「日本の良心」石川三四郎(2)

高等文官試験、弁護士試験に相次いで失敗した石川は、恋人に合わせる顔がなくなって下宿を出ることになった。その彼の移っていった先が、夫を亡くしたばかりの福田英子の家だったことを考えると、この頃には両者の関係はかなり深いものになっていたと思われる。石川は、他人がいる前では英子のことを「先生」といったり「奥様」といったりしていたが、二人だけになると甘えた調子で「ねエ」「ねエ」と呼んでいたと自ら語っている。

英子の宅に移ってからも、石川は彼女の世話を受けながら高等文官試験・司法試験の受験勉強に精を出していた。だが、受験の結果はやはり思わしくなかった。彼が堺利彦を知るのは、試験にパスするめどが立たず、自活の道を考えなければならなくなっていたころだった。

「万朝報」記者をしていた堺は、結核を患っている妻のために閑静で空気のいい場所を求めていた。彼は、旧知の英子から勧められて彼女の住んでいる新宿区角筈に移ってきたのである。その頃の角筈は草原が続き、原っぱの中に点々と家が散らばっているような田舎だった。

英子の隣に引っ越してきた堺は、石川青年が仕事もなく家でぶらぶらしているのを見て、「万朝報」に勤めてみないかと誘った。石川が母の下宿にいた頃に知り合いになった花井卓蔵弁護士も推薦人になってくれたので、三四郎は明治35年、26才で「万朝報」に入社することになる。

「万朝報」は黒岩涙香がはじめた新聞で、当時、発行部数日本一を誇り、幸徳秋水、内村鑑三など有能な記者を多数抱えていた。社長の黒岩は、石川が年に似合わず世慣れているのを見て取って、社長秘書の仕事を与えた。当時の彼は見るからにスマートな「青年ボーイ」だったのである。石川は、社長秘書の他に社内に結成された「理想団」の事務を担当することになった。

「理想団」は内村鑑三・幸徳秋水・木下尚江らをメンバーにして、世の中を「理想に近からしむる」ための社会運動を展開していた。メンバーは新聞紙上に意見を述べるだけでなく、各地で講演会を開催して直接聴衆に訴えていた。内村・幸徳・木下は、いずれも名演説家として知られていたから、講演会は何時でも満員になった。石川三四郎は「理想団」の仕事をしているうちに、これらメンバーと知己の関係になるのである。

新聞社に入ってからも石川は、清水しげのために司法試験を受けるかどうか、迷っていた。それを知った堺から、「そんな馬鹿げたことはやめたまえ」といわれて、彼は初めて目が覚めた。自分が本心では高級官僚や弁護士になることを望んでいなかったことに気づいたのだ。

だが、「もう出世のためにあくせくするのを止めた」と恋人に告げることは出来なかった。清水しげは、女子高等師範学校を卒業して高等女学校の教師になったけれども、石川の件で心労がたたったのか、病床に伏していたのである。石川は見舞いに行きたかったが、しげや母親が「新聞屋」にしかなれなかった自分を歓迎してくれないだろうと思うと、どうしても出かけることができなかった。

しげのことを諦めた石川は、英子と夫婦同様の関係になる。平塚らいてうが年少の恋人を「若いつばめ」と呼んでこの言葉が流行語になる以前に、石川は英子の「若いつばめ」になったのである。間近から二人の生活を眺めていた堺利彦は、友人に向かってこう言ってこぼしている。


「石川君は、どうもハッキリしない。一緒になっているのならそういえばよさそなものだが、そうも言わない、それでいてぼくなんかが福田英子と親しくすると焼き餅を焼くんだから」

女性関係のことは何でもあけすけに書いていた大杉栄にくらべると、英子との関係を最後まで隠し通した石川三四郎のやり方には、偽善的な感じがつきまとっている。石川は、英子との関係を「姉弟関係」にすぎないと言い張り、英子のことを「ねエ」と呼んでいたのも弟としての甘えからだったと弁解する。

 石川と英子

彼は世間というものをよく心得ていたのである。友人間では周知の事実になっている女性関係であっても、自分から認める必要はない。ましてや、こうした私事をマスコミに公表するなどは愚の骨頂だと考えていたのである。

石川が「万朝報」に入社して一年もたたないうちに、社内に分裂の危機が迫った。この頃、日露の関係が切迫していたが、「万朝報」は内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦の主導下に反戦論の立場を堅持していたのだった。が、明治36年も後半になると、朝野に日露開戦論が沸騰してきて、社長の黒岩涙香と主筆の円城寺天山も遂に開戦論支持に踏み切ったのだ。

憤慨した幸徳秋水と堺利彦は「万朝報」を退社する決意を固め、内村鑑三もこれに同調することになった。退社した幸徳と堺は「平民社」を設立し、反戦論と社会主義を基本方針とする週刊「平民新聞」を発行し始めた。

幸徳秋水が社会主義に傾斜していく筋道は、この時代の多くの社会主義者のそれを代表するものだった。彼は少年の頃から民権論に関心を持ち、林有造や中江兆民の玄関番になった。彼は国会が開かれれば、民権派の議員たちが藩閥政府を押さえ込んで日本を真の民主国家にしてくれるものと信じていたのである。

ところが、政府は国会審議が難航すると、民権派議員を金で買収して切り崩し、次々に法案を通してしまうのだ。あまりのことに痛憤を禁じ得なかった中江兆民は、議会を血も涙もない「無血虫の陳列場」だと罵倒し、辞表をたたきつけて議員を辞職してしまう。

自由民権運動を支持してきたインテリは、自由党・改進党の堕落に絶望し、議会主義を乗り越えて社会主義に興味を示すようになった。明治期の社会主義者は、はじめ自由民権運動という一段目のロケットに乗っていたが、それが堕落したので、これを見捨てて社会主義という二段目のロケットに乗り移ったグループだったのである。

石川三四郎は板垣退助に心酔する父を持っていた。長じて茂木・橋本の玄関番をしているうちに金箔つきの民権論者になったけれども、一段ロケットから社会主義という二段目ロケットに乗り移るのに少し時間がかかっている。その理由を、彼は「万朝報」を退社し「平民社」に移ったときに、「入社の辞」のなかで分析している。

この文中で彼は、自分が平民社に加入したのは、堺や幸徳の主義や理想に共鳴したというよりも、「万朝報」社員という安定した地位を捨てた彼等のいさぎよさに感動したからだといっている。「人生意気に感じ」て幸徳らに同調したというのだ。

石川は、あの頃の自分はキリスト教にも社会主義にも徹底できず、おそろしく古風な、しかもひねくれた気持ちで生きていたと述懐する。そして「人生意気に感ず」というような行動スタイルを「天来の鼓吹」のように思いこんだりしていた。それは、「おそらく少年時代に、古い型の先輩たちから受けた感化と、有為転変の激しい波に翻弄されてきた生活環境」のせいだろうと反省するのである。

石川が社会主義者の道を歩み始めるのは、平民社に入ってからだった。彼は当時の平民社のようすを次のように回顧している。

きびしい闘争の中でも常に明朗な陽春の雰囲気をたたえて、若き男女が集まりきたり協力を惜しまなかったのは、やはり平民社の中心となった先輩たちの人格の致すところであったと思われます。

幸徳と堺とは、実によきコンビでありました。堺は強かった。幸徳は鋭かった。堺はまるめ幸徳は突き刺した。幸徳は剃刀のごとく、堺は櫛のごとし。剃刀は純なるべからず、櫛はなめらかに梳くを要する。

実際、平民社には反戦の理想に燃えた若者たちが目を輝かせて集まって来ていたのだった(外国語学校の学生だった大杉栄は、毎日、平民社にやって来て封筒書きなどを手伝っている)。こうしたなかで石川は徐々に社会主義への理解を深め、独自の思想を育てていくのである。

石川三四郎が平民新聞に発表した論文は24編に及んでいる。
参考までに、そのうちの2編を紹介する。最初に紹介するのは「愛国心と愛他国心」と題するものである。「愛他国心」という見慣れない用語に引っかかるけれども、これは「ほかの国を愛する心」という意味なのだ。彼は日露戦争開始後のキチガイじみた「愛国心」賛美を批判し、「愛国心」も「愛他国心」も超えた「愛世界心」の必要性を説くのだ。


もともと愛国心と愛他国心とは衝突すべきにあらず。むしろ愛国心ある者は必ず愛他国心あるべきなり。天地の間、主宰ただ一つなり。真理ただ一つなり。善ただ一つなり。我は、ただ之を愛す。日本を愛するも之に基づくなり。露国を愛するも同様なり。ただ真理にして善なる日本と露国とを愛するなり。

 ゆえに、実は愛自国心なきなり。愛他国心なきなり。有るは、ただ愛世界心のみ。否、ただ愛あるのみ。

石川はここでは、国を愛するより世界を愛せというテーゼを一般論として述べている。この抽象的な主張を、五ヶ月後に具体化して教師に呼びかけるアピールにしたのが「小学教師に告ぐ」だった。


国家は、国家のためにその人民を教育せんとするも、人類として之を教育せんと欲せず、一国の民をつくらんことを欲するなり。世界の子をつくらんことを欲せず、小なる国家道徳を教へしめて大いなる博愛道徳を斥く。

しかして前の小なる教育を捨てて後の大なる教育を施さんとする者あらば、直ちに国賊の名をもって放逐せらる。諸君の職務は実にかくのごときものなり。諸君の職務は人類を完全ならしめんがためにあらずして、之を不具ならしめんがために存するなり。しかも国家の威力をもって之を行なふなり。世に、残忍なること、また之にまされるものありや。

石川は、戦争というものを両国民の物欲から起こると考えていた。従って、国のために戦えと説くことは、個人の中に眠っている利己心を増長させ、暴力衝動を奨励することになる。小学校教師が子供らに愛国心を説けば、まだ未萌芽の状態にある彼等の低次元の欲求を呼び起こしてしまうのである。


諸君、諸君が任にある小学教師の職務は、実にかくのごとし。その事の矛盾多き、その事の無意味なる、しかしてそのことの残忍なる、じつにかくのごとし。

・・・・・・・ゆえに、吾人あへて諸君に告ぐ。諸君をして、かくのごとき無意味なる事業をなさしめ、かくのごとき苦境に居らしむるは、これ決して諸君の罪にあらず。実に、社会組織の不完全なるによるなり。

然り、もしこの国家なる私欲野望を基礎とせる団体を脱して、博愛平等の上に建立せる世界的一社会に入らば、人類の教育に何の衝突か之あらん。ただ人が人のために人を教育すれば足るに至るなり。

この二つの論説を、他の論者による反戦論と比べてみると、論述の力点が大きく違っていることが分かる。一般に戦争に反対する議論は、それが庶民だけに犠牲を負わせる点を非難する。戦争が始まれば資本家はもうかるけれども、戦場に駆り出される一般の国民には何のプラスもない。しかも、特権階級の子弟は兵役を逃れ、戦場で命を落とすのは名もない庶民の子供たちだと指摘する。

だが、石川はこうした議論の立て方をとらなかった。戦争を「私欲野望を基礎にした国家」同士の争いに過ぎないとして、国家と自分を一体化すれば個人も又「私欲野望」の塊りになってしまうと警告するのだ。われわれが国家ではなく「博愛平等を基礎にした世界」と一体化すれば、より高次元の精神圏で生きることが可能になる。

つまり石川は、問題を物質的な損得の観点から見ないで、どちらがより高い精神で生きることが出来るかという観点で捉える。国民の中には、自国を強大にして、その恩恵にあずかろうとする者もいれば、そうした「利己心」から抜け出て、世界全体を愛し、全人類の幸福を願う高次元の精神を持った者もいる。石川が戦争に反対するのは、それが国民に物質的な面で犠牲を強いるからではなかった。人間の低次元の精神を肥大化させてしまうからなのだ。

「小学教師に告ぐ」は、政府を強く刺激した。当局は、この論説が著しく社会の安全と秩序を乱すものとして告発し、新聞発行責任者として西川光二郎を禁錮七ヶ月、印刷責任者として幸徳秋水を禁錮五ヶ月に処し、月刊「平民新聞」を発行禁止にしてしまう。

「平民新聞」が発行禁止になったので、同紙の記者と寄稿家は既に発行されていた左派系の小雑誌「直言」に移り、これを「平民新聞」の後継紙として反戦運動をつづけることになった。自分の原稿が原因で新聞を廃刊に追い込み、二人の同志を獄中に送ってしまった石川は、「大いに責任の重きを感じて」前よりも反権力の姿勢を強めるようになる。だが、人道主義の立場から社会主義を宣伝する態度に変わりはなかった。

彼は「直言」に載せた「社会主義者と愛国心」という論考で、社会主義思想が「穏やかで優しい人情の奥底から生まれ出たもの」であると説く。


人類同胞がお互いに手を携えて愛し合うことが、凶悪危険であるとは、あまりにひどい批評ではありますまいか。

・・・・・・社会主義者は「国」を捨てて「人」のために尽くさねばなりません。すなわち、どこまでも人道の伝道者、人道の保護者、人道の戦士をもって行動せねばなりません。

・・・・・国を愛することは、国に服従することとは異なります。まして国にへつらうこととは、全く違うといわなければなりません。

・・・・・ゆえに社会主義者は、いわゆる「愛国者」たることを好みません。けだし彼等は国を愛するのではなくて、国にへつらうからです。しかして狐狸の欲をむさぼりからでであります。

日露戦争が終わり講和条約が締結されたとき、「直言」は発行停止の処分を受けた。「平民新聞」の後継紙としての「直言」は、半年の寿命しか持たなかったのである。相次ぐ当局の弾圧は、社員や寄稿者の思想上の対立を激化させ、平民社は分裂の瀬戸際に立たされた。堺利彦・木下尚江・石川三四郎は、出獄してきた幸徳秋水と西川光二郎をまじえて今後の方針を協議し、ひとまず平民社を解散することになる。

平民社が解散になれば、各自、身の振り方を考えなければならない。石川は「自叙伝」に次のように書いている。


ともあれ、平民社は遂に解散に決せられました。そこで直ちに起った問題は社員一身上の方針です。ところが、幸徳は渡米することに決しており、堺は由分社で独立の仕事を創めるなど、同人諸兄は既に大抵方針が定まっていましたが、私一人はまだ方針が立たず、あれこれ迷っておりました。

私は独身の生活を送っていたため別に係累というものがないので、非常な困難を感ずる訳でもなかったのですが、そうかといって平民社が解散しては、さしずめ途方に暮れざるを得ませんでした。社会党と聞いては何処へ行っても雇うてはくれず、独立の事業をするには力はなし、また随分疲れてはいるし、どうしようか、ああしようか、と談り合う中に、沈黙していた木下尚江が口を開いて「旭山!大いにヤレよ」と言うのです。旭山とは私のペン・ネームでした。

木下尚江が「ヤレよ」といったのは、クリスチャン・ソーシャリズムの雑誌を発刊せよという意味だった。平民社には、クリスチャンの若者が多く集まっており、キリスト教社会主義の雑誌を出せば十分採算がとれると木下は踏んでいたのだった。

石川が木下尚江と相談して早大教授の安部磯雄に助力を乞うと、安部はよろこんで協力を約してくれた。そればかりか、徳富蘆花や田添鉄二まで計画に賛同してくれる。これなら大丈夫だと、彼はそれまで下宿していた飯田橋の下宿屋を引き払って、(彼は既に福田英子の家を出ていた)、新宿駅近くに藁葺き屋根の家を借り、新雑誌「新紀元」の発行所にした。「新紀元」の発刊から十日遅れて、非キリスト教系のメンバーは西川光二郎、山口弧剣を中心に機関紙の「光」を創刊したから、ここに旧平民社グループは完全にまっぷたつに割れることになった。

新紀元社は雑誌発行のほかに、毎週一回日曜説教を行い、毎月一回社員及び社友の晩餐会を行った。隔週一回の聖書研究会も開いた。石川が借りた藁葺きの家は、そこに集う者の数こそ少なかったが、社会主義を目指すクリスチャンらの拠点になったのである。

石川三四郎は、「『新紀元』を創刊するときは、事務も編集も販売も、すべてにおいて予は一人であった」と書いている。彼は木下尚江と二人三脚で雑誌をはじめたが、「毎日新聞」のスター記者だった木下に多くを期待できず、結局、雑務のすべてを石川が背負い込むことになったのである。そればかりではなかった。創刊一年後に彼が、「過去一年間における最大の事業は実に聖書の研究であった」と回顧しているように、彼は仲間との聖書研究にうちこみ、これを社会主義運動のためのエネルギー源にしたのだった。

石川が雑誌の事務、毎日曜の講演、地方伝道に明け暮れしている間に、明治38年2月20日、堺利彦・片山潜らは日本社会党を結成する。そして、「新紀元」同人にも入党を呼びかけてきた。だが、聖書研究に没頭するようになった石川は、僚友の木下尚江のように誘いに応じて簡単に入党することが出来なかった。

彼は「階級的自覚とは何か」と反問して、「そは、資本家階級を憎悪するの精神にあらざるなり。私欲にあらざるなり」と断定する。そして、階級的精神とは仲間への愛であり犠牲の精神にほかならぬとして、マルクスの階級闘争理論を、「労働者の利欲を挑発し、ことさらに階級憎悪の念を助長する」ものだ非難するのだ。

こうした石川の主張を、堺利彦は、「ああ、これ温良なるキリスト教徒石川君にとりて、無理からぬ懸念である」と一応受け止めてから、反撃に出るのである。


石川君のいうをそのままに行わしめんとするならば、まづ労働者の多数を聖人君子たらしめ、しかるのちに初めて階級闘争を開始すべし、政治運動を開始すべしということになるのである。

これに対して石川は、次のように応じる。


予は、社会主義を実現する方法には二つの面があると思う。一つは政治的あるいは経済的な改革運動で、他の一つは伝道、つまり教育運動である。この二つの方法は決して隔離すべきものではなく、両者が相待って初めてその効を奏するであらう。

しからば予の主眼とするところは、いづれにあるか。無学鈍才なる身をもっておこがましい次第であるが、予は伝道者たる態度をもって立ちたいと願ふものである。しかして、この態度をもって立たんと思ふ予は、どうしても「労働者の私欲」を絶叫するに忍びないのである。

予は日本の自由民権運動の歴史を顧みて、その改革運動が甚だ盛大なりしにかかはらず、教育運動の皆無なりしを思ふ。よって、その民権思想が今日ではほとんど痕跡をもとどめず、かの大運動もうたかたのごとく消え去ったことを惜しむものである。

こう述べてから、彼は改めて自らの決意を語るのだ。


 かく言っても、予は決して革命運動に反対するものではない。予も将来において、あるいは小なる革命家となるかも知れぬ。しかしながら、その時でも、予は断じて、「労働者の私欲」に訴へやうとは恩はぬ。浅薄なりとも自ら犠牲の精神を起こし、人にも犠牲を説き、ここに初めて革命運動を起こすことができるのではあるまいか。

こうした主張をする頃には、石川の人間観はほぼ固まってきていた。
すべての人間は、利己心に基づく狐狸のような心と、それとは別種の博愛平等の精神を持っているという見方である。大抵の人間は利己心のレベルにとどまっているから、革命を志す者は手っ取り早く効果を上げようとして、民衆の利己心に訴え、彼等の憎悪と闘争心をかき立てようとする。だが、そうやって革命や社会変革を成功させたところで、その成果は長続きしない。

革命を欲するなら、民衆の心に眠っている愛と犠牲の精神を目覚めさせなければならない。彼等が無自覚のまま内に隠し持っている自由平等の欲求を、自覚させなければならない。革命に必要なものは、まず人間革命であり、社会革命はその後に来るのだ。

従って、社会主義者はまず自己を教育しなければならない。自己を教育しながら、同時並行的に民衆を教育して行くものでなければならない。こうした信念から、彼は木下尚江が日本社会党に入党した後も、あえて入党することを拒んだ。彼は堺との論争で、民衆の人間革命を促すためにも、党議に拘束されない自由が必要だと強調している。


予は、今日の日本は、なお伝道の時代なるを信ず。ゆえに、伝道の中心たる簡単なる事務所の必要はこれを認む。

伝道の生命は、伝道者の熱誠と人格にあり。政党の勢力は、党員の頭数と統一にあり。伝道には自由を要し、政党には服従を要す。ゆえに伝道は、むしろ政党外の自由の天地に在るの勝れるにしかず。

石川は、人間が低次の意識と高次の意識を持つ二重構造的な存在だと確信しながら、高い精神を持つ人間を聖書に描かれているイエス以外に発見できなかった。その彼の前に、まさにイエスのような人間が出現したのである。彼は生涯で、最も大きな影響を受けた人物として谷中村事件の田中正造をあげている。彼は、田中正造に会ってはじめて「キリストにおける十字架の問題」が現実問題として浮上して来るのを感じたのであった。

明治39年2月、谷中村を彼が訪問したことで石川と田中正造の関係ははじまり、同年4月新紀元社の例会に正造を招いたことで二人の関係はさらに深くなった。演説の後で、出席者たちは夕食会を開いて正造を激励している。田中正造はさらに本郷中央会堂で開かれた「新紀元大演説会」でも400人の聴衆を前にして谷中村の惨状を説き、聴衆に深い感銘を与えた。

以来、石川は、再三にわたって、被災民救済のために谷中村に足を運ぶようになった。田中正造という老人は、知れば知るほど慕わしくなり、深みを増していく人物だった。谷中村に出かけた石川は、まるで付きまとうようにして田中正造と行動を共にした。蚤だらけの同じ部屋に一緒に寝て、同じものを食べた。彼にとって正造は「師父」であった。というより「父」そのものに思われた。木下尚江によれば、彼は田中正造に対して、「ほとんど駄々っ子のように親しんでいた」という。

 

谷中村を訪ねたある日、石川は正造に連れられて渡良瀬川の堤防の外にある仮小屋に出かけた。小屋の中には、老人が一人寝ていた。


「どうだね」と正造は老人に話しかけた「体が悪いとはきいていたが、寝込むほどじゃないと思っていたよ」

老人の話を聞いているうちに、正造の語調が変わってきた。


l
何時の間にか翁の声が変ってきて、咽ぶような鼻声になってきました。どうしたのかと思って翁の顔を見ると、翁の頬には玉のような涙がぽろぽろと流れていました。これを見た時の私の感動はまた強烈でした。

その百姓は県吏の誘惑に負けて翁の言葉に背き、一旦は買収に応じて他の所に転居したのでしたが、やはり長年住みなれた故郷を忘れかねて舞戻ってきたのです。

「他所に行っても古い隣の人や村と別れて行くとやっぱり故郷が恋しくなって面白くないでがす、どうしようかと思い惑って悩んでいるうちにこんな病気になってしまいました」という述懐を悲しそうに翁に訴えるのでありました。

それを聞いて翁は何時の間にか涙を流したわけなのです。この涙を見て私も深く心に打たれ、本当に田中翁の精神の深さというものが私の胸を打つのでありました。この時はど田中翁の真実の姿に接したことはかつてありませんでした。(「自叙伝」)

帰途についてから、田中正造は問わず語りに老人について語った。


「あれは、昔から悪い男ではなかったけれど、悪魔に迷わされて仲間を裏切ったのです。裏切った後で悩み、良心の呵責というようなこともあって、あんな病気になってしまった。みんな悪魔どもの仕業なんです」

正造はよく「悪魔」という言葉を口にした。「悪魔を斥けることが出来ないのは、自分が悪魔だからだ」と言って彼が嘆息するのを石川は聞いたことがある。

正造は言葉を転じて、県や政府のやり方を責めた。


「単純な百姓たちは、お上の口車に乗ってころころ騙される。騙されてから、それに気がついて後悔する。これほど可哀想なことはありません。人の魂を傷つけるほど、憎むべき所業はありませんよ」

正造と生活を共にしていると、石川の胸に、自分も彼のような人間にならねばならぬという思いが強くなる。


田中翁の偉大な人格に触れて、私は人間というものが、どんなに輝いた魂を宿しているものか、どんなに高大な姿に成長し得るものか、ということを眼前に示されて、感激せしめられたのです。

それと同時に、今まで種々な説教や伝記やらで学んだ教義や人物というものが、現実に翁に於いて生かされ、輝かされていることを見て、心強く感じました。私は、自身が如何にも弱小な人間であることを見出しながらも、常に発奮し自重自省するようになりました。

石川は谷中村に通っているうちに、当局と正面衝突する危険を感じたことがある。

政府は谷中村の田畑を買い上げて、村全体を貯水池にしようとしていた。田中正造たちは対抗手段を取り、決壊した沼の堤防も自費で修築して耕地を残し村を残そうと計る。すると、県庁は無許可でこうした工事を行ったのは違法行為だとして、問題の堤防を破壊すると通告してきたのだった。

県庁から一行がやってくる前夜、石川は正造と枕を並べて床についた。正造は直ぐに寝入ったけれども、石川は不安で眠れなかった。明日は土方(どかた)や役人たちを相手に、一戦を交えることになる。乱闘のなかで自分も、血を流すことになるだろう。

翌日、30人ほどの村民が堤防を守るために集まり、これに東京から駆けつけた学生等18名が加わった。が、予定を変更したのかこの日は県から誰もやってこなかった。

無事に東京に戻ってきたものの、石川の心は晴れなかった。自分は平生、口癖のように自己犠牲を説いてきたにもかかわらず、いざとなると恐怖に駆られ、堤防の上で直ぐにも逃げ出したいと思った。そして、無事に東京に戻って来て、ほっとしている。一体、これは何としたことだろう。

思い出したのは、禅僧の内山愚童のことだった。友人の内山には、「安心」を得た者のすらかな表情と落ち着いた挙措があり、彼は何となく心ひかれていたのである。内山は後に大逆事件で死刑になるが、処刑される際の淡々として態度によって後々までの語りぐさになっている男だった。

翌日、石川三四郎は箱根の内山愚童を訪ねて、悩みを打ち明けた。
内山は、妻も子もなく、たった一人で小さな寺を守っていた。彼は石川の話を聞き終えると、まあ、一週間ほどここで座って行ったらどうか、と座禅することを勧めた。

言われたとおり、石川は与えられた部屋で一人で座りつづけた。何日かすると、気持ちが落ち着いてきた。


心は澄みきって、静寂の底に沈む。その時です。突如として心の窓が開け、「十字架は、生まれながら人間の負うたものだ」と気づきました。それは、まことに観天喜地のうれしさでした。

すぐ製茶に専心している和尚にこれを告げると、「ああ、その通りだよ。それだよ」とうなずきました。それは一週間の坐禅修業の中ごろのことでした。(「自叙伝」)

石川のいう「生まれながらに人間が負う十字架」とは、個々人に降りかかる苦難や生まれながらの性格的弱点、そして、それをもたらす各人の宿命の総体を意味している。石川が負うことになった十字架とは、病弱に生まれ生家では「余分者」として扱われたこと、その後も他人の飯を食って暮らす日々がつづいたこと、その結果として彼が小心で臆病な人間になってしまったことだった。

彼は社会主義を実現するには、利己心にとらわれている民衆の内面に、博愛平等の心を目覚めさせなければならないと考えていた。だから、闘争より伝道を、と主張してきたのだが、それもこれも、自分は利己心を克服して愛と自己犠牲に目覚めた人間だと思い上がっていたからだった。しかし、とんでもないことだった。自分は利己心で凝り固まった狐狸にも劣る人間だったのだ。

自己の実像を直視しているうちに、彼は十字架を負って生きているのは自分ばかりではないことに思い当った。全世界の人間が、生まれながらに十字架を負い、否応なく日々罪をおかしているのである。だからこそ、イエスはその罪を償うために十字架上で死ななければならなかったのだ。

石川が「観天喜地」のよろこびに包まれたのは、こうした内省を通して、広大無辺の世界に出たからだった。事実そのままの裸形世界を前にした人間を襲うのは、純粋な喜びと感謝なのである。

すると、その歓喜のなかから、「生まれながらに十字架を負う人間」へのいとおしさが湧いてきた。この愛は、義務感から来たものではなかった。気がついたらそのなかにいたという形でもたらされた慈愛の心であった。

箱根の禅寺での瞑想を経過して、石川三四郎の人を見る目が微妙に変わりはじめた。


それまでの彼は、人間の本性は善なのだから、その善にして高貴な部分に働きかければ足りると思っていたのだ。しかし石川は人間というものを、もっと深いところで──業や原罪という深みから眺めるようになったのである。簡単に言えば、彼は性善説に加えて、性悪説を取り込むことによって、人間を見る目を拡張したのだった。

平等・博愛についても、彼はこう考えるようになった。
すべての人間は生まれながらに十字架を負うという宿命の故に「平等」なのであり、互いに免れがたい欠点を持つが故に互いに愛し合わざるをえないのだ、と。

石川はこれまで、国家を相対化することで世界を観望する広大な視野を手に入れていた。
その彼が、今や、性善説・性悪説の双方を取り込むことで人間の内面全体を視野に納めることが出来るようになったのである。彼の見る人間の内面世界は、これまで心に把持してきた外面世界に釣り合うほどの広がりを持つようになったのだ。

こうした内界・外界の変化は、石川の政治行動に柔軟性を与えることになった。
明治39年、キリスト教系と非キリスト教系の対立を解消し、社会主義勢力を再結集しようとする動きが起きると、石川は「新紀元」誌を廃刊にして、復刊した「平民新聞」の主幹に就任している。

そして新たに発足した日本社会党が、議会主義か直接行動主義かを巡って対立すると、彼はそのいずれにも加担しないで、調停役に回るのである。対立する両派のうちの一方に党をねじ込むようなことをすれば、あとに禍根を残す。だから、両派をそのまま共存させて多元主義でやって行くべきだと彼は考えたのだ。

石川は党を分裂させることだけは避けたいと思って、社会党に入党することを決意した。すると彼は、堺利彦と共に党の最高の役職である評議委員会幹事に押し上げられた。

石川が日本社会党幹事として党内の調整に当たっているさなかに、「平民新聞」は山口弧剣の「父母を蹴れ」、大杉栄の「青年に訴ふ」を掲載したという理由で発行禁止になった。復刊「平民新聞」は、僅々三ヶ月の寿命しか持たなかったのである。発行兼編集人をしていた石川は責任を問われて、一年余、入獄することになる。

神経質な石川は、入獄後数日の間、どうしても食事が喉を通らなかった。食器は異様な悪臭を発し、箸を取って顔を寄せると、吐き気がした。しかし、やがてそれにも慣れて、落ち着いて本が読めるようになった。

石川は西洋の社会主義がどのように発達してきたか、系統的に勉強したいという素志を抱いていたから、獄中では社会主義史に関する文献を集中的に読んだ。寸暇を惜しんで営々と努力した結果、出獄するときには、彼の書きためたノートは15冊、1500ページに及んでいた。その過程で彼は、ダーウインの進化論やマルクスの唯物史観に疑問を感じるようになり、生物進化についても社会進化についても独自の考え方を抱くようになる。

石川は、これまで社会主義運動を絶対化することに反対して来た。社会主義は、人道主義を実現するための手段に過ぎず、社会主義が実現された暁には社会は人道精神で満たされ、人間は全的に自由になり、足尾銅山が行っていたような自然破壊は一掃されるはずである。

人道主義によって人間と自然を本来あるべき形に戻さなければならぬと考えていた石川は、獄中でエドワード・カーペンターの著書を読んで目から鱗が落ちるような気がした。

カーペンターは、文明社会が外的自然を蹂躙することによって自然界の統一を失わせるだけでなく、人間の内面的統一をも失わせたと考えていた。彼によれば、文明とは悪質な病気に他ならなかった。カーペンターは、自然を征服しようとしないのは農業だけだと考えて、ミルソープで仲間と共に農業共同体を結成している。

石川は、口では闘争よりも伝道をと唱えながら、自分が目指す人道主義的社会についての具体的なイメージを思い浮べることができないでいた。そして人道主義を体現した人間が、どんな仕事に就きどんな日常を送るのか、その具体的な様相を想像することもできないでいた。だが、カーペンターを読むことによって、ぼやけていた未来像が、かちっと焦点が合うようにハッキリしてきたのだ。理想的な生活とは、農業を通して人間と自然とが、相互浸透的に交流する生活なのである。

目標がハッキリしてくると、大まかな行動プログラムが自然に浮かんできた。石川はカーペンター理論を頭に置いて、人類は三つの段階を踏んで進んで行くのではないかと考えた。まず最初に自然状態が保たれている時代があり、次に文明の発達によってそれが崩されて行く時代が来る。だが、最後に人類は覚醒して自然状態を回復しようとする時代に入るのである。現在、人類は第二段階にある。これを第三段階に進めるのが社会主義者の任務なのだ。

こうした見取り図に具体性を持たせる意図もあって、石川は獄中で社会主義関係の文献と平行して、しきりに宗教書や思想書を読んでもいる。箱根での瞑想体験が、彼を内省的な人間にしていたが、今後の実践指針を得るためにも哲学関係の本を読む必要があったのだった。


『碧巌録』を読み、『大乗起信論』を読み、老子を読み、論語、孟子、バイブルを読み、『古事記』を反覆する間に、個人も、社会も、物質も、精神も、野蛮も、文明も、皆それぞれの面に於いて、「人間」という生命活動の一表現であって、その自然の姿は終始一貫して「美即善」を追求していることが解るのでありました。

カ翁の宇宙的意識というのは、哲学者のいう意識とは雲泥の相違があって、それは宇宙的生命そのものであり、「人間」そのものであり、「真善美」そのものであり、一面虚無であり、同時に実存でありました(「自叙伝」)。

この文章には石川の書くものに共通した飛躍が見られ、読む者を戸惑わせる。
獄中で彼が何を考えていたかは、出獄後に公刊され直ぐさま出版禁止になった、「虚無の霊光」で明らかにされている。これは、表題に「A Prisoner's Note」とつけた80ページほどのノートをもとにしており、聖書や東洋の古典から抜き書きした文章が雑然と並んだ読みにくい本になっている。

「虚無の霊光」という題名からは神秘主義的な、あるいは形而上学的なにおいが感じられる。けれども、彼は単にこの言葉によって、己を無にしたときに見えてくる宇宙的生命活動について語ろうとしているだけなのである。だが、読者を混乱させるのは、石川が霊光を説明するにあたって聖書のロゴスを持ってきたり、仏教、老子、陽明学の用語を使ったりするからだった。

では、「己を無にしたときに見えてくる宇宙的生命活動」とは何だろうか。老子の道(タオ)が、これに最も近いもののように見える。老子によると、人は宇宙的生命から付与された自然知・生得知を持っている。これに基づいて人間本来の穏やかな生活をしていれば幸福な一生を送れるのに、生得の知を乗り超えて「智者」たろうとするから窮地に陥って苦しむことになるというのである。

本当に賢明な人間は、欲に駆られた「衆人」が古くさい、消極的だとして見捨ててしまった後背地にとどまり、太古以来の「日出でて作し、日入りて息(いこ)う」という生活を送る。これは退歩でもなければ、頑迷な保守志向でもない。大自然の法則、宇宙的生命の仕法に従う生き方であり、人に先んじて宇宙法則に「早服」する生き方なのだ。

「虚無の霊光」を読んでいると、石川がしきりに「蔭」に言及していることに気づく。


物体が光明に照らされる時は其蔭が必ず出来る。人間の物慾にも亦蔭が射すのである。人間本来の霊光が吾等のうち輝いて居る所へ物慾が起きて来ると、其物慾に蔭が射す(その結果)、吾等は自らの物慾其ものと物慾の蔭とを分明に識別することが出来ないで、到底其蔭までを本来の欲望其ものと合点する様になる。
                              
・・・・・此『蔭』ほど恐ろしいものは無い。一旦我等の心霊が物質の翼を得て動くや、同時に此『蔭』が出来る、而して物慾は天真の物慾其ものを満足するに止まらずして、我が『蔭』を追及し初めるのである。処が其「蔭」は物慾其ものの蔭である。故に追ヘども迫ヘども果しが無い。恰も人が自己の蔭を追ふて走る様なもので、人益々速やかに追へば影は愈々急に走る(「虚無の霊光」)。

「蔭」とは、すでに欲望は満たされてしまっているのに、もっと欲しがる超過欲求のことだ。普通に暮らして行けるだけの収入があるにもかかわらず、人は更なる収入を求める。為政者は国内が治まっているにもかかわらず、更なる権力を求めて支配力を強化する。こうした過度化を求める人間の特性を老子は「余食贅行」(食べ過ぎ、やりすぎ)と呼んでいる。老子全編は、この「余食贅行」を戒める言葉で成り立っているといってもいいほどなのだ。例えば、こんな言葉がある。


「人の生ずるや、動いて死地に之(ゆ)くもの、十に三あり。夫れ何の故ぞや。その生を養わんとすること厚ければなり」

「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あやう)からず」

この過度化を求める人間の特性を、「やりすぎ症候群」と命名するなら、「本来の欲望其もの」から踏み出さず、生命的欲求の枠内に止まる者は「ホーム」を守る人間ということになる。そこで「虚無の霊光」は、その終章において、「ホーム」に帰れという言葉を繰り返すことになる。

こうした考え方は、「土民哲学」で定式化されて、石川は人類史を次のような三段階に分けることになる。



1.原始人たちの無意識的な「自然我」の時代
2.自我分裂と無明の迷いの時代
3.「自然我」を自覚的に維持する時代

彼は利己心や欲望一般を否定しているのではない。否定しているのは、偏狭な精神主義なのだ。人が自由を求めるのも、何ものにも支配されない自治社会を建設しようとするのも、利己心があるからだ。

問題は、形に陰が添うように利己心に付きまとってくる、「やりすぎ症候群」をどうやって排除するか、である。楽天家のマルクス主義者たちは、社会体制が変われば人間のマイナス面も自然に解消すると考える。だが、人の世の辛酸をなめ、自らの弱さを知っている石川は、そんなふうに気楽に構えることは出来なかった。

「無明の迷い」は何度克服しても、直ぐにまた頭をもたげてくる。「やりすぎ症候群」は不治の病なのである。とすれば、「自然我」を回復しようとする戦いは、永久につづくことになる。

社会主義革命を成功させた革命家も、政権の座に着けば、「やりすぎ症候群」にとりつかれ権力を濫用する。民衆の国家権力に対する戦いも又、永久に続くのである。

石川三四郎の「永久革命論」は、こうしたリアルな人間認識から出発している。そして、このリアルな人間認識は、理論的には老子の「余食贅行」論、あるいはキリスト教の「原罪」論によって支えられている。かつての同志が次々に転向して行く中で、彼が一貫して反権力無支配の立場を守り通し得たのは、絶えず自己の内面を洗い直して原点に立ち返っていたからだった。つまり、「永久革命」を実践していたからだったのだ。

 前列右より石川、田中正造、福田英子

一年余の刑期を終えて出獄した石川は、新宿角筈の福田英子宅に戻った。
彼は入獄する前に、下宿を引き払い所持品の一切を英子のところに移しておいたのだ。英子は石川の入獄中、これらの所持品を質に入れて、石川の欲しがっている洋書の購入資金や差し入れの物品を買う費用に充てていた。英子はせっせと刑務所に通って石川の面倒を見ていたから、当局の内部文書は、英子を石川の内縁の妻だと記している。

出獄して英子と同居した石川は、「世界婦人」の編集に当たることになった。「世界婦人」は「新紀元」が廃刊になったあとで、その後継誌として石川と英子がはじめた雑誌で、表向きは英子を主幹にして彼女の署名した記事を多く載せていたものの、実質は石川が切り回している雑誌だった。英子の書いたとされる原稿の多くが石川の手になるものであることは、関係者の多くが知るところだった。

実際、英子は自分を姉と呼んでいる石川に全面的に頼り切っていた。生活上の瑣事についてばかりでなく、精神面でも思想面でも彼女は石川に「兄事」していたのである。英子は石川が入獄したとき、彼女と石川の関係について述べている(「世界婦人」)。

それによると、東京法学院を卒業した石川が高等文官試験を受けて失敗したときに、官吏になることなど考えないで、「無冠の帝王」である新聞記者になるように勧めたのは英子だったという。そのために彼女は石川が「万朝報」に採用されるように、堺利彦に頼み込んだというのである。


あれより幾星霜、君はますます学問に励み、識見いよいよ高まり、我は常に教へを請ふこととなりぬ。わが夫なき後は、一家のこともたいていは君に相談して処決するに至りぬ。かくて昔の姉弟は今日の兄妹となり、我は感謝す。我は杖とも柱とも、ただ兄をぞ頼む。

我は感謝す。我は君の助けによりて、少なからず向上したるを覚ゆ。我は放縦乱雑の生活より、書の人となれり。旧時の堕落の境涯より、かすかながらも清き御光を望み得る身となれり。功名栄達にのみあこがれし身は、不完全なる理解ながらも、社会主義に心を傾くるに至りぬ。しかして、これみな君の賜物なり(「石川兄を送る」福田英子)。

石川が英子の生き方に対して、それとなく助言していたことは、獄中から英子に出した書簡によっても知られる。


神ありや無しやは、宗教と非宗教の区別には侯はず。ただ至誠をもって自己に対し、他人に対し、天地に対するや否やにあるべく侯。

・・・・・・我らは、世の攻撃、あざけりに会ふごとに、尊き教へのむちを受くる気持にてありたきものに侯。

「世界婦人」は、石川が復帰したことによって、売れ行きが増えた。彼が獄中でまとめたクロポトキンに関する論文を掲載した号などは、雑誌が飛ぶように売れて品切れになったほどだった。しかし、「世界婦人」は、同じ石川の書いた「墓場」というエッセーによって、廃刊に追い込まれるのである。そして彼自身もこの原稿のために禁錮4ヶ月の刑を受け、再び入獄することになる。

千葉監獄に送られた石川は、ここで赤旗事件で投獄された堺利彦・大杉栄・山川均・荒畑寒村と一緒になった。堺等は、赤旗事件で不当逮捕されて獄中にあったために大逆事件の被告になることを免れたのだが、事情は石川にとっても同じだった。筆禍事件で逮捕されなかったら、彼も大逆事件の関係者とされて、処刑されたかもしれなかった。

刑期を終えて出獄した石川は、大逆事件による反動の大きさに茫然とした。
世の中全体が社会主義や主義者に反感の目を向け、新聞は窃盗事件や放火事件が発生すると「犯人は社会主義者なるべし」などと書き立てるのだ。石川には昼夜の別なく刑事二人が張り付いて尾行や監視をつづけたから、金策のために動くことも出来ない。

石川の知人たちは、彼の身を気遣って、いろいろと援助の手をさしのべてくれた。弁護士の花井卓蔵は、自分名義の論文の代作や翻訳の仕事を彼に回してくれたし、その昔、玄関番の彼と生活を共にした茂木・橋本は、二人とも国会議員になっていたが、二人は石川に転向することを勧めた。自分たちが立ち会うから、文部大臣小松原英太郎の前で一言転向を誓ってくれ、そうしたら洋行の便宜を計るように文相に頼んでやるというのである。そして君が帰国したら皆で相応の地位を用意してやろうではないか。

しかし石川三四郎は、この勧めをきっぱり断っている。
彼は知人の援助やカンパによって助けられてきたけれども、自分の生き方に反するような金を受け取ったことはなかった。彼を援助する側でも、石川がまっとうな金の使い方をすることを知っていたから、快く金を出してくれたのである。

この時期に、石川は入獄前からこじらせていた気管支炎を治すため、福田家を離れて横浜芝生の根岸海岸に移った。この地には、彼を援助してくれるクリスチャンがいたのである。横浜に移った石川は、現地の漁民から、「あいつは、幸徳の仲間だそうだ。打ち殺してしまえ」と罵られながら、毎日海に入って水泳をしている。病気療養を口にしながら、水泳を止めなかったところを見ると、病気というのは英子の家を離れる口実だったかも知れない。

福田英子は、大井健太郎の子供、福田友作の子供を養うほかに、岡山にいた実母も引き取っていた。多くの家族を抱えた彼女は、伝手を頼って反物の行商をして辛くも生活を支えていたが、大井との間に生まれた息子がグレはじめるなど苦労が多く、彼女の性格は従前にも増して荒々しくなっていたのである。

石川が根岸海岸に移ってから一年後の大正元年に、英子一家が彼の所に合流してくる。反物行商も行き詰まり、借金だらけになった英子が夜逃げ同様の状態で転がり込んできたのだ。石川の肩にかかる負担は一層重くなった。

石川は英子一家と生活を共にするようになったのも束の間、その翌年にはベルギー領事のゴベールと中国人女性革命家の手引きでヨーロッパに亡命している。彼が亡命を決意したのは、ゴベールらに日本に留まっていては危険だと説得されたからだということになっている。だが、これも何となく腑に落ちない話なのである。大逆事件の被告12名が絞首刑になってから既に二年余が過ぎ、当局による社会主義者への警戒感もようやく沈静してきた時期だったからだ。この点から石川は、政府の弾圧を避けるためではなく、英子から逃げるために海外に亡命したのだという説が生まれてくる。

「自叙伝」は、亡命の意志を英子に伝えたときの彼女の反応について、次のように記している。


私が、日本脱出の決意を語ると、英子姉は悲しみもしましたが、また非常に喜んでもくれました。そして、「せめてもの形見として、あなたの姓を千秋にゆずって下さい」と願ったのでした。千秋というのは英子姉の末子です。私はこれを快諾し、さっそく私の養子として入籍しました。

想像を逞しくすれば、英子の末子というのは石川との間に生まれた子供ではなかったろうか。石川は長いこと福田夫妻のもとで暮らしており、下宿してからも月のうち20日は福田家で過ごしていたと石川自身が語っている。彼は上京後の大半の期間を英子と共に過ごしたのである。

英子の夫の友作は梅毒を病み酒乱の気味もあったから、夫に体を求められても英子が拒み通したという事情を十分に推知し得る。友作が妻に対して殴る蹴るの暴行を働いたのも、その辺に原因があったのかもしれない。英子が石川を愛していたとしたら、夫を拒否する彼女の気持ちは、一層強かったに違いない。

石川は37才のこの時まで独身だったが、これも彼が自由恋愛論者だったからというより、英子との関係がつづいていたからと考えた方がわかりやすい。彼は自分に注がれる英子の熱い気持ちを知っており、彼女を裏切る気にはなれなかったのである。

英子には、こんな短歌がある。


若き人よ恋は御身等の専有ならじ
     五十ぢの恋の深きを知らずや

君を恋うて眠りもやらぬ真夜中に
     かなたの空にほととぎす啼く

石川三四郎は次のような歌を詠んでいる。


舌に飽きし肉強いらるる心地する      
     思わぬ人の寄り纏う時

英子の短歌が石川への愛を歌ったものであることは明らかだが、石川の歌が誰を対象にしたものか定かではない。しかし、石川が英子の深情けに次第に疎ましい気持ちを抱き始めたことは容易に推察できる。こういうとき、幸徳秋水や大杉栄のように、一刀両断、女との関係を絶ってしまうことができない石川は、一時、相手から離れるという姑息な手段を取るのである。良くも悪くも、こういう手法が石川の特長なのだ。

とにかく石川三四郎は大正2年、日本を脱出して亡命の旅に出るのだ。時に彼は37才だった。(つづく)

戻る