第一の現実 1 古本屋の百円コーナーで手に入れた「石の来歴」という本が面白かったので、著者奥泉光の本を探しに出かけた。すると、最初の店に彼の「グランド・ミステリー」が並んでいた。物事がこんなふうにトントン拍子で運ぶのは珍しい。古本屋に出かけて、お目当ての本にぶつかるのは、極めて希なことなのである。
「グランド・ミステリー」は、なかなかの大作である。「石の来歴」でもそうだったが、著者はまず、作品に関係のある参考文献を徹底的に読みこなし、その方面の専門家になることから仕事を始める。「グランド・ミステリー」は、戦時下の日本を舞台にした作品だから、彼は最初に大量の戦記物を読み、太平洋戦争の委細に通じた後に小説に着手している。
本を開いたら、冒頭に「主な登場人物」の名前が列挙してあった。何しろ1600枚もある長編なので、読者の便を考えて出版社側でこうした配慮をしたのだが、そこに13人もの海軍軍人の名前が列挙されているのを見てげんなりしてしまった。
読み出してみると、最初の章は真珠湾に奇襲攻撃を掛ける潜水艦と航空母艦が舞台になっている。戦記仕立ての小説は好まないはずなのに、次第に作品に引き込まれていったのは不思議だった。奥泉光という作家は、19世紀的といってもいいほどの手堅いリアリズムで作品を書き進める。作品に引き込まれたのは、登場人物が等身大に描かれ、背景になる艦内の様子もピントのあったモノクロ写真のように正確に描写されているからだろう。
こうした手堅い筆法は小説の舞台が内地に移り、二人の美女や弁護士・老教授などが現れるようになってからも続く。ところが、物語が後半に入ってくると、ピントがぴたりと合っていた作品世界に少しずつズレが生まれてくるのだ。真珠湾攻撃当日に毒殺されたはずの海軍大尉がミッドウエー海戦の航空母艦上に再び生きた姿を現したり、戦争中は独身を通したはずの娘が、結婚していて戦争未亡人になって出現したりする。読んでいると、ダブルフォーカスの写真を見るように、頭が混乱してくるのである。
作者は、こうした二重世界を第一の現実と第二の現実という言葉で説明する。海軍兵学校でクラスヘッドだった超能力者の昆布谷は、現在進行中の出来事をすでに過去に体験してしまっている。彼は戦争が始まる前から、日本が真珠湾に奇襲攻撃を掛け、とどのつまり敗北することを知っている。超能力者の昆布谷が記憶している過去が第一の現実で、海軍大尉が真珠湾攻撃当日に毒殺されるのも、娘が戦争中に結婚して未亡人になるのも、この第一の現実世界での出来事なのである。
ところが、登場人物たちの体験する現在は、超能力者の見た第一の現実と重なりながら、細部で微妙に変化している。これが第二の現実なのである。読者は読み進んでいくうちに、どれが第一の現実で、どれが第二の現実か分からなくなる。そして、第一の現実も第二の現実も、両方とも夢幻の世界の出来事ではないかと錯覚し始める。この錯覚は更に進んで、自分が今生きているこの世界も夢幻の世界ではないかというところまで行ってしまう。
われわれが今生きている世界を非現実と感じさせてしまうところが、著者の力量である。
こうして作品は、読者を幻惑したまま終わる。
この作品は、昭和9年に起きた水雷艇「夕鶴」の爆沈事故の謎を解き、真珠湾奇襲当日海軍大尉を毒殺した犯人を探す「ミステリー」という形式を取っている。そして、最後に爆沈事故の謎も、海軍大尉を毒殺した犯人も明らかになる。にもかかわらず、第一の現実と第二の現実のズレは埋まらないままのこり、読者の戸惑いは依然続くのである。作者は、読者の期待に応えることをしないで、謎を謎として残したまま作品を突き放してしまうのだ。2 「グランド・ミステリー」を読了してから、酒巻和男の書いたものを探しにかかった。「グランド・ミステリー」には、潜水艦に搭載された特殊潜航艇が真珠湾目指して発進する場面が描かれており、その乗員が米軍にとらえられて捕虜一号になることが記載されている。酒巻和男の「特殊潜航艇発進す」を読めば、「第一の現実」における事実関係が明らかになるはずである。
私たち戦中派は、太平洋戦争の個々の局面について一応の知識を持っている。ガダルカナルやビルマ・フィリピンで日本軍が悪戦苦闘したことを知っているが、戦争中の大本営発表や新聞報道ではポイントが伏せられていたから一向に戦局の実態が捕らえられず、もどかしい思いを感じながら戦時下を生きていたのだ。
先日のNHK・TVでも取り上げていたように、ガダルカナル決戦は、日本軍がアメリカとオーストラリアの連絡線を断つためにガ島に飛行場を建設したことが発端になっている。その飛行場が完成する直前、米軍が島を急襲して飛行場を占拠してしまったから、日本軍はこれを奪回するために次々に兵を投入したのだった。こうした背景を知らなければ、なぜ日米両軍があの島で死闘を繰り返えしたのか理解できない。事実、戦争中、国民はどうしてガダルカナルという小島が激戦地になったのか見当がつかないでいた。
戦後に戦記物が数多く出版されたのは、戦争の渦中にありながら、国民には戦局の推移が系統的に知らされていなかったからからだった。私が戦記物をある程度購入して持っているのも、戦争中の情報不足に対する欲求不満からだ。
しかし戦記物を買ってみたものの、身を入れて読む気にはなれなかった。米軍に対抗するには、日本軍の装備があまりにも貧弱で、とても勝負にはならない事実を突きつけられるからだった。歩兵が携える小銃一つをとってみても彼我の違いが分かる。世界各国が自国の兵士に自動小銃を持たせている時代に、日本では明治38年に製造された単発式の重くて不細工な38式小銃を使い続けていたのだ。戦闘の一番基本的な武器が、日露戦争以来の古くさいものを使っていたのだから呆れるほかはない。
当時の日本では、自動車産業が未熟だったから、ろくな戦車も作れなかった。フィリピンでは、米軍の戦車隊に圧倒されて戦闘不可能になり、日本軍は戦車を地面に埋めて保塁として使うしかないという情けない状況に追い込まれている。
かくて日本は、敵の物量に対抗するには精神力しかないということになって、丸裸の兵士を次々に前線に投入し、人間の生命をまるで薪を燃やすように浪費することになる。どの戦記物を読んでも、最後には胸がつぶれるようなこうした局面に突き当たる。ガダルカナルでも、日本兵は敵が張り巡らした弾幕のなかに38式小銃と手榴弾だけを持って突っ込み、次々に潰滅して行っている。こうした戦闘記録の連続だったから、戦記物を読もうとする気持ちも失せてしまうのだ。
私は書棚の片隅に埋もれていた集英社刊行の「昭和戦争文学全集」を探し出して、酒巻和男の手記を読んでみた。その結果、特殊潜航艇について私は何も知らなかったことに気づかされた。私は、真珠湾に潜入した5隻の特殊潜航艇は米軍の爆雷攻撃を受けてすべて撃沈され、人事不省のまま浮上した酒巻和男だけが救出されて捕虜一号になったと思いこんでいたのである。
「グランド・ミステリー」には、酒巻和男が乗るはずの特殊潜航艇に問題があったために、艇を運搬していた潜水艦の副長が艦長に発進を中止すべきだと意見具申をする場面がある。艇のジャイロ・コンパスが動かなくなっているので、潜航中は潜望鏡だけで位置を測定しなければならず、これでは到底真珠湾内に潜入できないという理由からだった。
艦長はこの意見を尤もだと思ったが、責任をとることを嫌って決定権を艇長に委ねる。酒巻和男の手記には、この場面が次のように描かれている。
艦長は大きく吐息して、静かに力を込めて質問した。
「酒巻少尉、いよいよ目的地にきた。ジャイロがだめになっているが、どうするか」
最後の念押しである。しかし私の覚悟はすでにきまっている。
・・・・私は艦長の憂慮をふきとばしたいと思いながら、力と熱を込めて、「艦長、行きます」と答えた。こうして深夜に発進した艇は、結局、湾内に潜入することに失敗するのだ。
5隻の特殊潜航艇は、夜暗に紛れて真珠湾内に潜入し、開戦時刻がくるまで海底に潜んでいる予定だったが、酒巻の艇は湾への入口を捜し当てることができず、夜が明けてもまだ港外でうろうろしていたのだった。やがて日本軍の航空機による襲撃が始まり、港内から黒煙が立ち上る。これを潜望鏡で眺めて、酒巻は何とか港内に入ろうと必死の努力を続けたけれど、そのたびに艇は珊瑚礁に乗り上げてしまう。まる一日苦闘して夜を迎えた酒巻の艇は、ついに真珠湾に潜入することをあきらめ、潜水艦との待ち合わせ地点に戻ることになる。
だが、ジャイロ・コンパスを持たない特殊潜航艇は、またもや方向を誤り、オアフ島周辺の珊瑚礁に乗り上げて座礁してしまうのである。電池で動かす潜航艇の電力も尽き、帰還の見込みもたたなくなる。酒巻少尉は、自爆装置をセットして艇から脱出し、息絶え絶えになって島に泳ぎ着いたところで米兵に救助されるのである。
悲運に襲われたのは酒巻の艇ばかりではなかった。予定通り、湾内に潜入できたのは2隻だけで、残りは途中で撃沈されている。潜入に成功した2隻も探知機に捕捉されて爆雷攻撃を受け沈没してしまう。公式発表によれば「特殊潜航艇による戦果は確認されていない」とあるから、攻撃はすべて失敗に終わったのである。にもかかわらず、特殊潜航艇はその後も続々と製造され、無謀な攻撃によって命を落とした隊員数が439名に達しているという。
海軍工廠では相も変わらず特殊潜航艇が造られ続けた
何ともむごたらしい話である。特殊潜航艇乗組員の悲劇は、あの戦争に参加した日本兵の運命の縮図ともいえる。酒巻和男の手記を読んでいると、「グランド・ミステリー」を読んでいたときの現世を不確かな夢幻と感じていた感覚が吹き飛んで、冷厳な現実感覚が立ち戻ってくる。霧が消えたあとに荒涼とした広野が現れてくるように、幻想を吹き払ったあとに、兵士たちの空しい死を積み重ねていった非情な太平洋戦争の実相が浮かび上がってくる。
太平洋戦争とは、日本人にとって救いのない地獄図の世界だったのである。
これが「第一の現実」だった。戦争があまり無惨だったから、人は「第二の現実」を仮構する。日本は戦争に負けたが、結果として植民地状態にあったアジアを解放することに成功した、だから、やはりあれは「聖戦」だったという仮構。われわれは、真実と物語、第一の現実と第二の現実を区別し、ためらわずに第一の現実を直視して行くべきだろう。