神谷美恵子の青春 1
神谷美恵子の生涯を彼女自身の手記によって知ろうとすれば、絶筆になった自伝「遍歴」(みすず書房)と「神谷美恵子日記」(角川文庫)によるしかない。だが、「神谷美恵子日記」に掲載されている日記は、日記全体の数パーセントに過ぎないというし、「遍歴」もデリケートな部分を意識的に省いてあるから、美恵子の生涯を細部まで捉えることは一般読書家には不可能に近い。
その「遍歴」には、巻末に気になる記事があるのだ。著者の夫である神谷伸郎は、あとがきに次のようなことを書いているのである。
彼女(神谷美恵子)は「自伝」を書き始めたものの、間もなく「自己嫌悪」に陥り、執筆を途中で中断してしまった。
美恵子は、一旦出版社に送った原稿を取り戻したこともあるという。著者を自己嫌悪に追い込んだものとは、一体何だったのだろうか。その疑問は脇に置いておいて、とにかく美恵子の口から語られる彼女の生涯について見て行くことにしよう。まず、彼女の小学校時代からはじめる。
彼女の父前田多門は、当時としては上層の階層に属する東京市の助役をしていたから、長女だった美恵子も上流の子女が集まる聖心女子学院小学校部に通っている。しかし、彼女はこの学校の厳格な規律や、「あそばせ言葉」を使うお上品な貴族趣味にはすっかりうんざりしていた。美恵子は、小学生の頃から拘束されることを嫌い、世のブルジョア趣味に対する反逆精神を持ち続けていたのである。
兄陽一と
だから父が国際連盟の外郭団体ILOの日本代表に任命されて、スイスのジュネーブに赴任することになった時には、彼女はホッとした。現地で美恵子が入学した国際学校は、聖心女子学院小学校部とは全く違っていたのである。校則というようなものはなく、一つの教室に一年生から六年生までの子供たちが雑居して、一人一人が別々の勉強をしている。
神谷美恵子は、この寺子屋式の学校にすっかり溶け込み、またたく間にフランス語を身につけた。美恵子だけでなく兄妹もフランス語をすぐにマスターし、それと反比例して日本語をどんどん忘れていったから、両親が日本語で話しかけても、子供たちはフランス語で答えるという珍妙な光景が見られるようになった。
家族と(左二番目が美恵子)
美恵子のスイス滞在は3年間に過ぎなかったけれど、この体験は彼女の心に深い刻印をのこした。彼女は「今なおフランス語でものを考えること、読むこと、書くことがいちばんらくなこと、ヨーロッパ文化に傾斜していること・・・・・これはどうしようもない」と書いている。
12才で帰国した美恵子は、自由学園に入学するが、三ヶ月通学しただけで登校拒否を起こしてしまう。彼女は親や教師が何と説得しても、頑として登校しなかった。この辺に父からは我の強さを指摘され、兄から「君は一種のキチガイだ」と評された美恵子の性格が浮き彫りになっている。
結局、彼女は自由学園に通うことを拒み通して、翌年の四月に兄の通っている成城学園女学部に同級生より一年遅れで入学することになる。美恵子はここで忘れていた国語の勉強に熱中し、作文が大好きになり、ひそかに作家志望の夢を育て始める。
そして少女小説めいたものをいくつも書き、一夏かけて完成した長編小説を学校誌に掲載したりしている。はじめは、遅れている国語の力を取り戻そうとして始めた国文学の勉強だったが、学校を卒業する頃には、国文専攻の学校への進学を希望するほど日本文学が好きになっていた。
だが彼女は、「あそこを出て英語を身につけておけば、将来役に立つだろう」という兄の助言に従って、津田英学塾本科に進学する。
津田塾時代最大の事件は、叔父金沢常雄が主宰する聖書研究会の常連になって、熱心なクリスチャンになったことだった。叔父は同じ無教会主義の伝道者でも、黒崎幸吉・塚本虎二・矢内原忠雄などのような知名度を持っていなかったから、日曜日の集会に集まる信者も少なく、個人誌の発行部数も僅かで、経済的にいつも窮地に立たされていた。
それだけに叔父の信仰は偏狭で厳しく、周辺の親族・知友の世俗的な生き方を強い言葉で糾弾したりした。その非難の矢は、美恵子の両親にも向けられ、これに同調して美恵子兄妹は両親に批判的だった時期もある。
津田塾卒業の前年、美恵子は東京都のライ療養所多摩全生園に出かけた。
患者たちから講演を頼まれた叔父が「賛美歌のオルガン弾きに一緒に来てくれないか」と、美恵子を誘ったからだ。本の世界だけしか知らない世間知らずの彼女だったから、園内に足を踏み入れたときのショックも大きかった。
よい治療薬もなかったころだから、患者さんたちは見るかげもなく病みくずれていた。鼻のない人、松葉杖にすがってよろよろと歩く人、車椅子で運ばれてくる四肢のない人。しかもこんな人たちが、たからかに讃美の歌を歌い、信仰によるよろこびの感想を次々と語っている。これはどういうことか、と私ほふるえながらじっと聞いていた。このショックは一生つづくほど深いものであったことはまだその時知らなかった。
患者さんたちのかたわらには三上千代さんという母性的な看護婦さんがおられた。患者さんたちの彼女に対する信頼の態度、彼女の彼らに対する庇護的な態度、それらに私の目と心は奪われた。
ああ、私もこの方のように、こういう患者さんのところで働きたい! ここにこそ私の仕事があったのだ!という心が強く深く湧きあがった。苦しむ人、悲しむ人のところにしか私の居どころはない、とすぐさま思いさだめてしまった。
美恵子は全生園を訪ねてから、学校で勉強している英文学よりも、「涙の谷であるこの世をどうやりすごして行くべきか」という問題の方がずっと重大だと考えるようになる。
彼女が東京女子医専めざして受験勉強を始めたのを知った父は、娘が医者になることに反対した。津田塾の星野塾長は「あと一年間考えてみて、それでも気持ちが変わらなければ思ったようになさい」と助言してくれた。周囲の反対にあって態度を決めかねているうちに、彼女は結核に感染するのである。
神谷美恵子
結核は死病と考えられている時代であった。「遍歴」によると、美恵子は死ぬ前に人類が書き残した偉大な書物を出来る限り読んでおこうと考えて、一人で軽井沢の山荘にこもっている。山荘は、落葉松林の中に建つ二階建ての一軒家だった。彼女はこの二階で寝起きし、階下には彼女の食事その他の世話をする農民夫婦が泊まりこんでいた。
やがて彼女は、手当たり次第漫然と読書するより、組織的な勉強をした方がいいと考え直して、文部省指定の「英語科高等教員検定試験」を受ける準備を始める。この試験にパスすれば、大学予科・旧制高校の教授になる資格が与えられるのである。受験勉強をしていると、過去の悩みも、迫っている死も、みな忘れることが出来た。
美恵子は新聞種になったほどの若さで検定試験にパスしたが、一時治癒したと思われた病気がぶり返したので、今度こそ世界の名著を読もうと思った。主治医の口ぶりから、病気の治る見込みはないらしいと察知したからだった。
世界の名著を読むに当たって、そのすべてを原語で読むことにしたのは、いかにも神谷美恵子らしい。彼女はイタリア語でダンテを、ドイツ語でヒルティを読み、さらに新約聖書を原語のギリシャ語で読むことにした。ハディルストンの文法書を手引きに、新約を独力で直ぐ読めるようになったというから、彼女が生まれつき言語の才能に恵まれていたことが知られる。
ギリシャ語が読めるようになった美恵子は、さらに歩を進めて古典ギリシャ語を勉強し、ホメロスやギリシャ悲劇、プラトンの対話編などを読むことにした。「こう決心したときのおののきと期待は、たとえようがないほどだった」と美恵子は書いている。死を前にして完全に自由な時間を与えられ、その時間を利用して、ヨーロッパ文明の源流であるギリシャ文化を研究する、美恵子にはこれが天から与えられた賜物のように思われた。
ギリシャ哲学の勉強中に、ローマ時代の思想家マルクス・アウレリウスを知ったことは大きな収穫だった。哲人皇帝といわれたマルクス・アウレリウスは「自省録」をギリシャ語で書いており、美恵子はこれを原語で読んだのだった。
美恵子が「自省録」を自分にとっての「一冊の本」とまでいうのは、これが彼女の経験した神秘体験の意味を明らかにしてくれると思われたからだ。しかし美恵子は「遍歴」の中でそう述べながら、同書の中ではこの神秘体験について触れていない。だから、これについては「生きがいについて」の中に「ある日本女性の手記」と題して紹介している記事を読まなければならない。
「何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真っ暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていたときでした。突然、ひとりうなだれている私の視野を、ななめ右上からさっといなずまのようなまぶしい光が横切りました。と同時に私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でもふしぎな凱歌のことばを口走っているのでした。「いったい何が、だれが、私にこんなことを言わせるのだろう」という疑問が、すぐそのあとから頭に浮かびました。それほどこの出来事は自分にも唐突で、わけのわからないことでした。
ただたしかなのは、その時はじめて私は長かった悩みの泥沼の中から、しやんと頭をあげる力と希望を得たのでした。それが次第に新しい生へと立ち直って行く出発点となったのでした。」
美恵子が「発狂か自殺か」というところまで苦しんでいた問題が何であったか後に触れるとして、重要なことは彼女がギリシャ哲学やマルクス・アウレリウスによって、現世を「涙の谷」と見る偏狭な叔父の見方から離れて、もっと広い目で世界を見るようになったことである。
神谷美恵子の経歴を見ていて気がつくのは、彼女が実人生において常に「攻勢」の姿勢を取り、自分の守備範囲を超えて活動の手を四方に拡げていることである。彼女はフランス語を自在に使いこなしていたのだから、将来、仏語の専門家として生きて行くことも可能だった。が、彼女は成城高等女学校時代からドイツ語の勉強を始め、療養生活に入ってからは、イタリア語からギリシャ語、更に古ギリシャ語にまで手を拡げ、知的などん欲ぶりを発揮している。
次々に新しい分野に手を伸ばして、旧来の立場を相対化し、自分の世界を量的にも質的にも拡充して行くのが、美恵子の終始一貫した生き方だった。彼女は思想的にも、視野を拡げ、キリスト教信仰は死ぬまで棄てなかったけれど、理知的なギリシャ哲学をマスターし晩年は仏教にも強い関心をしめしている。
2 神谷美恵子が結核に感染したのは21才、気胸術を受けて病気を治したのが23才だから、療養期間は約2年間という事になる。主治医からは、一応治癒したとはいえ、無理をすると病気の再発するおそれがあるから、5年間は結婚しない方がいいと言われていた。このため、結婚適齢期にあった彼女は病後の身の振り方を、改めて考え直さなければならなかった。
そんな時、津田塾の星野塾長から、津田梅子奨学金を受けられるように手配するから、アメリカに留学してハクを付けてきたらどうかという申し出があった。彼女はこの申し出をありがたく受け入れ、たまたま父がニューヨークにある半官半民の「日本文化会館」館長に就任することになったので、一家もろともアメリカに渡ることになる。
アメリカでの2年間、美恵子は最初コロンビア大学古典文学科大学院に籍をおいてギリシャ古典文学を研究していた。だが、父が娘の熱意に負けてついに医学に進むことを許してくれたので、コロンビア大学理学部医学進学コースに転科することになる。文系一筋でやってきた美恵子は、いきなり理系に飛び込んで自信喪失に襲われたりもしたが、何とかピンチを乗り切って医者への歩みを着実に進めはじめた。
そのうちに、将来、日本で医者になるとしたら、日本の医師養成学校を卒業して自国の医師免許状を取った方が好都合だということになって、美恵子は東京女子医学専門学校に入学するため、急遽、日本に帰国することになる。太平洋戦争が始まる4ヶ月前のことだった。
26才で帰国した美恵子は、4年間を女子医専で学び、卒業したときには30才になっていた。遠回りをした彼女は、仲間よりずっと遅れてオールドミスの年齢になって、ようやく念願の医師免状を手にしたのである。
彼女は卒業の前年に長島愛生園で12日間の実習を行っている。長島愛生園での体験は、彼女の「愛生園見学の記」という日記に記されているので、その一部を引用する。
8月10日(火)
朝図書室で少しジャンセルムを読んでから診察室へ出る。内科はカルシウムの注射。外科は立川先生の診察。ていねいに説明して下さる。足穿孔症がすこぶる多い。ほうたいを解きはじめると恐ろしくたくさんの膿汁がにじみ出ているので、足全体が腐っているのではないか、という錯覚にとらわれる。これは中の骨が完全に腐って腐骨になるのを待って切除するほかないそうだが、その第一段階として切除を施すところを二、三度みる。それから気管切開をやるから見にくるようにというので、手術室へ出かける。
田尻先生、宮田先生執刀、私もハーケンを持たされ、ぐいと筋肉を分けて開いた。患者は五十歳くらいの女、ライに多い喉頭狭乍で今にも窒息しそうにぜいぜい言っている。局所麻酔だけですぐ手術を始める。恐ろしく出血し始めた。
患者の喉はピイピイ鳴って大波のように上下する。私たちは三人とも顔に一杯血を浴びた。血はなかなか止まらない。ついに上気管切開を断念して、途中で下気管切開に変更、やっとカニューレが入った。とたん、断末魔の苦しみにあえいでいた患者ほビタリと静かになり、らくそうに喉で呼吸をしている。
美恵子は返り血を浴びて手術の手伝いをしたりすることに些かも嫌悪の情を抱いていない。それどころか、確実に自分が役立っていると自覚することで、これまでに味わったことのないような充実感を感じている。
日記には、下肢に執着する若い患者のことも書いてある。
病におかされた下肢を切断するほかないと言われながら、どうしても肯んじない患者の傍へ行き、先生は赤ん坊をさとすようにすすめた。まだ二十代くらいのこの青年は、見るかげもなくやせおとろえた体をベッドの上に斜めによこたえ、もものつけ根から厚くほうたいを巻いた自分の右下肢をおびえた眼で眺め、どうしても切るのはいやだと哀願する。はあはあと、届平な胸があえいでいる。「いいよ、いいよ、そんなにいやなら無理にとは言わん。じゃ大事みて静かにねてなさい」 ついに先生はそっと立ち去る。その目にはは無限のあわれみがある。あの丸太のように、無感覚にくさってしまった肢にさえ、人間は執着するのだ。
美恵子は院長や医師たち、そして患者たちに学校を卒業したら、必ず愛生園に戻ってくると約束して別れを告げたが、卒業後は精神科医を目指して東大病院精神科医局に入局している。その理由を彼女は、父がライの専門医になることに強硬に反対したからだと述べているが、これは少々疑わしい。
美恵子は愛生園の医師にライ専門医になるにはどうしたらよいかと質問して、いきなりここに来るより内科医か眼科医になり、その専門的な技量を身につけて来園した方がいいと助言されていた。
だから、4〜5年内科病院で勤務してから、スライドして愛生園に移るという方法もあったはずである。だが、彼女は内科も眼科も選ばないで、精神科を選んだ。
美恵子は何を専攻にすべきかと悩んでいた時期に、日記にこう書いている。
癩病院へ行って働くという私の希いには多分に逃避的な動機があり、また目に見えて献身して居るという自己満足を求める心もあった。
美恵子がライ専門医になることをためらったのには、自分の不純な虚栄心に対する反省と、地味で目立たない精神医の世界に対する憧れがあった。
美恵子が完全に相反する欲求を持って生きていたことは生涯の随所に見られるのだが、ここにもその一端が現れている。彼女には現世の煩わしさを逃れて孤独な生活を志向する隠遁者的な面があり、「愛生園見学記」にも、「ここの医官たちのどこか超脱した風格に限りなく惹かれ、ここへ来るなり、まったくアット・ホームに感じてしまった」という記事や、「バッハをレコードできいたり、ピアノで弾いたりすることさえ許されれば、この島の生活に、たとえどんなに淋しい面、荒涼たる面があろうとも耐えられそうに思う」という記事がある。
その反面、彼女には強烈な野心があり、この世に生まれてきた証しに目に見える形で何かを残したいという気持ちも強かった。美恵子をよく知る兄の陽一は、こういう彼女を「両性具有的」と呼び、妹を統御できる男性は何処にもいないだろうと言っている。
美恵子が結局父に反対されたことを理由にして精神科を選んだのは、彼女がもともと文系の人間で、文学や哲学に親しんできたからだったのに加え、殉教者扱いされるライ専門医を選ぼうとする自分の虚栄心や「曲がりくねった」根性を嫌悪したからだった。
東大の精神科教授内村裕之とは、スイス時代に父も美恵子も面識があった。母がこの伝手を利用して内村教授に面会を求め、直接、頼み込んだお陰で美恵子は東大病院に入局できることになった。
東大病院での美恵子の活動の一端が、彼女の著書「人間をみつめて」に載っている。少し長くなるけれども引用しておこう。
まだ三十代のりっぱな紳士であった。会社では模範社員、家庭ではよき夫、よき父親。ところがある日、理由不明の欠勤をし、知人の家を訪れて、そこの奥さんにあいさつもせず、土足で座敷にあがりこみ、いきなりそそうをしてしまった。言うこともおかしいので、狂ったのではないか、ということになり、東大病院の精神科に連れて来られた。脳波の検査や脳のレソトゲソ検査の結果、脳の前の部分、すなわち前頭葉とよばれる部分にガンのような腫瘍のあることがつきとめられた。右は私が精神科医の道を歩き出して初めて受持たされた患者の一人であるから、印象は鮮烈であった。時は昭和十九年秋。戦争の末期で、病院内の事情もひどいものであった。まだうら若い患者の妻は、二人の男の子をつれて大部屋の患者のとなりのベットに住みこみ、おろおろ涙しながらそこで煮たきをし、夫に付添っていた。
事態はまことに悲惨かつ重大であるのに、患者はそれをまったく自覚せず、自分の病についても家族の将来についても何一つ心配もせず、だじゃれを飛ばしながら、一日一日を上きげんですごしていた。大の男が何もせずにねていて退屈もせず、上きげんでいるということの異常さは、本人以外のだれの目にも、あきらかなことであった。
ともかく腫瘍を切りとらなくては、というので当時の脳外科の大家、清水健太郎教授の執刀のもとに手術が行われた。受持医として私も手術のときには同伴し、ずっと患者の脈をみながら、彼と会話をつづけた。脳というのは切っても痛くないもので、彼は終始陽気にうけこたえし、知能テストのつもりでこちらが問いかける暗算や記憶の問題にも、みな正しく答えた。ことばももちろん、少しも乱れない。せまい意味での知能、つまり、コンビユー一夕ーで代りうる知能はりっぱに保たれていたわけである。
異常なところはただ、脳を切りとられる、というたいへんな手術を受けていながら、彼が少しも不安をおぼえず、愉快そうにさえしているという点であった。
腫瘍はあいにく悪性であった。頭蓋骨にあけられた小さな窓に骨の蓋をし、その上をばんそう膏やはうたいで密閉しておいても、あとからあとから新しい細胞の増殖がおこって、まるで花キャベツのように骨の蓋を押しあげ、ふき出るようないきおいで出てきてしまうのであった。
何度か手術をくりかえしたがすべてむなしく、五月の東京大空襲の夜中にこの人はついに逝いてしまった。その夜はあいにく、私の実家も空襲で全焼し、私も家族とともに炎の中を逃げまどっていたので、この人のさいごをみてあげることができなかった。遺族はその後どこでどうしておられるであろう。
やがて、戦争が終わり、アメリカから引き揚げていた父前田多門が文部大臣になった。敗戦直後の文部行政は、何をするにも占領軍の指示を仰がねばならなかったから、優れた通訳官と、日本語の文書を英語に反訳する翻訳官が必要だったが、文部省には適当な人材がいなかった。美恵子が父の懇請に負けて、医局に籍を置いたまま、文部省に通い大臣秘書の仕事をすることになったのは、このためであった。
大臣秘書の仕事は、父が追放になり、代わって安倍能成が文部大臣になってからも続けられた。美恵子があまりに有能だったから、文部省でも彼女を離そうとしなかったのだ。美恵子の給与が、大臣よりも上だと噂されたのも、文部省にとって彼女がなくてはならない人材だったからである。
その美恵子が32才で、生物学者の神谷伸郎と結婚し、妊娠を機に文部省を辞め、長男に続いて次男を出産することになる。この次男が小児結核にかかったために、美恵子の肩に掛かる負担が一層大きくなった。彼女は、夫を研究に専念させ、学者として大成させるために、語学の家庭教師をして家計を支えていたのだった。そこに、次男が高価な新薬を必要とする結核になったのである。
美恵子にとって、結婚後の10年は苦闘の連続だった。この間の艱難辛苦を凌ぎきった美恵子は、42才で研究生活に復帰し、長島愛生園の非常勤職員としてライ患者の診療に当たることになった。
神谷美恵子の自伝「遍歴」は、次の言葉で終わっている。
私は今ライの患者さんに一番親近感を覚えている。彼らのところへ15年近く通えたのは一生のよろこびであった。何もなしえなかったが、彼らの心の友とさせて頂いたことが光栄である。社会の底辺の人こそ最も大切にすべき人たちだ、との思いを深めている。一生、ちどり歩きのような遍歴だったが、彼らにめぐりあえて、交わりをつづけられたことを最大の恩恵と考えている。どうか彼らに最後まで恵みの与えられんことを。
3 「遍歴」には、誰の目にもハッキリ分かるストーリーがある。
青春の入り口19才で、将来、ライ患者のために献身しようと誓った美恵子が、さまざまな障害を乗り越えた末に、43才でついに初志を貫徹して長島愛生園に勤務するようになるという物語である。だから、これはサクセス・ストーリーの一種と見ることが出来る。だが、別の見方もある。
子供の頃から縛られることを嫌った美恵子は、自由を欲した。だがそれは無拘束の生活を欲したからではなく、逆にわが手で自分に「縛り」をかけるためだった。偏狭な無教会派キリスト教を信じたのも、ライ患者への献身という生涯を選んだのも、彼女が自分に課した「縛り」としてだった。そして美恵子の後半生は、自らに課した「縛り」を徐々に解いていく過程だったのである。彼女は思想的には無教会派キリスト教のリゴリズムを棄て、クエーカー教に接近し、さらに仏教に関心を示すようになった。
ライ患者への献身についても、多摩全生園や長島愛生園をはじめて訪れた時ほどの熱意は薄れている。42才で長島愛生園を再訪したのは、博士論文の資料集めという目的も兼ねてのことだった。そして彼女は、狭心症の発作を起こしたのを機に、58才で愛生園から完全に離れ、療養と執筆の生活に入っている。
一切の公務から離れ、自分に課した「縛り」から解き放たれて、美恵子は初めて心の安らぎを得たのだった。「遍歴」には、その頃の心境を「最近数年間、子どもたちは巣立ったので、私は家庭にあってほそぼそと書きもの、家事、散歩などしている。すぎこしかたをかえりみるとずいぶん無茶をしたものだと思う。今はしずかな余生を与えられていてありがたい」と綴っている。
彼女の一生は、この静かな終着点を目指したものであり、隠棲の日常こそが本当のゴールだったと思われる。私は「遍歴」を読了後に、
江尻美穂子「神谷美恵子」(清水書院)
宮原安晴「神谷美恵子 聖なる声」(講談社)という二冊の評伝を読んだ。この二冊とも、「多くの障害を乗り越えてライ医になるという初志を貫徹した聖なる美恵子」というテーマで全編を構成している。これらを読めば、「遍歴」を書きながら、美恵子がなぜ自己嫌悪に襲われたのか、その理由が分かるように思う。
「生きがいについて」で世の注目を集めてから、美恵子は自分を聖女扱いする目に囲まれていた。それは彼女が「生きがいについて」に続いて発表した「人間を見つめて」によるところが大きかった。彼女はこの本に採録された「らいのひとに」という自作の詩で、こううたっているのである。なぜ私たちでなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ
代って人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ
ゆるして下さい らいの人よ
浅く、かろく、生の海の面に浮びただよい
そこはかとなく 神だの霊魂だのと
きこえよいことばをあやつる私たちをこれはアフリカの原生林に出かけた時のシュバイッツアーの感想に酷似している。「なぜ私たちでなくてあなたが?」という一節は、神谷恵美子について論じるときに必ず引用される有名なフレーズになってしまった。
神谷美恵子は、自らが作り出した「虚像」に忸怩たる思いをしていたのだろう。だから、彼女は「遍歴」がその虚像を増幅させることになるのではないかと恐れて自己嫌悪を感じたのだ。
「虚像」をそのまま受け入れ、美恵子の神格化に努力しているのは宮原安春の「神谷美恵子 聖なる声」である。これには美恵子が皇太子妃だった頃の美智子皇后の話し相手(つまりカウンセラー?)になっていたことや、彼女が学生時代に野村一彦という若者と実らぬ恋をしていたことなどの「新事実」が紹介されている。
同書には、神谷美恵子の「悲恋」の相手野村一彦が野村胡堂の長男であること、一彦が腎臓結核で死ぬ直前、臨終の床で牧師立ち会いの下、二人が婚約したという話まで載っていて(軽井沢別荘に居住する老婦人の談話)、少なからず驚かされた。
そこで私はインターネット通販で、新たに二冊の本を注文して読んでみた。
「会うことは目で愛し合うこと、
会わずにいることは魂で愛し合うこと」(野村一彦)「喪失からの出発」(太田雄三)
美恵子の恋愛について理解するには、当時における日本のアッパーミドルの生活を知る必要があるように思う。戦争中にも、こんな暮らしをしていた階層があったんだなと、認識を新たにされるからだ。
太平洋戦争を控えたあの時代に、美恵子ら前田家の兄妹は同じ階層に属する中産階級上層の子弟と家族ぐるみの交流をしている。美恵子の兄陽一のところへは、野村一彦や松田智雄らの友人が集まり、室内楽団を作って合奏したり、誕生祝いのパーティーを開いたりしていた。それを母や妹が一緒になって歓待して、小さなサロンのような雰囲気を醸成していたのである。
同じことが野村家でも松田家でも為されていたから、これらの家に集まる友人やその家の娘たちは互いに兄妹のように親しくしていた。美恵子が野村一彦と愛し合うようになり、松田智雄が野村一彦の妹と結婚するのは、このような状況下であった。
こうした子ども世代の交流は、親の世代の交流をバックにしていた。親たちもまた親戚つきあいのような親しい関係を保っていて、野村胡堂夫妻は美恵子を実の娘のように見ていた。
他家の人間も自家の家族も、男も女も、分け隔てなく親しみ合う開放的な生活は、グループに属する人々の性格ものびやかにする。前田陽一と松田智雄がともに東大教授になったのは、優れた頭脳の持ち主だったということもあるが、その開かれた明るい性格を教授や先輩たちに愛された為だろう。
娘たちも良縁に恵まれ、美恵子の二人の妹は、一人はソニー創業者井深大の妻になり、一人は伊藤忠商事副社長の妻になっている。
野村一彦
「会わずにいることは目で愛し合うこと」を読むと、美恵子と野村一彦が婚約したというのは、よくある風聞に過ぎなかったことがわかる。野村一彦の妹が書き残している兄の臨終記によれば、一彦は家族だけに看取られて自宅で静かに逝去している。
一彦が美恵子に惹かれたのは中学4年生の頃で、一彦が15才、美恵子が14才の時だった。一彦と美恵子は、そのつもりになれば何時でも言葉を交わす機会があった。一彦はしょっちゅう兄の陽一のところにやってきたし、二人は同じ成城学園に電車通学していた。そのうえ、学園の課外活動では二人とも音楽関係のクラブに入っていたから、合同練習で顔を合わせることが多かったのである。金沢常雄の聖書研究会に通って二人は、日曜ごとに同じ部屋で金沢の話を聞いてもいた。
にもかかわらず、二人は簡単な挨拶以上の会話を交わしたことがなかったのだ。美恵子の兄が二人のことを心配して、間に立ってお互いの気持ちを確かめ、双方に相思相愛の関係にあることを保証してやったにもかかわらず、二人は他人のようによそよそしくしていた。相互の愛を確認してから2年半、関係が全く進展しないまま、一彦の死を迎えるのだから不思議というしかない。
美恵子は、一彦が自宅に訪ねてくると姿を隠し、自室のベットの下に隠れてしまったことさえある。一彦と顔を合わせるのを避けるために、美恵子はスイス留学やアメリカ留学を考えたというから、疑念はますます深くなる。2人は互いに激しくひかれ合いながら、そのくせ相手を避けつづけ、二人の間には、引力と斥力が同時に働いていたようだった。
美恵子は、一彦が近くにいると心がかき乱されて平静でいられなくなるからと、恋人を避ける理由を語ったという。それ以外にも、美恵子の母が肺病病みの一彦を嫌って、彼に談判して直接行動に出ないように約束させていたという事情もある。
一彦の近親者によると、彼は「結核を背負い込んでからは、非常にやせていて背ばかりひょろりと高く、神経質で、意志も弱そうに見えた」という。こういう一彦を、美恵子の母は、一彦がやせていて長生きしそうもない上に、神経質で何時も心がぐらぐら揺れていて、娘への愛も長続きするとは思えないと考えていた。彼女は自宅に遊びに来る陽一の友人の中では、山室という青年が気に入っていて、美恵子に彼と結婚するように勧めていた。
二人の感情がどんどん深くなっていったのは、彼らが「忍ぶ恋」に徹したことに加え、クリスチャンらしい抑制が働いていたのかもしれない。
一彦は、仲介役の陽一から美恵子が、「例え一彦が今死んでも、一生一人で、彼を愛して生きて行くと言って居る」と知らされたあとで、ノートに次のように書いている。
何によりも先ず、美恵子さんが僕をどんなに愛して居るかを知る事が出来た(それは本当にどんな事の前にも疑えない強い愛だ)。そして次に魂をもって愛し合う事を教えられた。静かな祈りの時に、僕等は魂に於て、どんなに近く居る事が出来るかを知った。美恵ちゃんは僕のものではある。しかし、それより先ず僕等は真に神のものである。そして僕等の愛し合うことさえもが、いかに神の恵みであるかもこの頃わかってきた。
僕の心や頭や意志(僕のすべて)を造り給われた神にこそ、僕は属して居る。そして又美恵子さんも神のものである。この事は本当に、僕等の愛を邪魔するものではない。それどころか、神あって初めて僕等は清く愛し合って行ける。だから神に近くある時が僕等の魂の一番近く居る時だと思う。
会うことの出来ない僕等はただ神様に凡てをおまかせするよりない。そして僕は一生を美恵ちゃんに会わずに終わろうとも感謝して行くつもりで居る
一見、恋人に冷たい態度を取っていた美恵子は、一彦の死を知って世界が崩れ落ちるようなショックを受ける。そんな彼女の気持ちをさらにかき乱したのは、一彦の死後半年して一彦の遺したノートを読んだことだろう。彼女は恋人の死後に親しくなった一彦の妹からノートを見せてもらったと思われるが、そのなかにはこんな一節があるのである。
美恵子さんは自分とはあまりに違った世界に居る。そして僕にはふさわしくない程澄んだ心の持主を愛する事は、たとえ自分の心の中で、ひそかに愛するのでも冒涜的な事だと思いはしたが、僕は知らない間に美恵子さんを生きて行く目的にして居た。話さえした事のない人だし又その幸福な機会はこの先にもおばつかないし。この意味から言っても僕はとても愛される筈はない、と考えた。そしてどうにもなりそうもない事を考えて気のつまる様な思いをしながらあと十日このままで居たら自分はどうなる事だろうと思った。
美恵子はこのノート一度だけでなく何度も借りて読んでいる。その度に、買いかぶられている自分を恥じながらも、一彦を失ったことに対する哀惜の情を深め、一彦に殉じて一生独身を通す決意を新たにしたに違いない。
一彦との死別は、美恵子のその後の生き方を決定的に変えたと見るのが「喪失からの出発」の著者太田雄三で、悲しみに打ちのめされた美恵子はハンセン病者と自分を同じ側の人間だと思ったのではないかと言っている。
それまでの美恵子は、ライ患者を不幸な人間の側に置き、自分をそれとは反対の恵まれた人間の側に置いて、贖罪のために患者への献身を決意していたのだが、それを反転させて自分を患者の側に置き仲間意識からライ園に赴く気持ちになったというのである。
「生きがいについて」に「結核で病んでいるある娘の言葉」として引用されている次の一節は、美恵子自身の手記から転載したものである。
私にはもう時間というものがなくなってしまったような気がする。あるものはただ苦しんでいる自分、その苦しみの意識だけではないか。これはいつまで経っても変るはずがないのだ。
まわりでどんなことがおころうと、自分とはもう何の関係もない。あるのはただ苦しみの永遠のくりかえしだけだ。時計の針がどんなにまわっても、私はただこの耐えがたい状態で生きて行くだけなのだ。
美恵子自身がこうした苦しみから立ち直っていったから、「生きがいについて」の内容は精彩あるものになったのだ。「生きがいについて」は、ある点で、美恵子の私的な体験記なのである。
「会うことは目で愛し合うこと」を読んでいて興味を感じたのは、知的エリートという点では同じだった前田、野村の両家が、結核という病気に対して相反する態度を取っていることである。前田家では、美恵子が結核になると、娘が望んだとはいえ彼女を軽井沢の別荘に隔離して、一人だけで暮らさせている。ところが、野村家では結核の子供を自宅で手厚く看護し、そのため子供たちが次々に結核に感染してなくなってしまうという悲劇を招いているのだ。4人いた子供が、3人まで結核のため20歳前後で死去しているのである。
一彦の直ぐ下の妹は、襖一枚を隔てて兄の隣室で起居し、兄の死の直前まで患部に手を当ててその痛みをやわらげてやっている。このためか、彼女は松田智雄と結婚し児童文学者として将来を期待されながら23才でなくなってしまった。
4 美恵子と一彦の関係は、クリスチャンらしい清潔さを保っていて感動的だとする見方がある一方で、この関係に何となく不自然なものを感じる向きもある。美恵子自身も、当初至上の愛と感じていた自分たちの恋愛を見直すようになり、自分たちの愛は「過価観念」のそれではないかと考えるようになっている。
その証拠に「生きがいについて」には、二人の恋愛感情を分析したと思われる箇所があるのだ。
ある執念を長い年月の間持ちつづけるというようなひとは、大きな感動性を持っていると同時に、その性格構造のなかに強い抑制的な要素をも持ち合わせているはずである。それは理性的な抑制力であることもあろうし、内気や臆病のこともあろうし、またうまれつき固執的傾向が強く、それが一つの状態から他の状態へと簡単にぬけ出られないようにブレーキをかける作用を持つこともあろう。このような抑制的要素は感情や衝動をすぐさま行為の形で外へ発散することを妨げる。そのためこういうひとは、その場その場の刺激によって生きかたまで変えるということにほならない。そのときどきの感情や衝動は心のなかでもとからの執念とむすびついてこれを養い、かえってその深さ、広がり、持続性、及びカを増すことになる。
さらに外部の事情から抑制が加えられた場合には、この事態はなお一層助長されうる。環境が許さぬために志をえられぬ場合、行動性の強いひとは正面から外部の障害物と戦うが、内気なひとはそれがしにくいから、内部の感情や衝動は外へ表現されぬまま、その志ほ心のなかでますます大きな場所を占め、いっそうカを増し、いわゆる固定観念、「過価観念」の性格をおびてくる。
「抑制的な性格構造」を持っていると、その時々の感情を素直に表すことが出来ず、内向する感情はうちなる執念と結びつき、それを養い育て肥大させると美恵子はいうのだが、これは一彦と美恵子の恋愛感情にそのまま当てはまるのだ。
「過価観念」の形成は、外部に障害がある場合に一層強くなると彼女はいう。美恵子は、こう書きながら二人の前に障害として立ちはだかった母親を思い出したのだろう。母は、一彦には直接行動に出ないことを約束させ、娘には本気にならないことを誓わせていた。美恵子は、こうした「障害」が二人の愛を加速させたと分析するようになった。
美恵子の「抑制的な性格」は、その感情の強さ、激しさをコントロールするためだった。「神谷美恵子日記」には、そのへんの記述が至るところにある。彼女は自分のことを「女であって<怪物>に生まれついた」人間と言い、「女学校時代の活動的な、思い上がった、知識欲の悪鬼にとりつかれた自分」と言い、「私は結局どうしてもまとまることのできない人間なのだ。常にいくつもの本能、相調和し得ない本能の間の闘争のために八つ裂きになるべく運命づけられている人間」だと言う。
夫の神谷伸郎も、「遍歴」のあとがきで、美恵子が自分を仕事に駆り立てる内発的な衝動のことを「オニ」と呼んでいたと語り、「一匹だけのオニならまだしも、自分の頭のなかにはオニが何匹もいる」という妻の言葉を紹介している。
美恵子は仕事にとりつかれ、仕事のことで頭をいっぱいにしている自分を冷静に分析する、「しかもそれは<仕事>というよりもむしろ本能的に<仕事欲>なのだから恐ろしい」と。
彼女は悪鬼のような知識欲や仕事欲を抑制して、もう一つの特性である長女的性格をのばそうとした。この性格は、父母の不和が背景になって生まれたものだった。美恵子の両親は、いずれも悪条件の中から苦学して這い上がった経歴の持ち主で、それだけに性格が激しく夫婦間の争いが絶えなかった。
夫婦喧嘩のあげく、真夜中に母親が家を飛び出していくのを見て、彼女は弟妹を守るのは自分の役目だと思った。美恵子は書いている。
「やめて、やめて!」と泣き叫んで母のあとを追う。しかし、すぐ、自分のそばに眠っている妹を起こしてはならぬ、ということに気づいて妹の両耳を覆うようにして声低く泣きじゃくる。幼い者はやがて二人の妹、一人の弟と三人にふえて行った。「お母さんがいなくなるなら、私があなたたちを守ってあげるからね」と私はいつも、できもしないことを心の中でつぶやいていた。これも背のびした「長女的性格」のあらわれである。
美恵子が幼い弟妹を守ろうとしたのは、両親が夫婦喧嘩した時ばかりではなかった。両親が揃って渡米したようなときなど、留守中に母親の代役をつとめるのは彼女だった。だから、弟妹たちは、姉が帰宅すると口々に母に向かってするように彼女に一日の自分の行動を報告したのである。
母は帰国してからも、家を留守にすることが多かったから、美恵子は、弟妹たちの入浴や食事の世話をし、学校の宿題を見てやった。そのため彼女は、女学生の身で「教育心理」の本などを読んで弟妹を教育する指針を得ようと努めた。
彼女の日記。
私はナイチンゲールやジャンヌ・ダルクではない。出来ることならこの使命感から解き放たれて、平凡な静かな、女としての生活を送りたいと思う。私は昔から家にいることが好きで弟妹たちの世話をしたり、台所をしたり、縫い物したりする生活が好きだった。そしてそうした世からかくれた女の生活の尊さを誰よりもよく知っている。
10代も半ばのある日、美恵子は朝日新聞の論説委員をしていた父から親展の封書を受け取っている。開いてみると、父は対等の人間に向かって語るように娘への感謝の言葉を連ねていた。
「君は自分自身個性が強く、我が強いのに、家庭の平和のために自分を抑え、みんなのためにつくしていてくれている。それをぼくはいつもうれしく思っているよ・・・・これからもよろしくたのむ。 父」
芯は情熱的でありながら、それを抑えて長女的な気配りを見せる美恵子は、弟妹ばかりでなく、異性の目にも魅惑的に映った。彼女は、何処に行っても不思議なくらいに男たちから愛慕の情を寄せられている。
女学生時代の美恵子を愛したのは野村一彦や母のお気に入りの山室だけではなかったし、アメリカに留学すると同性の女子学生から嫉妬されるほど男子学生の人気の的になり、東大病院の医局では、美恵子に執心するあまり頭がおかしくなった医局員に病院じゅうを追い回されている。この時には、美恵子は取り乱し、ふるえたり、怒ったり、怒鳴ったりしてすっかりへとへとになってしまった。美恵子は、このあと医局長の指示で「事件」が収まるまで医局を休んでいる。
一生独身を通すという「縛り」の縄を自分にかけた美恵子にとって、男たちから性愛の対象としてみられるのは心外なことだったが、その責任は自分にもあることを彼女は自覚していた。「かいかぶられる私、かいかぶられるような種を与える私、悲しい事だ」「何とかして自分のインチキ性と徹底的に」戦わなければならぬというような文字が日記に散見するし、太田雄三の著書には、「人と自分をさわがせるこの性的魅力をどうしたものか」という美恵子の手記が載っている。
美恵子はまた、「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」と書き、フランス語で「ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン − 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください」と神に謝罪している。
太田雄三によると、美恵子の手記には自身の性格について触れた次のようなものもあるという。
こんな女。母性型と妖婦型を持ち合せ、前者を聖にまでひきあげて見せる事によって人を次々と惹きつけて行く。そして自他共に苦ませる。しかし、結局一人づつとりあげては捨てて行く。迷惑なのはその「他」共。
私の内なる妖婦(ヴァンプ)を分析したら面白いだろうと思う。それは随分いろんなことを説明するだろう。みんなを化かす私の能力、みんなを陶酔させ、私を女神のようにかつがしめるあの妖しい魔力にどれほどエロスの力があずかっているかしれない。それを思うとげっそりする。
しかし一面私はたしかに自分のそうした力をエンジョイしている。あらゆる人間を征服しようとする気持ちがある。征服してもてあそぶのだ。
私の心は今ひくくひくくされている。私は才能と少しばかりの容姿−少なくとも母はこの点を常に強調する−の為に人から甘やかされ、損なわれた女だ。心は傲慢でわがままで冷酷である。そうして男をもてあそんでは投げ棄てる事ばかりくりかえしている。
自分の才能と容姿がのろわしい。平凡な心貧しき女であり度かった。
この手記と、「私を買いかぶって、私について特別のイメージを作り上げ」ている人間として、外国人男性4名を含む12人の男の名前を挙げている手記とを合わせ読んでみると、異性関係で彼女がかなり深い慚愧の念を感じていたことがわかる。この人名簿の筆頭に「一彦さん」とあることにある種の痛ましさを覚える。
美恵子は男たちを迷わせただけでなく、自分も男性に迷わされてもいた。
美恵子の遺族から、彼女の筆になる未刊の手記や日記を読ませてもらった太田雄三は、美恵子が在米中にTという青年に惹かれて、危うく結婚しそうになったことを遠慮がちに記している。それによると、ニューヨークでTと同席したとき、美恵子は「馬鹿馬鹿しいほどの興奮」に襲われ、その後彼と婚約したらしいのである。この婚約は美恵子の女子医専在学中に「円満解消」され、卒業の年には「Tとの結婚話」を半生の「大失敗」に数えるようになった。こうした失敗を体験しながら、彼女は一生独身という自分に課した「縛り」から少しずつ解き放たれて行くのだ。
5 神谷伸郎との結婚の前年(31才)、美恵子は自分の矛盾した性格をいくつもの項目に分類してドイツ語で表記している。
自己主張 − 献身
強い自己感情 − 不足感
虚栄心 − 人見知り
倫理的行動欲 − 審美的観照と享受
宗教的合体 − 論理的欲求・認識欲
性欲に対する嫌悪・抑制および昇華への欲求 − 旺盛な性欲
美恵子は、この各項目についてその一方を抑圧して倫理的・宗教的な生き方をしてきた。最初の項目では、自己主張を抑えて献身を実現しようとし、最後の項目では「旺盛な性欲」を抑圧して「性欲に対する嫌悪・抑制および昇華への欲求」を実現しようとしてきたのだ。だが、抑制したはずの要素が絶えず頭をもたげてくるので、彼女は自己嫌悪に襲われ、虚無的にもなっていたのである。
美恵子の自己嫌悪がいかに激しかったかは、「私の様なでたらめな頭と心情の人間にこれ(注・神)がなかったら狂い死する他ないだろう」という手記や、「必要以上に女っぽい体と心情のなかに置かれた飽くことなき知的欲望、荒々しく烈しい熱情、そして本質的のものにしか惹かれない心 − 女として何という<怪物>だろう」という日記、さらに自分は分裂気質と循環気質を併せ持つ「きちがい」だとした自己分析などを見れば分かる。
しかし、こうした自己分裂は、次第に解消されていった。彼女は自分が奇形的人間であるとしたら、そうでない人間になろうとしてあがくのではなく、奇形的人間は奇形的人間らしく正直に生きるべきではないかと考えるようになる。
その後も彼女は、烈しい自己嫌悪に襲われることがあったが、大体において自己否定から自己肯定への路線を歩み続け、ついに神谷伸郎との結婚に踏み切るのだ。
伸郎への愛を肯定するようになったときの美恵子の日記は注目に値する。
男と女の愛というもののふしぎさ。全く未知の世界にさまよい出てただただ驚き、恥じ入り(自分に対して)、そしてしびれるような喜悦に身をおののかせている。男の人の愛に対してもう拒まなくてもいい、自分に対してもさからわなくてもいい、と言うことは何という夢のような事だろう。
この最後の2行は、美恵子が「縛り」からほぼ解き放たれたことを示している。彼女はその開放感に半ば自失しているように見える。
生まれて初めて私は現実の恋を知ったやうに思ふ。生まれて初めて私は一人の男性に向って愛を乞い度いやうな気持になってゐる自分を発見する。神様、この我の強い女を漸くうちのめさうとしてあの人をつかはし給うたのですか。今こそ私は正にうちのめされやうとしてゐる。何もかもかなぐりすてゝ彼のあはれみを乞はうとしている。誰がこんなことを予想し得ただろう。
神谷伸郎は、美恵子の終生の親友浦口真左が愛していた生物学者で、美恵子は二人の仲を取り持とうとしたこともあった。神谷伸郎と浦口真左は、ペンシルヴェニア大学の狭い植物学教室分室で二人きりで毎日研究しており、その現場を美恵子が訪ねたこともある。その時、美恵子は伸郎と浦口真左が結婚することになるだろう、そうなればいいなと思って、父に伸郎の気持ちを確かめてもらったのだ。父からの報告で、伸郎にその気持ちがないと知った美恵子は、「可哀そうな真左さん」と手記に記している。
その神谷伸郎との間に縁談が持ち上がったとき、美恵子は浦口真左に相談して彼女からの祝福を受け、結婚に踏み切ったのである。彼女は10年前を振り返り、野村一彦のことを思い出している。
曾ては人の世を捨て、すべての女としての希望を捨て、この同じ天と地の間に冬枯れの草の如くたたずんでいた自分が、今は初春のいぶきに総身をはずませつつここに立っている。同じ人間が十年の間にこんなに変れるものだろうか。人間はこの世に生まれてからも何度も新生を経るものなのだろか。ふしぎな事だ。しかし今、自分は何の矛盾も、苦しみもなくあの惨憺たる年月をかえりみる事が出来る。そうしてあの時はあの時として、この時はこの時としてそのまま肯定出来る。そのいずれをも感謝する事が出来る。
しかし、一度ああいうところを経た人間には、何処かちがった処がなくてはならない。一度世を捨てた人間は。
なくなった恋人野村一彦に関連して、自分に厳しい「縛り」をかけていた美恵子が、今や「あの時はあの時」「この時はこの時」と過去と現在の双方を肯定するようになっている。そして「涙の谷」をさまよっていた過去を、現在と同じように感謝すべきものと考えている。彼女は生きがい喪失の泥沼から抜け出て、再生の道を歩み始めたのである。
40代後半の美恵子
知識欲の悪鬼にとりつかれて、「いつでも何かに向かって泣きそうな努力を重ねてきた」美恵子は、結婚後にゆとりを取り戻して自己の体験をもとに「生きがいについて」を書き上げた。
これは古い自分を乗り越えて、より広い世界に進み出た女性の告白の書であった。少女の頃から作家を目指していた美恵子は、小説の代わりにこうした形で精神の自伝を書き残したのである。
6 「生きがいについて」(神谷美恵子)を読んだのは何時のことだったか、とにかく、一読してこれはいい本だと思った。
はじめは、下記のような威勢のいい一節に惹かれてよんでいたのである。
社会的にどんなに立派にやっているひとでも、自己に対してあわせる顔のないひとは次第に自己と対面することを避けるようになる。心の日記もつけられなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなる。たとえ心の深いところでうめき声がしても、それに耳をかすのは苦しいから、生活をますます忙しくして、これをきかぬふりをするようになる。
だが、本当に感心したのは、生きがいを喪失した人間の再生について書かれている後半の部分だった。
一人息子の成長を生きがいにしていた母親が、交通事故で息子を亡くしてしまったらどうなるか、さらに不治の業病とされていたハンセン病になって離れ小島に隔離されてしまったらどうなるか。死刑判決を受けて明日をもしれぬ身になった囚人はどうなるのか、著者はそうした大変むづかしい問題を俎上に乗せて検討を加えている。
著者は、最愛の娘が精薄児であると知ったときのパール・バックを例にあげて、そうした人々の内面を描写する。パール・バックの手記。
一切のものに喜びはなくなってしまいます。すべての人と人の関係は意味のないものになり、あらゆるものが意味を失ってしまうのです。風景とか、花とか、音楽とか、私が前に喜びを見出したものも、すべて空虚なものになってしまいます。
次に死刑囚の手記を取り上げて以下のような注釈を付ける。
死に直面したひとの心に必ずといっていいほどよくみられるものは、すべてのものへの「遠のき」の現象である。世界が幕一枚へだてたむこうにみえるというとき、そのひとはすでにみんなの住む世界からはじき出されて、べつの世界から世をみている。
ライ患者については、著者はこう語るのだ。
たとえば「らい」にかかったびとは、自己の肉体に対して強い嫌悪の念を抱いているのがよく観察される。足の指が欠損して、うまく草履のはけないびとが少なくない。そんなとき「肉体に侮辱されているような気がします」と彼らはいう。しかもなお、「らい」という病気そのものはひとを死に至らしめることはほとんどないので、この肉体の生きている限り、かれらは生きて行かなくてはならない。
また愛する者に死なれたひとは、もう生きて行きたないと思うような悲歎のどん底にあっても、なお自分の肉体が食物を欲することを悲しむ。このように、生きがいをうしなったひとはいわば肉体にびきずられて生きて行く存在である。「生ける屍]とはこのことをいうのであろう。
生きがいを失い、毎日の生活に何の目標もなくなると、時間がガラッと変質してしまう。単に昼夜の別、食事の時間などがあるだけの砂漠のような無構造な時間になるのである。
続いて著者は、苦しみや悲しみについても考察する。
苦しみにおいては何かしら動いているものがある。これに反し、悲しみの世界では、もはやひとは抵抗することもやめ、あがきからも身を引いている。もがくことをやめた瞬間に、悲しみは潮のように流れ出て心のなかのあらゆるものにしみわたり、外界にみえるものまですべてを哀愁の色に染めてしまう。そこにはもだえやあせりの態勢にはみられない統一と諦観のしずかな美しさ
ある。苦しみは精神の一部しか占めないことが多いが、悲しみは一層生命の基盤にちかいところに根をおき、したがってその影響は肉体と精神全体にひろがって行く。ゆえに深い悲しみにおそわれたひとは、何をすることも考えることもできなくなってしまう。
苦しみはまだ生命へのあがきといえるが、悲しみは生命の流れそのものがとどこおり始めたことを意味する。
「生きがいについて」は、生きがいを喪失した人間、悲しみに沈む人間が立ち直って、再び生きがいを獲得するまでの過程を描く。著者は自らの信仰をバックにその委細を語っていくのだが、ここでは死に対する恐れから抜け出す方法についてだけ紹介しておこう。著者によれば、人が死を恐れ、死に嫌悪の情を抱くのは、日常的に「死・・・回避的挙動」に熱中しているためで、このような防衛的態勢を一切止めてしまえば死との融和が成立するという。
死を受け入れ、死に対する防衛的配慮が必要でなくなったときに、はじめて人は自由になる。もはやあらゆる虚飾は不要となり、人は本当にしたいことだけをしていればよくなる。こうなって、はじめて純粋な喜びを感じ、生きがいを再生させることが出来るのである。
愛するものを失った悲しみも、静かに耐えているうちに残された者の心の質を変えていく。以前より心がやわらかに、こまやかに、ひろやかになるのだ。
配偶者と死別した後に再婚した人間、ひとたび家庭がこわれるのを経験した人間は、そうした体験をしなかった人間よりも謙虚になり、感謝の心を知るようになる。
苦しみや悲しみに耐えているうちに、人は自分一個の感情にのみ囚われている状態から抜け出て、世界のいたるところに自分と同じ悩みを抱く人間のいることに気づく。そして悲哀のただなかにおいて、自分はこれらの人々とともにあると感じるようになる。すべての人間の心は深いところで繋がっているのであり、自分の生は全人類の生の一部なのだ。
「生きがいについて」には、さまざまな文献から引用した豊富な事例が載っている。そのなかで感動的だったのは、シンガポールで戦犯として処刑された学徒兵の遺書だった。
「私は死刑を宣告された。誰がこれを予測したであろう。年齢三十にならず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命…‥しかし、これも運命の命ずるところと知ったとき、最後の諦観が湧いてきた。まったく無意味のように見える私の死も、大きな世界史の命ずるところと感知するのである。
日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難の真っ只中に負けたのである。日本がこれまでにあえてしてきた数かぎりない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今、私は世界人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。
この学徒兵は、自分の死を「世界人類の気晴らし」として、人類に対する謝罪のための供物として捧げようとしている。そして、そのことで日本への世界各国の憎しみを和らげ、将来の日本の礎になろうとしている。性懲りもなく靖国神社参拝をやって近隣諸国の怒りをかき立てているこの国の首相に、一度この遺書を読ませてやりたいと思う。
生きがいを喪失した人間は不幸である。だが、そうした体験をした人間だけに与えられる恩恵もある。精神的世界の形成がそれである。
人は目が二つあるから、ものの奥行きを認識できる。二つの異なる角度から同じものを見ているから、自分と対象との距離もわかり、物体そのものの奥行きも明らかになる。同様に、人の心に二つの自我があれば、「心の複眼視」によって外界を正確に把握することが出来る。
人の心に成立する二つの自我とは、現実に密着している日常的・習俗的自我と、生きがいの喪失によって生まれた虚無的な自我で、この両者が組み合わさることで精神の世界が成立する。精神は、現実から離れたところに身をおき、そこから世界を眺めることによって現実を把握する。つまり、精神は超越によって現実を捉えるのである。
「心の複眼視」によって、人は個人感情を超え、自己の属する文化を越え、人類共通の普遍的世界に到達する。原始的な恐怖や不安に対する防衛として始まった宗教も、「心の複眼視」によって進歩していく。現世利益を求める「請願態」から、倫理的社会的理想を求める「希求態」に進化し、最後に愛と平和のうちにやすらぐ「諦住態」に到達するのである。
著者が、生きがい喪失のもたらす福音として最後に「変革体験」をあげている。これは人間を根本的に変えてしまう体験を総称したもので、宗教的体験・神秘体験などを含んでいる。
劣等感や罪障感にとりつかれ、自己嫌悪の泥沼に沈んでいた人間も、「変革体験」によって生きる資格を与えられたと感じる。そして、自己をあるがままの姿で大きな力にゆだねる気持ちになる。彼は自分が宇宙万物を支えている力によって存在し、その力がいま自分の内部にも働いていると感じる。
著者はつづいて、変革体験後のよろこびを、次のように声高らかにうたいあげる。
死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじき出されたひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。ものの本質をさぐり、考え、学び、理解するよろこび。自然界の、かぎりなくゆたかな形や色や音をこまかく味わいとるよろこび。
こうしたものこそすべてのひとにひらかれている、まじり気のないよろこびで、たとえ盲であっても、肢体不自由であっても、少なくともそのどれかは決してうばわれぬものであり、人間としてもっとも大切にするに足るものではなかったか。
変革体験によって、人間の頭脳が考えだす知恵の限界を知ってしまった者は、理想に従って社会改革に努力してみても、その成果の範囲はかぎられていることを知るようになる。
彼は与えられた現実世界をどう変えるかということよりも、どう受け取るかということのほうが重要だと承知しながら、なお理想を追求し、社会改良のために努力しないではおれない。それは、いわば彼の生きる超現世的な心の世界から自然に流露するもので、従ってそこには自然な何気なさがある。どこか子供の遊びに似た無償性がある。
神谷美恵子の「生きがいについて」は、今も多くの人に読み継がれている。
それは、著者が、苦しみの向こうに光に満ちた世界があること、「変革体験」によって人格が根底から変わることをすぐれた文体で説き示しているからである。子供の頃、母親の代わりにその代役をつとめた彼女は、敗戦後、父が文部大臣になると、父を助けて進駐軍との通訳や英文書作成に当たっている。結婚してからは、家計を助けるために語学の私塾を開き、大学の語学講師になった。彼女は肉親のためばかりでなく、身の回りの有名無名の人々への助力も惜しまなかった。
彼女には、やりたいことがいっぱいあり、読みたい本が山ほどあった。にもかかわらず、火のつくような内なる渇望を抑えて、彼女にとって半ば無意味と思われるそれらの仕事に誠心誠意当たっている。自分の時間を無駄にすることは、身を切られるほどつらいことだったであろうに。この点だけでも、われわれは彼女に敬意を払わないでは居られないのである。
私は、神谷恵美子の生涯をたどってみて、彼女は結核医になって患者の治療に当たるかたわら、少女時代から夢見ていた作家になるべきではなかったかという気がする。彼女の恋人だった野村一彦は結核で死んだのだし、彼女自身も結核になっている。女子医専を卒業するとき、彼女は第一候補として結核医になることを考えてもいる。時代的要請という点では、ハンセン病の専門医になるよりも結核の専門医になる方が重要だったのである。
富士見高原療養所で結核治療に当たりながら、作家としても活躍した正木不如丘という先例もある。しかし彼女は精神医になり、愛生園に戻っていった。神谷美恵子は、正木不如丘式の静かな生活に惹かれながらも、結局、身を焼くような烈しい生活を選んだのだった。
追記 この項は、別項の「三島由紀夫」と同様、パソコン通信niftyフォーラム上での書き込みを母体にして生まれたものだ。同じフォーラムに属している何人もの会員と議論を重ねているうちに、こうした内容になったのである。
議論のそもそもの発端は、三浦綾子をどう評価するかということだった。それが神谷美恵子論に発展したのは、フォーラムには福祉職にかかわっている会員を始め、神谷美恵子に関心を持つ会員が多かったからだ。
「神谷美恵子の青春」という記事をこのHPに掲載して一段落ついた後にも、フォーラムには笛吹童子と名乗る未知の方の書き込みがあり、これが機縁になって私は氏とメールの交換をするようになった。
笛吹童子こと柳沢正臣さんはコミュニケーションに関する貴重な意見をお持ちだし、氏のHPは誰にとっても興味のあるコンテンツに溢れている。それらを紹介しながら、氏との交流の一部をここに転載すれば、平板な文章の羅列からなる私のHPにも、いささかの光彩を添えることになるかも知れない。往復書簡のような形で、以下の文章をここに加えたのは、そうした虫のいい目論見からでもある。
柳沢さんも、ご自分のHPに「画面を通して」という項目を設けて、これと同じ内容を掲載されている。この項目についての氏の解説は次のようになっている。
以下には、古机さんというハンドルネームの方とのやり取りがあります。神谷美恵子さん、中野孝次氏の二人の青春について論じた古机さんのホームページに刺激を受けたこと、そして仮想空間での議論のあり方などを巡り論じたものです。
このやり取りから発展して「画面を通して」という項目ができたのです。読んでいただければ、その経緯がお判りになると思います。
なお、「画面を通して」には、柳沢さんと秦恒平氏との間に交わされた往復書簡も収められている。秦氏は、柳沢さんについて「一昨年から英国に暮らしている壮年の人のようで、開いてみたホームページは、瀟洒に美しく創られていて、日本語が優れて正確である」と紹介され、その「徹頭徹尾明晰な観想」を賞賛されている。
(以下の文中に「古机」とあるのは、私のハンドルネーム) 古机さま
いつも書斎フォーラムでお書きになるものを拝見しております。私は読むだけで全く発言をしていないのですが、時々投稿される高い調べの文章にいつも感心し、どのような方かと思っていました。今後も期待していますと、激励の発言を載せようかと思うこともありましたが、不精にしてそれもしないでおりました。
たまたま神谷美恵子さんのお話があり、その中で御自分のホームページに触れられていたので、思い当たるキーワードを使ってグーグルで検索して、お作りになったホームページ*に辿りついたのです。2日掛かりで、じっくり読ませていただきました。拝読して、お書きになるものの背後には、このような軌跡があったのかと納得した気持ちになりました。それで漸く発言をしようという気持ちになったのです。*http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/
* 特に神谷美恵子さんの青春について、彼女の「自己嫌悪」を核に充実した分析をなさっている論考には、多くのことを教えられました。野村一彦とのいきさつなどは、初めて知ることでした(彼女が自分を実際以上に評価している異性の人をあげ、その筆頭に「一彦さん」とあることにある種の痛ましさを覚える、との古机さんの記述、同じ思いを持ちます)。
私が以前神谷さんのものを読んで強い印象を受けたのは、蘇りのことです。生きがいを喪失した人が立ち直って、再び生きがいを獲得する、その叙述を感動して読んだ覚えがあります。
黒澤明の映画「生きる」の主人公の行動も、神谷さんの記述と通うものがあります。30年間無欠勤で働いてきたある市の市民課長は、実は本当に仕事をしているのではなく、単に時間をつぶしているだけで、本当に生きることをしてこなかった。しかしある時に自分が胃癌とわかって、死ぬまでの5ヶ月を精一杯生きた物語です。当初の落胆、放縦の期間、苦しみもがいて生きる証を求める期間、そして最後を充実させようとする期間、これは神谷美恵子さんの本にある、人が死を宣告されたときの行動類型の通りです。
「深い認識や観照や思索のためには、よろこびよりもむしろ苦しみや悲しみのほうが寄与するところが大きいと思われる。」と神谷さんは書いています。挫折を経験することにより、人は深いものになっていきます。そのような経験をしないと、ともすると傲慢になります(もっとも順風満帆の人生を送った人などいないというのも事実ですが)。
* 中野孝次の青春も、考えさせられるものでした。彼の青春三部作とも言える『ブリューゲルへの旅』『麦熟るる日に』『苦い夏』を、柴田翔の『されどわれらが日々』『立ち尽くす明日』『贈る言葉』などとともに(実際二人は同じ東大独文の出身ですが)、熱心に読んだ記憶があります。
彼は専検の出身ですが、そのことは『麦熟るる日に』に正直に書いてあります。三部作を通読す驍ニ、大工の息子であることを痛切に感じています。熊本の五高の時であったか、友人がレコードでモーツァルトであったかを彼に聞かせてくれ、そのような世界こそが彼の求めているものであると書いたくだりがあったと記憶しています。山の手の教養主義や文化への憧れは、彼の出自の故もあり、ことさら強いものであったと思われます。
しかし、それをあえて指摘するのはやや酷かもしれません。私の職場にも商業高校経由で一橋大学を卒業した課長がいました。彼には何処か頑なで教条主義的な部分があり、彼に仕える友人はそれに辟易していたのですが、ある日課長のそのような出自を見つけて得心がいったと、私に語ったのを覚えています。私も隣の課にいて、その課長に対しては友人と全く同じ見方をしていたので、「商業」という言葉で全ての説明がついたと思ったものです。
けれども人には事情があります。今になれば自分達は思い上がっていたのではないかと反省します。「本学本学部」などという言葉を使う者もいました。たまに会うと「本学本学部」以外の人間は我々の想像もしないような捻じ曲がった解釈をして我々を見ているので、言動には気を付けた方が良い、などと語っていたのを覚えています。これは順調に育った若者の気負いであったとはいえ、思慮の足りない発言であると思います。すべての家庭が、神谷家や野村家などのように、教養ありのびやかで知的な家庭ではないのです。そのような事情への想像力が必要だったのです。
* ともあれ古机さんのお書きになったものを拝見して、その感想を投稿しようという気になりました。貴重な刺激を与えてくださったことに御礼申し上げます。
(仮想空間で考えを共有しあうためのフォーラムは、主流がホームページに移行すると、その活動が次第に低調になっていきます。かといって、ホームページに移行しても、特定のホームページを見る人の数はフォーラムほどには多くないので、活発な議論の展開が限られます。これはどうしたら良いのでしょうかね。)
笛吹童子(柳沢)
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笛吹童子さん、こんにちは。
笛吹童子というハンドルネームを付けた理由は、古楽器を演奏されるからですね。HPを拝見すると、笛吹童子さんは恐るべきマルチ人間です。ロンドン在住の金融マンという本業以外に、多彩な能力をお持ちで驚きましたよ。
会社の休暇を利用して、イタリアに飛んで、そこで世界各地から集まった音楽愛好家と合奏したり、と思うと蒙古で仕事をしたり、行動半径もきわめて広いですね。
「読書半径」という言葉があるとしたら、これも大きい。鴎外を読むかと思えば、漢詩を愛し、英語の詩を翻訳し、江戸時代の随筆を渉猟する。
その笛吹童子さんが小生の拙文に目をとめられ、懇篤な感想を述べていただいたことに感謝しています。特に、神谷美恵子の「自己嫌悪」に注目してくれたことはありがたかったですよ。
神谷美恵子は屈折した内面を持ちこたえて行った点で、女性には珍しいタイプです。どんなに複雑に見える女性でも、その内面は意外にすっきりしていて、その性格を読み解くことはさほど困難ではありません。
ところが、神谷美恵子は幾重にも屈折した感情を力業で抑え込んで、さりげなく暮らしていたため、その性格をとらえることは容易ではありません。叔父の金沢牧師に対する態度、野村一彦に対する態度、母に対する態度、どれをとっても単純ではなかった。
男性の場合なら、森鴎外でも漱石でも、多くの著作家が屈折したものを抱え込んでいます。鴎外・漱石の国家権力や文壇に対する態度は実に複雑でした。しかし、女流作家となると、樋口一葉にしろ与謝野晶子にしろ、国家や文壇に対してストレートな態度を取っています。迷いがありません。
屈折したものを抱え込んでいるという点では、専検出身者も同じですね。恵まれた環境に育ち、本流をスムースに通ってきた人間には傍系の人間の内面が分かりません。何時か、絵の展覧会に行ったら、高校生が二人連れで作品を見ながら話をしていました。一方の高校生が何か説明するのに対して、聞いていた高校生が、「オレ、工業高校だから、そういうことをちっとも知らないんだ」と残念そうに言うのが耳に入ってきました。
旧制高校に入学した中野孝次の無念さは、この工業高校生の無念さに似ているかもしれません。育ちのいい学生が、自然に流露させる教養の香りを、自分は後から追いかけて作り出して行かなければならない無念さ、エマネイトする仲間に対してクリエイトしなければならない人間の無念さ、というようなものですかね。
屈折したものをため込み、暗い情念で心をいっぱいにしているからこそ、人は明るい世界、素直に生きられる場を求めるともいえます。中島敦の「李陵」「牛人」などを読むと古代史の暗さや人間世の悪意といったものが身に迫って感じられます。だからこそ、歴史はそうしたものを乗り越えて、明るい方向を目指すのでしょう。
日本人は悲惨な戦争を体験したから、戦後、平和主義を国是にするようになった。人類史が国際協調や自然保護への歩みを着実に進めているのも、生命にはそうした暗さを克服する向日性があるからですね。
幸運に恵まれた人間は、人類愛・世界愛へと向かう生命の流れになかなか気づかない。しかし、不幸な人間、苦しんでいる人間は、その不幸や苦しみを通して光の世界を感知します。神谷美恵子が「生きがいについて」で言おうとしていることは、そういうことだと思います。
古机
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柳沢正臣様
ニフティー書斎フォーラムに寄稿されたメッセージ、ありがたく読みました。パソ通は、年々、寂れていくばかりで、書き込みも質量共に減ってきています。昔、盛んに意見を取り交わして会員も、「もう、やーめた」というメールをくれたりして心淋しく思っていたところ、柳沢さんのような方がまだ残っていてくれると知って元気が出ましたよ。
柳沢さんのHPを読んで、小生が一番面白かったのは合奏仲間が集まって練習したり、会食したりする場面を描いたところでした。こういう世界もあるのだな、そして自分はこうした世界を体験することなく死んでいくのだなと思いました。その思いは、小生だけでなく柳沢さんのHPをのぞいた者がすべて感じることにちがいありません。
柳沢さんのHPは、まだ工事半ばのようです。これから、時々、そちらのHPを覗いて、工事の進捗状態を確かめる所存ですので、よろしくお願いします。
古机
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古机さま
フォーラムでのコメント及び今回のお便りを有難う御座いました。
ニフティーのフォーラムはインターネットに移行していますが、そこでの議論は、書斎フォーラムに限らず、パソコン通信の時代に比べてかなり低調です。それで前回の投稿の末尾にそのことを書き、活発な議論の展開をするためにはどうしたら良いのかと、問いかけをしたのでした。私信という形で、それへのご返事を戴きとても感謝しています。
* お便りを戴き、議論の場についてもう一度考えてみました。突き詰めていくと、別にフォーラムで活発な議論が展開されなくてもよいのです。利己的ですが、自分が刺激を受け、何かを発信し、又それに有意義な反応が得られる場であれば、どこでも構わないのです。それがどこに在るのかがわからないので、皆さんに教えて貰いたかったのですね。そのような場が、仮想空間のどこにあるのでしょうか。
今となっては、パソコン通信(私はワープロ通信で始めたのですが)の時に作られたフォーラムは、時代遅れとなっているでしょう。それでも何か興味あることが出ていないかと思って、未だに書斎フォーラムや音楽フォーラムなどを徘徊しているのですが、見る限り、退勢を覆すことはできないと思われます。
ではインターネットはどうかというと、ニフティーはフォーラムをそちらに移行し、これまでの参加者を確保しつつ、新規の参加者を獲得しようとしていますが、それほど活発ではないような気がします。大規模なプロバイダーの運営するものでも、このような状況です。
まして個人が作るホームページは、世界に開かれているとはいえ、そのアドレスを知らなくてはならないので、参加者は限られるでしょう(尤も著名な人のサイトであれば、かなり活発な議論があるかもしれません)。それで今は多くの参加者を想定した公開討論の場が、一時的になくなった状態であると思っています。
ブログというものが出てきましたが、どのように発展するかは、まだ良くわかりません。
* しかし最終的に求めるものが、多くの読者の共感を得るものではなく、数は少なくとも満足すべき対話であるとすれば、そのような場はフォーラムに限られないでしょう。上に述べた利己的な欲求を満足させられる所であれば、どこでも構わないのです。個人が知的刺激を受け、自分の意見に対する反応に喜びを感ずることができるような場は、外にもあるはずです。
一つはメーリング・リストでしょう。私は、既にできているメーリングリストに参加したことはありませんが、友人や知り合いで幾つか擬似メーリングリストをしています。その仲間を一まとめにして、参加者は同一内容で全員に発信し、受けた方も返事を全員に返すというやりで、5年ほど続けています。まあ、公開お手紙ごっこというか、その昔の回覧ノートのようなものです。個人の便りが届けば嬉しいのは人情で、このようなものに折々発信していると、10回に一度位は返信があり、それなりに励みになります。
私のホームページに載せた文章も、そのような形のものを元にしたものがあります。少数とはいえ読んでくれる人のことを念頭に置けば、書くものには筋が通ってきます。
* ただ全員が同じように反応を返すかといえば、どこにも幽霊部員はいるもので、全く音沙汰なしのメンバーも出てきます。読んではいるのですが、私の同世代はまだ現役で忙しくしていて、当方の長いものにお付き合いする暇はまだ無いのも事実です(本当のことを言えば、長い職業人生の間に、その職業の機能部品となり、語るべき自分の言葉を失ってしまったのではないかと思っていますが)。
このような事情が長く続くと、戦略を練り直すことも必要になります。返事があろうがなかろうが根気強く発信し続けなくてはいけないとは承知していますが、新規開拓も大切と考えるようになりました。それも同じような関心を持つ人を広く探そうと考えたのです。ウランの濃縮度が高ければ活発な核反応が起きるように、対象を見極めた新規開拓をしようと思い至りました。
* そこから内容の充実したサイトの運営者には直接連絡を取って見ようという考えが出てきたのです。書斎フォーラムに投稿し、古机さんにお手紙を差し上げたのも、実はそのような気持ちがあったからです。一種のマーケティングですね。
もう一つ、朝日新聞に自分の書いたものを送る、ということもしてみました。イラクへの自衛隊の派遣について論説委員が書いていて、ちょうどそのことを考えていたので、纏めたものを年末にメールで送ったのです(こちらの書いたものはホームページの「日々の随想2」にあります。ご興味があればご覧下さい)。
* さて、その結果どうなったかです。発信してみれば、何らかの反応があるものです。
朝日に投稿すると、その翌日に論説を書いた高成田享氏から直接返事が来て、年が明けてから、朝日インターネット・キャスターというところの読者投稿欄に、彼の返事と共に掲載されました(週変わりで、もう残っていないかもしれません)。冷静に考えれば、自分も昔からいる投稿好きの一人ということでしょうが、嬉しいものです。
そして、今日古机さんから丁寧なご返事を戴いたのです。やはり投稿をして(併せてお便りも差し上げましたが)良かったと思います。議論というほどの大袈裟なものではありませんが、こうやってお話ができることは大変有り難いことです。
最初のお話に戻れば、少し努力が必要ですが、議論の場は探せばありそうだというのが、結論になるでしょうか。
* 長くなりました。今後も古机さんのホームページを拝見させていただき、刺激を頂戴したいと思います。当方のものは、不出来ではありますが、少しずつでも手を入れていきたいと思っています。時々督励を戴ければ幸いです。
(戴いたお便りの中にあった、色々な世界がありそれを知ることなく人生を終えるというお話については、又折を見てお便りをすることができればと思っています。)
お手紙に御礼申し上げます。
柳沢
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古机さま
その後お変わり御座いませんか。今日はご了承をいただきたくてメールを差し上げました。
先般は、古机さんとのやり取りにより、大きな刺激を戴きました。それで自分のホームページも活用次第では、私にとっては積極的な発信の場、そして訪れる人にとっては新たな議論の場となりうるのではないかと考えたのです。それで私のホームページで、古机さんのお便りとお作りになったホームページのURLを紹介させていただきたいのです。
具体的には、ホームページに「画面を通して」と題する項目を設け、こちらの発信と戴いたお便りのうち了解を得たものとを、順次掲示することを考えています。古机さんが神谷美恵子さん及び中野孝次氏の青春を論じられ、それに触発され当方がお手紙を差し上げ、それに又反応をいただいたやり取りは、この項目の最初にふさわしい材料になるのではないかと考えました(末尾にやり取りをつけてあります)。
願わくば、今後ここを、節度を持ちつつも見る人の心をゆすってみる場としていきたいと思っています。それを読んだ方々と、更に個別のメールや、掲示板への書き込みで、やり取りが続くこともあるでしょう。それも又この項目に取り込んで見たいと思っています。
書斎フォーラムという半ば公開の場に書かれた発言だけでなく、個人宛に戴いたメールを含むので、まずは掲載のお願いをする次第です。又、変更が必要であれば末尾のものを使って手直しをいただければ幸甚に存じます(何やら、俄か編集者のような気分です)。
柳沢
柳沢正臣さんのHP http://homepage3.nifty.com/willowbrook/