエネルギーが照らしてくれるまではその姿を現さない。人が悪をなそうとして、その直前に思いとどまるのは、その瞬間に表層エネルギーが逆噴射して、深層意識を照らし出すからだ。おそらく、悪をなそうとする緊張感が表層自我の内圧を高め、それがエネルギーの逆噴射をもたらすのだろう。
では、深層意識とは善の意識であり、別名を「良心」と呼ぶものなのだろうか。
深層意識は主観をまじえずに世界を映し出す完全に受け身の意識であって、たとえてみれば鏡のようなものなのである。表層意識(主観)は、自分では客観的に外界をとらえているつもりで、実はその見る世界を個人的な希望や欲望によって変形し、過去の思い出によって着色している。それは個人化された世界なのだ。
しかし深層意識の映し出している世界は事実唯真の広大な世界であって、主観による歪曲を受けていない。表層意識はこの世界に触れてスパークを起こし、自らのちっぽけな主観世界が大いなるものによって包み込まれたように感じる。事実唯真の世界は、広大であるだけではない。つめたい自然科学的な世界、写真的な世界とはことなり、慈愛の気の遍満している曼荼羅世界なのだ。
ボンヘッファーの「神の前に、神と共に、神なしに生きる」といういう世界も、実は深層意識が写し取った事実唯真の世界なのであり、神自身が人間をこうした神なき事実唯真世界に導いてきたのである。ボンヘッファーにいわせれば、神が誘導してきた世界だから、この神なき事実唯真世界にも愛が感じられるということになるだろう。炎体験、光体験の体験者たちは、例外なく深層意識のとらえた世界に遍満する無私の愛を感じ取っている。
柳沢桂子は「神秘体験」を経過することで世俗への執着を断ち、車椅子の自分を憐れまれたことによって「死んで生きる知恵」を獲得した。だが、その効果は永続しない。
長期的な安心を得るためには、自らを事実唯真の世界にあるものとして再把握する必要があるのである。
上記の記事を読んで向坂夏樹さんが、以下のような感想を寄せられた。向坂さんは実存主義哲学を専攻された哲学者で、再三にわたり私の書いたものに卓抜した批判を加えてくれ、私を啓発してくれた方である。今回の氏のメールは、私の取り上げたテーマをより深く掘り下げた内容になっており、私個人が読むだけでは勿体ないと思われるので、ここに追記の形で紹介することにした。
向阪夏樹さんのメール
5年以上も前だったでしょうか、柳澤桂子氏のことを知ったのは自宅での闘病生活を余儀なくされながら執筆活動を続けている姿を取材したTVドキュメントでした。当時は病気が快方に向かう予兆など全く見い出せない状態だったと記憶しています。しかし、それから暫くして後、やはり化学者でもあった旦那さんの助言もあり、新療法が奏効して瞬く間に快癒した様子が紹介されました。
最初このドキュメントを観た時に私の脳裡に浮かんだものは、映画『ジョニーは戦場へ行った[Johnny Got His Gun]』(1971)でした。あらすじを極簡潔に纏めますと、第一次世界大戦の最中、最愛の女性と結ばれることもなくヨーロッパの戦地に向かったアメリカ青年ジョニーは、敵の砲撃によって、両腕、両脚、目、口、鼻、耳を失い、全感覚麻痺の状態でありながら意識だけははっきりとしています。そして、研究用に隔離された病棟のベッドの上に置かれている、外観上は物体化した彼に正常な意識があるとは周囲の人達は全く気づきません。しかし、ジョニーにはそのこと(意識のあること)を周囲の人間に伝える手段がないのです。この映画は、外界と遮断され誰ともコミュニケーションができない、死にたくてもその意思を伝えられない、言わば完全不如意の絶対孤独の状態に捨て置かれ生かされた一人の人間を凝視し続けたものです。相当な映画好きを自認している私ですが、再びこの映画を観る気にはなりませんでした。ただ、あの言い知れぬ恐怖は今でも鉛のような重さとなって心の一隅を占めています。
アタラクシア(安寧)とは無縁とも観ぜられるジョニーの境遇に比べれば柳澤氏が被った不幸はまだ軽微だとするのは愚挙であると思いますが、身体機能の不全によって脳(意識)の可能性が阻害されるという点ではかなりの部分が重なり合うと云ってもよいのではないでしょうか。けれども、即座に、同様な境遇にあらぬ人間が身体機能の不全に陥りながら脳の機能が冴え渡っている人間の心境を忖度すること、すなわち感情移入することなど全く叶わないことではないかと思われたのです。同時に、そこでも私は神の不在を深く心に留めました。たとえ、思索のための作業仮説の中で神を措定することがあっても、とりわけジョニーのような存在を一体誰が済うのか、もし玉の緒を断つのが救済することになるのならば、そのようなことは神の付託を待つまでもなく人間的な情の発露によってでも可能でありましょう。
戦争によらずとも、天変地異によって人間は著しい機能不全に陥ることはあり得ます。しかし、人間が自らの手で本来は健常であり続けられる人達が災禍を受けるような事態を生じさせることは愚昧で無惨な所作であると言わざるを得ません。仮に神が存在するとして、何が故に神はそのようなことを人間にさせるのでしょうか。何かを気づかせるためなのでしょうか、原罪を認めさせるためなのでしょうか、私には結論を導き出せません。一方では生まれて来たこと自体が神の恵みとの捉え方があります。無論、生きていることの素晴らしさを感覚することはありますが、それが神に起因するかは定かではありません。
私が神を思念するとき、所謂ユダヤ教的・キリスト教的・イスラム教的な一神教の神や超自然的なものを想定してはいません。また、タオイズムにあるように神があらゆる自然なものの中に遍在するとも考えていません。しかし、以前にも記しましたように、人間は自分達の活動を見守り、あるいは往く道を照らしてくれる存在を必要とすることだけは我が身を顧みても受け容れざるを得ないと思っています。お気づきかも知れませんが、「彼岸より此岸を望みて実時間の河を渡る」とは「般若心経」から示唆を受けたものです。何時の日にかブラック・ホールに導かれるまでは虚時間の地平上に浮かぶ実時間の河を渡り、やがては再び虚時間の地平に還っていくのが生命の在り方ではないかと観じられたことが副次的な素因にもなっています。そして、「般若心経」は人間が到達し得た透徹した視座からの生命にたいするエールではないかと想われたのです。
燦々と照る太陽は地球に熱を与えようとして輝いているのでも、降り注ぐ星たちは見る者に感動を与えようとして瞬いているのでもありますまい。それでも、太陽は現実に地球を生かし、星たちは人々の心を豊かにし続けるでありましょう。
人は与えられたものしか他者に与えられぬと、または与えられた者でしか他者に与えられぬと謂われます。そして、他者から与えられたものは与え易いが、自身で獲得したものを与えることは難しいとも謂われます。自身で獲得することに際してはそれなりの経緯があるでしょう。それ故経緯を理解されぬまま与えることには抵抗があるはずです。ただし、完璧に自身で獲得できるものなどあリ得るのかと云った問題は残ります。
確かに柳澤氏による神の捉え方や神秘体験には同意しかねるものがありますが、氏はWEB講義の「生命科学の知を踏まえた哲学・倫理が必要」と題するコラムの末尾で、『科学は「人間とは何か」「私たちはどこから来たのか」という問いについては、回答をあたえてくれました。でも人間がどう生きていくのか、どこに向かっていくのかについては何も教えてくれません。そこに、希望と、私たちの努力の余地が残されている──そんなふうに考えています。』と語っています。生命科学者としてのこの認識は十分共有できるものと考えています。しかしながら、私自身は人間がどう生きていくのか、どこに向かっていくのかについては神さえも定めていないと捉えられる結語を首肯しつつも、そこに希望や人類の営為の意味が具わっているどうかは不可知であると思っています。
生命科学者としての柳澤氏なればきっと意識されていることでしょう、しかしご自身は剥き出しのConatus(自己保存力)が切り結び合う世界に身を置くことはなかったと推察されます。氏の神秘体験が常にConatusの開示を強いられた他者にとって如何ほどの意味を有するのか、推断することさえも至難です。けれども、済いを求める人々の光明になっていることは確かなようですし、幻想をも生きる糧としたいのは人間の本来性なのかも知れません。
「苦悩を通って光へ」のパライメージが如何なる普遍性を内包しているものか、私には未だに見えて来ません。しかしそれは、果たしてConatusには生命を紡ぐこと以上のMissionが託されているのか、そうした問いへの答にも繋がっていくと想われるのです。(05/9/21)