河上肇の青春

明治34年12月20日、東京本郷中央会堂で足尾銅山鉱毒地救済演説会が開かれ、演説会の後で募金の籠が回された。この時財布を持っていなかったため募金に応じることが出来なかった一人の大学生が、散会後に司会者をしていた老婦人の前にやってきて尋ねた。

「今、物品で寄付をしてもいいですか」


司会者が「結構ですよ」と答えると、学生は矢庭に着ていた外套から羽織、襟巻きを脱いで相手に手渡した。

季節は冬の夕方である。老婦人が、「そんなに全部脱いでしまったら風邪を引きますよ」と注意したが、学生は無言で立ち去ってしまった。

さらにその翌日になると、救済会の事務所に人力車夫に託して行李一杯の衣類が届けられた。昨日の学生が下宿に帰り、身につけた着衣一枚を残して、衣類の全部を寄付してよこしたのである。

この話を聞いた毎日新聞記者の木下尚江は、早速事務所に駆けつけて前夜司会をしていた老婦人と一緒に行李を開いた。基督教婦人矯風会のリーダーだった老婦人は、中身を改めてから首を振った。

「相手はきっと精神に異常のある人ですよ。よく調べてみないと、これは受け取るわけにはいきません」

調査の結果、学生は東京帝国大学法科に在籍する「河上肇」という人物であることが分かった。自ら調査に出向いた老婦人は、本人が不在だったために下宿のおかみさんに学生の素性・人柄を聞き取ってきた。

学生は別に狂人ではなかった。伯父には住友財閥の理事をしている知名人がいるし、日頃の行動にも異常なところはない。おかみさんによると、ただ、彼は「非常に激昂するたちの人」だということだった。

                 

下宿のおかみの言葉通り、河上肇が「非常に激昂するたち」だったことは、無我苑入信にからまる行動にも現れている。

東京帝大を卒業した河上肇は、農科大学・学習院・専修学校などの講師になって経済学を講じていた。文才に恵まれた彼は、それ以外にも読売新聞から依頼されて「社会主義評論」という記事を連載し、これも評判になっていた。読売新聞の発行部数は、河上肇のお陰で急増したといわれるほどだった。

この新進経済学者だった河上肇が、伊藤証信の発行している機関誌「無我の愛」を読んで感動すると、勤めていた学校すべてに辞表を提出し、読売新聞の連載も打ち切り、一切をなげうって無我苑に飛び込むのである。学者にとって生命ともいえる蔵書のすべてを売り払ったと言うから、その決意のほどが知られる。足尾銅山被害地救援のために、衣類のすべてを寄付してから4年後の明治38年11月のことだった。

河上肇がこうした無謀な行動に出たために、近親者の受けた被害も少なくなかった。国許の父母に預けていた妻子への送金が滞ったのはもちろん、彼が学資を出してやっていた弟も理科大学を中途退学しなければならなくなった。

こうした「猪突猛進」に近い行動は、お婆さんっ子だった河上肇の幼児体験が背景になっているように思われる。三島由紀夫の家庭がそうだったように、彼の家でも祖母が実権を握っていて、彼はその祖母に溺愛されて育ったのである。

祖母は微禄の武士だった夫と若くして死別し、女手一つで息子を育て上げた。
息子が維新の動乱期を乗り切って、故郷の村の戸長になったのも理財の才に恵まれた祖母のお陰だった。温厚な息子は、恩義のある母の命令には絶対服従の態度をとっていた。

祖母は息子が31才になったとき、17才の若い嫁を迎えたが、この嫁が気に入らず、結婚後9ヶ月で家から追い出している。このときに若い嫁は妊娠3ヶ月になる河上肇を身ごもっていたから、彼女は実家で初めての子を出産しなければならなかった。祖母は追い出した嫁が男の子を産んだと聞くと、奪い取るようにして直ぐに自分の屋敷に初孫を引き取った。

祖母は最初の嫁を追い出してから4ヶ月後に、新しい嫁を迎える。だが、この嫁も男の子を出産した3ヶ月後には、家を追い出されている。理由は彼女が、継子の河上肇をいじめたからだった。祖母は二番目の嫁を追い出した後で、改めて最初の嫁を家に呼び戻すという行為に出ている。

母と同居するようになったが、河上肇は実母より祖母に懐いていた。
生まれて直ぐ父の家に引き取られた河上肇は、毎晩、祖母に抱かれて寝ていたのである。25才で寡婦となった祖母は、河上肇が生まれたときには既に52才になっていたが、毎晩、萎びた乳房を孫にしゃぶらせているうちに、とうとう祖母の乳から透明な液が分泌されるようになった。

こうして河上家で、実に奇妙な光景が現出することになったのである。
祖母が河上肇を抱いて隠居所でやすみ、母は後妻が残していった継子を抱いて母屋で寝るという光景。

祖母は「後家のがんばり」の標本のような女だった。
25で寡婦になった後は、家累代の借金を次々に皆済したばかりか、蓄えた資金で東隣の屋敷を買い取り、息子を村長にまで押し上げたのだ。

腕一本でここまで来た彼女は、こわいもの知らずの生き方をしていた。彼女は隠居所に若い男を連れ込み、ペットのようにして「飼って」いた。男妾である。この二人のために母屋から、朝夕、酒食を運ぶのが河上肇の実母の仕事だった。

やがて「若い燕」をほかの女と結婚させた祖母は、今度は妻と死別した近所の男を隠居所に引き入れて夫婦同然の暮らしを始めた。河上肇は、物心つくようになってから、この二人と一緒に食事もしたし、男を伴って外出する祖母にくっついて三人で村うちを歩いた。

孫を育てる祖母のやりかたも独特だった。河上肇が畳の上を這い歩く頃から、彼女はそこらじゅうに菓子をばらまいて、孫がそれらを拾って食うにまかせていた。こうすれば孫が卑しい人間にはならないと考えたのである。

彼の父親も、ルールを破って息子を学齢期前の満4才で学校に上げている。村長として小学校も管理していたから、こんな無理も実行できたのだ。父は、学校に行くことをいやがる河上肇を小使に命じて毎朝、背中におんぶして登校させるという公私混同も敢えてしている。かくて、河上肇は手に負えない小暴君になった。彼は「自叙伝」のなかで、「ひどかった幼年時代の我儘」という一章をもうけて、自分がいかに我が儘で癇癪持ちだったかを率直に語っている。

三島由紀夫の場合もそうだが、唯我独尊型の祖母に育てられた孫には共通の性質がある。お婆さんっ子は、祖母を見習って世評に頓着せず、信じるところを押し通す「怖いものしらずの積極性」を発揮するようになるのだ。

三島は戦後民主主義に反旗を翻して天皇主義者になったし、河上は戦前の暗い軍国主義時代にマルキストとして活躍している。お婆さんっ子は、わが道を突き進み、その我が儘のきわまるところで「信念に殉じる」生き方をするのである。

河上肇肖像

                  

河上肇は旧制の山口高等学校を卒業する間際に、文科から法科に転科したいと学校に申し出ている。以前から仲間を語らって回覧雑誌をこしらえていたほどの文学少年だった彼が、卒業試験を目睫の間に控えて突然こうし方向転換を試みるのだ。学校では、もちろん許可しなかった。

だが、彼は執拗に粘るのである。彼が卒業試験を放棄して原級に留まり、もう一年やり直すとまで言い張ったので、ついに学校側も折れて、「法学通論」の試験にパスすれば願いを許可すると彼に伝えた。河上肇は必死になって勉強し、試験にパスして明治31年、無事、東京帝大法学部へ進むことができるようになった。

彼が無理してまで転科を強行したのは、時代の空気に動かされたからだった。
この年、長い間続いた藩閥政府が倒れて、わが国最初の政党内閣(大隈内閣)が誕生している。河上肇はこれに強い衝撃を受け、じっとしていられなくなって文科から法科への転向に踏み切ったのだった。

時代の動向に敏感なことが河上肇の特徴で、上京してから彼は新しい時代思潮を積極的に受け入れている。日本の産業革命は、日清戦争後にスタートする。これと符節をあわせるように明治30年代にはいると、西欧の社会主義思想や人道主義が日本になだれ込み、河上肇が上京した翌年には、幸徳秋水らが「社会主義研究会」を設立しているし、文壇ではトルストイの人道主義的な作品が紹介され始めていた。

日清戦争までの日本は、政界も思想界も、そのリーダーは士族的教養の所有者たちだった。士族的教養を身につけた知識人たちは、独善的な古い治者意識に囚われていたから、明治10年代から発足した自由民権運動も一部知識層を熱狂させただけで、江戸時代以来の「家内安全・商売繁盛」意識に縛られている一般庶民を動かすには至らなかった。

そうした日本の思想風土が日清戦争後に変わりはじめたのだ。そして、その変化を河上肇は全身で受け止めたのである。彼はあちこちの大学で経済学を講じながら、新聞に社会主義解説の連載記事を載せ、かたわら聖書やトルストイ作品を読みふけった。

聖書を読んだことは、河上肇にとって大きなショックだった。
これまで接してきた論語や孟子とは、全く異質なものがそこにはあったのである。彼が一読して魂を揺すぶられるような想いをしたのは、聖書の中にある次の言葉だった。


「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんじを訴えて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。人もし汝に一里ゆくことを強いなば、共に二里ゆけ。なんじに請う者にあたえ、借らんとする者を拒むな。」(マタイ伝、5・128。新訳による。)

マタイ伝5章のこの部分は、新約聖書全体の中でさほど重要な部分とは思われない。だが、河上肇はその章句の持つ断言調の響きの良さと、これらの言葉が示す「絶対的非利己主義の思想」に惹きつけられたのだった。彼にはこれが至上命令のように映った。

「絶対的非利己主義」というのは、河上肇が好んで使う言葉だが、子供の頃から我が儘の限りをつくしてきた彼にはこれが今後身につけるべき最も痛切な課題と感じられたのである。彼の自己批判の目は常に内なる利己心に向けられ、これを浄化する理論と方法を日夜探しあぐねていたのだった。だから、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」「下着を取られたら、上着を与えよ」というような単純明快な断言が魂を揺すぶるように鋭く響いたのである。

彼はキリスト教の説教を聞くために、近角常観・山室軍平・海老名弾正らの教会を訪ね歩くようになった。そのうちに彼はトルストイの「我が宗教」を読んで感動する。遠い異国のロシアに、バイブルの指し示すとおりの生き方を実践している人間がいる。

続いて彼は伊藤証信の発行している雑誌「無我の愛」を読んで、現代の日本にもトルストイと同じような生き方をしている人間がいると信じ込み、伊藤の「無我苑」に飛び込む決意を固める。彼は伊藤証信=トルストイと短絡してしまったのである。彼は、「私は無我愛という標語を、当時自分の考えていた絶対的非利己主義のかえことばのように思いこんでいた」と書いている。

伊藤証信は真宗中学・真宗大学を経て、大学の研究科に籍を置きながら、真宗僧侶としての一切の権利を放棄し、二、三の同志と共に久しく乞食の巣になっていた巣鴨の大日堂にこもり、ここを無我苑と称して「無我愛」運動を展開していた。日本の宗教運動家は、私有財産を一切放棄して、無一文になって運動に帰一することを求める傾向が強い。大正時代に西田天香がはじめた「一燈園」もそうだし、戦後山岸式養鶏法で有名になったヤマギシズムもそうである。

背後の橋を焼き捨てて無我苑に飛び込んだ河上肇は、無我苑につどう同志たちが理想実現のため昼夜を分かたず運動に打ち込んでいるものと予想していた。無我苑に飛び込むに当たって、投げ捨ててきたものの大きかった彼は、その犠牲に見合うだけの全力性を自他にもとめたのだ。

だが、無我苑を訪ねた彼は、同志たちの生活を目にして失望し、独立して伝道することを考えるようになる。彼が仲間の何に失望したかを表明した文章を読んでいると、自然に微苦笑のようなものが浮かんでくるのである。


「けだしかの無我愛同朋が、自ら全力を献げて他を愛するを趣旨としながら、その行動深く余を感動せしむるものなく、殊にその夜問睡眠を貧るが如きは、いまだ全力を献げざるの徴なるべしと認めたるに由るなり。故に余は翌九日に至って、全く無我苑より独立し、而して余自らは爾今寝ねず休まずしてこの真理を伝え、使用に耐え得る限りにおいてこの五尺の痩躯を使用し尽し、死して後已まんのみと覚悟したり」

仲間に失望した理由が、「夜間睡眠を貪る」ことにあったというのだから、恐れ入ると言わざるを得ない。

だが、この言いがかりにも似た非難は、実は仲間の緊張感の欠如に対する不満のあらわれだったのである。そして、その緊張感の欠如は、実は無我苑そのものの本質から来ていた。

河上肇の解説のよれば、伊藤信証の考え方は次のようなものである。


・・・・われわれは全力をあげて人を愛さなければならないが、そのために特別の努力をする必要はない。どんな行為も、すべて「全力をあげて人を愛する」ことになっているからだ。われわれが相手を撫でてやれば愛の心を育てるし、相手に腹を立てて殴ってやれば相手の我執を挫くことになる。人は感情のままに動くことで、自ずから「無我愛」を実践している。この道理を自覚することで、人は絶対的な平安に到達することが可能になる。

無我苑の機関誌には、こうした理論を男女関係に適用した論文があるそうなので、ここに孫引きしてみよう。


「僕らは初婚でも二婚でも三婚でもまた離婚でも、すべての出来事はみな神の慈悲、威神力の発現なることを信じて疑わぬのである。一 切の出来事はみな自然の成行であって、自然は即ち神の愛の流れである。されば一切の出来事はみな喜び迎うべき事ばかりで、厭うべく悪むべき事は一つとして起って来ないのである。

それを高下善悪の差別をなして好き嫌いをするのは、我執迷妄の作用であるから、僕らは一図にこの我執を取り去ることを勤めるのである。

それで無我愛の信念からいえば、どうしてもこれでなくてはならぬという配偶者は一人もない代りに、天下中の男は悉く天下中の女の配偶者たる可能性を持っているものである。一切の男子は一切の女子の夫であり、一切の女子は一切の男子の妻である。故にもし世界万人が悉皆無我愛を体得すれば、その時の結婚問題、恋愛問題はきわめて融通無碍となるのである」

すべてを投げ捨てて無我苑に飛び込んだ河上肇は、次第に無我苑を「悪魔の叫びをもって霊の閃き」となす集団であり、「世道人心を害するもの」と考えるようになっていく。そして入信わずか60日の後に、無我苑と絶縁してしまうのである。

だが、反旗を翻した理由を無我苑が「世道人心を害し」男女間の風紀を乱すからとしている点で、彼の批判は常識のレベルを出ていない。宗教の本質は、世道人心やモラルを超えたところにあるからだ。

宗教とモラルの違いは、この世の総体、全存在を受容するかどうかにかかっている。
道徳の観点からすると、許すべからざる行為というものがある。悪は断じて排除されなければならない。フリーセックスや不倫は排除すべき悪であり、一夫一婦制こそ守護すべき善なのである。

しかし宗教体験は既成の価値基準を一切取り払ってしまったところから出発する。そこでは、存在するものすべてが無条件で受容され、詐欺師も強盗も殺人犯も一視同仁に扱われる。排除さるべきは、むしろ厳しい価値基準を振りかざして悪を告発する「善人」なのである。

だからこそ「歎異抄」には「悪人なおもて往生す、いわんや善人をや」という言葉があるのだし、泥棒や売春婦を受け入れたイエスも、厳粛派のパリサイ人を蛇蝎のように嫌ったのである。

伊藤証信は、こうした「歎異抄」的立場を極端まで押し進め、真宗の正統派からは「異安心」として非難される立場にたどり着いたのだった。この世はこのままで極楽浄土であり、社会を変革したり進歩させたりすることは一切無用、人のすることはすべて善であり、感情の赴くままに行動しても一向に差し支えない・・・・・・。

ということになれば、無我苑に集う同志たちが、夜は安眠を貪り、世間のしがらみやモラルに縛られて動きがとれなくなっている一般人に対してある種の優越感を抱くようになるのは自然であった。河上肇はこうした集団のなかに、厳粛派のパリサイ人の意識を持って飛び込んだのである。衝突が起きるのは、必然だった。

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河上肇の生涯で特筆すべき点は、彼がこの頃に「宗教的体験」に遭遇したことだった。このため、彼は「私の精神に、私の一生に、決定的な影響を与えたものが二つある。その一つは宗教で、今一つは科学である」と宣言するようになる。彼は書いている。


「一般にマルクス主義は宗教を否定するものとされている。しかるに私は、マルクス主義を奉じながら、宗教的心理なるものの存在を信じているのであって、その点に、私という人間の特殊性がある」

では、彼の生涯を決定した「宗教的体験」が、どのような状況の下に発生したか、時系列に沿って見てみよう。

明治38年11月28日・・・トルストイ「我が宗教」を購入
      12月1日・・・・伊藤証信を訪問(伊藤不在のため会えず)
     12月4日・・・・伊藤証信と面会
     12月5日・・・・大学教員辞職願いを提出
     12月8日・・・・無我苑から離れ、独立することを決意
     12月9日・・・・宗教的体験

これで見ると彼が宗教的な体験をしたのは、トルストイの「我が宗教」を読んでからわずか十日後のことなのである。いったん思い立つと、疾風怒濤の勢いで行くところまで行ってしまう河上肇は、無我苑とは別行動を取ることを決意したその日のうちに、友人と語らって「献身団」を組織し、雑誌「献身」を刊行することを取り決めている。

宗教的体験は、その翌日、深夜一時過ぎ、友人を背後にして雑誌「献身」の原稿を書いている最中に起きた。彼はまず、原稿用紙に「吾らの信ずる宇宙の本性」という題名を書き、それから暫くの間考えに沈んだ。そして、一気にペンを取って基本原則二箇条を紙に書き付けた。


「一、宇宙を組織せる一切個体の存在は、絶対に自己の力に依るにあらずして、絶対に他のものの力に依る。
 一、宇宙を組織せる一切個体の活動は、絶対に自己を目的とするにあらずして、絶対に他のものの目的に従う」

基本的な原則が定立されれば、後は簡単である。このテーゼを敷衍して行きさえすればいいのだ。彼は書き続けた。書いているうちに彼は、おのが頭脳が名状できないほどに澄み渡り、まるでガラスのように透明になったことを感じた。

「まるで神が俺の手を借りて、書いているような気がするよ」と彼は友人に語りかけた

異常な感覚は相次いで起こり、霊薬で目の中を洗われたように思ったら、たちまち眼界が開け、視力も倍加した。彼の気分は軽やかになって、「万里雲晴れて、月天心に至る」というような気持ちになった。

河上肇の目の前に、ひとつのイメージが浮かんで来た。羽毛のようなもので、脳の中の夾雑物が掃き出されていくというイメージである。掃き出された夾雑物は輪を描きながら陽炎のように飛び散った。

それと共に、何ものかに抱き上げられて、身体が宙に浮かび上がったような錯覚に襲われた。彼は思わず支えるものを求めて両手を伸ばした。だが、その後は浮上した自分の身体が自然に動揺するにまかせた。

傍らの友人が怪しむように彼を見守っていることに気づいて、河上肇は我に返った。時計を出して見ると、午前1時50分になっている。

彼は仕事に戻ろうと思った。そして、今までに書いてきたものを清書することにした。その清書が終わらないうちに、突如、晴朗な意識に一撃を加えるような重い衝撃が頭脳に走った。

この衝撃があまりにも激烈だったから、彼はペンを投げ出して畳の上に突っ伏した。何物かに背中を押さえつけられるようだった。彼は涙を流し、両手で頭をかきむしって苦悶に耐えた。両方の肋骨がきしんで、胸が張り裂けるように思われた。

暫くすると、苦しみも軽くなって、再び超越感覚が戻ってくる。天地万物が遙か脚下に沈み、宇宙の精気が水のように脳裏に流れ込むような気がする。彼は友人の手を取って、泣きながら告げた。

「真理というのは、簡単明瞭なものだよ。この真理に従って行動しさえすれば無限の幸福を受けることができるんだ。それは絶対に私心を根絶し、絶対の至誠を披瀝して人に接することさ。つまり、人間の身で神になることなんだ」

以上が、彼の「大死一番」と題する原稿に記された事実関係の概要である。


これを読むと、河上肇の体験には江戸時代の禅僧白隠の見性体験に通じるところがあるように思われる。白隠は悟脱した瞬間、自分が玻璃のように透明になったと感じ、古今東西、自分のように痛快に打通した人間はあるまいと思ったと書いている。

河上肇も自分がガラスのように透明になったと感じ、宇宙の本性を透見し最大の真理を悟了した自分を偉大な存在だと自負している。だが、同時にそうした自負を我執の現れではないかと疑っている点で、白隠とは異なる近代人らしい反省がうかがわれる。

それにしても、彼の体験のドラマティックなことには驚かされる。
一般に、宗教体験は一人で座禅や黙想をしているうちにはじまる。やがて、「回心」という劇的な転換が起こりはするがそれは精神の内部のことに留まり、外面的には不感不動の状態で終息を迎えるのが常なのだ。ところが、河上肇は傍らに友人がいるという状況下で体験に襲われ、途中でその友人と言葉を交わしている。さらに、空中に浮き上がったと錯覚した時には、両手を前に差し出し、脳への一撃を受けると、畳の上に身を投げ出し頭をかきむしっている。

彼があたかも劇中の人物のように振る舞ったのは、彼が「非常に激昂するたちの人」だったからに違いない。内面に突発した宗教的な衝動が、そのまま行動化して外に表出される。このことと、河上肇が愚直なくらいに正直で、心に感じたことを直ぐさま言葉に出して表現しないではいられないという性癖とは無縁ではあるまい。

ところで、彼は体験中の自身の振る舞いを、どう解釈していたのだろうか。
自分の内部が澄み渡ってガラスのように透明になったと感じたとき、彼は本来の自己を回復したと思ったのである。脳髄を覆っていたエゴが羽毛のようなもので掃き清められて、陽炎のように消え失せたから、本来の純粋無垢な自己に立ち返えることができた。そして彼は、この段階で宇宙の本性をも理解した・・・・。

その彼が脳髄への一撃を受けて、畳の上に身を投げ出した。その理由を、河上肇は「この瞬間に、再び物心対立の世界に復帰した」ためだと説明する。つまり、法悦のレベルからさめて世俗的な自我に戻ったからだというのである。この解釈には、やや疑問が残る。しかし物心対立以前の神秘的体験の中で、彼が本来の自己に戻り、その本来の自己を私心のない神のような存在だと思ったことは事実に違いないだろう。

ここに河上肇の体験が持つ特質がある。
宗教的体験の多くは、内なる自己を照射するのではなく、外にある世界を照射する。河上肇や白隠の体験は、目が内面に向いている点で、むしろ倫理的な覚醒といった部類に属している。宗教的体験は、こうした倫理的な覚醒を越えたところで展開し、外世界全体に対する愛と至福感情を伴う。

善悪美醜の入り混じった現世の総体を受容し、生きとしいけるものすべてを愛する心境になるがゆえに至福感情が生まれるのか、あるいは至福感のゆえに世界全体を愛するのか定かではない。宗教的体験には、強烈な幸福感と全有肯定の愛の意識が伴うにもかかわらず、河上肇の体験にはそれらの要素がほとんど認められない。

彼は社会科学と宗教を両立させた自身の立場を、社会科学は外部の現実を対象にし、宗教は内部に意識を対象にしているから矛盾はないと釈明している。だが、宗教者はこうした見方に反発を感じる筈である。彼らは、宗教とは科学や芸術を含む外部世界の総体を包含するものであり、しかもそれを超えていると信じているからだ。

河上肇は、伊藤証信の「全力を献げて他を愛するの主義」に共鳴して無我苑に飛び込んだけれども、どうしても「異安心」派の考え方を受け入れることは出来なかった。自己の宗教的体験を解釈するに当たっても、愛の部分よりも倫理的覚醒の側面を重視し、宗教者として生きる道を自ら閉ざしてしまったのである。

彼はその後、倫理的人間として行動し、おのれの信じるところに従って誠実に生きた。その結果、投獄されて5年の獄中生活を送ることになるのである。

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劇的な宗教的体験をしたことで、河上肇の生き方に変化が現れたであろうか。
表面的には彼の生活に変化らしいものはほとんど認められない。相変わらずこれまでと同じ挑戦に継ぐ挑戦という行動パターンを繰り返している。

その後の彼の歩みを見ると、無我苑を離れて「献身団」を発足させるという計画が実ることなく終わった後に、河上肇は生活のため読売新聞社に入社している。だが、新聞社に籍を置いていたのも僅か1年ほどで、彼は独立して雑誌「日本経済新誌」を創刊している。そして、これも1年で終止符を打ち、京都帝大の講師に転身し大学人としての生活に戻るのである。河上肇、29才のときであった。

京都大学に拾われてからは、自制しておとなしくなったように見える。だが、その行動は若い頃と全く変わっていない。
彼は几帳面で筆まめな男だったから、専門書・啓蒙書を含めて現役時代に50冊あまりの本を書いている。そのいずれもがよく売れて、なかにはベストセラーのトップに躍り出たものもある。

私も学生時代に彼の「第二貧乏物語」を読んで、その明快な内容に感心した。戦後に多くの経済学者がマルクス主義の解説書を書いていたが、河上肇の本ほど懇切丁寧に書かれたものはなかったのだ。

それは彼が自分の分かっていることだけを、平易な口語体で書いたからだった。
彼は自分が理解している範囲内で筆をとどめて、それ以上のことにあえて触れなかった。自分もよく理解できないことを意味ありげに表現してみせるという学者の虚栄から、彼ほど遠く離れていたものはいない。

河上肇は、読者からは歓迎されていたこれらの著書を次々に絶版にしている。末広厳太郎は、河上肇が蔵書を売り払う癖のあることに触れた後で、こう書いている。


「蔵書売り払いで思い出したが、氏は自説の売り払い・・・・というのは変だが、自説として一旦発表したものを、あとからどしどし否定していくという点でも、学者仲間で異彩を放っていた。

他の学者のように、どうにもしようのないグウダラ説を、いつまでも偏執していず、躊躇なく自己否定をやった博士の態度は、大いに美点として推奨し得る。

学説の自己否定と関連して、旧著の絶版も、河上氏が好んでやったことである。明治30年代の著作以降、大正10年の<唯物史観研究>までは、おそらくその期間の全著作に対して絶版命令を出しているはずである。<唯物史観研究>以後のものでも絶版とされたものが数種あるかもしれない」

河上肇は自分が主張していた学説よりも、より一層真理に近いと思われる理論に触れると、即座に方向転換を敢行する。それまでに蓄積した一切を投げ捨てて、新しい世界に突き進むのだ。営々として買い集めてきた本も売り払い、背後の橋を焼き払って前進する。「正統派ブルジョア経済学」から出発した彼は、背後の橋を焼き捨て焼き捨てして前進を続け、40才台半ばになってマルクス主義経済学に到達する。

こうした行動パターンの最後は、学究生活を捨てて政治の世界に飛び込んだことだった。49才になって、河上肇は京都帝大教授の職を辞し新労農党の設立に関与し、昭和5年には同党から衆議院選挙に立候補して落選している。

政治運動に関わるようになってからも、彼の行動パターンは変わらなかった。大山郁夫・細迫兼光を説いて新労農党を発足させた発起人だったにもかかわらず、彼は1年とたたないうちに大山と対立して労農党解消を提唱し、党から除名されているのである。

山口高等学校時代に文科から法科への転科を強行して以来、河上肇は方向転換を繰り返しながら67年の生涯を終えた。

明治37年の暮れに彼は劇的な宗教的体験に遭遇した。にもかかわらず、彼の行動パターンには変化がなかったばかりか、宇宙の本性を掴んだという自信から、その行動パターンはいよいよ強化されることになった。そして日本共産党に入党した彼は、足尾銅山鉱毒被害者のために持てる衣類のすべてを投げ出したように、大学教授・著作家として得てきたかなりの資産をほとんどすべてを党にカンパしている。

河上肇は出獄後、栄養失調による衰弱が進む中で敗戦を迎え、敗戦の半年後に亡くなった。

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