鴎外の表情 晴々とした顔
芥川龍之介は漱石の葬式の日、仲間と一緒に受付をやっていた。
有名無名の会葬者が受付で手続きを済ませて次々に通り過ぎる中に、森鴎外の姿もあった。芥川は受付をすませて立ち去る鴎外を見送りながら「いいなあ、実にいい顔だなあ」と繰り返し賛嘆していたという。その鴎外が、作品の中で自分の表情をさまざまに描いているのである。例えば、「あそび」という短編には、鴎外自身をモデルにしたらしい主人公木村の表情に関する記述が10箇所以上も出てくる。
基調をなしているのは「すこぶる愉快げな、晴々とした顔」であって、晴々とした表情に関する描写が文中に何と8回も出てくるのだ(そのなかに一カ所、Bosheit「悪意」を含んだ微笑がある)。木村は時々顔をしかめることがあり、渋面の回数は3回である。ほかにapathique(無感動)な表情というのもある。
彼が作品の要所要所に、まるで合いの手のように表情に関する描写を挿入するのは、自分は常に晴朗な微笑を浮かべて生きており、渋面や無表情によって示されるような感情は時折意識の表面を通過するに過ぎないと強調するためなのだ。
作品は、木村が起床してから役所で正午の号砲を聞くまでの半日を取り上げている。この間に木村が遭遇する現実は、決して愉快なものではない。女中の掃除の仕方は粗雑だし、朝刊を開けば新聞には党派的な記事が溢れている。通勤電車で顔を合わせる同僚は、愚にもつかぬ議論を吹きかけてくる。
こういう現実に接しても、晴々とした表情を変えない木村の態度に不自然な感じはない。彼が不快な現実に対して一々適切な批評を下し、その影響が内面に浸透してくることを水際で阻止しているからだ。
女中の粗野な振る舞いは「本能的掃除」「舌の戦ぎ」と命名されることで外部化され対象化される。そして、そのことで木村はそれを局外から見物する立場に身を置くことになるのだ。かくて木村は水の中にあっても濡れない賢者の処世術を身につける。
こういう流儀は、家庭でどんな具合に「実践」されていただろうか。
森類は、鴎外の後妻茂子の生んだ子である。
幼い頃、類は飴玉をしゃぶった手で盛装した母に抱きつこうとして厳しく叱られた。その様子を彼は「鴎外の子供たち」という本のなかで、次のように書いている。
「ええ、また、そのべたべたな手でつかまる、普段着になるまで三分だから待ってくれないかい。飴は、いったん口に入れたら出しちゃいけないと言ったでしょ。この着物はね、よごれたからざぶりと洗うというわけにいかない上等の着物なの、いったい、だれが飴なんていうものを発明したんだろう。」
母は、日本で一番はじめに飴をつくった人物をさがしだし、車を呼んで製造禁止の交渉に出かけまじき顔色で怒った。
僕は「ウウウ、ウー。」と泣いた。
類が泣き出すと、女中がとんできて「坊ちゃま、坊ちゃま」と抱きしめる。こうした騒動の渦中に現れた鴎外は、微笑を浮かべて皆をなだめるのである。
「よしよし、それはお母ちゃんが悪い。坊ちゃんは泣くな。飴は口から出さぬ方がよいが、子どもはそういうことをするものなのだ。怒らないで、やさしく言いきかすほうがよい。また、飴を発明した人間も悪気があって作ったのではない。怒ってもだめだ」
鴎外は、そう言ってから、さも面白そうに「クッ、クッ、クッ」と笑った。
また、こんな事例もある。
「小倉日記」によると明治35年3月19日に、鴎外は妻とともに素封家田中賢道の屋敷に一泊している。その日の日記を彼は、
茂子と太宰府に往く。夜、田中賢道の家に宿す。・・・・高山正之の書の大幅を展観す。其文に曰・・・・
と、例によって容儀の整った端正な文章で記し、高山彦九郎の文章を十数行にわたって書写している。
これだけを読むと、視察旅行に出たりすると、行きづりの墓地に入って、墓誌を読むのを常としたという鴎外の性癖が思い出されて、勉強家の鴎外らしいなと思う。だが、この裏話を妻の茂子が書いているのだ。
大野(注:鴎外)はふいと床の掛物を見て、「おや、これは珍だ。高山彦九郎の文章だ。まずい文章で馬鹿らしいことを書いたもんだ。可笑しいから一寸写しておこう。紙をおくれ」と言って、富子(注:茂子)の鼻紙を貰って、長々しい文章を写した(「波瀾」)。
聡明比類のない鴎外は、人間の愚行を「晴々とした微笑」で受容する手段として、家にあっても対象を批評的な目で眺めたり、シニックな笑いで受け止めたりしていたのである。
にがい顔(渋面)
鴎外は、シニシズムという防衛システムによって不快な現実が意識内に侵入してくるのを防いでいたが、現実がその防衛システムを乗り越えるほどの強さを持って侵入してくる場合には、渋面を浮かべざるを得なかった。
「あそび」の木村は、不公平な新聞記事を読んでも、同僚の愚かしい議論に接しても、普段は気のない表情で応じている。だが、その度合いがあまりひどくなると、「晴々とした顔」を押しのけて、その下から渋面があらわれる。彼は思わず顔をしかめて、にがい表情を浮かべるのである。
鴎外の娘杏奴は、鴎外が子供に対してもこの種の苦い顔をすることがあったと言っている。
姉が或時父に菓子を強請った。自分の分だけ貰ってまだ足りなくて、缶ごと欲しいと云った。すると父が、
「勝手にしろ」
と怒ったので、姉は泣きながら、
「勝手にした方が好い」
と云ったさうだ。この「勝手にしろ」は父がいつも最後に云ふ言葉で、後は苦い顔でじっと本を見つめてゐるのであった(「晩年の父」)。
にがい顔に関する文章をもう一つ、杏奴の本から引用してみる。
父は字を書いてくれと云ふやうな事がひどく嫌ひであった。大抵ことわったが、ことわっても駄目な人がよくゐるものだ。博物館の父の部屋で、私はl人のお爺さんがしきりに父と問答してゐるのを聞いてゐた。たうとう父は負けて、何か紙に書いてゐた。しかもそれは出
来の悪いものらしく、父の顔はみるみる不快の度が強くなつて行ったが、相手は唯書かせればいいのであった。つまらない事に費やす時間を惜しむ父の忍耐強い性格は、強気にのしかかって来る相手にとって丁度好い弱点と言うべきだ。
書かせてしまへぼこっちのものだとでも云ふやうに、しきりにお世辞を浴びせながら、お爺さんが喜んで部屋を出てゆくまで、父の顔には微笑の影があった。
ドアが閉まると同時に振り返った私の目にうつった父は、苦いものを一時に飲み干したような顔をして、我にもなくと言うように、──父はその時私の存在も頭になかったらしい──
「くそっ、厭な爺いだ」
と吐き出すように呟いていた。
鴎外は書をせがむ老人の前で、一度は不快な顔を見せたものの、相手が部屋を出て行くまで顔から微笑を消さなかった。そして、老人がいなくなると、顔一杯に苦い表情を浮かべたのだった。
この文章を読むと、鴎外の微笑には意識してこしらえた微笑も混じっていたことが判明する。彼の微笑には、「修養の産物」という面がかなりあるのだ。
むっつりした顔
「あそび」を読むと木村=鴎外は晴々とした微笑で一生を過ごしたように見える。そして、実際家族をはじめ多くの人々が、鴎外はそのようにして生きていたと証言している。
森類の目には、父が怒るということを忘れてしまった人のようにみえた。鴎外は「大概は晴々とした表情をして」おり、類と散歩していて、ぬかるみにさしかかると、「ボンチコ、お汁粉」といって、楽しそうに微笑した。
しかし、鴎外は他の作品で、自分がこれとは全く別の顔で生きてきたとも述懐するのである。
彼は「本家分家」の中で、「どうも博士(注:鴎外のこと)のむっつりしたのは父の遺伝らしく」と書いている。が、もし鴎外がしんねりむっつりした性格になったとしたら、それは遺伝などではなくて、母峰子の圧力を受けたためなのだ。
家付き娘だった母の峰子は、幼い頃から目から鼻に抜けるような少女で、何をやらせても実母を凌ぐ仕事ぶりを見せていた。そのため、父は妻を飛び越して娘を賞めてばかりいたので、峰子の母は娘に対して嫉妬心を抱いたほどだった。
母峰子
その峰子のもとに婿入りしたのは、藩医だった父の門弟静男だった。静男は、その名前の通り穏和な性格だったから、勝ち気な妻にリードされて死ぬまで営々として働き続けた。そして長男の鴎外が、異例の若さで大学を卒業することになるのも、母峰子が背後から督励を怠らなかったためである。
この流儀は孫の於菟にも適用された。
峰子は「やたら無性に尻をひっぱたいて」学齢に達した孫を小学校二年に編入させ、中学校に入学するときにも飛び級して二年生に編入させている。かくて人より二年早く中学校を卒業した於菟は、父親同様、最年少で大学医学部を卒業することになる。森峰子が細心の注意を払って督励に努めたのは、夫の静男、長男の鴎外、孫の於菟三人であり、つまり森家の継承者たちに対してだった。その結果、この三人は高圧ボンベのような峰子の圧力下に、ほぼ同型の性格を形成するにいたるのだ。
森静男は、生まれつき世事に疎いのんきな性格だった。それが、絶え間ない妻の鞭撻を受けているうちに、屈折した性格の所有者になり、隠微な形で妻に抵抗を試みるようになった。於菟の語るところでは、「祖父には一種片意地な所があり、ためになる病家から迎えに来ても、さほどでもない身体の故障を言いたてて謝絶したり」している。
これは無論「ためになる病家」を大事にする妻への、陰気な抵抗にほかならなかった。こうした片意地なところが家族をして祖父を「しんねりむっつり」男と評価させることになったのだった。
「ヰタ・セクスアリス」には、「お母様には僕の考がわからない。僕は又考はあっても言いたくない」という一節がある。鴎外も、母に対してむっつり黙り込んで無言の抵抗を試みている。
しんねりむっつりしている点では、於菟も父祖に劣らなかったらしく、於菟の妻森富貴は「於菟は表面柔和な性格のように見えても・・・・、ここから先は一歩も譲らぬという頑固さがありました」と回想している。
森家三代の男たちは、腹の中で峰子に対してひそかに抵抗精神を燃やしており、それが「しんねりむっつり」と評されるような性格に発展していったのである。
厭悪の表情
鴎外は、この世の居心地の悪さに生涯苦しんだ人だった。
「ヰタ・セクスアリス」は、6才の鴎外が外部世界に対して「厭悪と恐怖」を感じるところから書きはじめられている。この感情は、軍医として頂点に上り詰め、軍医総監となってからも変わらなかった。彼は師団長会議の後、陸軍大臣官邸で開かれた招宴の席上などで、苦痛に耐えないような態度をしていた。部下だった山田弘倫は、こういうときの鴎外を、「いつも部屋の一隅に座を占め、肩をすぼめ、手を膝のあたりに組み、恭謙というよりはいかにも恐縮という態度であり、或いは周囲に何か汚いものか恐ろしいものを見ている人の様な姿でもあった」と描写している。
現世に対する厭悪の感情は、彼の作品のいたるところに発見される。
「独逸日記」には、仲間のドイツ人軍医らと食堂で会食した記事がある。席上、彼らの一人が長崎で抱いた日本人遊女の写真を取り出して皆に見せた。一同、女の美しさに感心したが、鴎外は厭わしげに「一座その美を劇賞す。之を見るに、容貌艶麗なりと雖、卑俗の気鼻を襲う」と書くのだ。彼はコーヒー店にたむろする娼婦たちを眺め、「娼婦の濃妝して客を待つ者其数を知らず。其中或は妖艶人を動かす者なきに非ず。然れども其面貌に一種厭う可き態あり。名状すべからずと雖、一見して其娼婦たるを知る」と日記に書いている。彼は日本の芸者にも厭悪の情を抱き、「芸者は見るのも厭だ」といっている。
芸者や娼婦に対するこうした嫌悪の背後には、俗なるもの、世間的なものに抱く彼の嫌悪感がある。鴎外は選挙運動に対しても不快感を隠そうとしなかった。鴎外死去の年に発表された奈良50首のなかに、こんな短歌がある。
宣伝は人を酔はする強いがたり
同じ事のみ繰り返しつつ貪欲のさけびはここに帝王の
あまた眠れる土をとよもす
「灰燼」の主人公山口節蔵は、愛情の対象を追求していって、そのものへの嫌悪に到達してしまう特異な「生の構造」を持っていた。山口節蔵は、現世を厭悪する鴎外のニヒルな側面を体現している。節蔵の感情が反転するのは、彼の感情の基底には最初からそのものへの嫌悪の念があるからであり、意識の表層を覆っていた対象への好奇心がみたされてしまうと、背後に潜んでいた下地が露出してくるためなのだ。
鴎外が山口節蔵的性格を身につけるようになったのも、母峰子の影響下に幼少期を過ごしたことが影響しているように思われる。代々、女ばかり生まれて、養子、養子で凌いできた森家に久しぶりに生まれた男の子が鴎外だったから、彼は母峰子の異常な関心の的になった。
鴎外は圧力鍋のように強力な母の影響下に育った結果として、ひどく敏感で臆病な少年になった。藩校に行けば神童と呼ばれた彼も、犬と悪童が怖くて家を出ることができず、母に付き添ってもらわないと通学できなかった。帰宅した彼は、母の前で予習復習をしてから、近所の女の子と遊ぶか、蔵に入って骨董品をいじるかしていた。
鴎外が芸者や娼婦を嫌悪し、理想的な家庭人になり、立身出世の階梯を着々と上っていったのには、森家の発展に執念を燃やした峰子の訓育の痕が感じられる。良家の子女は、外の世界の恐ろしさを親から明け暮れ聞かされているうちに実社会に対する恐怖感を抱くようになる。子供たちが、世に出てから誘惑に負けず、破綻のない生涯を送るのも、世俗に対する畏怖の念があるからであり、鴎外の世俗厭悪にもこの種の傾向が感じられるのだ。
子供の頃に母という圧力鍋によって守られてきた鴎外も、長じるにつれて母の庇護を煩わしく感じるようになる。母から焼きごてで押されるようにして教え込まれたモラルも少しずつ色あせて行った。鴎外は大学を卒業してから売笑婦と一夜をすごすしている。そして、ドイツでもかなり遊んだが、気持ちの底には商売女たちを嫌忌する感覚が残ったままだったのである。
悪質な微笑
悪質な微笑とは、「あそび」の末尾に出てくる「Bosheit(悪意)を含んだ微笑」を指している。
木村は、役所勤めの傍ら文筆活動もする兼業作家で、新聞社が募集する懸賞脚本の選者もしていた。彼はその日の朝、懸賞脚本を読む仕事を当面のスケジュール表からはずして、後回しにしたばかりだった。そこへ新聞社から催促の電話がかかってくる。
木村は当たり障りのない返事をして、その場を無難に切り抜ける。その後で彼は、「Bosheit(悪意)を含んだ微笑」を浮かべるのである。
昔の木村なら、「あれはもう見ないことにしました」なんぞと言って電話で喧嘩を買ったのである。
と注釈をつけているところを見ると、この悪質な微笑が、世慣れて狡猾になってきた自分を肯定すると同時に、新聞社や世間一般を拒否する意地悪い微笑であることは、「併しこんな、けちな悪意では、ニイチェ主義の現代人にもなられまい」と付言していることからも明らかだろう。
「戦闘的啓蒙活動時代」といわれる時期の鴎外は、現世に対する厭悪の情をバックに、各方面の権威を相手に戦いを挑んだ。同期のトップを切って独逸に留学し、医学と文学の分野に関する広範な知識を身につけて帰国した彼は、その最新の知識を武器に医学界と文壇の双方に辛辣無類の攻撃を開始したのだ。
「傍観機関論争」では、彼は当時多数をしめていた漢方医・和方医と手を結ぶ西洋医学の泰斗たちに向かって、なぜ学会組織を根本的に刷新しないのかと詰問している。彼は西欧のアカデミーを念頭に置いて、「学問権」を多数の「疾医」にではなく少数の「学医」と業績を上げている純正学者の手に渡すべきだと強調するのだ。
鴎外は「大日本私立衛生会懇談会の記」のなかに、民間医らがいかに卑猥な放言を重ねたか、それが又いかに一同の喝采を博したかを直写した文章を載せている。彼はこの記事を結ぶに当たって、「これを報ぜむとすれば筆穢れ、墨穢れ、鉛字穢れ、活版器械穢れむ。而れどもこれを報ぜざらむ乎、頽波滔々、何の底止する所ぞ。故に強いて此記を作る」という激しい言葉を使っている。
「逍鴎論争」では、彼は坪内逍遙が勧善懲悪主義を嫌うあまり、「真」を重視しすぎる点を批判した。真を重視して写実主義に偏れば、「美」が失われてしまう。美は写生的真実の中にあるのではなく、それを超えて個人がつかみ取る主観的な世界像のなかにある。鴎外は、西欧流の芸術理論を武器にして、坪内逍遙の説を完膚無きまでに粉砕したのだった。
この時期、鴎外の言動は、後に自分でも認めているように少なからず気違いじみていた。彼は相手が一言言えば十を返し、怒りにまかせて論敵の息の根を止めてしまった。彼は「執筆狂」「書痢」というような悪評を浴びせられながら、憑かれたように書き続けて、自分の周りを草一本生えない荒れ地に変えてしまったのである。
彼は私生活でも最初の妻赤松登志子を離別して、少年時代からの恩人西周に義絶されている。こうした暴走は、ドイツから帰国して彼が一家の長になり、母の圧力鍋から抜け出したことに関係している。母峰子の支配から脱したことで、鴎外は手綱を離れた悍馬のように暴れ出し、意識下に隠して来た厭悪の感情を一挙にぶちまけたのだ。
鴎外の暴走に対する跳ね返りは、すぐにきた。彼は陸軍医務局長になったライバル小池正直の手で、地方師団の軍医部長に左遷されてしまう。孤立無援の苦境に立たされた彼は、「余は天下の棄材なり。余は今の医海にありて、何の用にも立つべからざる人物なり」と自嘲しつつ九州小倉に去らねばならなかった。
やわらかな表情
鴎外が、本当にリラックスできるのは本を読んだり、考えたりしているときであり、彼の用語を使うなら「思量」しているときだった。長男の於菟が小学生だった頃、鴎外は休日には彼を連れて郊外の茶店に出かけ、一日中、葉巻を加えてドイツ語の本を読んでいた。於菟の方は捕虫網を振り回して蝶を捕まえる。夕方、肩を並べて帰途につく折りには、於菟は「父ののんびりした気持に抱擁され」たような気がしたと言っている。
杏奴も父がそばで本を読んだり葉巻をふかしたりしていると、「やわらかな楽しい気持が乗り移ってくるよう」だったと語る。好きな本を読み、考えにふけっているときの鴎外は、のびやかな気分の中に周囲の人間を引き込み、相手の気持ちまでやわらかく溶解してしまった。
鴎外が小倉に飛ばされたのは、不幸なことではなかった。彼は謹慎の情を示すために医学問題について口を緘して語らぬようになり、文学についても一切論じることがなくなった。そのかわり、彼はフランス語の習得と唯識論の勉強を開始し、倫理学の本をはじめ多種多様の書物を興に任せて読みふけった。現実に対する厭悪の感情を一時封印して、「一日は一日の勉強の功を積む」生き方に切り替えたのである。
鴎外は、手紙で弟に小倉に来てからの日課を知らせている。
この頃は午前九時出勤午後三時退出 直ちに衣服を更へて佛語数師の宅に参り六時に稽古済み帰り湯をつかひ晩食し 直ちに葉巻一本くわえて散歩に出で申候 一本がなくなるまで小倉の町を縦横無碍に歩めば 丁度一時間位立ち至極体によろしく候 それにて九時頃に相成申侯 それより佛語の手帳を浄書し 又梵語を少しやれば 十時半か十一時になり 直ちに寝ることにいたし候
彼はまた友人に宛てて小倉に来てからは、「自由自在に荒漠なる大野を騎りまわす」ような本の読み方をしていると知らせている。鴎外は、こうした本の読み方をドイツにいた頃にもしていて、次々に本を読み下す快感は口では表現できないと日記に書き付けていたのだが、帰朝後は論争に明け暮れて、その喜びを忘れていたのである。
彼の興味は多方面にわたったが、自然に放置しておくとその関心は文化人類学的方向に流れて行くのが以前からの癖だった。文化人類学的な立場とは、世界各地の食生活・言語・葬送儀礼などを「生活の必要」が生み出した必然的なものととらえ、すべての慣習を全体的関連のもとに把握する立場である。一見、不合理で野蛮に見える風俗習慣も、文化全体の有機的関連のもとにおいてみれば合理的なものに変わる。
彼はこの見方に立脚した研究成果を、東京に帰任後、「人種哲学梗概」「黄禍論梗概」「当流比較言語学」などにして発表している。これらを読むと、鴎外は風俗習慣だけでなくあらゆる知的造作物を公平無私な目で眺め、それらを「思量の玩具」と捉える観点を取得していることが分かる。
鴎外は生活者として、そして洋行帰りの知的エリートとして、嫌悪の目で眺めていた日本社会を、思量者として肯定し是認するようになった。世俗の中に身を置くと耐え難い苦痛を感じる点に変わりはなかった。しかし彼は「存在不快」に対抗するために思量の世界を展開し、その世界から俯瞰することで現実を肯定出来るようになった。「存在不快」に対抗するに「思量快」をもってすること、これが小倉在勤2年間で鴎外が体得した処世哲学だった。
「灰燼」の山口節蔵は、若い頃、葬儀の席上で僧侶がもっともらしい顔で読経するのを見ていると、とんでいって顔を殴るつけてやりたくなった。やがて彼は読経の際にも黙って聞き流すようになる。あれほど俗なるものを嫌った鴎外も、娘の茉莉に向かって「俗に制されなければ、俗に従うのは悪いことではない」とさとすようになる。
小倉での任期を終えて鴎外は、顔にやわらかな表情を浮かべて帰宅した。二年前には、彼が帰宅すると家中がピリピリしたのに、今では彼は嘘のように穏やかな顔をして帰ってきたのである。母の峰子も、「林太郎は生まれ変わったようになって戻ってきた」と驚きを隠さなかった。
再び「晴れ晴れとした顔」
ここで「あそび」に立ち返って、この作品を書いた頃、鴎外が本当に「頗る愉快げな晴々とした顔」をしていたかどうか検証してみよう。すると、意外な事実が浮かび上がってくるのである。
「あそび」を脱稿した明治43年7月20日前後の鴎外は、公私ともに絶体絶命のピンチに立っていた。役所では、陸軍次官石本新六との関係が険悪になって衝突を繰り返していたし、家庭では母の峰子と妻の茂子の関係が、修復不可能なほどに悪化していたのである。
陸軍省も他の省庁と同様に、大臣−次官−局長−部長という命令系統にあったから、石本次官は医務局長森鴎外の直接の上司になる。この剛直をもって知られる石本が、鴎外を馬鹿にしきっていて、彼が何を言っても鼻であしらって相手にしなかったのだ。
もともと、鴎外が軍医としての最高のポストである医務局長に就任するについては、悪評がつきまとっていた。彼が術策をこらして先任の小池正直を引き下ろし、強引に局長に就任したという噂が流れていたのだ。だから、この前年には彼が日記に「夕に赤坂の八百勘に往く。席上東京朝日新聞記者村山某、小池は愚直なりしに汝は軽薄なりと叫び、予に暴行を加ふ。予は村山某と庭の飛石の間に倒れ、左手を傷く」と記したような事件も起きたのである。
石本が鴎外を小馬鹿にしたのは、このほかに彼が「軟文学」に首をつっこんで自家の恥をさらすような小説を雑誌に発表しているからだった。鴎外は新聞記者と取っ組み合いの喧嘩をした翌月に、妻茂子が母の峰子を毛嫌いして「丸であなたの女房気取りで、会計もする。側にもいる。御飯のお給仕をする。お湯を使う処を覗く。寝ているところを覗く。色気違いが」と罵る場面を織り込んだ小説「半日」を雑誌に発表している。
陸軍中将相当官である医務局長が、漢詩文ではなく軟文学のような堕落した文芸にうつつを抜かし、娘のように若い女房の尻に敷かれて醜態をさらしている。しかもそれを得々と小説にして天下に発表しているのだ。石本のような武人派の軍人にとって、これ以上情けない男はいないのである。
「あそび」を執筆していた当時、医務局長としての鴎外の死命を制するような問題が浮上していたのだった。これまで軍医は部内にあって独立の命令系統下にあり、その人事権は医務局長が握っていたのだが、それを一般兵科と同じ命令系統に編成替えしようとする動きが進行中だったのである。そのための条例(「師団補充条例改正案」)が通ったら、鴎外は辞職する腹を決めていた。
次官室に乗り込んだ鴎外は、この案件を巡って石本とたびたび激論を交わし、七月に入ってから石本に「事を言ふ」こと四度に及んでいる。「事を言ふ」とは、平たく言えば口論したということである。
家庭では、鴎外は茂子の気持ちを転ほかに向けさせるために、彼の添削を加えて「波瀾」などの小説を書かせている。だが、嫁姑の関係は悪化する一方だった。鴎外の友人は、思い切って茂子を離別することを忠告するようになった。「あそび」は、陸軍を辞めるか、妻を離別するかという切羽詰まった状況下で書かれ、それはとても「頗る愉快げな晴々とした顔」ではいられなかった時期だったのである。
危機に臨んで「冷眼鉄面」の自己像を描き、自身の動揺を抑えるのが鴎外の常套手段で、「あそび」にもその狙いがなくはなかった。だが、この作品には上司と衝突を繰り返しながら、比較的平然としている自分を省みて、その心的背景を探り、apathique(無感動)な自身の哲学を確認するという意図があったのである。
妻の茂子は、鴎外を「西洋の悪党」じみたところがあると言っている。
富子は独り目を開いて、大野(注:鴎外)の事を色々研究してゐる。夫は有触れた洋行帰りとは違って、余程長い間外国にゐたので、世間で云ふハイカラアとは気風が違ってゐる。どこか深く西洋化してゐるらしい。なんだか小説に出てゐるエズイツトのやうな処がある。詰まり西洋の悪党じみてゐるのである。それで東洋風の道徳の上から見ると、所詮出来ないやうな事をも平気でするのではあるまいか(「波瀾」)。
「波瀾」は夫妻の合作といえるようなものだから、鴎外はこうした妻の見方を是認していた。というより、むしろジェスイットのような非人間的で冷徹な風貌を備えた自分を誇りとしている気味がある。「あそび」は、妻が悪党じみていると見た彼自身の性癖を、妻とは別の観点から解説して見せた作品と見ることが出来る。
「あそび」は、「木村は官吏である」と書き出されている。暫くすると、行を改めて、今度は「木村は文学者である」と書く。鴎外は、この二つを等置しておいて、この両方をあそびの気持ちでやっていると言うのである。
役所の為事は笑談ではない。政府の大機関の一小歯輪となって、自分も回転しているのだということは、はっきり自覚している。自覚していて、それを遣っている心持が遊びのようなのである。顔の晴々しているのは、此の心持が現れているのである。
木村は文学者として著作をするときも、子供が好きな遊びをするような心持になっている。役所の仕事より、著作の方が面白くはあるけれど、役所の仕事も著作生活の単調を破るのに結構役に立っているから、役人を辞めないのだ。
役所では同僚は皆青ざめた顔をして、月に一度ぐらいずつ病気をしないものはない。木村だけがピンピンしているのは、彼が仕事をあそびだと考えているからなのだ。鴎外は、知的造作物のすべてを思量の玩具だと思っている。今や、彼は知的造作物だけでなく、職業上の仕事もあそびであり、思量のための玩具だと言い放つようになったのだ。
木村の心持には、真剣も木刀もないのだった。鴎外は木村に代わって、この遊びの心持ちは「与えられたる事実」だから変えようがないのだ、と弁護してやっている。しかし、鴎外が知的造作物のみならず、人間営為の一切を思量のための玩具と考えるようになったのは、小倉左遷後、圧力鍋のような家から離れ、文壇・医学ジャーナリズムの世界から離れ、孤立無援の独居生活を送ったからだった。
小倉以後の彼は、事に臨んで最悪の事態への覚悟を決めておき、そうならぬように努力することを信条とするようになっていた。茂子は娘が「家を出て行くといってパッパを脅してやればいいのに」とけしかけたのに対して、「そんなことをしてもパッパは平気だよ」と淋しそうに答えている。彼は、陸軍を辞める覚悟も出来ていて、そうなったら本格的に文壇に進出しようと野心的な大作「灰燼」に着手していた。「あそび」はこうした自己の信条を確認するために執筆されたのである。
しかし、問題は残っていた。
鴎外は思量のレベルでは、現世のすべてを肯定し受容していたから、人生を高みから見下ろすような作品を書くことが出来た。その点で、彼は同質の秀才作家芥川龍之介や三島由紀夫のはるか先を行っていた。が、現世を受容したのは思量のレベルだったから、「存在不快」は地下のマグマのようにそのまま残っていたのである。
毎日新聞社は、漱石を専属作家にした朝日新聞にならって、陸軍を退官した鴎外に紙面を提供し、自由に作品を発表してもらうことにした。鴎外は新聞社からの申し出をうけて連載物を執筆することになったが、漱石とは違って読者の嗜好を配慮する気配を一向に見せていない。彼はおのれの好むことを好きなスタイルで書き、「退屈極まる」史伝ものを延々と生産し続けたのだ。
鴎外を非難する声は、読者からも社内からも寄せられたが、彼は顔にBosheit(悪意)を含んだ微笑を浮かべながら平然と「砂のように無味単調な」史伝を書き続けたのである。
彼は現世を肯定していたが、世俗に叩頭する気持ちは微塵もなかった。そうした彼の気持ちを端的にあらわしたものが、あの有名な遺書だったのである。